帝国学園


 がやがやと昼休みに相応しい雑踏と喧噪に溢れた大学構内、その一角。
 図書館から玄関ホールを抜けていく一本の廊下を突き進むのは、適当に破られた紙切れ一枚と小さな鞄を携えた江波馨。このまま何事も無く真っ直ぐ出口を抜けていくつもりだったのだが、そんな馨を目敏く見つけた彼女の親友が、目立つようにと大きく手を挙げて声を張り上げた。

「江波馨さんー! サボりですかー?」
「バカ、人聞きの悪い! 資料見せてもらいに行くだけだかられっきとしたフィールドワークだよ」

 わざわざ立ち止まってピラッと見せ付けた紙切れには、簡易的な地図と住所が走り書きされている。一体何の資料なのか気になるような顔をしてみせる吉岡だが、どうせ違う学部のことだしとあっさり追求するのを諦めたらしい。なら最初から呼び止めるなと言いたいところであるが、これが彼女なりのスキンシップなのだから仕方ない。
 馨はそんな友人を簡単にあしらい、近くにいた同じ学科の子へと最後の授業の代返を頼んだ。やっぱりサボりじゃんと吉岡が笑い半分に言うのが聞こえたが、面倒なのでさらりと流すことする。が、追い掛けるようにして届いた「いってらっしゃい」には素直に手を振っておいた。
 ――近々ディベートを行うので資料集めをしてこい、という課題を教授より与えられたのは記憶に新しい。
『過去と未来に於ける教育の理念』といういたくふんわりした議題である今回のディベート、教授曰く大学内の図書館にある蔵書では深みが足りないそうだ。確かに馨自身も何冊か目をつけて読んではみたものの、結局思っていたような情報が得られることは無かった。
 ならば、と色々な文書などをインターネットで検索してみた結果、それらしい本はとある中学校の蔵書となっていることが判明した。取り寄せることも可能だったが、それでは手続きの関係上時間が掛かるとのことだったので、馨自らが中学校へ赴くことにしたのだ。フットワークの軽さは一つの自慢でもある。
 電車に乗って約一時間。二回の乗り換えを終えたら今度はバスに乗って約五分。それなりに遠い道程の先に、目的の中学校はあった。先日訪れた雷門と比べると一回りも二回りも小さい学校だが、偏差値はそこそこ高いらしいので言うところの選び抜かれたエリート校なのかもしれない。そう考えると、辿り着いた裏門からしてどことなく尊厳を感じるような気さえしてくる。

「静かだなぁ」

 立ち入った校舎は水を打ったようにしんと静まり返っていた。裏側だからそれもそうなのだろうが、全ての教室が一斉にテストでも行っているかの如き沈黙が広まっており、逆に何だか落ち着かない。事前にアポイントメントは取ってあるというのに、どうにも足を進めることに意味の分からぬ後ろめたさを覚えてしまう。拒絶されている、というよりは、寧ろこちらが進入を躊躇うような感覚。
 ――だが後にしてみれば、それはある意味馨の“危機察知能力”が働いていた結果だったのだろうと言える。
 そして馨自身、校舎を回って正門側へ出てきた瞬間、そのことを痛い程に実感することとなった。

「えーっと、こっちが正面玄関か、な――」

 少し小さめのグラウンド。それを挟んで反対側に位置する正門。
 その場所に聳えている一つの存在を視認して、――全身が凍りついた。

「――ッ!」

 まるで時が止まってしまったかのように、身体が動かなくなる。
 大きく見開かれた馨の視線の先には、戦車もかくやという巨大な鋼鉄の塊が重鎮していた。初めて知る者が一目見ただけでは理解し得ないが、それは四つのタイヤによって縦横無尽に移動することが可能な一種の車、言うなればバスの類に仕分けられる。とはいえ見た目だけなら完全に装甲車だ。
 そして、全体的に暗い色をし、全身を鈍い鉛の光沢で覆われたその車の頂には、厳かながらも圧倒的存在感を放つ装飾の施された重々しい旗が翻っている。そこに印されているのは、車を所有している組織の紋章である『帝』の文字。帝王、帝國、万物を統べる王の座を冠するたった一つの単語が、天を支配するかのように悠然と曇り空に踊っていた。
 馨は、それが何を、どこを表す記号なのか、嫌という程知っていた。
 長らく目にすることは無く、また今後の人生に於いても二度と関わることは無いと思っていたそれを、今一度思い出してしまった。
 ――帝国学園。
 この地域に生きていて、その名を知らぬ者はいないであろう。
 そして恐らく、こんな風に別の学校へ出向く必要があるということは。

「……サッカー部の練習試合」

 導き出された結論を飲み込めば、頭が痛くなった。
 あまりにも酷い、酷すぎる。
 どうしてこう、自分は運が悪いのだろうか。先日から同じようなことばかり考えている。本心から望んでいないのに、その思いの通り行動しているのに、どうしてか引き寄せてしまう。或いは引き寄せられてしまう。何か特殊な引力でも働いているかの如く、あらゆるものが馨が離れていくことを許さない。
 仮に、そうでなかったとしても――例え“運”が悪くなくとも、“気分”が悪くなることには違いない。
 なまじ帝国学園も帝国学園のサッカー部も知っているからこそである。出先の中学校で帝国学園サッカー部の練習試合に遭遇してしまうことは、何にも代え難き不幸であると断言できる。そこで何が行われ、どういう結末を迎えるのか。帝国の名を知っているならば誰にだって予測はできるし、それを嫌悪することもまた容易い。
 馨は踏み出しかけていた足をそのままに、纏まりきらない脳を必死に回転させた。これ以上先に進みたくない。足が動かない。身体全体で、シナプス一本一本で、彼らに近付くことを拒否しているようで。どうにかして現状から逃げ果せられないかと考えて、しかし、最終的には無理だと悟るしかなく。
 ちらりと時間を確認する。もうすぐ司書との約束の時間になろうとしていた。

「……」

 いくら嫌だからといっても、自分の勝手な事情で約束を破ることは許されない。せっかく好意で取りつけてもらえた機会に私情を持ち込んで無下にする、そんな行いは社会では通用しない。
 ――それに、もうずっと昔のことだ。
 ゆっくりと己に言い聞かせ、ぐっと両手に握り拳をつくる。冷静でいられるなら何も心配することはないと、自分の中の自分が勇気づけてくれる。大丈夫。最近何度も繰り返すその一言だけを胸に、前を見据える。

「……よし」

 いつしかからからになっていた喉を唾で無理矢理潤わせ、馨は意を決して校舎の影から足を踏み出した。
 帝国学園の乗用車から校庭までの短い距離には豪奢なレッドカーペットが伸びており、思わず失笑してしまう。これだけ見るとさぞお偉い高貴な人物が凱旋しているように思えるが、実際は部活の練習試合が行われるというただそれだけなのだ。いや、ある意味でいえば帝国学園サッカー部は“お偉い”存在なのだけれども。こういう部活だと知識がある分、傍から見ると何とも形容し難い複雑な感情が湧いては消えた。
 校庭の両脇には、この学校のサッカー部と帝国学園のサッカー部がそれぞれ集まっている。やる気がなさそうな、もっと言えばつまらなさそうな雰囲気の帝国学園とは打って変わり、相手側は明らかに萎縮していた。それもそのはずだ、帝国学園に負けたチームの学校の行く末を知らないサッカー部などいないと言っても過言ではないのだろうから。ならば負けなければいいという理屈も、帝国相手にはまず通用しない。
 馨はできるだけ素早く歩きながら、横目で帝国学園側のチームを見てみる。くすんだ深緑のユニフォームはいつの時代も変わらない伝統だ。そしてやはりあのユニフォームを着ているだけあって、誰も彼もが実力者のように見えるし、実際それ相応なのだろう。帝国学園サッカー部でレギュラーを務めるということは、即ち全国の中学サッカー部員の頂点に君臨していることと同義である。彼らは、今年で四十年間無敗の記録を樹立しているのだ。――飽くまで記録上では、の話だが。
 今は、試合開始前のミーティングを行っているのだろうか。各選手の細かい表情までは窺えないが、遠くから眺めているだけなのにやたらと威圧感を感じる。ずっと見ていると気を呑まれてしまいそうだ。一通り面子を見てから、すぐに目を逸らした。

「今から帝国と試合だって」
「えー、勝てるの?」
「さぁ……あの噂、本当だったらどうしよう」

 不安にざわめくギャラリーたちの合間を進み、ようやっと人のいない場所まで辿り着いた。校庭近くは特に生徒が多い。皆が皆、直接は見たことのないであろう“噂”に慄きながら、試合の行く末を見守ろうとしている。
 だが、馨からすればこの試合、見ること自体が無駄だと思っている。
 それをいちいち言ってやるようなお人好しでは無いので、自分は自分のやることを果たすだけ。早く用事を済ませ、ここを立ち去ってしまいたい。
 このまま校舎の壁伝いに行けば来客用玄関に行き着くと聞いている。気を取り直して歩き出そうとしたそのとき、ふと視線を感じてそちらを向いた。
 それが、間違いだった。

「……!」

 ぶつかったのは、馨を見つめる四つの眼差し。一人は、赤いマントを羽織りゴーグルを付けたキャプテンらしき少年。ゴーグル越しだのに、確かにこちらを見定めていると解ってしまう程の真っ直ぐな視線が突き刺さる。
 そして、もう一人、もう一つの強い視線は――。

「……何で」

 ――どうして見ているんだ!
 彼の暗いサングラス越しに、完璧に視線が交わる。交錯し、絡み合い、火花が散る。
 そう感じた瞬間、馨は一切の思考をやめて逃げるようにしてその場から走り去った。逸らしたはずの、振り払ったはずの眼差しがどこまでもどこまでも纏わりついてくるようで、一心不乱に前だけを見つめ校舎内へと駆け込む。
 心臓が、痛いくらいに強く鼓動を打っていた。
 どうして、なんで、という答える者のいない問いかけばかりが脳内を占拠して、冷静さを取り戻すまでに少し時間を要した。閉じた瞼がみっともなく震えている。大きく息を吸い込み、吐き出し、もう一度目を開ければ、背筋を伝う冷や汗の感覚にふるりと身震いした。
 ――自分を見つめていた、二人の人物。
 それが誰で、どうしてこちらを見ていたか、馨は深追いするつもりなどない。偶然、の一言で済ましてしまいたかった。だからもう、何も考えない。何も知らない。馨には、他にやることがあるのだから。
 改めて腕時計に目線を落とすとちょうど約束の時間だったので、馨は来客用の窓口に顔を出してから図書室へと向かった。そこで話をつけていた通り数冊の蔵書を見せてもらい、コピーを取るなり書き写すなりとやることをやる。時折グラウンドからであろう多数の生徒の声を聴きながら、ただ黙々と。『教育理念』などという不透明な主題を、果たして自分にそんなものを学ぶ権利があるのかと自問したくなりながら、黙々と。生徒の声はある一定の時間から徐々に勢いを失くし、たまに響くのは歓声か、それとも――悲鳴か。


 そして、全て終えた頃には既に三十分が過ぎていた。
 司書にお礼を言い、図書室をあとにする。鞄を肩に掛けながら、人影の無い道を戻って行く。廊下を歩いている最中、図書室には届いていたあの声たちも、今となっては全く聴こえなくなっていた。
 校庭に出てみれば、まだ試合終了時間ではないはずなのに沈痛なまでの静けさに包まれていた。ギャラリーは残っている。それなのに、もう誰一人として声を出せずにいる。
 コート上に転がるのは、疲弊しきったこの学校のサッカー部員たち。微動だにしない彼らの中には、恐らく怪我をしている者もいるだろう。監督らしい男性が顔面蒼白で立ち尽くしているのが判る。
 対して、帝国学園は全く疲れた様子を見せず、いっそ傲慢な程の笑顔を湛えてそこへ佇んでいた。

「十五点か」

 最早機能してはいないスコアボードを尻目に、「そんなもんだよな」と誰にということもなく呟く。寧ろ、あの帝国相手に十点台なら、まだ健闘した方だと言えるかもしれない――自分でも、嫌な考えだと思った。
 相手を押し潰すような隠然たる雰囲気を纏って立っている帝国学園イレブン。赤のラインが引き立たせる深緑のユニフォームは、彼らの確かな実力を表している。
 帝国学園は、強い。
 何者も敵わぬ絶対的な王者の力を以て、こうして他のサッカー部を捻じ伏せていくのだ。

「――この試合、帝国学園の勝利!」

 今更すぎる審判の無情なる声を背に受けて、馨は俯いたまま、意気消沈するギャラリーの間をすり抜ける。決して帝国学園の方を見ないように、そして何も考えないようにしながら、あの荘厳な乗り物の横を通った。
 仕方ない。試合のことも、このあとのことも、何もかもが仕方ない。馨独りではどうしようもないことでしかない。
 だから、先程受けた二つの視線のことも、今すぐ忘れてしまおう――そう心に決めて。


* * * * *


 資料を置きに大学へ戻ろうかと考えたが、叔父から入った電話によりその選択肢は立ち消えとなった。頼み事があるから授業が終わり次第来てほしい、と言った叔父のため病院へ向かう。念の為、一時間抜けたことは伏せておくことにした。
 明日が土曜だろうが、そんなことはお構いなしにいつも通り混んでいる病院の駐車場。叔父の頼み事とやらを済ませたらさっさと帰ってゆっくりしよう――さっさと院内へ入ろうとした馨だったが、不意に聞こえてきた“あの音楽”に、つい足を止めてしまった。
 この、軽快で、どこか人を小馬鹿にしたような音楽と効果音は。

「……あ」
「あれ」

 音源は自販機。
 そして鳴らしたのは、以前同じ場所で会ったあのコーヒーの少年だった。
 状況を見る限り、どうやら彼も“当たった”らしい。チャラチャラとやたら五月蝿い自販機を前にやや困惑した表情を浮かべ、目が合うなりそっと馨へと目配せする。

「……あの」
「ん?」
「……どうぞ」

 そう言って、一歩退く。依然喧しい自販機の前に、ひと一人分のスペースができる。
 それだけで少年の言いたいことが理解出来た馨は、彼に近付いてから「良いの?」と首を傾げた。

「この前のお礼、ってことで」
「そっか、ありがとうね」

 どこか照れ臭そうな素振りの少年に口元をゆるませ、それじゃあ、と前回同様ミネラルウォーターを選んだ。間を置いて落ちてきたボトルを受け取り、また笑いかける。
 それを受けた少年は一瞬何かが詰まったような顔をしたがすぐに無表情となり、律儀に会釈をしてから足早に病院内へと入っていってしまった。やはりつれない面もあるが、単に大人と会話するのに慣れていないだけかもしれない。可愛いものだ。
 ――良い子だな。
 綺麗な顔立ちだ、名前は何て言うのだろう、などと思惟を巡らせつつ、馨も用事を済ませるべく叔父のもとへと急いだ。




 |  |  |