未開への旅立ち


 その後は一旦解散となり、各自長旅の準備をする時間となった。
 解散宣言の直後、当然といえば当然なのだろうが、メンバーは真っ先に馨のもとへ集まってきた。馨は瞳子に言われてちょうどウィッグを被り直したところだったので、余計に彼らの関心を集めてしまっている。一気に周りへ群がられ、思わず苦笑いを浮かべた。

「コーチ、それってもしかしなくても変装ってやつですか?」

 音無がしげしげとウィッグを眺めながら首を捻る。馨は何と答えたら良いものかと思いあぐね、「うーん」と生返事のような中途半端な声を漏らすに留めた。それを曖昧ながらも肯定と捉えたのか、次に続けた染岡は怪訝そうに眉を寄せて腕を組んだ。

「でも、変装するってことは何か理由があんだろ? それも解んねーのか?」
「もしかして、エイリア学園が関係してるとかでやんすか?」
「というかコーチと瞳子監督って一緒に来ましたけど、お知り合いなんですか?」
「あなたたち」

 まるで弾丸のように飛び出てくる質問をまるごと叩き落としたのは、瞳子の放つ冷厳な一声だった。

「旅の準備をしてきなさいと言われたのが聞こえなかったのかしら? いつまでもコーチの邪魔をしていないで、早く準備をしに戻りなさい」
「は、はーい……」

 冷たい瞳にじろりと睨まれ、メンバーは力無い返事と共にすごすごと退散していく。今まで周囲にはいなかったタイプの大人相手であるためか、皆どうもいまいち居心地が悪そうであった。
 一足早くエレベーターに乗って地上に戻っていく部員たちを見送りながら、馨は少し眉尻を下げた。確かに一気に質問を浴びせられて若干困惑はしたけれど、別に迷惑していたわけではなかったし、自分は皆がああして疑問に思っても仕方ないだけの格好をしているのだ。言うにしてももっとこう、マイルドに対応してあげても良かったのではないかと。
 去り際に見た全員の戸惑いの表情を思い出し、つい口を開いてしまった。

「みこ姉、何もそこまでキツい言い方をしなくても――」
「馨、貴女は今回の旅のことを誰にも口外しないようにして」

 だが、最後まで言い切る前に、そんなこと至極どうでも良いと言わんばかりの勢いで話をぶった切られた。

「家族も、友人も、それに篠宮さん――貴女の叔父さんにも、これからのことは何一つ話してはダメよ。良い?」
「わ、解った」

 念押しするような鋭い視線は有無を言わせぬ圧力が込められており、馨はこくこくと頷いて了承することしかできなかった。そうでなかったとしても、変装のうえに偽名の使用まで命じられたのだ、瞳子がそんな要求をしてくることだって今更何の不思議でもない。ここまできたら大人しく徹底するしかないだろう、“念のため”に。
 言うだけ言った瞳子は、エレベーターを呼び戻すためにボタンを押しに行った。そのままボタンの前で待機する姿勢を取ったので、馨は背後にいた三人に目礼してからサングラスをかけ直し、小走りで彼女の横に身を並べる。程無くして空っぽのエレベーターが到着したら、二人揃ってその中に立ち入った。
 真っ直ぐ地上を目指す狭い箱の中では暫し無言の時間が続いたが、ややあってから瞳子の方が静かに口火を切った。

「これも先に言っておくけれど」

 そんな切り出し方からして碌な発言ではないのだな、と思った馨は、首を動かして瞳子の横顔を見つめた。背丈はまだ彼女の方が少し高いので、僅かながらこちらが見上げるかたちとなる。

「解っての通り、今後は私が監督で、貴女はコーチという役割になるわ」
「そうだね」
「だから馨、基本的に……いえ、絶対的に、私のやり方に従ってもらうわよ」
「みこ姉のやり方……」

 彼女が監督を務める姿を見ることは初めてなので、どんな指導方針を取っていくのか自体はまだ不明である。それでも、瞳子が言いたいことは何となく理解できた。即ち、先程のように瞳子のやり方へ余計な口出しはするな、と言いたいのだろう。そして馨にそんな釘を刺すということは、今後もああいうかたちの所謂スパルタ指導をしていくつもりなのだ。
 監督とコーチ、二つの立場に分かたれる指導者はいつでも二人三脚でいなければならない。さらにそこへ選手が加わった三人四脚こそが、目指すべきチームの理想である。その理想に到達するためにも、まだ新体制が確立された直後の現時点、ここは一旦馨が監督である瞳子に譲歩するところであるはずなのだろう――が、果たして自分は彼女の指導を受けるチームを見ても尚口を挟まずにいられるのか、今し方のことを思うと早くも少し懸念される。
 だから馨は、先に確かめておきたいと思った。

「そのやり方っていうのは、チームのためになるものなんだよね?」

 確認を取るようにそう訊ねると、暗色の橙に染まる瞳子の双眸がちらりと馨の方へと向けられる。確固たる意志が篭っているのだと一目見ただけでも解る、そんな強い眼差しであった。

「当然よ。私は彼らを率いてエイリア学園を倒すために、こうして監督になったのだから」
「皆ならエイリア学園を倒せると思う?」
「さぁ、どうかしらね。正直今のままでは厳しいと思うけれど……そこを可能にしていくのが、私の役目でしょう」
「勝利のために選手を傷付けるとか、そういうことするつもりはない?」
「それは肉体的に? それとも精神的に?」
「どっちもだよ。選手たちがサッカーを嫌いになっちゃうような、そんなところにまで追い込むようなことはしないよね?」
「……貴女が私をどんな人間と思っているのかは知らないけれど、私は別に彼らを(なじ)るために監督をやるわけではないのよ。ただ、この先弱音を吐くような選手なら、初めからチームに必要無いとは思っているわ」
「それは、無理強いをしない、(いたずら)に傷付けようとはしない、っていう風に取っても良いの?」
「好きに取ってくれて構わないわ。一応言っておくと、そういった選手のメンタル面は馨に任せたいと思ってはいるけれど」
「私に?」
「貴女なら、きっと彼らとも良好な関係が築けているでしょうしね。そういう面も含めて、私は貴女をコーチとして起用したわ。チームが上手く機能していくように、選手がしっかり戦い抜けるように」
「……うん、解った」

 瞳子がここまで明言してくれるのならば、さすがの馨もそれ以上は必要としなかった。
 彼女は確かに少し冷たい態度を取る人ではあるけれど、チームや選手のことを全く考えていないというわけではない。なかなか表に出さないだけで、その芯ではきちんと思いやりを持ってくれているということを、幼い頃を共にした馨はよく知っていた。瞳子の心はあの頃から変わっていない、自分の大好きなみこ姉のままなのだと、そう信じている。
 監督と選手とが出会ってまだ一時間にも満たない、そんな突貫工事じみた勢いで発足された新生雷門イレブン。皆はきっと、今の段階では監督に対する信頼よりも戸惑いの方が大きいはず。どうしてもそこに軋轢(あつれき)が生まれてしまいそうになったときは、それこそコーチである馨の出番であろう。できるかどうかではなく、やらねばならないのだ。
 馨は大きく息を吸って、一度止めて、ゆっくりと吐き出した。
 その間に、大切なチームのために頑張ってくれるという監督のため、今までよりも少し重たい覚悟を決める決意をする。

「私はコーチとして、不束者ながら監督の手助けに尽力します。至らない点は多々あるかと思いますし、宇宙人相手に私の技量が通用するという保証もありませんが、できることは何でもやります。監督のために、そして雷門イレブンのために、粉骨砕身の精神で頑張ります」
「馨……」
「なので、こんな私ではありますが――これからよろしくお願いしますね、瞳子監督」

 最後だけ、ほんのり茶化すようにしてそう言うと、瞳子は僅かに目を丸くした後、何かを言いたげに小さく唇を開く。しかし終ぞそこから言葉が発せられることはなく、そのうちふいっと、あたかも自然な動きのように視線を外されたのだった。


* * * * *


 イレブンたちは親に了解を取るなりと周囲の理解を得たうえでの参加となるが、馨の場合はその必要も無い。瞳子に念押しされたからというのもあるし、元々自立した一人の成人なのだから、自分の責任は自分で負うことができる。
 故にやったことといえば、必要最低限のものを荷物として纏めるくらいのものだった。着回しができる程度の衣服や衛生関連の雑品、文房具、記録用のビデオカメラ、あとはいざというときのための避難用具等を詰め込んでみると、普段の旅行で使うボストンバッグ一つでも充分事足りた。もしもこれで足りないものが出てきたら、必要に応じて現地で調達していけば良い。学校から自宅に戻る間に銀行へ寄ってお金を下ろしてきたので、この先暫くは金銭的に困窮することもないだろう。
 大学への休学申請は、どれくらいの長丁場になるのか判然としない現時点ではやめておくことにした。来月半ば、夏休みが明ける頃になってもまだ問題に決着がついていなければ行えば良い。そのときに己が休学申請なんて悠長な真似をしていられる状況であることを願うばかりだ。
 これから宇宙人との戦いが始まるというのに、こうして荷物を纏めているとまるでただの旅行にでも行くような気分になってしまう。まだ完全に実感が得られていないからなのだろうか。意識が弛んでいるのかもしれない。
 しかし、そんな気分も鏡を見れば一瞬で消え去る。そこに映っている自分ではない自分の姿を認めれば、何度だって今現在が紛れもない“非日常”であることを思い出せた。

「……誰だオマエ」

 自分で言って、自分で笑ってしまった。
 本当に誰だと言いたくなるくらいに、今の自分の見た目は完全な別人であるけれど、間違いなくここにいるのは馨自身だ。慣れないウィッグによって黒いショートカットにされようが、大振りのサングラスによってミステリアスな顔にされようが、その中身が江波馨であることは絶対に変わらない。そこは忘れてはいけないし、忘れるわけもないだろう。そして自分さえきちんとそれを覚えていられるならば、どんな変装をしていたって大丈夫だ。
 自嘲気味だった笑顔を、今度は努めて優しいものに変えた。鏡の向こうの馨は唇だけでも優しく笑えている。サングラスのせいで表情が判りにくい分、選手たちとのコミュニケーションもこれまでより取り難くなってしまうかもしれないのだ、見えている口元には特に気を付けていきたい。
 そうして少しの間、鏡と向き合って表情筋を弄っていた馨。
 そこへ不意に、卓上の携帯が着信を知らせて振動し始めたので、笑顔体操をやめてすぐにそれを手に取る。相手は叔父であった。

「もしもし、馨です」
『あぁもしもし、僕、透だよ』
「うん、どうしたの?」

 電話越しの叔父の声は普段通りだったが、こちらが応答するとどこかほっとしたような優しさを帯びたように感じられた。

『いや、安否確認自体は昨日のメールでもできてたけど、一応声も聴いておかなきゃ落ち着かなくてね。大丈夫? あれから怪我とかしてない?』
「してないしてない、全然元気だよ。もー、叔父さんは心配性だなぁ」
『当たり前だろう、たった一人の姪なんだから。雷門中が宇宙人によって破壊されたって聞いて、もう僕がどれだけ心配したと思ってるんだ』
「ふふ、ありがとうね」

 昨夜、『馨ちゃん無事!?』から始まったメールによって叔父に散々安否確認をされたことは記憶に新しい。そこで何度も『平気』『無事』『大丈夫』という言葉を送って何とか安心してもらったと思ったのに、叔父は今こうして馨の声を聴いたことで漸く本当に安堵できたといった様子である。それだけ心配してくれていたということなのだから、馨は仄かな擽ったさを覚えはするも、叔父のその思いはとても嬉しく感じた。
『はー良かった』と言って大きく溜め息を吐いた叔父に、馨はくすくす笑ってもう一度感謝を口にする。用件はそれでおしまいなのだと思ったが、やっと本調子に戻ったらしい叔父はそこで通話を切るわけでもなく、続いてこんなことを言った。

『あとね、僕以外にも馨ちゃんのことをかなり心配していた人がいて、連絡を取りたがっているんだ』
「え、誰?」

 叔父の会社の人だろうか、と漠然とした推測を始めていた馨の脳は、次の答えによってぴたりとその回転を止めた。

『覚えてるかな、馨ちゃんで言うところの“吉良のおじさん”――吉良星二郎さんって方なんだけど』
「き……」

 ――吉良のおじさん!
 覚えているも何も、つい最近再会したばかりの人物である。そのことを叔父は知らないのでそう言ったのだろうが、この際そこはどうでも良い。馨は己の声音が判りやすくトーンを上げるのを自覚した。

「勿論覚えてるよ! というか叔父さんと吉良のおじさんって知り合いだったっけ?」
『そうだよ。この前、僕の代わりにお日さま園に荷物を運んでもらっただろう? あそこを運営しているのが吉良さんで、うちの会社の社長経由で知り合いになったんだ』

 そういえば、以前瞳子からそんな説明を受けたこともあった。にしても、まさか本人同士が直接知人関係にあったとまでは思わなかったので、馨は半ば呆けた状態で相槌を挟んでいた。

『それで、今回その――エイリア学園? とかいう奴らが雷門に襲撃したってことを吉良さんも知って、いの一番に馨の安否を気にしてくれてね。でも吉良さんは馨ちゃんの連絡先を知らないから、僕経由でどうにか声が聴けないかって』
「あぁ、なるほ……ん? 声が聴けないか? それってつまり……」
『うん、今ここにいらっしゃるよ。代わって良いかい?』
「ウソ!?」

 まさかに重なるまさかである。
 全く心の準備ができていないにも拘らず、叔父は馨の返事もそこそこに携帯を遠ざけ、そこにいる誰かしらへ向けて何やら一言二言話をしだした。そして数秒も経たないうちに、携帯が他人の手に渡って生じたであろう雑音が一つ響き、すぐにあの懐かしい声が馨の耳を擽った。

『もしもし』

 ――本当につい先日聴いたばかりなのだから、懐かしいという表現は正しくないのかもしれないけれど。
 不思議なことに、彼の声音はいつ聴いても“懐かしい”と感じられる、そんなノスタルジックなあたたかさが込められているのだ。

『もしもし、馨ちゃんですか? 吉良です』
「は、は……はい、そうです」

 たかが電話でもやけに緊張する自分を何とか律し、声が上擦らないようにして返答する。吉良は先程の叔父同様、心底安堵したようにほっと一息吐いた。

『声を聴けて安心しましたよ。篠宮くんに負けず劣らず、私も気が気でありませんでしたから』
「す、すみません、ご心配おかけしてしまって……私の方は問題無いですよ、怪我一つしていません」
『それなら良かったです。ほら、馨ちゃんは雷門のコーチをしていると言っていましたから、万が一巻き込まれていたらどうしようかと……』

 吉良はそこで一度言葉を切ると、何かを思い出したように『あぁ』と一声挟んだ。

『こんなタイミングで申し訳ないですが、雷門の優勝、おめでとう。試合、観ましたよ。素晴らしい劇的な試合運びでしたね』
「観てくれたんですか、ありがとうございます! と言っても、決勝じゃ私は何も役に立てていないんですけどね」
『いえいえ、貴女がコーチとして頑張ってきたことだって決して無駄にはなっていないはずですよ。何せ、私が認めた馨ちゃんですからね』

 声だけでも、彼がとても誇らしく思ってくれていることがひしひしと感じ取れる。まるで直接頭でも撫でられたような気分になって、ちょっと照れ臭い。吉良からは見えもしないのに、馨は照れを誤魔化すためにさすさすと首筋を撫でてはにかんだ。

『時に、馨ちゃん』

 話題を切り替えるような呼ばれ方をされ、手を首筋に当てたまま動きを止める。

「はい」
『これから、お会いすることはできますかな?』
「え、これからですか?」

 口調はのんびりしているのに、随分とまた急なお誘いである。
 馨は「あー」と返事を間延びさせつつ、ちらりと部屋の掛け時計を見上げた。最招集の時間まではまだ多少なら猶予はあるが、大事な人と会って話をするにしては些か足りない。それに、今の馨は外見だけなら完全に別人なのだ。変装を解いて会いに行くという選択肢も無いわけではないけれど、そのことが万が一彼の娘である瞳子に知れ渡りでもしたら後が面倒である。
 諸々の事情を踏まえれば、ここは惜しまれながらもお断りをするしかない。しかも本当の理由を話してはいけないという制約もつけられている。吉良相手に嘘を吐くのは大変心苦しいが、致し方なかった。

「すみませんが、実はこの後大事な用事……友人との約束がありまして。私もおじさんにお会いしたいのは山々なんですけど、どうしても外せないものなんです」
『それは時間がかかる用事で?』
「はい、泊りがけの旅行なので一週間は空けることになっています。それが終わってからで大丈夫でしたら、おじさんの都合が良い日にでもまたお会いしたいです」
『そうですか、ならば仕方ありませんね』

 とても残念そうに諦めをつけてくれた吉良。
 馨は痛む心を抑えて携帯を握る。こんなタイミングでさえなければ喜んで会いに行ったのに、と思いながら、何気無く問うてみた。

「もしかして、何か特別なお話とか、そういうことだったりしましたか?」
『いえ、特別と言う程でも。ただ、以前できなかった息子とのサッカーについて、改めてお願いしたいなと思いまして』
「サッカー……」

 ――これは寧ろ、タイミングに救われたのではなかろうか。
 彼が望むものを知った途端、一気に手のひらが裏返る。我ながら嫌な人間だが、仕方ない。もしも用事なんて無くて、今すぐ吉良のもとへ行くことができたとしても、馨は未だに彼の息子――基山ヒロトとサッカーをすることは、できないのだから。

『……やはりまだ、本調子ではありませんか?』

 黙ってしまったことにより、吉良の方も馨の意思が以前河川敷で会ったときと変わっていないことを察したようだ。どこか寂しげな声を受け、馨ははっとして首を振った。否定ではなく、意識を正すための行為である。

「すみません……でも、前はお断りしてしまいましたし、いずれは是非、ヒロトくんと一緒にサッカーができればと思っています」
『えぇ、是非、よろしくお願いしますね』
「こちらこそ」

 嘘ではない。ヒロトと一緒にサッカーをして、吉良の目の前で彼の好きな江波馨のサッカーを今一度披露できる、そんな日がいつか来てくれたら良いとは思っている。いつになるかは解らない。来るのかどうかも解らない。この足が再びボールを蹴られるようになる、そんな未来は未だに不透明なままでしかない。でも、そうなったら良いというささやかな願望はあるのだ――烏滸(おこ)がましくも。
 馨の返事を聞いて、吉良は満足できたらしい。何も知らない故に、彼は馨のそんな曖昧模糊とした約束を素直に信じてくれている。偽りの信用は胸が痛む。でも、余計なことを言って悲しませるくらいならば、こっちの方がうんと良いのだ。彼の中での江波馨には、現実とは違う、いつまでも当時のままの輝きを残しておいてほしかった。
 それから二言三言交わした後、電話を代わった第一声よりもうんと朗らかさが増したように思える彼は、『では』と言って別れを切り出した。

『長くなってしまいましたね、私はこれくらいにしておきます。突然すみませんでした、今後も息災に過ごしてくださいね、馨ちゃん』
「おじさんこそ、どうぞご自愛ください。本当にわざわざありがとうございました」

 名残惜しそうに電話から遠ざかっていく吉良の声。続いてやって来た数分振りの叔父も、やはりどこか切るのが勿体無さそうなトーンで別れの挨拶を口にした。

『じゃあ馨ちゃん、元気でね。何かあったらすぐに連絡するんだよ。宇宙人には気を付けて、危険なことには首を突っ込まないようにね』

 既に首どころか身体まるごと突っ込んでいるようなものだと、言いたくても言えない唇に苦笑いを乗せる。

「解ってるよ。叔父さんも、もう入院なんてしないようにね。それじゃあ」

 通話を切って、もううんともすんとも言わなくなった携帯を閉じた。
 突然訪れた再会――声のみだが――は突然であったが故にばたばたとしてしまったが、何だかんだこうして話せて良かったのかもしれない。これから自身の赴く場所はあまりに未知の領域で、未だ現実と非現実の狭間を揺蕩(たゆた)う感覚は抜け切らないけれど、叔父や吉良といった大切な人を守るためなのだと思うといっそう身が引き締められる。彼らのためにも、尚更頑張らねばならない。
 まだ時間はあるし、他に何かやり残したことはないだろうか――馨は部屋をぐるりと一周しながら考える。
 帝国のメンバー、特に成神辺りにはメールを入れるべきかもしれないが、現時点では事情を話せない分変に不安にさせてしまうだけかもしれないと思って控えることにした。来週月曜までに片がつけば良いとして、それより延びてしまう場合は、何か理由をつけて復帰を延期するしかないだろう。待ってくれている彼らには申し訳ないが、地球のためなのだ。最早『地球のため』が全ての免罪符になるような気がした。
 そこまで考えてから足を止め、ローテーブルの上に置いてあったテレビのリモコンを取って電源を入れた。何かエイリア学園について続報が入ってはいないか気になったのだ。これからはそういったメディアの情報も逐一確認していかねばならないだろう――。

「……え?」

 テレビの画面が点き、恐らく中継と思しき映像が映し出された瞬間、馨は思わず手にしていたリモコンを取り落とした。
 そこに映っているのは、見るも無残に粉々にされた――そう、昨日の雷門中校舎のように破壊された、奈良公園内の石碑。記念式典が行われていたであろう現場は完全に混乱状態となっており、その渦中にいながら、リポーターが懸命に何が起きたか説明しようとしている。

『宇宙人です! 宇宙人が現れて、財前総理大臣を連れ去り――』
「まさか、エイリア学園が……!?」

 そのとき、再度携帯が震えて着信を告げる。
 見慣れない番号であったが躊躇いなく出てみると、相手は雷門理事長であった。

『江波くん、緊急事態だ。今すぐ本部へ戻ってくれ』
「もしかして奈良の件ですか?」
『話が早いな。その通り、奈良でエイリア学園の襲撃があったのだ』

 とにかく一刻を争う事態である、早急に本部へ来てほしい――かなり切羽詰まった言葉によって、馨は先程のニュース映像がまさしくそれであったのだと認識できた。しかも、リポーターの説明からして相手は総理大臣を誘拐してしまったようである。事は深刻だ。電話を切ってすぐ、家を出るための用意をした。
 外出の最終チェックを済ませしっかりと戸締りをし、自転車は使わず走って雷門へと向かった。全速力で走ったつもりだったが、本部に飛び込んだときには既に殆ど全員が集まっているという状態だった。

「遅くなりましたっ」
「おぉ、江波くん! ……まだ全員揃ってはいないが、話を始めさせてもらうとしよう」

 息を整えるのもそこそこに皆に混じると、理事長は目の前のモニターにニュース報道を映し出した。

『――先程襲撃現場で、中学校連続破壊事件の際に宇宙人が学校破壊に使ったものと同一と思われる、黒いサッカーボールが発見されました』
「黒いサッカーボール……」

 円堂が苦々しく反芻するそれは、彼らの愛する学校を破壊したものである。画面に表示された参考資料の写真は、確かに馨が昨日、宇宙人の去り際に一目見たものと同じであった。

「さらに最新情報だ……エイリア学園は財前総理を連れ去っている」

 理事長の言葉にどよめきが奔る。いきなりかつ強引なやり方、しかも誘拐されたのが日本のトップという存在であるため、メンバーも皆動揺してしまっているようだった。
 そこへ、遅れてやって来た豪炎寺が合流した。隅にいた馨のさらに隣に並んだ彼は、一瞬誰とも知らぬ人物を見上げて驚く顔をしたが、すぐにそれが変装している馨だと思い出したようで静かに前へと向き直った。

「揃ったな、諸君」

 改めて、理事長が話を続ける。

「情報によれば、総理は謎の集団に連れ去られたという。この謎の集団は、エイリア学園と関係があるようだ」
「エイリア学園の一員、ということでしょうか」

 静かに問う馨へ、理事長は神妙な顔つきでこくりと首肯した。

「まだ確定ではないが、恐らくはそうだろう。謎の集団は、例の宇宙人と共にいたという目撃情報もある」
「要するに、総理は人質ってわけですね」
「そういうことになるな」

 そのとき、馨の視界の端で微かに豪炎寺の眉が動いたような気がしたが、サングラス越しの不明瞭さでははっきりと見て取ることはできなかった。
 それを気にするより先に、瞳子が数歩躍り出てメンバーの前に仁王立ちする。

「出発よ! エイリア学園とすぐに戦うことになるかもしれないわ」
「瞳子くん、それに江波くんも、円堂くんたちを頼む。情報は随時、イナズマキャラバンに転送する」
「お願いします」
「イナズマキャラバン?」

 誰しも浮かんだ質問を、円堂が率先して声に出した。円堂はちらっと馨の方を向いたが、馨も「頼む」と言われたわりには知らないことの方が多いので、小首を傾げて瞳子たちの説明を仰ぐ他無い。何とも情けないコーチだ。
 そんな面々の反応を見た響木は「ついて来い」と言って、一同を隣室へと案内した。
 重々しい自動ドアを開けた先は真っ暗な空間だったが、パチンという音と共にスポットライトが照らされたことにより、その中央に鎮座していた物の存在が皆の目にも明らかとなった。
 ――イナズマキャラバン。
 晴天の如き青いボディに黄色の稲妻マークが刻み込まれたそれは、メンバー全員が乗っても余裕がありそうな程の大きさをしたバスであった。キャラバンと言うからには普通のバスとは違い、旅に必要な様々な設備が整えられているのだろう。火来校長の説明を聞くに、ここ地下理事長室からキャラバンへは直接通信が行えるので、所謂前線基地として機能させていくことになるという。
 見た目も、そして前線基地という言葉の響き自体も、中学生にとっては格好良いものに感じられるはずだ。キャラバンを見つめる皆の目は一様にきらきらと輝いている。
 さらに、キャラバンの出入り口前には『サッカー部』と書かれた木の板――あの部室にあったものと同じ看板が立てかけられていた。響木曰く「言ってみればここは新しい部室なのだ、だったらこいつは必要だろうが」だそうだ。何とも粋な真似をしてくれる響木は親指を立て、円堂へ向けてにかりと笑ってみせていた。

「とりあえず、荷物だけでも積んじゃおうか」

“新しい部室”に興奮する部員たちへそう言って、馨も全員分の荷物を後部座席に乗せる作業に取り掛かった。
 キャラバンの中へ入ってみると、運転席には運転手の役を任じられたという古株が早くも腰掛けている。もうとっくに準備万端といった状態の彼に、馨も小さく頭を下げて「よろしくお願いします」と挨拶をした。
 キャラバン内は、やはり常用バスに比べて空間に余裕があり、広々とした開放感があった。床は木材を使用しているため、バス特有の無機質な圧迫感が少なく感じる。これならば、長距離移動によるストレスも多少は軽減されるかもしれない。そういう点も踏まえて、理事長たちはこのキャラバンを用意してくれたのだろう。
 通路の広さも人と人とがすれ違えるくらいであったので、荷物を積み込むのは大して難儀なことではなかった。皆がそれぞれ持ってくるバッグを順調に後ろの席へ置いていき――壁山の荷物だけがやけに量が多かった――漸く作業を終えた馨は、一息吐いてからキャラバンを降りた。

「これで全国を回るのかぁ」
「何だかどきどきしますね! コーチ!」

 音無が同意を求めて見上げてきたので、馨も相槌を打って頷いた。緊張とはまた違う類のどきどきならば、馨だって年甲斐も無く感じている。新天地へ至る前の、一種の期待感に似たような感情であった。
 他のメンバーも、相変わらずキャラバンの前でわいわいと賑やかにやっている。こんな状況下でありながら、本当に彼らはどこまでも雷門らしい。いっそ微笑ましい程であった。
 ただ、そんなメンバーを遠目に見ている瞳子は、これから宇宙人相手に戦っていくというのにこんな調子で大丈夫なのかと言いたげな難しい面持ちをしている。そう憂う気持ち自体、解らないこともないが――馨はつい笑ってしまいながらひょこりと彼女の隣に並び、そのシリアスな顔を覗き込んだ。

「みこ姉、顔が怖いよ」
「馨……私は未だに、ちょっと心配なところがあるわ」

 彼らに関して、と言われずとも理解した馨。お堅く組まれている瞳子の腕にそっと触れ、ぽん、と一度だけ軽く叩いた。

「大丈夫だよ、これが雷門の持ち味なんだから。皆のこと信じてあげてよ、監督さん」
「信じるに値するだけの活躍を、彼らが見せてくれたらね」
「またそんなこと言って」

 つんとした言葉選びも瞳子らしいと、馨は笑顔のまま一つ吐息を零した。
 確かに事態は重く受け止めなければならないし、常に真剣に向き合っていかねばならない状況ではある。だとしても、選手個人やチーム全体の雰囲気は必ずしもその限りではない。寧ろ、このくらいの元気と明るさがあってこそ、この先も何とかやっていけるに違いない。少なくとも馨はそう思っていた。
 彼らが彼ららしさを失わないこと、それが雷門にとっては一番大事なことである――いつか瞳子も、それに気付く日が来るだろう。それまでは馨が双方の架け橋となり、どうにか上手く繋いでいくべきなのだ。
 一頻りはしゃぎ終え、やっと落ち着きを取り戻したイレブン。彼らの前に、ここで一時お別れとなる響木が歩み出た。

「しっかりな、皆」
「はい、監督」
「オマエたちはきっとエイリア学園に勝てる。俺は、そう信じているからな」

 そして横にいた馨を見下ろして。

「アイツらを――チームを頼むぞ、江波」
「頼まれました」

 二つのサングラスを通して互いの意志を感じ、強く頷き合った。
「いくぞー! 皆!」「おー!」――やる気に満ちた掛け声がコンクリートの壁に大きく反響し、早速いくつもの足音がキャラバン内へ乗り込んでいく。そんな彼らの背中に続いて、馨もまた車内へと足を踏み入れた。
 席順は、特に示し合わせたというわけではない。それでも全員がきっちりと席に身を落ち着けている。「シートベルトを忘れないでね」と馨が一声かけると、あちこちからカチャンという金属音が奏でられた。一番奥の広いスペースを使用している壁山だけはベルトが腹に引っかかるせいで悪戦苦闘しているようだったので、馨は密かに苦笑いを浮かべた。
 とりあえず、馨も着席する場所を探す。運転席の隣に一つだけ置いてある座席は監督専用スペースだろう。監督にはあるのに、コーチにはそういった席が用意されていないようだ。いっそそこを陣取ってやろうかとも考えたが、後が怖いので大人しく後ろの席を振り返る。すると、ちょうど最前列右側、鬼道の隣が空いていた。

「隣、良い?」

 監督や出入り口とも距離が近いし、ここが最善だろう。そう思って窓側にいる鬼道へ声を掛けると、彼はにこりと微笑んで崩れてもいない姿勢を正した。

「どうぞ。通路側で大丈夫ですか?」
「うん、乗り物酔いとかはしない方だし、何かと動くことも多いだろうから」

「お邪魔します」と言いつつ腰を落ち着けてシートベルトを締めると、鬼道が少し声のトーンを落とした。

「大学には、休学の申請を?」

 こそりと投げかけられたのは確かに尤もな質問だ。馨は首を左右に振って微笑した。

「大学生の夏休みは長いからね、一ヶ月以上かからなければ大丈夫かなと思って特に何もしてないよ。それまでに片がつけばいいんだけども」
「どうでしょう。何せ、相手は宇宙人ですし」
「そうだねぇ、一筋縄でいくかどうか……。まぁ、万が一単位不足で留年ってことになっちゃっても、地球の未来に比べればお安いものでしょ」
「名言ですね」

 ふっと笑う鬼道。使う場所が場所であるからか“地球の未来”という言葉の重みが些か軽くなっている気がして、馨も自分で言っておきながらつい口元を緩めた。実際問題、地球を侵略されてしまったら留年以前の問題になるのだし、言っていること自体は間違ってはいないのだけれど。

「鬼道くんは、ちゃんとお義父さんを説得してきた?」
「いえ、ただ一言家を空けると告げただけです。鬼道家の人間は、いつでも旅立つ覚悟はできていますから」

 すっぱりと言い切った鬼道は、どこか達観したような顔つきである。相変わらずといった様子の横顔に「さすがだね」とだけ返して、馨はふと窓の外へと目を遣った。ちょうど瞳子が響木に向かって大きく頭を下げ、髪を靡かせながら颯爽とキャラバンへ乗り込んでくるところだった。

「イナズマキャラバン、発進スタンバイ!」

 着席と同時に告げられた瞳子の掛け声と共に、いよいよキャラバンを乗せたエレベーターが上昇し始めた。窓の外では赤いランプが上から下へと流れていき、サングラスを隔てていても尚視界をちかちかと明滅させる。その光景を眺めていた目を閉じ、馨は己の胸の内にできた暗闇に静かに浸る。
 ――これから、どうなるのだろう。
 まさか自分たちが宇宙人と戦うために旅をすることになるだなんて、そんな非現実的なことはこれまで全く考えもしなかった。けれどもこれは現実で、自分たちは未知なる相手と戦わなくてはならない立ち位置にいる。
 宇宙人の目的も、正体も、知らなければいけないことは何も知らない。今から始めるのは、未来に何の確約もされていない、暗い霧に包まれているばかりの不確定な旅なのだ。不安、心配、その他様々な感情が一緒くたになって細く渦巻いている。雷門メンバーは、自分は、果たして無事にエイリア学園を倒すことができるのだろうか。
 ――全然、何も、解らない。

「イナズマキャラバン!」

 解らない、けれど。

「発進!」

 ――今はただ、目の前のやるべきことをやるだけなのだ。




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