鬼道有人の記憶
――俺が初めてその人を見たのは数日前、練習試合で訪れた名も知らぬ中学校でのことだった。
平日の夕方から行われる予定のその練習試合は、簡潔に言ってしまえばイレブンのチーム調整のために組まれたようなものだ。目的は個々のプレーとポジションごとの連携の確認及び調整なので一応多少は得るものもあるだろうが、正直力の差が歴然すぎるためチーム全体のやる気もあまり上がらない。俺自身、こんな弱小相手の練習など得るものも無いので、さっさと終わらせてしまいたい気持ちが強かった。
それは、そんな生温い空気の中での出来事だった。
試合前にウォーミングアップをするメンバーから外れ、珍しく下に降りてきていた総帥と作戦について話をしていたとき。
不意に、総帥の目がある一点を定めているのに気が付いた。
「総帥?」
声を掛けても無反応。もう一度呼ぼうとしたが、止めた。
一体どこを見ているのだろう――総帥の気を引くものというのが想像つかず、俺も気になって視線の向かう先へと顔を向けた。
――女性?
そこには、ここに不釣り合いな格好をした一人の女性がいた。生徒にも教員にも見えない辺り、外部からの来訪者だろうか。試合を見に来たようには思えないし、恐らく学校側に用があるのだろう。
何の変哲も無いその人。しかし総帥の瞳は依然として彼女を見据えている。理由は解らない。
「総帥……」
人混みを掻き分けて校舎の壁に片手をついた女性。
総帥と同じようにその姿を目で追いながら、浮かんだ疑問をそのまま率直に訊いてみた。
「あの女性は、お知り合いの方ですか?」
「……あれは私の知り得る限りで、最もバカな奴だった」
「バカ?」
総帥のようなお人にも拘わらず、やけに直接的で短絡的な表現だ。けれどもその真意は解らず、寧ろ具体的すぎる表現のせいで意味が複雑になっている。総帥の中にある“バカ”の定義を、俺は知らない。
俺の鸚鵡返しに無言で頷いて見せた総帥は、唇を殆ど動かさずさらにその先を続けた。
「しかし有能だ」
――いや、有能だったと言うべきか。
そう語る口振りには、長さこそ知り得はしないが時間の差を感じられた。
バカなのに、有能。
総帥にそこまで言わせる人物、とは。
「……過去に、あの方と関係がおありで?」
「お前には必要の無い情報だ」
探るような視線を向けた途端、突き放された。
「……失礼しました」
これ以上を語りたくないのかと思えたが、きっと違う。
閉ざされた先に繋がるであろう話は、十中八九総帥とあの女性についてのことなのだろう。今の俺が二人についてを知ったところで、これからの試合に有利なわけではないのだ。つまり、不必要。俺が得たところで何にもならないであろう情報。
総帥は要るものと要らないものの線引きがはっきりしている。迷うことが無い。要ると判ればすぐに手に入れるし、要らないと判ったらすぐに棄てる。
そういう性格だからこそ、勝利に近い存在となれたのだ。俺は知っているし、だからこそ信じている。
総帥の言うことに、間違いは無い。
「お前こそが帝国学園サッカー部のキャプテン、鬼道有人だ」
「はい、総帥」
条件反射のように即座に応え、しかしふと考える。
“こそが”とはどういう意味なのだろう。
やはりあの女性は、総帥の、もっと言えば帝国学園サッカー部に関わっていたのだろうか。ということは、彼女はマネージャーとして有能な人材だった? でもわざわざキャプテンを強調したのは、何故……女性なのに……。
「余計なことは考えるな、お前は目の前の勝利だけを見据えていろ」
鋭利な台詞が、俺の思考を一気に掻き消した。
無意識に下がっていた目線を上げ、総帥と面を合わせる。いつの間にか俺を見ていた総帥は、普段よりほんの少し冷たさの増した顔をしていた。
そのまま、再び先程の女性を見遣ったので、俺もつられるようにして同じ方向を向いた。
すると――目が合った。
「あ……」
バチリと火花でも散りそうな勢いでぶつかった視線。
女性は瞬間、遠目でも判るくらい目を見開いた。
明らかな衝撃と動揺、そして微かに憎悪の見え隠れしている表情。とても初見の反応ではないとすぐに見て取れ、こちらからも真っ直ぐその瞳を覗いてみれば、何故か無機質な“何か”を見つめている気分になった。彼女の内側に、言いようのない仄暗い闇に似たものを覗いた気がして、背筋がぴりっと痺れる。
まるで、水銀のような人だ。
そのように感じたわけは自分でも曖昧で、判然としない。直感的なものだったのかもしれないし、総帥との関係が印象の強さに拍車をかけただけかもしれない。
――ただ、一つだけ言える確かなことは、彼女が普通でないと感得したことだ。
「……」
実際に目が合っていたのは僅か三秒程のことだ。女性は我に返ったようにすぐに顔を背け、一目散に校舎の影へと走り去ってしまった。
「よく覚えておくと良い……あれが弱者の顔だ」
さながら逃げるように消えた彼の人。完全に姿が見えなくなってから、総帥は静かにそんなことを仰った。
俺は言葉の深い意味を考えないまま、黙ってこくりと首を縦に動かした。自然とそうなったと言った方が正しいかもしれない。
きっと、そう言われずとも忘れることはないだろうという、確証の無い自信めいたものはあった。どうしてか解らないが、彼女の表情が網膜に貼り付いて消えなかった。
「選手、並んでください!」
グラウンドから審判の声が掛かる。そこでふっと、今自分はユニフォームを着ているのだということを思い出した。
さあ、試合だ――気持ちを切り替え総帥に一礼してから、他のメンバーに合流すべく背を向けて足を踏み出す。
「……江波馨」
そのとき唐突に聞こえたものは、恐らくあの女性の姓名。
総帥自身が説明したわけではないし根拠といえる根拠も無いが、俺はそう確信していた。
それからずっと、俺は江波馨という名を忘れられずにいた。
――俺にとって、不必要な情報。
そうは解っている。総帥がそれ以上の詮索を許さないのも解っている。俺が知ったところで何にもならないことだって解っている。
けれど、理屈ではなく。
あの日覗いた水銀のような瞳が、どうしても拭い去れなかったのだ。
| | |