ポッキーの日〈桐椰くん篇〉
「きーりーやーくん!」
目を開けると、目の前にずいっと箱が差し出されていた。脳が覚醒するまで数秒、目の前にある箱が何のお菓子なのか認識する。
「……なんだよ」
「へっへー、今日は何の日でしょう!」
「……今日って何日?」
「十一月十一日です!」
「あー……」
十一と十一……一一一一……1111……。頭の中に数字を図式化した後、目の前のお菓子を見て漸く分かった。
「ポッキーの日……」
「正解でーす!」
片手に持つお菓子の箱がさっと避けられ、楽しそうな顔が現れた。今日は眼鏡をしていない。なんなら髪も綺麗に整えてあって、いつか見たように赤いリボンまで編み込まれていた。
「……お前、なんで今日はちゃんとしてんの?」
「失礼な! 普段はちゃんとしてないみたいな言い方はやめてくださいよ」
「してねーだろ。化粧までしてさぁ……」
手を伸ばして親指で頬を拭えばピンク色の粉が付いた。BCCばりに化粧してんじゃねーよ、と付け加えたとき、妙に顔が近いことに気が付いた。
「……待て。お前何してる」
「え? だからポッキーゲームを桐椰くんとしようと思ってですね」
その存在を一生懸命誇示させるかのごとく、ヤツは片手を振った。箱の中のポッキーが揺れいてガサガサと音を立てる。そうじゃない。
「お前は何で俺の上に乗ってんだって聞いてんだよ!!」
「えー?」
そうだ、妙に近いと思ったら、人がソファに寝転んでるってのにその上に乗ってやがる。器用に人の体の両脇に両膝と片手をついている。つかお前、ずっと片手ついてない状態で体支えてんの? 何気にスゲェな!
なんて悠長な感想を抱いている場合ではない。体の距離僅か数センチ、コイツが体勢でも崩そうものならゼロ距離。そうでなくとも制服でそんな体勢になったらどうなると思ってんだ。お前はなんでシャツの第一ボタンを留めないんだ! 脊髄反射的に目がいってしまったそのシャツと肌の隙間の誘惑に一気に顔が熱くなった。ヤバい、危ない、理性がヤバい。
「えー、じゃねぇよ退け!! 今すぐ!!」
「えー、桐椰くん心狭い……」
「胸が見えてんだよ!!」
「減るものじゃないですし」
「減らなきゃいいわけねぇだろ!! やめろ座るな!!」
渋々頷いたかと思えばそのまま腹の上に座り込んだ。慌てて体を引こうとして、余計にマズイ気がして硬直するしかなかった。人の気も知らず、ヤツは悠々とポッキーの箱を開ける。
「おい……マジで退け。五秒以内に退け」
「えー、もう胸見えないでしょ?」
「胸の問題じゃないんだよ!! お前本ッ当……いい加減にしろよ!!」
「そんなに退いてほしいの?」
袋を開ける手を止めないまま、眉を八の字にして小首を傾げられた。コイツ……!
「困った顔したら俺が黙ると思ってんだろお前!」
「うん!」
「うん、じゃねぇよ!! 床に叩き落とすぞ!!」
「じゃーポッキーゲームしてくれたらすぐに退いてあげるよ」
ふふ、と妙に魅惑的な笑みと共にヤツがポッキーを咥えた。どこでそんな技覚えた? ここまでくれば逆に冷静になった。分かった、総の悪戯か。慌てて半分体を起こして辺りを見回すが、第六西の中には誰もいない。扉も一ミリたりとも開いていない。カメラが置いてある様子もない。その隙にヤツはもぐもぐと一人でポッキーを食べた。ポッキーゲームするんじゃねーのかよ。何だコイツ。
「あ、ごめん、食べちゃった。がっかりした?」
「してねぇよお前マジでぶん殴るぞ!!」
「あと別に松隆くんの差し金じゃないよ?」
挙句の果てに俺の考えなどお見通しと言わんばかりに笑われた。だってだったら何だっていうんだよこれは!
「……お前個人の悪戯かよ」
「やだなぁ、そんな私のやることなすこと全部桐椰くんを揶揄うためにあるわけじゃないんだよ?」
ヤツの手がポッキーの箱を手放した。ソファが軋んだ。制服越しに体温と感触が伝わる。生徒会室に入ったときとBCCで倒れられた時との記憶が喚起される。──ゼロ距離。普段は煽りの言葉ばかり出てくる唇が、こんな時に限って悪戯っぽく魅惑的に弧を描く。
「折れちゃったら桐椰くんの負けだからね」
その唇がポッキーを差し出した。ぞく、と心臓が掴まれた感触が走る。気付けば、チョコレートのついていないほうの端を咥えていた。少しだけ目を伏せたヤツが、サク、と一口食べ進めた。サク、と一口食むと、目が合った。ヤツが目を細めて、サク、とまた食べ進める。体はゼロ距離。ポッキーの長さは、残り五センチ……。
もうそろそろポッキーが折れてもいいはずだ。それなのに折れる気配はない。お互い器用に食べ進めてしまっている。なんで折れない。早く折れろ。そう思うなら自分で折ってしまえばいいはずなのに、折れない。あまりに早い心臓の鼓動で頭が上手く回らず、妙なジレンマが渦巻いている。なぜか残るポッキーが短くなるにつれ体の密着度合いが増した気がした。ぞく、と体の奥が震える。それに気付いたかのようにヤツは小悪魔的に笑った。
「桐椰くん、心臓早い」
ポッキーを咥えたまま、もちろん折ることもなく、ヤツはそう、口にした。
「……って夢を見た」
「……溜ってんの?」
「断じて違う」
自由にとれと言わんばかりに、袋が開いた状態で箱ごと無愛想に差し出されたポッキーを受け取りながら即答した。額を押さえて俯いているのに、ソファの背に座る背後の総が呆れた目を向けていることはよく分かった。
「でも惜しい夢だったね。キスまでいかなかったんだ」
「俺が惜しがってるみたいな言い方はやめろ」
「いいじゃん、桜坂が来たら頼んでみたら」
「俺を社会的に殺す気か」
廊下で足音が聞こえた。二人分だ。ついでに「ちょっと月影くん歩くの早いよ!」「君が遅い」「そんなんで女の子にモテるはずないのに何でモテるの?」「気を遣う相手は選んでいる」「選べてないよ? だって私いま気を遣われてないもん。おかしいな?」との遣り取りまで聞こえた。扉が開けば、もちろん聞こえていた通りの二人が順々に現れる。ヤツは眼鏡をかけて髪を下ろしているだけのいつも通りの格好だったのでなぜか安堵した。
「お疲れ。ポッキー食べる?」
「お前がこんなものを食べているなんて珍しいな」
ソファの後ろ、総の隣に立ちながら駿哉は一本袋からポッキーを抜きとった。ヤツはご丁寧に俺の隣に座る。そこに座るのは殆ど定位置になっているからというのに過ぎないのだが、夢のせいで落ち着かないので気持ち端に寄った。
「月影くん知らないの? ポッキーの日だよ、今日」
「だからお菓子業界の戦略に乗るという意味で珍しいと言っている」
「確かに」
「まぁ偶にはね。ところで桜坂、遼の見た夢がさぁ、」
「待て、やめろ。マジでやめろ」
総が邪悪な笑みを浮かべながらバラそうとするので慌てて遮った。ヤツは何も気づかずにポッキーを食べながら首を傾げている。そのせいで夢を思い出して顔を逸らす羽目になった。
「なに、どうかしたの?」
「いや、なんでも? ところで桜坂、折角だしポッキーゲームする?」
「んー、いいよ、桐椰くんやる?」
「は!?」
なぜか提案した総ではなく俺に白羽の矢が立った。さり気無く拒否された総の笑顔が心なしか凍りついている。ざまぁみろとか言ってる場合じゃない。駿哉は興味なさそうにもう一本ポッキーを抜き取って食べ続けている。
「なんで俺なんだよ!」
「だって松隆くんは慣れてて余裕そうだからつまんないじゃん。月影くんは絶対付き合ってくれないし」
「よく分かってるな」
「現に今も一人で食べてるし! 桐椰くんなら顔真っ赤にしてくれるから楽しいかなって」
「お前はそういう基準で物事を決めるんじゃねぇよ!!」
「ほらほら、そう照れないで」
「照れてんじゃねぇよこれは! 怒ってんだよ!」
そうこう言っている間にヤツはポッキーを咥えて、ソファに手をついて、「ん!」とこちらに向かって差し出した。本当にコイツいい加減にしろよ夢の中でも現実でも!
「んぎゃっ」
「やんねぇよ莫迦が! 一人で食ってろ!」
パキッと、その唇にあるポッキーを指で折り、ついでにその頬を抓っておいた。化粧もしてない。よし。満足して折れたポッキーを口にする。
「……桐椰くん」
「なんだよやんねぇぞ」
それを食べ進めていると、ヤツがちょんちょんと自分の唇を指差した。なんだよ。
「私が咥えてたところから折っちゃったから、間接チューだ──痛い!! ちょ、待って!? 今のは私と桐椰くんのじゃれ合い史上最大の痛みだったよ!?」
「お前が悪いんだよ!!」
強打された後頭部を押さえて涙目になろうが、知ったことか。頬杖をつけば顔が赤くなっているのが手に伝わる熱のせいで分かった。背後の総が鼻で笑う。
「許してやりなよ、桜坂。コイツ夢で──」
「だからやめろ!! お前それ言ったらマジで許さねぇからな!!」
「えー、なになに? 私とポッキーゲームする夢とか見ちゃった?」
「いいからお前も黙ってろ!!」
既に赤面していたせいで図星だとバレるのは免れた。当の本人は何も知らずに「つまんないのー」と新たなポッキーを食べ始める。
「人の気も知らないで……」
「え、なにが?」
「なんでもねぇよ!」
あぁ全く、たちが悪い。