帝国学園戦・前半


 練習試合当日。
 運命の一戦を迎えたその日は、円堂曰くの「スゲーサッカー日和」だった。透き通る青い空にぽっかりと浮かぶ白い雲、燦々と輝く太陽は程良く地上を温めて会場を整えてくれる。風も無く穏やかな気候は、サッカーに限らずスポーツ全般日和とも言えるだろう。
 ――少なくとも、その時が訪れるまでは確かにそうだったのだが。
 突如として立ち込めてきた暗雲を引き連れて、遂に彼らが――帝国学園が、雷門へと来襲した。

「さぁ行こうぜ、皆!」

 新たな部員であるMFの松野、DFの影野、FWの目金を迎えたことで無事十一人となった雷門イレブンは、きちんと定刻にやってきた相手校である帝国学園を前にいっそう士気を高めていた。途中、帝国側のウォーミングアップを見て怖じけづいた壁山が逃げ出すという事件があったものの、円堂の説得により壁山は改心し、何とか全員揃ってゲームに挑むことができる状態となった。
 ぐっと拳を握ってメンバーたちと向き合う円堂。やる気に満ちた瞳で左端から右端まで、マネージャーも含め一人一人に視線を動かして、皆が試合前に覚悟を決めたことを改めて確認する。
 そして最後に実況者や新聞部の控えた雷門側のベンチを見るも、依然そこにあのコーチの姿は無く。

「江波コーチ、まだ来ないな」

 円堂が眉尻を下げたのを見て、風丸が残念そうに言う。
 馨には大学があるからそんな早くには来れないと解ってはいるものの、試合開始前――プレッシャーや相手の威圧感に押し潰されてしまいそうな今、頼れる彼女の存在があったら良いのにと思う気持ちが出てしまうのは仕方ない。直接指導をしてくれた馨にこそ、ここで何か激励の言葉を掛けてほしかった。
 風丸の言葉を受けた染岡は、腕を組みながらベンチに置いてある例のノートへと目を遣る。馨の化身とも言えるそれを捉えれば一気にここ最近の出来事が思い返され、募る感情を吐き出すようにフンと鼻を鳴らした。

「昨日だって結局来なかったし、今更来れねーんじゃねーのか? ……あんな電話した手前」

 お前たちは弱い、だから勝てるわけがない――暗喩も何も無しに、馨ははっきりとそう言った。雷門イレブンのストライカーとして誇りを抱きつつあった染岡にとって、この言葉はショック以外の何物でもなかった。
 実際、馨は染岡のシュートを褒めてくれたし、実力があると勇気づけてもくれた。そんな馨の見守る中で頑張ってきて、サッカーへの情熱と誇りを培ってきた。その彼女に敗北を決定されることとは則ち、自分自身を傷付けられたも同義である。
 馨と染岡が一対一で熱心に練習に励んでいたことを、近くで見ていた円堂はよく知っている。だから彼が憤る気持ちも理解できないわけではないし、何と言って宥めれば良いのか思いつけなかった。

「どうせ最初から、オレたちに期待なんかしちゃいなかっただろーしよ」
「あと夏未さんも言ってたっスけど、なんか怪しいっスよね」
「あぁ、あの前の学校が不明の転入生ってやつ……なんか気味悪いでやんす」

 皆が、ここまで溜めていた胸の内を曝け出すように口々に吐露する。
 疑問、不安、訝しさ。
 交わされる言葉には様々な思いが混ぜ込まれているが、そこには同時に“信頼を裏切られた”という悲しみも含まれている。皆が皆、たった数日とはいえ親身になって指導してくれた馨に対し心を開いており、だからこそその分、土曜日に受けた電話の内容は衝撃的だったのだ。そのうえ雷門夏未から知らされた馨の過去の話が不安感を加速させ、試合前だというのにどうしても集中しきれなくなってしまっている。

「今日も来ないんじゃないんかな。勝てないことが判ってるから、見るまでもないって思ってんじゃね?」

 ただ、そんな半田の台詞には、それまで神妙に会話を聞いているだけだった円堂も珍しく厳しい顔を見せた。

「コーチはオレたちを心配してんだぞ。そんなわけないだろ」
「でも、それも本当かどうか……」
「とにかく、オレたちはコーチに強くしてもらった、だから絶対勝つんだ! そう約束したんだから!」

 確かに皆の言うように、馨にはどうしても怪しい部分があるのは否めない。円堂とて彼女のことは殆ど知らず、不思議に感じるところがたくさんあった。だから、こうしてメンバーたちが馨に対して不満を抱いてしまうのも、認めたくはないが仕方のないことだと思ってしまう。
 それでも円堂は信じていた、馨は自分たちを裏切りはしないと。

 ――私は、君には笑ってサッカーをしていてほしいから。

 鉄塔広場で夕日に照らされながら、心から絞り出すような声でそう言ってくれた。重たい何かを背負った笑顔。あのときの馨の顔を思い浮かべれば、尚更強く思う――メールでも約束した勝利を、必ず彼女に見てもらいたい。彼女が自分たちのためにと教えてくれたことを、決して無駄にはしたくなかった。
 また、それは円堂に限った話ではない。

「円堂」
「風丸……」

 隣に並ぶ風丸の真摯な表情は、彼の熱い思いを濁ることなく円堂へと訴えかけている。

「……頑張ろうな!」
「あぁ、当然だ!」

 差し出した拳を互いにぶつければ、コツンと景気の良い音がした。

 ――選手の配置されたフィールドに、天を突き破るが如く高らかに鳴り響くホイッスル。
 彼らの試合が、始まった。


 帝国キャプテン、鬼道がコイントスを辞退したことにより、雷門のキックオフで試合はスタートした。
 始めは松野へ退げたボールを、果敢に敵陣地に切り込んでいく染岡に託す。それからは、相手のスライディングを避けたり巧みにパスを繋げたりと、端から見れば互角とも言える試合展開を見せた雷門イレブン。パスにパスを重ねた後に宍戸、半田によるスルーパスから染岡に繋がったボールを、彼は自慢の足で帝国ゴールへと蹴りつけた。キーパーは半田たちによって完全に翻弄されてバランスを崩し、とても染岡のシュートに対応できる体勢ではない。
 その瞬間、イレブンやギャラリーは雷門の先制を確信した。
 普通ならば止めるのはほぼ不可能である状況、さすがの帝国でもあれは無理だ――そう思っていた。

「あぁーっ!」

 なのに、キーパーの源田はそれを――見事に防いだのだ。

「鬼道、俺の仕事はここまでだ!」

 実況の角馬を始めとしたギャラリーたちが残念な声をあげる中、源田は意味ありげな台詞と共に鬼道へとボールを投げ渡した。
 それを受け取った鬼道はにやりと悪どい笑みを浮かべ、一瞬にして纏う雰囲気を変える。

「あぁ、始めようか……帝国のサッカーを」

 ――そこからの試合は、まさに地獄の様相だった。
 帝国のストライカー寺門による強烈なシュートに始まり、先程染岡が受けたものとは桁違いのスライディングが襲い掛かってくる。今までの展開が嘘のように、一気に動きに鋭さと獰猛さが増した帝国イレブン。どれだけ雷門が心を折らず頑張ろうが、スピードもパワーも大きく上回っている帝国には到底敵わない。敵うわけがない。それだけの力量差があるにも拘わらず、帝国は一切の容赦無く激しいシュートを決めてきた。
 二点目は、まるでこちらへと見せつけるかのような軽快なパスワークの後に奪い取られた。完全に手玉に取られ、遊び相手にされてしまっている。いや、それだけならまだしも、相手は明らかにこちらに物理的な攻撃を仕掛けてきているのだ。純粋なサッカーですら勝つ見込みが無いというのに、実力差以上の猛攻を受けなければならないのはあまりに辛すぎる。
 シュートが決まった後、メンバーは一旦雷門ゴール前に集まった。凄まじい破壊力を持つシュートを受けて倒れた円堂を、染岡が手を差し延べて立ち上がらせる。

「キャプテン、こんな相手とまともにやり合うなんて無理っスよ……」
「何言ってんだ壁山、まだ二点だぞ! それに、最初は手を抜いていた帝国の動きが今はちゃんとしたものになってる。コーチの教えを活かさねーと!」

 円堂の言葉には、他のメンバーも思い当たる節があった。
 正直、試合開始直後は拍子抜けしていた。馨が語っていた帝国のプレーとは良い意味であまりにも掛け離れていたからだ。四十年間無敗の神話を誇るあの帝国学園サッカー部が、よもや弱小チームだなんて呼ばれているような雷門でさえ余裕で抜けてしまうような相手だったことに驚き、そして歓喜した。あのときは勝てると思ったのだ――しかし、今になって解る。
 鬼道のあの一言は、帝国サッカーのスイッチだったのだ。
 大方、最初は様子見のようなものだったのだろう。数分足らずの内にこちらの力量を把握したから、やり方を元に戻してきたというところか。
 そしてその機敏かつ破壊的なプレーは、確かに馨の説いていたものと一致しているし、ノートに書かれていた内容とも相違無いと見える。まだ個々のラフプレーは無いにしろ、全体の動きは皆の頭にある通りだった。
 ただ、いくら解っていたとはいえシミュレーションと実戦とは別のもの。慄くのも無理はない。
 未だにじんじんと鈍く痛む両手を握り締め、円堂は弱音を吐き出したメンバーを必死に励ます。

「オレたちは、避け方だけを教わったわけじゃない。ボールを奪う方法やドリブルで突破する方法、プレッシャーの掛け方、そういうのもちゃんと学んだはずだろ?」
「そうだ、今のオレたちにはテクニックがある。まだ頑張る余地はあるぞ」

 円堂に追随して風丸がそう言うと、不安げな表情は変わらずともちらほらと頷く者が出る。内の何人かは指導自体を受けていないが、試合前にメンバーから聞いたりノート見せてもらったりしたことの内容を思い出していた。

「タイミングとテンポだ、ってノートにも書いてあった。皆、昨日は完璧だったんだから大丈夫だ!」

 頑張るぞ! と明るく声を張る円堂に、チームは萎縮していた気持ちを解し、再びやる気を取り戻した。
 ――しかし。

「風丸!」

 後方から円堂の叫び声が届く。
 強かに打ち付けた全身の痛みを感じながら、風丸はわけも解らないまま地に伏していた。
 ――どういうことだ。
 ボールを持って駆け上がろうとしたら、前方から相手が奪いに来るのが見えた。その走り方、そして一瞬後に捉えた構えは、間違い無く帝国の必殺技である《キラースライド》のものだった。

「いち、に……」
「《キラースライド》ッ!」
「さんっ!」

 だから、教わった通りのタイミングで回避行動に入った。土壇場になるとより力が発揮できるようで、タイミングは練習以上にぴったり合わさっていた。回避は確実だと、風丸自身そう思えた程に。
 だが次の瞬間、脚に鈍痛がはしった。

「ぐぁッ!」

 ――失敗!?
 避けられたと疑わなかった相手のスライディングは己の脛を直撃し、そのあまりの力に抗うことができずボール諸共吹っ飛ばされてしまった風丸。その瞬間、周囲から悲鳴のような声があがるのが解った。
 地面に落下した際に右半身を打ち、身体を縮こませては患部の痛みを訴える。脳髄まで痺れさせるそれを必死にやり過ごす風丸の頭の中は、予想と現実との激しすぎる差異によってすっかりぐちゃぐちゃになってしまった。

「なんで……」

 気付かぬうちに審判がファールを出したらしく、ボールは雷門へと渡る。
 その後すぐに駆け寄ってきた審判と壁山たちにプレー続行可能の意を伝え、何とか立ち上がる風丸。痛みはあるが、雷門には交代できる控え選手がいないため、ここで抜けるわけにはいかないのだ。
 ――さっきのは、きっとまぐれだ。
 息を整え、まだ混乱気味の自分をそう言い含める。馨の言っていた通りの動き、避けられなかったのは自身の動きにどこかニアミスがあったからであるはず。そうでなければおかしい。
 どくどくと早鐘を打つ心臓を落ち着かせ、風丸は再開された試合に集中した。次はできる、皆なら大丈夫だと、何度も内側で繰り返して己を叱咤する。
 だって、たくさん練習をしてきたのだから。
 コーチと一緒に、付け焼き刃とはいえあんなに頑張って練習してきたのだから。

「宍戸!」

 なのに。

「少林寺!」

 どうして。

「半田!」

 自分も皆も――こんなに歯が立たない?


 ピッと短いホイッスルが試合を止める。
 また帝国側の、今度は半田に対する《ジャッジスルー》でのファールだった。

「円堂……」

 まともに受けて倒れた半田の傍らに立つ円堂。その顔は酷く複雑で、彼も同じように状況が理解できていないのだと風丸は悟った。
 入ったばかりの影野や松野、目金ならともかく、何日もかけて直接調整をしてもらってきたメンバーでさえ全く練習時のプレーが活かせていない。あの指導が通用していない。やってきたことの全てが無駄だったとさえ言える、信じられない状況だ。

「くそっ! おかしいぜ、こんなの!」

 肩で呼吸をしながら寄ってきた染岡が、苦々しげな顔で強く言い捨てる。

「あっちは、まるでオレたちの動きがハナから解ってるみてぇなプレーだ」

 円堂はそっと顔を伏せた。
 彼の言うように、帝国のプレーは馨の読みミスとは思えないくらいこちらに対して正確無比。こちらの選手がどの状態でどう動くのか、その一挙一動まで知り尽くしているかのように迷いの無い動きをしている。キーパーとしてフィールド全体を見ていて、そのことに気付かない円堂ではなかった。明らかにおかしいと思っていたが、それでも現状、成す術が無い。
 既に点差は十、しかも自分たちの得点はゼロ。
 イレブンは皆、すっかり疲弊し切っている。

「やっぱりあのコーチ、何か裏があるとしか思えねーよ」

 そんな中では、染岡の吐き出しに応える元気のある者は、いなかった。


* * * * *


「どういうこと……」

 今年度二回目のサボりをしてまで雷門中に駆けつけた馨は、木の影に身を潜めながらひっそりと試合を観戦していた。
 ある程度の悪展開は覚悟をしていた。何から何まで滞りなく上手く運べるとは端から考えてなどいなかった。勿論、練習内容を全て完璧にこなして終始帝国の猛攻を避けきれればそれがベストだが、多少の怪我は致し方無いと割り切っていた。
 だが――前半の流れには、ただただ呆然とすることしかできない。
 ありえない光景が、目の前で繰り広げられていたのだから。

「なんで、ずれてる……!?」

 ――帝国選手全員のプレーのタイミングが、意図的にずらされている。
 途中まではただ帝国側が手を抜いて、所謂ウォーミングアップをしているだけだった。適当に雷門にボールを転がさせてシュートを撃たせ、油断、或いは希望を持たせる“遊び”をしていたに過ぎない。そこから一転していつも通りのプレーに切り替えてきたが、それは馨の知っている帝国のサッカーとは明らかに違っていた。
 帝国が帝王の座に君臨し続けるために培い、継承し続けてきたプレー、そのタイミング。勝利を得るためには絶対条件であるはずのそれが、どういうわけか今回だけずらされてしまっているのだ。
 見ている限り、僅かワンテンポ遅くなっていると推測できる。そのおかげで帝国イレブンはまだ全力を出し切れていない。そこに彼らのメリットは無いにも拘わらず、敢えてこちらの動きに合わせて僅かなずれを組み込んで来ていた。あれは組織チームである、選手が自己判断でわざわざ自身の力を弱めるわけがない。上から全体に、そう指示を出されたと考えるのが妥当であろう。
 おかしい、どう考えてもおかしい――歯軋りする馨の耳に、前半終了を告げるホイッスルの音が届いた。
 ――嫌な予感しかしない。
 その予感がどうか外れていてくれと、無駄なことを願うしかできない自分がとにかくもどかしかった。
 馨は着ていたパーカーのフードを被り、さらに大振りのサングラスを装着すると、足早に雷門側ベンチへと向かっていった。完全にやる気を失っている雷門メンバーたちが、ギャラリーの視線を受けながらベンチの前でぐったりとしている。初めて見る顔が何人かいたが、とても気軽に自己紹介なぞできる状況でもなかった。
 輪になっているその中央には、何とか皆の意欲を高めようと頑張る円堂がいた。が、どうやら失敗したようで、馨が着いたときも重たい空気は変わっていなかった。
 馨はベンチの傍に立ち、唯一立ち上がっているキャプテンへとそっと声を掛けた。

「円堂くん」
「え? ……誰?」
「誰って――あぁ」

 円堂だけでなく顔を上げた他の部員たちも、突然現れたサングラスの人物が誰なのか判らなかったらしい。当たり前だろう、一発で誰だか判別がつかないようにこうして変装紛いの恰好などしているのだ。
 頭上にクエスチョンマークを飛ばす彼らに苦笑しつつ、サングラスを外す馨。久方ぶりの陽光に眩む視界の中、皆が一斉に目を丸くした。

「江波コーチ!」
「遅いでやんす!」
「ごめん、でも試合は見てたから」

 あちこちから遅い遅いと文句が飛び出すが、今は弁明している場合でない。
 簡潔に謝ってから、馨は先程から感じる強い眼光の方へと視線を向ける。そこには、全身から不信感を発している染岡がいた。思いきり顰められた表情が、馨に対しはっきりと釈明を要求している。

「見てたなら、解るよな」
「……ごめんなさい」

 明らかに怒りを含んだ声音。それを受けた馨の口から零れ落ちたのは、何に向けてなのか主語の足りていない一つの謝罪だった。
 帝国のプレーに対する考えを聞きたかった染岡は思わぬ言葉を受けて一瞬意味不明そうにしたが、すぐに彼の中で結論づけて声を荒げる。

「やっぱり、あんた帝国のスパイだったのかよ!」
「やめろ、染岡!」

 今にも飛び掛かりそうな勢いの染岡を宥める円堂。
 だが、彼の目もまた疑惑の色に揺れていた。

「……コーチ、何でオレたちのプレーが通用しないんだ?」

 これまで必死に練習してきたのに、それらは全く意味を成していない。馨を信じてやってきたのに、結果は染岡の言ったことを否定できない展開。不明なところはずっと不思議な人というだけで済ましてきたが、もう限界だと。不安に揺らぐ彼の丸い瞳が、そう訴えている。
 あの円堂ですら今は自分を疑っているのだと解り、馨は小さく痛む胸を拳でぎゅっと抑え込む。この局面、これ以上黙っているのは無理だ――まだ時間があることを確認すると、目を伏せて心を決めた。
 まずは、彼らの一番の疑問から解消せねばならない。

「タイミングをずらしてるんだよ、あっちが」
「タイミングを? でも、ずらしたりしたらちゃんと力が出ないんじゃないのか?」

 ノートに書いてあったじゃないかと言われ、一つ頷く。

「うん、その通り。だから帝国側のプレーはあれが本調子ってわけじゃない」
「あ、あれでもまだ本気じゃないって言うのか……」
「じゃあ本気を出されたら、一体どうなっちゃうでやんすか……」

 現時点で既にぼろぼろだというのに、これ以上の力で攻撃されたら本当に怪我では済まないだろう。そんなこと、言うまでもなく全員が嫌でも理解せざるを得なかった。
 恐れ慄く栗松の悲観的な面持ちが、縋るように馨を見つめる。

「コ、コーチ……何でこんなことになってるでやんすか……?」
「理由は解らないけど、私が教えたタイミングとぶつけてきてるみたいだ……読まれていたって言った方が正しいかな」
「読まれていたって……それ、帝国の監督がコーチのことを知ってるってことなのか!?」

 横たえていた上体を跳ね起こした半田。馨が肯定するように再び首を縦に振ると、あれだけ元気の無かったメンバーたちが途端に落ち着き無くざわつき始めた。
 今まで指導をしてきた張本人である馨を、相手は的確に把握できていたと。その馨がどのような調整を雷門に施すのかを予め踏まえたうえで変更をし、そしてそれはまさしくプレーに反映しているともなれば、不安ばかりがますます募っていく一方だ。どうすればいいんだ、と誰かの弱々しい呟きが聴こえ、同調するように再びメンバーは意気消沈してしまう。
 馨は目線を上げて、帝国の移動用車両の頂に座す男――サッカー部監督であり学園長でもある彼、影山零治を目視した。トランシーバーを用いてイレブンと対話しているらしいその男は、まだ馨が見ていることには気付いていない様子だ。

「……」

 ――何故、私が雷門のコーチをしているとバレている?
 馨の心を、そのたった一つの激しい疑念が埋め尽くす。
 見て解る程度に弱体化しているのだから、誰かが新たに最高の力を発揮できるタイミングを見つけたわけではない。影山が何らかのかたちで雷門にいる馨の存在を知り、指導内容を先読みしたとしか思えなかった。
 すぐに頭に浮かんだのは土曜に出会った鬼道のことだが、たった一日で全てのプレーを細かく変えるなどというのはいくら帝国サッカー部でも不可能である。タイミングをずらしても尚それなりの破壊力を有し、かつチームプレーにも差し支えが無いところを見るに、彼らはちゃんと今のプレーでの練習を粗方積んでいる。
 かといって、それ以外では思い当たるところが無い。コーチをしているということは部外者だと雷雷軒の響木と豪炎寺以外には話していないし――彼らは間違い無く無関係だ――尾行をされていたわけでもない。グラウンドにも不審な影は無かったし、そもそも見ていたのはたった四日間だけだ。こんな短期間で所在を掴まれ、剰えコーチをしていることまでバレてしまうとは、最早人為的な原因としか考えられない。
 帝国側での練習期間を踏まえれば、情報漏洩したのは早くて練習当日、遅くても二日目までだろう。その間に誰かが馨を見つけ、状況を知り、影山に流したとしたら。
 ――誰だ、一体誰が……。

「江波コーチ」

 背後から木野に呼ばれ、はっと我に返る。意識をこちらへ引き戻されてみれば、いつの間にか全員の眼差しが馨一身に向けられていた。
 木野は何かを決意したような顔で、馨を真正面から見構える。一度は開き、しかし躊躇うようにわなないて閉じられかけた唇だが、決意を呑んだ彼女は次こそはっきりと言葉を放った。

「コーチは、帝国学園とどんな関係なんですか?」

 投げ掛けられた木野の問い。それは様々な要因が重なって生まれた、チーム全体の問いである。木野を、さらに近くにいた見知らぬ少女も含めた二十六個の眼差しを受ける中、馨は戸惑うことなく首肯した。
 ――ここが正念場だ。
 気持ちの整理はさっきしたばかりだ、もう大丈夫。今は時間の関係で何から何まで話してなどいられないので、まず話すべきことと話さなくても良いことを脳内で選別した。江波馨という人間の過去、そこにいる確かな自分の姿を見つけ出す。
 帝国学園の“かたち”が存在する場所で記憶を掘り返す行為は、何故か嫌悪よりも懐かしさを引き連れてきてしまう。昔ならば思い出すことすら嫌だったはずなのに、いつからか過去が自分にとって間近なものに感じられてならない。それは喜ぶべきなのか悲しむべきなのか――解らないが、少なくとも今、懐古に浸る場合でないことだけはちゃんと解っていた。

「少しは雷門さんから聞いていると思うけど」

 時間にすればほんの十秒程度のささやかな沈黙を破って、馨が口を開く。

「私は雷門への転入生で、その前は……帝国学園にいた」

 一同が様々に驚きを見せたが、誰よりも先に反応したのは風丸だった。彼がちらりと視線だけを円堂に遣ると、円堂もまた風丸を見遣っている。そのことに気付きつつも触れないまま、馨は話を続ける。

「サッカー部でマネージャーをしながら、選手たちのプレーを見ては気になる部分を指摘したりしてたの。帝国のサッカーに合った最高のタイミングを見つけたのも私で、そのことはあの男……帝国の監督も知っている」

 躊躇した末に、敢えてその名前は言わなかった。あんな男の名を、わざわざ彼らに教える必要は無いと思ったのだ。
 馨が喋るのを止めると、黙って聞いていた者たちが一人、また一人と小さく呟き始める。

「コーチが……」
「あぁ、だから帝国に詳しかったのか」

 気になるところがあったのは彼女がスパイだったからではなく、過去に帝国学園サッカー部に深く関わっていた生徒であるからなだけ――馨と帝国との関係が判明したことで敵ではないと解り、安心感を持った者は少なくなかった。
 安堵の空気が漂い始める中、風丸が身を乗り出さん勢いで馨を見上げる。

「今は、帝国とは何にも関係無いんですよね?」
「勿論無いよ。……簡単に信じてもらえるなんて思ってないけど、こればっかりは、本当に」
「ならそもそも、何でボクたちのコーチになってくれたんですか?」

 続いて投げかけられた少林寺の問いは、馨に昨日の雷門夏未とのやり取りを彷彿とさせる。そう易々と信用されるわけないと解っていながら、それでもこれだけはどうしても信じてほしいと願って告げた理由。馨の中で絶対に揺るがない、ただ一つの真実。
 彼らはきっと、土曜日のあの電話だけでは納得できなかったのだろう。ならば今こそもう一度、今度はもっとはっきりと、心から伝えるべきなのだ――黙って自分を見つめているメンバーの顔を遍く見渡して、短く息を吸い込んで。

「君たちの可能性を、君たちの未来を、潰させたくなかった。帝国なんかに、壊させたくなかったから」

 語尾に力を込め、最後に目を合わせたのは他でもない、円堂守。
 彼は少しの間呆気に取られたように目を瞬かせていたが、次第に綻ぶ表情はやがて馨のよく知っている満開の笑顔を咲かせた。

「……へへっ、ありがとうな、コーチ」

 馨がどれ程までに円堂を、雷門サッカー部を心配しているのか、ちゃんと受け止めているよと言わんばかりのあたたかい笑顔。
 それをきっかけとし、チーム全体にも漸く活気が戻りつつあった。

「良かった、スパイとかじゃなくて」
「三日目くらいから何かあるなーとは思ってたけど」
「オ、オレは信じてたでやんすよ!」
「いい子ぶんなよ栗松!」

 僅かなりとも空気が穏やかになったベンチ。胸につっかえていたものが取れたからか、各々が緊張を解いて二言三言話している。唯一まともにスパイ発言をしている染岡はバツの悪そうな、それでも申し訳なさそうな顔で馨を見ていた。馨はそれに微かな笑顔を返し、自分も後できちんと謝らねばならないなと思うのだった。
 これで、チーム内に蔓延っていた最大の疑いは晴れた。
 が、それでもまだ疑問があるらしい壁山が「でも」と小首を傾げた。

「夏未さんはコーチの前の学校の情報が無いって……」
「それを話してる時間は無いかな」

 時計を見ながら台詞を遮った馨に、壁山は半ば圧されるようにしてこくこくと納得した。
 今の発言で馨の過去話が終わったのだと感じたイレブン。壁山の質問も気になるが、それよりも先に現状の心配をしなければいけないことを思い出す。
 馨の指導は読まれているので通用しない。かと言ってまともに当たりに行けばどんな目に遭うか想像もしたくないし、残念ながら自分たちには突貫的にプレーをアレンジできるような技量も無い。そんな中で、後半戦はどのようにして戦うのか――少年たちは縋るような目で再度コーチを見上げた。
 馨は全身に複数の視線を感じながら、再びあの男を遠目に睨みつける。唇に添えた人差し指を無意味に往復させながら、必死に脳を回転させて今後の試合運びを考える。
 自分の決断が、彼らの運命を大きく左右してしまうかもしれない。
 そんな恐ろしい現実に押し潰されてしまいそうになるのを懸命に堪え、何とか打開策を思案して。

「……全部の動きを、ツーテンポ早めよう」
「ツーテンポ、ですか?」
「そんな無茶な、って言いたそうな顔だね、宍戸くん。でも……ここはそれしか方法が無いんだ」

 的確に、確実に、絶妙なタイミングで行う回避はもう無理だ。だったら少しでも早く、気付いた瞬間にでも動くくらいの気持ちでいなければならない。
 それに、まだ互いに存在を認識しあったわけではないとはいえ、あの影山ならば馨がここにいることにも既に気付いているだろう。ならばこちらがテンポをずらす策を講じることを予測し、必ず対応してくる。ワンテンポ程度早めて合わせにいっては彼の思う壷、ここは無理にでもツーテンポずらすべきだ。今の雷門には辛い要求かもしれないが、もうこのくらいしか馨には思いつかない。
 ――まだ帝国の目的であるはずの豪炎寺は出て来ていない。奴らがこのまま試合を終わらせるとは思えない状況で、こんなのは気休めにしかならない策だが……。

「よし、皆何とか頑張ろうぜ! 今度はコーチも傍で見ててくれるんだ、きっと大丈夫!」

 円堂はそれぞれの背中や肩を叩きながら励ましの言葉をかけている。前半終了直後に比べれば、まだ皆の顔には生気とやる気が残っているように見受けられた。言葉通りの意味で、円堂はこのチームの支柱と呼ぶべき存在である。
 ――彼がいるなら、もしかしたら何か“奇跡”が起こるかも……。
 そんな根拠の無い感覚が胸に去来するが、ある意味現実逃避ともいえる考えだとすぐに振り切る。円堂ばかりに頼っていてはダメだ、自分もきちんと試合を見定め、コーチとしてやるべきことをしなければならない。
 手に持っているだけだったサングラスをかけ直す馨。後半戦の展開を予測して、一人渋い顔をした。

「集まって! エンド交代、後半戦を始める!」




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