傍観者たちは語る


「マネージャー!」

 少年は、地に足を着けるや否や少女を振り向く。

「今の、どうだった?」
「前よりも息は合ってきています。けど、やっぱり決め手のタイミングを合わせるのが難しいですね」

 観測者、そしてこの技の指導者でもある少女は、二人の少年の動きを収めた映像を眺めながら難しい顔を浮かべた。
 続いて二人の少年たちも、少女と同じものを覗き込んで小さく唸る。

「そうか……なかなか難しいな」
「焦らずに、時間が掛かっても良いのでしっかりと仕上げていきましょうよ」
「あぁ、そうだな、よろしく頼むぜ」

 難しく、そして何より初めての試みで。
 しかし、それに立ち向かっていくことは何の苦痛でもない。
 彼らにとって、とりわけ少女にとって、それは困難以上に大いなる意味を持つ、大切な技だったから。



* * * * *


 ――誰がどんなに苦しもうと、悩もうと、挫けようと、この世界は常に一定の時を刻み続け、真理を決して崩さない。
 例え馨が自分自身すらも見失いかけたとして、その猶予を待ってくれるものは何も無い。時計は無情なまでにひたすら秒針を刻み、そこに不変かつ冷厳なる事実があることを、いずれ馨に突きつける。逃げ場も隠れ場も、いっそ休息するための隠れ蓑すら用意されていないここで、やがて馨は思い出す。思い出さざるを得なくなる。
 どれ程自分が自分を否定しようと、糾弾しようと、そんなことは世界にとって何ら意味を成さないことを。

「馨?」

 ひゅ、と吸い込んだ呼気がか細く喉を鳴らす。
 壁際の影の中、ただ呆然と立ち尽くすことしかできないでいた馨を呼ぶ声に、そうしたくなくても自然と顔が上がった。

「……洞面?」
「なかなか戻ってこないから、気になって見に来ちゃったよ。こんなとこで何してるの?」

 大きな瞳で自身を見上げる洞面に、漸く我に返った馨は即座に腕時計へ視線を落とした。佐久間と鬼道が部室を立ち去ってから、既に十分近くが経過している。
 ――完全に、現実を(なげう)ってしまっていた。
 他の部員はいつものようにまだ部活中で、自分はこのチームの、マネージャーをしているというのに。

「ご、ごめん、すぐ戻るよ」

 頭は空っぽなのに、ただ“仕事をしなければ”という意識が神経を伝って身体を動かす。
 即座に壁から背を離して階段の方へ向かおうとすると、洞面は横に並んで「ねぇ」と首を傾げた。

「佐久間と、何かあったの?」
「……」

 ああ、と胸中で深い吐息が漏れる。
 彼はグラウンドでの佐久間とのやり取りを見たのだから、そう思い至ってしまうのも当然なのだろう。いや、恐らく他のメンバー全員も、洞面と同じように佐久間と馨との間に何か大きな問題が起きたと認識しているに違いない。
 ――こんな、しみったれた顔をしていたらダメだ。
 笑顔をつくらねば。マネージャーとして、選手を応援するための心地好い笑顔を。口角を上げるだけの簡単な表情を。
 そして何てことない調子で、答えよう。

「別に何も無いよ、話すらしてないから」
「本当に?」
「本当だよ、ちょうど入れ違いになっちゃったみたいで部室には誰もいなかったし」
「そお? ならいいけど……あ、もうちょっとでジャグが空になりそうってさっき寺門先輩が言ってたよ。それを伝える役目もあったの忘れてた」
「あれ、無くなるの早いね。休憩挟んだの?」
「うん、佐久間先輩たちが出てってすぐに。足止めたついでにって」
「そっか。了解、すぐに新しいの作るね」

 一応、嘘は吐いていない。現に馨は佐久間と一切の会話をしていないのだから。
 今回はただ、馨が勝手に佐久間と鬼道のやり取りを立ち聞きをして、勝手に独りでショックを受けただけだ。佐久間が自身を嫌う、その本当の理由を知ってしまったという理由で、己の首を絞めているだけなのだ。
 何も無かった。問題など無かった。
 だから、馨はいつも通りマネージャー業務を行うだけ。それ以外のことを何も考える必要は無い。馨の脳裏を焼き切らんとする苦痛、それそのもの自体は、帝国サッカー部には何ら関係の無い話だろう。ただでさえ佐久間とのことで部の和を乱しているのに、これ以上どう迷惑をかけるつもりなのかと。
 勝手に気付き、勝手に悩み、そして早く、解決策を見つければいい。
 もう、自分の独りよがりな問題に、彼らを巻き込むのは――嫌だった。


 洞面と共にグラウンドに戻ると、先に帰った二人はとっくに練習を再開していた。
《ツインブースト》の特訓を終えた佐久間は再び《デスゾーン》の方に組み込まれており、鬼道、寺門と共に発動からシュートまでの流れを確認しているようだ。そこへ最後の一人である洞面が帰還したことで、また鬼道が手振りを交えつつの説明を始めた。
 鬼道も佐久間も、何の変哲も無く練習に溶け込んでいる。まるで先程までの出来事など最初から無かったかのように、普段通りそこにいる。ふと鬼道がベンチ前にいる馨の方を向いたことで遠距離ながら目線が合ったように思えたが、程無くしてそれは自然な動きで外された。
 ――何も変わらない。少なくとも、表面上では何一つ変わっていない。
 ならば馨もそうであるべきだろう。鬼道も、そして佐久間も変わらないというのなら、馨がこの場所を壊すことなどあってはならない。どんなに悩んでいても、苦しんでいても、決して逃げ出したりなんてしてはいけない。
 手のひらに爪を食い込ませてでも余計な思考を止め、今は、せめて今だけは、いつもと同じマネージャーであり続けなければ。

「あ! 馨、やっと戻って来た! 冷やしタオルちょーだーい!」

 真っ先に気付いて飛んで来たのは成神だった。
 すっかり汗だくになった彼は自身の手でぱたぱたと顔を扇いでいる。馨はすぐに脇のクーラーボックスに手をかけて、中からしっかり冷やされたタオルを一枚取り出した。
 そして成神の方を振り向いて、笑顔と共に手渡そうとした――のに。

「はい、――」

 ――目が、合わせられない。

「どうぞ、成神」
「サンキュー」

 瞬間的に重なった視線。その瞳が自分を見つめていると気付いた途端、無意識に眼球は成神へ渡ったタオルへと落とされた。そこから微動だにできなくて、どうしても、その顔が見られなくて。ただ成神の手に握られるタオルを見つめたまま、唇だけがいつもと変わらない弧を描いている。
 幸い成神は馨がそうしたことを深く捉えなかったか、或いは気付いていなかったらしい。タオルで顔面を拭って「ぷはー!」と気持ち良さそうな声をあげると、そのままベンチに座り込んだ。

「やっぱマネージャーさんから直接渡してもらうってのが大事だよねー」
「そんなもんかな?」
「そんなもんだって! 寺門先輩とか辺見先輩みたいなツラからタオル受け取るときの絶望感ハンパないんだぜ?」
「まあマネージャーはそういう意味も込めて女子がなる場合が多いんだろうけど……っていうかこらこら、そんなこと言ってるとまた二人に聴こえちゃうよ」
「もう聴こえてんだよテメーこのクソ成神ィ!」
「きゃー」

 今まさにボレーの練習を行っていた辺見が成神に向かってシュートを撃ち込む。それを立ち上がりながらも難なくトラップした成神は、肩越しに振り返って「じゃあね」と手を振り、タオルをカゴに投げ入れてからコート上へと戻っていった。
 帝国の日常茶飯事。無邪気に走る小さな背中。それを追いかけ鉄槌を下す拳。飛び交うボール。確かに向けられる親愛。
 自分だけが、ただただ異質。

「……」

 いつも通りでいないといけないと、解っているのに。
 きちんと目を合わせないといけないと解っているのに、それがとても、恐ろしい。
 もしかしたら、合わせたそこに見えるものがまた誰かを傷付けてしまうかもしれなくて、意識外で過去と重ねてしまうかもしれなくて、それと――自分には彼らと向き合う資格が無いのではと、そう思えて。
 怖いのだ。
 マネージャーとして頼ってくれる皆の傍にいることが、初めて“怖い”と感じてしまう。

「……いけない」

 こんなんじゃいけない。
 些細な変化だとしても、聡いメンバーならば必ずや察してしまう。場を乱してしまう。巻き込んでしまう。また、誰かを傷付けてしまう。昨日までは当たり前にできたことがどうして今できないのか。
 そう思ってはいるのに、どうしても、どうしても――。

「馨」
「っ、はい!」

 突然の呼び声に思わず弾かれるようにして返事をすると、声をかけた本人である源田が少し驚いたような顔をしつつジャグを指差した。

「いや、ただもうドリンク無くなりそうだってだけの話なんだが、取り込み中だったか?」
「あっ、そうだった、さっき洞面が言ってたのに……ごめん、すぐに作ってくるね!」

 つい先程頼まれたばかりだというのに、すっかり失念してしまっていた。
 慌てて持ち上げたジャグはほぼ空っぽになっており、ステンレスの重さだけが馨の腕に圧し掛かる。特別な仕事も無いくせにこんな状態になるまで放置してしまうなんて、マネージャーとして情けない。取っ手を固く握り締め、馨は駆け足で調理場へと急いだ。

「急ぎすぎて転ぶなよ?」
「大丈夫」

 ――せっかく気遣ってくれた源田とも、やはり目を合わせることができないまま。


 何も考えない、ということは一見簡単なようで、実際にやってみると何かを考えるよりも難しい。
 ドリンク作りや洗濯などの単調な作業でも、選手のプレーをビデオに記録するだけでも、何をするにしても常に思考はつきまとう。この作業ではあれをしなければならない、次はどうすべきか、誰のために、何のために、……つい先刻までは自然に耽っていた考え事、無意識の範疇であったそれすら払拭してしまいたいというのなら、とにかく作業に没頭するしかなかった。
 馨は走る。空っぽだったジャグに新しいドリンクを入れてカップと共にベンチへ運び、今度はクーラーボックスを担いで階下へ向かっては乾燥し終えたタオルを濡らして中に詰め込み、入れ替わりに使用済みのタオルを洗濯機に突っ込んで稼働させる。既に洗濯済みのシャツは一枚一枚アイロンをかけてしっかり皺を伸ばし、畳み、部室の定位置に置いておく。部室内に使いっぱなしで放置されていた雑誌や備品も全て片付ける。
 己に暇を与えたくない。常に何かをしていないと。一瞬でも動きを止めてしまったらそこからもう二度と動けなくなりそうで、無我夢中になって仕事を探した。
 誰のため? 何のため? ――そんなこと考えない。解らない。
 これも全部、自己満足? ――そんなこと知らない。解らない。
 ここは帝国学園サッカー部、そして自分はそこに所属するマネージャー、与えられた仕事は選手のサポート、それさえきちんとできているならまだ大丈夫。
 けれどそれができなくなったなら、今度こそ、自分は。

「よし、全体休憩!」

 グラウンド中に響き渡る鬼道の号令により、本日最後の全体休憩に入った。
 このあとの紅白戦の組み合わせは紙面で渡されているので、馨は事前に運んでおいたビブスを抱え、ベンチに戻って来たメンバーの一部にそれを振り分けていく。

「寺門、成神、あと咲山ね」
「っす」
「どーも」
「うわ、鬼道さんと別チームか」

 ビブスを受け取った者もそうでない者も、いつもの調子でのろのろとベンチ周りで腰を下ろすなり楽な姿勢をとるなりして身体を休めた。部活の最後を締め括る紅白戦に備え、馨が用意したドリンクや冷やしタオルでできるだけ疲労を軽減させておく。
 直前には全体での三列シュートドリルを繰り返していたため、それぞれ個人で休憩を取るのもままならなかったのだろう。全員すっかり喉が渇いていたようで、ジャグだけではなく、それとは別に用意していた個人ボトルも早々とボックスの中から姿を消した。疲労と初夏の暑さが相俟ってか、最後の全体休憩時は大抵あまり口数は多くない。
 それ故に、五条の漏らしたその一言は、グラウンドの準備をしている馨の耳へといとも容易く飛び込んできた。

「……このドリンク、少し味がおかしい気がします」
「え?」

 遠目ながら振り返ると、ジャグの方から飲んだらしい五条がカップ片手に不思議そうな顔をしている。
 そういえば、と同調したのは同じくジャグを使用した寺門だった。

「確かに、いつもと何か違うっつーか、ちょっと苦いな」
「そうか? 特に変わらねーと思うけど」

 そう反論した辺見の手には彼専用のボトルが握られており、それをきっかけにして皆が口々に味の確認をし合う。「言われてみれば変だ」と異変を唱える者の手にはカップ、「そうでもない」と通常通りを主張する者の手にはボトル。
 ここまできたら、気付かない方がおかしい。

「ちょっと、ちょっと待って!」

 回収途中だったコーンを放ってすぐさまその場に駆けつける馨。
 衆目を浴びることも厭わず、カップを手に取りジャグから少量のドリンクを出し、一口飲んでみた。

「……あ」

 ――確かに、変だ。
 寺門の言ったようにいつもより苦味が強く、甘味が薄い。保冷はきちんとできているため外因性のものでも無いだろうし、そもそもこんなこと、粉末タイプの材料を使用しているのだから普通ならまずありえない変化だ。
 ということは。
 恐らく、いや間違いなく、入れる粉の分量を誤ってしまっている――そう思い至った瞬間、頭が真っ白になった。

「ご……ご、ごめんなさい! すぐ、すぐに新しく作り直してきます! 本当にすみません!」
「あ、馨――」

 成神が何かを言おうとしたようだが、今の馨に耳を貸す余裕は無い。
 混乱しきった頭のまま言葉を並べ立ててジャグを掴み、半ば逃げ出すようにしてその場をあとにした。

 ――最悪だ、最悪だ、最悪だ!

 六リットルの液体の重さすら今は感じない。階段を駆け下りる足すら自分のものではないような感覚に陥る。
 ただ一心に調理場へと駆け込んで、その中身を全て流し捨て、空っぽになったステンレスに映り込む自分の歪んだ面を見て――カッとなって。

「ッ!」

 咄嗟にジャグを退けて水道の蛇口を捻り、勢いよく噴き出したその水の下に、迷い無く自身の頭を突っ込んだ。
 痛いくらいの水流が頭部を突き刺す。冷たさが徐々に髪全体へと染み込んでいく。髪を伝ってだらだらと零れ落ちていく水滴がいつかは顔面すら濡らし、耳元で激しく鳴り渡る水音は馨を外界から一時的にシャットアウトさせる。深い海に叩き込まれたような、海底に向かって引きずり込まれていくような、そんな身の凍る冷たさだけが、ここに残されていた。
 ――ダメだ。
 やってしまった、と。混乱も動揺も洗い流した先にあったのは、その一言に尽きる。
 自分勝手な問題でどんなに悩もうが、苦しもうが、それでもマネージャー業を滞りなく行えてさえいればまだ大丈夫だと思っていたのに。これ以上部にとって迷惑な存在になってはいけないと思っていたのに。そんな己の決意、そして何よりマネージャーとしての信頼を置いてくれているメンバー全員のことを、自分はまた裏切ってしまった。
 六年前という過去、そこに生きていた十四歳の江波馨。
 それこそが、この場所で抱ける馨の矜持だったはずなのに、誇りだったはずなのに、“理由”だったはずなのに。
 それすら失うようなくだらない、心底くだらないケアレスミスを、自分こそが許せない。

「……マネージャー、失格だ」

 みっともない。情けない。
 選手の心を傷付けて、挙げ句ドリンクを作るなどという簡単な仕事すら失敗して、一体自分は何をしているんだ。マネージャーである権利すら、もう持てていないのではないのか。こんな体たらくで何の役に立てるというのか。
 佐久間は――果たしてどんな顔をして、謝り去っていく自分を見ていたのだろう。
 最早マネージャーとすら機能していない自分を、どんな思いで見送っていたのだろう。

「……最悪だ」

 呟けば、唇の隙間から冷水が入り込んできた。呼吸が止まり、溺れそうになる。いっそ溺れて泡にでもなって消えてしまいたい。
 でも、それだけは叶わないから。
 やがてたどたどしい手つきで蛇口を捻り、水を止める。びしょ濡れになってしまった髪をある程度絞ってから乱雑に掻き上げ、徐に自分の頬を殴った。二度、三度、開いた手のひらで力任せに頬を張ってから、奥歯を噛み締めて新しいドリンクを作り始めた。
 ――足元が、ずっと、ぐらぐらと不安定に揺れ動いている。


* * * * *


「いやー、にしても今日の部活はいろいろスゴかったな」

 時刻は七時過ぎ、場所は帝国サッカー部部室内。
 辺見がベンチに腰掛けたまま足元でボールを捏ね回し、溜め息混じりのわりにどこか軽い口調で口火を切った。

「ああ、スゴかったな、いろんな意味で」
「どっちの意味っすか? 佐久間先輩? それとも馨?」
「どっちもだろ」

 咲山、寺門は間に座っている後輩の広げている雑誌から目を離し、話題を提供した辺見へと向けた。
 常日頃からサッカー以外やることのない暇人たちは、こうして部活終了後も暫し部室で(たむろ)しながら雑談に花を咲かせている。鬼道が総帥との打ち合わせから戻るまでは部室も施錠しないので、大体時間にして三十分程度、監視者のいない環境で羽根を伸ばすことができるのだ。
 といっても、話題なんて鬼道が聞いたら「くだらない」と一蹴しそうな世俗的なものだったり、その鬼道には間違っても聞かせられない下世話なものだったり、凡そこの帝国サッカー部に於いては歓迎されない事柄ばかりなのが常である。だからこそここでしか発散できないし、発散することに乗り気な、所謂お喋り好きかつ物好きな人間しか集まらないのだが。
 お喋り好きかつ物好きな人間とは即ち、辺見、寺門、源田、咲山、成神、あと最近はあまり参加しないが佐久間も一応一員だ。
 ここのところは、上の話題に加えて専ら佐久間と馨についての話が多かった。最初こそ突然のマネージャー――しかも年上かつ女性――と、そんな彼女を毛嫌いする佐久間のネタは大いに盛り上がったものだが、あまりに繰り返しているためやや食傷気味でもあった。今も辺見によって当然のようにして持ち出されたのがまさにそれ。
 しかし今日はまた一味違うテイストであり、昨日までなら「まーたその話かよ」と軽く流していたであろう全員が、その話に加わろうとしていた。

「佐久間もだが、まさか馨がミスするとは思わなかったな」

 座談会をする際、源田は手癖なのかいつもボール磨きをしている。しみじみと何かを感じ入るように首を傾ける源田に、「それな」と辺見が相槌を打った。

「あれ、単に粉の分量間違えただけだろ? なのにそこまで謝るかよ! って勢いだったな。洗剤でも混ぜてたなら大問題だけどよ」
「しかも帰ってきたときのアレ、マジでビビったわ。廊下に雨でも降ってたのかよっていう」

 咲山が述べたのは、ジャグ側に入っていたドリンクの入れ替えを行った馨が戻って来たときのことだ。
 ただドリンクを作っただけのはずなのに、何故か頭上から水を被ったように髪をしっとり濡らしていた彼女は、一体何事かと声を掛けたメンバーに対して「ちょっと頭冷やしただけ」と笑って返した。おまけに頬が赤くなっていたのでそれを指摘しても、やはり同じ笑顔で「ぶつけちゃった」と答えるだけ。
 何ともいえない妙な空気を醸し出していたため、それっきり誰も言及はできなかったけれど、今思い返してもあのときの馨はどこかおかしかった。
 いやおかしいと言えばそれよりも前に、とさらに続けたのは成神だ。

「オレと話すときも全然目合わせてくれなかったし、今日の馨、やっぱ変でしたよね」
「今日のっつーか、“あれから”だろ」
「うむ」

 わざわざ言わなくても最早ここにいる全員、それどころか部内全員の共通認識でもある。
 ――《ツインブースト》の完成後にグラウンドから出て行った佐久間、それを追った鬼道、さらにその二人の様子を見に行った馨。
 暫くしてから三人はばらばらのタイミングで戻って来て、その後は何事も無かったかのように練習を再開させた。とはいえ全くの変化が無かったわけでもなくて、佐久間なんかは明らかに「苛立っています」と言わんばかりの形相で、それでも一応は普段通りに《デスゾーン》の練習を行っていた。鬼道は一切合切変化無しの通常運転で、馨は見ての通りの有り様だ。
 三人が消えていった階下。そこで何が起き、どんな展開が成されたのかは傍観者たちの知るところではないが、少なくともあの場で何かが起き、とりわけ馨の心中に影響を及ぼしているはずであろう。

「本当に、馨と佐久間は会話しなかったんかね」
「さあな。だって洞面がそう聞いたってんだろ? なあ寺門」
「あぁ、言ってたぜ」

 寺門は、なかなか帰ってこない馨を呼びにいく役目を担った洞面に後々話を聞く機会があった。そこで彼は「馨は佐久間先輩たちと入れ違いになったらしいですよ」と言っていたが、だったらどうしてあんなに悪い方向に事が進展したのだろうか。
 今日の出来事について気になることはたくさんある。しかしその全てが、今ここにいる面子からしたら想像の範疇でしかない。その想像も、世俗的で下世話で楽しいことが好きな物好きからしたら、話のタネとしてはある意味最高には成り得るのだが――何せ実害が出ているので、何とも言い難い部分も否めない。

「なんつーか、もうね、痛々しいんすよね、傍から見てると」

 成神がヘッドフォンを人差し指でくるくると回転させながら言う。

「ジャグ担いで出ていくときのあの様子、気にすんなって言わせてももらえない感じ。絶対普段ならあんな取り乱したりしませんって」
「そもそも普段なら粉の分量ミスもしないだろ」
「馨も人間なんでミスくらいしますよ」

 飽くまで全面的に馨を気にしている成神を、他のメンバーは特に気にせず何度か頷く。
 彼が例の『成神脳震盪及びマネージャー鬼化騒動』以降、何かと馨に懐いて親身にしていることはよくよく知っているし、彼の発言自体にも賛同はできた。どんなに完璧な人間でもミスをすることはある、それはこの帝国学園でも同じことだ。実際にサッカーをしている部員の場合、ミスの度合いによっては一発で首を飛ばされる場合もあるのであまり大っぴらにはしておけないが、それに比べたらドリンクの調合ミスくらいどうってことないだろう。
 ただ気になるのは、“あの馨”がミスをし、剰え異常な程取り乱して見せたという部分なのだ。
 マネージャーとして就任してから常に冷静さを保って完璧な作業を行い、一切の妥協を許してこなかった馨。成神が倒れたと聞いて般若の形相をした以外、然して大きな感情表現は見せず、いつもにこにこと大人の笑顔で部を見守っていた馨。
 そんな彼女が今や目も合わせてくれず、挙げ句の果てにあの始末。あまりに突然の変化に、さしもの帝国サッカー部にも些か動揺が走った。ここまでくると、最早話のネタにするのも憚られるくらいだ。

「絶対、佐久間先輩と何かあったんすよ。じゃないとおかしいっす」
「けど鬼道も一緒にいたしなぁ」

 ポン、と放られたボールがカゴに収まって軽い音を立てる。源田はベンチの下に転がり込んでいたもう一つのボールを引き寄せ、またタオルで擦り始めた。

「一応、佐久間とは少し話をしたらしいぞ、アイツは。けどそれについて訊こうとしたら『あとは当人同士の問題だから放っておけ』って言われて、それっきりだ」
「源田に言わねーってならマジだな、こりゃ」

 鬼道は部内の誰にでも一定の信頼を向けているが、特に源田は彼の右腕的な存在である。その源田にすら口を割らないとなれば、他のメンバーは推測しか許されないも同義だ。
 辺見は「うーん」と唸りながら腕を組んだ。

「鬼道さんと話した佐久間も、まだ全面解決ってわけじゃなさそうだしなー。つーか前より悪化してる感もある」
「だよな、確実に前より酷くなってる」
「今日のシュートドリル中のパスやばかったぞ、人殺せそうな勢いだった」

「おかげでオレの踝真っ赤だぜ」と咲山が靴下を脱いで見せる。佐久間からの人殺しパスを受け取ったそこは彼の言う通り赤い痕が残っており、やはり佐久間の方も相当問題であると再認識せざるを得ない。というより、この事態の最も大きな原因は佐久間だ。
 ――佐久間次郎。
 一年時から一軍に抜擢されていた優秀なチームメイト。鬼道を憧れとしていることは本人が言わずとも周知の事実で、あの赤いマントを追いかけながらひたむきに練習を重ねる彼はプレーヤーとしても成長を続け、今やチームに欠かせない立派なFWである。《デスゾーン》だけではなく、最近では馨の指導の下で《ツインブースト》という新技を得、今後ますます試合で活躍する見込みがある戦略の要だ。
 性格も、口が悪いだけでそんなに捻くれているわけでもない。同じく口の悪い辺見や、後輩として若干問題言動の多い成神とは度々喧嘩をすることもあるが、基本的には誰に対してもある程度の節度を弁えている。
 そんな佐久間が、あのマネージャーにだけは節度も何も無しに牙を剥いている。
 最初こそその態度の意味が全く解らなかった他メンバーだが、最近になって漸く、どうして彼があんな風になっているのか一定の理解はできるようになってきた。
 きっかけは、源田が彼に聞いた、あの言葉だった。

 ――アイツはオレたちなんて見てない。最初から眼中にすら入ってないんだよ。

「……要するに、佐久間先輩はただ“拗ねてる”だけっすよね」

 それを源田から聞かされた成神の見解は、これに尽きた。

「馨が六年前にマネやってた誼みで今ここにいるなんて、みーんな知ってることじゃないすか。なのに佐久間先輩だけが未だ独りで腹立てて、そんなんただのワガママっすよ。ガキみたい」

 成神の言うように、馨がマネージャーになった経緯はともかく、元々六年前に帝国で同じくマネージャーをやっていたこと、その伝手(つて)で今もここで働いているというのは、説明されずとも皆が承知していることだった。そうでなければあそこまで最初からフレンドリーに接してくれるはずがないし、心配りをしてくれるはずもないだろうと。初対面時の違和感を払拭するには、その結論が一番論理的だったのだ。
 成神も、辺見も、源田も、寺門も、咲山も。ここで噂話に興じるような面子でも、それくらいは割り切れたし呑み込めたし、納得できた。馨がマネージャーとして日々献身的にしてくれていることは身を以て実感しているのだから、それ以上何かを要求するなんてこと、考えもしなかった。
 しかし、佐久間だけは違った。
 佐久間だけは、割り切りもしないし呑み込みもしないし納得もしないし、馨にそれ以上のことを要求している。それが、成神からすれば“ガキのワガママ”に映ること自体、誰も否定はできなかった。

「……アイツは人一倍プライドが高いから、そこんとこ割り切るのが難しいんだろ、きっと」

 入部時からの付き合いになる源田は、佐久間の性格やサッカーにかける熱情をよく知っている。それを加味してそっと擁護を差し込むも、源田と同じだけ佐久間を知っているチームメイトには大した意味を成さなかった。

「知ってるよ、んなこと。新技練習でずーっと一緒にいたのも逆効果だったんだろうしな、あの分だと。あれって馨のいた世代からあった技なんだろ?」

 寺門が、辺見の足元からボールを横取り器用な動作で爪先に乗せる。
 ボールを取られた側の辺見は一瞬むっとしたものの、特に気には留めず肩を竦めた。

「あった技、どころか馨が開発に関わってたらしいぜ。だから馨も六年前を参考にしたんだろうし、佐久間にとっちゃますます地雷って具合だったんじゃねーの」
「それが爆発して今回の件、と」
「いや、まだ爆発はしてないな。休火山が活動始めたくらいだ」
「充分あぶねーじゃんそれ」

 辺見の例えは言い得て妙だ。今回もなかなかの惨事を産んだけれど、まだ佐久間は表立って馨に不満をぶつけたわけではなさそうだし、恐らくこれからもう一波乱くらいはあり得るだろう。
 いつか来るであろう大噴火は、きっと今回以上の大惨事になる。
 それを事前に防ぎたいのなら、佐久間か馨のどちらか、或いは両方の意識を変える必要があるのだが――それがここにいるメンバーにもできるのなら、そもそもこんな話にはなっていない。

「……なーにがそこまで気に入らないんだかな」

 嘆息と共にそう吐き出した咲山に続き、何人かが同じく溜め息を零した。

「第一、馨はただのマネージャーなのにな。その馨に認めてもらうためにサッカーやってるわけでもないのに、何であそこまで意固地になってんだか」
「やっぱりそれもプライドから来てるんじゃねーのか。自分がやってるサッカーなんだからちゃんと自分だけ見ててほしいって、そういう気持ち自体は解らんでもねーけどさ」

 寺門の言葉に「はあ?」と返したのは辺見だった。

「甘ったれすぎだろ、小学生のサッカークラブじゃあるまいし。馨の指導は的確だったってんならそれでイイのに、いつまでも自分のこと見てもらえねーからって拗ねて、挙げ句マネの仕事にまで支障出して。やってることはホントにただのガキだぜ、アイツ」
「まあ、それはそうなんだけどな……」
「というか、馨は別に、オレたちのこと全然見てないってわけじゃないっすよ」

 先輩たちの言い合いの最中、ふとベンチから立ち上がった成神が、デスク際の椅子を引き寄せてそちらに身を移した。そのままデスクに上体を転がし、右腕に頬をくっつけた状態で、どこか訴えるようにぶつぶつと語る。

「だってオレ、頭打ったときにめっちゃ怒られたけど、ちゃんと『オレのこと思ってくれてる』って感じたし。他にも怪我とか病気のこと気にかけてくれてるし、健康記録やプレー記録だって一人一人細かく取ってくれてるし」
「……」
「確かに馨は過去を大事にしてるかもしんないけど、でも……それでもオレらのこと、少なくとも無視なんてしてませんよ、絶対に」

 ――だからオレ、最初から全部決めつけてあんな態度取ってる佐久間先輩がわかんねーっす。
 それだけ言ってからごろりと反対側を向いてしまった成神に、他の四人は少しの間、ただ押し黙るしかなかった。




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