三者三様の思惑


 やがてミネラルウォーターのボトルと共に戻ってきた少年は、顔を伏せている馨の隣に座ると背中に手を置きながら薬を飲むようにと優しく促してきた。言われるままに懐から錠剤を取り出して口に含み、水で無理矢理喉へと押し流す。下っていく冷たさが気持ちばかり熱を吸収してくれたおかげか、先程よりかはいくらか楽になったような気がした。
 薬を飲み込む間無意識に閉じていた目を開け、馨は改めて少年へと向き直る。

「ごめんなさい……こんなに迷惑掛けて」
「いえ、あんなあからさまに体調の悪そうな方を放ってはおけませんので」
「うん、君が通りがかってくれてすごく感謝してます」
「礼には及びません」

 少年の放つ台詞の一文一文には芯の通った張りがあり、中学生とは思えない程大人びた喋り方をする。いっそ尊厳とも言えてしまうくらいの整然とした言葉選びに、一体どういう教育をすればこんな立派な子に育つのだろうかと疑問すら湧く。隣にある身体は確かに自身より低身長で華奢で、紛れもなく年下のものであるはずなのに、馨はまるで年上の人と会話をしているような気分になった。
 ただ座っているだけでは熱は下がらないし、頭は相変わらず地蔵のように重い。それでも心身共にだいぶ落ち着いてきた頃、何の前触れも無く隣で少年がパチリと携帯を開いた。
 そういえば――そこで先程の彼の言葉を思い出した馨は、慌てて先の行動を遮るように口を開く。

「いや、車は、本当に」
「気にしないでください、迷惑とは思っていません」
「でも……」
「そんな顔をした方に遠慮はされたくないですね」

 えっ、と馨は片手を己の頬へやる。そんな顔と言われても、自分では今どのような面を晒しているのか解らない。とはいえ少年の口振りからして相当酷い様相であるようなので、ますます申し訳無さや恥ずかしさが募る一方だ。
 馨が困ったように頬をペチペチ叩いている隙に、少年は素早い手つきで番号を呼び出し電話をかける。この二人以外は人っ子一人見当たらない公園では、微かなコール音でさえ馨の耳にもしっかりと届いた。
 電話の相手は数回のコールで応答し、それに対し少年は「車を寄越してほしい」という旨を簡潔に伝える。相手もまた一言だけ了解の意を述べ、あっさりと彼らの通話は終了となった。
 ――何だこれは。
 どうやら親や親戚といった類に連絡を取った様子でもなく、飽くまで業務的に完了された車の手配。これではまるでどこかの会社の社長のようではないか。少なくとも馨とは住んでいる世界が違う予感がひしひしと感じられる。

「……どうかしましたか?」
「あ、いや」

 そのあまりにも中学生とは思えない言動や仕種が気になって、ついじっと少年を見つめてしまっていた馨。何でもないと言ってすぐに目を逸らすが、彼はそれを不調の訴えだと捉えたのか、今度は馨に横になることを勧めた。

「まだ少し時間があるので、休んでいた方が」
「いえ……さっきよりだいぶ楽になったから」
「気になるようでしたら、席を外しますよ」
「違っ、寧ろ座ってて……ください」

 こちらの方が年上だというのに、何故だか語尾に敬語をつけてしまう。少年の纏う雰囲気は特別威圧的というわけでもないのに、一挙一動から漂うあらゆるものが一般的には思えず、どうしても距離感が掴みきれない。同年代の円堂や他の雷門メンバーとは大違いだった。
 馨としては本当に横になりたいわけではないし――ここが自宅のベッドならば話は別だが――このままで充分問題は無いのだが、どうも少年は紳士的思考の持ち主らしくなかなか譲らない。横になるのが嫌ならばせめて肩を貸す、とまで言い出した少年は、馨が首を振るたびに歯痒そうに眉を下げる。確かに少年からしてみれば道端で蹲って気絶寸前だった女性を目の前にしているわけなので、無理をさせて今度こそ倒れられたら困ると考えるのも解らないことはないのだが。
 結局、馨がきちんと会話できる程度には回復しているということを証明しただけで、この非生産的な押し引きは終幕した。

「……」
「……」

 そうすると当然、今度は痛いくらいの沈黙が二人の間に横たわる。現状の奇妙さを認識するには充分すぎる静けさに、馨は今更ながら居心地の悪さを感じてしまってならない。公園のベンチにて殆ど見ず知らずの中学生に看病されてじっと座っているなんて、本当に自分は一体何をしているのだろうか。体調管理を怠ったことを後悔したって遅すぎる。
 とりあえず、持ってきてはいたのに何だかんだずっと忘れていたマスクを装着する。いくら相手が帝国の選手だからといって、風邪を移してしまえば恩を仇で返すも同義だ。そんな陰湿な方法で帝国に一矢報いようなどとは思わない。今更かもしれないけれど、着けないよりはマシだろう。
 マスクを着ける際にごそごそと鈍く蠢くと、それまで別方向を向いていた少年の双眸が引き寄せられるように馨へと帰ってくる。そこまで気にしてくれなくても……とは思えども口には出さない。さながら親猫に見張られている子猫のような気分だ。

「……君、サッカー部なんだし、風邪移っちゃったら大変だよ」

 マスク越しのくぐもった声でぼそぼそと呟く。
 少年にはちゃんと聞こえたらしく、相変わらずきれのある返事が返ってきた。

「問題ありません」
「そ、そっか……ごめんなさい」

 会話はまたそこで途切れ、空間はしんと静まり返る。無理に話を繋げる必要は無いと解っていながら、馨はどうしてかこの静寂が居た堪れなくて仕方がなかった。それはきっと、この静寂がただの静寂ではないと直感的に認識していたからなのかもしれない。
 ――馨も少年も、恐らく互いに共通の事柄を話さねばならないと思う意識が心のどこかにはあるはずだ。けれど、ここに至るまでどちらとも切り出そうとはしなかった。馨の場合は切り出し方が解らないという理由と、もう一つは、彼とこれ以上関わり合いになりたくはないという考えが根本にある。
 一方で、少年の思考はさすがの馨にも推し量れない。先程自販機へ水を買いに行く直前、彼は確かに馨へ何かを問おうとしていた。いや、何かというより、何もかもに対し疑念を抱いていたのだろう。そしてそれはきっと、あの日、あの中学校で初めて視線がぶつかり合ったことに起因するものだ。
 しかし結局、少年は馨を尋問することなく、こうして身体を労わりつつ隣で静かに座っている。単に病人相手に追及するのは憚られるという彼の優しさなのか、或いは馨同様、問題の切り出し方が解らないのか。ゴーグルによって目元を隠している少年の横顔は、一切の感情や思考を読み取らせてはくれなかった。
 何も無い空間のはずなのに、そこにはあたかも呼吸すら困難にさせる程の質量が詰め込まれているような感覚。両者の思考が埋め尽くされた上での沈黙は、気を抜くと現実感を奪われてしまいそうなくらい重苦しいものだった。

「……ッは」

 そうやって黙って座っていると、内側に気が向くからか体内を蝕む熱がいっそう熱く感じられる。まだ吐き気は治まっているが、この怠さだけは一貫して変わらずここにあった。

「大丈夫ですか?」

 そんな馨の容態の微細な変化さえ、どうにもこの少年にはお見通しらしい。
 即座に掛けられた案ずる言葉に、馨は二度三度と力無く頷いて返す。

「は、はい……大丈夫、です」
「何故敬語なんですか」
「や、特に意味は……」

 君が全然年下っぽくないから萎縮してます、なんて素直に言うわけにもいかず押し黙る。少年はまだ怪訝そうに小首を傾げていたが、そのうちまた顔をどこかへ向けてしまった。
 こんなにも気分が優れないのだし、もう難しいことは何も考えず、ただひたすらに彼の呼んだ迎えを待っているべきなのだろう。早くも薬が効き始めてきたからか地味に眠気も出てきたので、馨はいよいよ以て意識を手放さぬようぐっと気を引き締めた。
 ついでに手持無沙汰なのを慰める意味も込めて、自分と少年の間に置かれていたミネラルウォーターを手に取り、ゆっくり口をつけようとした――。

「おわっ!」

 途端、いきなり右脇のポケットがぶるぶると振動しだして危うくペットボトルを取り落としそうになった。その声に吃驚したらしい少年もバネが弾くような勢いでこちらを振り向いたので、「ごめん携帯が鳴っただけ」と動揺する声音のまま弁明する。
 液晶を見てみれば、どうやら電話のようだ。発信者の欄には『円堂守』と表示されている。十中八九練習のことだろうと思った馨は、隣に座る彼のことを考えると簡単には通話ボタンを押せない。
 少年も着信に気付いたらしく、ゴーグル越しに馨の携帯を凝視している。円堂という名もしかとその目に映ったことだろう。その後ちらりと馨に向けられた視線は、暗に電話に出られるかを問うてきていたので、それに対しては一つ首肯で答えた。
 少年はさらに問う。

「席を外しましょうか」
「……」

 ――帝国学園サッカー部の生徒に、果たして会話の内容を聞かれても良いのか。
 親指を堰き止めていたそんな躊躇いが、今一度馨の中をぐるりと巡る。円堂と会話をするということは即ち、馨が雷門サッカー部と繋がりを持っているということを彼に教えることになる。いや、もしも少年が馨の想定通りの聡明さを有しているなら、今し方液晶の名前を見た瞬間に大方の予想を立てられただろう。
 ならば今更、何を聞かれたところで今後に変化は及ぼさない。馨はとうに行動を起こし、じきに終えようとしているのだから、今ここで帝国サッカー部キャプテンがどう動こうが変わることはない。
 少年の視線はまるで氷の槍だ。携帯を握り締めて俯く馨を、その芯まで見定めるが如く鋭利に貫き離れない。

「……大丈夫、別にやましい話じゃないから」

 馨はそれだけ答えてから一度深呼吸をし、声音と声調を整え、ようやくコールに応えた。

「――もしもし」
『もしもし、コーチ? オレ……円堂だけど、今良い?』

 聞こえたのは確かに円堂の声音だったが、ひどく落ち着いている様子でありいつもの覇気があまり感じられない。それは果たして機械越しだからなのか、それとも。

「うん、どうした?」
『あのさ、さっきコーチのノートを見たんだ。それで……気になって』
「何が?」

 馨は声色も表情も変えず、あっけらかんと返す。内心、来たか、と覚悟を決めた。
 彼は、彼らは、あのノートの中身を読んだのだろう。
 円堂に託した際に言った通り、あの中には馨の持てる全てを詰め込んでおいた。帝国と試合をするにあたって絶対に必要になる情報を書き込んでおいた。それこそ、あれを読んでDVDの映像と見比べれば大抵の問題は無くなるであろう大切な情報を。
 ――勝利を目指してひたむきに頑張る雷門メンバーにとっては、凡そ必要とは呼べぬ情報を。

『……避けてばっかじゃ、勝てないと思うんだ』

 ――帝国の繰り出す全ての行動のタイミングと、その避け方。
 馨がノートに追記をしたのは、正面からバカ正直に受け止めるためのテクニックではない。タイミングさえ合わせればまずまともに喰らう心配は無いだろうという、逃げるためのテクニックを書き記した。馨の最終的な目標は常にそこだったのだから、迷うことは何も無かったのだ。
 そしてそれが円堂たちの思惑とは大きく外れていることも、初めて彼らと向き合った日からずっと、自覚していることであった。

『帝国の多用するラフプレーとか必殺技とか……いろいろ書いてあってスゲー助かったけど、でも……』

 携帯越しに僅かなりとも円堂の声の届いたらしい少年が微かに眉根を寄せる。
 馨はそれに気付かぬ素振りのまま、詰まる息を整えて会話を続けた。

「……回避することは大事だよ。相手の攻撃の一つ一つが君たちにとって重すぎるし、危険すぎる。まともに相手するくらいなら避けるべきだ」
『けど、それじゃあ必殺技を使われたら勝ち目が……!』
「私はね」

 円堂の言葉を遮るように語気を強める。それまでざわついていた電話の向こうが静かになった。
 ――ずっと胸に秘めていたこと。いつ告げるべきかと思いあぐねていたこと。
 言うべき時は、今なのかもしれない。

「君たちに、ただ傷付いてほしくないだけなんだよ」

 心の奥、もっと奥、真っ暗闇の水底から掬い上げた言葉を、吐き出すように告げる。
 初めからそうだった。そしてこれまでサッカーが大好きな彼らを、サッカーに魅了される輝かしい笑顔を誰より近くで見てきたからこそ、今尚強く思う。
 試合に負けようが廃部になろうが校舎が壊されようが、身体が無事ならそれ以上のことはない。サッカーは学校でなくともできる場所はたくさんあるし、地元チームに入れば今よりもずっと安定した環境でプレーができるだろう。
 けれど。

「現実的に考えて、基礎を怠ってきた君たちに勝ち目なんて一切無い」

 勝利を得るために、二度とサッカーができなくなったりしたら。

「個人の調整はした。ポジションごとも見た、チームプレーも指導した」

 絶望に打ちひしがれる姿は、もう見たくない。

「私は私なりに、できるだけ頑張ったつもりだ」

 だからコーチを買って出た。あんなに真っ直ぐサッカーを愛している子に触れてしまって、避けられるはずがなかった。あの笑顔が曇り、二度と日の目を見なくなってしまう、そんな未来を恐れて。
 ――償いと言われれば、それまでだけれど。

「君たちはそれを活かせば、きっと無事に試合を行える。私はそのためにずっと、皆のことを見てきたの」

 そのことを考えて、今日明日と練習をしてほしい――最後にそう一言添えても、向こうは変わらず静かなままだった。
 込み上がってくる咳を抑えられずに通話口を遠ざけて咳込む馨。ずっと話を聞いていた少年は、依然何を考えているのだか解らない無表情のまま、それでも馨の背中を柔く撫でた。
 その間、どうやら円堂は後ろにいた仲間へ今の馨の言葉を伝えたらしい。馨が再び携帯を耳に当てたとき、背後が先程よりも少し騒がしくなっていた。誰が何を言っているのかまでは判然としないが、少なくとも色良い反応ではないことだけは確かだ。

『……解ったよ、コーチ』

 円堂が、普段よりも低い声で口火を切る。
 馨の脳裏に思い浮かぶ彼の顔に、今だけは笑顔が見えない。

『コーチの指導は無駄にしない。ノートの内容もちゃんと練習する』

 だけど、と一旦そこで浅く息を吸い。

『オレたちは、勝つことを諦めない。諦めたくない。……それだけは解ってほしいんだ』

 円堂の言葉は、愚直な程真っ直ぐに馨の胸へと突き刺さる。彼がいつだって本気でサッカーと向き合っていることを知っているから、その一言一言が強く心に響いて止まない。一瞬、瞼が燃えるような熱を孕んだ。零れてはならないものを堰き止めるよう、唇をきつく噛み締める。

「……」

 馨は、すぐには返事をしなかった。肯定も否定もせずに、ただあらゆる感情を抑え込むため、携帯を握る手に力を込める。その隣、無言で傍観している少年には、馨の手が小刻みに震えているのが見て取れただろう。大人げなく、みっともない姿を晒している自覚は充分にある。けれど、馨にはそれを気に留める余裕など無かった。
 ザアザアという機械音だけが耳を刺激し、電波は無意味に二人を繋ぐ。どちらかが何かを言うか、或いは切ってしまわない限り、このまま永遠に通話が終わらない気すらした。
 ならばその役目は、きっと馨のものであるはずだ。

「……そうか」

 やっとのことで捻り出した言葉は、何の感情も含まない簡素なもので。自分でも驚く程、無感動で無意味な台詞だと思った。けれど、他に言い方があったのかと訊かれれば、解らない。これ以外にまともな返事などできやしなかった。
 それからは互いに事務的な会話――明日は行けないかもしれないという内容だけだが――を交わし、先に通話を切ったのは馨の方だった。結局、最後の最後まで円堂は馨の意見を真っ向から否定はせずにいてくれて、その事実がいっそう馨の心を締め付ける。
 ――許してくれなんて、今更言うつもりはない。
 ただ、仕方がないのだと。そうするしかないのだと。そう思わせておいてほしかった。それだけだった。
 音も無く閉じた携帯を冷めた目で見下ろしてから、懐へしまう。たったそれだけの動作なのに、風邪のせいだかどうかは知らないが、酷く疲れてならない。つい小さく溜め息を吐くと、馨はくしゃりと前髪を乱雑に掻き上げた。

「江波さん」

 話し掛けるタイミングを探っていたのか、少年がそっと馨の顔を覗き込むように動く。ゴーグルのせいで表情は殆ど解らないが、眉間の皺の数が電話の前より増えているのは気のせいではないだろう。

「もしかして、雷門中のサッカー部と何か関わっているのですか?」
「戸惑いなく訊くんだね、君は……」
「はい。気になったので」

 電話の内容がどこまで聴こえていたのかは定かでないが、この態度を見る限り少年は馨の正体をほぼ断定しているようだ。勿論想定の範囲内である。馨はマスクの中で深く嘆息した。

「そうだよ、って言ったら、どうする?」
「……どうもしません」

 少々の間を置いて返ってきた答えに、馨はわざとらしく片眉を持ち上げた。

「どうもしない? 君のところの監督さんに報告とか、しないんだ」
「しません。俺は公私を混同させるつもりはありませんし、今更そんなことをしたところで何も変わりませんから。俺たちには然して関係の無いことです」
「まぁね」

 徹底的に線引きをする冷たい口調ではあったが、少年の言うことは間違っていない。
 雷門中サッカー部と繋がっている馨が帝国学園サッカー部のキャプテンと接触したところで、明後日に控えた試合に大した変化が齎されることはない。万が一少年が自チームの監督にそれを伝えたとして、事態を良くないものと捉えた監督が行動を起こすならば、この直前具合ではせいぜい試合に出す選手を入れ替える程度が限界だろう。けれどもその手段とて馨の指導の下では意味を成さない。円堂たちが真剣にノートの内容を学んでくれるなら、帝国のどの選手相手でもきちんと試合を行えるはずなのだ。
 きっぱりと言い切ったきり口を噤んだ少年は以降、馨の詳しい肩書きまでを探ろうとはしなかった。とはいえ、会話内容から馨が指導者的立ち位置の人間であるという結論にはとうに辿り着いているだろう。相も変わらず何を考えているのか解らない大人のような顔付きで、姿勢良くそこへ座っている。
 馨はそんな少年を尻目に、改めて片手に持ったままだったミネラルウォーターを飲み、蓋を閉める。その一連の動きを目で追っていた少年が、不意に口を開く。

「……僭越ながら言わせてもらいますが」

 本当に、一体これまでどんな教育をされてきたのだろう。
 思わず苦笑すら湛えてしまいそうになる堅苦しい切り出し方に、馨はぱちりと一つ瞬いた。

「どうぞ」
「先程の言葉が全て貴女の本心だとしたら、あまりにも脆弱すぎると思います」
「脆弱、と……」

 彼の言う“先程の言葉”とは、馨が円堂との電話で言っていたもののことであろう。
 馨は自身の言ったことを思い返しながら、もう一度「脆弱」と小さく復唱する。

「勝負に負けても良いから、などという考えの下で試合をするのは、無意味ではないでしょうか」

 無意味。
 再び少年の放つ単語を音も無く繰り返せば、馨の瞳に薄らと鈍色が灯る。

「負けることに、意味は無いと思います」

 ――勝つことにこそ、意味がある。
 何の迷いも躊躇も無く述べられたその言葉には、彼の勝負に対する考え方が明確に含まれていた。いつか誰かが言っていた勝利への考えが、ゴーグルの奥に潜む少年の目からも確かに感じ取れる。そして同時に、彼はまさしく帝国学園サッカー部のキャプテンなのだと、痛い程に再認識させられた。
 少年がどうして自分に向かってこんなことを言おうと思ったのか、あの言葉を否定しようとするのか、そんなことは訊くまでもない。

「……うん、解ってる」

 それが、彼の中では当たり前な考えなのだ。
 彼のいる箱庭の中では、その思考が全てであり、絶対なのだ。

「確かに私は、脆弱な考えをしている。勝てなくてもいいだなんて、逃げてもいいだなんて、弱い人間の考えだって。自分でも解ってるよ」

 円堂に言ったことを全否定する台詞を、馨は何の衒いも無しに吐き出す。半ば自棄になって吐き捨てられるそれは、己自身から飛び出す謂わば呪言だ。自衛の言葉だ。いつしか簡単に揺らいでしまいそうになる自分の心を縛りつける鎖だ。解っている、と何度でも言い聞かせることで、馨はやっと前を見据えることができる。そうすることでしか前に進むことができない。
 そうさ、少年からすれば脆弱で、情けなくて、みっともなくて、目の前の脅威から尻尾を巻いて逃げるだけの雑魚にしか映らないだろう。そんな人間が指導者だなんて、いっそ認めたくもない程のことであろう。
 ……だからどうした。それが何だ。馨にとって少年に、雷門メンバーに、どんな目で見られどんな思いを抱かれようが知ったことではない。弱かろうが憎まれようが、最後に目的を遂げられるのならば馨にはそれが全てとなるのだ。
 はらりと落ちてきた前髪を指で払う。馨は、まんじりともせずに耳を傾けている少年に身体の正面を向けた。

「それに、君のサッカーに対する考え方も、理解はできる」

 決して賛同はせず、しかし否定もまたしない。
 場違いな微笑と共にそう投げかければ、少年は暫し沈黙し、やがて不可解そうに首を傾げた。

「……不思議な人ですね、貴女は」
「よく言われるよ」

 馨の、病弱だからという理由だけでは説明のつかない不安定な意思に気が抜けたのか、少年の声に年相応の色が宿る。その肩がかくりと下がったとき、馨は彼がやや撫で肩気味であることに初めて気が付いた。連動し、非現実的な存在と化していた少年がまだ中学生であることを思い出すと、何故だか仄かな安心感を覚える自分がいた。
 それから数分して、少年の手配したという迎えの車がやって来た。見た目からしていかにも高級そうな黒塗りの車だ。車種などにはさっぱり疎い馨でも、明らかにそれが外車というものにカテゴライズされることだけは解った。
 馨は再び少年に支えられながら車のもとへと向かい、頭を下げつつ後部席へと座る。もうどう考えても一般人の乗れる代物ではないということをシートの感触が物語っているが、今更逃げ出しても仕方ないので大人しく腹を括ることにした。
 少年はてっきり助手席にでも座ると思っていたのだが、予想外に馨の隣へと着席した。住所を尋ねられたので素直に答えると、彼はそれを運転席でハンドルを握っているスーツの男性に告げる。馨と会話するとき以上に硬質な口調。中学生には似合わない、言うなれば命令に近い口調だった。
 ――これは、恐らくどこかの御曹司か何かに違いない。
 余計なエンジン音も無くスムーズに発進する車。その車内でほぼ確信を抱いた馨は密かに頭を抱えたくなっていたが、隣にいる少年はそんなこと露程も知らない。時々横目で馨の様子を窺っているのも、純粋に体調を思い遣っての仕草なのだろう。あんな、負けることには意味など無いと言い切るまでの非情さを持っていながら、素の彼の心根はとても優しい。それを感じることができると、不思議と馨の中に嬉しさによく似た思いが生まれた。
 車は住宅街をゆっくりと走っていく。さすが高級車とでも言うべきか、余計な振動も無く体調不良の馨でも問題無く乗車していられた。
 次第に自宅へ近付いているのを窓の外の風景で悟り、馨は一度きゅっと唇を引き結んでから、乾いた喉をこじ開ける。

「……一つだけ、良いかな」
「何ですか?」

 これ以上の関わりは持たないと決めた、その気持ちに嘘は無い。
 けれど馨は、せめてこれだけは知っておきたかった。

「君の名前を教えてほしい」

 危機一髪だった自分を助けてくれた少年の名前。あの日、あの男の隣にいた帝国サッカー部キャプテンの名前。自分の名前を知っていた、その存在の名前。
 訊いたところで不自然ではないし、少年からしてみれば自分ばかりが相手の名を知っているというのは不公平だと思ったのだろう。彼は特に大したこともなさそうに、簡潔に答えた。

「鬼道有人です」

 鬼道――どこかで聞いたことのある苗字だが、いまいちはっきりとは思い出せない。ただ珍しい苗字なので、一度聞けばそう易々と忘れることもなさそうなのだが。
 記憶の中を探っても正解どころか手がかりすら見つからない。詮索を止めた馨は「良い名前だね」とだけ返し、ふいと窓の外を見てみた。見慣れた景色、自宅はもうすぐだ。

「鬼道くん、本当にありがとう」
「気にしないでください。少しはマシになられたようで何よりです」
「うん、一人でいたときより随分楽になった気がするよ」

 タイヤの擦れる音のみ響く静かな車内で、ぽつぽつと囁き紛いの会話を交わす馨と鬼道。盛り上がりも盛り下がりも無い、けれど公園のベンチに比べれば居心地が良く感じられる、不思議な空間。
 一人でいるときよりも鬼道といたときの方が気分が安らいだのは本当だ。見知らぬ人なのに、始めから親身に接してもらえたおかげで警戒することなく安心感を抱けた。本当に歩くこともままならぬ程に辛かったところを、紛れもなく鬼道が助けてくれたのだ。
 なのに、彼は真顔でこう返す。

「薬のおかげですよ」

 そんな子どもらしさも可愛いげも無い返事に、馨はとうとう隠しきれない笑みを零してしまった。どうして笑うのだという訝しげな眼差しをかわし、鬼道の眉が理解し難そうにハの字を描くのを見て、また笑った。
 最初こそ堅苦しいと感じていた空気にもそろそろ慣れてきたという頃、車は馨の自宅前に着いて緩やかに停車した。

「ご迷惑をおかけしてすみませんでした、ありがとうございます」

 運転手にも丁寧に挨拶し、車を降りる。後部座席の窓を開けた鬼道にも謝意を伝えてから背を向けた、そのとき。

「最後に、一つ……!」

 突発的な鬼道の声に、動き出しかけていた足がぴたりと止まる。
 馨は振り返らず、目の前の何も無い宙を見据えたまま、彼からの最後の質問を待った。
 鬼道は躊躇っているのか少しの間を置いたが、やがて思い切ったように先の言葉を放つ。

「影山零治という人を、知っていますか?」

 ――影山零治。
 その名を聞いたとき、すうっと、身体の中心を冷たい何かが滑り落ちていった。
 知っていますか、と問われれば、答えは。

「知ってるよ」

 端的に答えながら振り向き、口端だけ上げて見せる。知っている――それ以上に何も言うことはない。
 鬼道は、ただ黙っていた。馨が続きを紡がないように、彼もまた自身の問いに付言はしない。ドアを隔てた車の中と外、また公園にいたときのような奇妙な沈黙が広がり、波紋一つ生まないそれは二人の間に圧倒的な壁をつくりあげる。
 ――彼が、何を思ってそんな問いをしたのかは知らない。知ろうとも思わない。
 馨はずっと、口元だけで笑い続ける。鬼道の気が済むまで、彼が次の行動を起こすまで、いつまでもこのままでいるつもりだった。それを察したのか、鬼道は言葉も無く一礼をすると窓を閉めた。磨き込まれた透明のガラス越しに見えた横顔からは、やはり彼の一切を読み取れない。それで良かった。
 やがて、車は閑静な住宅街にエンジン音を響かせながら走り去っていく。馨は真っ黒な影が見えなくなるまでその場を動かなかった。姿かたち、そして微かな走行音さえ聴こえなくなったところで、やっと首を自宅の入口へと向ける。

「ハァ……」

 まるで長旅をしてきたような気分だった。
 身体の熱も、怠さも、背中に纏わり付く寒気さえ全てが紛い物にすら感じる。雷門にノートを届けるために家を出たことも、もうずっと昔のことに思えてならない。
 ――早く休もう。
 考えるべきことはたくさんあるはずだが、こんな頭では何も弾き出せはしないだろう。
 今はただただ、眠りたかった。




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