帝国学園戦・後半


『さぁ、後半戦のスタートです! 圧倒的な帝国リードの前にどう立ち向かうのか、雷門イレブン!』

 帝国側のキックオフにより、後半戦の火蓋が切って落とされた。
 前半戦からずっと続いている実況は雷門中の生徒である角馬が担当しているのだが、中学生とは思えない的確な状況把握能力や瞬発力、豊富な語彙力を活かした熱い実況は試合を大いに盛り上げる役を担っている。こんな状況でなければその実況含めて純粋に試合を楽しむことができたのに、と思うと残念な気持ちも否めなかった。
 角馬の声を背中越しに聞きながら、馨はライン際まで出てきて選手たちを見守る。そんなことをしたところでベンチで見ている木野や冬海などと同じく何もしてやれることは無いけれど、少しでも近くで観戦することで、せめて何か一つでも、という思いがいくらかはマシになるような気がしたのだ。

「豪炎寺くんはまだいない……時間も無い……ならば」

 後半の帝国がどのような作戦に出るのか、そんなもの想像に難くない。冷や汗が伝う嫌な感覚が背筋を滑り落ちていく。これから眼前で繰り広げられるであろう光景を耐えるため、強く奥歯を噛み締めた。
 ホイッスルと共に寺門が退げたボールは司令塔の鬼道へ渡り、それと同時にFWの二人が前進の構えをとる。

「いくぞ……《デスゾーン》、開始」

 そのFWと、さらに後ろから走り込んできたもう一人のMFとが三角を描くフォーメーションをつくると、馨の心臓がふるりと震撼した。
 ――きたか。

「そして奴を……」

 鬼道が足を振り上げ、叫ぶ。

「引きずり出せェ!」

 力強く蹴りつけられたボールは先を駆ける三人の頭上に上がり、それを追いかけるようにして三人が高く飛び上がる。宙で描かれた三角形には寸分の狂いも無く、その頂点が回転することによって中央のボールへ力が集められていくのを肌で感じられた。
 ――《デスゾーン》。
 破壊力ならば他の追随を許さぬ、帝国サッカー部一の必殺シュート技だ。

「《デスゾーン》!」

 最大限までパワーを集中させたボールを三人が蹴ることで、さらにその力は増幅させられ強靭なシュートになる。禍々しいまでのパワーを纏ったボールは一直線に雷門ゴールを目指して突き進んでいく。
 馨の目がゴール前の円堂に向く。必殺シュートを受ける場合はタイミングも何も無い、ノートには『可能な限り避けろ』と記しておいた。円堂はキーパー用の必殺技を持っていない、止めるのは不可能なのだ。まともに受ければ大変なダメージとなる。
 だが――やはりその忠告も、彼には無意味だったようだ。

「ぐぁっ!」
「円堂くん!」

 バカ正直に真っ向から止めにいった円堂。しかし当然敵うはずもなく、身体ごとゴールネットへと吹っ飛ばされてしまった。
 ベンチの木野が悲痛な声をあげ、馨は思わず息を詰めて円堂を凝視する。派手に吹っ飛びはしたものの、再度立ち上がるその姿を見る限り怪我などはしていない様子だ。そのことに一先ずは安心するも、まだ安堵の息を吐くのは早い。

「続けろ、奴をあぶり出すまで」

 鬼道の言葉は、明らかに豪炎寺を無理矢理フィールドへ誘い出そうとしている。どうせまともに試合を行おうとしたって参加しないのだから、それならば雷門イレブンを人質に見立てておびき寄せようという作戦なのだろう。実に帝国学園らしく、実にサッカーを侮辱した行為だ。
 馨はさっと視線を走らせて豪炎寺を捜す。彼のことだから、参戦はせずともどこかで試合の成り行きを見届けているだろうという確信があった。
 やがて木の影に特徴的な頭髪を見つけると、何も考えぬままそちらへ行こうとした――が。

「……」

 ――思い留まり、踏み出しかけた足を引っ込める。
 行ったところで、一体彼に何と言うつもりだったのだろうか。『このままじゃ雷門イレブンは全員ぼろぼろにされてしまう、帝国の要求は君だ、だから試合に出てくれ』――なんて、そんなこと口にできるわけがない。天才ストライカーとまで呼ばれていた程の実力者でありながらサッカーを辞める、その決断には豪炎寺なりの理由があり、そこは絶対的な他人の不可侵域だ。その中にある彼の気持ちをひっくり返すことができるのは、他でもない豪炎寺修也だけである。馨が無理にでも引きずり出していいものではない。
 解っている、豪炎寺が出てこない限り帝国はずっと雷門を痛めつけ続けるなんてことは。この試合にピリオドを打てるのは彼だけだということも。
 それでも、馨には豪炎寺に強要することはできない。一心に願うのは、どうか彼の中に巣食う闇が、雷門イレブンを見ることで僅かにでも晴れてほしいという、それだけだ。


 その後の試合は、前半戦よりさらに酷なものとなった。
 帝国側はどんなに些細な接触にも必殺技を使い、ファールを恐れぬラフプレーの嵐だ。それに襲われる雷門側はまともに避けることすら叶わずどんどんと倒れ、傷を増やしていく。最早サッカーとは呼べないその虐殺劇も、全ては豪炎寺を引きずり出すためのパフォーマンスにすぎない。
 そして、何より問題なのは――。

「コーチ!」
「……影山」

 なんと帝国イレブンも、ツーテンポ動きをずらしてきたのだ。

「影山、影山……ッ!」

 悔しい、不甲斐ない、情けない。読み合いで、あの男に勝てるわけがなかったのに。
 自身の決断が、結果的にチームを危険に晒してしまった。今目の前で皆が傷付いているのは、全部自分の考えの甘さが招いたものなのだ。己の愚かさと行き場の無い怒りに内臓が溶けそうな程に熱を持つ。暴発してしまいそうなそれらをぶつけるように、遥か頭上からこちらを直視しているあの男を睨み上げた。
 二つのサングラスを介し、視線が交わる。

『――貴様の考えなど手に取るように解る……私に勝てるとでも思ったのか、江波』

 彼はそう言わんばかりに口角を持ち上げ、皮肉めいた笑みを湛える。直接言われたわけでもないのに、あたかも耳元で囁かれるようにそんな言葉が鼓膜へ雪崩れ込み、馨は反射的に両手で耳を塞いだ。うるさい、黙れ、と何度も何度も胸中で唱えて必死に男の昏い声音を追い出す。
 やがて苦々しげにフィールドへと目を戻すも、《サイクロン》、《百烈ショット》……非道な程に容赦の無い、どこまでも暴力めいたサッカーがそこに展開されている。コーチを信頼してずらしたタイミングすら読まれてしまい、雷門イレブンは失意の中、何の抵抗できないままただひたすら傷付いていくのみだ。

「一体、どうすれば……」

 帝国の得点はどんどん増えていく。いや、ここまできたら得点なんて何の関係も無いのだろう。しかしシュートを撃たれる度に円堂は果敢に立ち向かい、その都度強く弾き飛ばされていた。
「もうやめて」――無意識に馨の漏らした悲痛な声も、決して彼には届かない。何度強烈なシュートを受けようが、何度鳩尾にキツイ一撃を喰らおうが、円堂はいっこうに諦めるという表情を見せず、ただ立ち上がるのみだ。そんなキーパーと相対して尚、帝国の選手に一切手加減する様子は無い。
 十八点目が入ったときには、既に円堂以外の選手はコート内に立ってはいなかった。FWも、MFも、DFも、全員が地に伏して動けずにいる。もう試合すらままならない状態だ。
 その光景のどこが可笑しかったのか、帝国イレブンからは自然と笑い声が起こった。その中心にいる鬼道は一等極悪な面持ちで高笑いを上げ、死屍累々となったコートに君臨している。あまりにも残酷で、残虐なその姿。馨が以前出会ったあの鬼道とは、まるで別人のようだった。

「出てこいよ……さもなければ、あの最後の一人を、アイツを――」
「叩きのめす!」
「円堂くん、ダメだッ!」

 馨の叫びも虚しく再び円堂を襲うシュートの嵐。決してゴールを目的としない露骨なシュートが、とっくに満身創痍な円堂の身体をさらに痛め付けていく。ここまでは何とか耐え抜いていた円堂ももう限界らしく、徐々に力が入らなくなっていくのが離れている馨にも見て取れた。
 もう何発目かも解らぬシュートが放たれ、一直線に円堂へ突き刺さろうとする。
 その瞬間、風丸が身体を叱咤して立ち上がり、身を呈してボールをカットしに入った。

「風丸!」
「風丸くん!」

 まともにシュートを喰らい、頭からゴールに叩きつけられた風丸。すぐさま彼の無事を確認した円堂は、サッカーを愛するが故のその行動を受け止め、ゆっくりと帝国イレブンを振り返る。
 必ずゴールは守ってみせる――傷だらけの身体で構えをとる円堂からはそんな思いがひしひしと伝わり、馨は胸の奥が熱く震えるのを感じた。

「円堂くん……」

 寺門の繰り出す《百烈ショット》がゴールに向かっていく。何とか止めようと踏ん張る円堂の両手が、瞬間、さながら電流が走ったかの如く強い光を放った。
 ――あれは……!
 一瞬とはいえ確かに見えた円堂の変化にギャラリーも騒めく。今までとは違う何か凄い力を思わせる光だったが、それでも無情にシュートは決まり、十九点目を入れられてしまった。
 けれど、そう、見間違いなんかではない。

「江波コーチ、今のは……」
「……感じた」

 ――彼の熱意がかたちになる瞬間。
 どうやら円堂自身は全くの無自覚だったようだが、馨ははっきりとそこに“可能性”を見出した。これまで何の兆しも無かったはずの彼の身に、確かに宿りつつある新たな力の芽が見える。それが果たして帝国に対抗し得るだけのものなのかはまだ判別つかないけれど、もしかすると、彼は――。
 やや呆けていた馨は、ピッと鳴ったホイッスルの音によって我に返った。ゴール前の円堂は、今や立ち上がることすらできないでいる。先程感じたあの力もこれでは出しようがない。状況が絶望的なのは変わっていなかった。
 次は雷門のキックオフからのスタートだったが、現在フィールドには目金のみが立っているという悲惨の一言に尽きる場景が広がっていた。さらに酷いことに、元々メンタル面が脆い目金はこの現状に耐えられなかったらしく、大声で泣き言を漏らしながら試合を放棄して逃げ去ってしまったではないか。
 エースナンバーを欠いた雷門イレブン。支柱の円堂すら倒れてしまっていては、もう希望の欠片も見出だせない。ギャラリーからも残念そうな声がぽつぽつと出始めていた。馨とて、ここから何か奇跡が起きるとは到底考えられなかった。

「不様だな」
「無理だ。お前たちはオレたちから一点を取ることすらな」

 格下を虐げては高笑いをあげる帝国メンバーを、言いようのない感情を秘めた瞳で見つめる馨。怒りでも不満でもなく、敢えて当て嵌めるとするなら悲しみに近い感情が込み上げてくる。
 ――彼らにとっては、あれがサッカーなのだ。
 大切な子たちがこんなにボロボロにされているのに、馨は憤ることさえできない。消えない過去が、帝国学園にいたという事実が、あの少年らに怒りを抱くことは自身を棚に上げることと同義であると叱責している。
 それでも、今にも破裂せんばかりに胸が痛む。
 サッカーを愛する少年たちが傷付き倒れる姿に、どうしようもない激情が募ってならない。

「冬海先生」

 首を動かし、ベンチで傍観しているだけのその人を呼ぶ。
 監督だなんて肩書だけの男は必要以上にびくついて、恐る恐るといった様子で馨の方を向いた。

「な、何でしょうか」
「今からでも遅くない、棄権すべきです」
「で、ですが……」

 冬海は何故かはっきりしない態度しかとらず、馨の声には一気に怒気が含まれた。

「ですが、って何ですか? 何が引っ掛かるんですか? 早く止めさせないと取り返しのつかないことになりますよ!」
「あ、う……」
「冬海先生!」
「――まだだっ!」

 馨が怒鳴りつけた直後、フィールドから円堂の叫びに似た声が聞こえた。
 はっとして円堂を振り返る馨。これで試合はおしまいだと諦めていた観衆、さらにはあの帝国メンバーすら驚きの表情を浮かべている。
 皆の視線を一身に浴びて、彼は震えながらも再び身を起こした。

「まだ……ッ終わってねぇ……まだ、終わってねぇぞ!」
「……ッ」

 あれだけのシュートを受けてぼろぼろになっても尚、彼は立ち上がる。強い思いを宿した瞳は光を失わず、一心に帝国イレブン――その中央に佇む鬼道を見据えていた。
 言葉にするまでもないひたむきな思い。彼自身を見るだけで感じられるそれはいっそう馨の胸に激しく刺さり、全身にぞわりと鳥肌がたった。

「……彼は本当に、サッカーが好きなんだ」

 無意識に、口の端から零れ落ちる。
 初めて会ったときから知っていたが、今一度強く感じる。とにかく真っ直ぐに、円堂はサッカーを愛していると。愛しているからこそ帝国のサッカーが許せなくて、何度だって立ち上がれる。彼の抱く気持ち、今や熱いなんて言葉では済まない気持ち。
 馨はわけも解らず、泣きたくなった。

 ――オレ、サッカーができるならあとは何にも望まないよ。

 蘇る姿。声。笑顔。
 サッカーを愛していた友人。サッカーを失った友人。
 円堂の後ろに、彼の影が重なって。

「まだやるっていうのかよ!」
「寺門……俺がやる」

 ボールを蹴ろうとした寺門を止め、鬼道があの三人――《デスゾーン》要員たちへと目配せする。三人はそれに頷くことで返し、所定の位置についた。
 間を置かず、一寸のずれも無く発動された《デスゾーン》。
 その巨悪なるオーラを感じた瞬間――馨は頭の中が真っ白になった。

「円堂くん――ッ!」

 その叫びは、果たしてきちんと声に成ったのかどうか解らない。背後で木野たちが呼ぶ声がした気がするが、もう止められなかった。
 それからの動きは、あたかも誰かに操られているかのようなものだった。駆ける足も何もかもが自分のそれではない心地がして、とにかくそこに辿り着きたいという思いだけが内側にあって、気付けば飛び出したその足で――。

「コーチ!?」
「何だと……!?」

《デスゾーン》を、止めていた。

『おぉーっと、これは何ということでしょうか! 我が雷門のコーチである女性が、なんと帝国の必殺シュートを止めに入りました!』
「実況うるさい!」
『へっ? あ、し、失礼しました!』

 絶句している全プレイヤーに、全く状況が呑み込めていないギャラリーたち。怒声をあげられたために実況が止み、辺りは一瞬にして水を打ったような静寂に包まれた。
 片足で蹴り飛ばしたボールは大きく軌道を描いてラインを割り、どこかへ転がっていく。その行く先も知らず、ぜいぜいと肩で息をしながら、後ろで目を丸くしている円堂と向き合った。急展開に脳がついていけていないらしい彼は、試合中とは思えないくらいの間抜けた面でぽかんと馨を見つめるばかりだ。
 馨は破裂してしまいそうなくらいいっぱいになった頭のまま、円堂の両肩を強く掴んだ。

「まともに止めようと、考えてた?」
「え? ……もちろん、そのつもりだった」

 一瞬面食らったものの、真剣にそう言い切る円堂。
 途端、馨の顔が今にも泣き出しそうにくしゃりと歪められた。

「サッカー好きなんでしょ? どうして……好きなもので自分を傷付けようとするの!? もし何かあったら、どうするの!?」

 円堂が本気でサッカーを愛していること、痛いくらいに知っている。サッカーをする円堂はいつも笑顔で、その笑顔がいつまでも絶えることなく浮かんでいてほしいと純粋に思える程に、彼のサッカーに対する思いを汲んでいる。
 だからこそ馨は辛かった。
 こんなに愛しているのに、自らそれを失うような真似はしてほしくない。今だって馨が飛び込んだから直撃は免れたものの、もしそうでなかったとしたら、彼の言うようにまともに止めようとしていたら、果たしてどうなっていただろうか。万が一が起こってしまった場合、円堂がどれだけ悲しみ苦しむことになるかと考えると飛び出さずにはいられなかったし、声を荒げずにもいられなかった。

「もし、サッカーができなくなったりしたらどうするの!?」

 殆ど半泣きになりながらも掴んだ両肩を軽く揺する馨。
 つられてがくりと頭は揺れたが、円堂の瞳だけは変わらずに正面から馨を捉えていた。先程から変わらぬ、真っ直ぐな瞳が。

「……オレはコーチが思ってる以上に丈夫だから、平気だって」
「ダメだよ!」
「江波さん」

 今度は円堂が、馨の肩に泥まみれの両手を置く。
 グローブ越しだというのにそれは燃えるような熱を馨に伝え、口を閉じさせる。対する円堂はゆっくりと、大事な言葉を言い聞かせるように、こう言った。

「好きだからこそ、逃げたくないんだ」

 ――好きなもんからは、逃げちゃいけないぞ。

 円堂が、そして彼に重なる影が、愚直に気持ちをぶつけてくる。
 疲れを思わせない笑顔で彼は言った。
 反論を掻き消す笑顔で彼は言っていた。

「……!」

 瞬間、ぶわりと襲い来る感情の奔流。
 心臓を握り潰されそうな思いに、馨は暫し言葉を失った。

「……円堂、くん」
「オレは、好きなものに嘘をつきたくないし、好きなものから逃げたくもないよ。なんにもできないうちから負けを認めるなんて絶対嫌だ。正真正銘、自分の身体でぶつかっていきたいんだ」
「……」
「その結果が、たとえコーチの言うようなモンだったとしても……全力でやったことなら、きっとオレは後悔しない」

 何も澱みなど無く、詭弁など無く、円堂は最後まではっきりとそう告げた。それはずっと円堂を心配し続けてきた馨にしてみれば、死を告げられたのと同じようなものだった。
 ――なのに、もう彼を止めるための手段は思いつかない。思いつけない。
 言いたいことはたくさんあるはずなのに、今はただ、円堂の純真さに触れて涙を堪えるので精一杯だった。

「でも、コーチがオレのことを……オレたちのことを思ってくれてるんだって、ちゃんと解ってるから」
「……ッ」
「ありがとうな、江波さん」

 ぱっと開かれる笑顔。馨の好きな笑顔。
 零れそうな涙ごと包み込んでくれるようなそれを受け止め、やっと馨の中に失っていた理性が戻ってくる。
 ――ずっと、見ない振りをしていた。
 帝国に勝つことを目標としている円堂たちに対し、帝国から守るための指導をした自分の行いは、決して彼らのためだけではなかった。そこには間違いなく、“傷付いてほしくない”という江波馨自身のエゴイズムが混ざり込んでいたのだ。勝利のためにと健気に頑張るメンバーの気持ちを利用し、自分の目的を果たすためにエゴを押し付け、結果として彼らの思いを踏み躙る。そうなっていることに、今までずっと気付かない振りをしていただけだった。
 そして今、円堂がそんな馨のエゴを真っ向から否定した。彼の抱くサッカーへの思い、素直であり続けたいという憧憬が、馨に忘れていた大切なものを思い出させてくれた。背後に見える、懐かしい面影と共に。
 ――好きだから、こそ。
 サッカーが好きだからこそ、それを捻じ曲げたくない。サッカーが好きだからこそ、誠心誠意ぶつかりたい。
 その一つ一つが雫となり、馨の心の一番奥まで届いて音も無く波紋を広げ――やがて、はにかむように笑った。

「……君には、本当に敵わないね」

 震える声でそっと呟いては肩に添えていた手を離し、一歩退く。
 円堂は双眸を細めると、まるで宣誓のように両のグローブを力強くパン! とぶつけ合った。


 暫くは、時が凍りついたようだった。
 この空間にいるあらゆる者たちは馨と円堂が会話するのを黙って見ている他無い。そもそも試合途中にいきなりコーチが乱入してシュートを妨害するなど前代未聞の珍事であり、本来ならば即刻退場させなければならない場面なのだが、その役を担っている審判ですら仕事を忘れて呆然としている有様である。嵐の如く場を掻き乱してしまった女性へ、皆一様に目が釘付けだった。
 時が流れ、漸くそれぞれが事態を把握してきたとき、まず一番に口を開いたのは帝国のFWだった。

「おっ……お前誰だよ! 今は試合中だぞ!」
「佐久間」

 出ていけ! と攻撃的に怒鳴る佐久間を抑えたのは鬼道だった。それと同時に覚醒し慌てて駆け出した審判や冬海よりも先に、彼は馨の前へと歩を進める。ほんのボール一つ分程度の距離で立ち止まった彼は、深緑のユニフォームと赤いマントのせいもあってか、いつか見たあの鬼道よりもずっと恐ろしい雰囲気を纏っていた。

「江波さん、一昨日振りですね。元気になられたようで何よりです」
「……鬼道くん」

 気付いてたのか、と身構える馨にさも当然と言わんばかりに頷いてみせる鬼道。
 目深く被ったフードにサングラスという奇怪な出で立ちは、ぱっと見程度では馨と判断できないようになっている。雷門イレブンでさえサングラスを外さないと解らなかったのに、しかし鬼道は離れた場所からでも一目で見抜いた。恐らく円堂と会話している時点で粗方推測はできたろうが、それでも断定できるだけの確信を得られたあたりはさすがの観察眼だと思わざるを得ない。
 サングラスとゴーグル、それぞれを介した眼差しが至近距離でぶつかり合う。馨は殆ど見えないはずの鬼道の瞳が、ゴーグルの奥でぎらぎらと輝いているのが確かに判った。

「あのときとは、まるで別人のようだね」
「公私は混同すべきではありませんよ……そんなことより」

 鬼道が足を動かしたので、つられて足元を見下ろす馨。
 そこにはいつの間にか、今の今まで存在しなかった一つのボールが転がっていた。

「《デスゾーン》を足で弾くとは興味深い。貴女はサッカーができるようですし、見せてみてくださいよ」

 ――貴女のプレーを。
 その含みのある台詞とニヒルな笑みに、馨は眉間に深い皺を刻んだ。

「私はプレーヤーでないよ、鬼道くん」
「問題ありません。俺が許可します」

 拒絶をしても簡単に即答され、ますます顔を顰める。
 鬼道は言った通り、駆け寄ってきた審判に一言告げて馨のプレーを認めさせた。続いて現れた冬海など、一言どころか鬼道の一瞥のみで何も口を挟まず引き下がってしまった。選手に代わってコーチがプレーをするなど普通に考えておかしい展開だというのに、ここにいる誰もが鬼道の言いなりとなってしまい、制止できる者など存在しない。
 本人の承諾が無いうちに進んでいく話に、馨は感情を抑制した声色で絞り出すように紡ぐ。

「……サッカーはしない」
「できない、の間違いでは?」
「――!」

 挑発めいた口調を受け、かっと頭に血が昇る。前に自分を介抱してくれた紳士的な態度の鬼道との違いの大きさに頭痛すら覚えたが、すんでのところで言い返さずには済んだ。それでも睨むように目を眇めてしまうのは我慢できず、比例して鬼道の笑みは深まる一方だった。
 不穏な空気を感じた円堂が、慌てて二人の間に割って入る。

「待てよ、コーチは足を怪我してて……」

 代わりに弁明しようとする円堂だが、鬼道が嘲るように「ほう」と漏らす。

「だが、我が帝国の必殺シュートである《デスゾーン》を蹴り返した挙げ句、きちんと両足で立てているが?」
「……そういえば」

 言われてみれば、あれ程強力なシュートを受けながらも馨はしっかり立てている。それに、怪我をしたと言っていた割りに蹴り返す力は現役の自分たち以上だった。普段からそれを理由にボールを蹴らないのに――大きな瞳に宿る疑念。馨の足を、続いて顔を見る円堂。その疑惑を孕んだ目つきから逃れるように顔を逸らし、馨は眼下のボールをきつく睨みつけた。
 白黒のそれ。
 感触を思い出せば、どくり、鼓動が一際強く高鳴る。


 ――全て貴様のせいだ。


 不意に脳裏に響く、忌々しいあの声。二度と思い出したくなんてなかったあの声。
 被せるようにして、がんがんと警鐘に似た音が反響する。冷たい汗が頬を滑り落ち、心臓が痛むくらいに拍動が早まっていく。無意識に震える手を、ぎゅっと己に抱き込む。

「私は蹴らない」

 ――蹴ってはいけない。

「サッカーをしない」

 ――やってはいけない。

「そっちの目的は、彼なんでしょ?」

 ――私のサッカーは、皆を不幸にしかできないから。

 馨は、今自分がどんな表情をしているかなどとは微塵も考えられなかった。もしも鏡で自身の表情が見えていたのなら、恐らく目前の少年とは面と向かい合うことなどできてはいないだろう。
 そんな馨の、あたかも自身に言い聞かせるような弱々しい言葉を聞いて、少しの間黙り込む鬼道。じい、と正面に立っているその顔を見つめたまま、一度は何か言おうと唇を微かに開きかける。けれども結局それを言葉にすることはないまま、そっと瞑目した。

「……そうですか」

 無関心そうに、ともすれば残念そうにも聴こえる呟き。
 そう言いながら馨の足元で停止していたボールを引き戻した鬼道は、軽い動作で器用に足の甲へと乗せる。

「っ!」
「ならば、仕方ないですね」

 そのままボールを浮かせ、大きく足を振るおうとした――。

「誰だ、アイツ!」
「あんな奴、うちのチームにいたか?」

 が、急に騒々しくなった周囲に気を引かれ、足は何物も蹴ることなく地面へと着けられた。
 馨も円堂も、一体何事だとざわめきの方を見遣る。
 そして、ギャラリーを掻き分けてこちらへと向かって来るあの人物の姿を認めると、二人揃って驚愕に目を見開いた。

『彼はもしや……昨年のフットボールフロンティアで、一年生ながらその強烈なシュートで一躍ヒーローとなった豪炎寺修也!』

 興奮気味な角馬の紹介めいた実況と共に、雷門のエースナンバーを背負った少年――豪炎寺が、絶望のフィールドへと降り立ったのだ。
 ――あの、豪炎寺くんが……。
 ずっとずっと待っていたとはいえ、いきなりすぎる登場に空いた口が塞がらない馨と、やはり信じられないと言わんばかりにしきりに瞬く円堂。
 そんな二人には目もくれず、すっかりサッカーをする服装へと着替えた豪炎寺は、真っ直ぐに鬼道のもとへと向かってくる。と、今度ばかりは顔色を変えて豪炎寺を止めに来た冬海。コーチが乱入したうえに部外者までやって来てしまって、さすがに焦らずにいられないだろう。
 だが、鬼道は予めこうなることが解っていたような余裕さで豪炎寺の参戦を認めた。それからちらりと遣った目線の先にいる馨へ、どうだ、とでも言いたげに口端を吊り上げてみせる。対する馨は鬼道からの視線を感じつつも、飽くまで無表情を崩さず事の成り行きを見つめるのに徹した。

「豪炎寺、やっぱり来てくれたのか!」
「大丈夫か」

 力無くふらつきながらも、助けに入ってくれた豪炎寺を歓迎する円堂。倒れかけたところを支えられた彼は、心底嬉しそうに笑っている。

「遅すぎるぜ、オマエ」

 そんな皮肉に対して微笑を返す豪炎寺は頼もしさに満ち溢れていて、円堂だけでなく馨もまた、尖りきっていた心が柔らいでいくのを感じた。
 サッカーを封印した彼が今、再びピッチに、その類い稀なる才を秘めた足を着いている――一体何が彼の思いを動かしたのか、考えずとも答えは明白だった。馨だって同じものに触れたのだから。自分の中に眠っていた大事なものを突き動かす衝動を、確かに感じたのだから。
 そして豪炎寺は、馨の選ばなかった、馨の選べなかったその道を選択し、大きな一歩を踏み出した。

「……馨」
「豪炎寺くん……」

 交差する眼光。
 ぶつかった一瞬の衝撃に、馨は掛けようとした言葉を喉の途中で見失ってしまった。散々見覚えのある豪炎寺の切れ長の両目が、今は全く別のもののように思えてしまう。そこから放たれる強い光で射抜かれると、まるで彼に責められている心地になった。

「……」

 随分長いように思われた静止も、実際にはほんの数秒間。
 その中で、サングラスに遮られて見え難い彼女の瞳の揺らぎを、ほんの僅かでも感じ取った豪炎寺は。

「オマエよりも一歩、先へ進んだぞ」

 それだけを口にし、踵を返した。




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