辺見渡の憂心


 ぶっちゃけ言うと、コイツもどうせすぐに辞めるんだろうなと思ってた。


 今年に入ってからずっと、帝国サッカー部にはマネージャーってやつがいなかった。
 まだチームに入りたての成神や洞面は当然その理由を知らねーし、オレらもはっきりと確信持ってるわけじゃねーんだけど、敢えて言うなら“相応しい奴がいない”って感じなんだと思う。精神力とか技能とか知識量とかセンスとか慣れとかその他諸々、この帝国サッカー部内でマネージャーをやるってなったらそれ相応のレベルを要求されるのは当たり前だが、残念ながらここにはそれをクリアしてる女子が一人もいないっていう話。総帥のお眼鏡に叶う奴がいないんだ。
 一応、昨年度は何人か女子マネがいた時期もあった。
 一番記憶に新しいのは昨年の夏、そんときは一人だったかな。顔はまあまあ好みの女子だった。学校の球技大会で、バスケだかバレーだか知らないけどとりあえず何かの種目でかなり目立ってた奴だった覚えがある。運動部には所属してない代わりにどっかのクラブに入ってるらしい、所謂生粋のスポーツ女子。サッカー部自体とは特に面識も無かったけど、何せ球技大会での活躍はクラスを越えて学園全体に広まってたもんだから、オレも存在くらいは知ってた。相手は当時二年の先輩だし、話したことはねーけど。
 そんな奴が、ある日いきなりウチのマネージャーになるって紹介されたんだ。時期的には前任のマネがいなくなってから半年後くらい。何の前触れも無く突然に、当時から総帥の側近役を担ってた鬼道さんが連れてきて、先輩はにっこり笑って「サッカー知識は薄いけど、スポーツは得意です。頑張ってサポートします」と挨拶した。オレらは特に文句も不満も無く、強いて思ったことと言えば『今度はどのくらい続くんかな』だった。
 さっきも言ったけど、マネージャーとしてこのチームをサポートするってんなら並みの手腕じゃ足りない。だから並み程度の生徒は、例えそれが就任の翌日だとしても、使えないと判断されるか本人が辞めたいと進言したなら即刻追い出されることになる。サッカーに関しては鬼のように厳しい環境で、マネージャーだけが例外、女子だから甘やかす、なんつーことには当然ならないわけだ。
 そのスポーツがお得意らしい先輩以前に来てたのは、それこそ文化部の方がお似合いだろって感じのひよっちい奴だったり、サッカーのサの字も知らないとかいう舐め腐った奴ばっかだったし、漏れなく全員仕事のキツさに泣き出したり総帥に首切られたりしていつの間にか姿を消してた。オレが知ってる限りで一番長く続いた奴は、確か半月だったっけか。肉体労働が辛いって言って辞めてった覚えがある。
 そこまで厳しいってのに何で引き受ける女子が後を絶たないかっつったら、一番の理由はウチの部が学園内で最も権力を持ってて、かついろんな意味で人気があるからだな。女子連中からすりゃ、帝国のサッカー部でマネージャーをやれるってことはものすごくポイントの高いことで、一気に女子ヒエラルキーの頂点に躍り出られるわけだから。アメリカのスクールに於けるチア部みたいな感じ。ミーハーな奴らは何にも難しいことは考えず、帝国サッカー部マネ―ジャーって肩書きと数人のイケメンに釣られて、空っぽの頭のままであっさりほいほいされて来るんだ。
 だからまあ、今回のは個人でもスポーツを嗜んでるらしいし、まだそいつらに比べりゃ使い物になるんだろうな、と。力もあるだろうしメンタルも強いだろうしスポーツに於いて必要な知識も持ってるだろうし、まだマシなんだろうなと。そういうちょっとした期待はあった。あと、単純に顔が好みだったからできれば続いてほしいなとも。女の趣味が似てる佐久間と影でそんなことを言ってたら、偶然それを耳にした鬼道さんに「(うつつ)を抜かすな」って怒られたんだっけな、懐かしい。
 そんなわけで新しいマネージャーが加わって、いざフットボールフロンティア三十九連勝目達成のための夏が幕を開けたわけだが――結果は推して知るべし。
 技量はまあ悪くなかった。さすがスポーツやってるだけあって選手が部活時に必要とするものはちゃんと把握していたし、休憩時に合わせてドリンクやタオルを用意できるだけの手早さもあった。洗濯も掃除も、それなりにはこなしてたと思う。笑顔も可愛くて、休憩中にそれを見ては密かに結構癒されてた。
 だけど、紹介されたのと同じくある日突然に、その先輩は総帥によって「クビ」を宣告された。
 理由は解らない。とにかく「クビ」になったということだけしか部には知らされなかったし、それっきり先輩は顔を出さず、学園内でも見かけることは無かった。ちゃんと仕事はできてたのに何でだろ、と疑問を抱く部員は多かったけど、結局誰もその理由までを把握するには至らなかった。もしかしたら鬼道さんなら詳細を知ってたかもしんねーけど、どうせ訊いたところで答えてはもらえないってこと、皆理解してた。
 その先輩マネの所属期間は一ヶ月程度。彼女がいなくなってから年度が変わるまで、総帥は遂に新しいマネージャーを投入することすら辞めてしまわれた。おかげで当時一年だったオレらや二軍の奴らは、部活動と並行してマネ業務にも奔走することになったんだから、正直めんどくせーし心底嫌だったしイイ迷惑だったし総帥クソがって思ってたさ。(まか)り間違っても口には出さなかったけど。
 そもそも総帥の理想が高すぎんだよ。確かに帝国サッカー部マネのハードルは高くあるべきだけど、少なくとも先輩は仕事できてたし特に問題も無かったっつーのに、何が悪くて辞めさせたんだかさっぱりだ。総帥がマネージャーに求めるレベルは、多分オレらが求めてるものの何倍も高くてキツくて、普通の人間じゃまず無理なんだろうな。
 じゃあもう一生、ウチのチームはマネ無しで一年が雑用係になるわけだし、来年の新入部員はおもっくそコキ使ってやろ。

 ……と、そんな開き直り全開の決意を固めた新学期から約一ヶ月後。
 いい加減クソ生意気な一年坊主たちの奉仕心皆無なマネ業務にも飽きてきていた折に、その人は鬼道さんに連れられてやって来た。
 あ、先に言っとくけど、元雷門コーチとか過去に帝国マネやってたとか、そういう謎の肩書きについては今更もう触れねーよ。どんだけめんどくさい立ち位置にいるんだコイツって思ったりもしたし、総帥も鬼道さんもこの女自身も正気かよって考えもしたけど、それは今になっちゃ死ぬ程どうでもイイ話だから置いておく。ちなみに顔は別に好みって程でも無かったけど、悪くはねーかな、多分。
 いつも通りに対面して、どうせ一ヶ月かそこらでお別れする相手だしなと思いつつ適当に挨拶を済ませた当時のオレ。いっそ他のメンバーと『今度のマネがいつまで続くか』って賭けをしてもいいな、あとで寺門あたりに持ち出してみよ。頭の中ではそんなくだらねー思考がぷかぷか漂っていた。

 ――ところがどっこい、予想は大きく裏切られ。

 一ヶ月以上経過した今、マネージャー――馨は未だ自主的に辞める気配も無く、総帥にクビにされることもなく、引き続き毎日ウチのチームをサポートしている。
 どうしてだろう、今までの奴らと何が違うんだろう、なんて不思議に思う必要は全く無い。
 見りゃ解るんだ。実際に触れ合えば、もっと解る。馨が今までダメだった女子たちと圧倒的に違って、要するに総帥の要求するレベルをクリアしている稀有な人間だってこと、誰だって嫌でも実感させられたはずだった。
 仕事が早くて正確なのは最低限、スゲーのはそれ以外だ。
 まず、サッカーに対する知識量が並みの女子のそれじゃない。元雷門コーチ、さらには六年前に直接必殺技の指導も行っていたって時点でさもありなんって感じだけど、女子の日常会話じゃまず使わねーようなサッカー知識も馨はちゃんと持っていたし、トレーニングメニューに対する理解も深い。あれ、多分ただのマネージャーってだけじゃなくて、直接プレーしたことあるんだとオレは睨んでる。馨自身は一度もボールを蹴らねーけどな。
 あとは、観察眼が鋭い。いや、鋭いってだけじゃ物足りないな。とにかくこう、特殊能力かよってくらいに目が“イイ”んだ。毎回、選手がアップをしてる間にそれぞれの健康状態を確認してくれてたり、プレー中の気になる点を記録として洗い出したり、マネージャー業から逸脱したことをやってるけど、それらは全部馨の両目が行ってるってんだからビックリだ。数値か何かで見えてんのか? スカウター的なモンなのか? って程に正確な情報をアウトプットする馨の観察眼は、新しい必殺技を特訓するうえでも大いに役立ってるようだった。
 この二点だけでも、これまでここにいた奴らとは比べ物にならない逸材なのが解るんだから、そりゃ総帥もひっさびさにマネージャー起用するだろうよ。まあそれだけじゃなくて、馨曰くの「六年前」に両者の間で何かしらあったっぽい雰囲気は漂わせてるけど、結局のところ馨が現状を受諾してるなら特に気にすることもねーだろ。中継役状態の鬼道さんは少し大変だろうが、そこはキャプテンとして辛抱強く頑張っていただきたい。
 さらにもういっこ、馨が他のマネージャーとは明らかに違う点――アイツ、やたら楽しそうに作業をしてるんだよな。
 頼み事しまくるオレが言うのもなんだけど、ウチでのマネ業務ってクッソしんどいと思う。とにかく駆け回るし重いもの運びまくるしで身体を酷使するから、下手な筋トレよりもタメになるんじゃねーかな。現にそれが原因で泣き言漏らして辞めてった女子もたくさんいたし、男よりも筋肉量が少ない身にはかなりキツイ。
 なのに、馨はいつも笑顔。にこにこ笑顔。泣き言? 苦言? 愚痴? そんなん一言も零さないどころか、何かを頼まれたら嬉しそうに一つ返事で了解する。本当に常に楽しそうに働いてるもんだから、思わず「マゾかよ」って言いたくなったこともあった。言わなかったけど。
 オレも含めたイケメンがここにはたくさんいて、そこで紅一点になってることに対して喜んでるってわけでもない。ただ単純に、アイツはマネージャーとして働くこと自体を楽しんでる。それって簡単そうに思えるけど実際なかなかスゲーことだろうし、オレらとしても嫌々世話されるよりかは全然マシだから、お互い利害一致もできててイイじゃんと思う。
 別に馨がどんな理由でここにいようが、今のところ何にも害は無いんだから、このままずっとこんな調子でやっていけりゃ平和だなと。やっぱ女子マネがいるってのは部活に於いてめちゃくちゃ大事な要素だしさ、ここは頑張ってもらいたいだろ。馨がいなくなったらいよいよもう希望は持てねーよ。これ以上のレベルのマネージャーなんて見つかるわけねーんだから。

 ――なんで、そんなオレからすると現状は結構、マズい。


「こんにちは、今日もよろしくお願いします」

 グラウンドにしっかりと響き渡る声。
 部活開始時間より後に遅れてやって来た馨は、いつもそうやってまずグラウンドにいるチームメンバーに挨拶をしてから作業に取り掛かるのだ。律儀なこった。バカ真面目か。

「よろしくー」

 あちこちから思い思いに返される声に混じって、オレも間延びした返事をする。直後にペア練相手の咲山からパスが飛んで来たので、階下に下りていく背中を横目に見ながら、ツータッチでそれを受け止めた。
 ――あー良かった、今日も来てくれて。
 昨日あんだけいろいろあったし、なんか馨本人も危なっかしい様子だったから、下手すりゃ今日にでも初のお休みになるんじゃねーかとちょっと心配してた。あ、心配ってのはあれだぞ、馨が休んだらまた成神洞面の一年コンビが代役に駆り出されるからそれを危惧してっていう意味のやつだかんな。馨自身のことは知らねーよ。オレ関係無いし。
 で、まあ馨は今日もちゃんと来てくれたし、ぱっと見た感じじゃ昨日よりマシになってるっぽいし、マネージャー喪失の危機はまだ何とか回避できてるようで何よりだ。そんなことを考えながら咲山にボールを蹴り返すと、奴は何故か独りでうんうん頷いている。

「良かったよな、ちゃんと来てくれて」
「あ? オレなんも言ってねーけど」
「デコがそう語ってるぜ」
「うっせー誰がハゲじゃボケ」
「そこまで言ってねーよ」
「辺見、咲山、私語は慎め!」

 軽口を叩き合っていたら鬼道さんに怒られた。くそ、今のぜってぇ咲山のせいだし、あとで殴る。つーか目元が笑ってんだよマスクの意味無さすぎだろ。
 二人揃って「すみません」と素直に謝って以降、ペア練は掛け声以外の発声も無く、ただ黙々と進行していった。
 その後のポジション別練習や個別トレーニングも特に滞りは無かったし、どこまでも日常的な時間が流れていく。ちょいちょい挟んだ休憩中に飲んだドリンクの味も普段通りだったし、タオルや記録のために声を掛けた馨も普通に対応――成神の言ってた通り目だけはなかなか合わせらんなかったけど――してくれたし。そのうち昨日の出来事も忘れちまいそうな程に、今日は平和一辺倒だった。
 少なくとも、オレの周りはな。

「あ、馨が」

 同ポジションなので不本意にも休憩が被りやすい成神が、グラウンド上の一点を指差してそう言った。
 何だよとつられてそっちを見ると、ちょうど馨が、駆け寄ってドリンクを差し出すところだった。
 ――あの佐久間に。

「うへー、マジでスゲーな馨。オレなら完全に無視するぜ」
「佐久間先輩、もう三十分以上水分補給してないんすよ。だから見かねて渡しに行ったんだと思う」
「だろうけどよ」

 成神の推測通り、昨日から様子がおかしい人間ナンバーツーの佐久間は、練習に熱とか何とかいろいろ込めすぎていて休憩を疎かにしがちだ。
 季節はもう夏を迎える準備万端で、室内コートとはいえ気温を外界とほぼ同じに設定されているここじゃ、こまめに休憩を挟まにゃあっという間に熱中症とか脱水症状とかを起こしてしまう。あんだけ馨に散々口を酸っぱくして言われたから、他のメンバーは十五分に一回っていう細かい時間を一応ちゃんと守ってんだ。ぶっ倒れるなんてゴメンだしな。
 んで、あの反抗児も昨日までは従ってたはずだけど、今日は怒りに任せてとうとう自暴自棄にでも走ったか?

「でも、アイツがそう易々と受け入れるかね」
「それなんすよねー……あーほら、やっぱり」

 悲観的に肩を竦めた成神。オレたちがこっそり見ている先で、今まさに佐久間が馨の渡そうとしたボトルをスルーし、そのままこっちに歩き出した。その間喋っていたのは馨だけで、佐久間は何の一言も返してない。そんな佐久間を見送る馨の表情は、ここからでも明確に判る程悲しそうなものになっていた。
 すっかり凹んでいる様子の馨は、暫くずっとそこに立ち尽くしていた。けど、気持ちを切り替えたのか、それとももう諦めたのか、持っている二本のドリンクで両頬をバチンと挟んだ彼女は、くるりと踵を返して反対方向へと駆けて行った。
 その一連の流れを見ていたオレと成神は、互いに顔を見合わせて思わず溜め息を吐いた。いくら関係無いとはいえ、いつまでもこんなん見てらんねーな、ホントに。
 特に馨に懐いてる成神は、もうそろそろブチギレ間近ってところか。

「はー、もういい加減我慢なんねーっすよ。オレ、佐久間先輩に物申してきます!」

 なんつって、こっちに向かってくる佐久間の方に勇み足を踏み出そうとしたのだが。

「待て、成神」
「き、鬼道先輩」

 その肩を掴んで止めたのは鬼道さんだった。い、いつの間に傍に立ってたんだろ……たまに怖いんだよな、こういうことされると。
 驚いて目を丸くしてるオレの傍ら、止められた成神は心底不足そうに眉を寄せている。

「何で止めるんすか? これ、誰かががつんと言わないといつまで経っても解決しないっすよ。それに、さすがに今の佐久間先輩はナイっす」

 コイツが鬼道さんに対してここまで反論するのは珍しい。つーか、多分入部して初めてだと思う。成神は基本的に先輩ってやつをバカにしてる節があるけど、鬼道さんに対しては一から十まで尊敬しかしてないし、最早絶対的レベルの服従心を見せていたってのに。
 対する鬼道さんは、そんな成神の態度にも眉一つ動かさない。どこまでも冷静な口調で、宥めるようにこう返した。

「いいか、成神。これは外野が何か言ったところで解決する問題ではないんだ。佐久間と江波さんのそれぞれが、自分で気付いて解決しなければならない」
「……佐久間先輩だけじゃなくて、馨も?」

 首を傾げる成神に、鬼道さんはこくりと頷く。

「ああ、そうだ。佐久間だけではなく、江波さんもまた、恐らく悩んでおられる。だからその解決策を二人が見つけられるまで、俺たちはいつも通りにしているのが一番良いんだ」
「……っす、了解っす」

 説得力の塊みたいな人からそう言い聞かせられてしまっては、このクソ生意気かつゴーイングマイウェイな一年坊主も大人しく引き下がるしかない。怒られたわけでもないのにしょんぼりしてる成神を余所に、鬼道さんは次に隣で呆けてばっかだったオレを見た。

「辺見にも、苦労をかけるな」
「いや、オレは別にどーってことねーっすよ」
「ふ、オマエらしい」
「それって褒められてます?」
「勿論だ」

 いまいち褒められてる気はしなかったけど、まあ鬼道さんがそう言うなら素直に受け取っておくか。
 オレは、ただマネージャーがマネージャーとしてちゃんと機能してて、佐久間との不仲が原因で辞めますなんてことにならなけりゃ何でもイイんだ。ザ・人工物でしかなく美味しくはねーけど喉を潤してくれるドリンクと、ひんやり汗を吸引してくれるタオルと、使いやすく整備された備品と、丁寧に洗濯されたシャツと、綺麗な部室があればそれでイイ。
 ああ、あとはそうだな、にっこり笑って「お疲れさま」って言ってくれるあの姿があれば、尚の事良しって感じで。
 それさえあればどーでもいいんだ。佐久間の不満も馨の悩みもスゲーどーでもいい。それさえあれば、な。

「さあ、そろそろ練習に戻るぞ。辺見、成神、二人とも次はDFとの合同だ」
「はい」
「はいっす」

 キャプテンの指示は絶対だ。
 即返事をしてから首にかけていたタオルを使用済み用のカゴ、飲み終えたボトルはボックスに返してから、オレは成神と共にコート内へと戻っていく。
 その際すれ違った佐久間の顔が死ぬほどめんどくさそうなことになってたけど、オレは敢えて、見ない振りをしておいた。


 約十五分に一回のペースで細々と水分補給をしていると確かに脱水症状は防げるんだけど、その代わりにちょっと便所が近くなるのが玉に瑕だと思う。
 休憩中に行くのを忘れてたため、ポジション合同練習の途中でオレは見事に催してしまった。はーもうめんどくせえ、尿意とかマジいらねーよ全部汗として流れ出てくんねーかな。……んー、いや、それはそれでキモイからナシだ。けど便所に行くのがめんどくせーってのは否定しない。
 帝国学園は設備が整ってる。そらもうどこの軍事施設ですかって具合に何でもあるし何でもできる。オレは初等部からこの学校にいるけど、入学式から数週間はずーっと迷子の恐怖と戦ってた覚えがあるな。あまりに広すぎるし、一見同じような廊下ばっかがずらーっと並んでるもんだから、入学初日にまず学園内の地図が配られる有り様だ。トイレの場所もご丁寧に地図でチェックつけてもらわねーと解らなくて、休み時間のうちに用を足せるかどうか毎回デッドオアアライブだったっつー全く良くない思い出話が一つ。
 一応、この部活棟――というより最早サッカー部専用棟――には一ヶ所だけトイレが用意されている。無駄に広いし金余ってるんだからもっと増やしてほしいぜ。わざわざグラウンドから階段下りて廊下突っ切って角曲がって、ってややこしいし地味に遠くてうんざりするんだ。だから尿意はウザいし、もっとこう、楽かつ綺麗な何かに進化してほしい。アイドルはうんこしない的なそういうやつに。
 ――とか何とか内心文句垂れつつも無事にトイレを済ませたオレは、その帰路にて、生まれて初めて尿意ってやつに感謝することになる。

「おわっ!」

 角を曲がったところで視界に飛び込んできたのは、グラウンドへ出るための階段、そこでジャグを抱えたままぐらりと後ろに倒れそうになる馨の姿。
 瞬間、心臓がバカみたいに大きく跳ね上がった。

「っおい!」
「……!」

 条件反射並みの速度で咄嗟に駆け寄り、すんでのところで両腕を使って馨の身体を受け止める。ずし、と圧し掛かってくるのは成人女性の体重……だけじゃなく、六リットル分のドリンクを詰め込んだステンレス製のジャグの重さだ。というかほぼそれだ。
 倒れると思い込んでいたらしい馨はぎゅっと目を瞑っていたが、ややあってから状況を把握したようでゆっくりと目を開け、すぐにオレを見上げた。

「へ、辺見……」

 ぱちぱちと瞬く二つの瞳が。オレをじっと見上げる真ん丸な瞳が、すぐ近く。
 その瞬間、オレの頭の中にはぶわっと一気にいろんな言葉が湧いて溢れて。

「あ、……あ、あぶねーじゃねーかよオマエ! ビビらせんなよマジで!」

 けれど結局、口をついて出たのはそんな台詞だった。

「ご、ごめんね、助けてくれてありがとう」
「ホントにな! つーかジャグくらい余裕で運べるんじゃなかったのかよ、おもくそふらついてたじゃねーか」
「ちょっと余所事考えてたから……本当に申し訳ない、もう大丈夫」

 完全にハの字に垂れ下がった眉毛を見てると、もうそれ以上小言を言う気にはなれない。余所事ってなんだよ、それ自分を危険に晒してまで考えなきゃいけねーことなのかよ、昨日のゴリラ自慢は何だったんだよ。まだまだ言ってやりたいことは山ほどあったはずなのに、オレの腕の中でしょぼくれている馨の姿を見ていると、言葉は全部喉の途中で爆発四散してしまった。
 あ、そうだ、オレまだコイツのこと抱えたままだった。
 と自己認識すると、何故か今更になって指先や肌を介して感触が伝わってくる。無我夢中すぎてそんなん感じてる場合じゃなかったから仕方ねーけど、それにしたって今更すぎだろ。
 まずまっさきに感じた肌の柔らかさとか、ちょっといい匂いがするとか、それは仮にも馨は女なんだから当たり前だし、オレもみっともなく興奮したりなんてしない。そういう対象じゃねーんだから、マネージャーは。成神みたいに「ドキドキしちゃいましたよー」なんてことにもならない。十四歳舐めんな。
 けど、少し気になったのは……なんか、思った以上に細いというか、華奢なんだな、この人。
 六歳も年上で、しかも初対面時に鬼道さんと並んだ際、鬼道さんに比べて背が高かったからあまり意識はしてなかったんだが、こうして腕で抱えてみると思った以上に、女子だ。大人の背格好なんだろうけど、日々サッカーで鍛え上げているオレからすれば、充分華奢な部類に入る。力入れたら簡単に折れちまいそうだ。

「……」

 身体の薄さ、肩の小ささ、腕の細さ。
 多分触れなきゃずっと知らないままだったと思う。
 微かに震える手、伏せられた両目、神妙に顰められる眉。
 オレたちよりうんと大人なはずの馨が、ちょっと余所事考えてた程度で階段から落っこちそうになるような人間だってことも、多分気付かないままでいたと思う。

「貸せよ、それ」
「え」

 ――どうでもいい、仕事さえしてくれてりゃ構わないただのマネージャー。有能っぷりを如何なく発揮してくれてる便利なマネージャー。例え悩みがあってもちゃんとやるべきことをこなしてくれるマネージャー。
 そんなマネージャーが実は案外脆そうなことを、全く以て不本意ながら知っちまったから、気付いちまったから。
 しゃーねえな、もう!

「オレが運ぶ。危なっかしくて見てらんねーぜ」
「いや、もう大丈夫だから――」
「あーあー聞こえねー」

 馨の身体を解放し、問答無用でその手からジャグを奪い取る。あんまり強くするとその衝撃でまた落ちそうだったから、できるだけ静かに、でも有無は言わせない。
 馨は呆けたツラでオレとジャグと自分の手とを交互に見ていた。なんだその顔、それでも二十歳かよっての。ちょっと笑いそうになるのを必死に堪えてポーカーフェイスを貫いた。
 そのまま何食わぬ顔で階段に足をかけていくと、馨も一歩遅れてすぐに後を追ってきた。さっきは気付かなかったけど、よく見たら肩からクーラーボックスも提げてやがる。時間的にそれ全員分のボトル入ってるな。そんなのバランス崩すに決まってんだろアホかとバカかと間抜けかと。一気にいろいろやりすぎなんだよ。

「あのな、程々にしとけよ」
「なに?」

 なに、じゃねーよ。無自覚かよ。一から十まで口にするとか、オレそういうのあれなんだよ、あんま得意じゃねーんだよ。大人ならそこんとこ汲み取れよ頼むから。

「だから……考え事もイイし気張って仕事こなすのもイイけど、怪我しねー程度になっつってんの! 自分でも言ってただろ、怪我すんな病気すんな無理すんなって。説教しといて自分がなってりゃ世話ねーよ」
「ああ、そうだよね……偉そうなこと言えた義理じゃないね、これだと」

 せっかく少しはマシな顔になってたってのに、またしゅんとしてしまう。いや原因はオレの言葉だけどさ、なんか違うだろ、その反応は。オレが思ってたのと違うんだよ。何でショック受けてんだよ。意外とメンタル豆腐なのかよ。てか別にそんな顔させたいわけじゃねーんだよオレは。

「あーもう、ちげーよ、じゃなくて、あれだよ」

 どう言えばいいんだろうな、こういうときって。普段から柄悪い連中とばっかつるんでるせいで、すぐに上手いこと情緒的? な言葉が浮かんでこない。軽口や悪口ならいくらでも出てくるのにそれじゃままならないんだ。意思疎通って難しい。何でこんな道徳の教訓めいたこと自己認識しなきゃなんねーんだよ。
 でも難しい。
 真に思ってることを相手に伝えるってのは、想像以上に、難しい。

「なんつーのか、あれだ……馨も、オレらと同じだろ。だから気を付けろって話」
「同じ?」
「そうだろ、どう考えても」

 マネージャーは、ただのマネージャー。
 でも、それがいないとオレたちは、少なくともオレは良くないんだ、具合が。

「さっきみたいにひっくり返って頭打って気絶なんてしたら困るだろ、……その、まあ、いろいろと」

 結構上手いこと言えたと思ったけど、最後がカッコよく締められなかった。なんだオレ、めっちゃ情けねーんだけど。どうしようもないムズムズ感が全身をミミズみたいに駆け巡って、つい馨から目を逸らして頭上の光へと視線を泳がせた。
 なのに、ほんの視界の端に入っただけのはずなのに、その表情がやけにはっきり見えたようでならなかったのは、何でだろう。

「確かに、そうだよね。……ありがとう、辺見」

 妙に久しぶりに見たような気がする、あの笑顔。
 いつも声を掛けてくれるときに向けてもらえる、あのやさしい笑顔。
 それがぱっと視覚に飛び込んできた瞬間、ぐぐっと急激に体温が増したのは、きっと絶対気のせいだったはず。

「……ッ、別に、どーでもいいし!」
「あ、走ると危ないよ」
「オマエが言うなし!」

 ふ、と背後で小さく零される笑みも知らない振りして、オレは全力で階段を駆け上がった。




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