焦げ付いた約束


 結果的に二回目の戦いでもジェミニストームを打ち負かすには至らず、雷門イレブンは再び体勢を立て直すことを要された。
 幸い、試合の後半に全員がオフェンスに回ったことによってメンバーの身体への負担は軽減されており、唯一円堂だけが未だに気絶から目覚める気配が無い。それでも大きな怪我を負ったわけではないので、あとは彼が目を覚ましてから改めて手当てを施せば大丈夫だろう。
 現在、一同はキャラバンに乗ってシカ公園に戻っている最中である。最低限の応急処置を済ませた円堂は最後尾の座席に寝かせ、その隣の壁山に様子を見てもらっている。あとの者たちは、シカ公園からテレビ局へ向かう道中と同じく、いやそれ以上に、何とも言えない重たい空気を纏って沈黙を続けていた。
 正直、雰囲気は良くない。原因はいろいろあるだろうし、その大凡も馨は把握できているつもりでいる。ただ、今はそれ以上に気にしなければならないことが目の前に提示されているため、背中に感じる空気に内心溜め息を吐きこそすれ、何か手を打つまでには及ばなかった。
 馨は、手に握ったままの携帯を徐にパチリと開いた。つい先程受信したばかりの鬼瓦からのメールを呼び出し、再三目を通す。

『すぐ対応する』

 豪炎寺についてのリークに対する返信。たった六文字だが、これ程までに安堵できる応えも無いだろう。
 さらに瞳子の方でも鬼瓦との連絡を取り始めたようで、今も彼女は馨の隣で携帯を見つめている。静けさに包まれたキャラバン内では通話をすれば筒抜けとなってしまうため、今のうちはメールでのやり取りをしているのだろう、時折その親指が忙しなく動いているのが窺えた。
 今回の件、やはり現在察知している人間以外には秘匿しておくという方針でいくようだ。同じチームメンバーであり仲間である雷門イレブンにも、万が一のことを考えれば詳細を伝えることは難しい。脅されているのは豪炎寺とはいえ、最も危惧しなければならないのは人質状態となっている夕香の安全である。夕香の身柄が保護できるまでは、事を大きくしてエイリア学園側を刺激する事態を避けたい――カチカチと微かに耳を掠めるキー音も、そのための最善策を大急ぎで検討してくれているように聴こえた。
 やがて、パチンという音と共に瞳子が携帯を閉ざす。

「馨」

 呼ばれるのと同時に馨も携帯を閉じ、鞄にしまう。
 見上げた先にある深い緑の双眸が、一つの決断を下すかの如く薄らと細められた。

「少し、お願いしたいことがあるわ」


* * * * *


 夕陽が生い茂る木の葉によってきらきらと砕かれる、東京と変わりの無い奈良の日暮れ。
 キャラバンが公園内に帰還し、途中で目を覚ました円堂とマネージャーのみを残してメンバーは一旦外に出る。瞳子は携帯を片手に持ったまま外れの方へ歩いていったが、あまりにさりげなかったため誰も気付いてはいない様子だった。そもそも、現在の雰囲気は独りで出歩く監督をいちいち気に掛けられるようなものでも無さそうであるが。
 円堂の処置はマネージャーたちに任せ、馨もキャラバンを降りる。扉を閉めつつ振り向くと、様々な表情を浮かべた少年少女たちが揃って唇を一文字に結んで立っていた。一部を除いて、今にも募るものをぶちまけたそうにしているのが見るだけでも判る。
「コーチ」――最初に口を開いたのは風丸だった。何を言いたいのか予想はつくし、話を聞いてやりたいのも山々ではあるけれど、今の馨にはあまり時間が無い。腕時計を確認してから、心底申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「ごめん、用事があるから少し外すね」
「用事?」

 馨が部員の話を聞かないなんて珍しいと、何人かはきょとんとした顔をした。馨は肩から提げた鞄を抱え直しながら「急用でね」と返し、片手を挙げて詫びてから足早にその場を離脱する。突然の急用で飛び出していくコーチのことを皆奇怪なものを見る眼差しで見送っていたが、最後に目が合った豪炎寺だけは何かを察したように面を歪め、ふっと目を伏せた。
 道順は、キャラバンが入ってきたときとそのまま逆を行けば良い。雑木林の中に伸びる砂利道を抜ければ、破壊された石像が未だ傷ましい公園中央部に出る。そこから真っ直ぐ続いている拓けたコンクリートの道を進み、川を渡り、もう一つの雑木林を抜け、そうして凡そ十分程歩いたところで漸く公園入り口に到着した。
 思ったよりも徒歩で横断するのは厳しいな、と大きく息を吐き出した馨。すると、そのすぐ近くに一台の車、所謂タクシーというものが滑り込んできた。停車したもののエンジンはかかっており、ウィンカーも出していない。運転席を見ると、そこに座っているのは一般的なタクシー運転手ではない、キャスケット帽を被った私服の男性だった。それを確認してから馨が会釈すると、後ろのドアが自動で開かれた。

「わざわざすみません、ありがとうございます」
「いえ、鬼瓦先輩から話は伺っておりますので」

 身を捻じ込むようにして後部座席に乗り入れると、キャスケット帽の男性――鬼瓦の後輩であり奈良県警の刑事でもあるその人は、「閉めますよ」と言ってからドアを閉めてくれた。機能的に、どうやら見た目だけではなく中身もきちんとタクシーであるらしい。馨は座席に腰を沈め、きょろりと中を見渡してみた。

「車を回してくださるとは聞いていましたが、まさかタクシーだとは思いませんでした」
「この方が何かと怪しまれないかな、とのことです。ここは観光地ですし、タクシーならうんざりする程そこらを走っていますからね。カモフラージュにはうってつけですよ」
「なるほど」

 刑事は肩越しに振り向きつつにこりと笑ってから、早速本題を切り出した。

「さぁ、まずはどこへ行きましょう」

 それまで柔らかかった声音に仕事特有の真摯さが混ざったことで、馨も共鳴するように顔つきを引き締める。

「とりあえず、どこでも良いので男性用の服が買えるところをお願いします」
「了解です」

 刑事が前を向き、サイドレバー、次いでサイドブレーキを操作する。程無くしてアクセルが踏み込まれれば、車はお手本のような滑り出しで目的地に向けて発進した。
 ――数刻前、馨は瞳子から一つの“お願い事”をされていた。その内容を一言で表すならば『豪炎寺のための買い出し』である。
 これからどういった手筈によって豪炎寺、そして夕香の安全を確保していくのか、その詳細内容については今現在瞳子と鬼瓦が相談をしている真っ最中だ。決まり次第馨にも連絡をしてくれるとのことなので、ひとまずはあの二人に任せておけば良いだろう。
 ただ、詳細を詰めるよりも前に、既に決定せざるを得ない結論がある――豪炎寺は、チームを離れなければならないということだ。
 このまま雷門イレブンに同行を続けたところで、豪炎寺は満足なプレーをすることができない。それどころか、彼のプレー一つで夕香の身を危険に晒すことになってしまう。本人とてそのような緊迫しきった状況にいつまでも耐えられるわけもないし、そんなエースストライカーの存在はチームに決して良い影響を与えない。彼が今後も在籍し続けることは、状況的にも明らかに不可能なのだ。
 どのみち、豪炎寺には一度どこかに避難してもらうことになる。
 そこで瞳子は馨に、避難のための準備をするよう頼んだのだ。その際必要になる足を確保するため、鬼瓦がちょうど奈良にいた後輩刑事に話を通し、こうして手伝いをしてもらうに至るというわけだった。

「本当は、すぐにでも警察で豪炎寺修也を保護した方が良いのでしょうが……如何せん、人質が取られていますから」
「下手な動きはできませんよね。豪炎寺くん自身も、それを一番気にしていると思いますので」
「えぇ。警察を大々的に動かせない分どうしても移動のリスクは高くなりますし、心苦しいところはありますが」

 被害者がすぐ近くにいるのに何もできないというのは、やはり警察の人間からすれば非常に歯痒いものなのだろう。豪炎寺と直接の縁は無いこの刑事も、悔しそうにハンドルを握る手に力を込めていた。

「向こうは豪炎寺くん本人に対しては攻撃していないので、恐らく離脱さえすれば本人の安全は何とか保てるんじゃないかとは思います。あとはエイリア学園の目的が何なのか、そこが解れば良いんですけどね……」

 あの謎の三人組がどこからどこまでを見張っているのかは定かでない。
 今のところは試合中のみしか姿を目撃してはいないし、彼らの目的は豪炎寺が試合に於いて活躍しないこと、その抑止力になることなのかもしれない。あの強力なシュートを危険視している程度ならば、チームから外れてエイリア学園との戦いに参加さえしなければ、少なくとも夕香や豪炎寺自身に対して危害を加えるまではしないはずだ。そうでないと、今日の時点で豪炎寺が無事であることに説明がつかなくなる。
 と推測したところで所詮推測でしかないし、これが楽観視である可能性だって否定できない。エイリア学園についてはまだまだ解らないものだらけであるが、ともかく備えるに越したことはないだろう。
 何にせよ、まずは服装を変えて少しでも相手の目を欺かなければ――窓の外を流れる橙色の古都の風景を楽しむ余裕も無いままに、タクシーはとある一軒のアパレルショップに到着した。
 刑事には待機をしていてもらい、馨だけが足早に入店する。「いらっしゃいませ」とどこからともなく響く店員の声を耳に入れつつ、子ども用の衣装コーナーに向かった。子ども用、しかも男児用の服など普段物色する機会などないため新鮮ではあったが、できればもっと楽しい気持ちで選べる機会を得たいものだ。

「顔を隠すならフード付きか……じゃあジャージよりパーカーの方が良いな」

 店員が目を付けてくる前にさっさと選んでしまいたい。目星をつけたパーカー類がかかっている列にざっと視線を走らせると、たくさん並ぶその中で鮮やかなオレンジ色がとりわけ目を引いた。
 殆ど反射のようにそれを手に取ってみると、濃いオレンジ色の中に紺色のラインがアクセントとなっていて、何となく豪炎寺を連想させてくれるように感じられた。豪炎寺の放つ炎のシュートのように燃え盛る鮮やかな色彩――上着はこれに決めた。
 下のズボンは適当にカーキーのカーゴパンツ、靴もそれに合わせて地味な色合いの普通のスニーカーを選ぶ。コーチとして豪炎寺の服や靴のサイズを把握していた自分に感謝しながら、その三点のみを持って会計を済ませ、馨は店をあとにした。一体どれくらいの期間豪炎寺を匿うことになるかは解らないが、とりあえずは無事に移動が完了できれば良いのだ。極力荷物は増やせないし、足りない分は現地で補ってもらう他無い。
 馨が店を出た時点でタクシーの後部ドアが開かれたので、購入したものが入った紙袋ごと身体を入れる。「次はどこへ?」と訊ねる刑事に対して「地図が欲しいです」と告げれば、すぐに車が動き出した。
 馨は常備しているコンパクトサイズの裁縫キットを取り出し、買ったばかりの服の値札等を切り離す。糊によってぱりぱりしているパーカーは些か着心地が悪いかもしれない。ごめん、と自分でもよく解らない謝罪を胸中で呟いてゴミをゴミ箱に投げ入れたところで、不意に鞄が振動しだした。厳密に言えば、鞄の中の携帯が、だ。
 裁縫キットをしまうと同時に携帯を取り出す。発信者は瞳子だった。

「もしもし」
『私よ。予定が決まったわ』

 機械に通していても芯のある声音が、一切の余談を許さずに結論を告げる。

『彼には暫く沖縄に滞在してもらうわ』
「沖縄?」
『詳しいことは省くけれど、そこに協力者がいるの』

 沖縄――日本の最南端にある都道府県。豪炎寺や夕香の所在地である東京からは距離があるという点で言っても、確かにそこは一時的な掩蔽(えんぺい)に適した場所だ。瞳子の述べた“協力者”というのが気になったが、省かれたということは大して重要な情報はそこに含まれていないのだろう。
 馨は再度「沖縄」と口内で言葉を反芻させ、脳内にここからの経路を描く。

「飛行機使うルートで行って大丈夫かな。路線とフェリーでも行けないことはないけど、さすがに時間がかかるし」
『そうね、動いていることに気付かれるのは避けたいから航路にしましょう』
「じゃあ今日……はさすがに厳しいし、明日の航空券予約したほうが良いか。ついでに今晩のホテルも取っておくよ」
『よろしく頼むわね。公園前に戻ったら連絡ちょうだい』
「解った」

 通話を切った携帯で、そのまま航空券とホテルの手配を行う。世間は夏休み期間ということで少し懸念されたものの、どちらもきちんと確保することができた。
 奈良には空港が無いため、今日のところは奈良から大阪へ移動した後近くのホテルに宿泊し、明日改めて空港へ向かうという手順を取る。飛行機にさえ乗ってしまえばあとは一眠りしているうちに沖縄本島へ到着するので、このルートで行くならば地図は必要無さそうだ。購入してしまう前で良かった。

「すみません、地図は大丈夫になったのでコンビニと、あと雑貨屋に寄ってから公園へ戻ってもらって良いですか?」
「お任せください」

 刑事は気持ち良い笑顔で了承してからハンドルを切り、近くの駐車場を使ってUターンをした。
 公園までの道すがらコンビニに停まり、そこで航空券の支払いを行った。ここで受け取った領収証と確認番号とを豪炎寺に渡しそびれなければ問題無く搭乗できるし、もしうっかりしてしまったとしても当日券が残っていれば大丈夫だ。さらにATMへ寄って引き出したお金をまるごと封筒へ突っ込んでから、馨は再びタクシーに乗り込んだ。
 次に赴いた雑貨屋では、中くらいのショルダーバッグと財布、その他最低限必要になる生活雑貨を購入した。先程引き出したお金をその薄っぺらい安物の財布の中に移すと、ぺらぺらだった皮がそれなりに膨らんで見栄えが良くなった気がする。それを始めとして、買ったものを全てショルダーバッグに詰め込めば、これから豪炎寺の持ち歩く手荷物の完成となった。
 そんなこんなで用事を済ませ、早くも太陽が地平線の向こうに消えてしまいそうになる頃、タクシーは奈良シカ公園前へと帰ってきた。馨は素早く携帯を入力し、瞳子に帰還のメールを送る。数秒と経たずに『待っていて』という簡潔な返信が届いたので、暫くはそこで待機する時間となった。
 ここで馨に待機をさせるということは、瞳子は現在、豪炎寺に対して離脱宣告を下しているのだろうと推察される。それが本人にのみ個別での通告なのか、それとも敢えて皆の前で行っているのか、ここにいるだけでは解らない。
 だが、どちらにせよメンバーは豪炎寺の離脱を知ることとなる。それも、本当の理由は伏せられたままの離脱を。
 瞳子は、本当の理由の代わりに果たして何と言うのだろう。
 チームから外すための道理なんてそうそう思いつきはしない。一つは身体の故障。もう一つは実力の不足。そしてつい数時間前に行ったジェミニストームとの戦いでの豪炎寺を振り返れば、自ずと答えは見えてくる――豪炎寺は、瞳子によって戦力外通告をされるというかたちで、あのチームを離れることになるのだ。
 それはきっと、いや絶対に、メンバーにとって大きな衝撃と共に瞳子への不信感を生むことになる。ただでさえ彼女の言葉足らずな態度に腹を立てている中で、それを何か決定的なものに感じてしまう者も出るだろう。当然湧いてくる反発を、しかし瞳子は一切無視して決断を遂行するだけだ。他でもない豪炎寺のために、そうしなければいけないのだから。

「……」

 馨はこうして裏方として奔走しているため、結果的には憎まれ役を全て瞳子に押し付けるかたちになってしまっているように思えてならない。それこそが瞳子の目的であるかもしれないが、あまり良い気分でもなかった。だからといって、馨まで豪炎寺を戦力外通告してしまってはどうしようもないのだ。この後皆のもとへ戻った際、きちんと普段通り振る舞えるかどうか少しだけ心配だった。
 心配といえば、一番は豪炎寺である。彼ならば瞳子の意向を汲むことくらい容易いだろうが、事情を隠したうえで大事な仲間と決別しなければならないのは大きなショックに違いない。その心境を考えるだけで胸が痛み、馨の方がひどく塞ぎ込んでしまいそうにもなった。
 しかし、塞ぎ込んでいる場合ではない――窓の外、遠くから一つの人影が歩いてくるのが見えた瞬間、馨の中でパチンとスイッチが切り替わった。
 馨は自身の隣に占拠していた荷物を退かし、人一人分のスペースをつくる。それから窓を開けてじっと影を見つめていると、やがて向こうもタクシーの存在に気が付いたらしい。逆光になっているため中に誰が乗っているかまでは見えないのだろう、重くなった足取りからしてやや警戒しているようでもあった。
 馨は周囲に目を配らせ、他に誰もいないことを確認するとドアを開けて外に出た。そうすることによって、あちらは漸くそこにいる人物が解ったようだ。遠目から判るくらいに目を丸くしてから、それまでの愚鈍さが嘘のような駆け足で馨の前まで向かってきた。

「馨……!」
「豪炎寺くん、待ってたよ」

 案の定荷物を持っていない手ぶらの豪炎寺が、タクシーと馨とを交互に見交わした後に馨の顔をじっと見上げる。普段の彼が浮かべるクールなポーカーフェイスは今や完全に影を潜め、そこにはただ、何もかもを堪えている少年の悲痛さだけが浮き上がっていた。
 馨は瞬間的に湧き上がるものをぐっと抑え込むと、「さぁ」とその背に手を触れ、開きっぱなしのドアの方へやんわりと押し出す。

「乗って。話は中でするから」

 豪炎寺は言われた通り素直に車内へ乗り、馨も続けて隣へ座る。バタンと閉められたドアに僅かながら名残惜しそうな視線を向けた豪炎寺だったが、次いで座席に用意してある荷物を見て瞬きをした。

「これは……」
「刑事さん、駅までお願いします」
「了解」
「刑事さん?」
「とりあえず君は落ち着いて」

 すっかり状況が読み込めていない豪炎寺の肩をそっと撫でると、彼はいかり気味になっていたそれをゆっくりと鎮め、おずおずと背凭れに身を預けた。
 タクシーが発進し、エンジン音とタイヤがコンクリートを踏み締める音が車内に響く。そんな中、馨は豪炎寺が気になって仕方なさそうな荷物を二人の間に置いてから、説明するために脳内で台詞を纏めあげた。

「まず、これから豪炎寺くんは沖縄に移動してもらうことになったよ」
「沖縄に?」
「うん。そこに協力してくれる人が待っているから、あとはその人の指示に従ってくれれば大丈夫。とにもかくにも沖縄まで行かなきゃならないんだけど、事が事だから警察も大っぴらには動けないし、警備をつけたりして気付かれたらマズいから……豪炎寺くん独りで行ってもらうことになる」

 そう告げねばならないことすら辛い。馨にできることはその手順を整えることくらいであり、あとは本人任せにしないといけないのだから。無意識にショルダーバッグの持ち手を握り込むと、豪炎寺は今の話を頭に刷り込ませるようにゆっくり頷き、馨のことを真っ直ぐ見構えた。

「オレは、平気だ。アイツらも、どうやら無理矢理連れていこうという気は無さそうだしな」
「そうだろうね。でなければ今頃もっと強行手段を使っていただろうから……そうならないうちに対策が練れて良かったよ」
「……本当に、ありがとう」
「お礼は全部片付いてからにしてよね」

 空気が湿気ないようわざとらしく茶化した調子で返してから、馨は次に自分の鞄からメモを取り出す。さらに携帯の画面に検索して出てきた沖縄への順路を表示させ、向こうにもよく見えるようにくるりと上下を逆にした。

「まず、今日はもう沖縄へ移動するには遅いし、この快速線で大阪まで出てから大阪駅前のホテルに泊まるよ。予約は私の名前でしてあるから、フロントでチェックイン時に私の名前を使ってくれれば大丈夫。それで明日のこの時間、駅から直通で出てる空港行きの電車に乗って、空港に移動。所要時間は大体一時間くらいかな。飛行機の時間には余裕で間に合うよ。ここまではオッケー?」
「あぁ」

 言葉にしながら、使用する路線や時刻などをメモに書き写していく。荷物を全てキャラバンに置いてきた豪炎寺は現在携帯を持っていないため、この先は馨が記したメモを頼りに乗り継ぎすることになるのだ。決して情報に誤りが無いよう、細心の注意を払って列記をした。
 全て書き終えたらメモを切り取り、それと共に己の鞄の中から先刻コンビニで貰ってきた航空券の領収証を持ち出す。

「で、空港に到着したら発券ね。ちょうど正午発の便を一本、既に予約済みの支払い済みだから、この領収証と確認番号を持っていけばちゃんと用意してもらえるよ。ちなみに、飛行機乗ったことある?」
「何度か」
「発券の仕方とかチェックインの仕方とかは大丈夫?」
「父さんがやっているのをよく見ていたから大丈夫だ」
「よしよし、話が早くて助かるよ」

 路線のメモと領収証とを一緒に折り畳んでから、「ここに入れておくからね」と言ってショルダーバッグのチャック付き内ポケットに入れる。豪炎寺は覗き込むかたちでそれを確認し、こくこくと頷いた。
 それから、馨はがばりと口を開けているバッグの中身を次々と、さながらスライドショーのようにして彼の前に取り出しては戻していく。

「これは全部豪炎寺くんの荷物ね。基本は沖縄に渡るための分しか入れてないから、足りないものがあったら申し訳ないけど向こうで買ってください。そのために、この財布にお金も入れてあるよ。これだけあれば、豪遊しない限り不足するってことにはならないと思う」

 元がぺったんこの安物とは思えない程に立派になった財布を掲げると、豪炎寺は面食らったようにぱちぱちと瞬きを繰り返した。

「……これ、もしかして、馨の」
「余計な詮索は無し!」

 言いたいことは解るが、元が誰のお金だとかを気にしている場合でもないのだ。
 馨がきっぱりと切り捨てる物言いをしたからか、財布を見つめて反応に困っている様子だった豪炎寺も、やがて仄かに口元を緩めて「ありがとう」と掠れた声で呟いた。
 そして最後に、馨は下ろしたての衣類を彼の膝の上に乗せる。

「ズボンはここじゃ難しいだろうから、せめて上と靴だけでも今着替えちゃって。やっぱどうしても雷門のジャージって目立っちゃうんだよね」

 豪炎寺は言われた通りにジャージの上を脱ぎ、渡されたばかりのパーカーへごそごそと腕を通す。脱いだジャージは馨が代わりに丁寧に折り畳んで、入れ替わりに店の紙袋の中へ。同じく履き替えられた靴の方はビニール袋に入れ、バッグの奥にしまい込んだ。お役御免なんかではない。またいつか必ず活躍してくれるその日まで、少し休憩しててもらうだけである。そう念を込めながら。
 顔を上げると、そこにはあの炎のように鮮やかなオレンジに包まれた豪炎寺がいた。上を変えただけでも随分と印象が違って見える。

「どう? キツくない?」
「ピッタリだ。よくサイズを知っていたな」
「コーチですから」

 えへんと胸を張って言うと、袖の具合を確かめていた豪炎寺が「さすがだな」と吐息を漏らすように笑った。
「基本的には、フードを被っておいた方が安心かな」――そう言いつつ豪炎寺の正面から後ろへ両腕を回し、パーカーのフードを持ち上げて彼の頭に被せる。厚手の布地にすっぽりと覆われたことによって、整った顔は目元が殆ど見えないくらいの暗い影に包まれた。
 その影の中で、彼の唇に描かれていたはずの柔い笑みが消えていくのが見えると、馨はどうしようもない寂寥感と欠落感に襲われてしまう。フードを深く被った豪炎寺がまるで別人に思えるのが、またその感情を加速させる要因になっているのかもしれない。ジェミニストーム戦直前に感じた“豪炎寺ではない”という感覚が、いよいよ以て目の前でそのかたちをリアルに形成しているようであった。
 サッカーをしない、サッカーができない、そんな豪炎寺が別人のようだと思っているわけではない。そうしなければならない苦しさに苛まれ、自由にボールを蹴ることができず、思い苦しむ、そんな豪炎寺の姿を見ていることが辛くて、そう思い込みたくなっているだけなのだろう。雷門サッカー部に入る前、入った後、円堂や皆のサッカーと出会う前後の豪炎寺を知っているからこそ、サッカーを奪われた豪炎寺のことを、まるで自分に起きた出来事のように苦しく思うのだ。――事実、自分もサッカーはできないけれど。

「……どのくらい、かかるんだろうか」

 ぽつ、と豪炎寺が呟きを零す。
 それは馨に対する問い掛けというよりは己との対話のような語調であったが、馨はフードの奥にある彼の顔を真っ直ぐ見つめたまま、静かに答えを返した。

「今、既に夕香ちゃんを安全に保護するために鬼瓦さんたちが動いてくれてる。まずは豪炎寺くんが無事に沖縄に渡って身を隠して、それから本格的にあの三人組の捜査を始めていくんだと思うよ。でも、さっきも言ったけど警察が警察として大々的に動くことはできないから、少しずつ着実に進めていかなきゃいけない」

 とにかく何より優先すべきは夕香の安全だ。そのためにはエイリア学園を刺激してはいけないし、どうしても慎重な捜査になってしまうことは避けられない。

「どのくらい、っていう具体的な日数はさすがに解らないけど、でも……必ず、奴らは捕まえられるよ。それで夕香ちゃんも無事に保護して、豪炎寺くんもまた自由にサッカーできるようになる」

 ね、と念押しするように語尾を強めると、豪炎寺はパーカーの中で微かに首を動かした。角度が変わったからか、窓から差し込む茜色の日差しが彼にかかる影を少し取り払ってくれる。もう一度露わになったそこには、何かを思い出すような儚い眼差しがあった。

「……円堂が」

 車の走行音に掻き消されそうな程にか細い声であったが、馨の耳には全ての音がこの世の何よりも明瞭に届けられていた。

「言ってくれたんだ。『絶対帰ってこい』って」
「……円堂くんらしいね」
「何も事情を話せない、アイツからしたらただ尻尾を巻いて逃げ出したのと変わらない、そんなオレをアイツは……まだ、待っていてくれてる」

 声も肩も震えてはいない。けれど、寸前のところで必死に堪えている。それが痛い程に伝わってくる、細く脆い言葉だった。
 馨は、自分と彼との間にあったバッグをゆっくりと反対側に移動させる。

「円堂くんだけじゃない、他の皆もそうだよ。豪炎寺くんのこと信じてるから、待ってる」

 バッグの分だけ空いたスペースを、身を寄せることで縮める。そうすると互いの肩が音も無く触れ合って、そこに一つの温度が生まれた。

「誰も逃げたなんて思ってない。ただとにかく、いつか帰ってきてほしいって思ってる。また、豪炎寺くんと一緒にサッカーがやりたいから、早く戻ってきてくれって思ってるんだよ」
「……」
「勿論、この問題は豪炎寺くんだけではどうしようもないことだから、その分歯痒くなる気持ちも解る。いっそ本当のことを全部話せたらって、そう思うよね」
「……」

 豪炎寺は、とうとう何も言わなくなった。俯いたためにどんな表情をしているかが馨からは見えない。しかし、彼の二本の足、今やシュートすらまともに撃つことの叶わない両の足、それを覆う青いジャージを握り締める拳が、ふるふると小刻みに震えている。もうじき決壊を迎えてしまう、でもそれは許されないと、さながら己を戒めるかの如く堅い拳。そこに一体どれ程のものを詰め込んで堰き止めているのか、馨はもう考えることすら嫌になってしまう。
 自分は、何もしてあげられない。直接的に問題を解決する手伝いもできなければ、慰めることも、癒すことも、言葉一つがあればできるようなことだって何もしてやれない。本当の理由を知っていながら、豪炎寺が抱く悲しみを解っていながら、力になることができない。
 震えの止まない白い手を見て、馨は思う。豪炎寺はとても強い子なのだと。心の底からそう思う。
 フットボールフロンティアを戦い抜いているときも、そして今現在も、彼は己自身のこと以上に妹や周囲の人間のことを気にかけている。先程の言葉だって、突然の離脱によって動揺させられ、それでも『絶対帰ってこい』と言ってくれた円堂のことを、その胸中を思って出たものだったのだろう。真相を言えないまま置いてきてしまった仲間を思って、豪炎寺は心を痛めている。
 強い。豪炎寺は本当に強い。そして優しい。
 だけどそれだけ――いじらしい。
 馨は手を伸ばし、彼の頑なな拳を緩く撫でた。

「……豪炎寺くん」

 と、そのとき、タクシーが突然停車してエンジンを止めた。
 もう駅に着いたのか、それにしては早すぎる――そう思って外を向いた馨の目に、見慣れたコンビニの看板が飛び込んできた。どうやらどこかのコンビニの駐車場に停まったらしい。
 運転席を見遣ると、刑事が胸ポケットに入れていたらしい煙草の箱を片手で振り翳していた。

「まだ時間あるでしょうし、ちょっと一服させてください」

 そう言うや否や運転席のドアを開け、本当に一服しに出て行ってしまった。店の入り口付近にある灰皿の方まで歩いていった彼には、ここからでは何の声も届かないことだろう。
 馨は暫しきょとんとしたままその謎の行動を見送っていたが、すぐにはっとした。そして気付いた途端、大きく深い息を吐き出して座席の背に体重をかけた。さすが刑事、とでも言うべきだろうか。
 ――気を遣わせてしまったな。
 でも、せっかくなのだから、その好意に甘えさせてもらおう。

「豪炎寺くん」

 走行音が無くなって完璧な静けさを得た分、ここには互いの声音のみが残る。
 馨は今度こそはっきりとその名を呼び、ふらりと持ち上がった頭、そこにかかっていたフードを丁寧に外した。
 数分振りに晒された表情は、その前よりもずっとずっと、ひどく苦痛に満ちている。

「……豪炎寺くんは、辛いことばかりだね」

 見つめる瞳を無意識に細め、馨は唇の隙間から零すような儚い声音で、そう切り出した。

「ただ好きなことを、好きなサッカーを思い切りやりたいだけなのに、いつだって周りの人間がそれを勝手に邪魔して、大好きなサッカーも大好きな夕香ちゃんも、みんな君から取り上げようとする」

 以前は影山が彼から夕香、そしてサッカーを奪い、今はエイリア学園が同じことをしている。好きなことを好きなように全力で楽しんでいる豪炎寺のことを、いつも悪意ある大人たちが陥れて穢そうとしている。才能があるから、エースストライカーだから、そんな理由で彼の愛するものを壊そうとしている。
 どうしてこの世界は、サッカーに関わる悪の存在は、こんなにも豪炎寺に辛い思いをさせようとするのだろうか。
 彼はただ、大好きなサッカーをやっていたいだけなのに。

「だけど、豪炎寺くんは強い。強いから我慢をするし、強いから気丈な振りをしようとする。頑張ろうとする。私、君のそういう真っ直ぐな強さが本当にすごいと思うし、好きだよ」
「……オレは、」
「強くない、だなんて言わせない。だって、今もまだ弱音一つ吐こうとしないんだから」

 ぴしゃりと遮るようにして言い重ねると、豪炎寺の双眸が戸惑いにも似た揺れをみせた。こんな目をした豪炎寺を、馨は今までで一度だけ見たことがある。フットボールフロンティア、木戸川清修との準決勝前に夕香の病室で話したときも、彼はこうして美しい黒曜の瞳を揺るがせていた。それは恐らく、自分の中の確固たる何かが揺らいでいる証拠なのだと思う。
 馨は、ずっとここまでいろんなものを耐え忍んできた二つの目、その右片方の下にやんわりと親指を当て、目尻に向かって解すようにラインをなぞる。ぴく、と目元が跳ねるのが振動で伝わってきた。

「やっぱり強いね。そして優しいね、豪炎寺くんは。……これからまたもう暫くは、その強さで我慢をしていくことになる。耐えて、耐えて、耐え抜かなきゃいけない時期になる。夕香ちゃんのためにも、豪炎寺くん自身のためにも、チームのためにも。辛いだろうけど、必ずそれが報われる日はくるから、それまで頑張って我慢しなきゃならない」

「でも」――そこまで口にしてから、馨はそれまでシリアスに引き締めていた面持ちをふっと緩め、全てを受け入れるような淡い微笑を湛えた。

「今だけ。今だけは、何も我慢しなくていい」

 ――今だけは、ここに自分しかいない、今この時だけは。

「……ッ!」
「何も頑張らなくていい。何も耐えなくていい。何も気にしなくていい。何も強くなくていい――ね、豪炎寺くん」
「……ッ馨……」

 優しく微笑みかけたその瞬間、ぎりぎりのところで何とか均衡を保てていたであろう豪炎寺の中から、ぷつりと何かが切れる音が聴こえたような気がした。
 切れ長の両目が一気に潤いを増し、その端からぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちる。頬を伝って落ちた雫は彼のパーカーやジャージに濃い痕を残すも、豪炎寺はそんなことまるで気に留めず、流れる涙をそのままにぐしゃりと顔を歪めた。

「行き……行き、たくない……」

 震える唇が割り開かれ、やはり同じくらい震えている弱々しいアルトボイスが紡ぐ。何より必死で何より強い、彼の本音を。

「みんなと、サッカーがしたい……ッ沖縄、なんて、行きたくっ、ない……!」
「そうだね、したいよね、サッカー。行きたくないよね、沖縄」

 両腕で目を擦ろうとする彼の手首を掴み、己へと引き寄せる。抱いた側から背中を撫で下ろして鸚鵡返しをしていると、いつの間にか馨の背にも豪炎寺の腕が回され、きつく抱き寄せられた。胸元が涙を吸って水分を含んだようだが気にならない。ぐいぐいと押し付けられる彼の額の持つ熱を感じ、ただ唇を噛み締めた。
 豪炎寺は、喉の奥から込み上げる嗚咽のせいでなかなか上手く言葉が出せないでいる。その中でも何とか懸命に吐き出そうとする全ての本音を、馨は余すことなく抱き留めようとしていた。
 強くある必要なんて無い、豪炎寺修也その人の持つ、誰にも言えない本当の気持ちを。

「ゆ、夕香にッ、会いたい……何で、夕香ばっかりッ! オレはただ、……サッカーを、やってるだけ、なのに……ッ!」
「うん、うん」
「サッカー、が、したい……えんどっ、たちと一緒に、エイリア学園と、戦いたい……」
「そうだね」
「ッシュートを撃ちたい、サッカーがしたいッ……馨……嫌だッ……馨……!」
「……よし、よし」

 馨は、段々と己も言葉が減ってきていることに気付いていた。下手に口を開くと、こっちまでそこから嗚咽が漏れ出そうになる。目元に力を込めていないと、今すぐにでも泣き出してしまいそうになる。やはり自分は豪炎寺と違って強くは在れないな、と思いながら、できる限りの精一杯で、彼の揺れる肩や背中を撫で続けた。

「……馨……ッ」
「……豪炎寺くん」

 絞り出される自分の名前に、こんなにも胸が締め付けられる思いがするなんて。
 直接心臓を暴いて訴えかけられているように、どくんどくんと鼓動が高鳴っている。けれど衣服越しに伝わる豪炎寺の心臓も激しく拍動を打っているので、そうやってどこもかしこも密着して熱をまぐわらせているうちに、これが果たしてどちらの鼓動なのかすらもよく解らなくなっていった。泣くことによって体温を著しく上昇させている豪炎寺の身体は、本当に燃えているみたいに、彼の撃つシュートのように、全てが熱くて熱くて仕方がなかった。
 それから、馨の背を服に皺ができる程きつく掴んだまま、豪炎寺はぐすぐすと泣いていた。大きくしゃくりあげる隙間に何度も何度も「サッカーがしたい」「皆と離れたくない」「夕香に会いたい」と繰り返しながら、涙が枯れ果てるまで、溜まっていたものを全部吐き切ってしまうまで、ただひたすらに泣き続けていた。その間馨もやはり、ただひたすらに彼の背中をゆっくりゆっくり擦り続けていた。
 ――時間にすると、ほんの五分程度のことだったと思われる。
 嗚咽もしゃくりも震えも収まってきた豪炎寺が、やにわに馨の背から腕を解き、ゆったりとその身体を離した。あれだけ溢れ出ていた大粒の涙はもうどこにも流れていなかったが、その痕跡を残すように両目が赤く腫れているし、頬には涙の跡が薄らと線を引いている。
 馨はくすりと小さく笑んでから、自分の鞄に入っていたハンカチを取り出してその涙痕を拭ってやった。

「ふふ、イケメンが台無し」

 ごし、と軽く擦ると、痛くは無いはずなのに豪炎寺が少し眉を寄せる。

「……そうさせたのは馨だぞ」
「うん。でもやっぱイケメン」
「どっちだ」

 悪びれもなく返した馨に、彼は一拍置いてからほろりと崩れるような笑みをみせた。もう何も溜め込んでいるものは無さそうな、初めて見る程にすっきりとした笑顔だった。
 またもや静けさを取り戻した車内に、ずっ、と鼻を啜る音が響く。そこでどうやら自身が馨に齎したものに気付いたらしく、豪炎寺はやや焦ったような声で「服が」と言った。

「服?」
「オマエの、服。すまない、何も考えずにいたから……」
「あー」

 しっとりとした湿り気を覚えている胸元に視線を落とし、納得。確かに心ゆくまで号泣した豪炎寺の涙によって白いポロシャツは若干色を変えているが、ぱっと見は大して変化は無いし放っておけばそのうち乾く。馨はにこりとしながら、目の前にあるクリーム色の髪を手のひらで撫で上げた。

「気にしない気にしない。すっきりした?」
「……あぁ、すっきりした」
「なら何も問題無いよ。あ、ちょっと飲み物買ってくるね」

 そう言い残してから車を出て、小走りでコンビニ内へと向かっていく。その途中、灰皿の隣で何本目かの煙草を吹かしていた刑事と目が合ったので、小声で「ありがとうございます」と頭を下げた。彼は諸々解消したことを察したのだろう、実に良い笑顔で咥えていた煙草を灰皿に落とした。
 馨はささっと店内に入り、冷たいペットボトルのお茶を買ってからまた小走りでタクシーまで戻った。まだ刑事は運転席に着いてはいない辺り、彼は本当に気が利く性格だと思える。

「はい、これ飲むついでに目を冷やしておくといいよ。腫れたままにしておくと明日まで影響出ちゃうからね」
「ありがとう」

 買ったばかりでしっかり冷えているお茶を手渡すと、豪炎寺はそれをまずぐびぐびと煽って枯れていた水分を補給してから、馨の言ったように腫れぼったい瞼へと押し当てた。ふぅ、と小さく吐き出された嘆息が、漸く彼の中で一つの決着を迎えられたその合図のように聴こえた。
 刑事はそれから一分も経たないうちに帰ってきて、余計な言葉を言うことも無しにタクシーを発車させた。最終目的地である駅はそんなに距離が離れていないらしく、さらに十分程進んだところで彼は「あとちょっとで着きますよ」と教えてくれた。
 もう瞼の熱は取れたのか、豪炎寺はペットボトルを膝に乗せたまま窓の外を眺めている。外の景色によっては時折くっきりとその顔が反射して見え、最初にここに乗ったときと比べれば幾分か穏やかな面持ちになっているように思えた。
 ふとそこから目線を下げると、シートの上に手のひらを向けて投げ出された手が見えた。馨は何となく、何気無く、それに自分の手を重ねて置いてみる。するとぴくんと跳ねる感触が伝わった後、躊躇うことも無く、きゅっと優しく握り込まれた。視線を戻すと、彼は依然外を向いたままだった。だから馨はこっそり唇に弧を描き、同じく自分側の窓の外に流れる光景へと目を移した。
 ――やり残したことは無いはず。馨が準備した分だけでも、豪炎寺はきちんと沖縄に渡ることができる。そこからは鬼瓦の頼んだ協力者に委ねることになるけれど、必ずや全てが上手くいくと信じている。
 大丈夫だ。
 豪炎寺はいつか必ず帰ってきてくれる。皆が、ここで待ち続けている限り。

「――到着しました」

 刑事がハンドルをぐるりと回し、駅の入り口で車を旋回させる。間も無くして無反動で停車したタクシーのすぐ傍を、多くの観光客と思しき人たちがすり抜けていく。
 支度をしないと――馨が脇に除けていたショルダーバッグを豪炎寺に渡す。豪炎寺は持っていたペットボトルをその中に入れてから、続けてジャージの入った紙袋を受け取った。ガサガサと忙しなく鳴る紙の擦れる音が、もう彼と別れなければならないということを馨に言い聞かせているようだ。
 本当ならば、馨はここで彼を見送らなければいけない。駅の中まで付いて行くという選択肢はあまり褒められたものではないと、馨だって頭では解ってはいる。
 だが、どうしても我慢ができなくて、別れを惜しんでしまって、結局は刑事に「少し待っていてください」と言い残してから豪炎寺共々タクシーを降りた。豪炎寺は良いのかと言いたそうではあったが、車を降りる馨の顔を見たっきり終ぞ何も苦言を呈することは無く、「行こう」と手を引く馨に続いて素直に駅へと歩を進めた。
 これから豪炎寺の乗るべき快速線の切符を購入し、しっかりと手渡す。ちょうどあと十分程で発車の時間だ。改札まで二人で移動した後、馨は改めて豪炎寺に向き直るとサングラスを外して胸ポケットに預け、彼の両肩に手を置いて目線の高さを合わせた。

「いい? どんなにお腹が空いていなくても、毎日ご飯はしっかり食べるんだよ。それと向こう着いたらボールを買って、気晴らしにでも蹴っておくと良い。そうじゃないと身体が鈍っちゃうからね。あ、沖縄は暑いけど汗かきっぱなしにしてたら風邪引いちゃうから、ちゃんとお風呂にも入るようにね。とにかく身体を一番大事にすること!」
「解ったよ」

「まるで母さんだな」とくつくつ笑う豪炎寺だが、馨はどこまでも本気でそう言っている。何より心配なのは彼の心身なのだ。気持ち的には息子を遠くに旅立たせる母親と相違無い気はしていた――これから暫く会えなくなるのだから、一言でも多く話をしてたくさん顔を見ていたいと思う、そんな気持ちがあることも含めて。
 だが、さすがにいつまでも引き留めておくわけにはいかない、もうじき電車がやって来る。
 やっとのことで馨が肩から手を離すと、豪炎寺は少し名残惜しそうにしながらも、改札に切符を通して歩みを進めた。カシャン、ガコン。無機質な機械音を越えていくその姿が、何故か妙にスローモーションのように感じられてならない。
 気が付けば、馨は改札の外、豪炎寺は改札の中、いつしか完全に世界が分かたれている。
 別れの時が訪れた。

「馨」

 くるりと振り向いた豪炎寺が、馨と向かい合って立つ。赤みが引いて凛とした強さを残した黒い双眸が、その強さの片隅にまた別の色を潜めながら、目を逸らさない馨のことを一寸もぶれずに正視している。
 そして、何かをたっぷりと溜め込むような長い間を置いてから、彼はこう言った。

「――待っていてくれ、オレのことを」

 そう紡いだ唇。何も迷いの無い眼差し。
 黄金の夕焼けなんかではない、駅の白んだ蛍光灯に照らされる表情が、どうしてやけに眩しくて、やけに鮮やかで、やけに――愛しくて。
 馨は胸の奥からせり上がってくるものをそのまま瞳に滲ませ、けれども零すことだけはせず、確かに一つ、頷いた。

「うん、待ってる……いつまででもずっと、待ってるよ」

 ぼやけて霞む視界の中。
 やがて背を向けて遠ざかっていく豪炎寺の影を、馨はそれが見えなくなるまでずっと一途に、見つめ続けていた。




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