尾刈斗戦へ


「馨!」
「ぐえっ!」

 月曜の朝。
 朝練を終えて登校してきた馨を待っていたのは、体当たりじみた強烈なハグだった。

「大丈夫だった? あの後何もされなかった!?」
「よ、よーちゃん痛い、痛いんですけどっ」
「もー、スゴく心配したんだからね!」

 ぎゅうぎゅうと容赦無く抱き締めてくる吉岡は、普段のお気楽な感じとは打って変わって真剣な声音でそう言った。馨と別れた後、彼女はずっと友人のことを気にかけてくれていたらしい。

「ていうかメール! メール返しなさいよアンタは!」
「あ、ごめん普通に忘れてた……」

 そういえば、土曜にも日曜にも吉岡から安否確認のメールが届いていたことを思い出す。きちんと目は通したが、何だかんだ部活の方で手一杯だったので後回しにしてしまっていた。そのままずっと返信し忘れ続けたので、返事待ちの吉岡からすればタダ事ではない状況だと心配するに決まっている。
 普段は喧しい友人とはいえ、こうしていざというときは本気で心配してくれる姿を見ると改めて親友なんだと思えるし、意識せず不安を煽ってしまったことには純粋に申し訳なさを感じた。とりあえず、安心させるように背中をポンポン撫でて平気であることを伝え、絡みつく腕からするりと抜け出した。
 コホンと一つ咳払いをし、まだ眉をハの字にしている吉岡に別れた後のことを簡単に教える。勿論、本当のことは言い難いのでほぼほぼ捏造であるが。

「――つまり、影山って人は馨のお父さんの知り合いで、商談相手ってこと? そんでアンタに取り入って強引に話を進めようと画策してる……と」
「そういうこと。面倒な人だから、あんまり関わりたくなかったんだ」

 嘘八百もいいところであるが、吉岡は馨が元帝国学園の生徒であることを知らないうえ、中学サッカーについてはほぼ無知に等しい。当然影山零治という男も知らないので、何一つ疑うことなく馨の話を信用してくれた。馨とて騙すことには罪悪感を覚えたが、これが友人のためなのだと嘘に嘘を重ねていく。

「鬼道くんのことも、話に財閥が絡んできてるからね。色々複雑なんだ」
「そうなんだ、アンタ結構大変なんだねー。でもあの鬼道財閥の御曹司でしょ? 玉の輿のチャンスじゃん!」
「は?」

 途端に心配そうな表情を消し去っては独り盛り上がる吉岡。
 何を言ってるんだと顔を歪める馨なんて気にせず、彼女は彼女の中で組み上げられたストーリーをつらつらと語り始めた。

「あの鬼道くんって子とは知り合いなんだよね? 話してた感じだとそれなりに親しそうだったし、上手くいけばそのうち向こうの縁談の相手に選ばれてゴールインできるかもしれないじゃん! 財閥御曹司なうえに、なんかゴーグルっぽいの着けてたけど雰囲気はイケメンな感じしたからもう最強だよ」
「いやいやいやいやいや!」

 人類史上最高の発明をしましたみたいな体で喋り続ける吉岡に、馨は全力で割って入った。
 実に楽しそうに語っているところ申し訳ないが、さすがにそれはツッコまざるを得ない。バカかと。アホかと。

「よーちゃん正気!? 相手十四歳だよ!?」
「あ、中学生なんだ。でも恋愛に年齢とか関係無いでしょーリアリストだと掴めるチャンスも掴めないぞー?」
「関係あるわ! 失礼だし夢見すぎ! あのね、冷静に考えなよ。万が一付き合ったとしても、あっちが二十歳のときはこっちは二十六だし、十年後なんて私三十歳になるんだよ? そんなおばさん相手じゃなくても御曹司なら他に良い人いっぱいいるって普通」

 自分で言っていて辛くなってきた。二十歳という年齢単体で見れば馨だって充分若い内に入るのに、鬼道やその他のメンバー、雷門イレブンと比べれば“お姉さん”だし、下手をすれば“おばさん”扱いされかねない立場にいるというのは紛れも無い事実。まさか同い年の親友にそんな現実を再認識させられることになるとは思わなかった。
 それに第一、馨は玉の輿がどうの縁談がどうのという目線で鬼道と付き合っているわけではないし、今の今までそんな考え方を持ったこともなかった。寧ろあちらの方から接触してきて、いつの間にやら抜け出せない渦中に巻き込まれていたという方が正しい現状なのだ。しかも共通点はサッカーのみ。色気や邪の欠片も無く、飽くまで純真かつ清い関係でしかない。その辺の話を端折っているから、夢見がちな吉岡には期待値が見えたのかもしれないが。
「アホ抜かせ」と容赦無い一言で主張を締め括る馨。吉岡も年齢的な意味で同じ立場としてそれなりに納得できたようで、顎に指を添えて少し残念そうに唸った。

「んー、まあそう考えるとそうだけどねー。いやー残念だったね馨、生まれるのがもう少し早ければまだ富豪の未来に希望持てたものを」
「つーかそもそも金持ちになるために結婚するって時点でよーちゃんも大概リアリストだから。魔性の女だから」
「あははっ、違いない!」

 開き直って背中をバンバン叩く吉岡に眉を顰めつつ、馨は溜め息を吐いて一限の講堂に歩を進めるのだった。
 ――結婚とかその辺は置いておくとして、彼女の言った「生まれるのがもう少し早ければ」という部分は否定できない。
 もしも自分が二十歳ではなく十四歳、あの少年たちと同い年として出会えていたとしたら、今の環境や触れ合い方とはまた違った世界があったのだろう。六年前、帝国学園サッカー部のマネージャーだった頃。その当時の自分は、果たして部の中でどんなだったろうか。少なくとも、メンバーとの間には何の“差”も無かったはずだ。
 もっと早く生まれていれば、きっと、彼らに対して虚を見出すことも無かった。
 六年間という時間は、体感以上に大きくてどうしようもない隔たりをそこに作り上げている――しかし、どんなに願っても決して時間は巻き戻らない。それは自然の摂理に従って生きている以上仕方のないことだ。
 ならば馨は今の、二十歳の自分ができる精一杯で、その虚を埋めていくしかなかった。


* * * * *


 時は進み、雷門中と尾刈斗中との練習試合当日。
 先に帝国学園へ寄って必要な仕事を片付けていた馨は、ふとピッチに立つ人数が足りないことに気付いた。

「あれ、鬼道くんたちは?」
「鬼道さんと佐久間なら雷門の練習試合を偵察しに行ったぜ。あ、テーピング頼む」
「偵察?」

 ベンチへ座った咲山の足に頼まれた通りテーピングを巻きつつ、さらに鸚鵡返しで問うてみる。咲山は手持ち無沙汰そうに空いた方の足を揺らしながら頷いた。

「この前やったうちとの試合で気になるところがあったらしい。総帥も鬼道さんもやたら注目してるみたいでな」
「なるほどね」

 あの練習試合はそもそも豪炎寺修也の足が錆びていないことを確認するための試合だったのだから、結果が出た今改めて警戒をするのは別段変な話ではない。この様子だと、彼が正式に雷門サッカー部の一員になったことも既に把握していることだろう。帝国学園の諜報役は良い意味でも悪い意味でも優秀である。
 また、鬼道が気になるのは恐らく豪炎寺だけではない。ぼろぼろになっても尚熱意を失わずに戦い続け、最終的には土壇場でデスゾーンを止めて見せた彼、円堂守のことも意識しているはずだ。円堂がシュートを止めたときに帝国イレブンの中で誰よりも驚愕していたのは、他でもない鬼道自身だったことを馨はよく覚えている。
 もし鬼道の居場所がここでなかったのなら、真正面から向き合える良き好敵手(ライバル)になっていたのかもしれないな――仮定の話で感傷に浸るのは非生産的だと解っていても、そう思えてしまった。

「帝国が雷門に偵察か。長いこと弱小チームだって呼ばれてたらしいのに、あの試合で随分格上げたんだなぁ」
「アンタ、良いのか?」

 テープの端を留め終えて立ち上がる馨に続き、咲山が腰を上げながら言う。

「今はウチのマネージャーでも、元々雷門のコーチだったんだろ?」

 なのに、敵チームである帝国なんかにいて良いのか――白いマスクの向こうから、咲山は暗にそう伝えていた。直接的に言わないのは、彼の些細な優しさだったのかもしれない。
 馨は静かに目線をピッチへ向け、今も練習に励む真剣なレギュラーたちをじっと見つめる。
 確かに、こんなのは間違っているのかもしれない。蝙蝠(こうもり)のように行ったり来たりして、雷門にとっても帝国にとっても気持ち良いものじゃないのかもしれない。だが、そんなことはマネージャーになると決めたときから解りきっていたことだし、今更決意を変えようとも思わない。
 馨はただ、与えられた居場所で自分ができることをしているだけだ。全てはタイミングが悪かった。馨に生じた付け入る隙を逃さない影山と鬼道によって、帝国学園という地で再びマネージャーをやっている。それだけ。
 サッカーが好きな気持ち、サッカーを愛する気持ち、サッカーをしている皆を大切に思う気持ちは、疑いようもなく今もここにある。

「……咲山くんは、そういうの気にする?」
「別に、オレは練習しやすけりゃ何でも良いよ。それに鬼道さんや総帥が認めてるなら、特に文句言うつもりもねぇ」
「なら良いんだ」
「は?」

 理解し難そうに眉をひそめる咲山を見ない振りをして、そこで会話を打ち切った。ぽかんとしている彼に「次の全体休憩までには戻るよ」とだけ告げ、馨は上着を羽織るとそのまま外へと駆けていった。


 急いだ甲斐も無く随分遅刻をしてしまったようで、馨が雷門中に到着したときは既に前半戦が終わってしまっていた。
 帝国学園から最寄りの駅までは電車だが、駅を出てからは停めておいた自転車をすっ飛ばしてきたため早くも疲労困憊状態だ。本当に一刻も早く原付を購入しないといけない。肩で息をしながら正門をくぐった馨は、すぐ傍に見慣れた人物を発見して一瞬目を丸くさせた。

「二人とも、ここにいたんだ」
「遅かったですね。もう前半戦は終わりましたよ」

 目立たないためなのか、私服姿の鬼道と佐久間。後者は馨を見るなり嫌そうに顔を歪めたが、馨は気にしない振りをして額に滲む汗を拭った。
 鬼道は来たばかりの馨のために、前半戦がどのように展開されたかを簡潔に説明してくれた。円堂が例の必殺技をものにし、染岡の必殺シュートによる先制、二点差になってから空気の変わった尾刈斗イレブン――《ゴーストロック》という謎の戦術が発動されてから三点を返されたというところまで聞き、思わず嘆息してしまった。

「《ゴーストロック》が始まると身体が動かなくなる、ねぇ……それって本当に呪いかなんかなの?」
「そんなわけあるか。呪いなんて出任せに決まってる」
「それはそうだけど」

 佐久間の言うように、今の時代呪術などの非科学的なものはきちんとその効果を立証されてはいない。異常が起きた場合、大体はどこか他の部分に原因が隠されているものである。しかし今のところは鬼道も佐久間も、例の技についてはその原因を究明できていないようだ。馨とて本物の呪いとは思っていないけれど、理屈で語れない以上現時点では呪いと言うしかないだろう。
 とにかく、逆転をされた雷門イレブンの様子が気になる馨。鬼道に一言断りを入れると、彼が承諾の首肯を返すと同時に佐久間がフンと鼻を鳴らした。

「ウチの情報喋るんじゃねーぞ」
「おい佐久間」

 相変わらず全く信用されていないようで何よりだ、なんてささやかな皮肉を密かに脳裏に漂わせ、馨は肩を竦める。

「そんなことしないよ。私はフェアプレーのサッカーが好きなんだから」
「……どうだかな」

 気に入らなさそうに腕を組んで顔を伏せた佐久間と、その隣で何とも言えない表情を浮かべる鬼道。もうそろそろそんな態度も慣れてきている馨としては、いっそこうして会話をしてくれたこと自体に喜びを覚えたいくらいだ。――そんなことを言えば余計に嫌われるのは目に見えているので、ここは黙って会釈してからさっさと立ち去ることにした。
 彼らの控える部室は校舎の横にひっそりと佇んでおり、帝国の無機質さとはまた違った、ある種の寂寥感を抱かせる見た目をしていた。平たく言うとめちゃくちゃぼろい。そんな貧相な小屋の中からは、後半戦の相談でもしているのか微かに話し声が聴こえてくる。馨は軽くノックをしてからドアを引き開けた。

「うわあああっ!」
「のわああっ!」

 直後、盛大な悲鳴がしたのでつい共鳴するように大声をあげてしまった。
 いきなり悲鳴が二つになったことに驚き、入り口を向くイレブンたち。そこに見知った姿を見つけ、数人が嬉しそうに笑顔をつくった。

「あ、江波さん!」
「コーチでやんす!」
「え、コーチ?」

 皆が口々に言う名前に反応し、最初の叫び声の音源である壁山が目をうるうるさせながら恐る恐るといった感じに背後を確認する。そしてその人物がかつてのコーチであるとしっかり認めると、くしゃりといっそう顔面を崩壊させた。

「酷いっスよコーチィ! 驚かせないでくださいっス!」
「そりゃこっちの台詞だよ……」

 未だ高鳴る心臓を何とか落ち着かせ、馨は部室に入りドアを閉めた。

「それはともかく……前半のことは聞いてるよ。随分苦戦してるみたいだね」
「そうなんだよ。急に足が動かなくなってさぁ」

 すぐ傍にいたニット帽を被った少年がうんうんと頷いている。そこで思い出したが、今のチームには馨の知らない子も入っているのだ。帝国との練習試合時はそこまで気が回らなかったから仕方ないが、このままずっと名を知らないでいるのはやりにくいだろう。
 馨が言いたいことを理解したのか、少年が帽子で半分程隠れた瞳を向けて小さく頭を下げる。

「オレは松野空助。マックスって呼んでね」
「マックスくんか。江波馨です、よろしく。で、そちらは?」

 今度は部屋の角に静かに立っている、影が薄いのだか濃いのだか判らない長髪の少年を見遣る。

「あ、オレ……影野仁、です……気付いてもらえて良かった……」
「ちなみにボクは目金欠流と申します。以後お見知り置きを」
「よろしくね」

 影野に続き、目金が細フレームの眼鏡をくいっと持ち上げながら自己紹介をしてくれた。彼のことは未だ記憶に根強い。練習試合のとき、エースナンバーのユニフォームを放り出して途中棄権してしまった子だ。その当時のことはさておき、無事に再入部を果たしたようで何よりである。
 相変わらず個性の強そうな彼らににっと笑い掛け、次いで自然な動きで壁に凭れている豪炎寺へと視線を移す。彼もまた馨を見てはいたが、互いに特に喋ろうとはしなかった。

「コーチ、何か作戦とかないんですか?」

 訪れて早々に、宍戸が困った顔で問い掛けてくる。
 力になりたいのは山々だが、馨はただ苦笑いするしかなかった。

「ごめん、前半見てたわけではないから私にもさっぱりなんだ」
「そっか……んー、やっぱり円堂の言うように試合中で見つけるしかないかー」
「君たちならきっと打開できるさ、頑張れ!」
「うわっ! ……うん」

 一番近くにいた半田の頭をポンポンと撫でると彼は照れたように俯いてしまった。「オレも!」と寄ってきた少林寺も一緒に撫でながら、大丈夫だと訴えるように円堂へ目配せをする。円堂もまた、任せておけという意思を込めた笑顔を返してくれた。
 役に立てない自分を不甲斐なく思いながらも、不思議と彼らなら絶対大丈夫だと安心できる気持ちがある。チーム全体が最初に見た頃よりも一段逞しくなったように見えるからだろうか。円堂からの電話で聞いた通り、皆がそれぞれ着実に力をつけてきているのは雰囲気からでも感じ取れた。わざわざ馨が口添えせずとも、このチームならば必ずや勝機を見出してまた一歩前進してくれるだろう。
 力をつけたといえば、新シュート技を編み出した者がいるとのことだけど――と件の人物、染岡へ目を遣った馨。だが、彼は他のメンバーに比べてどこか様子がおかしかった。落ち着いてはいるものの、何かを考え込んでいるのかひどく思いつめた顔をしている。暫くは地面に向いていたその視線は、やがて別の、とある一点へと向けられて。
 そこにいるのは――豪炎寺。染岡と同じポジションで、彼より後に加入した強力なストライカー。
 何となく、彼が何に歯噛みしているのかが垣間見えた気がした。

「染岡くん」

 ちょうど後半の招集がかかったので、移動のどさくさに紛れてさりげなく染岡の隣に並ぶ馨。

「うっす、コーチ」
「肩に力入ってるよ、もっとリラックスしな。前半撃ったっていう染岡くんの必殺シュートは見られなかったから、後半楽しみにしてるね」
「……っス」

 そう応えてはくれるけれど、そこに彼らしいあの厳ついまでの覇気は無い。
 代わりにあるのは、目の前を行く背中を抉らんばかりのきつい眼差しと、――焦燥感。

「……でも、サッカーって個人競技じゃないからさ」

 すっかり力んでしまっている肩をやんわりと揉みながら言うと、染岡の三白眼が馨へ移される。

「全部自分でやらなきゃって気負う必要も無い。せっかく人数も増えたんだし、仲間と一緒にプレーする楽しさを、できれば忘れないでほしいなぁ。なんて」

 帝国戦以降まともに練習に顔を出せていたわけでもないのに、こんな風に説教じみたことを言うのはお門違いかもしれない。それでも口にしたのは、染岡の中にある何かが少しでも軽くなればいいという思いがあったからこそだ。共に帝国に立ち向かったプレーヤー、雷門のエースストライカーである染岡には、ここで躓いたまま終わってほしくなかった。
 わざとおどけた調子で小首を傾ければ、それまで吊り上がっていた彼の眉がほんの僅かに穏やかになった気がした。

「……っス」

 先程と同じ返事を繰り返す染岡。まだ完全な解決には至ってなさそうだが、馨ができることはここまでだ。あとは同じピッチでプレーする仲間たちに任せようと、コートへ入る背中を励ますように押し出した。
 そのまま流れでベンチに座った馨の両隣には、練習試合のときと同じようにマネージャーの木野と新聞部の部員がいた。
 しかし新聞部員の方は、何故か木野と同じくジャージを着ている。確かあのときは制服姿だったような覚えがあるのだが。取材の用事ではないのかと疑問に思っていると、視線に気付いたらしい彼女の方から馨に声を掛けてきた。

「私、新しくマネージャーになった音無春奈です! よろしくお願いします、江波さん」
「ああ、マネージャーになったんだね。改めまして江波馨です、よろしくね、春奈ちゃん」
「音無さん、情報収集が得意だからすごく頼りになるんですよ」

 木野の言葉に、照れながらも「新聞部ですから」と返した音無。改めて馨に向き直るや否や馨の手を取り、ぎゅっと力を込めて握り締めた。

「江波さんのことは皆から聞いてますよ。それに帝国戦でシュートを止めたあの瞬間! もうすっごいカッコ良かったです、惚れ惚れしちゃいました!」
「ど、どうもありがとう」
「あのときはとてもお話できる空気じゃなかったので、こうしてお会いできるのをとっても楽しみにしてたんです! 大学生と窺っていますが、間近で見るとますます大人のお姉さんって感じでステキですねー! ファンになりました!」
「ファ、ファン?」

 真っ向からぶつけられるハイテンションな褒め言葉にたじろぐ馨。何だか既視感があると思ったら円堂だ、音無の猪突猛進的な勢いは彼によく似ている。別段悪い気がするわけでもないが戸惑いは隠せない。というかファンって何だろう、コーチどころかただのサポーターに成り下がった相手にファンも何もあるのだろうか。近頃の女子中学生の考えはよく解らない。
 音無はその後も全力で馨を持ち上げていたが、後半戦開始のホイッスルが鳴るとさすがに我に返って意識を試合観戦へ切り替えた。そこで漸く解放された馨も、自分の中のスイッチを試合モードに入れる。

「さて、後半だ」

 雷門からのキックオフ。しかし豪炎寺はボールを後ろにいた少林寺に回し、自らシュートを撃ちにはいかなかった。一見逃げているように見えるその行動に円堂が非難をするが、豪炎寺には考えがあるらしく何やら難しい顔をしている。
 豪炎寺が積極性を失ったことに腹を立てる染岡。怪訝に思うのは彼だけではなかったようで、半田はフリーの豪炎寺ではなく二人もマークのついた染岡へパスをしようとした。

「皆さん、なんか崩れてますよね……」

 音無の言う通り、チーム内でプレーが分裂していた。半田以外は皆、染岡では点が取れないからと豪炎寺にボールを回しているのだ。それでも豪炎寺はシュートをしに行かないため、痺れを切らした染岡はとうとう彼のボールを奪うという行為に出た。

「染岡!」
「何やってんだアイツ」

 豪炎寺の制止も聞かずに強行手段をとる染岡に、雷門ゴール前で構えているDF陣も呆れ返っていた。
 そんな味方のことなど気にせず、染岡は勢い良く右足を振り上げる。するとドラゴンの影が出現し、彼が蹴り飛ばしたボールと共に真っ直ぐ尾刈斗ゴールへと向かっていった。

「あれが新しい必殺技か」
「《ドラゴンクラッシュ》と言うんですよ」
「ほぉ」

 どうやら目金が命名したらしく、どこか自慢げに解説をしてくれる。染岡が努力の末に習得したという必殺技に、馨は胸が高鳴るのを感じた。
 しかし、蹴り始めの勢いが嘘のようにボールはキーパーの手中に収まってしまった。尾刈斗キーパーの必殺キャッチ技、《ゆがむ空間》である。
 やっぱりな、と落胆するイレブン。シュートを撃った本人である染岡は茫然自失し、がくりと地面に四肢をついて項垂れた。

「何回見ても不思議です……どうしてシュートが決まらないんでしょう」

 独り言のように呟いて首を捻る音無。
 今の一連の流れは、馨から見ても確かにおかしかった。単純にシュート技をキャッチ技で止めたというにはあまりに不自然なのだ。染岡がシュートを撃った段階とキーパーがキャッチする段階では、どう見てもシュートの威力に差がありすぎる。これは、キーパーの方に何か絡繰りが仕込まれている可能性が高い。問題はそれに誰かが気付けるかどうかなのだが。
 ――待てよ。
 先程から豪炎寺が全くシュートを撃ちにいかないのは、もしやその絡繰りを探っているからなのではないか?

「豪炎寺くん!」

 思い至ったが早いがベンチから立ち上がってその名を呼ぶと、どうやらちゃんと聴こえたらしい豪炎寺が馨を見る。そしてその切れ長の瞳がちらりとキーパーの方を指し示すことで、馨はやっと確信を持てた。
 やはりそうだ、彼はキーパーの秘密を見極めようとしている。
 けれどその意図を他の誰にも伝えていないから、こうしてイレブン内が分裂してしまっているのだ。

「江波さん、豪炎寺先輩がどうかしたんですか?」

 突然叫び出した馨に音無も驚いたようだ。
 馨は小さく詫びつつ再びベンチに座り直す。

「豪炎寺くんも豪炎寺くんなりに、相手の策を見破ろうとしてるみたいだね」
「策? 今のキャッチですか?」
「うん。ただ、この場合は意思疎通が――」
「あ、尾刈斗の監督が」

 話の途中だったが、木野が焦った様子で指をさしたのでそちらを見る。すると、これまでの穏やかそうな表情から一転、厳めしい顔をした監督がそこにいた。人が変わってしまったかのような凄まじい変化である。オカルトの名を冠する学校としてはある意味相応しいのだが、そう笑ってもいられない。
 監督の一声で尾刈斗選手の動きが変わり、FWが一斉に上がってくる。複数人が変則的に左右に動きながら迫って来るせいで、傍から見てても頭が混乱してしまいそうになった。こんなものを正面から受けるプレーヤーはたまったものではない。
 急いで守りに戻る雷門イレブンだが、そのとき相手は仕掛けてきた。

「《ゴーストロック》!」

 ――まーれ、まーれ、まれとまれ!

「あっ、あれですよ江波さん!」
「……」

 音無が指摘しながら振り返るも、馨は真剣な顔つきで監督を注視していたため音無の声は聞こえていなかった。

「江波さん?」
「……これは」

 例の《ゴーストロック》発動時に被せるようにして聞こえた声――今も尚呪文のように繰り返されているそれを、馨は頭の中でゆっくりと復唱してみる。この技を喰らうと皆身体が石のように固まって動けなくなってしまう、と。そんな呪いじみた戦術の種があるとすれば、きっとここにあるはずだ。
 まーれ、まーれ、まれとまれ……まーれ、まーれ、まれとまれ……。
 まれま、れまれ、とまれ。
 止まれ。

「あっ!」

 ――そういうことか!
 辿り着いた一つの答えに顔を跳ね上げ、すぐさま円堂を見遣る馨。尾刈斗のFW、幽谷はもうシュートの体勢に入っている。
 その瞬間、グラウンド全体に大声が響き渡った。

「ゴロゴロゴロッドッカーン!」

 びりびりと鼓膜を強く震わせたその声は、衝撃波のように広がって反対側のゴールまで届いた。円堂の突拍子もない行動に驚いた馨だが、それよりもさらに驚くべき光景を目にした。
 対応が間に合わないかと思われた幽谷の《ファントムシュート》を、円堂は新たな必殺技で見事に止めてみせたのだ。

『止めました円堂ーッ! 幽谷の《ファントムシュート》を止めましたー!』
「やったぁ!」
「円堂先輩スゴいです!」

 角馬の実況が拍車を掛け、円堂の活躍にわっと歓声をあげるベンチ。両手を掴まれた馨も二人と一緒になって喜んでいると、ゴール前にDFが集まって何やら会話をしだしたようだった。
 その様子を見て、そういえばと木野が首をひねる。

「どうして皆、動けるようになったのかしら」
「確かに、《ゴーストロック》が解けてますよね」
「それはね」

 二人の手をやんわりと解いた馨は腕を組み、目を見開いて愕然としている相手の監督を顎でしゃくった。

「催眠術が解けたからだよ」
「催眠術?」

 理解し難そうな二人に、さらに詳しい説明を加える。

「まーれまーれまれとまれ……つまり『止まれ』。あの気持ち悪いフォーメーションで頭を混乱させたところに、『止まれ』と暗示を掛けて無意識に身体の動きを止めさせる。監督の呪文は暗示の役目を担ってたわけ」
「視覚と聴覚から訴える催眠術だったのですよ。《ゴーストロック》の正体とは」
「なるほどー!」

 馨の解説を目金が綺麗に纏めたことで、マネージャーたちの謎もすっきり片付いたようだった。
 続けて円堂の叫びが暗示を打ち消す働きをしたということ、あちらの監督はわざと挑発してこちらの冷静さを欠かせていたことまできちんと注釈を加え、目金は得意げに眼鏡のブリッジを押し上げた。

「そこまで見てたなんて、目金くんはスゴいね」

「監督の挑発は気付かなかったよ」と言えば、常に大人ぶってる彼もやや年相応に照れつつ嬉しそうに胸を張った。
 理屈は単純なわりに苦戦を強いられた《ゴーストロック》。それを打破したことにより、雷門イレブンにも段々と明るさが戻ってきていた。未だ勝利を確信しているらしい相手監督にも気を取られず、円堂はボールを前線に送るよう指示を出した。

「でもキャプテン、染岡さんのシュートじゃ……」
「アイツを信じろ、少林!」

 FWへのパスを戸惑う少林寺の台詞を、円堂の声が遮る。

「あの監督の言う通り、オレたちはまだまだ弱小チームだ……だから、一人一人の力を合わせなくちゃ強くなれない」

 DFを見て、

「オレたちが守り」

 MFを見て、

「お前たちが繋ぎ」

 FWを見て、

「あいつらが決める」

 円堂は胸に滾る熱い思いを言葉に託し、強く放つ。

「オレたちの一点は、全員で取る一点なんだ!」

 その言葉に、あれだけ険しかった染岡の表情が何かを見つけたように柔らかくなる。遠くから見ている馨でも、彼が大切なものを思い出したのだということが解った。
 今回も、出口の見えない迷路で狼狽している人を救ったのは円堂だ。彼の言動には、人の心を動かす大きな力がある。

「……円堂くんは、熱いね」

 熱くて、真っ直ぐで、見ているだけで心が疼く。そんな円堂と共に、このチームはこれからもっともっと成長していくのだと思うと、その先を見ていくことがどうしようもなく楽しみに思えた。雷門は、きっと馨の想像なんて遥かに超える素晴らしいチームになっていくだろう。
 円堂の発言によってチームは一つになり、ボールは染岡へと繋がれる。そのままシュートを撃とうとする彼が不意に目をしばたかせると、横についていた豪炎寺が確信めいた顔で助言をした。

「奴の目を見るな、あれも催眠術だ! 平衡感覚を失い、シュートが弱くなるぞ!」

 豪炎寺の声が届いた染岡が、はっとしてそちらを向く。

「お前……ずっとそれを探っていたのか」

 直接言われたことで豪炎寺の真意に気付けたらしく、ぐっと何かを噛み締めるように顔を顰める染岡。そこにはもう、試合開始前にあったものは無い。次に正面を見据えた面構えはまるで生まれ変わったかのようで、彼の中である結論に行き着いたことを馨にも知らしめる。
 そしてそれをパワーに変えて、染岡は強くボールを蹴りつけた。

「豪炎寺!」

 染岡のシュートは強烈だったが、ゴールの前で大きく軌道を逸れた。

「どこ狙ってるんだ染岡!」
「いや違う……あれはパスだ」

 ボールを目で追う馨が言うや否や、上手く敵DFをかわした豪炎寺が高く飛び上がって染岡の放ったシュートに自身のシュートを重ねた。青き龍は炎を纏い、一瞬にして業火の如き紅蓮に染まる。《ドラゴンクラッシュ》にさらに《ファイアトルネード》の威力が加わったことで、それを止めようとしたキーパーの鉈は成す術も無くボール共々ゴールの中へ吹っ飛ばされた。
 ピーッと高らかに鳴り響くホイッスルが、雷門の得点を告げる。その一瞬後、雷門イレブンやギャラリーたちが爆発せんばかりに一気に湧き立った。

「きゃー! ど、同点ですよ江波さんっ!」
「やばい……鳥肌立った、今」

 衣服に覆われた腕を何度も摩りながら、馨が誰にともなく呟く。
 二つの必殺技が合わさった瞬間、背筋を物凄い勢いで何か熱いものが駆け上がっていったのだ。

「……すごい」

 ――魅力的なまでの、底知れぬ可能性。
 まだまだ終わりを思わせない彼らの力をひしひしと感じ、無意識のうちに顔が綻ぶ。何より、あんなに豪炎寺に対して敵視まがいの視線を向けていた染岡が、この土壇場で豪炎寺を信用してパスを出したことに感動した。そしてそれに合わせてしっかりシュートを決めた豪炎寺のプレーも、染岡を信じているからこそ成し得た芸当だろう。
 彼らは、試合の中でもこうして成長していくのだ。ただボールを蹴るだけではなく、一瞬一瞬に思いを込めてコート上を駆け巡り、確実に成長の糧としていける。皆で作り上げるサッカーを、他の誰でもない、自分たちのものにできている。
 熱い。そして、眩しい。
 雷門のサッカーは、馨にとって直視することすらできない程に、ひどく眩いものだった。

「……」

 同点に追いついた喜びで勢いに乗るメンバーたち。
 その様子を温かく見守っていた馨の携帯が、不意に小刻みに振動した。

「メールですか?」
「うん、気にしないで」

 差出人は鬼道だった。届いたメールの文面には、ただ一言『先に帰っています』とだけ書かれている。二人がいるはずの正門付近を見遣ってみれば、既にどちらの姿もそこにはなかった。
 ――結果は見えてるってとこか。
 携帯を閉じ、ゆっくりと身体の力を抜く。それ以上何も考えずに再開された試合に意識を戻せば、あの豪炎寺と染岡の連携シュート――目金は《ドラゴントルネード》と名付けていた――が決まったところでホイッスルが鳴り、試合は四対三で雷門中の勝利に終わった。




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