コーヒー少年と河川敷と、


 雷門中を出てからすぐ、馨は「用事を思い出した」と言って吉岡と別れた。
 別に面倒だから撒いたとか、そんな鬼のような理由ではない。大学の彼是や久々の母校訪問でうっかり忘れていたが、馨には直帰して自宅で怠惰を貪るよりもうんと大事な用事、やらねばならないことがあった。その辺に関しては吉岡にも以前から話してあるので、もしかすると彼女もそれを察して強く引き留めなかったのかもしれない。突飛で喧しいが良い友人なのだ、彼女は。
 馨がまず赴いたのは商店街である。そこでいくつかの買い物を済ませて持参していた紙袋を膨らませる頃には、太陽は早くも橙色に色づいて傾き始めていた。
 そして次に向かう先こそが本命、稲妻総合病院。雷門中のすぐ近くに建っているそこは、この近辺では唯一なうえに一番大きく設備の整った病院だ。そのため、足を踏み入れた病院のロビーにはいつだって人が絶えない。患者がいるという事態はあまり喜ばしいことではないのかもしれないが、よく見てみるとただ井戸端会議をしに来ただけのおばあちゃんや涼んでいる少年たちの姿も見受けられるので、単純に市民の憩いの場としても機能しているようだ。
 随分と通い慣れたもので、紙袋を抱えた馨が受付に立つと、担当の看護婦はにっこり微笑んで記入用の紙とペンを差し出してくれた。そこに必要事項を書き込んで渡せば、あとは目的地に赴くのみである。
 馨自身は至って健康で医者に掛かる必要は無い――馨の叔父が、少し前からここのお世話になっているのだ。

「馨ちゃん、最近大学の方はどうかな」

 事前に頼まれていた買い物品をサイドボードに出していると、右腕と右脚を吊った叔父がにこやかに話を切り出した。

「んー、特に変なことも起きてないし、普通かな。ちょうど今日までレポートの締切が詰まりまくってたけど無事に終わったし。あとは、今度ディベートやるからそろそろ資料集めもやらないとなーって感じで」
「ああ、じゃあ今日はお疲れのところ来てもらっちゃったんだね、申し訳ない」
「いやいや、寧ろいろいろ片付いてすっきりしてるからタイミング良かったくらいだって。レポート自体もそんなに難しいものでもなかったしね。大丈夫大丈夫」
「そうか、さすが馨ちゃんだ。上手くやってるならそれで良いんだ。こうして毎回お見舞いに来てもらっちゃって、手を煩わせていないか心配でね……」
「全然そんなことないから気にしないでよ、叔父さん」

 全部しまっておいたからね、と微笑み顔を向ければ、彼は感謝の言葉と共に一つ小さく頷いた。
 ――彼の名は篠宮透。馨の母親の弟、前述の通り叔父の関係に位置する人である。
 中学生になった当時、馨は仕事で海外へ飛び立った親の代わりにこの叔父の家で一緒に暮らしていた。中学校入学から始まった同居生活は高校卒業まで変わらず、大学に入学するのと同時に馨が一人暮らしをするに至った。叔父の妻は馨が小学生の頃に他界しているので、中学からの六年間、馨はずっと彼一人の世話になっていたのだ。私生活から学業から、本当に叔父には感謝してもしきれない程の世話をかけたし、めいっぱいの愛情を注がれてきた自覚もある。
 一応金銭面についてだけは、忙しく海外を飛び回っている両親からの仕送りが全て賄ってくれていた。しかしそれ以外の部分に関しては本当に放っておかれている状態だったので、最早馨にとっては叔父が親そのものと言っても過言ではない程であった。
 そんな叔父だが、不幸なことに数週間前、仕事中に腕と脚を折る大怪我を負ってしまった。報せを受けたとき、馨は文字通り心臓が止まりそうになったことをよく覚えている。幸い命に別状は無く、長期とはいえ入院して治療に専念すればきちんと治ると医者に聞かされるまで、本当に生きている心地がしなかった。そんな、己がどれだけ心配したかという話を張本人である叔父にしても、ほんわかとした彼らしい調子で笑って終わらせられるだけなので、ある意味もどかしい人物でもある。
 それでも、馨にとってはかけがえのない家族なのだ。顔を忘れかける程に疎遠となった両親とは違い、ずっと傍にいてくれる大切な家族。彼が大切だからこそ、大学の帰りに時折こうしてお見舞いに来ることは苦でもなんでもないし、代わりの買い物だって喜んで勤しむことができる。
 例え自分が何をどう抱え込んでいても、決して彼には弱さを見せないし、見せたくない。

「じゃ、そろそろ帰るよ。また来週までに一回は顔出すから、何か買うものあったら連絡ちょうだいね」
「ありがとう、気を付けて帰るんだよ。……今日の馨ちゃんは、何だかいつもと違うような気がするから」
「ん? そうかな」

 叔父の優しいながらも鋭い台詞に鼓動を跳ねさせつつ、素知らぬ振りして笑いながら病室をあとにする。彼と自身とを隔てるドアを閉めるまで、笑みを貼り付け、呼吸を止めて。
 トン、と完全に閉じ切られたその先で、止めていた息をゆっくりと吐きだす。

「……」

 ――どこかおかしいなんてことは、馨自身が一番良く解っていた。


* * * * *


 どこか浮ついた、定まりきらない中途半端な心持ちのまま、宛ても無く彷徨い歩く――そんな虚無めいた時間を過ごしてしまうと、いっそう心が沈んでいく気がしてならず、馨は病院を出たらすぐに家に帰ろうと決意をした。無駄に考える時間は要らない。とにかく帰って、掃除をして、美味しいものを食べて、忘れてしまおう。今日起きたことも、あの少年のことも、全部。自分の弱さを知っているからこそ、馨は何度も自分自身にそう念じた。
 そうして、訪れたときよりも人の減ったロビーを抜け、自動ドアをくぐる。ふわりと舞い込んでくる風は初夏のそれとよく似た爽やかな温もりを孕んでいて心地好い。散らばった前髪を指先で揃えつつ、ふと何気なく周囲に視線を動かしてみた。
 視界に入ったのは、入り口の横に設置されている一台の自動販売機。ホット飲料よりもコールド飲料の方が多いあたり、既に夏を迎え入れる準備万端らしい。きっとキンキンに冷え切っているであろうドリンクのパッケージを目に留めると、急に喉が渇いてきた気がする。
 せっかくだから何か買うか――カバンから財布を出しつつ販売機の前に立ち、品定めを始めた。

「何にしようかな」

 たくさん歩いたし、一気に飲めるマイルドなスポーツドリンクにするか。それとも体内の熱気を吹き飛ばす爽快な炭酸飲料にするか。はたまたベターなところでカフェオレにするか。
 少し優柔不断の気も否めない馨。暫くはふらふらと人差し指を彷徨わせていたが、さすがにこんなことでいつまでも悩むのもバカらしく思えてきたので、目を瞑って適当にボタンを選んでみた。ピッという機械音と共に目を開けると、自分が選んだのはシンプルなミネラルウォーター。それはそれで構わないか、と自己完結させ、続いてガコンと勢い良く落ちてきたボトルを取り出そうとした、そのとき。

「ぅおっ!?」

 突如軽快かつけたたましい電子音楽が鳴り響き、これまで宣伝を流していた画面がチカチカとまばゆく点灯し出した。所謂、“当たり”というやつを引いてしまったようだ。
『おめでとうございます! もう一本プレゼント!』――至極簡潔なアナウンスによれば、当たった場合は無料でどれか一本が手に入るらしい。無料、という単語には心惹かれるものがあるとはいえ、先程購入したミネラルウォーターがあれば充分なので、もう一本増えたところで正直ただの荷物にしかならない。
 いきなりそんなこと言われてもなあ――眉をくねらせて悩む馨だったが、不意に背後に気配を感じてぱっと振り向いた。
 果たしていつからいたのだろう。そこには、色素の薄い髪を逆立てた少年が立っていた。

「あ、君、何か飲むの?」

 ややきつめの瞳と視線がかち合い、咄嗟にそう話し掛ける馨。突然のことで少年は訝しげに眉を潜めつつ、それでも無言で一つ頷いた。当然だ、飲み物を買う以外の目的で自販機に近付く者はまずいない。何をバカなことを訊いているのだと馨は内心己を叱りつつ、しかし同時に、これは良い好機だと閃いた。

「じゃあ、さ、好きなやつ押してくれないかな?」
「は?」
「あの……どうも当たりが出たっぽいんだけど、私二本もいらないから貰ってほしいんだ。お願い!」
「はぁ……」

「人助けだと思って!」と手を合わせる勢いで懇願すると、少年はやはり怪訝そうな様子で再び頷き、大して迷うことなくコーヒーのボタンを押した。落ちてきた缶を少年に手渡すと、彼はぼそりとお礼らしき台詞を呟いた。やや無愛想気味ではあるが、かなり礼儀正しい子だ。馨は嬉しくなってにっこりと微笑んだ。

「ありがとうね、じゃあ」
「……ども」

 缶を手に軽く頭を下げ、その場を立ち去っていく少年。そのまま院内へと入っていく後ろ姿を見送りつつ少し観察してみれば、雰囲気や声音は大人びているものの背格好からして恐らく中学生くらいだろうと推測された。制服は着ていなかったので飽くまで予想でしかないが、ここに用事があるということは学区は雷門だろうか。
 そこまで考えて、思考を止める。雷門中の生徒だからどうとか、そうじゃないからどうとか、馨には全く関係の無い話だ。無粋な憶測を走らせるなんてせっかく貰ってくれた彼にも失礼だろう。今日はやたらと中学生に縁があるな、と内心ごちるに留め、馨もまた、己の進むべき方向へと踵を返した。
 ――けれども、その中学生の彼と出会ってしまったからなのだろうか。あれだけ忘れようと思っていた事柄が、再び脳裏に芽吹いてしまうのは。
 いつしか真っ赤な夕日に照らされたコンクリートの道はまるで燃えているようで、そこに横たわる自身の影は面白いくらいにくっきりとしている。その影は、今にも独りでに、さながら雷門中での自分のように動き出してしまいそうな程に鮮明な輪郭で、じっと見ていることが恐ろしくすら思える。馨は顔を上げ、ずっと先へ伸びる河川敷を見据えた。
 脳裏に過ぎるは、今日出会って別れたあのサッカー少年のこと。彼の真っ直ぐな瞳とまばゆい笑顔が、どうしても、どうしても頭の中から消えてくれない。たった一度、ほんの十分足らずの会話だったというのに、何故だか強くこびりついて離れなく。
 忘れたいのに、忘れられない。
 強烈なハレーションを引き起こし、未だ残光を拭いきれぬ存在。出会ったこと自体が過ちであるとすら思わせられるそれは、触れてもいないのに確かな熱量を伴ってならず。

「……サッカーか」

 ――サッカーとは、どんなものだったろうか。

 冷水が湧き出すように、そんな一文が心の中に浮き出る。それに対して何かを思い出すわけでもなく、また答えを探るわけでもなく、馨はただ目を閉じた。
 視覚が無くなり、代わりに聴覚が先程よりも鋭くなった気がした。遠くの方で子どもたちが遊ぶ声が聞こえる。河川敷は主に小学生の遊び場で、この時間帯はいつも笑い声が溢れて賑やかだ。叔父の使いや雑用が無い限りはあまり通らない道だが、たまに通ると陽光に煌めく川と吹き抜ける風とがノスタルジックな印象を抱かせ、少し心細さを感じさせる道だった。
 夕暮れの優しい風を頬に受け、ふと、ゆっくり瞼を開く。瞬間的に胸がざわめく。何か忘れていることがあるという認識が湧き起こり、あ、と声にならない声が漏れる。
 そういえば、あの円堂という子は。
 そう、確か、最後に言っていた――。

「すみませーん!」

 不意に飛んできた声。
 はっとして河川敷を見下ろそうと視線を動かす途中、足元にボールが転がっているのに気が付いた。その瞬間、何もかもを諦めたくなるようなやり場の無い感情が腹の底で渦を巻き、静かに消えていった。
 ――今日はよくボールが飛んで来る日だな。
 一瞬戸惑った後、本日何度目かの溜め息と共にそれを手に取り、芝生へと足を向ける。階段を無視して坂を駆け上がって来る彼の姿を認めると、何とも言えない気持ちになった。
 そう、悪いのは他でもない自分自身。彼は何も悪くない。
 だからこれは、もう仕方のないことなのだ。

「あ、江波さんだったんだ! 来てくれたんですか?」
「たまたまだよ。この辺に用があったからね」

 嘘ではなかった。
 現に、馨は今の今まで彼――円堂守のあの言葉を忘れていたのだ。放課後は河川敷にいるという宣言を、忘れようとした末に綺麗さっぱり忘れてしまっていたのだ。そして、今はこの道を通ったことを少し後悔していた。
 そんな馨の事情なぞ素知らぬ円堂は、相変わらず屈託の無い笑みを浮かべると、(おもむろ)に馨の空いている片手を掴んだ。いきなりの行動に馨は思わずぎょっとするも、反論するより先に円堂が嬉しそうな声で切り出す。

「オレ、今小学生とサッカーしてるんですよ! 江波さんも、ちょっとだけ見てってください!」
「ちょ、ちょ、円堂くん! ストップ!」
「あ、もしかして時間無いですか?」
「いや、そうじゃなくてね」
「ならちょっと、ちょっとだけ!」
「わ、わっ!」

 やんわりと否定したところでめげる様子も見せず、ぐいぐいと引っ張っては目的地へ連れて行こうとする円堂。その様子に某親友の面影を見出だした馨は、結局碌に抵抗もできぬままあれよあれよという間に坂を下り、近くのベンチへと座らせられていた。
 件の小学生たちは一時休憩をしていたらしい。円堂が年上の女性を引き連れて戻って来るのを見ると、飲み途中のボトルを置いて興味深そうに馨の周りへ集まってきた。気分は完全に動物園のパンダである。

「お姉ちゃんもサッカーするの?」
「いやぁ……」
「サッカー上手い?」
「うーん……」
「円堂ちゃんの知り合い?」
「知り合いというか、今日会ったばかりなんだけどね」

 どうしてかやけに好かれたみたいですとは言えず、口篭る。
 四方八方からマシンガンのような質問攻めに遭い、私生活の中であまり小学生と触れ合う機会の無い馨は上手く返せず途方に暮れていた。教育学部で学ぶ学生としてどうかという思いもあるが、馨は直接的な指導をする教師になるために在籍しているわけではない。それに、いろんなことが立て続けに起こっているからか、若干頭が混乱していた。
 そんな中、円堂が手を叩きながら「休憩終わり! 練習再開!」と叫ぶと、彼らはぴたっと質問攻めを止めて素直にコートへと入って行った。まさに鶴の一声。中学生ながら、円堂は小学生からの信用が厚いらしい。
 混乱から解放され、ほっと安堵した馨。どうしてこうなったんだろうと頭を抱えてしまいたくなるが、それでも、目の前で練習が始まれば不思議と余計な思考は消え、意識は自然とそちらへ奪われた。
 現在はパスワークとシュートの練習を兼ねているらしく、二人でパスを出し合い最後に片方がシュートするという流れを繰り返している。女の子が蹴り出すと同時に男の子と二人並んで走り出し、テンポ良くボールを回してゴールへ迫る。まだ小学生らしく拙い動きとはいえ、ドリブルは上手いこと運べている。ほう、と感心する中、遂に男の子から女の子へ最後のパスが出て、そのままシュートを決める……はずだったのだが。

「あっ」

 上手くいかず、ボールは少女の足に触れることなくコートの外へ出てしまった。
 すかさず円堂と男の子が励ましの言葉を投げ掛けている。それに対しては笑んで応えた後、ひっそり悔しそうに唇を噛み締めながらボールを取りに行く女の子を見つめ、馨は緩く腕を組んだ。
「もう一回!」と円堂が言い、再度同じ二人で練習が始まる。しかし結果はあまり変わらず、ゴール手前で何とかボールを受けることができても綺麗なシュートにまでは繋げられなかった。苦し紛れで蹴り飛ばされたは良いものの大きく軌道を逸れたボールを慌てて取りに走る円堂。女の子は謝ってから、ベンチへドリンクを飲みに戻ってきた。

「はぁ……何で上手くできないんだろう」

 ずっと練習してるのに。
 女の子の呟きから、この様子は今に始まったことではないのだと悟る馨。タオルで汗を拭う細い腕、そして歯痒さを隠しきれない表情を見ていると、どうにも胸がむず痒くなった。奥の方から、もどかしさとよく似た感情が湧いて溢れてくる。その根底に垣間見たのは、助けてあげたい、というひどく純粋な思いであり。
 ――気付けば、勝手に口が動いていた。

「最後の一歩を、他より大きく踏み出してみたら良い」
「え?」
「ボールが足元に来る直前の一歩、タイミングを計って思い切り飛び出してみて。歩幅がずっとドリブルのまま小さいから受ける直前まで足元が定まらないんだと思う。それで大きく伸ばした足でボールが取れたら、そこから三歩目と決めて、取った足を軸に撃ち込むと良い、かも」
「最後の一歩を、思い切り……」

 女の子が鸚鵡返しをするのを聞いて、やっとびっくりした。他でもない、自分自身に。
 いつの間にか観察していたのだ、彼女のプレーを。走り方やボールの取り方、シュートの仕方までを記憶して、考えた。彼女が上手くボールを取り、かつ綺麗にゴールへ蹴り込める方法を。そして今まさに、それを彼女へ伝えたのだ。
 どうしてだろう。今日の自分はおかしいとは思っていたが、今は特に変だった。
 そんなこと、自分はもう絶対にしないと思っていたのに。

「ありがとうお姉ちゃん、頑張ってみるね!」

 我に返って瞬きをする。
 やけに声が遠いと思えば、女の子は既にコートの中にいた。彼女に、自分が教えたことは黙っていてほしいと言おうとしていた馨は、中途半端に伸ばした腕を下ろしがくりと肩を落とすのだった。
 結論から言えば、馨のアドバイスは幸を成した。言われた通りに最後の一歩、そして蹴り出しの三歩目を意識した女の子は、その後流れるようなフォームで綺麗にシュートを決めることに成功。満面の笑顔で跳びはねる姿はとても嬉しそうだし、周りの円堂やチームメイトたちもまるで自分のことのように一緒になって大喜びをしていた。
 自身のしたことは、やはり未だに信じがたい。
 けれど、他人から言われたことを素直に受け入れ実行し、たった一度で可能にした女の子には馨も素直に拍手を送るしかなかった。

「お姉ちゃん! できたよ! ありがとう!」
「うん、良かったね。綺麗なシュートフォームだったよ」

 ブンブンと手を振ってきたので、馨も小さく振り返す。正直、悪い気分ではなかった。
 大丈夫だ。
 自分のしたことが、あの女の子の運命を変えてしまう――たかがワンプレーの指摘をしただけでそんなことにはならないだろうと、自身に言い聞かせる。大丈夫。今はただの河川敷サッカーで、それ以外の何物でもない。何より本人が喜んでいるのだから良いじゃないか、と。
 ――少し考えすぎなんだ、私は。
 いつからか力んでいた身体から、ちょっとずつ余計な力を抜いていく。いきなり色んなことに触れたから、きっと疲れているのだろう。
 はしゃぐ女の子の言葉と仕種を受け、円堂の目が軽く見開かれる。ああ、と馨はその先の展開を予想した。事実に気付いた彼はどうするだろう、まず間違いなくじっとなんてしていられないだろう――そんな予想を一切裏切らず、彼は猛ダッシュでベンチへ駆け寄ってきた。

「も、もしかして今の、江波さんがアドバイスしたんですか?」
「ちょっとだけどね。大したことじゃない」
「スゲー! アイツ、ずっと上手くできないって悩んでたのに……やっぱ江波さんはスゲーや! どうしてプレーしてくれないんですか?」
「あー、うん」

 勿論、こういう展開になるのも予測済みだ。とある親友――吉岡ではない、馨の記憶に深く根付くもう一人の親友、その人によく似た円堂の押しをかわす術は、一応少し考えてある。
 馨はふっと目を伏せた。それまでの雰囲気とは一変した儚げな空気を纏い、円堂の視線を額辺りに受けつつ、そっと先を紡ぐ。

「実は私ね、昔足に酷い怪我を負って……サッカーできなくなったんだ」
「えっ……そう、だったんですか」

 心から心配そうな、しまったと言いたげに沈んだ表情。それを視界の隅に収めれば、自分のしたこととはいえ多少は罪悪感が湧く。

「オレ、知らずに……ごめんなさい」
「良いよ、先に言わなかった私も悪いし。それに、サッカー自体は嫌いじゃないからさ」

 思った以上にしょんぼりされて罪悪感は膨らむばかりだが、仕方ない。いつまでもこうして円堂とサッカーを通じて交流しているわけにはいかないし、どのみちいつかは切らねばならない縁ならば、それはできる限り早めの方が良いに決まっているのだから。酷い方法だろうが何だろうが、彼と自分のためにはそれが一番なのだから。
 それでも、最後の一言で円堂の顔に明るさが戻ってきて安心する自分がいたのもまた、事実だった。

「じゃ、私そろそろ帰るね。バイバイ、円堂くん」

 頃合いを見て腰を上げる。
 さすがにこの流れでは円堂でも諦める以外の選択肢は選べなかった。

「あっ、引き留めちゃってすみませんでした。……もし気が向いたら、またここに来てください! それか、鉄塔広場に!」
「機会があったらね」

 挨拶代わりにミネラルウォーターのボトルを片手で揺らしながら、馨はのろのろと階段を登っていく。時間を掛けて登りきってから改めて下を見下ろせば、既にスイッチを切り替えた円堂が子どもたちへ何やら指示を出しているところだった。
 人差し指で一人一人に指示しながら、楽しそうに笑う。サッカーが大好きなのだろうと、知り合って短い馨にも伝わってくるような表情。太陽みたいな、遍く照らしてくれるあたたかな笑顔。
 ずっとずっと、ああして笑っていてほしいと願いたくなるくらい、大切な笑顔。

「……似てるなぁ」

 ――嘗て、あんな風にサッカーを楽しんでいた親友がいた。
 彼もまた、サッカーが大好きだった。
 記憶の底から浮上してくる彼の姿は、今、円堂に重ね合わせてみても何ら違和感は無くて。

「今更、だなぁ」

 静かに零し、背を向けて歩き出す。
 暗さを帯び始めた世界の中、自身に纏わり付く全てに気付かぬ振りをしながら、馨はただひたすら前に向かって足を動かすことしかしなかった。




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