形勢逆転
「きーりや……くんは、寝てるのか」
第六西のソファに寝転ぶ桐椰くんが廊下から見えたのだけれど、いざ中に入ってみれば桐椰くんは目を閉じていた。スマホを見ているうちに寝落ちでもしてしまったのか、胸の上に乗るスマホの上に左手が添えてある。桐椰くんの体は当然のことながらソファからはみ出してしまうので、頭を肘掛に預ければ、長い足は片方は肘掛に載せられたままソファの外に飛び出て、片方は床のほうに落ちていた。そろそろと扉を閉めて、鞄を置いて、いつも自分が座るスペースがないせいで少し惑う。
「……桐椰くんちょっとどいてね」
椅子に座るのは机につくようで嫌だったので、桐椰くんの体をよいしょよいしょとソファの奥へ押す。大きめのソファなので、そうすれば私の座るスペースはギリギリできないことはない。桐椰くんの腰の隣に座って、特にすることもないので、取り敢えずその顔をとっくり眺める。綺麗に整った顔は寝ていてもやっぱり綺麗で、なんなら間近で見る機会はそうそうないので、その肌の綺麗さにまで注目してしまった。
「色しろーい、きめ細かーい、鼻たかーい……」
うずうずして、その頬をつついた。肌荒れしてない証拠におうとつのない触り心地の良い肌の感触が返ってくる。女子顔負けじゃないか。自分の頬と比べてみると桐椰くんのほうが当然柔らかさはない。……勝ったのか負けたのかよく分からなかった。
「そうだ、ボタンつけようと思ってたんだった」
早々に桐椰くんの寝顔を見るのは飽きたので、カーディガンを脱いで、鞄からソーイングセットを取り出す。今朝ボタンが外れかけているのに気が付いて慌てて掴んで持ってきたもので、普段は持ち歩いてなどいない。桐椰くんは持ち歩いてるのかな。さすがにそこまではしないか。そんなことを思いながら糸を針の穴に通すべく奮闘し、それだけで疲れて机の上にカーディガンと針を置いた。
「起きた桐椰くんにやってもらおう……」
桐椰くんはお裁縫が得意らしいし。多分遥くんの制服のボタンが外れたときに縫ってあげるのは桐椰くんだろうし。彼方の手先が器用とは思えないし。頼めば「何で俺が!」と言いながらやってくれるだろうけど、何かお礼になりそうなお菓子とか持ってないかな……、と鞄を覗き込もうとして──背後の桐椰くんが身動ぎした。
「うぇっ」
お陰で、屈んでいたことも相俟って体勢を崩した。ソファから落ちてしまう、と慌ててソファの背を掴むものの、私の手ではソファの表面を掴むだけで精一杯で、それでは体を支えきれず──がくん、と桐椰くんに覆いかぶさってしまった。ただし数センチ体は離れているのでセーフだ。ほっと息を吐いたのに。
「えっ」
ソファの表面を掴んでいた手はずるりと滑り、ぼふっと桐椰くんに激突した。頭はなんとか桐椰くんの首の横のスペースに収まったけれど、体はもろに激突した。何気にちょっと痛かった。「ん……?」と桐椰くんの声も聞こえた。起こしてしまったか。桐椰くんの体とソファの背中との隙間に手をついて起き上がりながら、まぁ見られたら桐椰くんが顔を赤くするだけで終わりだな、くらいに思っていたのに──なぜか、桐椰くんの手が腰に回った。
「……え」
そのまま、桐椰くんの体の上で片手で抱きしめられた。私は硬直する。でも桐椰くんは、すー、と健やかな寝息を立てている。ちょっと待ってください。
「き……りやくーん……? 寝惚けてませんかー?」
小声での抵抗を試みるも、少し上に見えている桐椰くんはやはり寝ている。それどころか、私の声をぐずっているとでも勘違いしたのか、腰に回っていた手がぽんぽんと背中を軽く叩いた。そうじゃないんだよ桐椰くん!
「……こんなのリーダーかツッキーに見られたら殺される気がするんだけど……」
第六西をなんだと思ってるんだ、と二人に睨まれる図が簡単に浮かんでしまう。ちょっと本格的に起こしたほうがいいかもしれない、と気を取り直したというのに──桐椰くんが寝返りをうった。私の体ごとだ。当然ぐるりと体は回り、ソファに寝転んだ。それまではまだよかった。寝ている桐椰くんに、益々強く抱きしめられるまでは。
お陰で完全に全身が硬直した。背後はソファ、目の前に桐椰くん。ゼロ距離で桐椰くん。ちょっと待って。顔がどんどん熱くなってくる。心臓がドクドクと激しく鼓動を始めた。こんなリアクションは桐椰くんの専売特許のはずだ、それなのになんで、私が桐椰くん相手に照れなきゃいけないんだ!
「き……、桐椰くん、起きて!」
「ん……?」
眉間に皺を寄せた桐椰くんは起きるどころか益々腕に力を籠めた。違うよ桐椰くん! 体が密着すれば否応なしにその体温を感じるし、何より異性の体なんだと意識してしまう。ほんの少し厚い胸板も、力強い腕も、私の体がすっぽり収まってしまうほどの体の大きさも、全部男の人だ。夢の中で私を何と勘違いしているのかしらないけれど尻尾を振ってる犬みたいな顔で私を抱きしめるのはやめて!
「桐椰くん! 桐椰くん!! おはよう!!」
「ん……」
その耳元で──そう、耳元で叫べるほどの距離だ──一生懸命叫べば、桐椰くんは目を開ける。さぁ赤面して私を引っぺがすがいい、そう期待して見つめていたのに。
「だからちゃんと戻ってろって……」
桐椰くんはすぐに目を閉じた。だから違うんだよ桐椰くん! 私は脱走した犬じゃないんだよ! なんなら犬なのは君だよ、桐椰くん!
どうにもこうにも、寝ている桐椰くんが私を離す気配はない。お陰で顔から熱が放出されっぱなしだ。ぐいぐいとその胸を押しやるけれどもびくともしない。夢の中の桐椰くんは犬を全力で抱きしめてその毛にもふもふと顔を埋めているに違いない。その証拠に私の首筋に顔を埋める。ゾクゾクッと背筋が奇妙な感覚に震えた。だからちょっと待ってよ!!
「きーりーやーくーん! 離して! 起きて!」
桐椰くんが目覚める気配はない。腕の中で暴れられたら起きるでしょ普通! どんだけ爆睡してるの! バシバシとその胸を叩いても桐椰くんはもぞもぞ動くだけだ。多分夢の中で犬に暴れられて宥めてるんだろう。それは別に好きにしてくれればいいけど、私でやらないでほしい。
「くっ……! も、無駄に力強い……!」
最早離してくれるとは思えないので、その腕の中から抜け出すことを試みる。腕を押し上げてできた僅かな隙間から、ずるずると足の方向へと体を下げる。……そうすると、それはそれで桐椰くんの胸にすっぽりと収まった。子供みたいに体温が高いのか、温かくて、冬の布団にいるような心地よさがある。恥ずかしいのには代わりないし、(私は悪くないと思うけれど)こんなことをしている罪悪感のようなものはあるのに、離れる気が目減りしてしまった。ぐっと、唇を引き結び、体の熱さを抑え込もうとする。心臓の鼓動はまだ速い。
「……これだから天然女タラシなんだ、桐椰くんは」
松隆くんは絶対に寝てるふりしてこういうことをするんだろうけれど、桐椰くんだと本当に寝てるんだろうなって思えてしまうのは、やっぱり日頃の行いだ。いや、桐椰くんがこんなことをしながら顔色を全く変えずに寝たふりを続けられるとは思えない。あぁ、ただの理論的なお話か。
陽だまりのようなその温かい場所を離れるべく、「よいしょ」と遂にその腕の中を潜り抜けた。普段からぐしゃぐしゃな髪が更にぐしゃぐしゃになっている。それだけじゃない、漸く桐椰くんの体温から逃れたけれど、体はまだ落ち着きを取り戻さない。しかも桐椰くんはまだ起きない! 子供みたいなその寝顔をひっぱたいて起こしてやろうかなんて暴力的かつ理不尽な怒りを覚えてしまった。ソファの上だというのに這い出るように床に降り、次は同じことが起こらないようにと、ソファの隣にわざわざ椅子を持ってきてそこに座り込む。顔に落書きでもしようかな。でも油性ペンしか持ってないからさすがに可哀想か。ちぇっ、と放り出していたカーディガンをもう一度手にとる。まだ、顔は火照っていた。
十数分後、「んー、」と隣で声がしたので目を向けると、桐椰くんが背伸びをするところだった。お陰でその拳が私の腕に触れる。素早く腕を引っ込めると、何かに触れてしまったのは寝起きながらに分かったらしく「ん?」と疑問形の声と共に桐椰くんは目を開けた。ぱちぱちと長い睫毛が上下する。ごろんと仰向けになった桐椰くんの逆さまの顔が私を見た。
「なんだ、いたのか」
なんだいたのかじゃないんだよ! 思わず殺意が湧いた。
「……おはよう。よく寝てたね」
が、何をされたのかを告白しなければならない事態は避けたかったので一生懸命平静を装った。桐椰くんは座り直すともう一度背伸びをする。
「んー、昨日ほぼ徹夜だったから。眠くて眠くて」
「何してたの?」
「遥がゲームクリアできないって言うから一緒に」
「桐椰くんもゲームするんだ」
「ん、いや、基本しないけど、二人プレイヤーがいないとできないやつ? そういうの、遥に頼まれてやってることはある。兄貴が大学行く前は兄貴が付き合ってたんだけど」
ふあぁ、と犬みたいな欠伸をした桐椰くんは、反射で潤んだ目を私に向けた。
「……んで、なんでお前こっち見ないの?」
この男、許されない。
「別に後ろめたいこととかないもーん」
「……お前まさか寝てる俺の顔に何かしたとかじゃねーだろうな」
「してないもーん」
「……落書きはない」
すかさずスマホのカメラを起動した桐椰くんがインカメラで確認する。その行為のせいでもう一つの可能性に気付いたらしい。じろりと睨まれる気配がした。
「……スマホのアルバム見せろ」
「うわー、プライバシーの侵害だー」
「写真撮っただろ! いいから貸せ!」
「やだセクハラ」
私に伸びてきた手がビシッと硬直した。それ以上のことをやっておきながらセクハラも何もない。なんなら寝顔の写真は撮ってない。被害妄想だ。桐椰くんはいつもの少しだけ恥ずかし気な顔で「くそっ」と苛立たし気に頬杖をつく。次いで私の手元を見た。
「……なにやってんの、お前」
「見て分かるでしょ。ボタンとれたから付け直そうと思って」
「下手か」
「そんな短いツッコミ要らないよ!」
大体、いうほど下手ではないはずだ。ただ……、ちょっと最後の仕上げが下手なだけだ。玉結びをするには短すぎる糸をどうにかこうにか結ぼうとして格闘しているだけだ。心の中では必死に弁解していたのに、桐椰くんの口からは「下手の長糸上手の小糸って言うけどなんでお前糸足りなくなってんの?」ととんでもない悪口が飛び出た。桐椰くんのくせに生意気だ。なんで男子高校生がそんなに裁縫に精通してるんだ! お陰でというべきかなんというべきか、何も言い返すことができない。手を付けたときは「じゃあ桐椰くんやってよ!」と差し出そうと思ってたというのに、今や桐椰くんが隣にいるだけで体温がどんどん上がってしまうのだ。差し出すときに顔でも見てしまったらどうなるか。
だから我慢していたのに、「貸せよ」とその手が伸びてきた。だからちょっと待てそこの桐椰くん。今度は私が硬直する番だ。私より遥かに大きい手が私の手からカーディガンと針を奪う。指先が手を掠める。顔が、熱い。
「針も長いとやりにくいだろ。短いの使えよ」
「……短いのも使いにくいもん」
「手先不器用かよ」
「桐椰くんは器用でいいですね」
「普通だろ」
だって私が結べなかった糸を悠々と結んでるじゃないですか。なんなら「こっちも取れかかってんじゃん」と別の箇所まで直し始めた。保護者だ。ここに保護者がいる。
「……松隆くんとかボタンとれかかっても放置してそうだけど桐椰くんは遥くんのぶんまでやってあげそうだよね」
「総はお手伝いさんがちゃんと確認してるから、取れかかってるとかはねーな。遥はボタン失くしてくるんだよなぁ……しかも上着。せめてカーディガンとかどうでもよさそうなのにしろよな、全く」
保護者だ。遥くんから見たらお母さんが二人いる……? しかも桐椰くんの指先は私の二倍速くらいで動いてあっという間にカーディガンのボタンを補強してくれた。ほら、とその手から膝の上にカーディガンが投げられる。
「……ありがとう」
「どーいたしまして。つかソーイングセットとか持ち歩くんだな、お前」
「今朝慌てて掴んできた」
「あぁ、やっぱり」
そうだと思った、と言わんばかりに桐椰くんはクスッと笑う。この野郎! そんな顔しても今日だけは絶対に可愛いとか思わないから! ぐぬぬ、と唇を引き結んでいれば、桐椰くんが訝しむ気配がする。
「……お前やっぱ今日変じゃね?」
「……別に変じゃないよ」
「さっきから全然こっち見ねぇじゃん」
「桐椰くんの手際の良さに感服して手しか見てなかっただけだもん」
「今はもう終わってるだろ。顔も赤いけど熱でもあんの?」
膝の上のカーディガンから頑なに目を離さずにいたというのに、桐椰くんの手が前髪を掻き分けて額に触れる。ちょっと待てこの天然タラシ!
「熱くね?」
「桐椰くんの手が冷たいんじゃないの」
「冷たくねーよ、つか熱いほうだよ俺は。待って、ちゃんと測る」
「ちゃんとって何!?」
こっち向け、と言わんばかりに問答無用で上向かされた。思わず叫んでしまったのに「いやだって熱あったら困るだろ」と、気配の通り純粋に訝し気な顔をした桐椰くんがそこにいて、コツン、と額が触れ合った。ちょっと待って!!
「やっぱ熱あんじゃねーの?」
喋る桐椰くんの息が、唇に触れる。ドックン、とその心臓が跳ね上がった私とは裏腹に、桐椰くんは平然と額を離して私の前髪を下ろした。なんなら手櫛で軽く梳いた。
「ほら帰るぞ、送ってやるから」
……顔から火が出るかと思った。いや、多分出てる。いま現在進行形で出てる。顔が熱い。そりゃ体温も上がる。普段ならそんな至近距離を全力で照れるのは桐椰くんであるはずなのに、熱を測るのは桐椰くんの中でノーカンなのか? 子供をあやすのと同じなのか? ふざけるなこの天然タラシ!
「痛ッテェ!」
そう思ったときにはバシィッと大きな音が響いていた。はっと我に返ると掌がビリビリする。目の前の桐椰くんが頬を押さえて悶絶している。しまった、思いっきり叩いてしまった。
「あっ……ごめん桐椰くん、つい……」
「つい……じゃねぇよ……お前、人にボタンつけさせといて礼が平手打ちとかいい度胸してんじゃねーか……」
「だ、だって桐椰くんがセクハラするから……」
「熱測っただけだろ!」
距離が近いんだよ距離が! そう叫びたかったけれど桐椰くんが欠片も意識してないことを私が口にするのはなんだか癪だった。桐椰くんは寝惚けてて何も覚えてないからそんなことを言えるんだ。……そうだ、桐椰くんは何も覚えてないんだ。未だ頬を押さえている桐椰くんをじろりと睨む。
「……桐椰くん何の夢見てたの」
「あ? なんだよ今更」
「いいから何の夢」
「えー……あぁ、なんかペンギンが沢山いた」
ペンギン? ヘンなものでも見るような顔をしてしまったけれど、夢を思い出そうとしている桐椰くんはリアクションをとらない。
「皇帝ペンギンの赤ちゃん? が沢山いて……一羽が逃げ出そうとするから慌てて捕まえてた」
「……ふぅん」
「で、なに。夢占いでもすんの」
「私ペンギンじゃないもん」
「はぁ?」
何言ってんだ、そんなこと一言も言ってねぇだろ、つかペンギンで何が不満なの、とその表情が色々と文句を言っているけれど、自分の胸に手を当ててよくよく考えてみるがいい。ふんっ、とそっぽを向いてカーディガンを羽織った。
「帰る!」
「だからそう言ってんだろ! なんなんだお前は!」
「こんなことなら桐椰くんの顔に落書きすればよかった!」
「したらお前のカーディガンのボタンの糸ことごろく切ってやるからな」
「うーわ、陰湿。陰湿な男はモテないよー」
「本当にうっぜぇなお前は!」
不幸中の幸いというべきか、今日は松隆くんも月影くんもいなくてよかった。見られてなくて本当に良かった。見られてたら穴を掘って埋まりたいどころの騒ぎじゃなかった。せめてもの反抗というか、腹いせに桐椰くんの鼻先でピシャリと第六西の扉を閉めれば、いい加減にしろよと側頭部にぐりぐりと拳が押し付けられてお仕置きされる。でも口先でも謝ってやらない。
「桐椰くん、背後から女の子に刺されないように気を付けなよ!」
「俺が何したって言うんだよ! そんなに女子力ないの落ち込んでんのか?」
「落ち込んでません!」
「つか別にお前以外の女子のボタンわざわざつけてやったりしねーよ」
……この男……。
「お前以外の女子は自分でつけられるしな」
この男……!!
「本ッ当に今日の桐椰くんダメ! 最低!」
「お前どんだけ自分の女子力のなさ気にしてんの」
「あぁぁぁちょっと鼻で笑いながら言うのが余計にムカつく! 桐椰くんのバーカバーカ! 桐椰くんのくせに生意気だ!」
「そういうのは俺より裁縫できるようになってから言えよ」
「金髪ヤンキーのくせに! 厳つい見た目のくせに! 料理と裁縫が得意とか!」
「貶せてねーぞ」
「絶対に桐椰くん女の子に刺されるからね! お見舞いに行って指差して笑ってあげるからね!」
あぁ、もう、今日は本当に、完敗だ。