昼下がりのガールズタイム


 トーナメント表によると、雷門中の予選一回戦目の対戦相手は野生中という学校である。
 馨は現在の中学サッカー事情についてはあまり詳しくないが、鬼道曰く「昨年の地区予選決勝で帝国と戦った相手」だそうだ。当然ながらその試合は帝国の勝利という結果に終わっているが、問題はそこではない。野生中サッカー部は、少なくとも地区予選を勝ち上がっていけるだけの実力を有しているということなのだ。
 ここでいきなり雷門が負けることになるなんて考えたくないが、少し心配になって野生中について調べてみたところ、非常にアクロバティックなプレーが持ち味で、基本は空中戦を得意とするタイプのチームであるらしい。それ以外の、所謂地上戦についてはどこにでもいるような普通のサッカー部程度なのだが、一旦相手に主導権を握らせてしまうとそこからボールはひたすら宙を舞い、文字通り手も足も出ないことになる。実際の試合映像を見た所見では、確かに空中戦だけならば帝国をも凌ぐだろうと思えた。
 空中戦――さて困った、雷門には野生中に匹敵する程のジャンプ力のある選手がいない。辛うじて豪炎寺が追い縋れるか否かというくらいで、それでも彼らを圧倒するに足る戦力にはなれなさそうだ。どうにかして打開策を見つけ出さないと厳しい試合になること必至である。
 大会初戦からいきなり強敵と当たってしまったな、と馨はつい不安げな溜め息を吐くのだった。


 講義が三限までしかない金曜日は、大学を出てから帝国へ向かうまでにゆっくりできる時間がある。
 大抵はこの時間を利用して買い物を済ましたり、叔父の見舞いに行ったり、その週のうちにやるべきことを片付けている。特にやることもなければ帰宅してから身体を休めたり課題を進めたりもできるので、ある意味癒しの曜日ともいえるだろう。まだ二十歳とはいえ、毎日毎日大学と帝国を自転車で往復しつつマネージャーとして走り回るのは肉体的にもそれなりに厳しいものがあった。
 吉岡は四限まで講義があるため、一週間のうちでも珍しい独りでの帰宅。別に彼女以外に友達がいないわけではない。同じ学部学科の友人は皆サークルに所属しているので、自分のように何もせずさっさと帰るわけにはいかないだけだ。面倒くさいという理由でサークル無所属な人間が友人の中に一人もいないだけなのだ。だから断じてボッチなどではない。――誰にともなく弁明しながら、馨は落ちてきた前髪を指先で払った。
 そういえば、最近前髪が少し鬱陶しくなってきた。マネージャーとして作業をしていると大体俯きがちになるから、いつの間にか耳にかけていた前髪が下りてきて視界を遮ることがままある。美容院に行くという手もあるが、今月中は時間がつくれないだろうし、とりあえず今のうちは髪留めで対応しておくのがいいかもしれない。
 ということで、今週の空き時間は新しい髪留め探しのために駅前の商店街へ赴くことにした。

「暑いなー」

 六月も半ばに差し掛かった今日この頃、陽気が良い日の気温は既に夏のそれとなる。特に昼過ぎは太陽が一番元気な時間帯、日射の眩しさも一入(ひとしお)だ。
 さらに駅前はコンクリートだらけなので余計に暑く感じ、馨は上着を脱いで鞄に押し込みつつ目的地を目指して歩いていた。馨だけでなく、その辺を歩いている人々も腕を捲ったり木陰で涼んだりと涼を求めているので、いよいよ世間も夏を迎える爽やかな雰囲気で満ち溢れていた。
 フットボールフロンティアの地区予選は六月いっぱいに加え七月の頭までかかって行われる。その後、少し間を置いた七月下旬に全国大会の開会式があり、八月中に本戦開催という流れだ。世間でいうところの夏休みを利用しているので、選手たちも時間をたっぷり使って有意義に練習へ打ち込むことができるだろう。
 馨も七月下旬のテストさえ乗り切れば八月からは念願の夏休みに入れるが、残念ながら馨の学科は八月頭に『集中講義』が存在する。期間にして一週間、毎日三時間程度、普段では手の届かない部分をカバーした特別な講義を受ける必要があるのだ。欠席すればそのまま後期の成績に反映されてしまうので、基本的に学科生は全員参加するし、馨もまた例外ではない。そのへんに関しては、また詳細が出次第改めて鬼道に相談することにしている。
 正直面倒だが、そこをクリアすれば今度こそ正真正銘のサマーバケーションが馨を待っているのだ。帝国サッカー部は、万が一予選決勝で敗退しても昨年度優勝校として特別枠で本戦に参加できるので、勝っても負けてもまだまだフットボールフロンティアは終わらない。大学というある種の(しがらみ)が無くなった状態でなら、今以上に彼らのことを手厚くサポートしてやれるだろう。休みに入るのが待ち遠しい。
 そんなことをぼやぼや考えているうちに、馨の足は商店街へと到着した。
 相変わらずいつ来てもここは人が多く賑わっているが、決して不快な喧騒ではないのが不思議だなとよく思う。この時間だと主婦らしきおばちゃんたちが楽しそうに井戸端会議をしているのがよく目につくし、カートを押したおばあちゃんも度々のんびり歩いている。実に平和な場所だ。
 また、今日は珍しいことにちらほらと中学生らしい制服姿の少年少女を見かける。今も真横を二人連れの女子中学生がソフトクリームを食べながら通り過ぎていった。不良というわけでもなさそうだし、まだテスト期間でもないはず。ここにいるということは十中八九雷門生なのだが、今日は特別時間割だったりするのだろうか――。

「江波コーチ!」

 そこへ突然名を呼ばれ、驚きながらも反射的にそちらを振り向く。

「あれ、春奈ちゃん?」

 ぶんぶんと元気に手を振りながらこちらへ駆けてくるのは、赤縁眼鏡が印象的な音無春奈だった。
 音無は小走りで馨の隣に並び、いつも通りの溌剌とした笑顔を浮かべる。

「こんにちは! 尾刈斗戦以来ですね!」
「こんにちは、ちょっとだけお久しぶりだね。今日は学校半日なの?」
「はい、職員会議があるので給食食べておしまいでした。コーチは大学の帰りですか?」
「そうだよ。ちょっと用事があるからこっちに寄ったの」

 なるほど、雷門中が約半日休校だからこの時間でもあちこちで中学生を見かけたのか、と一人納得する馨。音無も制服姿のままなので、学校終わりにそのまま商店街にやって来たようだ。それにしても『給食』という響きの懐かしいこと懐かしいこと――うっかり懐古に浸りかけたところで、まだ話は終わらない。
「用事って?」と可愛らしく小首を傾げる音無に、馨は口元を緩めながら髪留めを探している旨を話した。すると一瞬にして音無の瞳に輝きが加わり、いつにも増してテンションと声音が高くなる。

「なら、もしよければ一緒に行っていいですか? 買い物にお付き合いしたいです!」

 ぐっと身を乗り出さん勢いのその顔にはでかでかと「行きたいです!」と書かれており、とてもじゃないが断ることはできない。そもそも断る理由も無いのだが。

「別に構わないけど……ただ髪留め見るだけだよ?」
「ありがとうございます! えへへ、コーチと一緒にお買い物できるなら何だっていいんですよ!」

「やったー!」と目に見えて嬉しがる音無は、どうやら買い物内容目当てではなく単に馨と一緒に買い物がしたいだけなようだ。その様子は、まるでお兄ちゃんお姉ちゃんにくっついて回る小さな妹のようにも見えてきたもので、馨の表情筋もついついだらしなく緩んでしまう。妹を持ったらこんな感じなのだろうか、なんて考えると、尚の事邪険には扱えない。一人っ子にとって姉妹は憧れの一つでもあった。

「では行きましょうか!」

 早速、音無は馨の腕に自分の腕をゆるっと絡ませて歩き出した。ああこれ女子がよくやるやつだ、とまたもや懐かしい気持ちになりながら、馨もまたそれに連れられるかたちで足を進めた。
 音無には、髪留めを選ぶにあたっておすすめの店があるらしい。商店街の奥の方にあるとのことなので、しばらくは他愛も無い話をしながらのんびりと歩を進めることにした。
 途中、通りがかりのソフトクリーム屋が夏限定の『夏ミカンイエローハワイ』という謎の新味を販売していたので、試しに二人一緒に買ってみた。
 どちらも軽い興味本位だったのだが、結果は、その名の通り夏ミカンとブルー――名称はイエローだが味はどう考えてもブルーだった――ハワイを合体させたような何とも言えない味。言葉を濁す馨に対し音無は「旨味同士が喧嘩しあって共倒れしてますね、何も残りません」と非常に的確かつ辛辣な感想を述べたので、馨は思わず噴き出してしまった。常ににこやかで優しそうな彼女だが、意外と言うときは言うタイプらしい。さすが元新聞部と言うべきか。肝心の味は微妙だったけれど、音無も「コーチも同じこと思ってるでしょー!」と笑っていたので、これはこれで結果オーライだ。
 そんな少々の道草を食いつつの道中、話は自然に雷門の次の試合についてのことになった。

「そういえば、野生中との試合はどう? 練習上手くいってる?」

 お口直しにと買った鯛焼きを頬張る音無に問えば、途端に眉尻が下げられた。あまり感触は良くなさそうである。

「うーん、一応いろいろ対策は練ってますよ。『イナズマイレブン』っていう、昔雷門サッカー部でスゴい活躍をしていた伝説のチームがいて、その人たちが残した秘伝書を探し出してみたり」
「へぇー、そんなチームがあったんだ」

 雷門中サッカー部が長年弱小だの何だのと虐げられてきていたのは知っていたが、そんなチームがいたことは初耳だった。伝説と謳われるのならばそれ相応の目覚ましい活躍を遂げていたはずだろうけれど、ならば何故雷門はあそこまで落ちぶれるに至ってしまったのか。少し不思議だが、そんなささやかな疑問に答える者はいない。

「その秘伝書の中に書いてある字がものすっごく汚くて誰にも読めなかったんですけど、唯一円堂キャプテンだけが読めたんです。何でも、キャプテンのおじいさんの特訓ノートで目が慣れてたとかで」
「ふふ、なんか円堂くんらしいなぁ」
「ですよね、皆そう言ってました! そのおかげで内容もそれなりに解ったし、次の野生中戦で活かせそうな技があったので、今は豪炎寺先輩と壁山くんで猛特訓してる最中なんです」
「活かせそうな技? あのアクロバットサッカーに太刀打ちできそうなの?」
「はい! 完成さえできればきっと余裕で勝てちゃいます! 完成さえできれば、ですけど……」

 あんなに元気だった音無の語尾が徐々に萎んでいく。どうやら猛特訓とやらもなかなか難航している様子だ。さらに話を促すと、壁山を踏み台にして豪炎寺が飛ぶことで野生中をも超える大ジャンプからのシュートを撃つつもりなのだが、肝心の壁山が高所恐怖症のため高く飛べないとのことである。
 確かに壁山の恵まれた体格ならば豪炎寺の跳躍に大きく貢献できるだろうし、ペア役として彼以外の選択肢は無い。しかし恐怖心を抱いたままでは碌に飛べないうえ、下手をすれば壁山自身だけでなく豪炎寺にも怪我の恐れが出てしまうのが怖いところだ。今は、皆でどうにかして壁山の高所恐怖症を克服させようとしている段階らしいので、馨は試合本番までに何とか上手くいくことを祈るしかない。
 一応、対策自体が皆無というわけではないことは立派な安心材料となった。尾刈斗を倒した勢いを失わず、このままどんどん躍進して決勝まで上り詰めてほしい。そのときは必ずや相対することになるだろうけれど――今は今のことだけ考えていよう。

「あ、あとですね! 新入部員が来たんですよ!」

 それまでの暗さから一転、良いニュースもありますという明るい口調で音無がそう言った。

「おお、マジで? 良かったじゃん」
「マジですマジ! 土門先輩っていう二年生の転入生なんですけど、木野先輩の幼馴染でサッカーもとっても上手な人なんですよ! また会いに来てください!」
「うんうん行く行く、野生中戦も観に行くつもりだからそのときにご挨拶しようかな」

 そう答えると、音無は嬉しそうな声をあげて鯛焼きを持っていない方の腕を再び絡ませてきた。ただ会いに行くと言っただけでもこんなに喜ばれるなら、もう少し頻度を上げても良いかもしれない。
 それにしても、この時期の転入生とはやや珍妙だ。春先ならともかく六月半ばという今だと余程立て込んだ事情があるのだろうか。ただ、雷門サッカー部からすれば大歓迎の大歓喜に違いない。
 その土門という部員がどれくらい上手なのかはまだ実際に見ていないから解らないけれど、音無の言い方からして前の学校でもサッカー部に入っていた程度と考えても良さそうだ。豪炎寺に続いてさらにサッカーに長けたプレーヤーが参入したということは、雷門サッカー部の戦力もますます強化されているということにも繋がるので、これは帝国も呑気にしているわけにはいかなくなってきた。少しずつ強くなっていく雷門の敵として相応しいチームであれるよう、これからも頑張って帝国のサポートをしていく所存だ。
 そんな馨の決意なぞ露知らずな音無は、腕を組んだまま笑顔でもぐもぐし続け、漸く鯛焼きを食べ終わった。その口端に餡子がくっついているのに気付き指摘してやると、音無の指が反対側を探ったので。

「違う違う、こっちだよ」

 ひょいと人差し指で餡子を掬ったついでに自分で食べると、それを見た音無の目が真ん丸になり、顔はほんのりと赤みを増していく。
 いきなり硬直した彼女を不思議に思って見つめ返すと、ややあってから大きな瞳が明後日の方向へ泳いでいった。

「コ、コーチ……天然タラシ、ってやつですか?」
「ん、何が? あ、ごめん今の嫌だった?」
「いえ、嫌なんかじゃなくて……何でもないですありがとうございます!」

 女同士だしと何の気無しにやってしまったが、気を悪くさせたわけではなさそうで良かった。両手で頬を挟んだまま何やら小声で呟いている音無は、馨がまだじっと見ていることに気付くとすぐに立ち直り、「もうすぐです!」とその腕を引っ張るようにして先を急いだ。
 その言葉通り、目的の店はすぐ近く、商店街最奥の一角にあった。
 見た目はこじんまりした昔ながらの小物屋さんという風で、店主も柔和な笑みの素敵なおばあさんだが、陳列されている商品はどれもお洒落かつ控えめな可愛さで馨の好みによく合っている。長年稲妻町に住んでいるし商店街だって何度も訪れたことがあるのに、こんなお店があるとは今の今まで知りもしなかった。一方音無の方は常連なのか、慣れた様子で狭い店内を進み髪留めコーナーまで馨を連れてきてくれた。
 ここからは女子特有のお買い物タイム、要するにつけ合いっこだ。
 音無は別に髪留めを探しているわけではないけれど、こういう場所に来ると気分が楽しくなって買うつもりもないものを選び始めてしまうのは、年代関係無く女性として共通の現象らしい。喜々として馨に似合いそうなものを探す傍ら、良さそうなものを見つけると自分でも試している。鏡に向かって角度を変えて試着している姿がまた年相応に可愛らしく、そのうち馨の方も、音無に似合いそうな髪留めを探すようになっていた。
 お互いに相手の印象とマッチする小物を見つけてはつけ合う、それだけなのにどうしてこんなに楽しいのだろう。馨は気持ちだけでも中学生に戻ったような感覚になれた。当時、こんなことした覚えなどないのに。

「コーチコーチ! これなんかどうですか? 大人っぽいけどシンプルすぎなくて、コーチによく似合うかなーって思うんですけど」

 白色の本体に小さな宝石が散りばめられたバレッタを見つけた音無が馨に手渡す。音無の品評通り、シンプルすぎず派手すぎずで作業にはぴったりだし、何より馨自身の好みにも合っている。鏡の前で試しに横髪を挟んでみると、隣で「きゃー可愛い!」と黄色い声があがった。

「あー、いいなあこれ可愛い! 春奈ちゃんのセンス本当に良いよね、どこでそんなセンス身につけてくるの」
「えへへ、企業ヒミツです!」

「元新聞部ですからね!」と言うその関連性はよく解らないが、以前木野が音無のことを「情報収集が得意」と評していたので、相手についての理解を深めるのが早いという点でいえば確かになと思えた。相手を理解し対策を考えることもマネージャーとして大切なことだ、彼女には木野とはまた違う素質がある。
 未だ目を輝かせている音無から視線を外し、鏡の中で微笑む自分と向き合う。うん、よく似合っている。

「これにしよっかな、せっかく春奈ちゃんが選んでくれたものだし」
「やった! コーチの髪留め選んじゃったー!」
「ありがとね。春奈ちゃんはどれか買う? あ、これの色違いあるよ」
「私はトレードマークの眼鏡があるので……って、色違いですか!?」

 同じデザインかつ音無の髪によく合う赤色のバレッタを手に取ると、それまで髪留めを必要とはしていなさそうだった態度が一瞬にして変化した。

「ひゃあ本当だ! 赤いのも可愛い!」

 手元を覗き込む表情がぱあっと晴れやかになり、次いで確認を取るように馨を見上げる。

「か、買っちゃってもいいですか?」
「何で訊くのさ。買っちゃおうよ、お揃いにしよ」
「はい! 買います! わー、コーチとお揃いなんて……!」

 即断即決で購入を決めた音無が何やら舞い上がっているうちに、馨はそっと二つのバレッタを持って会計を済ませる。どちらも包んでもらうのはやめ、値札だけ切り取ってすぐに使える状態にしてもらった。
 そして漸く我に返ったばかりの彼女のもとへ戻り、にっこり笑って赤いバレッタで左サイドの髪を留めてやった。やはり、暮れの空を思わせる紺色の髪に赤色はよく映える。眼鏡と相俟(あいま)って少し賑やかすぎるかもしれないが、そこがまた音無の性格らしくて良いと思う。
 一方、音無は口をぱくぱくさせながら判りやすく動揺していた。

「コ、コーチ、代金は……!」
「ううん、いいよ」

 ゆっくり首を振り、要らないという意思表示をする。

「これは、一緒にあのアイスを食べてくれたことと、素敵なお店を教えてくれたことと、素敵な髪留めを選んでくれたお礼だから。すごく似合ってるし、是非受け取ってほしいな」

 一週間に一度の休息時間、音無と会えたからこそこんなに楽しい時間を過ごすことができたのだ。二十歳を迎えた今、こうして中学生の女の子と共に買い食いをしたり髪留めを選び合ったりできるとは思わなかったし、おかげで自分の心も若返った気がする。中学生だった当時にやらなかったこと、やれなかったこと。それらを経験させてくれた音無への、ほんの感謝の気持ちのつもりだった。
 若干ずれていたバレッタを直すと、今度こそはっきり頬を染めた音無が、やにわにふっと目を伏せた。おや、と思う間もなく再三持ち上げられたその双眸には、仄かに揺れるきらめきが混ぜ込まれていた。

「こちらこそ、ありがとうございます! 私、実は……こうしてお姉ちゃんみたいな存在の人と一緒に遊ぶの、ずっと夢見てたんです。お姉ちゃんなんていないので尚更憧れてて。でも、コーチのおかげでその夢が叶いました! このバレッタは宝物にします!」

「ありがとうございます!」と笑顔でもう一度感謝を紡いだ音無が、次いで馨の手にあった白いバレッタを取って、先程馨がそうしたように左サイドを取るかたちで挟む。「場所もお揃いですね」と満足そうに目を細める姿が、今し方の彼女の発言と相俟って馨の胸をいっぱいにした。
 音無は姉がいないようだが、それ以外の兄弟や妹などはいるのか。ふと気になったものの、結局それについて訊くことはないまま、二人はお店をあとにした。今からゆっくり帝国に向かえばちょうどいい時間に着くだろうという時刻だ。音無の方も用事は済ましてあるらしいので、そのまま元来た道を歩いて行く。お揃いのバレッタをお揃いの場所に着けて二人並んで歩く道は、何だか行きのときよりも少し特別なものに感じられた。
 だらだらと、取るに足らない雑談が女二人の間に沈黙は齎さない。音無は元来お喋り好きの気でもあるのか、馨から何か言い出さずともどんどん話題を提供してくれる。場を繋げる会話が苦手な馨としてはありがたいばかりだったし、何より、彼女とのガールズトークはさっぱりしててとても楽しいから好きだった。
 そんな調子で歩くこと数分。
 先程アイスを買った店の前に来た頃、不意に音無の声のトーンが僅かに下がったような気がした。

「あの……コーチは、帝国学園のことをよく知っているんですよね?」

 不意打ちにも程がある話題に思わず肩が跳ねた。
 何とか平然を保つ振りをして彼女を見れば、先程までとは違うどこか真摯な眼差しが向けられている。

「知ってる……って言っても、私が在籍してたのは六年も昔だけどね。今のチームは試合を見た程度、かな」

 心苦しい嘘だが、ここで素直に現在もマネージャーとして在職しているとは言い難い。今はこう返しておくしかないのだと内心誰かに言い訳しつつ答えた。
 音無はそれでも良いですと言いたげに頷いてから話を続ける。
 その先に続くのは、やや怪訝さの否めない質問だった。

「帝国サッカー部のキャプテンについて、何か知っていますか?」
「キャプテン?」

 つまり、鬼道有人のことだ。
 てっきりあのチームについてあれこれ訊かれると思っていただけに、このピンポイントな問いは不思議だった。何か個人的に気になるところでもあるのか、或いは知り合いなのだろうか。
 解らないけれど、とりあえず向けられた疑問には返答をする。

「知ってるっちゃ知ってるよ、鬼道有人くんでしょ。この前の練習試合でも散々やってくれた子」
「ですよね、散々でしたよね……あんな、悪役みたいな笑い方して……」
「まあ、そういうチームだから仕方ない……とも言いたくないけど、今は割り切っておくしかないかなって思うな。で、そのキャプテンさんがどうかしたの?」
「ああ、いえ、ちょっと気になったと言いますか……」

 音無にしては歯切れが良くないし、普段の明るさが今は鳴りを潜めている。
 どうやら鬼道と何かしらの、それもあまり浅くは無い関係があるように見受けられた。しかも、馨には進んで話したくない類の。

「……帝国に入ると、みんなああなっちゃうんでしょうか。あんな風に悪逆非道なサッカーをするようになっちゃうんでしょうか。普段も、怖い性格になっちゃうんでしょうか」

 不安、心配、そしてほんの微かな、軽蔑。音無の声音と表情からはそんな感情が読み取れる。勘違いだったら申し訳ないが、それでも前者二つは強ち間違いでは無いと自負できた。
 彼女は、帝国にいる鬼道を案じているのだろうか。ああなる、と表現しているからには、古い付き合いな可能性も見出せる。もしそうだとしたら、彼女が知っている過去の鬼道は、あんな悪逆非道なサッカーをする人間では無かったのかもしれない。
 ふと、以前鬼道と交わした会話を思い出す。
 今の鬼道、馨の知っている鬼道は、サッカーを“義務”だと言い切った。義務感に駆られ、確実な勝利を得るために必死にサッカーを行っている。そこには馨も、また音無も知らないであろう、何か大きくて重たい理由があるはずなのだ。
 事情を知らない音無には、依然鬼道は恐ろしく悪どい存在に映るだろう。その認識自体は、悲しいが現段階では間違ってはいないと言える。そこを正すことは鬼道や両者の関係について深くを知らない馨には不可能だし、正すことが正しいのかどうかも判然としない。
 だから、今ここで彼女に対して言えることは、せいぜいこのくらいのものだった。

「帝国サッカー部は、あれでも彼らなりに必死なんだよ」
「必死?」
「そう。私も全部が全部理解できてるわけではないけど……皆、自分の目標のために必死になってサッカーをしてる。例えそれが私たちから見て間違っているように見えても、彼らの中ではそれが正しくて、目標を叶えるためには絶対に逸れちゃならない道になってる」

 鬼道だけではなく、あそこにいる皆が何かしらの目標を掲げているはずだ。そうでなければあんなに厳しい練習を毎日律儀にこなし、弱音一つ吐かずにいられるわけがない。プレーの内容はどうであれ、その点に限っていえば帝国と雷門には何の違いも無かった。

「鬼道くんも、それと同じだと思うな、私は」

 鬼道の言う“義務”が何なのかは未だ不明だが、彼も彼なりに何かを抱えてサッカーへ取り組んでいる。義務を果たすために、天下の帝国サッカー部キャプテンという重役についている。そこには彼なりの確かな志が存在するのだ。ただ、自分たちにはそのかたちが見えてこないだけで。
 言うだけ言ってから、音無を見下ろす馨。不安げに揺れる瞳は変わらないが、何か噛み締めるものがあったのか、さっきよりかは幾分か雰囲気が落ち着いてきたようだ。

「……そう、ですかね。これから試合を見ていたら、いずれ解ってくるのでしょうか」
「きっと、ね。サッカーの最後は魂同士のぶつかり合いだから、試合が白熱すればするだけ自ずと選手の内側も見えてくる。そのためにも雷門はきっちり勝ち上がって、予選決勝で帝国と戦わないとね」

 野生中に負けてる場合じゃないよ、と。
 発破をかけるように軽いウインクをかましてやれば、やっとそこに馨の好きな、春の木漏れ日のような笑顔が現れた。


* * * * *


 音無と別れてから予定通り帝国学園へ赴いた馨は、早速部室で彼と遭遇した。

「新しい髪留めですね、よくお似合いです」

 影山と打ち合わせをしていたため一人着替えの遅れた鬼道が、マントの紐を結びながらそんなこと言う。てっきり馨のことはマネージャー作業関連以外どうでもいいと認識していると思っていたのだが、意外とこちらのことを見ているようだ。歯の浮くような、とまでは言わずとも、さらりと女性を褒める言葉が出てくるのはまさに育ちの現れと言えよう。
 馨は備品の数を確認する手を止め、そっとバレッタに触れる。今日あった様々なことを思い起こすと自然に微笑が浮かんだ。

「お褒めいただき光栄です、鬼道くん。可愛いでしょう?」
「はい、江波さんらしいデザインだと思います」
「ありがとう。これね、今日ここに来る途中で会った雷門中のマネージャーさんに選んでもらったんだよ。音無春奈っていう子」

 さも世間話の一環ですという自然さでさらりとその名を出すと、一瞬彼の手元が動きを止める。すぐに何事も無く動きを再開させたが、その瞬間を馨は見逃さなかった。
 やはり、彼女について思い当たる節があるらしい。

「その子がね、鬼道くんのことを少し心配してるようだった」
「俺を? ……そのマネージャーが? なぜ」

 気付かれていないと思ってか、敢えて無関係を演じるような返しをする鬼道。
 馨は内心で仕方がないなと小さく笑いつつ、内側に折り込まれていたマントの端を直してやった。

「君が、変わっちゃったんじゃないかって。……詳しいことは聞いてないけど、ちょっぴり不安そうでもあったかな」
「……そうですか」

 鬼道の返答は非常に簡潔で無感動で、それっきりだった。
 そこには相変わらず馨の触れられない分厚い壁がある。ここから先に立ち入ることは許されないと堰き止める壁がある。ある意味、馨も音無とは同じ状況なのだ。鬼道がその己が内を自ら明かさない限り、これより一歩も進むことは叶わない。
 鬼道のサッカーにある“義務”の意味、そして鬼道と音無の関係。
 それを見極めたところで果たして何が変わるのか、自分に対して何が起こるのか、そんなことは解らない。明かす必要があるのかどうかも明確に感じ得ない。ここでの馨はただのマネージャーで、その取るに足らない存在でしかない人間が選手のプライバシーに必要以上に介入し、本当に正しい結果へ導けるのか。そもそもそんな資格が自分にはあるのか。本当に、ここでは解らないことだらけだ。

 それでも、一つ確かなことがある。
 ただ、ほんの微かにでも思ってしまうのだ――彼らにとって“ただのマネージャー”以上の存在になれないことが、寂しい、と。




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