北を目指す、その前に


 馨が再び奈良シカ公園まで戻って来たときにはとうに日が沈み、辺りにはとっぷりと夜の帳が下りていた。
 公園内部の広大さを知っている刑事は、せっかくだからと言ってわざわざ中央広場までタクシーで送り届けてくれた。おかげで無駄に歩かず済んだ馨は再三お礼を重ねてから車を降り、刑事が運転席側の窓を開けたところへ改めて一礼する。その際、いよいよ視界不良を極めるサングラスは外し、きちんとした裸眼で彼を真っ直ぐ見つめた。

「今回は本当にありがとうございました」
「いいえ、とんでもないです。鬼瓦先輩のお手伝いができて光栄ですよ。いずれ豪炎寺くんが戻って来た際には、どうかよろしくお伝えください」
「はい、必ず」

 最後に人の良い笑顔で軽く敬礼をした刑事に、馨も同じく敬礼を返す。それから公園出口に向けて去りゆくタクシーを見送った後、キャラバンに戻るため雑木林方面へと足を進めた。
 宵闇でもよく目立つ風貌のイナズマキャラバンは、依然馨が発ったときと同じ場所に停車されたままだった。雑木林を抜けた先、複数の窓から漏れる明かりが夜闇の中にくっきりと浮かび上がっている。離れていたのは夕方から夜にかけてのたった数時間足らずだというのに、その明かりを見た途端、やけに皆が恋しく思えたのは何故だろうか。去って行った一人が生んだ空虚感を、残っている他の者たちの存在で埋めたいと思うからだろうか。何でも良い。とにかく、馨はすぐにでも彼らと話をしたかった。
 しかしその前に、キャラバンの傍らに二人分の人影が立っているのを発見した。目を凝らさなくとも背丈で判る、あれは瞳子と古株だろう。どうやら何か相談をしているらしく、額を突き合わせてごにょごにょと話し合う声が聴こえてくる。馨は胸ポケットに差し込んだままのサングラスをかけ直し、歩く速度を上げた。

「みこ姉、古株さん、ただいま」

 小走り気味になって駆け寄れば二人は同時に顔を上げ、片や笑顔、片や無表情で、それぞれ馨を出迎えてくれた。

「おぉ、おかえり、コーチ」
「おかえり。問題は無かった?」
「うん、ひとまずは何とか」

 ちらりとサングラスの隙間から古株に目を遣るも、彼は恐らく豪炎寺の件の詳細までは知らされていないと見える。ただ、監督とコーチがやることに口出しするつもりも無いようで、両者の会話を特に気にしてはいなさそうだ。馨に向かってにっこり笑いかけてから、手元の本――よく見たら地図だった――に目を落としていた。

「そっちの方はどうだった?」

 視線を古株から瞳子へ移してそう問うと、瞳子は表情を変えることなく一言。

「貴女の想定通りだと思うわよ」
「あぁ……」

 でしょうね、と出かかった言葉は寸でのところで掻き消した。
 やはり馨の予想通り、事はあまり良いかたちでは運ばれなかったようである。解りきっていたことなので今更詳細を訊ねようとは思わないが、どうか最低限で済んでいれば良いと願うのは致し方ないことであった。
 馨が思わず嘆息すると、瞳子の顔が一度閉ざされたキャラバンのドアを向いて、また馨の方へと戻ってきた。

「それで、今からは北海道に向かうわ」

 突然話が切り替わり、馨はきょとんとして首を傾げた。

「北海道? またいきなり飛ぶね、何で?」
「響木さんから、そこにいる『吹雪士郎』というエースストライカーを探せという指令を受けたの」
「ふぶき……?」

 瞳子は懐から携帯を取り出し、馨に響木から受け取ったというメールの文面を見せてくれた。確かにそこには『北海道 白恋中のエースストライカー・吹雪士郎をチームに引き入れ、戦力アップを図れ』と書かれている。どうやら豪炎寺の事情は響木にも伝わっているうえ、彼は彼でまた独自に情報収集を行ってくれているらしい。

「白恋中の吹雪士郎、か」

 白恋中――そんな名前の学校を、馨は今も昔も耳にしたことが無い。少なくとも、今年のフットボールフロンティア全国大会には参加していなかったと記憶している。さらに言えば『吹雪士郎』の方にもやはり聞き覚えは無かった。
 わざわざ響木が指名するくらいなのだから、きっとその人物は相応の実力を有した選手に違いないはず。何せ、地上最強イレブン候補として名が挙がる程のエースストライカーなのだ。しかしそんな選手を擁していながら、どうして白恋中は大会に顔を出さなかったのだろう。地区大会で負けてしまったのか、それとも他に理由があるのだろうか――些細なことかもしれないが、少し不思議に思えた。
 メール画面を正視しながらごちゃごちゃと考え事をしていると、そのうち目の前からひょいと液晶の灯りが消えた。明暗差によって一瞬視界を黒く塗り潰された馨は、瞬きを繰り返して目を順応させつつ「それで」と話を続ける。

「その吹雪くんってどんな子なの?」

 見た目やらプレースタイルやら特徴やら、大凡仲間に迎えるにあたって必要となるであろう要素についてを一括して、そう訊いてみたのだが。

「解らないわ」
「え」
「多分、あの子たちが調べているんじゃないかしら」

 瞳子の言葉の先がキャラバン内を指していると察し、馨は渇いた笑いを漏らす。「相変わらず丸投げしてるね、監督さん」――半ば冗談混じりで呟いてみると、だからどうしたと言わんばかりにフンと鼻を鳴らされた。
 瞳子からすれば、直接本人に会ってその実力を確かめることが一番大事であり、吹雪士郎がどんな人物かということ自体には端から興味が無いのだろう。とことん“仕事”に徹する監督であるが、馨からすればそこまで鉄仮面になれるのが逆にすごいと思えるくらいだ。北海道のエースストライカーなんて、聞いただけでも一体どんな子なのかとわくわくするというのに。
 まぁ、その辺は価値観の違いというやつかもしれないけれど――話にキリがついたところで、瞳子は古株と共に北海道への道順についての相談を再開させた。馨がそれに参加したところで仕方ない、一足先にキャラバン内に帰ることにした。
 高いところにある窓からでは中の様子を窺うことはできないが、ぴったり閉じられたドアの向こうからは微かにだが話し声が漏れ聴こえてくる。和気藹々とまではいかずとも雰囲気そのものはあまり暗くなさそうなので、北海道にて新メンバーを迎えるということを契機に、皆気持ちを切り替えたのかもしれない。

「……よしっ」

 ペチンッと両手で頬を挟むお決まりの儀式をし、馨もまた気持ちを切り替えるついでに気合いを入れ直した。
 中に入ったらどんな話が出てくるのか、大方予測はついている。そこで何を言われようが、どんな顔をされようが、馨がすべきことは変わらない。後悔も名残も捨て置いて、常に真っ直ぐ前を向き、ただひたすら先へ伸びる道を進み続けていく――そんな選択をしていくのだ、この旅では。
 彼に「待っている」と言った手前、ここで立ち止まっている暇なんて無いのだから。

「馨」

 意気込んでキャラバンのステップに片足を乗せたところで、ふと瞳子に呼び止められた。馨はそのままの姿勢で首だけ動かして振り返る。地図から顔を上げる様子の無い彼女は、いつも通りの淡々とした口調で続けた。

「貴女まで“憎まれ役”になる必要は無いわよ」

 まるで業務連絡の一環、そんな素っ気無さ。
 どこまでも感情を読ませる気の無いその発言に込められた意味を汲み取って、馨は一瞬眉を寄せた後、ころりと笑った。

「善処します」

 現代日本に於いては曖昧なニュアンスで用いられることの多いこの返答を、果たして瞳子がどう受け取ったのかは解らない。それでもそれっきり口を閉ざしたということは、一応不足では無かったのだろう。馨は敢えて浮かべていた笑みを密かに苦笑いに変え、聴こえない程度の微かな溜め息を吐いてから、改めてキャラバンのドアを押し開けた。

「ただいまー」
「あ、コーチ、おかえりなさ――」
「コーチ!」

 間延びした帰還の挨拶に真っ先に反応を返したのは音無だった。
 そして、それを遮るようにして声を荒げ、いの一番に他のメンバーを押し退けるようにして馨の眼前へ飛び出てきたのは、染岡だった。

「コーチ、こんなときにどこ行ってたんだよ! 豪炎寺が――」
「もう聞いてるよ。チームを離れたんだってね」

 ずんずんと猪突猛進の勢いで迫ってきた染岡を宥めるように両手のひらを翳すも、相当鬱憤が溜まっているのだろう、染岡はますます眉を吊り上げる一方だ。

「離れたんじゃねえ! “離された”んだ! あの監督、豪炎寺のこと何つったと思う!? 『このチームに必要無い』って言いやがったんだぞ!」
「……そこまでは聞いてなかったな」

 本当なのかという確認も込めて染岡の後ろで団子になっている他メンバーを見渡すと、揃いも揃って何とも言い難い複雑な面持ちばかりを並べ立てている。どうやら染岡の言ったことは本当のようだ。瞳子は豪炎寺を離脱させる際、馨の想像以上にシビアな物言いをしたらしい。

「そっか……」

 どうしても“憎まれ役”にならざるを得ないのは解るが、何もそこまでキツい言葉を選ぶ必要は無いのではないか――今もドアの外にいる瞳子を思っては、内心で何度目かの溜め息を零す馨。しかしそれを表に出すことはせずに、飽くまで柔らかな表情でいるよう努めた。完全に三角になっている染岡の鋭い眼と見つめ合っても、冷静さと穏やかさは失わない。

「まぁ、瞳子監督が何考えてるかはともかく……豪炎寺くん自身がそれに反発しなかったんだとしたら、彼にも何か思い当たる節があったのかもしれないよね」
「まさか監督の肩を持つのか!?」
「いやいや、そういうことじゃなくてね」

 中立の立場を維持しようと思えば、ここでの言葉選びは非常に難しくなる。どうにかして染岡のヒートアップを抑えるよう、馨は文字通り目と鼻の先で凄んでいる染岡の身体をやんわりと押し返し、少しの距離を取った。

「豪炎寺くんだって、当然離脱なんてしたくなかったはずだよ。だけど結果的に素直にそれに従ったなら、もしかすると本人も自覚してる理由があるかもしれないなと思って」
「あったとしても、どうせ今日のジェミニストーム戦での失敗だろ? あんなの誰にだってあるのに、何だって豪炎寺がたった一戦のミスで切られなきゃなんねーんだよ! アイツは雷門のエースストライカーだぞ!?」
「その一戦のミスが、豪炎寺くんにとっては大きなものなのかもしれないでしょう? 豪炎寺くんは『今のままじゃ満足なサッカーができない』って思ったからこそ従ったんじゃないかって、私はそう考えるよ」
「江波さんも、豪炎寺が離脱させられた理由の詳細は知らないのですか?」

 会話が切れるタイミングで、鬼道が静かに問いを挟み込んできた。
 馨は染岡の斜め後ろで傍観体勢を取っていた鬼道のことを視野に収め、一つ頷く。

「うん、何も聞かされてない。……だけど、いくら監督命令とはいえ最終的に豪炎寺くんがそう選択したってことは、少なくとも意味の無い離脱ではないと思ってる。豪炎寺くん本人にとって意味のある、これからのための離脱なんだって」

 鬼道はその返事だけで満足したようで、「そうですか」と言ったきり再び傍観する構えをみせた。他のメンバーも皆、馨の意見に何か反論しようという気は無さそうである。「出会いのためのキックオフ、か」――そう小さく零したのは、恐らく土門だったと思う。
 ただ、馨の目の前で歯噛みしている染岡は、この説得だけでは未だ納得するには至れないようである。いや、説得が足りないのではない。今ここで馨が何を言おうが、染岡が豪炎寺の件に関して納得しきることは無いのだろう。監督である瞳子、或いは豪炎寺本人からの正しい説明でなければ、彼の中にある燻りを消し去ってやることはできない。

「……」

 正直なところ、馨は少し驚いていた――まさか染岡が、あの染岡が、豪炎寺絡みの話でここまで感情を露わにするとは思わなかったのだ。
 監督の横暴に対する怒りならばともかく、豪炎寺が戦力外と見做されたことに対してこうして不満を爆発させて、今にも馨へ噛みつかんとする程に身を乗り出して、その末に『アイツは雷門のエースストライカー』とまで明言して。それだけ豪炎寺のことを思っているのだということが、空気越しにでもひしひしと感じられてならない。その分だけ胸は針で刺されるような痛みを覚えるけれど、馨はその痛みを気付かない振りで掻き消した。
 染岡は暫しの間目を伏せ、馨の中腹辺りで目線を泳がせていた。何か考えているのかもしれないし、込み上げるものを必死に抑え込んでいるのかもしれない。時折悔しげに奥歯を食い縛る仕種をする染岡のことを、馨は何も言わず、ただじっと見構え続けた。
 二人が会話を止めたことにより、キャラバン内は水を打ったような沈黙に満たされたが、誰も何も声を発しようとはしない。まるで、このやり取りの着地点がどこになるのか、全員がそれを見届けようとしているかのようだった。
 そのうち、染岡の黒い瞳孔が何かを窺うように馨の顔へ向けられる。

「……コーチは、何とも思ってねーのかよ」

 アイツのこと、と。
 尖った唇からそう漏らされたのを聴き入れた瞬間、馨の脳裏に豪炎寺の姿が思い起こされる。自分を見上げる縋りつくような眼差し、パーカーのフードの奥で塞ぎ込む表情、溶けてしまいそうな程の熱と共にぶつけられた嗚咽と本音――一気に思い出したそれらに呼応するようにぶわりと胸いっぱいに激情が膨れ上がり、爆ぜる。

「バカ言わないでよ」

 気付いたら、自分でも制御しきれないそんな一言が放たれていた。

「何とも思ってないわけないでしょ、私だって、できることなら――」

 そこまで言いかけたはっと我に返り、口を噤む。やってしまった、とすぐに激しい後悔が襲いかかってきた。だが、存外鋭利になってしまった暴言を悔やんだところで、一度口にした言葉を無かったことにする術は無い。
 いきなり荒々しい語調になったせいで、周りにいたメンバーが驚愕と同時に今まで以上に息を詰めたのを肌で感じる。そんなつもりはなかったのに、自分のせいでいっそう空気を悪くさせてしまったかもしれない。後悔の次には際限無い申し訳なさが降りかかってきた。
 ――だが、染岡の問いかけが心外であったこともまた、否定したくない事実ではある。
 馨は、眼前で目を白黒させている染岡からゆるりと視線を外し、「ごめん」と掠れた声で謝った。そして一呼吸置いて気持ちを落ち着かせてから、改めて正面切って向き合い、さらにもう一つ付け加える。

「でも、できればそんな意地悪なこと、訊かないでほしいな」

 豪炎寺のことを何とも思っていないなんて、そんなことあるはずないのに――寂しさを混ぜ込んだような微笑みを見せると、染岡は驚きで丸くなっていた目を今度はまた別の意味で瞠った後、罰が悪そうにそろりと伏せさせた。

「……悪い」

 馨が何も感じていないわけではないのだと解ったことで、やっと多少は溜飲が下がったらしい。すっかり張っていたその両肩から、少しずつ力が抜けていくのが見て取れた。
 とはいえ、まだ完全に解決しきったということでもない。染岡の顔つきからはまだ険しさが抜けきらずにいる。

「ただ……オレは、あの監督のやり方には納得いかねーからな」

 低く零されたそれは、気のせいでなければ馨のことをいくらか監督寄りの人間と判断しているように聴こえた。もし気のせいでなかったとしても、馨は否定するつもりなど無い。ニュートラルな立ち位置にいようと心がけてはいるものの、現状どうしても瞳子側に寄ってしまうのは仕方のないことだった。

「オレだけじゃねぇ。他にも、監督に対して不満に思ってる奴はいる。できることなら今すぐにでも理事長に連絡して、新しい監督に替えてほしいくらいだ」

 染岡は苦々しく語る。その“他にも”に該当するであろう数名も、染岡の肩越しにどこか居心地悪そうに佇んでいる。SPフィクサーズ戦やジェミニストーム戦で少しずつ蓄積されていた監督への不満は、案の定、この豪炎寺の件で一つの限界点に到達してしまったようだった。
 チッ、と舌打ちをして話を切った染岡に、馨はとうとうふにゃりと困り果てた末の曖昧な苦笑を湛えた。真面目な話をしているのにいきなりそんな顔をしたからか、染岡はまたもや眉間に深い皺を寄せて馨を睨む。

「コーチ! オレは真剣に言ってんだぞ!」
「ご、ごめんごめん」

 ぐあっと大口を開けて怒られ、その勢いに圧されるかたちで咄嗟に謝った馨。
「なんか、儘ならないなと思って」――謝ったものの苦笑いはそのまま、自分でも情けないと思える声音でそう重ねる。

「確かに、瞳子監督って本当に言葉が少ないし何考えてるんだかさっぱり解らないし響木監督とはまるっきり違う、どっちかというと一緒にやっていくのは大変なタイプの監督だよね。私だって、君たちの立場になったらそう思うよ」

 選手の立場から、己の師として仰ぐとするのなら。
 瞳子のやり方は、非常にその相手を選ぶものである。合わない者はとことん合わないし、逆に波長が合う者ならばすんなり受け入れられる、彼女はそんな極端な監督なのだ。
 染岡を筆頭とした大半は紛れもなく前者であるし、また、顔で判断する限り後者に属しそうなメンバーもちらほらと散見された。鬼道や円堂あたりがそうだ。特に鬼道は、監督の提示した作戦からその思考回路を読み解くという難儀なかたちで意思疎通を図っているため、早くもある程度は理解を示していると見受けられる。円堂は、単に監督のことを信じているのだろう。信じるのは円堂の専売特許みたいなものなのだ。
 もしも自分が選手だったとしたら――今し方言ったように、前者のパターンに当て嵌まっている可能性が高い。瞳子の行いを横暴だ圧制だと捉え、もう少し選手とコミュニケーションを取ってくれと要求したかもしれない。いいから黙って従えという、そんな監督が傲慢にすら思えるようなチームで行うサッカーなんてやりたくなどないと、そう面と向かって文句を言っていたことだろう。

「こんなんでも、一応昔はプレーヤーとしてサッカーやってたし……こういう監督とはやりたくないなって思うというか、不満が溜まるというか、そういう監督像も勿論あるよ。だから、染岡くんたちの不満はよくよく解ってるつもりなんだ、これでも」
「だったら、何でそんな簡単にイエスマンになっちまうんだよ」

 染岡が腕を組んで両目を眇める。怒号ではないものの、その声はどことなく刺々しさを孕んでいた。
 イエスマンとは、なかなか手厳しい表現をされてしまったものだ――馨は首筋に手をやってやわやわと撫で擦りながら、言葉を探すように宙へと視線を彷徨わせた。

「そんなつもりはなかったけど、でも染岡くんから見たらそう捉えられても仕方ないよね。……ただ、瞳子監督がどんな人なのか知ってるから、今はあの人に任せてみたいって思ってるだけなんだ」
「どんな人なのか? 見たまんまじゃねーのかよ」
「ううん」

 やんわり首を振ると、染岡は訝しそうに顎を引く。周囲でも、馨の話に耳を傾ける者たちがそれぞれ関心を深めているのが感覚で判った。

 ――貴女まで“憎まれ役”になる必要は無いわよ

 先を続けようとした馨の脳裏に、ふと先程の瞳子の言葉が蘇ってくる。
 彼女の命通り“憎まれ役”になるつもりはないが、どうしてもこれだけは言っておきたいと思えてしまったのだ。

「あの人は……みこ姉は、いつも一生懸命に物事を考えてるだけ。だから一見冷たく見えるときもあるし、言葉が端的すぎていまいち解りづらいことも多いし、今はエイリア学園を倒すために躍起になってるから特にちょっと厳しい面が目立つけど」

 キャラバンのドアの向こう。そこにいる人の立ち姿を思い描いて、ゆっくりと記憶を掘り起こすように。

「でも――本当はすごく、優しい人なんだよ」

 静かに、それでいて明確に、そう言い切る。
 しかし、染岡や他メンバーは一様に信じられないといった面差しを浮かべるばかりだ。馨が言うからには強く反発もできず、かといって真に受けられるかといったらそうでもない、寧ろ有り得ないと思う、そんな様子であった。
 それもそうだろう、彼らは今現在の鬼のような“瞳子監督”としか出会わず、接してこなかったのだから。監督ではない、馨の思い出に生きる優しい“吉良瞳子”のことなど、彼らは何一つ知らないのだから。故に、今の馨の発言にはすぐに効果が出るような大きな価値などこれっぽっちも無かったし、馨自身もそれを自覚していた。
 そのうえで、言っておきたかったのだ。伝えておきたかったのだ。自分は、江波馨は、吉良瞳子をそう思っているのだと。いつか誰かが今の言葉を思い出してくれる、そんなときが訪れれば良いなと願いつつ、皆の記憶の片隅に残しておきたかっただけである。

「――それで」

 言うだけ言って満足し、馨は目線の先を席に座ったままこちらを見上げている音無へと変えた。

「今からは北海道に行くんだよね、吹雪士郎って子を探しに。何か情報は見つかった?」
「あっ、えっと、はい! 少しくらいなら、ですけど」

 唐突に話が切り替わったことに動揺しながらも、音無がわたわたした動きで抱えていたパソコンをひっくり返し、画面を馨へと見せてくれた。どれどれ、と腰を屈めてそこを覗き込み、羅列された文字の断片を次々と読み上げていく。

「『熊殺しの吹雪』『一試合十点をたった一人で叩き出した』『熊よりデカい』『ブリザードの吹雪という異名を持つ』……うーん、何というか、とんでもなくすごいってことはよく解るけど」
「ただ、これ全部噂なんだよなぁ」

 一之瀬が後頭部に手を回しながらそう言ちると、音無の隣にいる夏未が「信憑性は微妙なところね」と溜め息を落とした。
 音無がインターネットで検索してくれた吹雪の情報は全てがどこかしらからの伝聞ばかりであり、実際の試合映像や試合内容、本人の画像なんかは一切どこにも掲載されていない。火の無いところに何とやらと言うくらいであるし、これらを全くのガセ情報だと認定してしまうつもりはないものの、全体的に漠然としすぎていていまいち信憑性が薄めなことには違いないのだ。白恋中も、そして肝心の吹雪士郎も、どちらも北海道という土地の白いヴェールに包み隠されてしまっているようであった。
 一頻りの情報に目を通した馨は、「ありがとう」と言ってパソコン画面を音無の方に戻した。目ぼしいものは無かったけれど、何にせよとにかく一筋縄ではいかなさそうな気配だけはする。実にミステリアスであり、その分だけ興味も湧いてくるというものだ。

「なるほどなー、結局は直に会ってみないことには始まらないって感じだね」
「オレ、吹雪に会えるの今からすげー楽しみにしてるんだ!」
「円堂らしいよな、ホント」
「あははっ」

 くすっと微笑する風丸につられ、皆の顔にもやっと明るい笑顔が広まった。
 それを見たとき、馨は漸く自分の中に生まれていた空虚にあたたかいものが満ちた気がした。豪炎寺と別れてからずっと胸にあった寂しさ、恋しさ、そういったものが和らいでいく感覚に抱かれ、安堵すらする。本当は難しい話なんて要らない、ずっとこの笑顔だけを見ていたい――心からそう思えば、自然と相貌は穏やかに解れた。
 そんな馨を横目で見た染岡が、依然複雑そうに顔を背ける。それに気付いて彼を見遣った馨だが、何か行動を起こすより先に、キャラバンのドアがバタンと遠慮無しに開かれた。

「出発するわよ」

 瞳子、次いで古株がステップを上がってきたことにより、本格的に北海道へ向けての移動を開始する空気となる。瞳子の宣言を受け、慌てたように散り散りになって着席し直したメンバー。彼女の存在はすっかり調子を狂わせる一因になってしまっているようだった。
 そんな中、最後まで瞳子を睨んで動かない者すらいる始末であり。

「染岡くん。今日はたくさんシュート撃ってくれたんだし、ちゃんと睡眠取って身体を休めるようにね」
「……わーってるよ」

 馨が背中を叩きつつ柔らかく着席を促すと、染岡は渋々といった具合で自席に戻り、盛大な不服をぶつけるようにどかりと腰を落とした。
 染岡の隣の窓際席には、元々豪炎寺が座っていた。けれど今はもういない。なので必然的に窓際が空くうえ、身体を休めるのならそちらに移った方が何かと楽であるというのに、染岡は律儀に通路側に座って動かないでいる。いろんなものを抱えた強い眼差しで空っぽになった右隣を見つめていた染岡は、やがて肩肘を張ったままシートベルトを締め、腕を組んでむっつりと顔を伏せてしまった。
 その様子を見届けてから、馨も自らの定位置である補助席へ戻る。そして一息吐くのもそこそこに、鞄の中に入れっぱなしだったビデオカメラを取り出して電源を入れると、先に着席していた瞳子がその手元を見下ろしてきた。

「きちんと撮れていたの?」
「うん、ちょっと斜めだけど許容範囲かな」

 確認用のモニターを広げ、瞳子にも見える位置で映像を再生させてみる。当時は本体をタオルで包んでいたため若干視界が暗くなっているし、遠景かつ斜め方向からの撮影なので全景を捉えきれてはいないが、今日のジェミニストーム戦の様子はきちんとフルタイムで記録完了されていた。
 何度見ても驚くような俊敏さでボールを運んでいくジェミニストームと、それについていけず翻弄されるばかりの雷門イレブン。前半終了間際には鬼道の攻略が始まるとはいえ、基本的な能力が劣っていることは目に見えて明らかである。ここからどうやって相手のスピードに追いつき、負かしていくのかについては、また追々瞳子と検討していくことになるのだろう。
 戦略ではなく、能力が劣っていることが最もたる敗因だとすれば、この映像を繰り返し観たところで然したる結果は得られないのだろうが――既にカメラから目を離して地図を読み始めていた瞳子の隣、馨は改めて映像を最初から再生させることにした。
 直後、ブルンとエンジンがかかってキャラバンの車輪が動き出す。小刻みな振動に身体を揺すられながら、馨はふとモニターから顔を上げた。

「どこかで休憩は取る予定?」
「行けるところまでは夜通しで走り切るつもりよ。古株さんにも了承いただいているわ」
「本当に頭が上がらないね……」
「構いやしませんよ、ワシはこれが仕事なんじゃからな」
「ありがとうございます」

 明朗に笑いながらハンドルを回す古株に、馨はぺこりと頭を下げてお礼を返した。
 奈良から夜通し走るということは、最短ルートを通れば明日の朝には関東地方を抜けることができそうだ。だが、そこから北海道までの道程がまた長いので、どのみち暫くは車内で過ごす時間ばかりになる。とりあえずは、ひたすらこの試合映像を眺めて対ジェミニストームについて考えていくことになりそうだった。

「馨、休むときくらいは変装を外しなさい」

 地図を見つめたままそう言われ、馨は目を輝かせて早速サングラスとウィッグを剥ぎ取った。もう随分長いこと被り続けていたため、元の髪の毛にはくるんと渦巻くような変な癖がついてしまっている。それを手櫛で整えつつ、緩い締め付けから解放された頭と明瞭になった視界に、やっとのことでほっと一息吐けた。

「ふぅ……やっぱ自分の髪は落ち着くな」

 何度撫でつけても跳ねてしまう強情な癖を指先で弄びながら、またビデオの画面に視線を戻して試合の続きを鑑賞する。それを見ていた瞳子は僅かに眉を寄せた。

「休むとき、と言ったはずだけど」
「もうちょっと確認してから休むよ。みこ姉だってまだ寝ないんでしょ? 私も眠くなったら寝るから、気にしないで」

 瞳子はもう一言二言程言いたいことがありそうだったが、結局口を噤んで地図をパラリと捲るのみであった。これ以上は無駄だと思ったのか、或いはお互いさまであるということを悟ったのかもしれない。馨もそれ以降特に話を振ろうとはせず、黙々と映像を観ることに専念した。


 約一時間近くが経過してキャラバンが高速道路に乗った頃には、馨の背後からもいくつかの高鼾が聴こえてくるようになった。一日に二つの試合をこなしたのだ、選手たちの体力はとっくに空っぽになっていたことだろう。
 馨は静かに息を吐き、映像の再生を止めてビデオカメラを鞄の中に戻す。後ろを振り向いてみると、マネージャー以外のほぼ全員がすっかり夢の世界に旅立っているところだった。選手勢で起きているのは、土門と染岡、塔子くらいだろうか。前者二人は何やら小声で話をしているようだが、楽しい話題ではないのだろうか、染岡の表情は未だに険しいままであった。
 ふと、最前列でまだ起きているマネージャー三人娘と目が合う。何となく片手を小さく振ってみると、彼女たちはぱちぱちと瞬きをした後、音無と木野のみ同じように手を振り返してくれた。

「元の姿に戻ったんですね、ちょっとビックリしちゃいました」

 ひそひそ声――それでもきちんと届く程度には大きかったが――で話しかけてくる音無に、馨も声を潜めて返す。

「そのうち皆、私の本来の姿を忘れちゃいそうだね」
「それまでにエイリア学園を倒さないといけませんわね」

 冗談に乗っかって続けた夏未が肩を揺らして笑う。どうかこれがこのまま冗談で終わってくれと内心で切に願って一笑すると、さらに横から塔子が身を乗り出してきた。

「あたしはどっちの江波コーチも好きですよっ」
「あ、私もですよ! 勿論!」
「ありがと、二人とも」

 何故か張り合うようにして宣言してくれた音無共々笑顔を向けてから、馨は立てた人差し指を口元に添え、また前へと向き直った。
 瞳子もまだ眠ってはおらず、地図の次は何か別の本を読んでいるようだが、さすがにその内容まで詮索するつもりは馨にはない。そろそろ身体を休めようかと思って大きく伸びをすると、静寂の車内、ページの捲られる渇いた音が妙に耳をついた。
 その直後に、ぽつり。

「休むなら、こちらに寄りかかっても良いわよ」

 すぐ隣にいる馨ですら聞き逃してしまいかねない程の小さな声で、瞳子はそう囁いた。馨は一瞬聞き間違いをしたのかと思って彼女の横顔を見上げたが、向こうはこちらを一瞥もせずにいるばかりだ。瞳子の性格上、そんな愛想の無い態度こそが答えである。

「いいの?」
「必要無いならそれで構わないけれど」
「いや、それじゃあ……お言葉に甘えて」

 ふふ、と無意識に漏れ出た笑い声に、にんまり吊り上がる口角。それらを隠そうともしないで、馨は誘われるままにこてんと頭を瞳子の肩に預けた。布越しにほんのり感じる体温が心地好く、どこからか安堵を連れてきてくれるようだ。委ねられるあたたかさがあるという安心感に身体中がゆっくりと弛緩していくのを自覚しながら、馨はふあ、と小さく欠伸をし、仄かに目を細めた。今日は疲れる一日であったと、何よりも己の心身がそう訴えかけている。

「……みこ姉も、ちゃんと休んだ方が良いよ」
「えぇ」

 パラ、というページの擦れる音が、先程よりもさらに近くに聴こえる。瞳子が手を動かす際のささやかな揺れが、うとうとと微睡む馨の意識をより深みへと誘ってくれる。

「……馨」

 そうやって微かに名を呼んでくれた声が夢なのか現実なのか、それすら曖昧になるくらいまで意識がふわふわと落ちていき、視界がそっと狭まり、やがて暗闇に包まれて――。

「――パパが見つかった!?」

 ――しかし完全に眠りに落ちる寸前、突然キャラバン内に響き渡った塔子の一声が、馨の意識を無理矢理引きずり上げたのだった。

「な、なに……」

 首を擡げるも、半ば寝入りかけていたせいですぐに反応できなかった馨に代わり、瞳子が即座に塔子の方を振り向く。

「財前さん、どういうこと?」
「うん……うん、解った、それじゃ……。監督、どうやらパパが国会議事堂の前で保護されたみたいなんです!」
「塔子のパパってことは、つまり財前総理大臣ってことだよな?」

 馨同様眠りから覚醒した頭でそう問う円堂に、塔子は「そうだよ」と驚きと喜びの入り混じった声で返事をする。ここで漸く、これがどれだけの一大ニュースなのかということを寝ぼけ眼の者たちがそれぞれ理解をし始め、あちこちから驚愕の声があがった。馨も例に漏れず、一拍遅れで事態を呑み込んだ頃には眠気なんて一切吹き飛んでしまっていた。
 音無が慌ててパソコンを開いて情報の検索を始めると、瞳子は着席し直しながら古株へと早急に指示を出す。

「古株さん、一度近くのサービスエリアに入ってください」
「了解じゃ。ちょうどすぐそこにあるので、じきに着きますぞ」

 古株の言った通り、キャラバンは数分後には最寄りのサービスエリア内に入って停車をした。停まるや否や全員がシートベルトを外して座席を立ち、音無の周りに集合する。馨もその輪の中に入らせてもらうと、近くにいた一之瀬と土門が揃って目をぱちくりとさせた。

「あれ、コーチが元に戻ってる。午前零時の魔法が解けたのかな?」
「ロマンチスト一之瀬、キメ顔つくるのはいいけどまだ十時だぜ」
「言ってる場合か」

 こんなときでも呑気にコント紛いのジョークを交わせる帰国子女二名にツッコミを入れた直後、それまでキーを叩いていた音無が大きな声で「繋がりました!」と言った。
 パソコンの画面はテレビ中継に繋がれ、そこではちょうど総理大臣保護に関する臨時速報が流されているところだった。

『謎の宇宙人たちに攫われていた財前総理が解放され、無事に保護されました。しかし、この数日間どこにいたのかなどの詳細は明らかになっていません――』

 国会議事堂前には多数のテレビ局が押し寄せているようで、映し出されている女性リポーターの背後にはまた別の男性リポーターが立っている。騒然とした現場の様子からも如何に大事なのかが解るというものだ。
 ニュース内からは、ただ総理が解放されたという情報のみしか読み取ることはできなかった。今までどこにいたのか、何をしていたのか、どうして突然解放されたのか、エイリア学園とは何か接触をしたのか、そういった事柄は全く不明なままである。まだそこまで取材が進んでいないのか、それとも総理側が秘匿をしているのか、はたまた総理自身何も解っていないのか。事態は進展したように見せかけて、実際はゼロに戻っただけなのかもしれない。
 ただ何にせよ、総理が無事に帰ってきてくれたというニュースが朗報であることには違いなかった。特に、総理の実の娘である塔子にとってはこのうえない吉報であろう――馨はすぐ傍にいた塔子を微笑ましく見下ろすが、そこには予想外の堅い表情があったため、あれ、とその笑みを打ち消した。

「良かったじゃない!」
「お父さんに会えますね!」

 木野と音無が喜ばしげに塔子を仰ぐも、対する塔子の方は嬉しさを全く感じさせない真剣な顔で、こう言った。

「東京には戻らないよ」
「えっ?」

 何故だとばかりに目を丸くするマネージャー。塔子がこの雷門イレブンに加入した元々の理由は、宇宙人に攫われた父親を助け出すべく戦うためなのだ。その最終目的である父親こと財前総理が帰還した今、彼女が東京に戻らない理由など無いはずである。
 だが、塔子の決意は固い。何かを思い出すようにぐっと拳を握ったかと思えば、後には毅然とした眼差しだけがそこにあった。

「あんな奴らは絶対に許せない……だから、皆と一緒にサッカーで戦う」

 そして円堂を振り返ると、握った拳を胸の位置まで持ち上げた。

「円堂、一緒に戦おう!」

 ほんの数秒の間、二人の視線が交錯し。

「……よし! 地上最強チームになろうぜ!」

 塔子の意思が本物であることを確かに感じ取ったのだろう、円堂もまた拳をつくりあげては塔子のそれとぶつけ合う。にぃ、と歯を見せる笑い方をして再三共闘の約束を交わす二人は、傍から見ているとやはりどことなく似た者同士であると思われた。
 選手たちは、塔子の参戦継続を戦力アップが図れるという意味も込めて純粋に喜んでいる。
 ただ、マネージャーの方は三者三様といった様子だ。木野はきょとんとし、音無はやや引き攣った笑みを浮かべ、夏未は気のせいか不満そうなじと目で円堂と塔子のことを見つめていた。それに気付いたとき、馨は微かに引っかかるものを覚えたが、そこを深く考えるより早く塔子の顔がこちらに向けられた。

「江波コーチ、これからもよろしくお願いします!」

 相変わらずきらきら輝いている両の目とその勢いにやや圧倒されながらも、馨は彼女がそうしていたように、片手に握り拳を掲げた。

「こちらこそよろしくね、塔子ちゃん。一緒にエイリア学園を倒そう!」
「はい! あたし、もっと頑張りますね!」
「そう言ってもらえると頼もしいなぁ」
「えへへ」

 にこにこというよりはにまにました笑顔をみせる塔子は、円堂と向き合っているときよりも心なしか女の子らしく見えるような気がする。
 そういえば、彼女は自分がきっかけでサッカーを始め、今でも憧れ続けてくれているのだった――そのことを思い出すと塔子の態度にも何となく合点がいったが、現在の自分には憧れてもらうだけの要素なんて無い。そう考えると、どこか罪悪感にも似た感情が、小さな気泡の如く湧いてくるようだった。

「今のところは、あんまりコーチらしいことはできてないけどね」
「そんなことないです、見ていてもらえるだけでも嬉しいんですから」

 つい半笑いで零してしまった自虐にも、塔子は溌剌としてそう返してくれる。ふと、以前今の彼女の言葉と似たようなものを言ってくれた子がいたなと思い至ったとき、その答えを示すように視界の端から風丸の視線を感じた。

「塔子の言うこと、解るよ。コーチってそういう人なんだよな」
「だよね!」

 風丸と塔子は互いに同意してうんうん頷き合っている。まさかそんなところで意気投合するとは思わなかったが、馨は口を挟まず緩く笑うだけに留めた。
 そんなお喋りもそこそこに、瞳子の「出発、就寝よ」の号令によって、一同は本格的にキャラバン内で眠りに就くことになった。
 その前準備として、全ての窓に設置されている暗色のカーテンを閉め、それぞれのシートを倒す。完全に水平に倒してしまうわけにはいかないし、就寝時であろうと車が動いている以上シートベルト着用は義務なので、些か寝心地が悪くなってしまうことはどうしようもない。とはいえ、選手は身体が資本なのだ。少しでも環境を改善できるよう、できるだけ車内泊でも寝袋を使用するべきかもしれないと思えた。
 発車したらすぐに消灯なので、皆は停車している間にあれこれとやるべきことを済ませようとしているようだ。荷物の片付けをしたり最後のお喋りをしたり、キャラバン内は俄かに騒がしくなる。

「ちゃんとお手洗いは済ませておくようにねー」
「はーい」

 元気なお返事と共に、何人かがばたばたとキャラバンを降りていく足音が響く。それをBGMに、馨も鞄を足元に下ろしたり補助席の背凭れを倒したりして身の回りを整えていると、その背に控えめな声が掛けられた。

「馨姉ちゃん、ちょっといい?」
「ん?」

 シートを倒したままの体勢で顔を持ち上げると、そこには円堂と木野が並んで立っていた。

「どうしたの?」
「あの、コーチ……それと、監督にお願いがありまして」

 まだどこか他人行儀さの抜けきらない口調の木野が、腹の前で組んだ両手にきゅっと力を込める。
 本当に用事がある相手は自分ではないと悟り、馨が折り曲げていた腰を伸ばしながらすぐ隣で携帯を弄っていた瞳子に視線を投げかけると、彼女は目線だけを二人に返し無言で用件の催促をした。
 それを受け、円堂と木野はちらりと背後を気にするような素振りを見せてから一度お互いに顔を見合わせ、また馨たちのことをじっと見据える。そして、木野が内緒話でもするかのように片手を口に当てて用件を切り出すと、その声量はいっそう小さく密やかなものとなった。

「……どうか、塔子ちゃんをお父さんに会わせてあげてほしいんです」

 ――なるほど。
 今し方の二人の行動の意味を理解した馨は、二人の向こう側、少し離れた場所で隣席の鬼道と談笑している塔子をこそりと見遣る。年相応に砕けた笑みで話に夢中になっている塔子は、今も、そして先程も、父親に対する名残を欠片も感じさせはしなかった――けれど。
 そんな塔子の心中を思っての提案に対し、馨が出す答えなんて一つしか有り得ない。円堂と木野も、それを承知したうえでこうして馨を交えて話を持ち掛けてきていると見える。

「姉ちゃん、お願い。アイツだって本当はお父さんに会いたいはずなんだ。行方不明の間中、ずっと心配してただろうし」
「エイリア学園との戦いの前だからこそって、円堂くんが」

 ひそひそと、それでいて頑固さを感じる口調で強く頼み込んでくるこの二人は、馨が瞳子を説得することを期待しているのだろう。どうせ監督に直談判しても素直に聞き入れてはもらえないだろうから、いざというときのためにコーチからもお願いしてもらおうと、そう考えて。
 そんな期待を一身に浴びせられた馨は、胸中で密かに嘆息した。わざわざ保険をかけなくとも、瞳子はそこまで鬼じゃないというのに――いや、最近の彼女なら、もしかするともしかしてしまうかもしれないのだが。

「そっかそっか」

 とりあえず真摯な眼差しの両者を安心させるように笑いかけてから、次いでにやりと口端を吊って瞳子に目を移した。

「で、どうします? 監督」
「……」

 黙ったまま手元の携帯を見下ろすばかりの瞳子は、一つ返事で了承しようとしなかった。ただ、何かを逡巡しているというわけでもなさそうであるので、無下に一蹴するつもりは無いようではあった。
 一体何を考えているのやら――馨は瞳子の足元にある荷物から地図を拾い上げ、パラパラと中身を開く。一応関東から東北にかけての車道を確認するが、そもそも行程に関して考えてもあまり意味が無い。北海道への道程は非常に長いのだ。

「まぁ多少ロスにはなっちゃうかもしれないけど、どのみち一日で北海道まで渡るのは無理だし、明日もどこかで車中泊しないといけないんだよね。そうすると結果的にそのロスも大したものじゃないから、ちょっと道を外れるくらい何にも不都合は無いと思うなぁ」
「……」
「あと、一応総理に塔子ちゃんの同行の許可はもらわないといけないんじゃないかな。今のままじゃほぼ無断で連れ回してるようなものだし。だったら、いっそ本人が直接話して説得した方が早いかもね」
「……」
「――それに、私もやっぱり二人と同じく会わせてあげたいよ、大事なお父さんに」

 そのとき、瞳子がぴくっと肩を震わせたように見えたのは、果たして馨の見間違いだったろうか。
 そうして終始だんまりで馨の話を聞いていた瞳子は、ややあってから小さな溜め息を吐いて携帯を閉じ、仰々しい動きで腕と足を同時に組んだ。

「……明朝、議事堂前に着くようにするわ」

 素っ気無いを通り越して、最早冷徹とさえ感じる物言いをする瞳子。
 だが、数秒遅れでその言葉の意味を理解した円堂は、真剣な面持ちから一転、ぱっと顔面に笑顔を咲かせて大きく腰を折った。

「ありがとうございます!」
「ありがとうございます! 良かったね、円堂くん!」

 同じく木野も礼をしてから、円堂と共にまるで自分のことのように喜び合った。そうやって仲間のために真摯に思いやって一喜一憂できる二人の姿はどこまでも尊く見える。馨は心がほっこりとあたたかくなるのを感じながら地図を閉じて元の場所に戻し、「さぁさぁ」とはしゃぐ円堂たちの肩をやんわりと押した。

「そろそろ席に戻って、就寝の用意をしなさい。明日の朝は私が塔子ちゃんを起こすから、二人はゆっくり眠ってて良いよ」
「ありがと、姉ちゃん!」
「そこまで任せちゃって大丈夫ですか?」
「早起きは得意中の得意だからね」

 お任せあれ、という気持ちを込めてウインクを一つ飛ばせば、二人は心底嬉しそうに笑ってお礼を重ねてから各々の座席へと戻っていった。

「ありがとね、みこ姉」
「大したロスじゃないものね」

 腕と足を組んだ姿勢のまま微動だにしなかった瞳子は、その後外に飲み物を買いに行っていた古株が戻ってくるや否やすくりと立ち上がり、地図を片手に行き先変更の相談を持ちかけにいく。
 どこまでも素直じゃない人だな――変わらないクールな横顔を眺めながら、馨は独り肩を竦めて苦笑うのだった。


* * * * *


 ――明朝、東京・国会議事堂前。
 予定時刻である午前七時よりも少し早く、キャラバンは目的地に到着した。
 相変わらずその一時間前には既に目覚めていた馨は、運転席から優しい眼差しを送ってくれる古株に会釈をし、シートベルトを外して席を立つ。それと同時に瞳子も立ち上がって用件も告げずにキャラバンを降りて行ってしまったが気にはしない。どうせ何か用事があるのだろう、という漠然とした思考でその背を見送った。
 凝り固まった身体を解しながら後ろの席を振り返ると、馨以外にももう何人かはとっくに目を覚ましていたようで、ちらほらと小声で朝の挨拶が向けられた。その中には木野の姿もあったが、円堂の方は今もまだ鼾をかいて熟睡中だった。そして肝心の塔子も未だ深い眠りの底に落ちている。
 馨は寝ている者たちを起こさないよう、足音に気を配りながらマネージャーたちのもとへそっと歩み寄った。

「おはよう、まだ寝ていても良かったのに」
「何だか車中泊って落ち着かなくて、つい目が覚めちゃったんです」

「先にコーチが起きてて驚きました」と木野が笑い、そこへつい今し方目覚めたばかりなのだろう、眠たげな目を擦りながらの音無が続ける。

「ここ、国会議事堂ですよね……? てことは、東京に戻ってきたってことでしょうか」
「うん、そう。円堂くんと秋ちゃんの計らいで、塔子ちゃんをお父さんに会わせてあげようってことになってね」
「言い出しっぺは円堂くんなのよ」

 気恥ずかしそうにはにかむ木野。それに対して夏未は「彼の考えそうなことね」と吐息混じりに言いながら、手鏡で前髪を整えている。そこには昨夜馨が感じたような秘めやかな不満こそ無いが、どことなく気になる物の言い方ではあった。
 横を向いて眠ったままの塔子を見遣ると、その隣で起床済みであった鬼道もどうやら今の話を聞いていたらしい。窓の外が議事堂前であるという現状にも特に気にする様子は無く、音を立てないよう静かにシートベルトの金具を外していた。

「おはようございます、江波さん。少し外に出ても良いですか? 空気を吸いたくて」
「おはよう。別に出ても大丈夫だよ、車には気を付けてね」
「はい」

 塔子の足を跨ぐようにして通路に出た鬼道に続き、起きていた数名がぞろぞろとキャラバンの外に出ては、議事堂前の歩道で伸びをしたりストレッチをしたりと思い思いに東京の朝の空気を堪能する。音無も夏未もそれに付随して降りていったので、車内に残っているのは馨と木野、あとはまだ目覚めていない者たちの寝息や鼾だけになった。
 気を取り直して、そろそろ本題に移ろう。
 今自分がいる場所に気が付いたとき、彼女は一体どんな反応を見せてくれるのだろうか――馨は塔子の傍にしゃがみ込んで、その耳元に柔く囁きかけた。

「おはよー、塔子ちゃーん」

 しかし囁きが柔すぎたのか、目覚めるどころか何も反応を見せてはもらえない。もう一度、今度はもう少しだけ声の音量を上げてみるも、やはり瞼一つ動かさずにすやすやと眠ったままだ。
「コーチ、それじゃ優しすぎますよ」――頭上で小さく笑った木野が、手助けするように腕を伸ばして塔子の身体に触れ、馨よりももっと大きな声で呼び掛けた。

「起きて、塔子ちゃん」

 それはまるで毎朝優しく起こしてくれるお母さんのようであると、馨は不思議と懐かしい気持ちにすらなった。
 木野の手がやんわり揺すったことにより、塔子はゆっくりとその目を開く。そして目の前にいる馨と木野の顔を重たい瞬きの合間にじいっと見比べた後、シート上でのろのろと上半身を持ち上げた。
 そうすれば、必然的に窓の外の景色が視界に飛び込んでくるわけで。

「……っ!」

 はっとしたように動きを止めた背中を見て、馨と木野は密かに満足の笑みを交わした。

「お父さんに会わせてやってくれって、円堂くんが」
「それに秋ちゃんもね。昨夜、二人が一緒に頼んできたんだよ」

 驚きに見開かれた双眸がこちらを振り向いたところに合わせ、そう説明をする。木野は飽くまで円堂がそう言っていたということを強調しているようだが、馨からすればそれを支持した木野だって充分に塔子を思い遣っているのだ、何も謙遜する必要など無い。そう思ってさらに付言すると、木野は馨をちらりと見遣った後、照れを隠すように前で組んでいた手を後ろに組み替えた。
 塔子は木野、次に馨、最後に後ろで口を開けてぐうぐう寝ている円堂を順に見つめ、まだ今いる場所が信じられないといった表情で、ふらりとその場に立ち上がった。馨もまた折り曲げていた膝を正し、半ば呆けている塔子の肩にそっと手を乗せる。反射的に上目遣いで見上げてきた二つの大きな灰色の眸が、僅かに潤いを増したように思えた。
 ――行っておいで。
 そんな意思を込めて目尻を下げると、塔子は一瞬ぐっと何かを堪えるように顔を伏せてから、今度は円堂のことを真っ直ぐに見つめる。

「……解ったよ、円堂」

 それからすぐに傍らの二人へ向き直ると、きっと心から出てきたのであろう、たおやかな微笑を浮かべ。

「秋も、コーチも、……ありがとう!」

 そう紡ぐ声音は、己を気遣ってくれる存在への感謝の思いがいっぱいに溢れている、とても幸せそうなものであった。




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