ハチミツレモン


 帝国学園の場合、土曜日曜は朝七時から夜七時までみっちりと部活動を行うことになっている。
 十二時間という長時間に渡る練習は相当充実感を生むだろうと思われるところだが、実際はなかなかそうでもない。時間がたっぷりあるからこそ、予めしっかり予定を組んでおかねばすぐにダレて怠慢さが顔を出してしまう。ただだらだらと長ったらしく続けるだけの練習は、損にはならずとも決して選手の実にはなり得ない。なので、如何に時間を無駄にせず効率良くスケジュールを組めるか、土日の部活はまずそれがキモとなるのだ。
 当然マネージャーとして一日を通してのタイムスケジュールは把握しておくべきだし、少しでもメンバーが快適に練習に励めるよう常に先手先手で動けるようにすることは謂わば鉄則である。天下の帝国学園という場所にいるならば、そのくらいの心得は呼吸と等しく持ち合わせておく必要があろう。
 帰宅後、馨は今日の部活終わりに鬼道から渡された『今週末の練習メニュー』に目を通し、つい間の抜けた声を漏らした。
 集合から始まり、アップ、走り込み、ペア練、ポジション練、ポジション同士を組み合わせたグループ練、ミニゲーム、全体練習。午前中に詰め込まれたここまでの内容ならば平日の部活と同じだが、午後になるとそこに筋トレや必殺技特化の練習などが組み込まれている。分刻みレベルで管理されたスケジュールには一切の無駄も無ければ心を落ち着ける暇も無い。鬼道曰く練習メニューを用意しているのは影山だそうなので、この徹底されっぷりも然もありなんと言ったところだろうか。あの総帥からすれば、この程度で音を上げるような選手はそもそも帝国イレブンに相応しくないのだ。
 一応、合間合間の十分休憩の回数は午前に二回、午後に二回と平日より増えている。さらにお昼は十二時から十三時まで昼休憩となっているので、叔父の見舞いに行くくらいの時間は確保できそうだ。ただ、場合によっては見舞いを二の次にしてしまうかもしれないことを、今のうちに胸中で詫びておくことにした。
 ここまで詰め込まれたトレーニングをこなすのだから、言わずもがな選手への負担もそれ相応になる。今までマネージャー無しでどうやって回してきたのか疑問に感じるくらいだが、今までは今まで。明日からは馨がいるのだし、せめて「先週よりやりやすくなった」と思ってもらえるように頑張りたいところだ。
 メニュー表を丁寧に折り畳んで明日持っていく鞄にしまう。ついでに卓上に置いておいた携帯を見ると、ちょうどメールを受信をしたようでちかちかとライトが点滅していた。確認すると、差出人は帰りがけにアドレスを交換したばかりの鬼道だった。

『鬼道です。本日はお疲れ様でした、明日からもよろしくお願い致します。』

 件名も無ければ絵文字も顔文字も無い――あった方が驚きだが――シンプルな文面はまさに鬼道らしい。円堂も絵文字や顔文字は使わないなりにもう少し記号があったりして文章からも元気が伝わってくるが、あの淡々と礼儀正しい口調がまんま再生されるという点でいえば、鬼道も似たようなものだ。こんなに業務的な一文ならばいっそ送らないという選択肢もあったろうに、それでもわざわざ送ってくれるところが本当にマメだと思える。
 可愛げが無いところが、一周回って可愛いのかもしれないな――彼が聞いたら失礼だと機嫌を損ねそうなことを考えつつ、馨もささっと文字を打ち込んで返信をした。

『江波です。鬼道くんもお疲れ様、しっかり休んでね。明日も頑張るよ!』

 いまいち感覚が掴めず殆ど鸚鵡返しみたいになってしまったが、業務内容のやり取りと思えばこんなものだろう。
 そもそもの話、この年になって中学生とメール交換をすることになるとは夢にも思わなかったのだから、未だに微妙な年の差が邪魔して上手いことコミュニケーションを取ることができていない自覚はあった。コミュニケーション自体を鬼道や帝国メンバーが望んでいるとも限らないけれど、何にせよまず馨が慣れていかないと生まれるものも生まれないし広がるものも広がらない。努力すべき個所はまだまだたくさんある。
 となれば、とりあえずできることから順に始めていくとして。

「……さてと」

 今日の帰りがけに購入した食材を調理するため、久方振りのキッチンに立つのだった。


* * * * *


 帝国の朝は早い。
 部活が七時開始ということは部員たちはその三十分前には既に準備を済ませているというわけで、その準備の際に部室を使える状態にしておくためには、彼らよりもっと早く到着している必要がある。部室の鍵は職員室にかかっており、それを借りるのは常にキャプテンの鬼道の役目だ。彼はいつも六時過ぎには学校に来ていると言う。

「おはよ、鬼道くん」
「おはようございます、江波さん」

 土日にこんな早起きをするなんて、一体いつ以来だろうか。
 うっかり漏らしかけた欠伸を飲み込んで鬼道を迎えたのは正門前。一応関係者になっているとはいえ、生徒でもない人間が勝手に立ち入って職員室に顔を出すのはどうかと思えたので、こうして鬼道と一緒に入ることにしたのだ。
 まだ他の部活の生徒すら登校してきていない静寂の帝国学園内。朝の空気も相まって尚更ひんやりとしている校内を、二人分の足音が歩いて行く。

「そうだ、不足してた分のスプレーとか雑用品を注文しておいたよ。ダースで頼んだから、今日の午後までには持ってきてもらえると思う」
「ありがとうございます。受け取りもお願いして大丈夫でしょうか」
「サインは私のでいいのかな?」
「はい、問題ありません」
「オッケー」

 淡白な業務連絡を済ませ、馨は隣を歩く鬼道を横目で見下ろす。

「鬼道くんはいつもこの時間なんだね」
「そうですね、他の部員より遅く来ていては示しがつきませんから」
「そっか」

 真っ直ぐ前だけを見ている鬼道と視線が合うことはなかったが、その目がどこまでも真面目なのは見なくても解りきったことだ。キャプテンとして自他共に一切の妥協を許さない鬼道は、こうして並べば馨よりも小さく華奢な少年だというのに、精神面では馨より何倍も大人びている。
 しゃんと伸びた背筋、常に気を張っている肩、帝国学園サッカー部キャプテンに相応しい振る舞いを怠らない姿勢。この学園内にいる間はずっとそんな調子でいて、果たして気疲れはしないのか、息苦しくはならないのか――それを口にするのは、野暮というものだろう。
 職員室まではまだ少し距離がある。このまま沈黙ゾーンに突入するのも憚られたので、馨は足を動かしつつ次の話題を探した。

「睡眠はきちんと取れてる?」
「大丈夫です、しっかり八時間眠るように心がけています」
「わ、私より寝てる……偉いなぁ、鬼道くんは」

 八時間ということは、昨夜は九時頃には既に就寝したのだろうか。だとすると馨にメールを送ってからすぐ眠ったことになる。いろいろやるべきこともあると考えると、彼は夜もおちおちゆっくりしていられないのではないかと心配になったが、そこに触れるより先に鬼道が馨を見上げて逆に問い返してきた。

「ちなみに江波さんの睡眠時間は?」
「昨日は、えーっと……四時間、かな」

 指折り数えてからやや怖気づきつつ結論を出すと、鬼道は「えっ」と短く驚嘆を漏らした。
 かと思えば、みるみるうちに柳眉の間に皺が刻まれていく。

「……それはどうなのでしょうか」
「いや、でも全然平気だよ。ずっとこんな感じだから慣れてるし」
「そういう問題でもありません、睡眠は生活の資本です。もっと眠ってください。人のこと言えませんよ」
「す、すみません、気を付けます……」

 何気なく切り出した話題でまさか説教を受ける羽目になるとは思わなかった――いっそ黙っていた方が印象も良いままだったのではと後悔しつつ、それでもこうして叱ってくれるのは鬼道の優しさなのだと思うと、また身に沁みるものもあった。
 確かに、マネージャーが身体を壊すなんて以ての外なのだし、選手と同等に健康には気を遣うべきだろう。以前彼に迷惑をかけたときのことを思い返せば尚の事、睡眠の大事さは今一度噛み締めなくてはならない。真剣に怒ってくれる彼のためにも、さすがに八時間は無理だとしてもせめて最低六時間は確保できるよう努めていきたい。
 馨が反省する様子を見せたことで、鬼道の眉間からやっと皺が消える。解ったならそれでいいのです、とでも言いたげに結ばれた口元が何故か無性に可笑しくて、馨は思わず微笑を湛えた。

「鬼道くんはお母さんみたいだね」
「おかっ……俺は男です」
「いやそれは知ってるよ」

 そこに弄り甲斐の無い生真面目な返答を挟んでくるあたり、やはり鬼道は鬼道だった。


 そんなこんなで職員室から鍵を回収して部室を開放すると、馨と鬼道は各々の仕事を行うため別行動となった。
 鬼道の方は影山と今日の打ち合わせをすると言って総帥室に向かっていったので、こんな時間でも既に影山はあの部屋にいるらしい。昨日も馨が帰る前に鬼道が彼のもとを訪ねたが、あの男は一体いつ帰っていつ出勤しているのだろうか。もしかしてここに泊まり込んでいるのでは――我ながら阿呆らしい考えが過ぎったと、すぐに首を振って作業に集中した。
 朝のうちにやることは、まず昨日の練習後に回しておいた洗濯機からの物品収集だ。脱水と乾燥まで済ませてあるそれらに手早くアイロンをかけて畳み、昨日同様部室のテーブルや洗濯場の棚にそれぞれ運ぶ。タオルは半数を軽く濡らしてクーラーボックスに入れて冷やしておいた。
 それが終われば、次は調理場で乾かしておいた全てのボトルを使ってのドリンク作りに取り掛かる。本数はレギュラーの人数の倍以上あるが、どうせあっという間に消化されるのは目に見えているので、今のうちに少しでもたくさん作って余裕を持たせておきたい。このへんは昨日の作業で感覚を取り戻したので、自画自賛に値する程度には手慣れたものだった。
 ドリンクを作り終えてまだ時間が余っているのを確かめたら、今度は部室の簡易的な掃除に移る。そろそろメンバーもやって来る頃なのであまり大掛かりにはせず、せいぜい床を掃いてモップがけし、棚やテーブル、その他雑品を拭くくらいだ。窓を開けて換気しておけば、何もしないよりかは幾分かマシになろう。
 ちなみに、昼食については馨の懸念するところではない。
 さすが天下の帝国学園、という文句もそろそろ過労になりそうなところだが、土日の練習では昼食を専属の企業に宅配してもらうことになっている。メニューの内容はサッカーに興じる中学生のためにだけ考えられた贅沢なもので、言うなればスポーツ特化型給食というやつだ。月の初めに事前に練習予定を伝えておけば、あとはこちらの人数に合わせて企業側が弁当を用意して届けてくれるというシステムになっている。時々信じられないようなところに金を注ぎ込んでいるこの学園だが、こういう点は素直に便利だしありがたいなと思えた。――馨の分の弁当があるのかは解らないので、無ければそのときは外に買いに走らなくてはならないが。
 そうこうしているうちに、見慣れた制服の集団がぞろぞろと部室へやってくる時間となり。
 そこから馨は怒涛の忙しさに見舞われることとなった。

「マネージャー、テーピングー!」
「はーい、……よし、キツくない? 替えの分も上に持っていくからアップ終わったらまた巻き直そうね」
「マネージャー、オレの靴下が無い……」
「ん? 大野くんのはロッカー前に纏めて置いといたけど……あ、あれじゃない、寺門くんが持ってるやつ」
「マネージャー! スプレー空!」
「後で処分するからカゴに入れておいて! 予備はそこにあるのが最後だけど、午後までには追加が届くから」
「マネージャー!」
「今行きます!」

 昔テレビで見た大家族の朝の風景もこんな感じだった覚えがあるな――そんな下らない思考に浸る間も無く、次から次へ、四方八方から呼び声が掛けられて、その都度馨はすっ飛んでいく。
 サッカー部がこれまでマネージャー抜きの活動をしていたというのはまさしくその通りなのだろう。もう自分でやったり一年に任せたりせずとも良くなった帝国イレブンは、ここぞとばかりにマネージャーを頼って着々と準備を進めていた。帝国流の“使えるものは使っておけ”という精神に、それでも自分で宣言した手前、とにかくひたすら応えていくだけだった。
 まあ――徹底して馨には頼らない姿勢を貫く者もいるが、そこは今気にしていても仕方ないことだ。彼自身が馨を認められるよう、これから少しずつでも結果を残していくしかない。
 喧騒に塗れた部室内で独り黙々と準備を済ませる佐久間をこっそり眺めていると、横からまた別の影が現れた。

「マネージャー、今大丈夫か?」
「源田くん、どうしたの?」

 すっかりユニフォームに着替え終えた源田は、他のメンバーよりも気遣った声掛けをしてくれるのでどこか紳士的に映る。にこやかに向き直ると、彼はその手に持っていたグローブを馨へと差し出しながら用件を告げた。

「大したことじゃないんだが、替えが欲しいからこれと同じものを頼んでおいてほしいんだ」
「解った、すぐに注文しておくね。今日中に必要?」
「いや、そんな急ぎではないからメーカー予定で大丈夫だ。……というかマネージャー、もうオレたちの顔と名前が一致できてるんだな」

 昨日の今日なのに、と感心したような声音の源田。
 馨はグローブを受け取りながら、「そりゃあね」とわざとらしく胸を張って見せる。

「このくらいできなきゃ、帝国のマネージャーは務まらないから」
「ふっ、鬼道みたいなことを言うんだな」
「あ、ホントだ」

 そういえば昨日、彼が今の自分が放ったことと同じ台詞を言っていた気がする。
 源田は「早くも鬼道が移ったな」とくつくつ笑うが、それを抜きにしたって“帝国のマネージャーならばこれくらいできて当然”という意識は馨の中に確かに根付いている。選手の顔と名前を覚えるなんて序の口どころかスタート地点ですらない。選手個人の身体的ステータスからプレーの得意不得意、長所と短所、使える技、癖――データとして記されている情報を全て頭にインプットして初めて、ここで帝国のマネージャーを名乗れる立場になれる。
 正直、源田も帝国イレブンの一員ならば同じような意識でいるとばかり思っていた。だからここで感心されるのは驚きだったし、もしかすると初見では随分と舐められていたんじゃないかとすら思う。それがただの邪推だとしても、まだまだこんなところで褒められて喜んでいるようではいけない。
 綺麗に細まる空色の瞳と、表情筋に沿って僅かに持ち上がる特徴的なフェイスメイク。初日に比べれば幾許か朗らかに微笑んでくれる源田へ、馨は敢えて挑戦的な笑みを返す。

「これでも六年前は現役だったんだから、まだまだここからだよ。君たちに負けてられないしね」
「お、言うじゃないか。じゃあ今日の練習もよろしく頼むな」

 大見得を切った馨に若干気圧されるように瞬いた源田だが、すぐにまた快活な笑顔に戻って肩をポンと一つ叩いて去っていった。年上に対して自然と出てくる動作ではない気がするけれど、敢えてそこには触れないでおくことにする。
 ともかく、これで二度目の布告だ。いよいよ何があっても言い訳は言えない状況となった。こうやって自らを追い込んでいけばいく程、俄然やる気も出てくるというものである。

「よし」

 両頬をパチンと挟んで今以上に気合いを入れ直すと、早速どこからか「マネージャー!」と次なるお呼びが掛けられた。


 定刻になって練習が始まれば、朝の騒々しさとは打って変わって張り詰めた緊張と真剣な空気を纏い出す帝国イレブン。あれだけ喧しかった呼び声は雄々しい掛け声に、備品を放り投げていた杜撰(ずさん)な仕草はボールを華麗に操る器用な動作に変わる。ピッチの中と外でここまで変わるものかといっそ呆れる程だが、ある意味それが帝国サッカー部の魅力とも呼べるのかもしれない。
 朝のうちに大方の準備を終えていたことが幸いし、練習中はそれ程ばたつくこともなかった。
 おかげで昨日はあまり見られなかったアップやポジション別といった細かい練習の様子もじっくり観察でき、それがやはり六年前とほぼ相違無いことも確認できた。代々受け継がれている伝統は、現代のチームにもしっかりと継承されている。それが果たして喜ばしいことなのかどうか、馨は明確に答えを出すことはできない。けれど、目の前で必死にボールを追いかける少年たちを見ていると、次第にどうでも良いことのように思えていった。
 練習風景を眺めつつ、「全員の健康状態を確認してほしい」と事前に鬼道に渡されていたボードの必要事項を埋めていく馨。やや遠目ながらも、観察に慣れた瞳には彼らの好調不調はよく見える。今日も、今のところは特別不調の者はいなさそうだ。強いて言えば万丈が時折筋肉痛らしき素振りを見せているので、彼の欄に『右足腿・筋肉痛』と記入した。
 全員分の欄を埋めて少し経つと、一回目の全体休憩を取る時間となった。鬼道がピッチ全体に響き渡る声で「休憩!」と叫べば、早くも汗を流したメンバーたちがベンチへ戻って来る。再び馨の出番がやってきた。

「お疲れさま。鬼道くん、健康ボードここに置いておくよ」
「ありがとうございます。……本当に、できるのですね」

 しっかりと埋められたボードを見た鬼道が不可思議そうに呟く。大凡予想はしていたが、仕事を任せた張本人である彼が驚いているということは、十中八九影山からそう指示が下されたと見て間違いは無いだろう。
 それを聞き逃さなかった馨は、冷えたドリンクを渡すついでに彼の疑問に答えておくことにした。

「マネージャーっていっても、やってたのは雑用ばかりじゃなかったからね。選手の体調管理とかプレーの調整とか、そういうことも私の役目だったから」
「江波さんが? それは、どちらかというとトレーナーの仕事ではないのでしょうか」
「そう思う。ただ、……私にそんな才能があるって見抜いた人がいたんだから、仕方ない」

 誰とは言わない。が、聡い彼なら簡単に察することができたはずだ。少しの間を置いて短い相槌を打った鬼道は、それっきり話を広げずボトルに口をつけた。
 ボードのことは後の鬼道に任せておくとして、気を取り直した馨はクーラーボックスの底からとあるタッパーを取り出した。いくつか重なっているそれをベンチにトントンと並べていくと、みるみるうちに部員たちの視線が釘づけになるのが解った。

「マネージャーさん、それ何?」

 最後のタッパーを置いたところで、洞面から質問が飛んでくる。
 馨は一つ手に取ると蓋を外し、中身が皆にもよく見えるように少しだけ傾けた。
 とろける飴色の液体に浸された黄色の物体、それは。

「ハチミツレモンでございます」

 薄く輪切りにしたレモンを溶いたハチミツによく漬け込んだだけの、運動部の定番とも言える簡単な食べ物である。昨日の練習帰りに材料を買い、夜のうちに着けておいたのだ。まだ一日しか経っていないが、しっかり効果は発揮してくれるだろう。
 仰々しくその名を告げれば、メンバーが「おぉ」と揃えて声をあげた。

「これが噂のハチミツレモンか」
「本物見るの初めてー」
「え、まさか食べたことないの?」
「聞いたことはあるが、食べるのは初めてだな」

 源田の言葉に何人かが頷く。
 さすがに帝国ともなれば、確かにもっと効率良く疲労を回復させるものを食べたり飲んだりするのだろう。だが、少なくとも馨が現役マネージャーをやっていたときはハチミツレモンは定番かつ当たり前だったのだ。今までマネージャーがいなかったからかもしれないが、ジェネレーションギャップを感じてしまいちょっとばかりショックを受けた。
 初めて見るというハチミツレモンを、何とも物珍しげにじろじろ見ている部員たち。しかし見ているばかりじゃ効果は出ない。早く食べるように言えば、それぞれ恐る恐るといった調子でレモンを摘まみ、一斉に口の中へと放り込んだ。
 ここからは、ある種のお約束である。

「酸っぺぇ!」
「甘……ずっぱ!」
「舌がびりびりするー!」

 きちんとハチミツに浸しておいたつもりだが、まだレモンの酸っぱさが緩和されきっていなかったらしい。皆一様に同じような顔をしてじたばたと身悶えさせていた。
 厳つい顔つきの寺門や辺見なんかが酸っぱさを堪える表情は、彼らには申し訳ないがいっそ写真に収めてしまおうかと思うくらいに面白い。おおっぴらに笑わぬよう片手で口を覆いながら我慢していた馨は、そういえばと思い、あの少年の方を振り向いた。

「あれ?」
「……どうかしましたか?」

 あの冷静沈着な鬼道の珍顔が見れるかも――そう思って内心わくわくしていたのに、彼はけろりとした顔で二つめのレモンを食べているところだった。
 期待が外れ、思わず脱力してしまう。まさか酸味を感じないというわけではなかろう。

「酸っぱくないの?」
「甘いとは思いますが、そこまで酸っぱくはないです」
「……さすが鬼道くん」
「美味しいですよ」
「ありがとう」

 味覚も大人仕様なのだろうか。何にせよ、あらゆる面で普通でない少年である。

「おい成神、お前食いすぎ」
「辺見先輩が食べるの遅いからですよー」
「食べないならデコに貼ってやろう」
「やめろ腐れキーパー!」
「そこ、食べ物で遊ばないの!」

 辺見の前でレモンをちらつかせる源田たちに注意すると、「すみませーん」と何とも気の抜ける声が返ってきた。
 他のメンバーは初めてのハチミツレモンでわいわいと盛り上がっているのに――あそこまで盛り上がる理由は不明だが――今やこの空間では無表情の鬼道の方が変だ。試しに馨も一つ食してみるが、やっぱり酸っぱい。顔を顰めるのを見ても尚、彼は「そこまでですか?」と理解し難そうに首を傾げるだけだった。

「そういえば、どうしてハチミツとレモンなんでしょーね」

 やっと落ち着いた空間でもぐもぐと咀嚼していると、ふと成神がそんな疑問を口にする。
 それに答えるのは馨だった。

「ハチミツもレモンもビタミン豊富だからね。それに、ハチミツはブドウ糖がたくさん含まれてるから」
「ぶどうとう……」
「脳や筋肉といった人間の身体を動かすのに必要な栄養素だ。勉強後や運動後にやたらと甘いものが食べたくなるのは、ブドウ糖が不足していることの現れだな」

 いまいちぴんと来なかったらしい成神に鬼道が解説を差し込む。ああ、と納得したのは成神だけではなかったので、意外と栄養素について知らない部員は多いようだ。
 どうであれ、何かを疑問に思って解説を聞いて納得する、という流れ自体は悪いことではない。興味を持ってくれた成神に対し、馨は話を続ける。

「あと、レモンが酸っぱい理由って解る?」
「えっと、確か……くえんさん? がどーのこーのって聞いたことあるような」
「そうそうクエン酸ね、レモンの主成分。そのクエン酸っていうのが、運動をしたことで酸性になった血液を弱アルカリ性に変えてくれるの。それがまた疲労回復に繋がるわけで」
「あー、なるほど! 疲労回復に効くハチミツとレモンを混ぜ合わせて、ハチミツレモンってことか!」
「そう、大正解」

 正解のご褒美と称して、タッパーに貼り付いていた最後の一つを食べさせてやる。相変わらず酸っぱそうに口を窄める成神だが、正解したのが嬉しかったのかにこにこを通り越してにやにやしながらレモンを頬張った。周りの傍聴人も成神の導き出した理由に納得し、案外単純な理由なんだな、などと言って一頻り笑うのだった。
 昨晩せこせこと用意したハチミツレモンは綺麗に完売御礼となり、皆が残さず食べてくれた事実に馨はひっそりと笑みをつくる。中身を零さないよう丁寧に片付けをしていると、レモンにご満悦な様子の洞面が馨の足を軽く叩いて注意を引いた。

「あれ、また作ってきてよ!」

 どうやら相当お気に召したようである。

「良かった、気に入ってくれたんだ」
「刺激強いけど、美味かったぜ」
「初めて食べたしな」

 その後ろに立つ万丈と大野が引き継ぐように続けると、馨は笑顔でまた明日作ることを約束し、タッパーと空のボトルを持って階段を駆け降りて行った。
 慌ただしい後ろ姿を見送りながら、手を拭っている鬼道の隣に並ぶ源田。

「器用なマネージャーで良かったな、鬼道」
「そうだな」

 どういうわけだか、前からマネージャーのいなかったサッカー部。そこへ突然現れたのは、総帥が言い包めようとしてまで欲しがった六年前の元マネージャー。彼女は相当嫌がった末に、今はとても楽しげに働いてくれている。
 これが全て因果律に従ったものだとしたら、何とも奇妙な話である――鬼道は小さく息を吐き、マントを翻してピッチへと戻って行った。


 一方、階段を下りてすぐに馨は空になったタッパーを眺めてふっと呟いた。

「……佐久間次郎」

 皆が賑やかにレモンを食べる中、唯一全く手をつけずにいた者の名である。

「……」

 全身から歓迎していない雰囲気を醸し出す彼だが、気に病む必要は無いのだと自身に言い聞かせる。やるべきなのは仕事であり、佐久間が気持ち良くサッカーをできるようにすることなのだ。いくら嫌われていようとも、それは変わらない。まだ挽回できる機会はきっとあるはずだ。
 一旦崩れた気持ちを切り替えるために頬を叩き、馨の足は真っ直ぐ作業場へと急いだ。


 午後は予定通り荷物を引き取ったりグローブの注文をしたりと午前に比べていくらか慌ただしかったものの、メンバーがトレーニングルームに篭っている間に何とか雑務を済ませることができた。
 そのため、グラウンドに戻ってからは鬼道の進言で選手一人一人の記録を取りながら練習を行うことになった。いきなりマネージャーから足を踏み外しかけている気もするが、鬼道が認めてくれたのならその期待に応えたい。まずは現状のデータと差異が無いか、先日の雷門戦で調整し直したプレーがきちんと元に戻っているか、そのあたりを重点的に見ながら逐一用紙に書き込んでいく。
 その合間合間にやるべき作業をこなしていたら、あっという間に部活終了時間となってしまった。

「データの報告は俺が行ってきます」

 着替えに向かう波に逆らって戻って来た鬼道から声を掛けられ、馨はコールドスプレーをしまう手をぴたりと止めた。

「ありがとう。その後少し時間良い?」
「解りました。部室の前で待っていてください」

 馨が文字を書き込んだ紙の束を手に去って行く鬼道。影山と馨との仲、主に馨からの矢印が最高レベルに険悪なのをその身で体感している彼は、二人を合わせないために自ら中継役を買って出てくれている現状だ。また、影山は鬼道にチームを託すかたちで関わっているので、こっちの方が早いという点もあるのだろう。馨としてもその方がありがたいので、遠慮なくお願いさせてもらっている。
 馨は残っている雑用を全て片付けてから、言われたように部室前へと向かった。既に制服姿となって屯していた部員たちに挨拶をしつつさっさと帰らせ、ついでに部室の掃除をしてしまおうかとドアノブを掴む。

「おっ」

 だが、ポケットの中で携帯がぶるぶると震え出したので計画は取り止めとなった。
 見てみれば電話で、発信者は円堂守。一瞬胸が高鳴ったが、周囲に誰もいないことを確認してから通話ボタンを押した。

「もしもし」
『あ、コーチ……じゃなかった、江波さん? オレオレ!』
「オレオレ詐欺ですか?」
『違うってー、円堂だよ』
「ふふ、解ってるって」

 からかいながらもやけに久しく感じる声を楽しむ馨。ひとしきり弄ってから用件を尋ねてみれば、円堂は解りやすいくらい一気に声のトーンを跳ね上げた。

『豪炎寺がチームに入ったんだ!』
「え?」

 ――あの豪炎寺が?
 思わず聞き返してしまうくらい驚いた。帝国との練習試合が終わった後も、喜ぶメンバーを無視してこれっきりだとユニフォームを突き返したような人なのだ。そんな彼が、まさか入部を、再びサッカーをすることを決めたなんて。
 馨の頭に、助太刀にやって来た豪炎寺と視線を交わした瞬間が蘇る。あのときも彼は、馨とは違い己の先へ進む決断をしていた。

「へぇー、良かったじゃん。また一緒にサッカーできるんだね」
『うん、うん、オレマジで嬉しいよ! いろいろあったけど染岡も新しい必殺技を身につけたし』
「必殺技って――」

 口にしてから、はっとする。すぐに辺りをもう一度見渡してから、通話口を手で覆った。

「自力でってこと? すごーい!」
『そうそう、練習めっちゃ頑張ってたしホントスゲーよアイツ! あ、早く江波さんにこの技見せてやりたいって言ってたよ、染岡』

 得意げな顔でそう言う染岡が容易に想像でき、馨はハハッと笑い声を零した。

『オレたちはちょっとずつだけど強くなってる。今度の尾刈斗中との試合、ぜってぇ勝つんだ!』
「その意気大事! 頑張ってね、応援してるから」
『おう! 江波さんも見に来てくれよな。皆会いたがってるし』
「解った、また当日ね」

 ――早く染岡の新必殺技を、雷門イレブンの成長した姿を見てみたい。
 だが同時に、帝国へ身を置く自分なんかが行って良いのかと咎める気持ちも働いていた。

『じゃーな!』

 プツリと通話の切れた携帯をポケットに突っ込んで壁に凭れ掛かり、細く長い溜め息を吐き出す。背中からじんわりと広がる冷たさが、やけに身体に沁みてやまなかった。

「……いいのかな、こんな私で」
「何がですか?」
「ぎゃあっ!」

 完全に独り言だと確信していた呟きへ返事が届き、馨は驚愕のあまり悲鳴をあげて飛び上がった。

「……すごい声ですね」

 品の無い悲鳴に苦笑いを見せるのは、腕を組みながら馨の隣に佇んでいた鬼道。こんなに近くにいたのに、彼は全く気配を感じさせなかった。帝国の人間は気配を消す術でも仕込まれているのだろうか。
 ばくばくと今にも壊れそうな勢いで早鐘を打つ心臓を、服の上から鷲掴むようにする馨。微かに涙目になっているのが自分でも解り、情けなさが憤りに変わる。

「き、鬼道くん……もう、勘弁してよ」
「すみません、まさかこんなに驚かれるとは思わなくて」
「ビックリ系はダメなの……あぁー心臓痛い」
「念のため覚えておきます」
「なんの念なのそれ」

 すっかり弱気になっている馨に優越感でも覚えたのか、鬼道はどこか愉しげに唇に弧を描いた。
 しかし、次に彼が紡いだ言葉は何のお遊びでも弄りでも無かった。

「それで、どうやら電話をしていたようですが……相手は雷門中ですか?」

 真摯な声音に、つられて砕けた雰囲気を引っ込めた馨。今はゴーグルの色と同化して見えない鬼道の瞳を探すように、じっと目を合わせてみる。

「うん。飽くまで個人的な付き合いだけど」

 嘘を吐いたところで、どうせ彼には全てお見通しなのだ。言い訳でも交えて素直に答えてしまった方が良いだろう。
“個人的な”を強調してさらっと言うと、鬼道は軽く頷くだけで特に咎めだてすることは無かった。それどころか、現状を踏まえると疑問すら湧くようなことを口にした。

「大丈夫です、江波さんがスパイをしているとは思っていませんから」
「……一応訊くけど、どうして?」
「さぁ」

 意味ありげに笑む鬼道は、あの日ボールを蹴るように挑発してきたときの彼とよく似ていた。随分と見慣れたものではあるが、馨があまり好きではない鬼道だ。
 彼の口振りからして、帝国側でも何か雷門対策を練っているらしい。具体的な部分は不明だが、馨は不穏なものを感じずにはいられなかった。

「……で」

 鬼道の声により、遥か遠くへ飛びかかっていた意識を引き戻される。

「何か俺に話があったんですよね?」
「あ、あぁ、そうだね」

 いきなり話題を変えられ、つい吃ってしまう。彼が言わなければ、こんな場所でわざわざ待っていた目的を危うく忘れてしまうところであった。
 しかし、今し方の会話で目的の半分は達成できている。馨は溜め息を堪えて壁についていた背中を離し、話を切り出した。

「雷門中のやる試合、見に行っても構わないかなって訊こうと思ってたんだけど」

 当然、マネージャーとしてやるべき仕事を全て済ませてから行くつもりである。自分の我儘にチームを巻き込むつもりはない。
 そんなことまでいちいち言わずとも、鬼道にはきちんと伝わったようだった。

「“個人的な”理由ですか?」
「そんなところです」

 試合について疑問に思わないところからして、どうやら雷門が練習試合をすることはリサーチ済みなようである。
 わざとらしく馨の言葉を引用するところは小憎らしい。皮肉にも聞こえる言い方であったが、その後鬼道から出された答えはオーケー――見に行きたいなら行けば良いというものであった。影山自身が、馨については「好きにさせておけ」と述べていたようだ。この理由として、全幅の信頼を寄せられているとは考え難い。先程鬼道が馨をスパイとは思っていないと述べたことも併せ、何か別に理由があるのだろうか。
 それでも、許可を出されたことで少しだけ身体が軽くなったような心地がし、馨は口元をゆるめて謝念を表した。それで用が済んだのを悟った鬼道が、部室のドアを開けようとノブを捻る。

「雷門中は、どこまで来るのでしょうね」

 ドアが開かれる間際、ふと向けられたそんな問い。
 馨は特に深く考えることもなく、素直に思ったままを彼への返事とした。

「解らないから面白いんじゃないかな」
「……面白い、か」

 何の感情も読み取らせない囁きを残し、ドレッドヘアーがドアの向こうへと消えていった。




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