v0.01 : falldown





眩しい陽の光にまぶたの裏が赤く染め上がる。顔をしかめて寝返りをうつ。隣に人の気配がするがそんなことはお構いなしというかのように。これには隣に腰を下ろしている人間も呆れる。しかし、いつものことではある。
太陽光を避けて寝返った先で、頬に何かがあたった。枕には決して思えない。悪戯か、と観念して瞳を開ける。目は見える。

しかし、驚くことがあった。

ひとつは、ベッドの上じゃなかったこと。
兄の部屋でよく眠る彼女は、窓辺にあるベッドのおかげで大概の場合は太陽光をいっぱいに浴びながら寝ている。
少し考えてみればベッドよりもずっとかたい上に、頬にあたった感触は草だった。長いことそういったものに触れていなかったから忘れていた。

そしてもうひとつ、自分の手を見る。白い肌が見えた。手袋をしていなかったのだ。
恐ろしくなって身体のあちこちを触るが、すぐに安堵する。とりあえず、怪我はしていないらしい。


「お前を見つけてすぐ、俺が全部調べたよ」

「え?」


そういえば、と隣に座ったまますっかり気にもかけていなかった人間の存在を思い出した。

前述したとおり、彼女は兄の部屋で眠る。当然兄もそばにいる。
だから、傍に人間がいて当たり前だったのだ。"兄の部屋ならば"。

しかし、どうやらここは兄の部屋ではないことは一目瞭然の事実である。兄の部屋はもちろん屋根があるし、フローリングの床に、あたたかみのある壁紙の貼ってある壁に囲われた部屋なのだ。
それがどうだ、この有り様は、どう見ても屋外である。

つまりこの隣に座っているのは、赤の他人である可能性もある。ようやく、慌てて彼を見たのだ。

だが彼はきょとんとした顔で「なんだよ突然」と口にする。紛れもなく、兄だった。
兄だった、のだが…。


「あ、え、兄さん…だよね?」

「そうだよ、お前の兄さん。自分の名前と俺の名前、言えるか?」

「当たり前でしょ、<タツミ>兄さん。私は<ミズキ>。頭はおかしくなってない」


「上出来だ」そうはにかむ彼はどこからか水筒を取り出して手渡す。「ゆっくり飲めよ」

水筒なんていつ用意したんだろうか、ここはどこなんだろうか。
手渡された水筒からはココアが出てきた、口に含んで、吐き出した。その瞬間彼が面白そうに笑った。


「な、えっ!?このココアなんか変!」

「それは、ココアっぽい見た目の水だよ。残念だったな!」


私が寝てる間にそんな悪戯グッズを仕入れてきたのか、とふてくされながらも「ココア風の水」を見ないようにする。見なければ、ただの水だと割り切れる。見てしまうとあの甘さを期待してしまうけれど。

落ち着いて水を幾分か飲んで彼に水筒を返した。全く、兄はまだ笑いたい気持ちを堪えた複雑な表情をしている。
先ほどの混乱をすこしばかり水と一緒に飲み込んだ彼女は、それで、と続けた。


「ここはどこ?」

「恐らく<アキバの街>の外れだろうね」

「は?私たちアキバになん、か……」


行ってないでしょ、と言い掛けて言葉を呑んだ。違う、そうじゃない、兄もそういうつもりで言ったわけじゃない。
生い茂る木、コンクリートを覆う苔、風化した廃墟、…ここは、秋葉原なんかじゃない。

浮かんだ恐ろしい予想に、足りないピースが嵌っていく。ここがどこか聞いたら、次は兄のふざけた服装について問いただすつもりだったのだ。
だって兄は、あまりにファンタジーな服装をしている。なんで木に盾と剣を立てかけてるの。そう、問うつもりだったのに。

なんで耳が尖ってるの。なんで、瞳が青いの。
なんで……子供じみた問いが、浮かんでは、兄の言葉に吸い込まれる。<アキバの街>、馴染みのあるその名に、ようやく自分の服装を見る余裕が彼女にはできた。

嘘でしょ、嘘、うそ…!

袖を捲れば紋様が見える。幾度も頼ってきた、もうひとつの相棒。

縋るように彼を見上げる。彼もお手上げといったように肩をすくめた。


「起きたら俺も混乱して、とりあえず、近くに倒れてたお前を見つけたの。んで、いつものように確認して、ずっとついてた。
 だから詳しいことなんてほとんどわかんないんだよな…。ああ、でもメニュー画面なら開けるぞ」

「っ……は?めにゅー、がめん?」

「そそ。ここ、ちょっと集中してみ」


とんとん、と眉間を指で叩いてくる兄の言うように、わけもわからずに意識を集中させてみる。
するとどういうことが、目の前にメニュー画面が出てきた…気がした。でもはっきりと見えているというよりは、頭に浮かんでいるものを見ているという感覚。

ただし、ログアウトはできないようだ。顔を顰めると兄も「それも試してみた」と画面の向こう側から話しかけてくる。
兄に気をとられるとすぐにその画面は消えてしまう。どうやら慣れないと、「メニューを開きながら別のこと」はできないようだ。

すぐに他のことも試してみる。ショートカットだ。しかし一向に現れる様子はない。
ショートカットとはスキルアイコンを格納しておき、割り当てられた対応キーを押すことでスキルを発動できるシステムのことである。
しかし、それが出てこない。メニュー画面からスキルを開いて、敵を攻撃する?ありえない、兄に話しかけられただけでも消えてしまったというのに。


「兄さん、私、確認したいことがある。"街の外"に行きたい」


その言葉に一瞬怪訝な顔をした彼も、少し悩んだ後、わかったと頷いた。


「ただし、いくつか俺とお前の間でルールを決めたい」

「ルール?」

「そうだ。ひとつは、俺とお前は、これから"キャラクターネーム"で呼び合う。俺は<ブラン>、お前は<ヒスイ>。名乗るときはそうしろ、頭の上にも出てることだしな」


なるほど、確かにメニュー画面の要領で少し集中すれば兄の名前は確かに<ブラン>だ。

ふたつ返事でわかった、と頷く。「それからもうひとつ」彼が懐から投げナイフを取り出してヒスイの指の腹に軽く刺す。
ぷっくりと赤い血が浮く程度だったが、表情ひとつ変えない彼女にブランは大げさにため息をついた。


「はー…ダメか」

「兄さ…ブランは、何か身体の変化があったの?」

「コンタクトが入っている感覚がないのに、視力が上がってるんだ。もしかしたらお前も…って思ったんだけどさ」


過剰な手当てを始めた兄に「ごめん」と何故か謝ってしまう。彼女のこれは、兄の人生の重い枷になっていることも確かなのだ。
彼女が物心付く前から、彼は彼女のこの障害と向き合っている。

それでも彼はいつでもヒスイに優しかったし、時には強く叱りつけることもあった。共働きの両親に代わって彼はよき親を務め、よき兄を務め、彼女の世話係を務め、ほとんど外出しない彼女のよき友人を務めた。

年齢を重ねて、ようやく彼女も大抵のことをひとりでこなせるようになった頃には、兄妹は近づきすぎていた。
異常なほど、愛情をお互いに抱くことになる。諍いもなく、許す限り四六時中共に過ごしていた。

近親愛と誤解を受けることがあったが、それはなかった。どちらかというと親友と兄妹を混ぜたような関係だった。
だから彼女は人生をつらいとも、寂しいとも感じたことはなかった。ひとえに兄のおかげであった。

だからこそ同時に、兄の人生を狂わせてしまったことに、深い罪悪感をおぼえることになったのだが。

そんな彼女の複雑な心情を知ってか知らずか「気にするな、好きでしてることなんだから」と気さくな笑みを見せる兄に小さく礼を述べる。


「じゃあ、ヒスイは俺から離れるなよ」

「もちろん。イレズミの体力の低さをナメないでよ」

「それ、威張ることじゃないからなー?」


手を繋いで街を歩く。街外れに出て正解だった、ヒスイは見回しながら思った。周りの冒険者は皆が皆混乱している。
自分だって…兄が、ブランがいなかったら、どうだったかなんてわからない。

一方兄は冷静だった。いつだってそうだ、兄は用意周到で、頭がいっぱいいっぱいになってしまわないように生きている。
だって、兄がパニックになったのは…あの一度きりだったのだから。

きゅ、と結んだ手を握りしめると優しく握り返してくれる。

街の外に行きたいだなんてワガママも、叶えてくれる。どれだけ危険かわからないのに。
でも私が兄の役に立てる世界だから、私がしっかりできないと、人生でこれ以上の恩返しの機会はないのだから。

ヒスイが難しい顔でうっすらと見えるブリッジ・オールエイジスを睨みつけているとき、ブランは別のことを考えていた。

今はまだ混乱しているから構わない…今のうちに外を確認しておくのは、それほど下策とは思えなかった。
初心者が相手をするようなレベルの低いモンスターしか、街の付近にはいない。

混乱した民衆がとる行動は、まず混乱から入り、次に身の安全の確保だ。その安全の確保に他人は含まれていない。
つまり、略奪が起きる。その前に自分たちの力がどれ程のものか確認しておく必要があった。

それにどの程度、この世界が<エルダーテイル>に忠実なのかも確認しておきたい。
少々危険かもしれないが数時間も街から離れればすぐにわかることもあるだろう。噂に耳を傾けるには、このエルフの耳は実によく利く。

エルフ族と法儀族、というマイナーな組み合わせは大抵は奇異の目を引くことになるし、現段階で未知数の街の外、安全区域外に出るということは頭のおかしな人間ということもあってひそひそとした声が耳についたが、それでも後を追うものは現れなかった。
まだその段階まで冷静になれる人間はいなかったのだ。ただひとり、光る眼鏡の奥の三白眼を持つ青年だけは、走る足を止めていたことにブランは気がつけなかった。



2015.10.27





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