すべての始まり


 ――トンッ。トンッ。

 音がする。
 私を誘う音がする。

 ――トンッ。トンッ。

 無機質な音だ。
 それ以外に何一つを生み出さない、ただ一方的に繰り返されるだけの淡白な音だ。
 私はこれをよく知っている。これの生み出す振動や、反響による空気の動き方、それに音の鳴らし方だって知っている。
 忘れもしない。忘れられるはずがない。確かに覚えている。この身を形成する細胞の一つ一つに、まるで胎児の記憶のように、ミクロン単位で刻み込まれている。

 ――トンッ。トンッ。

 なのに、それは途方もなく遠い音なのだ。
 手を伸ばしても届かない。足を動かしても追いつけない。声を枯らしても引き寄せられない。
 甘く残酷に誘うくせに、どこまでもどこまでも、憧憬すら抱けぬ程に、遠い。


* * * * *


「馨、今日はもうおしまいだよね」
「うん、出すもん出したし帰るよ」

 数人の生徒があちこちを歩いているだけの静かな構内を、大きく伸びをする影が二つ、のろのろと倦怠に横切っていく。
 現在時刻は午後三時過ぎ――左手首につけた腕時計を覗いては時間を確認し、馨は大きな溜め息と同時に身体の力を抜いた。横からは「溜め息吐くと幸せ逃げるよ」なんて使い古された小言が差し込まれたが、構うものか。ここ数週間自身を悩ませてくれた面倒なレポート祭りも終わり、やっとのことで苦痛の日々から解放されたのだ。まさに気分は今の天気のように真っ青な晴れ模様。さらに今日はいつもより早々に帰れるともなれば、己を労うための溜め息の一つや二つくらい盛大にかましてやっても罰は当たらないだろう。
 とりあえず、今日はとっとと帰って久々の怠惰を貪りたい一心だ。大変なことになっているパソコン周りも掃除したいし、最近レトルトやインスタント食品ばかりだった自分に褒美のご馳走を食べさせてやりたい。その前にやはり何より、ベッドに転がって明日の朝までうんざりする程、爆睡をかましたい。とにかく、馨にはやりたいことがたくさんあったし、同時に何もやりたくなかった。
 だが、隣で目を輝かせている友人の存在が、そう易々と馨に平穏を齎してはくれない。

「じゃあ、ちょっと付き合ってよ」

 駅前の喫茶にでも誘うような軽い調子でそう言われ、馨は返答を迷う――なんてことはなく。

「えーやだ面倒、よーちゃん一人で行きなよ」
「ひどっ! 唯一無二の親友じゃない!」
「その親友ちゃんはとってもお疲れなのーしんどいのー帰りたいのー」
「かーっ! 薄情モノめ、親友のくせに!」

 やたらと“親友”を強調する彼女は、あだ名をよーちゃんこと吉岡日夏。本人の主張通り紛うことなき馨の友人であり、中学・高校・大学と進路を共にしてきた所謂腐れ縁というやつだ。大学では学部が違い、教育学部の馨に対して彼女は応用生物学部に在籍している。まるっきり方針の違う学問を学んでいるため講義自体は基礎教養以外被らないのだが、何だかんだお互い時間を合わせて一緒に行動する機会が多い。最早磁石のS極とN極みたいなものなのだろう。
 そんな間柄だからこそ、吉岡のことだからどうせ早めに帰れるとなればどこかへ遊びに引っ張って行こうとするだろう、と安易に予想できていた。よって、労いはともかく安堵の溜め息はまだ吐けないのだ。大事な友人とはいえ、理解が良すぎるというのも疲れるものである。
 それに、どうせ付き合うと言っても、彼女のことだから精々駅ビルのブティックハシゴだとか喫茶店だとかゲームセンターだとかカラオケだとかが関の山。そんな場所、吉岡と古くからの付き合いである馨の中ではとうに行き尽くしている。要するに、疲労を抱えたまま行ったところで楽しめるわけがないのだ。
「ねーねーお願いー行こうよー」とまるで幼稚園児のような駄々の捏ね方をする吉岡。このままでは五月蝿いし面倒だからと、馨はとりあえず行き先はどこかと尋ねてみた。

「行くって、どこへさ」

 すると、彼女は大層素敵な笑顔を以て、こう答えたのだった。

「雷門中に、用事があって」

 ――一瞬、ドクリと心臓が高鳴った。
 しかしそれには気付かぬ振りをして、馨は吉岡の笑顔を真っ直ぐ見つめ返した。

「……雷門中?」

 てっきりカラオケでストレス発散だろうと想定していた馨だったが、予想の斜め上をいく返答にただ鸚鵡返しをするしかなかった。
 雷門中とは、馨と吉岡が通っていた中学校のことである。この辺では最大の敷地面積を有し、生徒数も非常に多い俗にいうマンモス校というやつで、近所にいる大人は大体が雷門中OBかOGであると言われるくらい歴史のある学校だ。偏差値的には平均で、スポーツもそれなりに活躍をしているが特出した部活はない。生徒数の多さと校舎の大きさがよく目立つだけで、あとは非常に普通のどこにでもある平凡で平穏な中学校だと、少なくとも馨はそう記憶している。
 だが、問題はそこではない。何故大学生になって二年目という中途半端極まりない今、わざわざ中学校へ行く必要があるのだろう? ――全く見当がつかず、思わずぽかんと呆けてしまう。
 しかし、馨のその反応を曲解してなぜか同伴する許可と捉えたらしい吉岡は、さあさあと馨の腕をがっちり掴みにかかり、有無を言わさぬ力で引っ張り始める。さすがにそんなことをされれば馨も呆けから醒めたが、時既に遅し。

「ちょっ! 待って、何で雷門中?!」
「会う約束した先生がいるの。いーじゃん、久々の我が母校に先輩として顔出ししようよ!」
「先輩って……もー」

 ずるずると容赦無く引きずられる中、コイツには何を言っても離してはもらえないだろうと悟り、早々と抵抗を諦めた馨。どうして今更、という疑問は晴れないものの、一応これでも長い付き合いだ、断る理由らしい理由も無いし構わないかと潔く割り切ることにした。そうでもしないと彼女の突飛な行動に合わせてなんていけない。
 ――雷門中。
 懐かしいのは、校舎の中央に堂々と佇む立派な稲妻マーク。何年も前に通っていた場所だから記憶も若干曖昧だが、あのシンボルだけは何より印象的で今でもよく覚えている。初めてあれを見上げたときの眩しさも蘇り、無意識に目を細めてしまうくらいには。

「……」

 そういえば彼女はどの先生に会うのだろうか、と考えてみた馨だが、そもそもどんな先生がいたかすっかり忘れてしまっていることに気が付いた。当時の担任ですら朧げだ。卒業してから随分経つのだし、無理もない。
 ――それに、馨にとって中学時代とは、記憶しておくに値しないと言っても過言ではなかった。

「何年振りになるっけ?」

 無理に引っ張らなくてもついてきてくれると察したらしい吉岡が、いつの間にか馨の腕を解放して隣に並ぶ。他愛なく振られた疑問に、馨は指折り計算しながら答えた。

「んー、五年かな」
「うそ、もうそんなになる?」
「だって、私たち今年で二十歳でしょ。卒業したのが十五だから」
「本当だ。光陰矢の如しってやつだね!」

 自分で計算してみて、あの頃がそんなに遠い過去となっているのだと改めて実感させられた。彼女の言うように、月日の流れというものは本当に早いし、あっさりとしている。

「中学校ってさ、いろいろあったよねー。楽しかったなぁ」
「そうだっけ?」
「えっ、馨は楽しくなかった?」
「まぁ、うーん、多分楽しかったのかな」
「何それー!」

 きゃっきゃと一人で盛り上がる吉岡から視線を外し、伸びる道路のずっと遠くを見つめる馨。どこか憂いに似た色を宿す瞳は、その目線の先にあるものの何一つも映してはいなかった。
 脳裏に淡く蘇る中学時代。
 一つのことに夢中で励んでいた青く眩しい日々。
 ――自ら封じ込んだ、昏く真っ黒な時代。

「……」

 すっかり忘却の彼方へ葬り去っていたはずのざわめきが、じんわりと心に波紋を広げる。冷や汗が背筋を伝うのによく似た心地の悪さ。その感覚に、自然と馨の眉間には数本の皺が寄った。
 ――ざわり、ざわり。
 ――喧しい。煩わしい。
 もう二度と、感じることはないと思っていた。あのときの全てと関わりのなくなった今、平穏に毎日を送っていた今、再びこんな感覚を抱くなどとは考えもしなかった。きっかけとはどこにあるか分からないし、何が引き金になってもおかしくないのかもしれない、と。それがまた、馨にとっては何より恐ろしかった。
 ――でも、それでも、今はもう、何も……。
 目を閉じてゆっくりと息を吸い、身体の中を一新するように丁寧に全てを吐き出す。同じことを何度か繰り返していれば、いつしかあのざわめきは止んでいた。
 馨は小さく息を吐き、ぐっと奥歯を噛み締める。自分はもう大学生で、中学校とは何の縁も無いのだ。たかが母校を訪問するくらいで精神を乱すなどとは情けない、と内心で一人()ちた。

「……しゃんとしろ、私」

 そっと呟く言葉が心に浸透し、自身へ平常を齎す。幸い隣の友人には聞こえていなかったらしい。

「懐かしいね、馨!」
「そうだね、本当に」

 ぱっと明るい笑みを向けてくる吉岡に、馨も同様に口角を持ち上げて返す。目的地を目指す足取りはどこまでも平坦で、どこまでも機械的で、止まることはしないまま。
 ――思えば。
 このとき無理矢理にでも彼女の誘いを断っていたならば、自分は一生ここで立ち止まったままだったのだろう。


* * * * *


 吉岡に引き連れられた馨が訪れたのは、二人にとって懐かしき場所――雷門中学校。
 ちょうど授業が終わって部活動が始まっていたらしく、正門を抜けた二人を出迎えたのは様々な声の飛び交う賑やかなグラウンドだった。

「おー、精が出ますな。あれラグビー部かな」

 校舎の真ん前に広々と設置されている砂のグラウンドでは、ラグビー部のユニフォームを着た生徒たちがそれぞれストレッチをしている。キャプテンらしき生徒の号令に合わせてたくさんの身体が同じ動きをとり、中学生ながらも猛々しい掛け声が響き渡り、ただのストレッチなはずなのに何とも迫力のある光景が繰り広げられていた。
 吉岡の言葉に何も考えず頷きかけた馨だったが、ふと疑問が浮かび、小さく首を傾げた。

「あれ、ラグビー部ってこっちで練習してたっけ?」
「時々グラウンド使ってなかったかな。確か予約制でしょ、ここ」
「あ、そうなんだ」

 卒業生でありながら、今初めて知ったグラウンド事情。いつも何気なく眺めていた部活風景も、裏では色々と難儀なこともあるようだ。
 確かにこれだけ生徒が多く部活も活発なのだから、全ての運動部が一斉にグラウンドを使ったらそれこそ大変だろう。ならば予約の取れなかった他の部はどうしているのかと少し気になったが、わざわざ確かめようという気は起きない。

「ふーん……グラウンドでしかできない部活は大変だね」

 横目で練習する部員たちを見ながらそう言えば、珍しく吉岡が怪訝そうな顔をした。

「馨、知らなかったの?」
「うん、運動部とは全く縁無かったし」
「マジかよ、アンタ本当にうちの卒業生?」
「一緒に卒業したじゃん、よーちゃんが大泣きするの宥めながらさ」

「良いから早く用事済ませなよ」と続ければ、吉岡はそこで自身の目的を思い出し、そうだったと朗らかに笑った。
 道中聞いた話によれば、吉岡が会いに来たのは冬海という先生らしい。とはいえ、名前を言われてもいまいちピンとこない。判らないくらいだ、どうせ会っても話すことはないだろうと、校舎の外で待つことに決める。すぐに帰ってくると言い残して校舎に入って行く吉岡を見送り、階段付近の壁にゆったりと凭れ掛かった。
 太陽に照らされながらわいわいと部活に励む生徒たちを、影になった場所から遠目に眺める。眩しさに目を細めたとき、ふと、在校時代にはこんなにじっくりとグラウンドを見たことはなかったことを思い出した。

「すごいなぁ」

 ストレッチが終わればトラックと外周を用いた長距離の走り込み、その次は個人や二人一組でのトレーニング。頃合いを見計らって実際にボールを抱えた実戦演習。今見ているのはラグビー部だが、この流れは基本どの運動部でも変わらないのだろう。
 太陽は爽やかにグラウンドを照らし出し、確実にそこに熱を生じさせる。体感的に気温は初夏のそれと相違無い。それでも彼らはいっそ気持ち良さそうな程の清々しい表情で身体を動かす。本当に、誰も彼もが楽しそうだ。薄める眼差しの先にいるあらゆる人物が、馨にとってはただただ眩しいばかりで。
 そんな中学生の元気溢れる姿に感心すら抱いていたとき――不意に、言い争いのような声が馨の耳に飛び込んできた。

「ん?」

 思わず壁から背を離して太陽の下へ出る。初めは聞き違いか単なるお遊びかと思ったが、どうもそうではなさそうな雰囲気がする。飛び交う台詞は遠くてあまりよく聞こえないものの、その声の主たち自体はすぐに見つけられた。階段下の近くで、数人の男子たちが何やら揉めているようだ。
 全員ラグビー部のように思えたが、よく見れば一人だけは別のユニフォームを着ている。その彼が小脇に抱えているものは――。

「サッカーボール……?」

 白黒模様の特徴的なそれは、間違いなくサッカーボールだった。さらにその手にグローブを嵌めていることから、馨は瞬時に彼がGKであることを悟った。
 何故、サッカー部がラグビー部と? ――怪訝に思いながら様子を窺っていると、何やら状況が一変した。
 ラグビー部の一人が、サッカー部の彼からボールを奪ったのだ。

「返せ!」
「どうせあっても使わないんだろ?」

 どうにか取り返そうと躍起になるキーパーの子を、ラグビー部が二人掛かりで押さえ込むというまさにイジメのような光景。その様子にぎゅっと眉を寄せたまま助けに入るべきかとまごついていると、ボールを持ったままにやついていた彼が突然足を振りあげた。
 ――まさか!

「ボールだって使われないより、こうされた方が嬉しいだろー……よっと!」

 その言葉と共にボンッという打撃音が響き、ボールは勢い良く宙へと蹴り飛ばされた。馨もGKの子も、目を見開いて飛んでいく軌跡を追う。だが、すぐにその目は驚きに瞠られた。
 強く蹴られたボールは、真っ直ぐ馨の方へと向かってきていた。速度は充分に速く、当たってしまえばかなり痛い目に遭うに違いない。遠くから少年の叫び声が聞こえたような気がした。
 でも、今ならまだ避けられる。身体を捻れば直撃することはない。そう導き出せる程度には、頭は冷静だった。
 冷静だったはずだ。
 ――なのに、馨は気付けば右足へ力を込め、蹴りの構えをとっていた。

「……ッ!」

 はっと一瞬で我に返って体勢を変え、顔面寸前のところを何とか素手でキャッチする。手のひらで受け止めた硬い皮の衝撃は思っていた以上に重く、直後にどっと汗が噴き出すのが判り無意識に顔を歪めた。ボールへの恐怖心もだが、それ以上に、他でもない自分自身の行動があまりに意味不明すぎて。
 ――今、何をしようと……。
 ドキドキと、様々な意味で高鳴る胸。せっかく落ち着いていたはずの内側が再びざわつく。しかし半ば無理矢理にでもそれ以上の思考を止め、一つ深呼吸をし、ゆっくりと気を落ち着かせた。
 大丈夫、何も問題は無い、何も起きてはいない。
 何度も自分の中の自分に言い聞かせ、最後に長い吐息を吐き出せば、もういつもの江波馨らしい冷静さを取り戻せていた。手のひらにじんじんと響く痺れが現実味を帯びさせ、いつの間にか遠ざけていた周囲の喧騒を引き戻す。
 そこでやっと、あのGKの少年が慌てて馨のもとへと駆けて来たことに気付いた。ラグビー部は既に一人残らずいなくなっている。無性に腹立たしいが、中学生相手に向かっ腹を立てていても仕方ないと切り替えるしかない。

「すっ、すみません! 大丈夫ですか!?」
「うん、大丈夫」

 目の前に来るや否や勢いよく頭を下げられ、少し戸惑う馨。中学生にここまでしっかりと謝られると何だか居心地が悪いし、何より彼に一切非は無いのに。
「気にしないで」と続ければ、彼は顔を上げて馨と視線を合わせ、「でもスゴいですね!」と目を輝かせた。

「さっき、蹴り返そうとしましたよね? サッカーやってたんですか?」
「いや」
「けど、あの構えは経験者のものだと思いました、オレ!」
「そう?」

 食い下がる少年を適当にかわしながら、馨はこの状況をどうしようかと思案する。
 本当は、あんなことをするつもりはなかったのだ。受け止めるつもりですらなく、ただ普通に避けておしまいにするだけで済む状況だったのだ。なのになぜか条件反射で身体が勝手に動いてしまったことに、馨自身戸惑いを隠せなかったくらいだ。
 だのに、馨がサッカーをやっていたと確信しているらしい少年は、いくら否定をしようともなかなか諦めようとしない。完全に断定しきっている。やけにキラキラ輝く瞳で見上げられては、さっきとはまた別の意味で居心地が悪くて仕方ない。内心相手をするのが面倒になってきた馨は、ボールを蹴ったラグビー部員と未だ帰って来ない吉岡を密かに恨み始めていた。

「お姉さんさえ良ければ、オレにシュート撃ってください!」
「うーん、私、サッカーやらないから」
「えー、すげー良いフォームだったのに……」
「君もしつこいね。シュートなら他の部員にしてもらいなよ。サッカー部なんでしょ?」

 サッカー部なら同じサッカー部員と練習すればいい、と。
 当たり前のように何の気無しに放った言葉だったが、どうやら良くない部分があったらしい。あんなに輝いていた少年の顔が突如として曇ったので、馨は少し驚いた。

「ど、どうしたの? えっと……」

 そういえば、馨は彼の名前を知らない。尋ねることも教えられることもないまま会話をしていたのだ。先を続けられずまごついていると、それに気付いた少年は再びにぱっと明るい笑顔を見せた。

「オレ、円堂守です!」
「え、円堂くん、か」
「お姉さんは?」
「私は江波馨。一応、ここの卒業生」

 円堂の勢いに乗せられてさらりと名乗る馨。先程まではこれ以上関わりたくないとも思っていたが、相手の名前を知ってしまうとなかなか邪険にはできない。というより、彼――円堂の持つ笑顔の溌剌さを前にすると、一歩退いたそばから距離を詰められるような、どうにも無視しようがない気持ちにさせられてしまうのだ。不思議なことに。
 腕時計を見てみると、吉岡が行ってから二十分以上経っていた。手短に済ますと言っていたから、もうじき戻ってくるだろう。その前に、馨には確認しておきたいことがあった。

「それより、さっきはどうして言い争ってたの? 多勢に無勢で」

 馨が円堂に気付くきっかけとなった、あの喧嘩の理由。馨にはサッカー部とラグビー部同士のいざこざというものが想像できないので、一応理由くらいは訊いておきたいと思ったのだ。

「あ、えーっと、それは……」

 円堂は突然歯切れが悪くなったと思えば、困ったように苦笑して鼻先を掻いた。

「ラグビー部がグラウンドを正式に予約してなかったから、使わせてもらおうとして……」
「そしたら喧嘩になったの?」
「うん。ラグビー部はオレたちサッカー部と違って、デカいから」
「……サッカー部がね」

 サッカー部がグラウンドを使えないという事態が馨には理解できないので、あまり納得はいかない。よくよく見ればグラウンドにはサッカーゴール自体が存在しないし、サッカー部の地位が他の運動部と同等、いやそれ以下になっている状況に、我が母校ながら違和感を拭いきれなかった。
 馨の知っているサッカー部とは、学校一力があり、権力があり、常に部活動の頂点に君臨するものだった。その部内で力を持つ者は、学校生活でもそれなりの扱いを受ける。そういうサッカー部しか、馨は知らなかった。
 だからこそ、円堂の言葉が不思議であると同時に、僅かながらショックを受けた。他の部活に虐げられる弱小サッカー部の存在に、ツキンと胸の奥を針刺される心地がした。
 だがそれでも、これより深いところを探ろうとは思わない――サッカーが絡むとなれば、尚更だ。

「……そうか。じゃあ」

 話をここで打ち切ろうと、伏せていた目を円堂へ向ける。
 すると突然、背後からやたら快活な声が飛んできた。

「馨!」

 声の主が誰だかなんて見なくても分かる。
 だから敢えてそちらを振り向かず、小さく肩を竦めた。

「あー、帰ってきなさった」
「あの人、江波さんの友達?」
「まあ、お連れ様ってとこ」

 そう円堂に答えたところでバシリと豪快に肩を叩かれ、痛さと迷惑さに顔を顰める馨。恨むように吉岡を睨んでみるも、彼女は無視してワハハと笑うと問答無用で馨の腕を掴んだ。

「中学生に友達つくったのか、さすが馨! じゃ、用事も済んだし、帰ろうか!」
「あぁ、うん。それじゃあ円堂くん、頑張ってね」

 来たときと同じように引っ張る友人に連れられながら、馨は円堂に向かってひらりと片手をあげる。今後もう二度と会うことはないだろうという、確かな別れの手を振った。
 その手を見た刹那、追い縋るように一歩踏み出した円堂。少しずつ遠ざかる馨へ、両手を口にあてて声を張り上げた。

「オレ、放課後は河川敷にいるから! 江波さんも、よかったら来てくださいっ!」

 練習してるから! ――円堂の台詞は聞こえていながら、馨は返事をしなかった。声を返すことも頷くこともしないまま、友人と並んで雷門中の校門を抜けて行く。
 最後に彼が見せた真っ直ぐ真剣な表情も、輝く双眸も、何も、見なかったことにして。

「随分仲良くなったんだね……ん? 馨?」
「……」

 ――やはり、来なければ良かったのかもしれない。
 黙ったまま帰路に着く馨の胸中には、そんな言葉がいっぱいに溢れて仕方がなかった。




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