成神健也の契機


 江波馨という名前のマネージャーがウチのチームにやって来てから、いろいろと変わったことがある。

 まず大きいものが一つ、オレや洞面みたいな一年生が雑用をやる必要が無くなったということ。
 このサッカー部はどういうわけだか、オレが入部した当初からずっとマネージャーがいなかった。一応以前は普通の女子生徒がそれらしいポジションにいたみたいなんだけど、仕事がキツくて逃げ出したのか無能すぎて切られたのか、理由は不明のままいつの間にかいなくなっていたらしい。それ以来総帥はマネージャーを置くことを許さず、所謂マネ業務ってやつは全部一年か二軍以下の部員が担当することになっていた。
 ぶっちゃけこれがしんどいの何の。ていうか何で一軍でスタメン張れてるオレや洞面が他の先輩たちの雑用押し付けられなきゃなんねーの? って常に不満タラタラで、けど総帥の意向に反発するなんてことは当然できないから、仕方なく毎日面倒臭い仕事をこなしていた。
 あのクソ先輩たちは本当に傍若無人というか人使いが荒いというか、基本的に面倒臭がりな人が多い。中にはまともな先輩もいるけど、大半はどんなしょーもないことでもオレたちを扱き使おうとしてくるような人らだったもんだから、きっとオレがサッカーを辞めるとしたらこの待遇の悪さが原因だな、なんて。うっかりそんなこと考えちゃうくらいには、この帝国サッカー部でのマネージャーはキツイものがある。だから前の子も辞めちゃって、以来誰もなってくれなかったんじゃないかな。それならただの自業自得じゃん、あほくさ。
 で、そんなときに突然鬼道先輩があの“総帥の推薦したマネージャー”さんを連れてきたわけで。
 正直、最初は顔を見ても名前を言われても全然誰だか解らなかった。この学校の女子よりも大人っぽい顔つきと、隣に並ぶ鬼道先輩と比べた背丈がそれなりに高めだったから、多分オレらより三つくらいは年上だなって思った程度だ。他の先輩たちも皆同じだったから、暫くは誰も大した反応はしなかった。
 まあ、そこで佐久間先輩がいきなり声を荒げたことで、その新マネージャーさんが雷門でコーチやってた人だって初めて知れたわけなんだけど。
 そりゃ驚くよね、つい最近まで敵チームでコーチングやってたらしい人が、これからウチのマネージャーになりますっていうんだからさ。いくら元帝国の生徒だからっていってもなかなか受け入れ難いところがあった。佐久間先輩だけじゃなく、皆揃ってビックリしたし、何だそれ頭おかしいんじゃないのって気持ちになったものだ。でもそこに関しては、鬼道先輩が「総帥直々の推薦だ」って言い切ったことで、結局誰も何も言い返せなくなった。
 ただ、結果的に言えば、オレはマネージャーが新しくやって来てくれたことをスゴくありがたいと思ってる。
 洞面や二軍部員たちと一緒にやってもそれなりに時間のかかる雑務を、彼女はたった一人できっちりしっかりこなしている。オレらと違ってサッカーをやってない分時間があるし作業に集中できるっていうのは勿論あると思うんだけど、それを差し引いてもとにかく手際が良くて、仕事が早いんだ。元帝国マネの肩書きは伊達じゃない。オレらの顔と名前を一発で覚えたり、練習の流れや帝国内部の施設構造を把握していたり、大会スケジュールに慣れていたり。マネージャーとして必要なことが、あの江波馨って人には全部最初から備わっていた。
 しかも、マネージャーはどんな面倒な仕事を任されたり複数人に同時に頼まれたりしても、絶対に嫌な顔なんかしないのだ。にこにこ笑顔ってわけでもないけど、平気そうな顔で一つ返事で「わかった」って引き受けてくれる。オレなんて辺見先輩や寺門先輩に頼まれただけで不満が顔に出てきちゃってそのたびに怒られてるのに、マネージャーはどれだけ忙しくても常に真面目に、しかもどこか楽しそうに働いていた。挨拶時にからかった際の返答的には単にバカ真面目なだけかもしれないけど、とても真似できないなって思う。
 ともかく、おかげでオレら一年と二軍の奴らは完全に雑用係から解放されて、やっとサッカーだけに打ち込めるようになった。オレにとってはこれが一番大きな変化だ。

 次に目立つのは、佐久間先輩の雰囲気の変化かな。
 これはもう帝国イレブン全員が感じてることだし、佐久間先輩本人も隠すつもりは無いみたいだ。先輩は、何故か異様なまでにマネージャーのことを嫌っている。いや、嫌っているって言い方はちょっと違うのかもしれない。何て言えばいいんだろう。邪険にしているというか、距離を置いてるというか、……うーん、やっぱり一番近いのは“毛嫌いしてる”かもしれない。
 理由は、今のところ誰も解っていない。
 単純に“元雷門コーチっていう過去が気色悪い”だけなら他のメンバーだって初日から数日は同じだったけど、そいつらはマネージャーの働きっぷりと便利っぷりを見て考えを改め、今は使えるものは都合よく使おうっていう方針になってる。
 それに比べて、佐久間先輩は嫌ってる期間が長いし、何なら未だに改善無しだ。せっかくのマネージャーなのに頼み事なんて一切していないみたいだし、ハチミツレモンの差し入れにも手をつけなかったことをオレは知っている。皆して美味しい美味しい言って食べてる中、ずーっと腕を組んで不貞腐れたような顔をしていた。あんなに美味しかったのに勿体無い。まあその分オレが多く貰えたからいいんだけどさ。
 これまでに何度か源田先輩あたりが「もう少し仲良くしてみたらどうだ?」って声掛けてるのは見かけたことあるけど、その都度佐久間先輩は「うるせぇ」の一言で跳ね退けていた。『取りつく島も無い』って言葉を辞書で引いたとき、真っ先にその光景が例に載ってても不思議じゃないってくらいの蹴散らし具合だった。これにはあの源田先輩、そして我らがキャプテン鬼道先輩ですらもお手上げ状態だ。
 そんな佐久間先輩の態度が、直接サッカーのプレーまで影響を及ぼしてるっていうなら問題だけど、実際のところピッチ上の先輩はどこまでも普通の佐久間次郎そのものだった。悔しいけどあの人はサッカーが上手い。鬼道先輩に憧れてるっぽい雰囲気醸し出して毎日練習に励んでいるからか、レギュラーの中では鬼道先輩に次いで上手い部類に入ると思ってる。
 サッカーではいつも通り、だからこそ誰も強く言及できない。
 って言っても、帝国サッカー部なんて基本的に自分のケツは自分で拭くのが当たり前だから、万が一佐久間先輩とあのマネージャーの間に何か問題があったとしても、誰かが深く介入して解決の手伝いをしてやるなんてことにはならないんだろうな。それが原因で佐久間先輩やマネージャー自身、そして部自体にも影響が出てきて初めて問題視される。そこからはオレらじゃなくてキャプテンや総帥の管轄になるから、やっぱりオレらにはあまり関係が無い話だ。
 それでも、気になるものが気になるのは事実だし、元来野次馬根性の強いオレは今でもこっそり佐久間先輩の同行を観察してみたりしてる。皆オレのことなんて、ヘッドフォンで音楽聴いてばっかで周りのことなんざ何にも気にしてないと思ってるかもしれないけど、意外とそんなわけでもないんだぜ。
 つーか、オレだけじゃない。皆関係無いような素振りしてるけど、それなりに佐久間先輩のことは気にかけてるんだ。
 だって、最近このチームはほんの少しだけど、空気が変わってきてる。それがマネージャーによって齎された最後の変化。

 帝国サッカー部内の、微妙な空気の変化。何とも言葉に言い表しにくい、けど悪いってわけではない変化。
 これは未だに気付いてないボンクラ先輩もいるだろうけど、少なくともオレはちゃんと気付けてる。変化を感じたのはつい最近、フットボールフロンティア地区予選のミーティングがそのきっかけだったと思う。
 あのとき、マネージャーはオレたちを見渡しながら「怪我には気を付けろ」って言ったんだ。
 その言葉自体は鬼道先輩だって度々口にしてたし、この帝国サッカー部でレギュラー張り続けるためには必要不可欠な絶対要素である。何せここじゃ、怪我や病気をした途端真っ先にベンチどころか二軍まで降格させられるんだから。常に健康体で常に完璧なプレーができない選手は最初からいらん、っていうのがウチの総帥の方針で、勿論誰も反抗はできないから、とにかく怪我には気を付けないといけない。要するに、帝国での「怪我はするな」は基本的に心配の意味を込めた台詞じゃなくて、『怪我すれば二軍落ちするから今のままレギュラーでいたいなら自衛しろ』っていう、ある種の強迫観念みたいなもんなのだ。
 でも、あのマネージャーが言った言葉は違う。セリフは同じでも、こう、感覚的には全然違ったんだ。彼女はオレたちのことを、純粋にオレたちの身体のことを心配して、そのための対策を考えてくれていた。
 何でそう感じたのかっていうと、目、だな。あのときオレの視線とぶつかったマネージャーの目は、すごく優しかった。オレのことを思ってくれてるって直感できる、例えるならお母さんみたいな眼差しをしていたから。
 正直、ちょっと動揺した。
 今までそんな風にオレのことを見て、心配してくれる人なんていなかったから、純粋に戸惑った。どう反応していいか解らなくてきょとんとしたら、その反応すら予測の範疇だと言わんばかりに眉尻を下げた表情を見せてきて、不覚にも緊張しちゃったんだ。隣で話を聞いていた辺見先輩や万丈先輩も似たような反応だったと記憶してるから、多分他の人も大体そうだったんだろう。
 こんな弱肉強食のサバイバルチームで、何を甘ったれたことを。怪我でも病気でも全部自己責任、やっちゃった奴はバカで間抜けでご愁傷サマなんだから放っておけばいい。
 って常日頃の帝国論を振り翳せる奴がいたら、そいつは別の意味で勇者だ。あんな目をした女子――って年齢かどうかは置いといて――マネージャーに案じられて、それでも尚その心配を無碍にできるなんて男じゃない。現にオレは、まあ有り体に言えば、嬉しかった。
 その日以降、マネージャーの言う通りに皆水分塩分補給の頻度を上げたし、オレも十五分に一度は必ずドリンクを飲むようにしてる。例の反逆児は依然反抗的ではあるけど、さすがに身体を壊してまで歯向かうつもりもないようで、ちゃんと皆と同じ程度に休憩を入れるようにしていた。
 庇護対象として見られるということに慣れていなかったオレたち帝国イレブンが、初めて自分たちを“そういう対象”と認識することができた――っていうのが、きっとこの微妙な変化の基点だったんだと思う。

 日数にすると大して長期間って程でも無いけど、練習中ずっと一緒にいるからかそろそろマネージャーのいる日常を当たり前に感じられるようになってきた今日この頃。
 それでも、そんなんでも、何でだろうな。良い人には違いないんだけどさ。
 未だにオレは、マネージャーを“近しい人”とは思えずにいた。


「成神! おい成神!」

 練習の合間の個人休憩中。
 いつものようにライン際でボトル片手にちびちびドリンクを飲んでいると、いきなりどっかから湧いて出た辺見先輩が喧しく喚きながらオレの背中を張り手でド突いた。

「いったァ! もー何すんですか先輩、危うく気管に入るとこだったじゃないっすか!」
「アホ! テメーが持ってるそれよく見てみろ! 名前!」
「名前ぇ?」

 そういえば、この前マネージャーが全員各二本ずつ所有できるようにとボトルを追加発注して、ついでにネームシールを貼ってくれたのだ。おかげでクーラーボックス内の残数が少ないときにも争奪戦をしなくて済むようになってありがたい。シールも、印刷じゃなくて敢えて手書きで記名しているというところがいかにもマネージャーの仕事って感じで結構気に入ってたりする。
 彼女の字は少し縦に細くて払いが綺麗で、その人となりを端的に表現してるみたいで好きなんだ。ほら、ここにある『成神 健也』って字もさ、特に『成』の払いがまた――。

「あれ?」

 そう考えながらネームシール部分を見てみるも、そこには予定と違って『辺見 渡』という謎の名前が書き込まれているだけだった。

「辺見、渡……? 誰のですかこれ」
「オ・レ・の・だ・よ! 先輩に向かってナチュラルに失礼ブッこいてんじゃねーぞこのクソヘッドフォン野郎!」
「いてっ!」

 またもや殴られた。ただの後輩の可愛いジョークだってのに、辺見先輩はこれだから石頭で困る。そうやってすぐカッカして面白い反応をするから調子こかれるんですよ、反省してください。いややっぱしなくてもいいですそのままの愉快な先輩でいてください。
 辺見先輩は殴るついでにオレの手からボトルを引ったくり、中身を振ってはますます怒り顔を強めた。額に浮かんだ青筋がぴくぴくしてて、まるでアニメみたいだ。

「しかもがっつり飲んでやがるし! ふざけんなよ名前くらい確認しとけや!」
「でもまだ残ってますよ、あとは先輩がどーぞ」
「テメーが口つけたモンなんか飲めるか! 怖気が走るわ!」
「えー? もうワガママだなぁ」
「誰のせいだ誰の!」

 まあオレだってこんな人と間接キスなんて永久に御免なんですけども。ハゲの病が移りそうだし。
 すっかりご立腹な先輩は粗方暴言を吐ききると、次いでボトルを持ってくるりと背を向けた。多分これからマネージャーにボトルの洗浄と新しいドリンクの作り直しを頼みに行くんだろう。オレはその怒った背中に向かって間延びする声を投げかけた。

「先輩、今日雷門の試合の日っすよー」

 そう、今日はフットボールフロンティア予選一回戦目、つまり雷門と野生中だったかが戦う当日だ。
 マネージャーは総帥から特別に許可をもらっているため、帝国に所属していながら堂々と雷門の応援をしに行っている。あっちに自らの現状を話しているかどうかは定かでないけど、どちらにせよいよいよ何じゃそりゃな関係性だ。とはいえ、総帥が認めているならオレたち選手に口出しする権利は無い。
 佐久間先輩は当初、マネージャーと雷門の関係からスパイの疑いも持っていたようだ。でも総帥が許可を出しているって時点でその線は薄い。最近ウチから雷門に転入生を送り込んだ話も聞いているから、十中八九そいつを使ってマネージャーの監視でもするんだろうな。帝国のこういう姑息なところ、いろんな意味でスゴいと思う。尊敬はしないけど。
 仮にそうでなかったとしても、あのバカ真面目で常にオレらに気を遣ってるような人が、わざわざスパイ工作なんてできるとは到底思えないんだけどさ。
 雷門の試合を観に行く日のマネージャーは目に見えて機嫌が良いというか、いかにも楽しみにしてます的な空気醸し出してるから、そういう面倒な事情じゃないってことは見て取れるよ。

「マネージャーも観に行くらしいし、今ドリンクの作り直しとかしてる暇無いんじゃないっすか?」
「うっせー! 元はと言えばテメーのせいだろが、なら代わりにテメーがやるか?」
「遠慮しときます」

 せっかく解放された雑用に自ら出戻っていくアホがどこにいるというんだ、もう絶対に嫌だね。
 素直に首を振って即答すると、いよいよ怒るのもバカらしくなったとでも言いたげに先輩は盛大な溜め息を吐く。そして般若のような面のまま、右手の親指で勢いよく首を掻っ切ってそのまま地面に向けるポーズを取ると、さっさと階段の方へと歩いて行ってしまった。あの人本当にオレの先輩なのかな、言動がオレよりガキっぽいんだけど。そんなんだからその年でハゲるんだよ。

「成神!」

 愉しく辺見先輩を見送っていたオレのもとへ、これまたいきなりセンターサークル付近にいた鬼道先輩から呼び声がかかった。

「次はお前が入れ、万丈と交代だ」
「っ、はい!」

 辺見先輩とは違い、鬼道先輩の号令は決して軽く受け流すことはできない。軽い屈伸をしてから慌ててコート内に戻り、入れ違いで休憩に入った万丈先輩の代わりに、DF陣との練習へ取り掛かった。
 自分で言うのもなんだけど、オレはあんまり背格好が立派な方ではない。
 MFというポジション的にはそんな重要視される要素ではないし、比べるとすれば洞面の方がより小柄ではあるんだけど、平均的に見て小さい体躯ってのはスポーツに於いて些か難儀なもんだったりする。特にサッカーは身体同士をぶつけあうことが多いし、いかにポゼッション勝負に勝つかが重要になる局面も多い。そんな中で相手に比べて身体が小さめなのは、上手く活かさなきゃ基本マイナス要素にしかなれないのだ。
 今もそうだ。DFの大野先輩と五条先輩に挟まれた状態では、何とか鬼道先輩の動きを確認するのがやっとでしかない。五条先輩はともかく大野先輩は帝国メンバー内でも随一の大柄だから、相対すると易々と勝ち目をもらえないのが辛かった。
 単純なパワー勝負じゃ、オレの得意なリズムサッカーも通用しない。自分の持ち味を活かせる場面にすら持っていけない。
 しかしそれを言い訳にしたくなんてなかった。オレは小柄でも帝国サッカー部一軍で、一年にしてスタメン器用もされるような人間なんだから。ここで簡単に押し負けてるようじゃ、あっという間に後続に追い抜かれてしまう。

「いくぞ!」

 だからこそ、鬼道先輩が上げたパスには死ぬ気で喰らいつかなきゃいけない。
 その声と同時に頭上へ飛んできたボールに合わせ、オレは必死に地面を蹴って飛び上がって――

「うわッ――!」
「ぐっ!」

 ドン、と空中で大野先輩に勢いよくぶつかってバランスを崩した、その直後。

「――ッ!」

 ゴチン! とひどく鈍い音と共に後頭部へ激痛が走って、一瞬意識が遠のいた。

「な、成神!」

 あ、オレ地面に落っこちて頭打ったんだ、って冷静に自覚できるようになったのは、駆け寄ってきた鬼道先輩がオレの肩に手を触れたときだった。そこでやっと視界が開けて、自分が目を閉じてしまっていたことに気付けた。
 やばい、頭も痛くてやばいけど、……目の前がぐらぐらする。
 鬼道先輩と、大野先輩と、あと他にも何人かの先輩たちがオレを覗き込んでいるみたいだけど、その光景が揺れに揺れてブレにブレてて、気持ち悪い。相当強く打っちゃったみたいだ、頭。オレこのまま死ぬのかな。

「成神、すまないな……大丈夫か」

 大野先輩が申し訳なさそう――目元は相変わらず見えないけど、声音的に多分――に手を差し伸べる。けれどオレはその手を取れず、芝生に転がったまま動けずにいた。

「うー……大丈夫ですけど、目の前がぐらぐら……」
「おい五条、江波さんを呼んで来い」
「わ、解りました」
「え」

 鬼道先輩の指示に駆けていく五条先輩。
 でもマネージャーは今日雷門の試合に行くし、こんなことに割く時間なんて無いんじゃないのかな。早く出発したいところを邪魔するのは忍びない。別にちょっと頭打って視界がブレるだけだから、少し休んでいればきっと元通りになる。怪我的には多分たんこぶ程度。そんな大事にしなくてもいいのに。
 まだちょっとちかちかする視界の中にいる青いゴーグルを認めて、オレはその旨を伝えるためにまずどうにか身体を起こそうとした。

「き、鬼道先輩、オレは平気――」

 そのとき。

「成神、動くなッ! 他も絶対動かすな!」

 ――『空気を切り裂く怒号』って言葉の辞書欄には、これを例に載せておいてほしい。
 今まで聴いたこともないようなとんでもない叫び声がグラウンド中に響き渡り、オレだけでなく他のメンバーも全員揃って盛大に身体を跳ねさせた。
 なに、今の声……。
 驚きすぎて心臓がばくばくと高鳴ってる。おっかなびっくりしつつも視線だけで声の主を探すと、今まさにこちらに向かって突っ走って来るマネージャーの姿が見えた。え、まさか今の、マネージャーの声?

「なんだ、マネージャーか……」
「ビ、ビビった……」

 源田先輩と万丈先輩の小声が若干震えてる。てことはやっぱり、今のは彼女が発したもので間違いないらしい。短い付き合いとはいえ、あんな鋭い声音は初めて聴いたものだった。
 疾風怒濤の勢いで駆け寄ってきたマネージャーに、野次馬たちは二の句も告げないでさっと空間を明け渡す。そこでやっと彼女の顔が、やや二重ながらもちゃんと見える位置に現れて、オレは思わず唾を飲み込んでしまった。
 ――怒ってるわけ、じゃないけど。
 その表情はあまりにも、あんまりなくらいに真剣すぎて、まるで咎められてるような気持ちにさせられてしまう。作業中にも見たことない硬質な面構えのまま、マネージャーはオレの傍らにしゃがみ込むとまずヘッドフォンを外し、その後そっと右手を取って手首に二本指を押し当てた。

「身体の痺れは?」

 未だ混乱気味だったオレへ、表情通りの真摯な質問がされる。つい否定の意味を込めて首を動かそうとしたら「動くな」と再び釘を刺されてしまった。ちょっと怖い。

「手足の先とか、首筋とか、どこかがぴりぴりしたりしてない?」
「な、ないっす」
「眩暈はどう?」
「いや、これくらい大丈――」

 と言いかけたところで、目の前の綺麗な眉がぎゅっと寄せられた。

「するの? しないの?」
「……ちょっと、する」

 有無を言わさないその迫力を前にすると嘘も見栄も吐けなくて、正直にそう答えた。
 すると途端にマネージャーの顔から真剣みが消えて、吊り上げ気味だった眉もすっかりハの字に垂れ下がる。「脳震盪だね」と呟く声はか細く、オレはそこでやっと、自分の身が心配されているんだってことに気が付いた。自覚した途端、何だか全身がむず痒くて仕方なくなったけど、変に動いたらまた怒られそうだから、むずむずは内心だけで押し留めておく。
 手首の指は、多分脈を測っていたんだと思う。そこから離れた指は続いて首筋の動脈に触れ、次いで両手の指と両足の先へ移っていく。靴を脱がしてまで確認したのは、さっきマネージャーが言ってた痺れの有無なのかな。
 そんな処置を施されてる間にちらりと頭上の先輩たちを眺めてみると、皆一様にぽかんとした間抜け面を揃えていた。あの鬼道先輩までもが未だに驚きを隠せていない様子だ。

「……鬼道」
「……こんな江波さんを見るのは、総帥と話しておられたとき以来だ」

 ぼそぼそと、源田先輩との間で小さく交わされる会話が聴こえる。総帥スゴいな、オレならこんなマネージャーと対面させられたら緊張しすぎて死んじゃいそうだよ。
 そんな外野のことなんざいざ知らず、ある程度確認を終えたらしいマネージャーがその場で立ち上がる。「ここじゃ無理か」とふっと小さく息を吐いて、後ろに控えていた大野先輩を振り向いた。

「大野くん、成神くんをベンチまで運んでくれる? そっとだよ、極力刺激は与えないように」

 その指示と同時にマネージャーの右腕がオレの肩下、左腕が膝裏にそれぞれ通されるのが判った。そしてそこを引き継ぐかたちで大野先輩がオレを抱き上げて……ああ、これ知ってる、俗に言う『お姫様抱っこ』ってやつでしょ。中学一年にして部活の先輩にお姫様抱っこされるってなにさ。もう一周回って恥ずかしさすら感じない境地に達しちゃってるよ。唯一幸いなのが、先輩たちの眼差しに一切揶揄いの意図が無いことくらいだった。
 そのまま、オレは大野先輩にのしのしと運ばれてベンチまで移動する。途中、すぐ隣を歩くマネージャーが困ったように口を開いた。

「枕になりそうなのは……無いか。貧相で悪いけど、膝枕で我慢して」

 ――何だって!?

「えっ!?」
「騒ぐな」
「ハイ」

 ぴしゃりと言いつけられて黙らせられたけど、いやいやちょっとそれは聞き捨てならないんじゃないか!? 膝枕? 生まれてこの方一度もされたことねーけど! ――そんな思春期男子中学生の心境なんて、全力でオレのことを心配してくれてるマネージャーが汲み取るはずもなく。
 その言葉通り、オレはマネージャーの太腿に頭を乗せるかたちで、ベンチにそっと横たえられた。

「……」

 貧相、って程じゃないな、うん。
 黒いチノパンに包まれた太腿は、男のオレには無い柔らかさがあって、家の枕とはまた違う心地好さだ。しかもとっても温かい。人肌ってだけじゃなく、オレのもとへ駆けつけるまでに走ったためであろう、筋肉の高ぶりによる発熱があるように感じられる。しかもほんのりと良い香りがするのは気のせいなんかじゃない。柔軟剤かな、それとも香水かな、何とも形容し難いけど間違いなく良い香りがするんだ。俗にいう“女の子の匂い”ってやつかも。
 あ、これってもしかして、結構役得なんじゃないかな。不幸中の幸いってやつ、なんじゃないかな。
 視界の端では遠目ながら先輩たちのまんまるな瞳がよく見えるようで、ちょっとにやりとしてしまった。

「眩暈はまだする?」
「うーん、視界が軽くぶれる程度だけど」
「相当強く打ったんだね」

「痛かったでしょ?」と言いながらゆるゆる頭を撫でてくれるマネージャーの手が気持ち良くて、オレは身を委ねるように目を細める。確かに痛かったけど、こうして優しくしてもらえるなら多少の痛みくらい満更でも無い。他のメンバーとは違う特別扱いをされてると、まるでマネージャーの飼い猫にでもなった気分だ。
 マネージャーはすぐ隣に置いてあるクーラーボックスから冷やしタオルを取り出すと、オレの後頭部と自分の太腿の間に挟み込んだ。それまでの心地好い温かさが一瞬にして極寒に変わって思わず小さい悲鳴を上げると、謝罪と共にぽんぽんと、子どもを宥めるように腹部を撫でられた。うむむ、残念だけどこれはこれでいいか。

「脈拍や呼吸に異常は無いし、大事には至らないと思う。でも、今日は一日安静にしてね。後で鬼道くんにも話しておくから、練習は見学するように」
「はーい」

 せっかくの土曜日なのに半日以上練習できなくなっちゃうのはちょっと無念だけど、こればっかりは自分も悪いし仕方がない。寧ろ、こうして対処してもらえるだけでも感謝しなくちゃいけないんだろうな。
 そうだ、元はといえば無理な体勢で飛び上がって勝手にバランス崩したオレが悪い。転倒しようが頭打とうが、意識があってプレー続行可能なら、あのまま起き上がって練習を再開させていても当然。帝国のレギュラーとして、そのくらいの気概持っていなきゃいけないんだ。
 でも、鬼道先輩は真っ先にマネージャーを呼んでくれたし、マネージャーは健気にオレの看病をしてくれている。これまでの帝国サッカー部ならばそのへんに転がされてるだけだったに違いないのに、だ。オレがレギュラーだからとかそんなこと関係無いって態度で、こうして今、予定をほっぽってまでオレのことを案じてくれている。
 ……そうだ、予定。
 マネージャーにとって大事な予定、あんじゃん。

「ねえ、雷門の試合観に行くんじゃないの? もう始まっちゃうよ」

 今が何時かは解らないけど、オレたちの練習時間的にもそろそろ試合が始まっててもおかしくない。楽しみにしてたはずなのに、こんなことしてたら遅刻どころか観そびれちゃうよ。
 なんて、オレにしては珍しく気を利かせてみたつもり。
 だったんだけど。

「……成神くん、私ってそんなに薄情な人間に見える?」
「え?」

 頭上から落ちてくる声が、心底心外だと言わんばかりにトーンを落とした。

「成神くんが脳震盪起こしちゃって、それでも試合を観に行こうなんて思えるわけないじゃん。今日の予定はキャンセル。ずっとここにいるから」
「え、いいの? だってマネージャー、雷門の試合楽しみに――」
「いいの! 余計なこと考えなくていいから、今はゆっくり頭を休めておきなさい」

 そこには、強がりだとか嘘だとかは無かったと思う、きっと。
 マネージャーの顔にはいつしか優しく、だけどほんの少し寂しそうな微笑みが浮かんで、綻んだ口元が「もっと私を頼ってよ」と言葉を零す。
 その笑みが、その台詞が、オレの中でマネージャーに対する印象をまた一つ変化させるに至った。
 ――江波馨というマネージャーは、オレにとって、また帝国サッカー部にとって、決して“近しい人”ではなかった。
 それは多分、彼女自身がどこか一歩引いているというか、オレたちとの間に何かを隔てていたからだ。その何かの正体自体は不明だけど、とにかく彼女は、親身になってマネージャー業をやってくれるわりに、手を伸ばしても届くか届かないか程度の微妙な距離感を覚えさせていた。
 年上だからっていうのも理由の一つかもしれない。オレたちは平均十四歳で、マネージャーは確か二十歳。六歳差ってのは実際体感すると数字以上に離れてるように思えるもので、お互いタメ口を利きながらも余所余所しさが抜けきらないとこはあった。真面目な話をするときに敬語ってのもその点の溝をより深くしてたと、今になって思い至る。
 良い人なんだ。仕事は早いし冷静だし不満も文句も垂れないし常にオレたちの一歩先を読めるし理解をしてくれているしオレたちのために心配してくれるし、マネージャーとして居てくれると非常に助かる人なんだ。オレたちよりも年上であることを自覚して、いつも保護者の立場でいようとしてるのもよく解るんだ。
 でも、前述の印象を前提にすると、そういうところも踏まえてどこか他人行儀だと思ってしまう。
 雷門中サッカー部とは仲良くやってるって話を聞くのに、ここじゃ本当にただのマネージャーでしかない。だからこそ、オレもマネージャーのことをそれ以上の存在として見ることができなかった。そうする必要が無いのかな、とか考えちゃって。
 ――だけど、だけどさ。

「……さっきの呼び捨て、痺れたなぁ」

 あの瞬間、マネージャーは確かにオレのことを呼んだんだ、「成神」って。
 今までずっと「成神くん」だったしすぐに元にも戻ったのに、オレが頭を打ったって聞いて飛んできてくれたあの瞬間だけは、咄嗟に呼び捨てをしていたんだ。
 それってさ、つまりそんだけ必死だったってことだよね。
 天下の帝国イレブンを仰天させるくらいの真剣さも、全部オレのためを思って出てきたものだったんだよね。

「え?」

 オレの独り言を拾ったマネージャーが、全く見当がつかないって顔して目をぱちくりさせている。
 ああほら、やっぱり無意識だったんじゃん。

「マネージャーさ、さっきオレのこと呼び捨てにしてたよ。『成神!』って」
「……ウソ、本当に?」

 懇切丁寧に教えてあげれば、元より大きめの瞳がみるみるうちに丸くなっていく。

「うわ、ごめんね成神くん、呼び捨てしちゃって……」
「なんで謝るのさ」
「へ? いやだって、まだそういう仲でないうちから呼び捨ては……」

 よく解らないけど、マネージャーの中では呼び捨てに関して何かしらの基準があるらしい。そんでもって、オレや他のメンバーも未だその基準には至っていないと。うん、オレが感じてた距離感は間違いじゃなかったみたいだ。
 オレのお腹の上で握り拳をつくったマネージャーが、どこからどう見ても申し訳無さ全開って調子でしょぼくれている。たかが呼び捨て一つでそこまで凹まなくてもいいのに、本当にバカ真面目な人だ。そうでなければこんな場所でマネージャー業なんかやってないんだろうけどさ。
 ――マネージャー、オレはね、はっきり言ってめっちゃ嬉しかったよ。
 オレのために必死になってくれる姿、初めて見せる姿、怖い以上に……どきどきしたんだよ。

「なら、さ」

 お腹の上の拳に自分の手を重ねる。もう少し上にズレたら自分らしくもなくリズムを狂わす鼓動がバレちゃうから、その場でぎゅっと握り込んで。
 そっちが一歩を踏み越えて来ないっていうんなら、いい加減オレの方から行ってやらなきゃ始まらないよな。

「今日からそういう仲になればイイんじゃねーの?」

 マネージャーを見上げ、しっかり視線を合わせる。
 そういう仲。彼女の口内で、その言葉が噛み締められるのが何となく判った気がした。

「オレはマネージャーのこと馨って呼ぶから、そっちもオレのこと呼び捨てにしていーよ」
「は……え、馨?」
「うん。名前それで合ってるよな?」
「あ、合ってるけど……でも、成神ってのは苗字じゃ」
「細かいことは気にしないの! 別に健也でもイイけどな」
「いやいやいや」

 明らかに困ってる。年下の男子中学生に名前呼びをされ、剰え呼び捨てを強いられて困ってる。でもそれが呼び捨てに対する嫌悪感からくる困惑じゃないことは、さすがのオレだってちゃんと解ってるよ。マネージャーは――馨は、オレたちとのコミュニケーションの図り方が、いまいち掴み切れていないんだ。
 どんなに冷静な大人ぶったって、オレたちより年上の保護者ぶったって、もうオレは知っている。馨がオレのためにそれまでの仮面をかなぐり捨てたこと。実際は意外と大人びてもいないこと。
 ――本当は、オレたちともう少しだけでも、近付きたいと思ってること。

「……成神くん」
「……」

 やがて、形の良い唇からオレの名前が零れ落ちてくる。敢えて返事はしない。
 自然とにんまり持ち上がる口角は抑えきれなかったけど、まあそれは致し方がないってやつだ。

「大人はからかうものじゃありません」
「照れてるくせに」
「違いますー。いい加減にしないと落っことしちゃうよ?」
「できるならやってもイイけど?」
「……」

 ひくり、と細かく痙攣する口元。ややあってから細く長く吐き出された吐息は降参の合図。
 そして次に目の前へと浮かんだのは。

「もう、敵わないなあ――成神には」
「でも満更でもなさそうじゃん、馨」

 それまで見てきたものよりもずっとずっとあたたかで朗らかで、ほろほろと崩れるような笑顔だった。




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