双極にあるサッカー


 尾刈斗に勝利したことで廃部を逃れ、かつフットボールフロンティアへ参加できるようになった雷門中サッカー部。帝国に続きまたしても強豪校を破ったことで、メンバーの士気もぐんぐん上昇する一方だ。
 敗北を喫しても尚どこか晴れやかな表情を揃えて去っていく尾刈斗サッカー部を見送った後、皆は意気揚々と部室へ戻っていく。試合中の疲労なんて勝利の余韻の前ではあって無いようなものなのだろう。
 まだまだ元気な円堂を筆頭にぞろぞろと部室への道を進む中、馨は例のピンク頭を見つけ、こっそりと後ろから近付き。

「そーめおっかくん!」
「うおっ!」

 不意打ちで背中を叩きつつ、その顔を覗き込んでやった。

「あービックリした……ガキかよコーチ!」
「あはは、ごめんごめん。試合お疲れさま、スゴくカッコ良かったよ」
「お、おう、ありがと」

 小鼻を掻きながら目を泳がせる染岡はもうすっかりいつもの染岡で、馨の笑みはますます深まった。
 つい先程まで展開されていたあの試合を思い返すたびに、胸の奥に灯った火種が熱く燃え盛るような感覚が続いている。その要因の一人であるのは、勿論この染岡だ。豪炎寺と共に生み出したシュートが決まった瞬間の感動は、きっと今晩の夢にまで出てくるに違いない。

「目金くんが命名してたよ、あのシュート。《ドラゴントルネード》って言うんだって」
「ふーん、何だよ、アイツにしちゃなかなかいいセンスしてんじゃねーか」
「《ドラゴンクラッシュ》も目金くん命名だっけ。ドラゴンってところがまた染岡くんらしくていいよね」
「へへっ。ま、オレにはそんくらい強い名前が似合うってもんだよ。……あのさ、コーチ」
「ん?」

 それまでの尊大な口調とは一転、急に改まった態度になる染岡に、目を瞬かせて話を聞く姿勢をとる馨。
 彼は何か言葉を探すように唇を小さく蠢かせていたが、やがて一呼吸置くと、自らの前方を歩く10番の背中を見つめて口火を切った。

「コーチが後半戦前に言ったこと、正直あんときは、あんま解ってなかった。つーか、そんなこと考えてる余裕、なかったんだ。試合中も全然ダメでさ、もう頭ん中いっぱいいっぱいで」

 馨が彼に言ったこととは即ち、『仲間と一緒にプレーする楽しさを忘れるな』。
 染岡はどこか申し訳なさそうに告白してくれたが、馨自身もあの場で自分の言葉が彼の心の手助けになれるとは思っていなかった。ただ伝えたかったから伝えただけで、自分が染岡の胸中に巣食う感情を綺麗に浄化してやれるとか、そんなすごい力を持っているなんて自惚れは抱いていない。真にその役目を負えるのは馨ではなく、彼とフィールドを共にできる雷門の仲間たちだ。
 解ってるよ、と口には出さず、その意を込めた優しい相槌のみで応える馨。それを一瞬視界の端で捉えた染岡は軽く奥歯を噛み締めると、10番を見つめる真っ直ぐな瞳をやんわりと細めた。

「けど、アイツが……豪炎寺がオレのパスを取ってシュート決めてくれたとき、そこでやっと解ったんだ、オレ。スゲー胸が熱くなって、自分で決めたわけでもねーのに興奮してさ」
「……そうだよね。自分の出したパスが通って仲間がシュートを決めてくれると、すっごく嬉しいよね。最高にサッカーしてる! って気分になるよね」
「そう、それ。今オレはコイツと一緒にサッカーしてて、コイツと一緒に点取ったんだって思えて。……ぶっちゃけ、アイツには、その……嫉妬してたのに」

 やはり、染岡の抱えていたものは豪炎寺に対する嫉妬心だったようだ。帝国戦までは雷門唯一のエースストライカーとしてワントップを担ってきた彼には、途中加入なうえに周囲にヒーロー扱いで持て囃される豪炎寺が許せなかったのだろう。プライドと誇りがあるからこそ、自分だって負けてはいないと躍起になり、試合中に仲間からボールを奪うという暴挙にまで出た。
 けれど、馨はそんな彼の心境を非難しようなどとは思わない。思春期を迎えている青少年ならば抱いて当然の感情であるし、何よりも染岡はその闇を認めて自ら乗り越え、新たなる境地へと至って見せた。それは決して簡単なことではなく、芯に強さを持った者でなければ成し得ない結果だ。
 清々しく天を仰いだ染岡本人は、そんなこと知る由も無いだろうけれど。

「けど、なんかそういうのがもう全部どうでもよくなるくらい、嬉しかった。そんで、それがコーチの言ってた『仲間と一緒にプレーする楽しさ』ってやつなんだってやっと気付いたんだ。遅すぎだけどさ」

 言葉の終わりでやや自嘲気味に笑って見せる染岡に、馨はゆっくりと首を振る。

「ううん、遅すぎなんてことはない。寧ろ、そのことに自分で気付けた染岡くんは本当にスゴいと思うな。君も雷門サッカー部もまだまだこれからなんだから、楽しいことも苦しいことも、皆で分かち合って皆で成長していこうよ」
「……ああ、目ェ覚めたよ。ま、アイツはいつもスカしてていけ好かねーって思うこともあるけどよ、あの冷静さはオレも見習わねーとなって解ったし。これからはオレとアイツの《ドラゴントルネード》が大活躍すんぜ、コーチ!」
「おおー言い切ったね。なら遠慮なく楽しみにさせてもらおうかな」

 染岡がぐっと拳を握ったので、馨もそれに合わせて拳をつくる。
 そしてどちらが何も言わずとも、二つの拳はまるで約束を交わすように、コツンと軽快な音をたててぶつかり合った。


 さて、道中でも散々賑やかだった雷門イレブンは部室に帰ってきても尚興奮冷めやまぬといった様子である。
 木野が用意したタオルやドリンクで身体を癒しつつ、繰り出される話題はいつまでもどこまでも勝利を喜ぶものばかりだ。

「あーマジで勝ったんだよなーオレたち! な、コーチ、勝ったんだよなオレたち!」
「そうだよ勝ったんだよ、円堂くん。本当におめでとう!」

 これでこのやり取りは何回目だろう、多分五回目くらいだった気がするな。と脳内では冷静に回数を数えるが、円堂や他のメンバーたちがあまりに嬉しそうにしているため、馨はたとえ何回目だろうが毎回そうやって皆の健闘を称える。「おめでとう」「ありがとう」の応酬は何度交わしても良いものだと思えるから幸せだ。
 そんな円堂と馨のにこやかなやり取りに「いつまでやってるんだ」と呆れながらツッコミを入れたのは風丸。だがさしもの彼も円堂の必殺スマイルで「嬉しいんだからいいだろー」と言われると言葉に詰まり、それ以上は口を噤んでいた。
 単純に試合に勝ったことも勿論だが、今回の試合によって廃部が撤回されたこと、そして念願の全国中学生サッカー大会――フットボールフロンティアへの参加権を手に入れることができたのはこのチームにとって非常に大きい功績だ。部室のドアの横には大会のポスターがでかでかと貼られているので、予てより円堂がそれを目標としていることはすぐに察せられた。
 ――フットボールフロンティアか。
 昨年は、いや昨年も帝国学園が優勝を収めたこの大会。当然今年も帝国は参加することになるだろうし、余程のことが無い限り決勝まで優位に駒を進められるだろう。そして帝国は雷門と地区が被っている。つまり、雷門が順調に勝ち進んでいけば、いずれは必ずぶつかることになる――帝国サッカー部と。
 先日の練習試合とは違う、本気の試合が見られるかもしれない。
 けれど、そのためには――ふっと翳りを落とした思考を、馨はすぐにぶんぶんと振り切った。こんなこと、祝勝ムードの中で考えても仕方ないことだ。

「コーチも、応援しに来てくれてありがとうな!」

 汗を拭っていた半田にそう言われ、そちらに顔を向ける馨。
 そうだ、せっかくだからこの際、言おう言おうと思っていたことを伝えてしまうことにしよう。

「あのさ、その『コーチ』っていうの、そろそろやめない?」

 眉をハの字にしながら切り返すと、半田、そして他の部員たちも皆一斉に目をぱちくりとさせた。
 確かに初対面の時点で馨は彼らのコーチを名乗っていたが、今はもうただの一ファンみたいなものなのだ。いつまでも肩書きで呼ばれ続けるのは何だか変な気分であるし、まともにコーチもしていない現状を顧みると恥ずかしくも感じる。ここらでそろそろ切り替えても良いんじゃないかと思うのだけれど。
 だが、メンバーは馨の提案にあまり良い反応を示さなかった。

「だって、もうコーチで慣れちゃったっスよ」
「ねー、今更変えても落ち着かないっていうか」
「でも今はコーチじゃないでしょ、私」
「コーチはコーチですよ!」

「あと呼びやすいし」と続けた少林寺に馨は半笑いを浮かべる。唯一コーチ呼びをやめて『江波さん』呼びに直した円堂を見遣ってみても、彼は溌剌とメンバーの意思を肯定するだけだった。

「オレは最初のときに江波さんって呼んでたから慣れてるけど、他の奴らは『コーチ』の方がしっくりきてるみたいだな」
「けどさ、そのうち別のコーチが来たらその人も『コーチ』って呼ぶだろうし、混乱しない?」
「んー、まあ……それは確かに」

 いちいち苗字をつけなければ区別ができないというのも不便だろうと、一応それなりに納得したらしい円堂。キャプテンがうむむと唸ってしまったからか、他のメンバーもいろいろと思い直すものが出てきたようだ。そこからは唐突に『コーチの新しい呼び方を考えよう』会議が始まった。

「ここは、マネージャーたちと揃えて苗字呼び?」
「『江波さん』って? なんか余所余所しくないかそれ」
「かといって呼び捨ては逆に馴れ馴れしいし、ほら、コーチ年上の人なんだから」
「じゃあ名前呼びなんてもっと馴れ馴れしいからダメだな」
「でも普通すぎてもつまんなくない? ただのお友達みたいになっちゃって」
「どうしようなー」

 試合が終わってまだ一時間も経っていないのに、ここまできっぱりと空気を切り替えられるものなのだろうか。
 今や部室の真ん中でごちゃごちゃと相談している雷門イレブンは、とてもさっきまでフィールドを懸命に走り回っていたチームと一緒だとは思えない程に、……馨の目には可愛く映る。そんなに悩むならばやっぱりコーチのままでも良いよ、とは今更言い出せない空気だし、何より真剣に考えなくていいことを真剣に審議する姿が実に中学生らしく可愛いので、とりあえず彼らのやりたいようにやらせておくことにした。
 マネージャー二人すら混じってしまった今、少し離れて突っ立っている馨の隣にはすっかり傍観を決め込んでいる豪炎寺しかいない。
 ちょうど良い機会だと思い、馨は控えめな声量で彼に話し掛けた。

「サッカー、始めたんだね」

 豪炎寺は馨を見上げた後に一度目を伏せ、こくりと頷いた。

「あぁ」
「さっきのシュートもさすがだった。あそこでドンピシャに合わせられるなんてビックリしたよ」
「そういうオマエはどうなんだ」

 切れ長の瞳が馨を鋭く射抜く。その眼差しは、以前雷門中の前で馨と交わした言葉を忘れてはいないと如実に訴えてくるようだ。
 選択するときはそれぞれに与えられていた。それを取ったのは豪炎寺で、取れなかったのは馨。再びサッカーを始めた豪炎寺に対し、馨は未だにラインの外側にしか立つことができないでいる。二人の立場はあのときと完全に逆転しているのだと、馨も自覚はできていた。
 前よりも深く切り込んでくるようになった豪炎寺に、馨の口元がゆるく弧を描く。

「私はもう、プレーヤーとしてはサッカーに携われない」

 一息入れ、代わりに、と先を紡ぐ。

「サッカーを頑張る皆を見守るかたちで、まだこの世界と触れ合っていたいと思うんだ」

 サッカーはしないと決めている。
 それでも、夢中でボールを追いかける少年たちが好きだから、少し距離を置いたところからでも彼らを感じ、彼らの織り成すサッカーを感じていたい。例えボールを蹴らなくても、皆がプレーしているのを見ているだけで面白いくらい心が震えるのだ。今日、二人の新たな連携必殺技を見たときのように。

「サッカーをしてる皆が、好きだから」

 今は帝国学園でイレブンたちのサッカーを支えている。けれど、気持ちはどこにも留まりはしない。どこにいたって、皆のことを等しく応援していたい。フェアな気持ちで、サッカーと向き合いたい。

「……馨はそれで良いのか?」
「うん」

 それに、もう年だし。
 最後に軽い冗談を入れてみれば、豪炎寺は暫し瞬いた後、ふっと優しげに表情を緩めた。

「それで、そんな外野の意見としましては」

 少し間を置きつつそう言うと、まだ話が続いていたのかと言いたげに豪炎寺が馨を振り仰ぐ。

「君はもうちょっと、他の子たちと意思疎通をした方がいいと思うんだよね」
「意思疎通?」

 きゅっと僅かに真ん中へ寄せられた特徴的なギザギザ眉毛。
 馨は一つ頷き、後半戦序盤の出来事を思い返しながら話を続けた。

「さっきの試合中、キーパーの秘密を探るためにわざとシュート撃ってなかったでしょ。でもそれを誰にも伝えてなかったから、他の選手間で亀裂が生じた。少なくとも、同じポジションの染岡くんには多少なりとも意図は伝えておくべきだったんじゃないかな」

 豪炎寺は頭の回転が早く、そして正確だ。それは承知している。
 しかし彼以外のメンバーも皆同じだけの能力を持っているとは限らないし、現に今回の試合でそのあたりが顕著になり、結果的に連携に障害が出てしまった。万が一染岡にだけでも己の意図を伝えていれば、彼だってあんな暴挙に出ることはなかったのかもしれないのだ。それも結果論でしかないけれど、サッカーに於いて大切なことを忘れていたのは何も染岡だけではない。
 指摘された豪炎寺は、一瞬目を見開いてからまたすぐに俯いた。零す声音は今までよりもか細く、反省の色が込められている。

「……すぐに見極められると思っていたんだが、予想以上に手こずってな」
「うん、豪炎寺くんは賢いからきっと見つけられるとは思ってたし、実際に気付いたのは偉いと思う。ただ、サッカーはチームプレーだから、仲間のことをもっと頼っていいはずだよ。皆、豪炎寺くんのこと信頼してるんだから」

『サッカーはチームプレー』――染岡にも伝えた言葉。実力を持った選手には、いつでも忘れていてほしくはない心。
 それを伝えたとき、気のせいだろうか、ほんの微かに豪炎寺の瞳が曇ったような気がした。しかし見間違いかどうか判断できるよりも先に、再び顔を上げた彼が仄かに微笑む。

「……そうだな、反省はしておく。すまなかった」
「謝ることじゃないよ。外野があんまりどうこう言えた義理でもないのかもしれないけど、せっかく良いチームなんだから、なんか勿体無いなぁって」
「ふっ、馨らしいな」

 何がどう馨らしいと思えたのかは定かでないが、きちんと気持ちが通じたようなので馨もそれで良しとしておく。豪炎寺のような完璧に近いプレースキルを持っている子でもまだ発展途上である、まだ成長していく余地がある、そう感じられたことが少し嬉しかった。

「――で、皆さん結論は出ましたか?」

 話の区切りがついたところで、ここまで放置していた呼び方議論のメンバーに声を投げ掛ける。
 すると、塊の中心にいた円堂が馨の前にぴょんと踊り出てきた。

「おう! ばっちりまとまったぜ!」
「そうかそうか、で?」

 その笑顔の爽やかさに何となく嫌な予感はしたが、今回もそれは裏切らずに見事的中することとなった。

「『コーチ』のままってことに決まったんだ」
「えっ……」

 なら今までの議論は何だったのだろう。時間の無駄と言うものではなかったのか。隣で豪炎寺が笑いを堪えているが小刻みに震える肩でバレている。
 さすがにげんなりとしてしまう馨だったが、次に円堂が言った一言には重たい気分も一瞬で吹き飛んでしまった。

「んで、オレは『馨姉ちゃん』って呼ぶことにした!」

 ――馨姉ちゃん。

「……へ?」
「キャプテンそれ初耳っス!」
「めっちゃ親しげじゃねーかお前!」
「てか、別に円堂のお姉さんじゃないし」

 馨が完全にフリーズしている間に、あちこちからダメだろやらやめとけやらズルいやらと散々な言葉が飛び交う部室内。馨との年齢差を考えて失礼だと感じているのか、それとも自分以外の人間が言うにしても気恥ずかしいのか、彼らの本心は個々のみぞ知る。
 これだけ色々言われているにも拘わらず、非難されている張本人は何とも思わない様子で馨に向かって首を傾けた。

「ダメかな、馨姉ちゃん」
「ね、姉ちゃん……姉ちゃん、か……」

 自分の中で噛み締めるように、何度か繰り返し呟く。
 実際、円堂とは一切血の繋がりもなければ知り合ってからの期間も短く、赤の他人から数歩踏み込んだ程度の間柄だ。そんな関係の子に『姉ちゃん』と呼ばれるなんて馨の人生でも初めての経験で、いつもの自分なら恥ずかしいからやめろと断っているであろう状況で、なのに――このどきどきと高鳴る心臓は何だ。ただの呼び名がいっそ甘美にすら聞こえるのは何故だ。
 答えは簡単――六つも年の離れた子に慕われて、素直に喜んでいる自分がいる。
 円堂からまた一歩近づいてきてくれたことを証明するようなその呼び名が、とてもきらきら輝いているように思えて仕方がない。
 些か照れ臭さがあるのは否めないが、断る理由など無かった。

「うん、いいよ、全然オッケー」
「よっしゃ!」
「えーっ!?」

 やけに砕けた馨の表情と答えに、一同は揃いも揃って口をあんぐりと開ける。
 終始ただ一人混ざることなく傍観を貫いていた豪炎寺は、その光景を見てとうとう小さく噴き出すのだった。


* * * * *


 いつまでも部室で屯しているわけにもいかないので、程々のところで切り上げた馨は足早に帝国学園へと帰還した。
 既に時刻は五時を大きく回っているため、学校内はどこも部活動に勤しむ真摯な空気が漂っている。当然サッカー部も例外ではなく、馨がグラウンドに顔を出したときはちょうどミニゲーム方式での練習を行っているところだった。どうやらまだ誰も馨が帰ってきたことには気付いていないらしく、誰も彼もが真剣、ともすれば必死に喰らいつくような面持ちでゲームを展開させている。
 馨は抱えていた荷物をベンチの下に置き、自転車で全力疾走した身体を休める意味も込めて少しその場に身を落ち着けた。その際、視線は自然とコート内の選手たちへと定められる。今はちょうど、鬼道があげたパスに佐久間が合わせてヘディングを試みたところだ。シュート自体は源田に止められたので得点には至らず、またすぐに試合は再開された。

「……」

 皆、本当に真剣に取り組んでいると思う。
 何度見てもハイレベルなプレーの連続で、けれど全員がそれを特別とは考えず当たり前の顔をしてこなしている。できて当然、やれて当然、そうでなければ帝国イレブン失格だと、そんな雰囲気が流れているのは何も今に始まったことではない。影山総帥という絶対的指導者の監視下に置かれたメンバーは、皆必死に“帝国学園サッカー部”のレベルを維持しようとしているのだ。
 確かに上手い。雷門に比べて圧倒的な実力を有している。
 なのに、どうしてか――雷門のサッカーを見ているときとは違い、胸が疼かない。熱く滾る思いが湧いてこない。
 ボールを蹴る足、追いかける眼差し。その全てに、まるで何の感情も乗っていないように思えてならなかった。

「……帝国のサッカー」

 そう、これは帝国のサッカー。しかし“帝国イレブン”のサッカーではない。一つ一つのプレーも戦術も、彼らの行うあらゆるものを影山によって統率された、さながら機械じかけの兵隊だ。雷門が生身の人間として熱を帯びれば帯びる程、ここはいっそう鋼鉄の如く冷め、感情を抱くことすら許されないとばかりに無機質になっていく。
 それこそ六年前から変わらず在り続ける、馨のよく知るチームの姿。
 しかし馨はもう一つ知っている。
 そんな雁字搦めのサッカーに叛旗を翻し、自分たちのサッカーを手に入れようとした、もう一つの帝国サッカー部の姿を――。

「江波さん」

 完全に呆けていたところへ、突如呼び声がかかった。
 思わず弾かれるようにしてその方を向くと、いつの間にかコートから出てきた鬼道がマントをはためかせながらこちらへと近付いてきていた。

「戻られていたのですね」
「あ、ああうん、遅くなってごめんね」
「いえ、その分事前に用意していただけていたので特に問題はありません」

 鬼道はベンチに置いてあったボトルを手に取り、口に含む。あれだけ駆け回っていたというのにそれ程汗をかいている様子は無かった。
 試合を最後まで見届けた馨が帰ってきても尚、鬼道から勝敗についての問いは無い。途中で帰るなんて真似をする時点で解っていたことだが、やはり雷門の勝利は確信していたようだ。ドリンクを飲み終えた彼が次に放った台詞が、まさにそれを体現していた。

「どうでしょう、雷門は。少しは歯応えが出てきましたか?」

 馨はベンチに腰を下ろし、鬼道を見上げるかたちになって答える。

「そうだね。豪炎寺くんが入ったことで単純に戦力強化がされてるし、他にもたくさん成長の余地を残してる。今日の試合はまだまだスタートラインだと、私はそう思ってるよ」
「……フットボールフロンティアにも、恐らく参加するでしょうね」
「するね、確実に」

 それで雷門が勝ち上がれば、地区予選決勝で戦うことになる。
 わざわざ口にせずとも鬼道とてそのくらい想定できるはずだ。何を思うのか読ませないゴーグルの向こうで、彼は何かを思案しているようだった。
 やがて再び開かれた唇は、いつもの調子で淡白に言葉を紡ぐ。

「それでも、勝つのはオレたち帝国学園です。オレたちに、負けは許されない」
「……」

 ただの強気な勝利宣言、という一言では片付けられない重さを孕んだ鬼道の宣戦布告。
 そんなものも、帝国に在籍していた人間としてとっくに慣れきっているつもりだったのに――何故だか馨は今、胸を鎖で締めつけられるような錯覚に陥って。

「……鬼道くんは」

 気付けば、言葉が先行して零れ出ていた。

「鬼道くんは、サッカーやってて楽しい?」
「え?」

 突然の問いに一瞬拍子抜けした声を返す鬼道。
 それも、彼と馨の視線が交錯した瞬間、すぐに厳かな声音へと立ち戻る。

「オレは、楽しい楽しくないでサッカーはしていません」

 迷い無く、彼はそう言い切った。硬質な語調のどこにも躊躇いは無く、馨の胸を締めつける鎖は、ますます力を込めて苦しさを募らせる。
 ――楽しさの無いサッカー。
 それは果たして、どんなものだっただろうか。何も感じず、何も生まず、ただ勝利のみを求めてボールを追い続けるサッカーとは、どんなものだったろうか。今となってはもう、馨には解らない。
 だのに目の前の少年は、今も尚そんなサッカーを行っていると言う。
 何の疑問も抱かず真っ直ぐ澱み無い眼差しで、そんなサッカーと向き合っていると言う。
 馨は密かに唇を噛み、彼の背後にある重圧に負けぬよう一心にその眼を射抜き続けた。

「じゃあ……鬼道くんにとってのサッカーって、なに?」
「……オレにとってのサッカーは――」

 鬼道が置いたのは、時間にすればほんの数秒程度の合間だったのだろう。だのに馨にとって、それはとても長い、永遠のように長い沈黙のように思われた。
 そして、漸く彼が口にした答えは。

「――義務、です」

 そこに、ほんの微かながら揺らぎが見えた気がして、馨は思わず息を詰める。それ以上の追及は許されないと肌で感じ、「そっか」と短く返したっきり口を噤み、自分の仕事をすべくグラウンドをあとにした。
 ――義務。
 鬼道にとってのサッカーは、どうやら馨が思うより遥かに重い意味を持っているらしい。ただ影山に目をかけられているからとか、帝国のキャプテンだからだとか、そんな安い理由ではなさそうだ。
 踏み込んでいくには、まだ馨は彼を知らなさすぎている。それに、あのとき病院前で出会った豪炎寺と同じなのだ。そう簡単に他人が侵していい領域の話ではないと、彼の口振りだけで嫌でも思い知らされてしまう。
 絶対に勝利を掴む帝国サッカー部。勝利することを義務づけている鬼道。影山の操るマリオネットの如く、そこには絶対的な支配のみが存在する。
 それが、それこそが、帝国学園。
 だけどもしも、影山の支配から脱却し、皆が皆のサッカーを望むことができるようになったとしたら……。

 ――馨姉ちゃん!

 ――馨!

 二つの声が、よく似た声が、馨の中に木霊のように反響する。
 それと同時に胸に絡みつく鎖は解け、しかし、そこには未だ消えぬ虚が小さな穴を空けていた。
 自分の内側にあるものが確かに満たされきらない、その証のように。




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