マネージャーの仕事


「どうだ江波、あのサッカー部は」

 男は問う。
 肘掛けに置かれた指が、トントンと一定の拍子を刻んでは相手の返答を待っている。

「はい。とても居心地が良くて、楽しいです」

 少女は答える。
 はにかむように、しかし心からの嬉しさを込めた笑みを浮かべる。

「それなら良い。精鋭を集めたチームだ、あそこならば誰もお前を邪険にはしない」
「……ありがとうございます、総帥」
「構わん。お前が活きる場所を提供したまでだ」

 男がゆるりと腕を持ち上げれば、それが合図だったのか、磁石に引き寄せられるように少女の身体がそちらへ向かう。そうしてすぐ近くまで寄ってきた少女の頭を、男の骨ばった手が優しく撫でて。

「ありがとう、ございます」

 温かさに触れ、少女は震える声で同じ言葉を繰り返した。



* * * * *


「――ということで、我がチームのマネージャーとして働いてくれることになった、江波馨さんだ」

 鬼道の簡潔かつ余談を許さぬ説明の後に続き、小さく頭を下げる。チーム全体がどよめいているのは素知らぬ振りをして、飽くまで仕事を任されましたという体で振る舞うように努めた。
 ――馨がマネージャーの話を承諾してからすぐ、鬼道が影山に報告をしに行った。その後、ものの数分で戻ってきた彼に連れられてグラウンドへ向かい、鬼道の一声で一軍全体の練習をストップさせて、今に至る。
 ずらりと並んだ一軍メンバーは練習試合のときの面子にベンチを足したものだ。皆、この場で馨の姿を見ただけでは雷門のコーチと同一人物であることに気付かなかったらしい。鬼道が名前を告げた瞬間、明らかにざわついたからだ。

「鬼道、そいつってこの間の試合で雷門のコーチやってた奴じゃ……」

 最も早くはっきりと指摘をしたのは練習試合のときと同様、銀髪のFWこと佐久間だった。当時の一件を思い出しているのだろうか、わなわなと震える指先を馨へ向け、信じられないと言う顔を隠しもしない。他のメンバーはそこまで顕著ではないものの、驚きの具合は佐久間とほぼ同じくらいだろう。
 それもそうだ、ついこの間までは敵同士だったはずの人間が今度は身内になるというのだから、寧ろ鬼道のようにすんなり受け入れる方がおかしいくらいなのだ。雷門にいた頃も、元帝国学園の生徒だというだけでも充分疑われたのだし、その逆が成立したって何も不思議ではない。馨としても、彼らの反応は尤もだと思えた。
 鬼道は「解っている」と言って不満を訴える佐久間を抑えると、今からの言葉は佐久間に対してだけではないと忠告するように、じっとりとメンバー全員を見渡した。

「元々マネージャーを欲していたのは俺たち自身だろう。彼女は総帥直々の推薦だ、文句は許さない」
「総帥の? ……文句は、無いが」

 その名を出されてしまえば、誰も迂闊に不満など漏らせず押し黙るしかなかった。総帥――影山はこの学校の何よりも尊重すべき人で、ここで起こる全ての事情の中心にいる存在だからである。そもそも鬼道がこうして素直に話を進めている理由だって、影山が馨の名を挙げたからというそれに他ならない。さながらここは軍事施設だ。
 相も変わらず中学校らしからぬ徹底されたヒエラルキーに、馨は思わず笑ってしまいそうになった。勿論、笑い事ではないことは承知済みだが。

「江波さん」

 鬼道に呼ばれ、慌てて表情を引き締める。
 第一印象が最悪なのだから、せめて挨拶くらいはきちんと行いたい。

「どうも、江波馨です。仕様が変わっていなければそれなりに働けるので、必要なときには遠慮無く頼ってもらって構いません。よろしくお願いします」

 雷門メンバーにしたときのように、中学生相手でもしっかりとお堅く纏めておいた。
 改めて一礼をすると、晒した後頭部にちくちくと痛いくらいの視線が刺さる。影山の推薦ということで文句は言わないものの、まだ怪訝さや不信感を拭い去れない者がいるのがよく判ったが、それに対して反発する気は無い。
 ぐっと腹を括って頭を上げる馨。暫くは帝国イレブン側もどう反応して良いのか解らないといった様子だったが、そのうちキーパーの少年がふと首を傾げた。

「仕様って、どういうことだ?」
「彼女は元々帝国学園の生徒で、在学中はサッカー部マネージャーをやっていたそうだ」
「卒業生ってわけじゃないのか」
「うん、中二のときに雷門に転校してそっちを卒業してるから」

 鬼道と馨が代わる代わる行う説明に「へー」とどこからか声があがったが、それ以外は特に大した反応を見せないメンバー。話自体は真面目に聞いてくれるので別に興味が無いというわけではなさそうだが、対応が中学生とは思えない程落ち着いているため、馨は彼らと雷門イレブンとの内面的な違いを強く感じた。
 結局、本来馨自身が言うべき部分まで鬼道がきっちりと説明をしてくれた。おかげでこれ以上話すことの無くなってしまった馨は、予め渡されていた選手のデータへとさっと目を通してから顔を上げ、改めてメンバーの容姿を確認する。

「時間取らせて申し訳ないんだけど、ここで顔と名前を一致させたいから、呼ばれたら返事ついでに片手挙げてください」
「うーっす」

 何とも気の抜ける返事をしてくれたのはMFの辺見。せっかくなので彼のいるポジションから見ていくことにした。
 MFは辺見に始まり成神、咲山、洞面、そしてキャプテンの鬼道を入れた五人。キーパーは源田。DFは大野、五条、万丈の三人。そして要のFWツートップは寺門と、

「佐久間次郎くん」
「……」
「……佐久間くんは、何か言いたいことがあるみたいだけど」
「別に」

 先程から、と言うよりは出会ったときからやたらと攻撃的な少年、佐久間。今も名を呼ばれても返事どころか挙手もせず馨を睨むような目つきで見ていたが、こちらから目線を合わせようとするとふいっと逃げてしまう。
 なるほどな、と感得する馨。ここは天下の帝国学園で、彼らは四十年間無敗を誇る王者帝国学園サッカー部なのだ。『影山総帥の推薦』という魔法の言葉を以てしても外部の人間の侵入を受け入れられない、そんなプライドを持った者がいることだって覚悟していた。
 そしてそれがきっと、この佐久間次郎という少年なのだと。
 佐久間の隣にいた源田が「おい」と彼の無遠慮な態度を咎めるも、佐久間は特に反省する様子も見せず、どこか苛立たしげに明後日の方を向くばかりだ。そんな部員にキャプテンの鬼道もまた口を挟もうとしたが、馨はそれを片腕で制して小声で「気にしないで」と囁く。
 そして再度メンバーに向き直ると、毅然とした口調で宣言した。

「いくら総帥の呼び寄せた人間だからって、そう簡単に受け入れてもらえるとは思ってません。雷門でコーチをやっていたって時点で、君たちからの信用は地に落ちてることも解ってます」

 それでも、と小さく息を吸い。

「私は、ここにマネージャーとしてやって来ています。マネージャーのいない帝国学園サッカー部のために、自分ができることは何でもやりたいって気持ちで来ています。だから、別に無理に仲良くしなくても、ただ仕事を任せてもらえればそれでいい。……少しでも皆の役に立てるよう、とにかく頑張ります」

 理由や経緯はどうであれ、馨はここで、この帝国学園サッカー部で、もう一度マネージャーをやると決めた。その決意に嘘偽りは無いし、雷門でコーチをすると決めたときのように、やるべきことをやり通したいと思っている。もう自分勝手なエゴを押し付けるような真似はせずに、ただ一心に、ここでマネージャーとして役に立ちたいのだ。
 そんな馨の気持ちは、果たして皆に伝わったのか否か。
 解らないけれど――少なくとも、全く響かなかったというわけではなさそうだ。

「そんなこと言って、後悔しても知らないよ? マネージャーさん」

 悪戯な笑みを浮かべながらこてんと首を傾けるのは成神。どういう意味かと馨も同じ方向に首を動かすと、今度は声をあげて笑い始めた。

「ふふ、オレ、マネージャーさんにいっぱいお願いごとしちゃおっかなー!」
「いいよ成神くん。できる限り応えるようにするから」
「いや、多分成神はロクなこと考えてねーと思うからそんな真剣に答えなくていいぞ、マネージャー」
「はー? 失礼ですね辺見先輩、オレはハゲてないんで至って真面目ですよ」
「意味わかんねーから! つーかハゲって言うな!」
「誰も辺見先輩がハゲとは言ってないですよー」
「お前らこんなときまでバカなことやってんじゃねーぞ」

 何やら勝手に騒ぎ始めた成神と辺見の頭を、その後ろにいた寺門が制裁とばかりに同時にど突く。それで騒ぎは収まるかと思われたが、制裁自体が日常茶飯事なのか成神も辺見も全く気にせず、今度は寺門まで巻き込んでぎゃあぎゃあと声を荒げ始めたではないか。
 他のメンバーもすっかり慣れきったという面持ちで三人の諍いを見ている。中には万丈のようにわざわざ茶化すメンバーもいたが、そちらは源田に叱られて飛び火を免れたようだ。その隣で依然として眉を寄せたままの佐久間は不機嫌さを極めているのが雰囲気だけで見て取れた。
 さあ、この騒ぎは如何様(いかよう)にすべきか――ただのマネージャーには荷が重い。となれば、最後の鶴となれるのは馨の横に立っているキャプテンその人だけだろう。
 鬼道は、心の底から「やれやれ」と言いたそうにゆるく首を振り、馨を仰ぐ。

「……すみません、バカ者ばかりで」
「いや、正直ちょっと安心したかも」
「安心?」

 未だ喧しいBGMの中、鬼道が目を瞬かせる。
 馨は一つ頷いて、この騒ぎの元凶である二人を見つめた。

「私の前でバカやってもいいって思える程度には、許してもらえてるのかなって」

 両者にそんな考えがあったかどうかは定かでないけれど、このまま毒にも薬にもならない微妙な関係を継続していくのかと思っていた矢先だったので、寧ろ場を賑やかしてくれた彼らには感謝しなければならないのかもしれない。
 それに、これまで帝国イレブンのことを中学生離れしているとばかり感じていた馨にとって、今皆が見せる様々な表情は少し意外だった。どんなに総帥に傾倒し、どんなに暴力的なサッカーに興じていたとしても、まだまだ中学生なのだと。本来そこにある根は、もっと柔らかくて優しいものなのだと。そんな風に思える要素に触れられたことが、純粋に嬉しかった。
 再度鬼道へ視線を戻せば、彼はふっと微笑を零して「そうですね」と相槌を打ってくれた。そんな穏やかな表情を見たのは恐らく初めてだ。これまでずっと硬い無表情か極悪な笑顔しか見てこなかった分、不覚にもどきりとしてしまうが、中学生相手に何を考えているのかとすぐに気持ちを切り替える。
 そんな馨を尻目に、鬼道はやにわに一歩踏み出すと、まだまだ騒ぐメンバーに向かって大きく息を吸い込んだ。

「いい加減静かにしろ! 練習を再開するぞ!」

 それはまさしく鶴の一声そのものだった。
 あっという間にしんと静まり返ったメンバーは、全員揃って返事をするとそそくさと次の練習の準備に散っていった。あんなバカ騒ぎが嘘のように、皆既に真剣な顔つきになっている。

「……スゴいね、鬼道くん」
「これくらいできなければ、帝国でキャプテンなど務まりませんので」

 謙遜無しに当然と言い切る鬼道だが、馨も苦笑いつつ同意しか返せなかった。
 さて、ここから馨もマネージャーとして本格的に仕事を開始することになる。
 グラウンドいっぱいに広がった彼らが気になって鬼道へ確認してみれば、今日は一部でポジショニングを確認する以外は個人かペア練習なのだと教えてくれた。先日の雷門戦でずらしたタイミングやテンポを元に戻したので、その最終調整も兼ねているとのことだ。
 話を聞く限り、練習内容的には馨もコーチングできそうなものであった。が、ここではコーチを名乗っていない以上、あまり積極的に帝国の戦術に首を突っ込んでいくのは憚られる。それに、たった一人のマネージャーが練習を手伝える程の暇を持て余せるわけがなかった。
 まずは鬼道に案内されて自身が業務を行う範囲を見て回ることになった。金を惜しむことなく設備の整えられた帝国学園には、グラウンドの階段を下りたすぐ近くに洗濯場と簡易調理場とシャワールーム、その向かいに部室がある。洗濯機の位置が記憶と違っていたが、その他は丸ごと六年前のままだった。特に問題無く仕事ができそうである。
 諸々の説明を終えた鬼道と共に再びグラウンドへ戻ると、先程召集をかける前に休憩をしていた面子が、ベンチに置いてあったタオルやボトルを持って馨の前へとやって来た。洞面と咲山である。

「マネージャー、新しいタオルとドリンク頼む」
「よろしくー」
「解った。ドリンクは次の全体休憩まで待っててね」

 早速仕事だ――馨は腕を捲り、ベンチ脇に無造作に置いてあったカゴを抱える。手渡されたものを中に放り込んでいると、横にいた鬼道が二人を叱咤した。

「おい、マネージャーとはいえ年上の方だ。口調に気をつけろ」
「あー、いいよ鬼道くん」

 まさかそこに指摘が入るとは思わず、彼は本当に育ちが良いのだと再度実感する。確かに年上には敬語を使った方が良いのだろうが、馨はそんなところまで気にしていない。どちらかというと、必要以上に気を遣われる方が苦手なタイプだ。
 鬼道が反論しそうな様子だったので、馨はそれを抑え込むようににこりと笑顔を向ける。

「変に気を遣われてもやり難いから。それに、どうせ皆私のことなんてせいぜい高校生くらいにしか見えてないだろうしね」

 染岡たちに言われたことは忘れもしない。
 それでも一応、自虐のつもりで言ったのだが。

「え、違うのか?」
「……」

 予想を外れた咲山の返しに絶句して洞面に視線を投げると、彼もまた、思わぬ真実を知ったと言わんばかりに元々丸い目をさらに丸くしているところで。視界の端では、鬼道がどうしたものかと狼狽えるのが見えて。

「……これでも、大学生、です」

 一瞬、自らのプロフィールすら見失ってしまいそうになった。


 気を取り直して作業を再開させる馨と、今し方聞いたばかりの情報を早速仲間へ流しに走った咲山と洞面。鬼道はそんな二人に何か言いたげだったが、馨が気にしていないと言うので諦めて源田と打ち合わせをしにゴール前へと向かう。話し合いの間にもこちらを気にする素振りを見せていたが、何の問題も無く働いているのを認めると、そのまま源田と向き合いシュート練習を開始した。
 帝国サッカー部の休憩には、個々がとるもの以外にも二回に分けた十分の全体休憩が存在する。部活が四時半から始まり、五時半に一回目、六時半に二回目。特に二回目の休憩は、その後本日の締めくくりとして紅白試合を行うため、しっかり調子を整えるという意味で部員たちにとっても大切な時間となる。
 今日は既に一回目が終わっているので、二回目に備えて色々と準備をしておかなくてはならない。先の二人に続いて何人かがボトルやタオルを預けに来たので、全て回収してから急いで作業場まで走る馨。階段の往復は二十歳の身体でもなかなか厳しいものがあるが、時間は待ってなどくれないので常に駆け足だ。

「よっこらしょ……っと」

 既にTシャツやタオルが突っ込んである機械の中にさらに物を押し込んで、業務用の洗剤や漂白剤を入れてからボタンを押す。すぐにゴウンゴウンと働き出したのを確認してから、次は乾燥機に入っていた洗濯物を取り出し備え付けのカゴに放り込んだ。タオル類はその場で畳んで定位置の棚に置き、衣服は部室へ運んでから同じように丁寧に折り畳む。名前の書いてある替えのユニフォームは各々のロッカーに入れておいても良かったが、マネージャーといえど勝手に私物を見られるのは嫌な者もいるかもしれない。なので、所有者不明のシャツと併せてテーブルの上に並べ、各人が回収できるようにしておいた。
 そのついでに部室内を見渡すと、一応表面的に掃除はしていると見受けられた。はっきり汚いと感じる程でもない。けれど、やはり毎日清掃するのは難しいようで、所々に無視できない汚れがちらほら散見された。これは全員が帰ってから一気に掃除をした方が良さそうだ。念のため、後で鬼道に確認を取るべきだろう。
 ふと目に留まったホワイトボードには、いくつかの青いマグネットが置かれたままだ。恐らく先日の雷門戦で雷門側が使ったフォーメーションだろう。あの試合は円堂と豪炎寺による、帝国側からすれば青天の霹靂レベルのコンビネーションによって決着がついたものなので、こうやって振り返る必要があるのかどうかは微妙だ。それをわざわざ省みているあたり、帝国イレブンが真摯にサッカーに取り組んでいるのがよく解る。
 もしも次に再び雷門サッカー部と激突したら、一体どんなサッカーが見られるのだろう。
 そのとき、帝国サッカー部はどんなチームになっているのだろう。
 まだまだ霞がかっている未来にそんな思いを馳せるのは、些か早急すぎるのかもしれないけれど。

「……綺麗な字だな」

 各選手の名前、取り分け赤色で強調されている『円堂守』『豪炎寺修也』という文字に、無意識の感想が漏れる。お手本のようにしっかりとした、それでもどこか子どもらしさの抜けきらない達筆、これは鬼道の字だろうか。彼らしいな、と思えるそんな自分に不思議な笑いがこみ上げた。
 一歩近付くと、ほんの少しでも彼らを理解できるような気がする。既に組み上げられていた印象を、上から順に崩していける気がする。そこから何が始まるとか、何が起きるとか、そんなことは全然見通すことなどできない。先行く道は不明瞭なままだ。
 だけど今は、それで良い。

「……よし」

 気を改め、馨は部室をあとにした。
 続けてドリンク作りを行うが、一軍は人数がそんなにいないため然程大変な仕事ではない。現代では主要なスポーツドリンクは大抵が粉末になっているので、ひたすらシェイクできる腕力さえあれば誰だって容易に作ることが可能だ。
 ただ帝国はさすがというべきか、市販のものではなく企業特注の粉末を使用しているので、そのへんの分量には気を付けねばならない。アミノ酸、プロテイン、ミネラル――よく耳にする栄養素をぎゅっと濃縮して詰め込んだ、謂わば帝国学園オリジナルブレンドドリンクだ。馨も飲んだことはあるが、味はそのへんにあるスポーツドリンクと然して変わりはなかったと記憶している。
 回収した分に加えて予備のスクイズボトルも並べ、手早く粉末と水を投入し、振る。確か振る度合いも大事だった。あまりやりすぎてもいけないし、やらなさすぎてもいけない。そして作り終えたらすぐに保冷だ。予め用意されていた小振りのクーラーボックスに、できあがった傍からどんどん並べていけば、ドリンク作りは一旦おしまいである。
 時間にして十分もかからなかった。このくらいの余裕ができるなら、材料さえあれば他にも体力回復できるものを作ってしまえるだろう。

「やっぱりレモンかな」

 蜂蜜漬け、と呟きながら、今度は空のボトルの洗浄を始めるのだった。
 調理場の時計が六時半を指す直前、粗方の作業を終えた馨はグラウンドへと戻ることにした。全員分のタオルを入れたカゴを両手で抱え、肩にはドリンク入りのクーラーボックスを引っ掛けて、バランスを崩さないよう足早に階段を上がる。さすがに重たくてやや息は上がったが、できるだけ周りに悟られぬよう平静を装いながらベンチに荷物を下ろした。
 馨が戻って来たのを確認したのか、ちょうどのタイミングで鬼道が休憩の号令をかけた。すっかり汗塗れになったメンバーがわらわらとベンチ前に集まってくる。

「皆、お疲れさま。ドリンク全員分あるから温くなっちゃってる人はこっち持ってってね」
「どもっす」
「おー、なんかこういうの変な感じだな」
「ですね。これから一年がやらなくて良いと思うと気が楽っすよ」

 ボトルを取りながらそんなことを言っている万丈と成神を尻目に、汗を流しているメンバーへタオルを手渡す馨。ここで何かご指摘があるかもしれないと内心緊張していたが、全員特に文句無く休憩に入ってくれた。懸念要員だった佐久間も一応ちゃんとドリンクを飲んでくれているので、馨は人知れずひっそりと胸を撫で下ろすのだった。
 イレブンが休憩している間に、馨は次の紅白試合の準備に移った。まずはこれまで使用していたカラーコーンやそのへんに散らばっているボール等を片付ける。その後、鬼道の用意したチーム分けを確認してから紅チーム用のビブスを部室から運んできて、該当の人物に手渡していった。
 そしていざ試合が始まれば、今度はビデオ係としてベンチでひたすら全体の様子を撮影する役に回る。後々部室で反省をするための資料にするのだそうだ。地味だが、これは馨にとっても大切な役割だと思えた。

「……やっぱり上手いな」

 小さなモニター越しに全員の動きを捉えつつ、ぽつりと零す。
 プレー内容はどうであれ、やはり帝国サッカー部は全体的にかなりレベルが高い。いつぞやの動画サイトで見たときもそう感じたが、こうしてより身近で彼らの試合を目にすると感じ入るものもまた一味違う。プロ並み、と言ってしまえばさすがに過言になるかもしれないが、少なくとも全国大会優勝常連という肩書に偽りは無いだろう。個々のキレ、全体の統率、どこを取っても文句無しだ。
 馨はただのマネージャーだが、こうしてチームの戦略や連携、個人の動きを知っておくこと自体は重要だ。なまじ帝国サッカー部に詳しいので、もし万が一どこかで役に立てる場面があれば、そのときは力になりたいと考えている。それ以外にも、不調な選手を見抜いて適宜処置を下すというのも、マネージャーの大事な仕事の一つだ。
 見たところ、現在は皆調子良く動けているようだった。雷門戦ではゴールを破られてしまった源田も着実にボールを止めているし、敵意剥き出しの佐久間は馨のことなど忘れ去ったようにプレーに集中できている。
 そんな彼に今し方パスを出した鬼道は、当たり前といっていいのか、このハイレベルな集団でも一段と抜きんでた技能を発揮していた。キャプテンの名に恥じぬ圧倒的なオーラと的確なゲームメイクで、彼の所属する白組を大いに奮わる鬼道。彼のプレーはピッチ上の選手だけでなく、それを傍観している馨の心にも火を灯してくれるようだった。
 結果的に勝負は白組が一点を奪って終了し、本日の部活はここまでとなった。
 腕時計の短針が七を指すと同時にホイッスルを吹くと、メンバーは「あー」だの「はー」だのと言葉にならない何かを吐き出しながら集合し、鬼道の号令によって解散。早くも空っぽになったボトルやくしゃくしゃのタオルを馨に預け、各自アイシングを済ませた者からのろのろと部室へ引き揚げていった。
 最後までベンチに残っていたのは、預けられた物を纏めている馨と、先程の試合のビデオを確認している鬼道のみだ。

「さすがの仕事っぷりですね」
「これくらいなら普通だよ。あ、鬼道くんアイシングは?」
「まだです」

 自らの汗は流れるままにし、ベンチ下にあった袋からコールドスプレーを一本取り出して鬼道に渡す。代わりにやろうかと進言してみるも、答えは簡素な遠慮だった。
 シュー、というスプレー音が静かな空間に溶け込んでいく。よく使い込んだ利き足を殊更丁寧にアイシングする鬼道に、馨は作業する手をそのままに話を振る。

「これまでは個人でやってたみたいだね、アイシング」
「はい。ですが、スプレーの数が少ないのと時間が掛かるのとで、やらない部員もいます」
「そうか、それはあんまりよろしくないなぁ。備品の購入はかげや……総帥に任せ切り?」

 一応サッカー部の一員になるのだからと呼び方を改める。
 鬼道はさして気にせずにさらりと答えた。

「細々としたものは週に一度、一年が在庫を確認して注文しています」
「じゃあ、明日からは私がやるようにするよ。とりあえず明細書出しとけば問題無いだろうし……他にいるものがあったら言ってね」
「お願いします」

 馨はベンチの脇に放置されていたボトルを拾い上げ、一つ大きく伸びをする。背骨がパキポキと軽快な音を鳴らした。
 ――密度の濃い時間だ。
 今日は途中からだったのでまだ短い方だが、これからは午後部に加えて朝部というものにも顔を出さなくてはいけなくなる。木曜以外は九時から講義が始まるが、駅から大学までを徒歩でなく原付通学にしてしまえば、そんなに無理はせずに済みそうだ。まずは原付を購入するところから始めなければならない。
 そこまで考えてから、ふと頭が冷える。真剣に時間の遣り繰りを脳内でシミュレーションしている自分を第三者の目で見てみると、無意識のうちに笑みが零れた。

「……はっ」

 作業をしているうちは、余計なことを何一つ考えなかった。頭の中はひたすら皆をサポートすることでいっぱいになっていて、自分が今どういう人間であるかということを綺麗に忘れていたのだ。
 ――まるで、昔に戻ったみたいだ。
 思い切って飛び込んだ場所は、想像以上に馨の心へと染み入っていく。

「本当に、もう一度……」

 ――やり直せるのだろうか。
 六年前、自分が失ったあの時代を、今、ここで。

「――随分楽しそうですね」

 不意に聞こえた台詞に、未だそこにいるもう一人の存在を思い出す馨。
 ぱっとそちらを振り返ると、アイシングを終えた鬼道はベンチから立ち上がって馨をじっと見据えていた。

「一人でこなすには大変な仕事なのに、そんな様子は一切見せない。今の江波さんは、とても楽しそうです」
「……なんか、嬉しくて」

 誰かの使ったタオルを手に掴んだまま、ふっと吐息を漏らす。考え無しに口から零れた返答は、その直後に馨の中央を静かに流れ落ちていった。
 嬉しい――それは、仕事が楽しい以前の気持ちだ。
 こんな感情を抱く権利が自分にあるのかと咎めたくなる程には、この場所に居場所を見つけられることが嬉しい。ここにいて良いのだと思えることが、ただただ嬉しい。

「あれだけ嫌がってたくせにって思うかもしれないけど、仕方ないんだ。嘘吐ける程、私は強くないからね」
「そんなことは思ってません。ただ、不思議だと感じただけで」
「また“不思議”か」

 しかし全く以てその通りであると、馨は柔らかに口角を持ち上げる。
 その笑みを受けた鬼道の双眸がゴーグルの奥でそっと細められたことには、まだ気付けないまま。




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