春雷、始まりの音
平子と名前が飴を介して"共犯"になったちょうどその頃。
救護室に、ふわりと羽音が差し込んだ。
小さな黒い蝶──地獄蝶が、どこからともなくふたりのあいだへ舞い降りてくる。まるで窓の隙間から季節が滑り込んでくるような、そんな柔らかな気配だった。
「……ん? なんや?」
先に蝶に気づいたのは、平子だった。ベッドの上で寝転がったまま、ひょいと顔を上げる。ついで、名前が気がついた。「(あ、これ地獄蝶だ)」──と、名前が思ったのとほぼ同時に、蝶は、空気を震わせるようにゆっくり羽を打ち、どこか機械的な口調で告げた。
【──平子真子、名字名前。両名、今次真央霊術院入試において合格と認定す。詳細は追って文書にて通達する。迎院の儀には遅れなきよう──】
地獄蝶はそう告げ終わると、またふわふわと飛んでいく。そんな蝶の様子に、名前と平子は自然と顔を見合わせた。
どちらからともなく、ふっと小さく息を吐く。
「……良かったな」
最初に破顔したのは平子だった。ベッドの上から身を起こし、にや、と笑って名前を見る。名前はそんな平子を見ながら、ぽつりと言葉を返した。
「……これで喜ぶなんて、存外、子供っぽいんですね」
名前がぽつりと漏らすと、平子は眉をひそめた。
「いやガキのくせに喜ばへんお前の方がおかしいんちゃうか。落ち着きすぎやろ」
「よく言われます」
「可愛気がこれっぽっちもあらへんしなぁ」
「それも、よく言われます」
「改善せえよ」
「死にはしないので……」
「なんやねんコイツほんま」
テンポよく会話をしていると、平子はガシガシと頭を掻いてから、歯痒そうに名前に告げた。
「……つか敬語やめえや、もう。同じ釜の飯食う同期やろ。俺のことは平子って呼んだらええし、俺はお前のこと名字って呼ぶわ」
そう言った平子に、名前は瞠目しながらも答える。
「……でも、あなたの方が年上でしょう? それに、貴族かもしれないし……私なんかが、敬語をやめていいのか、ちょっと……」
「かまへん。つーかその堅苦しいのん、ちょっとイラッとすんねん」
ケ、と顔を歪ませてそういう平子に、名前は小さく笑みを溢しながら応えた。
「……わかりました。じゃあ、平子」
「ん?」
「ご入学、おめでとうございます」
名前がそう言ってにこりと笑うと、平子は少し目を丸くして──それから照れ隠しのように笑い返した。
「おん……名字もな」
春が来た。そんな気がした。
* * *
──それから十日。
名前は、赤い線の入った綺麗な上衣に身を包み、真紅の袴の紐を丁寧に締めながら、真央霊術院の巨大な門の前で立ち尽くしていた。
──ここからが、ほんとうの始まり。
過去を思えば、夢のような景色だった。あの荒んだ流魂街の錆面から見上げた空とは、まるで色が違う。
今日の空は、どこまでも澄んでいて、雲ひとつない春空だった。
意識を眼前の真央霊術院に向けていると──名前の背後から急に彼女の頭にチョップが落ちてくる。
「いっ……」
「名字〜。おはようさん。クラス分け、見たか?」
脳天に刺さるような痛みに振り返ると、整った制服に着替えた平子が、手をひらひらと振っていた。
髪は前に見た時と同じポニーテールで、前髪は相変わらずきっちりそろっている。
「……平子か……あぁ、おはようございます……」
「なんや朝から陰気なやっちゃな」
「朝から殴る方がおかしくないですか……?」
「おい、また敬語でてんで」
「あ、……すみません」
そんな会話をしながらも、二人は真央霊術院の大きな門を潜る。二度目に見た石畳は、入試で見た時よりも、なんだかもっと優しい感じがした。
「別に。謝らんでもええけど、早よ慣れや」
「……うん」
「その調子や。あ、そうそう。ほんでクラス分けな、俺もお前も一組やったで」
「……一組……?」
聞かされた言葉に、名前は目を見開く。
真央霊術院の"一組"。──それは、真央霊術院の中でも特に成績や資質を見込まれた者だけが配属される、選抜クラスのことだ。
前世で読んだ原作の記憶が、ぼんやりと名前の脳裏に浮かぶ。確か、阿散井恋次や吉良イヅルも在籍していたのがこの一組じゃなかったっけ。
自分がその中にいるなど──なんだか、想像もしていなかった。
「……それなら、頑張らなきゃだね」
自然と口から出たその言葉に、平子は口を開けて笑った。
「お、やる気やなぁ。ええこっちゃ」
「あれ、平子は?、頑張らないの?」
「ハ? 頑張るわ。お前より早く席官になって、お前より早く隊長になったるっちゅーねん。見とけよ」
そう言って誇らし気に笑う平子に、名前は目を逸らしながらも小さく応えた。
「うん。……まぁでも、平子は隊長になれると思うよ」
「……は? なんやねん、急に」
「んーん。……ただ、なんとなく。そう思ったんだ」
名前がそう呟くと、平子は言葉に詰まったようにしばし黙り──照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「……なんやねん、ホンマ。気色悪いくらい落ち着いとんな、お前」
「……それも、よく言われます」
ふたりは肩を並べて、門の中へと足を踏み入れていく。
春の日差しが、その背を優しく照らしていた。
まだ何者でもないふたりが、
未来の何者かになろうとするその第一歩。
それは、どこかで静かに雷鳴が鳴ったような、
始まりの音だった。
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