二律背反


「もう一度、今度は鬼道くんだけ踵一つ分下がってみて」
「解りました」
「……うん、蹴り上げとヘディングはこれでほぼ固定できるはず。あとはシュートが……」
「爪先の引っ掛け具合は大丈夫でしょうか。先程タイミングを変えたので、若干変わってしまっているのですが」
「そこは大丈――ああ、待って、やっぱりもう一回やってくれるかな。そこズームさせて撮ってみる」
「はい。佐久間、今の通りで頼む」
「あぁ」
「……うーん、そっか、回転のかかりが弱くなってるな。もう少しだけ下の方から引っ掛けなきゃいけない」
「そうするとまた始点がずれますか?」
「いや、これなら鬼道くんのシュートフォームを変えるだけでいいと思う。右足を流す角度を上げてみて」
「どのくらいです?」
「まずは10度で。そっから微調整していこう」
「了解です」

 その日の帝国学園サッカーグラウンドでも、いつもと変わらない光景が繰り広げられていた。
 日曜のうちに馨と鬼道とか洗い出した改善点を踏まえての《ツインブースト》の特訓。そろそろ完成形に近づいてきたため、今日はキーパーの源田にゴール前へ立ってもらい、実際の試合により近いかたちでの練習を行っている。今日だけでも一体何本撃ち込んだか解らない数のシュートを炸裂させているが、源田は全く疲れた様子も見せずに付き合ってくれていた。
 イレブンが黙々とそれぞれの練習メニューをこなす傍ら、ここの四人は――厳密には馨と鬼道の二人だが――一回のシュートごとに逐一相談を重ねる。グラウンドが静かな分、その会話は他の部員にもそれなりに聴こえているようで、決して邪魔してはならないというやや張り詰めた空気が流れていた。
 だが、馨は第一にマネージャーであるからして、何が何でも必殺技にかかりきりというわけにはいかないのが難しいところだ。

「マネ……馨ー! ジャグ切れそうだぞー!」

 ちょうどきりの良いタイミングで、ベンチの方から辺見の声が飛んでくる。
 馨ははっとして腕時計を見た。最初に準備をしてからもう一時間以上経ってしまっているではないか。すっかり練習に入れ込んでしまっていたため気付かなかった。
 直前のプレーについて話している二人に一言詫び、ゴール前の源田にはベンチを指差してから頭を下げ、小走りで辺見のもとへ駆けていく馨。彼はベンチの上に置かれたジャグの取っ手に手をかけているところだった。

「取り込み中悪いな、マネ……馨」
「こちらこそうっかりしててごめん、何のためにジャグ使ってんのって話だよね」

 馨が《ツインブースト》に関わる時間が増えてから、ドリンク事情を改善するために新たにウォータージャグを導入することになった。実はジャグ自体元々存在はしていたのだが、どうにも持て余してしまった結果サッカー部用の倉庫の中で長い眠りに入ることになっていたらしい。それを思い出して発掘してきてくれたメンバーのおかげで、馨は少しでも楽をすることができるようになったのだ。

「というか辺見、呼び方慣れないなら無理しなくてもいいよ。『マネージャー』で慣れてるだろうし」
「は? 別に無理なんてしてねーし。成神が呼び捨てしてんのにその先輩のオレがしねーとか箔がつかんだろ」
「あー、先輩のプライドってやつね」

 さりげなくジャグを担いで調理場へ向かおうとする辺見の行動には敢えて触れず、馨も彼の隣に並んで階段を下りていく。

「んで、鬼道さんたちはどうだ? 技はイイ感じか?」
「そうだねー、あとほんのちょっとってところかな。頑張れば今日中には完成できると思う」
「ふーん。傍から見てっと何がダメなのかもわかんねーくらいだけどな」

 もう充分な威力はあるのに、と辺見はそう言いたいのだろう。馨もそう思う。シュート技としてならば現状でも充分に戦力となれるし、威力だって申し分無い程にまで高められている。
 けれども、まだ一つ。もう一つ。あと一つ。
 あの技はもっと上を目指せる。馨の記憶にあるシュートに届くための、そのたった一つ分の隙間を埋めなければ、真の《ツインブースト》とは呼べない。だから一切の妥協はしたくなかった。

「馨ってかなり拘るタイプ?」
「別にそこまでじゃないけど……必殺技なんてすごく大事なものなんだし、それが帝国のものなら尚更手は抜けないでしょ」
「元マネの意地ってやつだな」
「現マネでもあるけどね。辺見と同じ、プライドみたいなもんだよ」

 彼が先輩として成神と同等以上の存在になりたいと思っているように、馨にも矜持がある。それは《ツインブースト》のこともあるし、マネージャー業務のことだってそうだ。ここでの自分は、いつでも馨にとって理想の人間であり続けたい。六年前と同じ、理想のマネージャーであり続けたいのだ。

「よっこらせ……っと」

 調理場に到着し、一旦ジャグ内を洗ってから再び新しいドリンクを作る。その間も辺見はやはりさりげなく待っていてくれた。六リットルもの液体を入れたジャグの重さを知ってくれているようで、完成するや否や馨より先に再度それを持ち上げてくれる。

「ありがとね、辺見。でも腰を痛めたらマズいから二人で運ぼう」

 その好意に水を差すのはどうかと思っていたが、さすがに選手の身体に負担を強いるのは頂けないのでそう進言する。
 対する辺見は、案の定提案を拒否した。

「これくらい平気だし、何ならトレーニングルームのダンベルの方が重いっつーの。てか別にマ……馨のためってわけじゃねーから、筋トレの一環として良いぞって源田が言ってただけだから」
「本当に?」
「本当だっつーの! 逆に訊くけどさ、馨はこれ運んでて平気なのかよ。仮にも女なのに」
「仮にもって何、仮にもって」

 余計な一言をさらりと受け流す辺見の視線が、すぐ横にある馨の腕へと向けられる。彼のそれと比べれば確かに細いし白いし、あまり頼りにはならなさそうに見えるかもしれない。
 だが、伊達に一人でマネージャーをやってはいないのだ。ジャグ以前はクーラーボックスいっぱいのドリンク入りボトルを運んでいたわけだし、正直その疑問は今更である。
 馨は「平気だよ」と言って二の腕を捲り、力こぶをつくるポーズをして見せた。そこに日々の成果である小さなこぶが浮かび上がると、辺見が「おぉ」と感嘆の声を漏らす。

「辺見が思う程ヤワじゃないからね、全然余裕で運べるよ。握力も結構強いし、これでもオレンジジュースとか生で搾れちゃうから」
「……ゴリラ……」
「んー?」
「何でもないです」

 聞き捨てならない単語が聴こえたような気がしてにこっと笑うと、辺見はそれっきり馨の腕力について言及しようとはしなかった。

「……ま、とりあえず頑張れよな、あの技」

 階段を上りながら、辺見はそっと話題を変えた。

「実際に頑張るのはあの二人だけどね。私は指示することしかできないし」
「でも鬼道さんと、あんな感じだけど佐久間だって、アンタのその指導を頼りにしてんだ。たのむぜ」
「解ってる、頑張るよ」

 あの二人だけではなく、帝国サッカー部全体が新技に対して期待を膨らませている。新戦力として迎えられるときを楽しみにしている。その期待に応えるため、というだけではなく、馨だってプレーヤ―側と同等かそれ以上に最後まで頑張る心意気でいた。
 ――誰よりもあの技の完成を心待ちにしているのは、他でもない馨自身なのだから。


 辺見がジャグをベンチに戻すのを手伝い、ついでにいくつかやるべき雑務を片付けてから、馨は改めて鬼道たちのもとへと戻った。
 馨がいない間も三人であれこれ研究しながらシュートを繰り返していたようで、ここを離れる直前とはまたほんの少し違う動きになっている。ゴール前へ向けて歩く間にじっくり二人の動きを観察し、源田の手を弾いてゴールネットを揺らすボールを目で追いかけて――ああ、威力も僅かだか上昇している。ぴり、と電気が頬を掠めるような刺激を覚え、自然とその目が細まる。
 ちょうど到着したところで馨は口を開こうとしたが、それより先に鬼道がこちらを振り返った。

「江波さん、今のはどうでしょうか」

 これで良いのでは、と彼の表情がそう語っている。佐久間も源田も、今のシュートが今までで一番良いものだと感じたようで、口は挟まずとも鬼道と同じ気持ちであることが見て取れた。
 馨は鬼道を見、次いでもう一度、ゴールライン上を転がるボールへと目を遣ってから。

「もう一回」

 そう告げた。

「……今のもまだ足りませんでしたか」
「うん。でもあと一歩だから、もう一回だけやってみて。《ツインブースト》はまだこんなものじゃない」
「解りました」

 素直に頷いた鬼道に、自分がいない間に行った変更点を問うてみる。すると大した変更はされていなかったので、動きが変わっていると感じたのは二人の動作のキレが要因なのだろう。先程修正を加えてから何度も繰り返すうちに馴染んだ動きが二人のプレーをさらに研ぎ澄まし、威力の向上を可能とさせたのだと。
 ならば、これが最後になるかもしれない。
 先程、本当にあと一歩だと思えた。微かに覚えたのだ、あの感覚を。
 必ずや、もう少しで手が届く。

「まだやるのか、鬼道」
「あぁ、今日中にはものにしてしまいたいからな」
「……」

 鬼道がやるなら、自分がやらないわけにはいかない――すたすたと元の位置に戻る鬼道に続き、佐久間も小走りで立ち位置についた。
 今日で何度目かの緊張感に包まれるコート上。誰も何も言わず、神経を研ぎ澄ます二人を見守っていた。
 馨は念のためと持ってきたビデオを下ろし、肉眼で技の発動を待つ。今までとは何かが違い、そしてあのときと同じであることを肌で感じられた。今回なら、と自身の鼓動が加速していくのが解る。完全に直感だ。けれどきっとそれは確かであると信じられる、自分にしか解らない、直感だった。
 やがて、空気を掻き乱すように鬼道がドリブルを始めた。後ろについていた佐久間が彼の動きに注意しながら絶妙なタイミングで飛び上がれば、そこに合わせて鬼道の足がボールを蹴り上げる。それを佐久間がヘディングで再び鬼道の足元へ戻し。

「……いける」

 馨が呟くその刹那、びりびりとした痺れが全身を駆け巡り。

「《ツインブースト》!」

 鬼道の放った激しいシュートは火花を散らさん勢いで空気を裂き、正面から源田のもとへ飛んでいく。源田は咄嗟に両腕でそれを止めようとするが到底敵わず、ボールごとゴールへと突き刺さり、ネットを大きく揺らした。その衝撃で源田の手を離れたボールは尚も高速回転を維持しており、そのままネットを突き抜けそうな勢いだった。
 やがて、ボールは勢いを失って短い音を立てながら弾み、止まる。グラウンドにはしんと広がる静寂が降りた。蹴り上げた片足を下ろした鬼道とその斜め後ろに着地した佐久間が、肩で息をしながらボールを凝視している。
 そんな二人をやや離れた位置から観察していた馨は、今し方決まったシュートに目と心を奪われてしまっていた。何も言えないまま、震える空気の中で呼吸すら忘れ、ただ立ち尽くすことしかできないでいる。鬼道の、そして佐久間の視線が自分に向けられても尚、目の前の全てが強烈なハレーションを起こしている感覚から抜け出せず。

「……すごい」

 やっと出てきた第一声は掠れていたうえ、ひどく簡素なものだった。
 ――全身を巡った痺れが最後に心臓へと到達し、じん、とそこに強い熱を生じさせる。
 その名の通り、空気を切り裂くように強烈な加速をするこのシュートこそ、まさしく。

「……《ツインブースト》だ」

 ――ああ、おかえり。


「すげぇ! 何だ今のシュート!」

 新たな必殺技が完成したことで、部内のモチベーションも格段に跳ね上がる。練習で散らばっていたメンバーがこぞって二人のもとへやって来ては、おめでとうと技の完成を喜び祝った。転がっていた源田も特に問題無さそうな様子で、膝の埃を払いつつ喜ぶ集団に混ざっていった。

「鬼道さんすげぇっすよ! あと佐久間も!」
「ついでみたいに言うなよ! 鬼道、やったな!」
「あぁ、今までで最高の威力だった」

 わざわざ馨が言わなくても、実際に撃った二人には感覚で解るらしい。もう一度、と言われる前に撃ったシュートと今のシュートの、その違いが。
 鬼道はそれ程顔には出さないものの、冷静さの裏では自身に備わった更なる力に胸を高鳴らせているのが、傍から見てもよく解る程だ。隣の佐久間ははっきりとした笑みを浮かべ、背中を叩く仲間に対し文句を言いつつ喜んでいる。
 馨は暫しその様子を遠巻きに眺めていたが、やがてその視線に気付いた鬼道と佐久間がこちらを向けば、白い歯を零して皆と同じく「おめでとう」と言った。

「馨、これで完成なんだよな?」
「えらく調整しまくってたが」

 咲山と辺見が期待する目で見てくるので、馨は大きく首肯してからシュートを受け止めたゴールへと視線を流した。そこに転がるボールを見ているだけでシュートを撃った瞬間の衝撃が蘇るようで、無意識のうちに細めた瞳はどこまでも愛しげな色を宿す。

「うん、スピードもパワーも完璧だよ。これこそが《ツインブースト》だって解る、最高のシュートだった」

 ――嬉しい。
 初めて見たときに激しい衝撃を受けたあの技が、今再びここに蘇った。馨の目の前で、六年という長い年月を越えて、もう一度その軌跡を思い出させてくれたのだ。
 ずっとずっと、この瞬間を迎えるために今日まで頑張ってきた。その成果を、鬼道と佐久間は最高のかたちで発揮してくれた。感謝の言葉では足りないくらいだが、何と言えばこの気持ちを伝えることができるのか解らずに、馨はぐっと胸元で拳を握り込んだ。

「本当におめでとう、二人ともよく頑張ったね!」
「江波さんこそ、根気よくご指導してくださりありがとうございます」

 鬼道が小さく頭を下げ、再び上げたその口元に微笑みを湛える。

「……」

 一方の佐久間は、つい今し方の喜びが嘘のように顔から表情を消し去っていた。いや、一応残ってはいるのだろう、馨に対する不満という表情が。無を貫くそこにかかる影はいっそう濃さを増し、新たなシュートが完成したことへの喜びを完全に打ち消してしまっている。
 どうしてだろう。
 どうしてせっかく技が完成したというのに、彼は素直に喜んでくれないのだろう――今までで一番強い悲しみが胸を抉る。これを機に、少しでも彼との関係を改善できたら良いと思っていたのに、結局何一つ変わっていない。それをまざまざと突きつけるような無表情が苦しくて、馨は敢えて見ない振りをした。佐久間と直接目を合わせるのが怖くて、わざと声を明るくしようと務める。

「よし、念のために鬼道くんは足首、佐久間くんは首のケアをしておこっか」

 鬼道、そして佐久間の肩にぽんと手を乗せ、飽くまでいつも通りに振る舞う。
 鬼道は律儀に「お願いします」と承諾したが――佐久間は、違った。

「別にいらない」

 淡白に跳ね除ける一言。
 びく、と怯えた手を佐久間の肩から退ける。
 掛ける声が、震える。

「でも、佐久間くん、万が一何かあるといけないから……」
「何ともない。放っておけよ」

 馨が食い下がるのをばっさりと切り捨て、その横をすり抜けていく佐久間。鬼道が咎めるように名を呼んだが、グラウンドを突っ切って階段下へ向かっていく彼は、終ぞ戻ることはなかった。
 ――決定的な溝。
 最早気付かぬ振りすら叶わないそれを目の当たりにし、暫しその場で呆然とする馨。誰かの呼ぶ声ではっと我に返って、とりあえず、佐久間を追いかけようと考えた。これ以上彼との間を維持するのは不可能だと悟ったのだ。痛む胸を無視して、何でもいいからまずはしっかり向き合うべきだと。そう考えて振り返り、すぐに足を踏み出そうとした。

「江波さん」

 だが、その一瞬前に鬼道より声を掛けられたことで、動かしかけた足を止める。
 呼んだ本人を見てみれば、代わりに彼がちょうど一歩踏み出したところで。

「俺が行きます」

 その一言を最後に、バサリとはためく赤色が佐久間を追うようにして階段の向こうへと消えていった。


* * * * *


「佐久間」

 開けっ放しのドアの先。
 電気の消えた薄暗い部屋の中に棒立ちしていた佐久間は、背後から掛かった呼び声に小さく肩を揺らすと、首だけを動かしてゆっくりと振り向いた。

「鬼道か」
「オマエは、どうしてそこまで江波さんを煙たがるんだ」

 前置きも何も無しに、率直に問う。気の知れた間柄なのだからここで遠慮なんてする必要は無い。それに、今まで何度か源田と共に同じ問いを投げ掛けてはきたのだ。その都度、まるで逃げるように適当な言葉を吐いて躱してばかりいた佐久間だが、今が潮時だろう。
 佐久間と少し距離を空け、ドア付近で腕を組んでいる鬼道。探るような目つきをする彼に対し、佐久間は源田に向けたものと同じような薄い嘲笑を浮かべた。

「アイツが本当に見てるものに、オマエのような奴が気付いてないはずはないだろ。鬼道」

 ――本当に見てるもの。
 胸中で反芻されるその一言に、鬼道の眉間へ僅かながら皺が刻まれる。

「そこが気に入らないんだ。どうしてオレたちが、アイツの自己満足の道具になんかならなきゃいけないんだ」
「……恐らく、無意識だ」
「なら尚更タチが悪いな」

 ここまで乱暴に言い放つ佐久間など、彼是二年の付き合いになる鬼道ですら初めて見た姿である。そもそも、誰か特定の人間に対してはっきりと嫌悪を露わにするという時点で、今の彼は鬼道にとって見たことのない佐久間次郎の姿だった。
 正直、最初は放っておくのが良いと思っていた。単に元雷門のコーチという肩書きを持つ彼女に、そのプライドの高さ故に癇癪を起こしているのだろうと考えていた。過去はどうであれ、きちんとマネージャーとして有能な仕事振りを発揮してくれる彼女を見れば、いつかは心変わりして他のメンバーのように親交を持ってくれるだろうと、そう楽観視していた。
 しかし、その推測が間違いであるということに気付いたとき、事態は一転した。
 何とかして馨に対しての印象を変えさせ、関係の糸口を見出させたい――そうは思えど難しい。佐久間の言っていることが理解できるからこそ、彼を上手く言い包める術が見つからない。
 そして、上手く言い包めるだけでは根本的な問題は何も解決しないということもまた、解っていた。

「……気持ち悪いんだ、あの目が。六年前しか見てないあの目が、吐き気がする程気持ち悪い」

 苦々しげに吐き捨てる佐久間に、鬼道は返すべき言葉を見失った。
 ――馨が、自分たちを通して過去を見出だそうとしている。
 そのことは、鬼道も随分前から薄々と感じていた。あの、時折途轍もなく儚さを抱かせる瞳。水銀のような濁った鈍色の瞳。そこへ映る本当の光景に気付けたのは、思えば彼女が過去の欠片を零した瞬間だったのかもしれない。
 佐久間の言うように、無意識とは言え馨はこのチームで自己の空白を埋めようとしている。六年前に何かがあって彼女は転校をし、大好きだと言っていた当時のチームから離脱した。六年間もずっと忘れられない程に好きだったチームを、恐らく影山総帥との間に何らかの出来事があって、離れざるを得なかった。
 影山が馨を呼び寄せたあの日に彼が言っていた「一年と半年」という言葉。それこそが馨の中にある空虚であり、それを満たせる場所は過去と同じ空間であるここ、帝国サッカー部しかない。だから、馨はマネージャーをすることが「嬉しい」と言ったのだろう。
 知らなかったとはいえ、鬼道はそんな馨の空虚を利用してマネージャーになるよう仕向けた。そして馨はそれを受諾した。全ては計算通りで、互いにwin-winの関係で、馨にとっても帝国にとっても損の無い話で、ならば何も問題など無い。鬼道も、そう考えて納得しようとしたのだ。馨が良いならそれで良いのだと。これ以上は自分じゃ深く立ち入れない、彼女のプライベートな領域なのだからと。
 なのに、佐久間はそれを受け入れないという。
 《ツインブースト》が完成した今になってもまだ、馨が過去に縋る行為を否定し、拒絶し、反発している。
 鬼道はこのとき、そんな彼の気持ちをいまいち汲みきれなかった。どうして割り切れないのか、理解できなかった。

「だが、練習に支障を来たしているわけではないだろう。あのシュートを完成させることができたのも、江波さんの調整があったからだ。それを呑み込むことができない程、オマエは子どもではないだろう」

 馨を庇い立てするような鬼道の台詞に、佐久間の片目が鋭く(すが)められた。

「その理由がアイツの自己満足のためでもか? アイツの望む六年前とやらのシュートを再現させられてもか? アイツの目を見ろ、オレたちのことなんて見ちゃいなかっただろうが」
「それは気持ちの問題だろう、佐久間。実際に起こった出来事だけを見れば、そんなことをわざわざ気にする必要が無いと解るはずだ。実益を享受しろ」
「……鬼道、オマエはそんなにプライドが低い奴じゃなかったはずだぞ。悔しくないのかよ、虚仮(こけ)にされてるも同然なのに」

 悔しそうに歯噛みする佐久間に、鬼道もまた奥歯を噛み締める。

「……悔しくは、ない」
「嘘だ」
「嘘じゃない。……ただ、少し悲しい、とは思う」
「……悲しい?」
「あぁ」

 その返しに何か思うところがあったのか、佐久間はぐっと沈黙して地面を睨みつけた。長い髪がさらりと流れ、彼の顔により深い影を落とす。拳が堅く握られたのが空気の動きだけで判った。
 ――解っているとも、らしくないことくらい。
 過去を投影するための鏡にされて憤らないことも。わざわざマネージャーのことでこうしてチームメイトに説教紛いなことをしてしまうなんて、この帝国サッカー部のキャプテンには必要の無いことだとも。ちゃんと解っている。
 それでも鬼道は、これ以上の見て見ぬ振りはできなかった。どうしても口を出さずにはいられなかった。帝国サッカー部キャプテンとしてではなく、あのマネージャーに世話になった一人の選手として。
 佐久間だけがいつまでも不満を抱えているだけだったら、もしかするとこんなことはしなかったのかもしれない。
 だが、彼が目に見えて反発することで、初めこそ気にしていない素振りをしていた馨にも明確な変化が現れ始めたのだ。寂しそうに、悲しそうに、密かに胸を痛める姿を晒さないように。過去を求める彼女が、たった一人の少年に認めてもらえないことで、あんなに苦しそうな顔をする。楽しい嬉しいと毎日健気に仕事をしている笑顔に、隠しきれない曇りがかかる。
 見ていられなかったのだ。
 何よりも、先程佐久間の肩から手を離したときの彼女が、見るに堪えなかったのだ。

「俺は、あの人がただ楽しくマネージャーをやっているならば、それで良いと思っている」

 余計な詮索も、深読みも、マネージャーと選手の間には必要無い。
 ただそこにあの笑顔が無いと、少し悲しいと思うだけで。

「他の奴らも同じだ。それで互いに成り立っている、そういう関係なんだと割り切るしかない」
「……」

 どこまでも理性的に言い切れば、ややあって佐久間がやんわりと面を上げ、鬼道を見据えた。

「オレたちはオレたちであって、決してアイツの過去にはならない。いつまでも縋りついたままで、んなの、ただ惨めなだけだろ」
「……過去に縋りたくなる気持ちは、解る」

 ぼそりと、佐久間にさえ届かない声量でそう漏らし、鬼道はぎゅっと拳を握った。
 この胸に潜む思いは、佐久間からすれば理解するどころか存在すら把握できないだろう。話したことはないし、今後も話すことはない、鬼道しか知らない“過去”への思慕。
 ――例え二度と戻らないと解っていても、それが輝いていればいる程、どうしても心の拠り所にしてしまう。
 過去とはそういうものであることを知っているからこそ、馨がしていることを咎められないし、仕方ないことだと同情すらする。傷の舐め合いにも似た感情だ。自分には見えないけれど、馨の有する六年前の光景はきっと鬼道にとっての“あの頃”と同じくらい、甘美で尊いものだろうから。
 鬼道の呟きが聞こえなかったため、彼が言い返せずに黙り込んだのだと認識した佐久間。細く小さな吐息と共に、最後に。

「……オレたち自身の努力を、もう終わっている過去と勝手に重ねられて堪るか」

 絞り出すような声が、苦しそうに、ともすれば今にも泣きだしそうに、切実さを孕んで吐き出された。

「……」

 佐久間は、誰よりも真剣にサッカーに取り組んでいる。鬼道の最も近くで、同じ世界を見つめてくれている。そのためならばどんな努力だって惜しまない、帝国サッカー部きっての努力家だ。
 だから馨の投影が許せないし、きちんとその目で自身を見つめてもらえないことに、ひどく憤りを感じているのだろう――鬼道だって、そんな佐久間の思いを全く汲み取れないわけではないのだ。ここまで意固地になる程ではないはずと高を括っていただけで、真正面からぶつけられれば納得せざるを得ない。佐久間のプライドを、傷付けてはいけないと。
 鬼道は、もう容易に口を開くことはできなかった。佐久間の痛いくらいの感情をぶつけられ、黙って飲み下すしかない。
 少しの沈黙の後、先に動いたのは佐久間だった。目を伏せたまま、何も言わずに鬼道を抜いて廊下へと出て行く。ドアを出ても暫くは歩いていたようだが、遠ざかるにつれて徐々に足音の間隔が短くなるのが判った。
 残された鬼道は、足音が完全に聴こえなくなるまでじっと立ったままだった。やがて間を置いてから、ゆっくりと身体の正面をドアへと向ける。そこから数歩だけ進み、廊下へ出るか否かというところで不意に足を止め。

「――」

 影になった部分で、ただ立ち尽くしているだけの気配。それに気付かぬ振りをして、静かに素通りする。
 ――これ以上は、本人の問題だ。
 口を添えて導いてあげるには、鬼道はあまりにも彼女のことを知らなさすぎていた。


* * * * *


 部室から佐久間が出て行き、続いて鬼道が出て行った。前者は気付いていないようだったが、後者はあからさまに見えない振りをしていたように思える。気遣いか、或いは――呆れか。
 二人がいなくなって完璧な静寂を取り戻した部屋の脇、馨はその影の中に密かに佇んでいた。
 盗み聞きをするつもりは毛頭無かった。ただどうしても佐久間と、彼を追った鬼道の様子が気になって、それでついて来てみただけだった。しかし、いくら言い訳をしようとも結果的には出歯亀となって終わってしまった。
 いや、それだけならまだ、良かったのだ。

「……私が、彼らを」

 ――自己満足の道具にしていた?

 ここで即座に違うと言えたなら、首を振って否定することができたなら、まだしっかりとここに立っていることができたのだろう。自分は今の帝国学園サッカー部のありのままが好きで、彼らと真っ直ぐ向き合えているのだと、そう心から思い込めたのなら。
 けれど――そうではないと、今まさに、自覚をしてしまった。
 彼らと関わる始まりである、マネージャーになったそもそもの理由。そこから既に、自分は彼らを通して過去を掴もうとしていたのだと。その自覚が佐久間の言葉によって明瞭なかたちになり、馨の胸に深く深く突き刺さった。
 ――やり直せるかもしれないと思った。
 ここで過ごすことで、本来自分に与えられるべきだった時間の穴を、当時の代わりに埋められるかもしれないと思った。失った時間。空間。気持ち。全てを再び取り戻し、楽しかったあの頃に浸れたらと思った
そのためならばどんなに忙しくても苦じゃなくて、嬉しくて、楽しくて、ただただひたすらに頑張れて。メンバーと少しでも近づけることが、頼りにしてもらえることが、幸せで。

「……」

 ならば、それは一体何のため?
《ツインブースト》を完成させるために奮起したのは、誰のため?
 ――全部ぜんぶ、自分自身のためだったんじゃないのか?
“帝国サッカー部のため”だなんて、ただの建前でしかなかったんじゃないのか?

「……そう、だよね」

 正解だ。どこにも間違いは無い、完璧な解答だ。
 鬼道が言っていたように、お互いがそういう関係だった。帝国は馨の持つ過去を利用し、馨は帝国にある過去を利用し、一見何の変哲も無く、また損害も無い関係を築けていたはずだ。馨がマネージャーとして成果を上げていたこと自体は本当のことなのだから。
 だからこそ、もしかすると心のどこかでは自分も薄ら気付いていたのかもしれない。それを敢えて気付かぬ振りで誤魔化して、与えられる居心地の良さを享受して、受け入れてくれる鬼道や皆に甘えて、自分の求めるものだけを追いかけ続けて、虚を埋めることばかり考えて、自分は本当に心から彼らのことを思っていると言い聞かせて。
 先日、鬼道との会話の中で感じた空虚感は、きっとこのことだ。メンバーとの間に認識の齟齬(そご)があると思ったのは無理もない。本当は齟齬など無かったのに。だって自分は、そんなはずはないとずっと暗示をかけていた。自分自身に向けて。
 今の会話を聞かなければ、きっとこれからも変わらずにチームと関わり、その行く末を見届けていたのだろう。彼らに六年前を重ね、自分を満たし、それでも埋まらない虚に苦しんで、虚構の幸せに浸って。
 だが、聞いてしまった。知ってしまった。
 どんなに投影したところで過去は過去でしかないことと、自分のエゴで傷付けた者の存在を。

 ――ただ、少し悲しい、とは思う。

 耳について離れない鬼道の細い声。

 ――六年前しか見てないあの目が、吐き気がする程気持ち悪い。

 怖気が走る程に抉り込む、佐久間の鋭い声。

 ――でも鬼道さんと、あんな感じだけど佐久間だって、アンタのその指導を頼りにしてんだ。

 自分を頼り、真剣に練習に取り組んでいたあの二人の思いを。
 最初からずっと、傷付け続けてしまった。

「……これじゃ、ダメだ」

 佐久間に謝らなければいけない。自分を庇ってくれた鬼道にも、温かく受け入れてくれたメンバーにも、皆に謝ってきちんと向き合わなくてはならない。もう一度、今度は間違いなく現在の帝国サッカー部マネージャーとして、仕切り直しをしないといけない。そうでなければもう、どこにも進めない。
 ――過去を切り捨てられないままで?
 第三者の目線から冷たく見構える己の視線が、心臓へまた一つ大きな傷をつくる。黙っていてくれと振り切っても、その目はどこまでもどこまでも追いかけてくる。咎めるように、責め立てるように。決して忘れられぬ重く錆びついた鎖を、この足に枷として縛りつけるために。

 ――私は好きだよ、このチームが。帝国サッカー部が。

 鬼道に語ったあの言葉自体に、嘘は無かった。自分は間違いなく帝国サッカー部が好きだった。傍にいるメンバーともっともっと歩み寄り、今以上の関係を築いていけたら良いと願っている。その気持ち自体は明瞭に存在しているはずなのだ。
 けれども――それが本当の意味での「好き」なのか、もう解らない。自分のことなのに、自分の本当の気持ちすら解らない。
 あのとき、あの瞬間、確かに自分が大切に思っていたはずの相手は、一体どちらの帝国サッカー部だったのか。ぐちゃぐちゃになってしまう。混濁してしまう。
 だってどうしても切り離せないのだ。その平面上に過去を重ねられずにはいられないのだ。彼らが動けば記憶の“彼ら”も動き、彼らが笑えば記憶の“彼ら”も笑う。流れる空気も影山の支配を受けたサッカーも、今を取り囲む全てが、泣きたくなるくらいに昔と同じだからこそ。
 自分にとっては、どちらも大切な“帝国サッカー部”であることに、違いがないから。

「……ッ」

 今の皆と向き合うべきなのは解っている。しかし過去を抱いたままでは永遠にそんなことできないとも解っている。あの頃を捨てることなど不可能だ。一度は封印した記憶、それを開け放った今では、二度と忘れてはならない大切な記憶となってしまった。失ってしまった過去に、未だみっともなく縋りついてしまう自分がいる。
 こんな状態では「好き」だなんて口にすることすら許されないだろう。そんな権利は持てないだろう。散々良いように利用して、それで今になってそんなこと言ったって、きっと誰も信じてくれない。
 頭ががんがんと痛む。まるで中から金槌で滅多打ちにされているような気分だ。行き止まりの無い道をひたすら巡るばかりの思考が、その痛みにますます拍車をかけてならず。

 ――オレたちはオレたちであって、決してアイツの過去にはならない。

 鈍痛の合間に蘇るのは佐久間の言葉。それを聞いた瞬間、死にそうなくらい胸が締め付けられる思いがした。
 そんなこと知っている。だから今、こんなに苦しくて仕方がない。
 どうすれば、自分は本当の意味で今の帝国サッカー部を「好き」だと言うことができるのだろう――考えればそれだけ、吐き気に似た気持ち悪さが奥底から迫り上がってきた。




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