大好きな彼らのために


「なぁ馨、解るだろ? この技はもう二度と使っちゃいけない」

 少年は言った。
 静かに、感情を押し隠すように言葉を紡ぐ。

「この技は勝利を齎す代わりに、オレたちに悲劇を与えるんだ」

 少年の視線の先には、黙って無人のグラウンドを見つめている少女の姿があった。触れたら壊れてしまいそうな雰囲気なのに、眼差しは揺るがない。無表情の彼女は眉一つ動かさず、一見話を聞いているのかすら危うい様子だった。
 しかし少年は語る口を止めなかった。今、少女の胸に発言の一言一言がゆっくりと落ちていっているのを、外側からでも認識していたからである。

「オレたちが欲しい勝利は、こんな悲しいものじゃない」
「……もっと早く、気付けば良かった」

 少女が蚊の鳴くような、震える声を漏らす。少年は彼女の肩に手を置いた。

「今から変われば良い。馨、オレたちは変わらなければいけないんだ。先輩の二の舞にならないように」

 そのためにはあの技を闇へ葬ってしまわないといけない、と続ける少年。声音には鋭さが含まれている。
 掴まれた肩に僅かな痛みを感じ、しかし少女は彼に対して何も言わない。ただ、毅然とした強い瞳に決意の色を宿し、その目を閉ざした。

「――過ちは、繰り返さない」



* * * * *


「あ、おかえりなさいっす。鬼道先輩、馨!」

 御影専農から帰還した二人を真っ先に出迎えたのは、ちょうどベンチにて休憩の最中だったらしい成神だった。馨が事前に用意しておいた成神専用のボトルを片手に持ったまま、わざわざ階段入り口にいる二人のもとへと駆け寄ってくる。何となくペットの犬みたいだと思ったのは、恐らく馨だけではないはずだ。
 そんな何てことのない、普段と変わらぬ日常風景。馨にとって、最早当たり前に感じられるその姿。
 昨日までは苦しくて目を逸らし続けていたそれも、今ならばちゃんと、向き合うことができる。

「ただいま、成神」

 膝を折り、しっかりと目線を合わせて、微笑む。
 たったそれだけのことなのに、少し前まではできても当然のことだったのに。
 馨にとって――そして成神にとって、このほんの些細な行動は、とても大きな意味を成した。

「……馨……」
「江波さん……」

 成神だけでなく、それを見ていた鬼道もまた、少し驚いたように馨のことを見つめている。
 その視線と、吐息混じりに紡がれた己の名に込められたものを、馨はきちんと受け止めなければならないだろう。二人にこんな反応をさせる程に迷惑をかけたという自覚と、数刻前に土門との会話で見つけた感情とを併せて。
 心配かけてごめんね、もう大丈夫、もう迷わないから。
 そんな思いを見つめ返す眼差しに乗せて、瞳を細める。

「さあ、練習しよう。明日の竜宮中戦に備えなきゃ」
「お、おう!」

 ぐっと握り拳をつくれば、やや呆け気味だった成神ははっとして同じく拳を掲げた。仄かに色づく頬、そして気のせいでなければ若干濡れた双眸を隠すように背を向けて走り去っていった背中を眺めながら、馨は隣で動かないままの鬼道に、そっと呟く。

「私、ここでしかできないことを見つけたいんだ」

 唐突な話だったが、鬼道が微かに息を呑むのが判った気がした。

「ここでしかできないこと、ですか?」

 二人の見送った先で、成神は同ポジションの先輩にタックルをかまして早速怒られている。それを無視して興奮気味に何かを伝えようとしている姿を見ていると、馨の口元には自然と笑みがこみ上げてきた。
 本当に、本当に、何もかもが今更すぎて情けないくらいだけれど。

「そう。ここでしかできないこと、……大好きな皆のために、できること」

 心から好きだと思える、大切だと思える、彼らのために。
 今の自分にしかできないことをしようという決意と覚悟を固めて、もう一度、この地を踏み締めたい。
 そのためにここへ帰ってきたといっても、過言ではなかった。

「それで佐久間くんとのことが解決するって保証は無いかもしれないけど、でも、私はもう逃げたくないし、諦めたくもないよ。ちゃんと向き合おうって決めたから」
「……そう、ですか」

 鬼道の返事は端的なようで、それでいてどこか安堵したかのような響きを持っていた。
 真っ直ぐにグラウンドを注視する馨を見上げたゴーグルのレンズが、天井の照明を反射させて淡い光を宿す。

「江波さん、俺は正直、今のままの貴女でも良いと思ってはいます」
「そっか」
「はい。しかし……江波さん自身がそうありたいと考えておられるなら、否定もしません」
「ありがとう、鬼道くん」
「ただ」

 これだけは、という意思の込められた一言に、馨も眼下の少年へと向き直る。
 彼は暫し逡巡するように顔を伏せたと思ったら、またすぐに馨を見据え、強く射抜いた。

「どうか、自愛するということは、忘れないでいただきたいです」
「……了解」

 彼が抱いてくれる確かな憂いを無下にはせず、しかと首肯する馨。
 この先にどんな未来が待っているか、自分の見つけたものがどんなものなのか、それを知らないからこそ交わせる無神経な約束だったかもしれない。
 それでも、少なくとも鬼道はそれで安心してくれたようだから、今はこれで良いのだ。彼の優しさを素直に受け取って笑えたことだって、一つの大きな進歩である。

 ――そんな約束を、結果的には破ることになったとしても。
 鬼道は怒るかもしれないし呆れるかもしれないけれど、馨自身はきっと、なにも後悔をしないだろう。


* * * * *


 その翌日は、予定通り帝国と竜宮中との予選二回戦が行われた。
 のだが、何故か相手チームは試合前からかなり萎縮しきった様子であり、結論から言えば帝国は二十点という大量得点での勝利を掴むこととなった。試合展開自体も最早ゲームとして成り立っているとは言えないもので、竜宮中サッカー部は半ば崩壊状態でほぼ機能していなかった。あれだけ頑張って仕上げた《ツインブースト》を使うまでもなかった程だ。次の予選三回戦のためにチーム力を温存できた、という見方をすればプラスとなる試合だったのだろうが、馨にはどうもきな臭く感じてしまってならなかった。
 御影専農中の一件で、影山が他校にまで権力を拡大させているということは了解済みだ。それと今回の竜宮中の異様さを併せてみれば、自ずと答えは見えてくるであろう。
 あの男がやっていること、あの男ができること。ひいては――帝国学園サッカー部が何故、四十年間無敗という偉業を成し遂げることができたのかという、その最もたる理由。
 無論、サッカー部員自体のスキルの高さやプレーの鋭さ、チームの統率力、そういった勝因もあること自体は間違いない。贔屓目無しに見ても帝国の選手は皆が皆ハイレベルだし、元々全国相手でも充分戦っていけるだけの素質は有している。何もしなくても、卑怯な手段なぞ使わなくても。きちんとトーナメントを勝ち上がる力は備わっているし、そのために皆日々の辛い練習を耐え抜いてきているのだ。
 しかし、馨は知っている。そんなチームを率いるあの男、影山の理念を。“『完璧な勝利』にのみ価値がある”という、その歪んだ価値観を。
 影山のやっていることは、そんな裏事情までもを把握していないメンバーたちの努力や信頼を踏み躙る行為だ。憤らないわけがない。悟った瞬間、すぐにでもあの薄暗い陰湿な空間へ殴り込みに行きたいと思った程に。
 でも、今の馨には彼に立ち向かえるだけの力は無く、また、そんな話を皆の前で公表できる立場でもない。寧ろ余計なことをすれば事態を悪化させ、チーム全体を危険に晒す可能性だってある。結局のところ、馨はあの男の監視下では何もすることができないのだ。

 ――影山は、勝利のためならば何だってする。どんな非道な行いだって平気でする。
 そのことを知っているのは、現時点では恐らく、馨だけだ。
 そんな馨が今、唯一できることは、少しでも皆をあの男の魔の手から――守ること。


「新必殺技?」

 月曜日、いつも通りに行われている練習。
 ベンチ前の芝生に座り込んでボールを拭いていた手を止め、馨は鸚鵡返しをしながら頭上を仰いだ。

「はい。円堂守の《ゴッドハンド》対策だそうです」
「あー、なるほど」

 雷門が妨害工作すら突破して準決勝に進出したことで、さすがに影山も帝国サッカー部の戦力について一考せずにはいられなかったらしい。そういえば、以前《ツインブースト》の練習を始めた際に、鬼道がこうなることを仄めかすような発言をしていたことを思い出した。一応あの頃から、万が一のことは考えていたのだろうか。
 持っていたタオルを放って立ち上がる馨に、鬼道はあのときと同様、ご丁寧に折り畳まれた一枚の紙を手渡した。そしてすぐにグラウンド全体へ「集合!」と声を張り上げ、一旦全員をその場へと集結させた。
 程無くして半円に並んだ帝国イレブン。練習中の招集はなかなか珍しいため、皆不思議そうな顔をして待機している。

「ミーティング?」
「さぁ。また新必殺技とかじゃないか」

 そんな誰かと誰かの会話を小耳に挟みつつ、馨は紙を開いてその中身へと目を通した。
 タイトルは『帝国サッカー部・新必殺技考案』――これは前と同じだ。その下に続く前置きもフォーマットとしての定型文で、末尾にはさっき鬼道が言っていたものと同じく『対雷門中を想定』という記載がされていた。
 さて、それでは本題の新必殺技とは、一体どんなものなのか。
 つつ、と下げられた視線が、その名前を捉えた――瞬間。

「ダメだッ!」

 周囲のざわめきを一瞬で掻き消す怒号が、馨の口から飛び出した。

「江波さん?」

 唐突に声を荒げた馨に、すぐ傍にいる鬼道がおっかなびっくりといった調子で声を掛ける。
 しかし馨はそんな彼に気を遣うことができない。今自身の目で見たことが信じられない。紙を握る手が震える。脳が揺れる。
 ただ、ただ、心臓がものすごい勢いで早鐘を打っている。

「鬼道くん、これはダメだ。絶対に使っちゃいけない」
「どうしたんだよ、馨」

 あまりにも突然様子の変わった馨に、周囲も戸惑いを隠せないでいる。何をいきなりダメだと言い出したのか、成り行きを把握している鬼道以外は全員馨の持つ紙へと視線を動かした。そして先程の台詞からして、そこに書かれているであろう内容が新しい必殺技のことだと気付き、またどよめきが起こる。

「総帥からの必殺技の提案か?」
「あ、あぁ」

 辺見の問いにとりあえずはそう答えた鬼道。
 次いで隣で険しい顔をするばかりの馨を見遣り、説明を求めるように小さく眉を顰めた。

「江波さん、どういうことですか?」

 中身を見るなり怖いくらいの勢いでダメだと繰り返すのだ。その必殺技の名前しか知らない鬼道は、馨の変化にまだ頭が追いつけないでいるらしく、戸惑いと不穏の入り混じった顔をしている。
 対する馨は、漸く手の震えを抑え込み、紙を二つに折って強く握り締めた。
 そして、説明を待つ彼らをぐるりと見回してから、最後に鬼道を見た。

「……この技は、昔、私たちの代に影山が考案した技だよ」
「なのに、何でダメなんだよ」

 そう噛み付くのは佐久間だった。他がただ聞いているしかない中で、唯一尖った声音で馨を追及する。同じ時代の必殺技である《ツインブースト》を習得した立場として、そして何より馨へ未だ不信感を持っている者として、当然の疑問なのかもしれない。
 それは随分と久しい気がする彼との会話だった。だからこそ、馨は思わず目を伏せた。口にしなければいけないはずの言葉たちが、渇いた喉の途中でばらばらに散ってしまっていく。どう言えば良いか解らない。どう伝えれば彼に納得してもらえるのか、解らない。
 それでも、何とか拾い集めた単語で、気を鎮めながら台詞をつくりあげる。ここで黙ってしまうことだけはしてはいけないと自分を叱咤して、必死に頭を働かせる。
 そうしてやっと口にする瞬間、氷が滑り込んだような冷たさが、心の中に落とされた。

「……悲劇が起きた」

 今、馨の手元にある紙に記された、とある必殺技。
 ――この技を使ったことで、悲しい命運を辿る人が出てしまった。

「だから、私たちはこれを封印した。二度と同じことが繰り返されないように」

 紙を握る手が再び震え出す。
 掘り起こした記憶が弾ける。
 忌々しさすら覚える名、二度と思い出すことはないはずだったその名を見てしまったことで、心臓は今や痛いくらいに強く激しく高鳴っていた。鼓動は直接脳髄を刺激し、鈍い響きでぐらぐらと頭を揺るがす。
 馨が苦い顔をして奥歯を噛み締めれば、それまで困惑を映していた少年らの表情に、今度は不安の影が表れた。

「悲劇って……具体的には?」

 沈黙を掻き分けるようにして、源田が恐る恐る問う。メンバー内から声が出たことで重苦しい空間が微かに歪む気がして、周囲が少しだけ緊張を解くのが感じ取れた。
 馨はぎゅっと唇を噛み、伏せていた目を再び少年らに向ける。彼らに答えようとするその目つきは、いつになく鋭利で、悲しみに溢れていた。

「二度と、サッカーができなくなった」

 たったの一言。
 だが、それはこの場に於いて何よりも重たい意味を持つ一言で。

「二度と……って、それは、つまり」
「私は、この技が使用者に対してどのように作用するのかは解らない。どんな現象が引き起こされるのかも解らないし、原因が何なのか、そのとき生じる感覚も知らない。私自身は、これを使ったことがないから」

 でも、とさらに続ける。

「これが使用者を“殺す”技であることだけは、はっきりと断言できる」

 比喩でも何でもなく、そのままの意味で馨は今の台詞を口にした。恐らく、誰もそれを冗談だとは捉えていないだろう。そう捉えることすら許さないという思いで言い切ったのだから。
 あまりにも酷な、しかし真剣すぎるその言葉。聞いているメンバーも、馨の語る過去の事情を知らない身でありながら、それでも面持ちを硬くせざるを得なかった。
 ――影山が作り、馨たちが封印した禁断の技。足を失うまでの何かを秘めた技。
 名前すら不明。一体どんなものなのか、サッカープレーヤーである部員たちに興味が無いわけがない。もしもこんな空気でなかったのなら、誰かが“少しくらいは”という考えで疑問を声に出していたはずである。
 だが、そんなことできなかった。
 興味以上にここには触れてはいけないという気持ちが強くて、誰一人として技の詳細を聞こうとはしない。過去を知る馨が強く否定する技だからこそ、本気で使ってはならないのだろうと察し、それより先へ進むことをやめた。
 ――彼を除いては。

「――いい加減にしろよ」

 ぴしりと、凍り付いていた空間に入る一筋の亀裂。
 発言したのは、佐久間だった。

「また六年前かよ。オマエたちが経験したことを、何でもかんでもオレたちに押し付けんな」
「……佐久間くん」

 このまま徐々に溶けて消えてしまうだけだった雰囲気を一気に突き崩し、数歩で馨の正面へと歩み出る佐久間。眼帯に隠れていない瞳を鋭く尖らせ、突然の言動に面食らってしまう馨を強く睨みつけた。

「オレたちはオマエの過去とは違うんだよ! 同一視されたって迷惑なだけだ!」

 佐久間、と誰かが制止する声がしたが、彼は構わず先を紡ぐ。

「その必殺技だって、オレたちならできるかもしれないだろ!」
「……!」

 ――佐久間の言うことなら全て受け入れるつもりだった。真っ正面から言ってくれるなら、きちんと聞き入れて己への戒めにしようと、馨はそう思って今も口を閉ざしていた。
 だけれども、今の言葉にはさすがにこのままだんまりを通すわけにはいかなかった。

「絶対ダメだよ、この技のことは忘れなきゃいけない」
「それは過去の話だ。今は違う、何もかも違うだろ! 一緒にするな!」
「そういう話じゃない! 過去がどうとか、私はそんな気持ちで言ってるわけじゃない! これが本当に危険な技だから、私は――!」
「結局オマエはそうやって自己満足に浸ってるだけなんだよ! オレたちに自分のやってきたこと重ねて、オレたちのことを否定してる! 最初からずっとそうだった!」
「違う、佐久間くん、違うよ! そんなんじゃない!」
「違わねーよ! いつまでもいつまでも過去のことばっか考えて、今もこうして勝手に独りで完結させて!」

 一気に激しさを増す言い争い。互いに譲らず真っ向からぶつかり合う言葉は、さながら刃のように互いの心を傷付ける。特に佐久間の憤怒は凄まじく、これまでずっと溜め込んできたその全てを吐き出しているのは一目瞭然だった。馨の言うこと一切を撥ね退け、聞く耳を持たない。
 気付けば傍観者となっていた他の部員たちは、どうするべきかと狼狽えることしかできずにいた。あの鬼道でさえ、二人が交わす言葉を呑み込むので精一杯だ。それでもここで制止に入るという選択を取らなかったのは、心のどこかで、ここが馨と佐久間の問題の終着点になると解っていたからなのだろう。
 馨にももう、周りにいる人間の存在は見えていなかった。意識の中にはただ一人、佐久間だけが相対している。手に握り込んでいる紙が、喋るたびにますます皺を増やしてくしゃくしゃになっていく。だがそんなことはお構いなしに、とにかくひたすら思いつく言葉を口にするしかない。

「確かに私は君たちに過去を重ねていた。自覚もあった。君たちには謝らなきゃいけないって思ってた。でもこれは違う! 君たちがあんな目に遭うのは嫌なの!」

 もう、必殺技を使わせないことで過去と同一にして自己満足しようとか、投影しようとか、そういう次元の話ではない。過去と今が全く違うものであっても、この技を使った者の末路だけは決して変わりはしないのだということを、馨は痛いくらいに解っている。知っている。この身を以て、体感してしまったから。
 例え、これが佐久間には過去への投影に見えていたとしても、それによって再び彼を傷付けていたとしても、絶対に折れるわけにはいかなかった。間違ったって頷いてはいけない。逃げてはいけない。佐久間自身を守るためにも、絶対に。
 ――《皇帝ペンギン1号》。
 誰も習得してはならない、二度とサッカー界に現れてはならない、禁断の技。

「お願いだから聞いてよ! 絶対ダメなんだ、これだけは、本当に!」

 荒れすぎて最早掠れてしまう声を振り絞って、たった一つ、心からの懇願。どんな責任でも負うから、と縋る瞳で佐久間を見構える馨。
 そんな姿に一瞬苦しそうに顔を歪めた佐久間は、やがてかち合っていた目線をゆっくりと外し、小さく呟いた。

「……信じられない、オマエのこと」


 ――それが、引き金となった。


「……鬼道くん、ボール貸して」
「江波さん?」

 鬼道の傍らに転がっていたボールを受け取った馨は、そのまま真っ直ぐフィールドへと向かっていく。あれだけ熱を募らせていた頭は瞬時に冷え切り、もう空っぽだった。いや、実際にはいろんなものがそこには溢れ返っていたのだろうけれど、それを認識することはできなかった。今は、何もいらないと思っていた。ただ一心に、足は芝生を踏み締める。
 この急展開にすっかり置いてけぼりになってしまった周囲は、殆ど無意識に、黙々と歩みを進める馨を目で追っていた。そして馨がちょうどフィールドの真ん中、センターマークの上にボールを置いたとき、漸く事態の重大さを把握したようで。

「アイツ、まさか……」

 寺門の漏らした一言に、全員の頭にある予感は大きく膨らむ。

「皆、よく見ておいて」

 遠くからでもしっかり通る声で、ベンチ前から動けずにいるメンバーたちの意識を集中させる。その言動で、自分が今から何をする気なのか推察するのは決して難儀ではなかったはずだ。
 まさか、と。
 いの一番に察したらしい鬼道が、即座に声を張り上げた。

「江波さん! 貴女がやる必要はない!」

 あれ程までに使ってはいけないと言った技を、その本人が実際にやろうとしている。得体の知れない恐怖が鬼道の、そして顔を強張らせるメンバーを包み込んだ。
 馨は鬼道の制する声を敢えて無視し、軽くストレッチを行った。身体を解す間、脳に蘇るはかつての友人の姿。大好きだった、その笑顔。

「……木原、ごめんね」

 ――彼らのために、もう一度だけ私にボールを蹴らせて。

 瞼を下ろしてすうっと息を吸い込み、丁寧に吐き出す。肺の中に停滞していた空気を全て新しいものに入れ替えて、瞳は再度、光を感知した。
 見下ろす先にはサッカーボール。もう六年も自主的に蹴ることをしなかったそれを前に、馨は今や、魂そのものが打ち震えるような痺れを感じた。ここに在るのは喜びでも嬉しさでもない。心が泣いている。激しい使命感と合わさって、どうしようもない哀しさが横たわっていた。
 ――あれ以来初めて撃つのが、まさかこの技になるなんて。
 一度も使わずに封印したのに、時を越えた今になってよもや自らが使うことになるとは思いもしなかった。心臓はいっそ恐ろしい程に落ち着いた鼓動を奏でている。そう、恐怖もないし、後悔もしない。
 自分が今、今この場だからこそ、彼らのためにできること。
 それがまさにこれなのだろう。この瞬間のために、自分はここに来たのだろう。ある意味それは因果的で、運命的で、――絶対に、やり遂げなければならないことだ。
 最後に、感情を掻き消すために自嘲めいた笑みを僅かに浮かべ、トントンと爪先を地面に打ちつける。
 準備は、整った。

「……」

 ふっと、馨が纏う気配を一転させたのを悟って、数多の視線が一切ずれることなくその身を射抜く。佐久間も例外なく、目を逸らせずにいた。
 一瞬の沈黙。
 程無くして、馨が動き出した。

「……ッ」

 ピューイと高らかに指笛を吹けば、それが合図だったように地面から赤色の体躯をしたペンギンがぼこぼこと姿を現す。目つきは鋭く、雰囲気は決して穏やかではない。
 召喚された五匹のペンギンたちは間を置かずして、高く振り上げられた馨の足に容赦無く食いついた。
 その瞬間、尋常ではない程の激痛が走って思わず悲鳴をあげそうになる。自分の足が刃物でずたずたに切り裂かれる感覚に涙が滲む。意識が遠退きかける。しかし死ぬ気でそれを堪え、ペンギンによって着実に高められる巨悪なパワーを必死に右足へ押し留め。

「皇帝ペンギン……ッ」

 その名を紡ぐと同時に足を振り下ろせば、グラウンド全体に鋭い衝撃が駆け巡り。
 はっと目を見張った佐久間が、咄嗟に一歩踏み出した。

「っやめろ、撃つな!」
「1号ッ!」

 反射的に飛び出た佐久間の声は、捻り出すような馨の叫びに掻き消された。
 そして、足がボールに衝突するその瞬間。

「――ぁ」

 馨は自身の身体が壊れる音を、確かに聴いた。


 強く蹴りつけられたボールはペンギンを纏い、これまで見たこともないくらい強烈なシュートとなってゴールに突き刺さった。ネットに受け止められても尚勢いを失わない、禍々しいまでの絶大な威力を持ったシュート。威力だけでなく、その全てが表現し難い程の恐ろしさを放っていた。
 あの悪魔のような真紅のペンギンたちが消え去り、やっと勢いを失ったボールがてんてんと地面を転がっていく。なのにも拘らず、傍観者たちは依然言葉一つ発することができなかった。すごい、のに、見ているこちらの心が酷くざわめいてならない。何と言って良いのかが解らない。
 ――あれが、禁断の技。
 今まさにそれを目の当たりにした佐久間は、全身が麻痺してしまったかのように動けずにいた。どうしてこうなったのか、そんなそもそもの出来事すら忘れ呆け、意味不明な痺れに身を縛られるばかりだった。

「……馨?」

 そんな中、ふと成神が名を呼んだ。彼らしくない、今にも掻き消えそうな、小さな声だった。
 そのおかげで意識が不安定なところから現実へと戻り、馨のいるセンターサークルへと視線を移した佐久間。
 目に映る光景に、思わず息を止めた。

「……な」

 ――彼女はそこに、倒れていた。

「江波、さんッ」

 茫然とする佐久間の視界の隅で赤色が動き、それは真っ先にセンターサークルの中に入って緑の芝生に彩色を広げた。続いて他の者も皆、口々に馨の名を呼びながらそちらへと駆けていく。焦り、心配、不安。様々な感情を一纏めにした顔ばかりが、彼女のもとへと駆け寄った。
 あっという間に独りになってしまった佐久間は、それでもまだ、動けなかった。

「大丈夫ですか!? 江波さん!」

 真っ先に駆け寄った鬼道は、右足を抱えて悶絶している馨に必死になって呼び掛ける。辛うじて意識はあるものの、激痛に耐えているのか脂汗が酷い。さらに、悲鳴をあげないためなのか、欠けてしまうのではと思う程に歯をきつく食い縛っていた。
 状況を理解してからすぐに大野と五条へ担架の用意をするよう指示を出し、何か冷やせるものはないかとベンチを見遣ろうとする鬼道。そのとき、半ば地面に擦りつけるような状態だった馨の顔が上を向き、仄かな笑みを湛えて鬼道を見据えた。

「ねぇ、解った……?」

 諭すように目が細まる。

「これは、人を壊す危険な技ッ、なんだよ……。初めて蹴って解った、本当に、ダメなんだ、って……」

 息も絶え絶えにそう語る。喋ることすら辛いはずなのに、それでも単語と単語を懸命に繋ぐ。
 苦悶を押さえつけてまでして表れるのは――笑顔。見ている全員は、ただただ呆然とする他無かった。
 ただ、鬼道だけはきつく眉を寄せ、やり場の無い情念を投げ打つように馨を睨む。

「だからといって、貴女が蹴ることは……!」
「だって、君たちにこんな痛み、味わわせたくない……うぐぁッ!」

 言葉の途中で、とうとう耐え切れずに苦しげな声を漏らす馨。短い呻き声だったが、今ここにいる者にとっては心臓を止めかねないくらい恐ろしいものに聴こえてしまう。洞面が大丈夫かと声を掛けても、もう返事は得られなかった。
 直後にやって来た担架に乗せられて、馨はそのまま医務室へと運ばれていく。グラウンドが見えなくなる寸前、馨は何とか痛みを堪えてベンチへと目を遣った。

「……」

 そこには、絶望的な顔をした佐久間が立ち尽くしていた。半開きとなっている口は言いたいことがありそうにひくりと動くだけで、結局何も伝えることはしない。すっかり見開かれた橙の瞳が、担架の上で横たわる馨を見つめている。
 そんな彼と少しの間だけ視線が交わった、たったそれだけでも充分で、馨はふっと微笑んで目を閉じた。
 これで良かったのだ。
 迸る激痛に苛まれる全身が、それすらも上回る安堵感で満たされるのを。
 確かに、感じることができたから。




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