魔法の薬
「きーりやくん」
聞きなれた呼び声と共に第六西の扉が開く。ソファに寝転びながらスマホでニュース記事を読んでいたし、相手は分かっているので顔を上げる気にはならず、「おう」と声だけで返事をした。ガラガラと扉は閉まる。
「なんか変な時間に来たな。お前何してたんだ──」
アイツが来たからどうとかねーし、と無視していたのだけれど、のしっと体の上に感じた重みで「ん?」と視線を上げた。猫でも連れて来たのか? それにしては妙に──。そんな思考は目の前の光景を見た瞬間に止まる。手からスマホが滑り落ちた。……謎の重みの正体は、ヤツだ。
「……え?」
「桐椰くん何してるのー?」
「ニュース読んで……いや、そうじゃなくて、ちょっと待て……」
体の上にいるのはヤツだ。俺の体の両脇に手足をついて覆いかぶさってるのは猫じゃない。しかも髪を整えて眼鏡外して化粧までしてやがる。反射的に目がいった胸元はリボンがなくて代わりにシャツのボタンが二つ開いていた。あ、水色……。
「いやおかしいだろ! お前何してる退けよ!」
「どうして?」
不思議そうに首を傾げる。急に人の上に乗っておいてどうしてってなんだよ! 頭湧いてんのか! こっちが聞きたいわ!
「おい……今度は何の冗談だ……総の差し金か……」
「えー、違うよ?」
ん? こんなこと前にもあったな……。その胸元から一生懸命視線と意識を逸らしながら記憶を探る。なんかやたら積極的なコイツに狼狽えたこと……、そうだ、夢だ。この間もこんな夢を見た。ポッキーゲームの夢だ。うっかり総に話したらガチの呆れ顔を向けられたあの夢だ。なんだよ続きかよ。…………。
思わず額を押さえたくなった。続きを見るなんてマジで惜しがってたってことじゃねぇか、俺。どうなってんだこの頭は。いい加減にするのは俺だ。
「ねー桐椰くん」
「なんだよ……どうせ夢なんだろ、分かった分かった、付き合ってやるから、なに」
でもどうせ夢ならいいか……。現実で散々振り回されてるわけだし。それでもなんとなく恥ずかしいには恥ずかしかったのでヤツの下からずるずると這い出るべく体を起こそうとする。
「エッチしよ?」
「──痛ってぇ!」
──あまりに予想外の台詞に、支えにしていた手がソファの上を滑って土台を失い、支えを失った体はソファから転がり落ちた。拍子にサイドテーブルの端に側頭部をぶつけた。思わず額を押さえ、痛みのあまり床で悶絶する。くっそ痛ぇ。くそみたいに間抜けなことをした。ズキズキと額が痛む。
「お前……、夢の中は節操なしかよ……。揶揄うネタはもう少し品のある言葉でしてくれよ……」
どう考えても言ってることが男女逆だ。患部を押さえたまま上体を起こせば……、また体の上に座り直すヤツがいる。
「……おい」
「えー、だって揶揄ってるんじゃないんだよ?」
小首を傾げるヤツの体温がその太腿から伝わってくる。人の足の上に座るんじゃねぇよ! そして気が付く、今日はシャツのサイズが合っている……スカートも短い。殆どパンツが見えそうだ。まぁ夢の中だし……。目の前のヤツの違和感について納得しながら、再び額を押さえたくなった。俺の深層心理──願望ってことかよこれが。いい加減やべぇな。
「ねー桐椰くんってば」
「あのな、夢なら何してもいいってわけじゃねーんだぞ。やっていいことと悪いことってのがあってだな……」
「なんでエッチしちゃだめなの?」
「なんでってお前、女が男に訊くか? せめて現実では絶対言うんじゃねーぞ、襲われかねないから」
まるで他人事、お前のためを思って言ってやってるんだぞ、なんてていで説教したものの、現実でこれされたら俺が襲うな……。ヤツの体から目を離せない欲望は諦めて、せめて残った理性を総動員して耐える。太腿見えてるし、制服越しとはいえ体温伝わるし、ぴったりくっつかれると体の感触も伝わるし……。ふわふわと、少し癖のある髪の毛が喉仏をくすぐる。今日も桃の香りが微かに漂う。あーぁ、俺達の仲間にするって言ったときはこんなつもりじゃなかったのにな……。いつの間にこんなことになったんだ、そんな諦念のせいで精神的なものからくる頭痛までし始めた気がした。
そこではたと気が付く。精神的な頭痛まで……。つまり物理的な頭痛もしている。それはさっきサイドテーブルにぶつけたせいだ。……夢の中なのに痛い?
「ありゃ?」
ガバッ、とその細い肩を掴んでヤツを引き剥がした。その体はいつの間にか密着していたし、手はなぜか俺のシャツのボタンをはずしていた。今現在四つ外れて、その手がTシャツの上から胸板をなぞろうとしていた。心臓がその存在を誇示するように激しく鼓動し始める。ちょっと、待て……。
「桐椰くん? 襲われるのが駄目なら襲っちゃえばいいのかなって思ったんだけど、やっぱり襲いたい?」
「……待て待て待て」
きょとんと、ヤツはいつも通りの間抜け面を見せる。二つまでしか開いてなかったシャツのボタンは三つまで開いていた。いつの間に開けたんだよつーかもう胸隠す気もねぇな!! いやそんなこと言ってる場合じゃない、取り敢えず下を向いて目を逸らせ俺──そうやって必死に俯いた視界に映ったのは、膝を折る形で座り込んでいるせいで殆ど全体が見えそうな白い太腿だった。こっちも駄目かよ!! 最早仕方なくその目と目を合わせるしかない。
「お前何やってんだマジで!? なんだどうした!?」
「やだなぁ桐椰くん、どーもしてないよ?」
にっこりといつも通りの──いつもなら煽りの言葉が流れるように出てくるはずの──表情で微笑んだヤツは、その指先を、人の鎖骨に這わせた。
「桐椰くんとエッチしたいって言ってるだけだよ?」
──思考回路が、完全に止まった。最早ショートした。お陰で脳から体に指示が出せなくなった。体が硬直している。それを見てヤツは不敵に笑い、その指で体の中心をなぞる。
「襲わないなら襲っちゃうよ、きーりやくん」
そのまま、二、三本の指が器用にシャツのボタンを外しきる。ヤツの手が背中に回って、その体がぴったりと触れ合った。ドクドクと心臓が鼓動している。
「桐椰くん、今も体鍛えてるの? 触り心地いーよね」
腹から胸、背中がそっと掌でなぞられた。背筋を這いあがったのは何だ。やめろ。マジでやめろ。そろそろ死ぬ。理性が死ぬ。いや死んでいいのか? だって俺何もしてないし。何もしてないのにコイツが勝手に迫ってくるだけだし。何も悪いことしてないし。動揺しているのか冷静なのか自分でも分からないせいで、その答えが正しいのか分からない。ただ、背中をじかになぞる指の腹が、妙に柔らかくて、心地がいいから、その腰に手を回してしまった。ヤツが猫みたいに首筋に顔を埋める。柔らかい髪にまたくすぐられる。
「ねー桐椰くん、」
その声は──絶対にわざとだと思うのだけれど──耳元で囁いた。
「ちゅーはしてくれないの?」
ぐっと、腰に回した手に力が籠る。強請るように、ヤツの手がシャツを掴んだ。
そして、扉が開いた。
「あー怠かった。なんで教師って放課後に生徒呼び出すんだろうね」
「日中は職務があるからだろう」
「その職務の範囲なんだから日中に呼び出せばいい……」
総が扉を開けた状態で、駿哉がその背後で、凍りついていた。俺だって、ヤツの体を抱き寄せまま硬直した。俺に圧し掛かってるヤツ以外、全員静止した。
「…………」
「……ちょ、っと、待て……これには事情が……」
「……お前見られたい願望あったの?」
「違ぇよ! だから事情があるって言ってんだろ!! ちょ……まずお前退け!!」
「えー? やだー、続きしてくれるまで退かなーい」
「続きをするのは結構だがせめて見えないところでしてくれないか」
「違ぇよ!! 誤解だよ!! 話を聞けよ!!」
「ねー桐椰くん、ちゅーは?」
「しねぇよお前は黙ってろ!!」
「あ痛! 桐椰くんいっつも揶揄われてるからMだと思ってたのにSなの?」
「だからお前は黙れ!!」
ヤツをソファに投げるように載せ、そのまま引っ繰り返して両手首を腰に固定させた。横を向いたヤツは「えー、これじゃ何もできないよー?」と不満げに足をじたばたさせるが最早どうしようもない。
「……遼、なにこれ」
「……俺が聞きたい。取り敢えずロープとかくれ」
「桐椰くんってそういうプレイが好きなの?」
「お前本当気絶させられたくなかったら黙ってくれよお願いだから!!」
結局、手近なところにロープはなかった。仕方なく「大人しくしろよ」と言い聞かせ、不承不承頷いたのをソファに座らせる。鞄を持ったまま扉の前に立ち尽くしていた総と駿哉に向き直れば、やはり未だ怪訝な顔をしていた。
「……で、なにこれ」
「だから俺が聞きたいって言ってるだろ……。知らねぇよ、急に来てこれだぞ」
「松隆くんとツッキーが邪魔した……」
「助けられたんだよ!!」
「じゃあお前の脱ぎ掛けのシャツはなんだ」
「脱がされかけたんだよ!! 俺こんなところでしねぇよ!!」
確かにこの状況、俺が一方的に襲われただなんて言っても信じてもらえないのは分かる。
「大体、コイツの今日の格好これだぞ!? その時点で何かおかしいって分かるだろ!」
「まぁ、今日は普段の悲惨さがないよね」
総はヤツが座るソファの前にやってきてその顔を覗き込む。ヤツは無垢な動物よろしく首を傾げるだけだ。言っとくけど普段も今もお前に無垢さとか欠片もねぇからな!
「やっぱり松隆くんって顔綺麗だよね」
「普段なら『顔だけは』って言うから普段通りじゃないことは分かるね」
「煽りのあるなしで見分けんのかよ」
「本当に遼が言う通りだとしたら理性ぶっとんで性欲だけになりましたって感じだよねぇ。でも記憶障害とかそういうわけじゃないんでしょ?」
総は俺の隣に立つ駿哉を示す。
「さて桜坂、問題です。アイツは誰でしょう」
「現状の私に対して物凄く面倒な厄介事が出来たけど正直早く帰りたいと思ってるツッキー」
「正解。じゃあ俺の隣にいるコイツは?」
「襲われてオロオロして恥ずかしくて顔を真っ赤にしてる桐椰くん」
「だから殴るぞお前!!」
しかも俺を襲ったって認めやがったぞコイツ!
「俺達と仲良くなったきっかけは?」
「御三家が生徒会を潰すために下僕を欲しがったから」
「遼を揶揄うし、凄く理性的に自分の立ち位置理解してるし、問題ないね」
「だから問題あるって言ってんだろ!」
「遼となにしてたの?」
「フツーにエッチしたくなったからエッチしようと思っただけ」
「あぁ、これ俺が嫌いな莫迦の類だから捨ててきて」
「血も涙もねぇなお前! こんな状態で外に放り出せるわけねぇだろ!」
「えー、松隆くんってば冷たい……」
口を尖らせたヤツは、そっと自分のシャツの襟元を掴んだ。いい加減見えている胸を強調するようにそっと引っ張る。
「私じゃだめなの?」
コイツ……!!
「遼、やっぱこれ持って帰るわ」
「お前口滑ってんぞ! 持って帰るって言ってんじゃねぇよ!」
「いや従順な桜坂はそれはそれでそそるかなって」
「松隆くん分かってるじゃーん」
「分かってるじゃーん、じゃねぇんだよ!! お前らなんだよ!! 少しは真面目に考えろよ!! なぁ駿哉!?」
慌ててる俺が一人莫迦みたいじゃねぇか。駿哉に助けを求めれば、駿哉だけはいつもの真顔を崩さないままヤツに近寄る。確かにヤツの言う通り面倒だから早く帰りたいとは思っているようだ。ただ流石に放っておくわけにはいかないとは思っているのか、そのまましげしげと観察するようにヤツの表情を眺めた。
「まぁ何か変なのであれば対策は講じるが……。いかんせん日頃との違いが言動以外には全く見当たらないからな。違いがあるとしても微々たるものでは気付けないというのはあるが」
「変なとこあるか、触って確かめてみる?」
が、いかんせんヤツがいつも通りじゃない。その手が駿哉の手を掴んで自分の方へ引き寄せた。待て待て待て!!
「あ痛!!」
が、俺が止める前にバシィッと景気の良い音が響いた。駿哉の手がヤツの側頭部を思いっきり叩いていた。女を叩くな、と言いたくなったが今は仕方がない。
ヤツは涙目で頭を押さえている。
「何するのツッキー! そんなに私に女としての魅力ない!?」
「治ってないな。次は何で殴る、鈍器か」
「落ち着け駿哉。コイツ今おかしいから。な?」
駿哉の目が本気だった。今なら背後にあるサイドテーブルも持ち上げて殴りかねない。
「松隆くーん、つっきーが虐めるー」
「んー、じゃあ俺と帰る?」
「帰るー」
「帰らねぇよ!! 頼むからふざけてねぇでどうにかしろよコイツを!!」
駿哉を宥めている間にヤツはすかさず総に助けを求め、総もその手をとるときた。なんだよ駿哉は叩けば治るなんてオンボロテレビ理論持ち出すし、総は……持ち帰ろうとしてるし! だから何で俺しか心配してねぇの? お前ら酷くない? それだというのに、ヤツの手を総のシャツから引き剥がせば、総は余計なことをされたとばかりに舌打ちする。
「いいだろ別に、桜坂がそうしたいって言ってんだし」
「だからどう考えてもコイツ正気じゃねぇだろ……! その状態でいいもくそもあるかよ」
「だって桐椰くんは私とちゅーもしてくれないじゃん。抱きしめてくれたのに」
「抱きしめてもねぇよ!! なんでコイツ急にこんなクソビッチになってんだよ!」
抱きしめて、のところで駿哉の白い目が向けられたので思わず大声で弁解した。勘弁してくれ本当に。……出来心だったんだよ。
「なぁ……、何か心当たりとかねーの……?」
「煽り強い子が急にクソビッチになる心当たりなんてあるわけないだろ」
「松隆くん酷い。持ち帰ってくれるんじゃないの?」
「俺はそれでいいんだけど」
「よくないって言ってるだろいい加減にしろよ頭痛の種を蒔くのだけはやめてくれ」
「あぁ、上手いこと言──」
「お前やっぱコイツが正気じゃないって分かってんだろ! 今なら何言ってもコイツどうせ覚えてないとか思ってんだろ!! 俺が全部ばらすからな!!」
とんでもないことを口走りそうになった総の言葉を慌てて遮ると、総は「うーん、」と腕を組んでみせる。
「……お前考えてるふりして胸見るのやめてやれよ」
「見てるんじゃなくて見えてるんだよこれは。……水色か」
「だから真剣に考えろよお前は!!」
「いや、まぁ考えてはいるよ」
下着の色言いながらんなこと言っても何の説得力もねぇよ。最早苛立ちで肩が震え始めたが、総は少しだけ首を傾けた。
「桜坂、ここに来るまでに誰かに会った?」
「え、会ってないよ」
「何か飲んだ?」
「お茶は飲んだよ」
「そのお茶、何のお茶?」
「昼休みに買ったペットボトルのお茶の余り」
「それ、教室に置いたままにしてた?」
「してた」
「……おい、なんだよ。薬でも盛られましたってか?」
一問一答形式が焦れったい。すると総は「当たりだね」と溜息を吐いた。
「ま、薬の類っぽかったよ。話的に」
「話ってなんだよ」
「ここに来るときに擦れ違った女子がそんな話しててさ。ちゃんと入れたとか、二、三時間で十分だとか。それだけじゃ何のことかさっぱりだけど、桜坂のこの有様を見たら持続時間最大三時間で痴女になる薬でも盛られたんだろ」
……なんだそりゃ。駿哉はなるほどと頷いた。
「じゃあ五時間ほど適当な場所に閉じ込めれば回復するだろう。俺は帰る」
「お前マジで冷たいな! これ以上痴態晒す前にどうにかしてやろうとか思わねぇのかよ!」
「まぁ確かに、効き目が切れた後に自分の所業思い返して真っ青になるのは可哀想かもね」
そこで総はソファ──ヤツの隣に座り、スマホを取り出す。薬の効き目が切れる方法とか調べるのか? そんなのあるのか? 首を傾げていると、スマホ画面を見せるようにそれをこちらへ向ける。
「そんなことより、俺の好きな作家が久しぶりに続編出すんだけどさぁ」
「お前なんだよ! コイツのこと心配してやってんのかと思ったらお前の読書事情かよ! どうでもいいんだよそんなこと! さっきの可哀想って言葉どこいった!?」
「だって二、三時間経てば戻るんだろ? 薬飲んだんだからどうせ吐かせたって意味ないし、適当にあしらっとけばいいって」
そう言うが早いが、総は鞄の中を探って本を取り出す。今しがた見せられたスマホ画面に映っていた本とタイトルが似ているから、続編が出る前に復習でもしておこうということなのだろう。本当にコイツ放置しとくつもりかよ! 真横から「無視します」宣言を食らったヤツは不満げに頬を膨らませている。
「……駿哉、どうするよ」
「どうもしない。俺は自分に危害がないならいい」
「頼むから俺以外もコイツに優しくしてやってくれよ……」
「そうだよ松隆くん、偶には優しくしてくれたっていいじゃん」
やはり現状のヤツが大人しくしているわけがない。ソファに膝をつく形で立ち上がり、横から総の肩に手を回すときた。読書に入ろうとしていた総が(マジで無視して読書始めるとは思わなかった)さすがに硬直した。
「え……、何してんの、桜坂」
「だってみんな冷たいし……。松隆くんなんか私が隣にいるのに本読み始めるんだよ? 少しは構ってくれてもいいじゃん?」
そのままヤツが総に抱き着くように体を寄せる。ちょっと待て、その体勢で抱き着いたらどうなると思ってる。お前自分の胸の位置と総の頭の位置が同じだって分かってんだよな!? 一瞬で脳裏を駆け巡ったその構図が現実のものとなるのを防ぐべく二人を引き離そうとしたが──当然、隣にいる総のほうが早かった。本を手放してヤツの膝を払い、体勢を崩して仰向けにソファに転がったヤツの腕を頭上固定、両足の脛の辺りを足で押さえこむまで、僅か数秒。
「松隆くん、その気になった?」
「……駿哉」
総の横顔が引きつっていた。
「今すぐロープ買ってきて。桜坂簀巻きにするから」
絶対、最初は面白がってただろ。流石にあのままだと悩殺されると勘付いたに違いない。
「悪いが今日はインクを買いに行く予定なのでそろそろ帰る」
「は?」
「お前ペンのインクとコイツとどっちが大事だよ!?」
「無論ペンのインクだが?」
「あぁそうだなお前に聞いた俺が莫迦だったよ!」
「まぁ総、遼。お前達二人なら変な気が起きることもないだろう」
いや変な気が起こりそうだからお前にロープ頼んでるんだよな? お前莫迦じゃないんだから分かるよな? 多分総も全く同じことを考えていたと思うのだが、駿哉は本当に踵を返す。
「じゃあな」
「いや……ちょっと待て! 本当に待ってくれ頼むから!」
「もとはと言えば昨日お前が引きとめたせいで文具店が閉まったのが原因だ」
「明日昼飯驕るから!」
「そんなことをされても明日字を書くペンのインクがないのは変わらない。じゃあな」
ピシャッ、と扉は閉まった。アイツマジかよ。コイツに興味ないのか俺達信頼してるのかどっちなんだよ。
「……あのさぁ、遼……」
「……なんだよ」
総が珍しく狼狽えた表情でヤツから顔を背ける。
「……さすがにこの恰好はやばいから、パーカーとか被せてくんない、桜坂に」
そうだな。その状態だと胸がもろに見えるもんな。体のラインもばっちりだもんな。お前でもやばくなるんだな。
「松隆くん……この状況でもまだ襲ってくれないの?」
「遼、ガムテープ」
「流石に可哀想じゃね……」
「絶対お前いなかったら襲ってるな……」
はぁ、と総は疲れたような溜息を吐いた。絶対理性総動員するのに疲れてるだろ。漸く俺の気持ちが分かったか。
クローゼットからパーカーを持って来てヤツの体に被せると「やだ!」と拒否される。今は半ば露出狂になってるから嫌がってるだけだって分かるには分かるけど、普通に傷つくからやめような。
「てかこの体勢疲れるんだけど」
「寝技かけりゃよかったじゃん。スペース足りねーけど」
「そのほうが理性がどうかするだろ」
「ねー、なんで顔まで隠すの? ねー?」
因みに鬱陶しいので顔にはフードの部分を被せておいた。中々シュールな光景だ。
「つかマジでどうすんだよ。三時間……っていっても、飲んでからだったらあと二時間か? ずっとこの有様とか笑えねぇんだけど」
「知らない。遼が面倒見て、俺あと十分で家帰るから」
「せめて用事くらい言えよ! 面倒になってきたのバレてんぞ!!」
「無理。この状況で耐えられるほど理性強くない」
「だったら俺がしんどいのも分かれよ!?」
「つかこういうのって大体一回やれば収まるってのが王道パターンじゃないの」
「だからそのパターンとらないために俺達が苦労してんだろ今!!」
「取り敢えず遼、交代。俺ちょっと無理。これしんどい」
「は!? いやだから俺も無理──あぁもうっ!」
まだ了解してないのに総がその手を放すときた。手が自由になったせいで起き上がったヤツが「ぷはっ」とフードをとる。仕方なくその手だけは掴んで何もできないようにしておく。
「いい加減離してくれてもいいじゃん……」
「お前が何もしなくなったらな!」
「もうベッドの上で寝技かけとけば? 袈裟固めとか」
「一番ヤバイやつ持ってくんじゃねぇよ!!」
お前自分の理性云々じゃなくて慌てる俺が見たくて交代させただけだろ! ……いや、ネクタイを緩める総の横顔に余裕はない。悪かった。
「……お前ロープとか探せよ」
「そんなものないって言ってるだろ。これで代わりにするから」
総は今しがた外したネクタイを差し出す。あぁ、これで縛っとけってことね。
「……お前がやれよ」
「なんでそんな何かのプレイみたいなことを俺がしなきゃいけないんだよ」
「分かってんなら俺に押し付けんな!」
「ちゃんと優しくしてね?」
「お前本当に黙ってくれよ!!」
背に腹はかえられず、俺がヤツの手首をその背中に回し、総が渋々ながらも手首をネクタイで結ぶ。なんで第六西でこんなことやってんだ。お陰でヤツの手は離すことができたので、ソファに座るヤツから二人で少しだけ離れる。近くにいるのはマズイという共通認識があった。
「あれだと歩けるじゃん、足も縛れよ。遼、お前のネクタイは」
「ねーよ。つけねぇもん俺」
「持ってくるくらいしろよ使えねぇな……」
「こんなことになるなんて思ってもみないだろ!」
「ねぇねぇ桐椰くん」
「だからお前は黙ってろって言ってるだろ」
「制服窮屈だから脱がして?」
そこで総と俺はミスを犯したことに気が付いた。おそらくそのウエストにサイズを合わせたのだろうシャツは胸のためには少々窮屈らしい。加えて背で手首を結べば、シャツが引っ張られて胸が強調されるに決まってる。しょんぼりと眉を八の字にしたヤツが俺達二人に強請る。
え、なにこれ、どうしろっての。これ以上見てたら気付いた時には欲求解消されてましたみたいになりそうなんだけど。
「……俺帰るね。あとは頑張って」
「総! 待て!! 頼むから帰るな!! 俺をコイツと二人にするな!!」
「だから言っただろ、俺あと十分で帰るって」
「だから何も用事ないんだろ! 俺に押し付けんなよ!!」
「安心しろ、遼」
肩を掴んで引きとめていたのに、総は俺の手を掴んで引き剥がした。
「大体こういうのは覚えてないのがパターンだ。襲ってもお前以外分からない」
「だから何回言わせるんだよ! 襲いたくねぇって言ってんだろ!?」
「まぁ冗談は置いといて。俺は多分襲うから襲わないお前が見張って」
「だからお前は……!!」
俺に対するその全幅の信頼なんだよ! いや襲わねぇけど! ……多分。振り向くと自信を失くした。相変わらずしょんぼりとしている。チクショウ!
「じゃ、そういうことで」
「あっおい待て!」
「桜坂」
「はい?」
出ていくとき、総はいつもの顔に戻って一言告げた。
「何もするなよ。リーダー命令だ」
静まり返った第六西でまた二人になった。なんでどいつもこいつも俺なら大丈夫だと思ってんだ。普段誰よりも根拠がどうだの理由がどうだの理屈っぽいヤツが二人そろって無根拠に理由もなく俺を信用しやがって。
「怒られちゃったね、桐椰くん」
「怒られたのはお前だけだよ……」
もう疲れた。もう怒鳴り返す元気もない……。のろのろと、ソファに座り直す。うろうろされても鬱陶しいから隣で見張るしかない……。どうせ手は使えないから何も仕掛けてはこないはずだ。
「ねぇ桐椰くん……」
「なんだよ……頼むからあと二時間くらい大人しくしてろよ」
そうだ、コイツ、手が使えないんだから、鍵さえかければここに閉じ込められるな。駿哉が提案したときはとんだ冷血漢だと罵ったものの、二人で残されたとなれば不可抗力みたいなもんだ。ただ手先は自由だから上手くやれば開けられるのか?
「ねぇってば」
「ちょっと待って、今考え事してるから」
「無理……」
「無理なのは俺だっての。何だよ一体……」
内側からってどんな鍵の仕様になってたっけ、と扉に視線を向けたとき、肩に柔らかい体が触れた。もう何をされても驚かない、どうせ薬のせいだしな、そう幾分冷静になっていたので、今度はなんだと胡乱な顔を向けて──目の前にある頬を赤く染めたヤツの顔に、やはり冷静さは吹っ飛んだ。
「え、お前、何? 今度は何だ!?」
「暑い……」
「めちゃくちゃクーラー効いてるだろ!? おい!」
そのまま、こてん、と頭を胸に預ける。心臓が口から飛び出るかと思ったが、流石に様子がおかしい。その口元に手を持って行くと呼吸が荒かった。
「おいどうした?」
「暑いんだもん……」
「だからクーラーは効いてるって……」
具合が悪いのかと慌ててその肩を掴めば、本当に熱気を放っていた。なんだこれ。変な薬の副作用か?
「桐椰くん……」
だったら最早病院に連れて行くしかないのでは……。取り敢えず体温計って置いてあったっけ、と立ち上がろうとしたのに、手の不自由なヤツが凭れかかってきているせいでできない。取り敢えずソファから転げ落ちないようにその体を支えてやると、本当に熱い。
「おい大丈夫か?」
「大丈夫じゃないかも……だから脱がせ──」
「仕様かよ!」
問題ないようだ。いや問題しかないが。まぁ手さえ使えなければそう怖くない。……多分。
「だって熱いんだもん……」
「そのうち収まるから我慢しろ」
「収まらせてくれないの……?」
「お前本当にいい加減にしろよ」
総も帰るならロープくらい持って来いよ、そしたら簀巻きにできたのに。ヤツは居心地悪そうにもぞもぞと動くのでソファからいつ転がり落ちてもおかしくない。俺が最初にしたみたいにサイドテーブルに頭をぶつけそうだ。仕方なく、ソファに寝転んで、体の上で抱きかかえてやる。
「……どーしたの桐椰くん」
「うるせぇな、もう黙ってろよ。俺も疲れた」
「……こんなことしても桐椰くん誘惑できないんだね」
うるせぇな、散々誘惑されたわ。されすぎてもう何の境地に至ってんのか分かんねぇわ。
そんなこちらの気も知らず、ヤツは残念そうな溜息を吐く。人の首に向かって。そういえばコイツにシャツはだけられたの忘れてたな。
「残念だなぁ」
「だからうるせーな。いいからもう寝てろよ」
「一緒に寝てくれるの?」
「はいはい、寝るだけな」
多義的な言葉を遣ったのがわざとなのかどうなのかは知らないが……、半ばもう自棄だ。
「あー……」
「どしたの?」
「……いや、なんか散々だなと思って」
「確かに全部中途半端だもんね。このまま続きする?」
「……お前と話すといつも疲れるけど、今日は疲れ方が違うな」
どくん、どくん、と心臓の鼓動が伝わる。ヤツの体は熱いままだ。この体を抱きしめる大義名分がいつもあればいいのに、そんなものは俺にはない。
「でも私は楽しいよ?」
「何がだよ……いつも人のこと揶揄いやがって……」
「だって桐椰くんが甘やかしてくれるもん」
もふもふと、その柔らかい髪が首をくすぐる。ぞく、と体の芯が震えた。
「桐椰くんが甘やかしてくれるの楽しいもん」
「……あのなぁ」
これ以上はマズイので、その頭を手で押さえて動かないように固定した。
「薬のせいかなんなのか知らねぇけど、冗談なのかなんなのかよく分かんねぇこと言うなよ」
「どうして?」
「襲いたくなるって言ってんだろ。そう言ったら今のお前は襲っていいとか言うんだろうけど」
「分かってるじゃん桐椰くん」
ん、と胸の中で欠伸が聞こえた。なんだ、本当に寝てくれるのか? そう思って様子を伺うと、相変わらず頬を紅潮させたまま、とろとろとその目蓋が閉じようとしていた。良かった、寝て起きれば効き目も切れるだろ……。安堵するような勿体ないような、よく分からない感情が渦巻くものの、やはり安堵の息を吐いた。
「桐椰くんなら襲ってくれてもいーんだよ」
そして──最後の最後にとんでもない台詞を残して、ヤツは目を閉じた。
「きーりやくん」
ぱちっと目を開けた。体が重い。
「桐椰くん起きました?」
「……次は何だよ」
意識を手放したが最後、問答無用で襲ってておかしくないと思っていた自分はどこへやら、ある意味意識は手放してしまったらしい。よくあの状況で寝れたな、俺。ゆっくりと体を起こそうとして「ストップ! 落ちるから!」と慌てた声が聞こえて、ヤツを自分の体の上に乗せていたことに気が付いた。総のネクタイで手を縛っていたことも。
「あ、あぁ、悪い……」
「起きたならぜひこれを解いてください」
ばたばたと、その背中で手がもがいている。その顔を見ると、まだ赤い。
「……解いて大丈夫か?」
「大丈夫って何が? 私を何だと思ってるんですか!?」
「何って……」
効き目が切れたら何も覚えてないのがパターンだよ、という総の言葉を思い出す。何も覚えてないのか。なら大丈夫か……、と体の上に乗っているヤツの手首を自由にしてやる。してやった途端、ヤツはソファに手をついて俺から離れた。その顔はやはり真っ赤だ。
「ねぇ何これ! 何で私縛られてるし桐椰くんの上に乗っかって寝てたの!?」
「……何も覚えてねーの」
「覚えてないって何が──って何でシャツも脱ぎ掛けなの! 桐椰くんまさか襲ったの!?」
「襲ったのはテメェだろ!!」
薬のせいならさすがに可哀想だと思って黙っていたのに、その胸元をしっかり掴んで隠されると苛ついた。お前が勝手に脱いだしなんなら俺の脱ぎ掛けのシャツはお前のせいだよ!
「なんで。私が桐椰くん襲うわけないじゃん。どうせなら松隆くんを闇討ちとかする」
「お前総にどんだけ恨みあんだよ。つか仕返し怖いからやめとけよ」
「だから闇討ちするんだよ! ねぇところで私の眼鏡は? よく見えないんだけど」
コンタクトしてたんじゃないのかよ。薬飲んだら眼鏡外したくなったとかそれだけか、もしかして。
「スカートも短いし……このシャツなんでこんな窮屈なの? 誰の趣味? 松隆くん?」
「……今ここに総がいなくてよかったな」
「あっ、私の制服発見! えー、じゃあこれ誰のだろう……なんで誰のか分からない制服なんか着てるんだろう……」
ヤツは困惑した表情で首を捻り、自分の鞄を覗き込んでいる。本当に何も覚えていないらしい。まぁ……あんな痴態覚えてたら恥ずかしいだろうし、普段は絶対しないから反省させることもないし。別にいいか。
「とにかく、元に戻ったなら帰るぞ。俺はもう疲れた」
「え、待って、何があったのか説明して? ね?」
「聞かないほうがいいと思うぞ」
「待って! 絶対何かマズイことあったよね!? 説明してよ桐椰くん! じゃなきゃ襲っちゃ──」
ヤツは口を噤んだ。シャツのボタンを留め直していた俺も硬直した。ヤツの顔はみるみる赤くなる。そこで一つ納得する。そうか、寝起きに顔が赤かったのは俺の上で寝てることに照れてたか恥ずかしかったかしたせいだったのか。
「……今の、なしでお願いします」
「……そうだな」
「……帰りましょう桐椰くん」
「……そうだな」
真っ赤になったヤツは「襲っちゃうって何……何があったの……」と頭を抱えている。本当に元に戻ったらしい、安心だ。鞄を掴んで、鞄でヤツを小突いて「ほら帰るんだろ」と促す。まだ顔の赤いヤツはこっくり頷いた。
あぁ、良かった。惜しくなかったといえば嘘になるけれど、照れてるコイツのほうが安心するし、可愛いな。…………。
「俺マジでやべぇな……」
「え、今の私よりヤバい人いる? え?」
「なんでもねぇよ……」
最後にもう一度深い溜息を吐いた。疲れた。
「で、桜坂は結局何も覚えてないんだ?」
「はい……リーダーにもご迷惑をかけたんでしょうか……」
「控えめに言って悩殺しにかかってたよね」
「……申し訳ないです。ツッキーには……」
「何かされる前に帰宅した」
「待って。それは酷くない? え?」
「でも本当に何も覚えてないの? あの後遼とどうしたとか」
「だから何もしてないって言ってるだろ」
「うーん、本当に何も覚えてない。すっごいふわふわして気持ち良かったことだけは覚えてるんだけど……」
「……遼」
「何もしてねぇよ! お前も誤解を生むような思い出し方してんじゃねぇよ!」
「だってそれしか覚えてないし、起きたら桐椰くんの上で寝てただけだし」
「遼、正直に言えば今なら全治一週間にしてやるから」
「結構容赦なくね!? つか何もしてねぇって言ってるだろ!!」
「でもこれだけは言えるんだけど、桐椰くんは絶対私を襲う度胸とかないんじゃないかなって」
「お前フォローするならもっと上手くやれよ!! 本当にいい加減にしろよ!!」