五日間の入院生活


「バカかと思えば、大バカだったか」

 しんと静まり返った病室の中、男は感情の読めぬ低い声音で呟いた。
 彼の視線の先には丁寧に処置の施された足、そして瞼を閉ざし深い眠りに落ちている馨の寝顔。何の苦痛も感じていない、あどけなさの残る安らかな相貌。耳をすませば、穏やかに繰り返される小さな寝息が聴こえた。
 開け放たれた窓からは爽やかな風が流れ込んでいる。明るさと、微かに漂う花の香り。この空間は一種の聖域の如く、彼女をやさしく包み込んでいた。
 (おもむろ)に、男の手が馨の顔に伸びる。歳を感じさせるかさついた指先で、肌の表面を掠るように滑らせる。何かを確認するように、顔のパーツ一つ一つに触れながら。
 そして、その指が色の良い唇に触れかけて――。

「バカ者めが」

 彼は身体を背け、そのまま病室から出ていった。


* * * * *


 その日の夜、馨は病院の真っ白なベッドの上にいた。

「入院は五日間だけで大丈夫らしいから、次の美夕帝中との試合にはちゃんと間に合うよ。一回しか使わなかったおかげで致命傷にはならなかったみたい」

 これって不幸中の幸いってやつなのかな、と呑気に付け加え、お見舞いに貰ったメロンを一口食べる。結構な高級品なのか、甘さがこれまで食べてきたメロンとは一味違うように思えた。頬っぺたが落ちる、とはまさにこのことだろう。思わずにまにまと緩む表情筋を抑えられなかった。
 これがただの入院なら、甘味を楽しみつつ見舞い客と他愛もない会話で談笑――できたのだが。

「……」

 椅子に座って腕組みをしている見舞い客の鬼道は、ひたすら無言のまま、眼差しだけで彼女を責めている。
 ちくちくと針で刺されているような感覚にいい加減耐えられず、馨は音をたてぬよう、そっとフォークを皿へ戻した。

「……心配かけて、ごめんなさい」
「まったくですね」

 何だか久々に聴いたような気さえする声は明らかに苛々していたが、それは馨を心配したが故なのだということに心配される本人はきちんと気付けている。だからこそ、頭を下げて今日の行動を詫びるしかなかった。
 ――あの後医務室に運び込まれた馨は、半ば意識を飛ばした状態ですぐさま病院送りとなった。
 そこで治療と検査を受けて判明したのは、《皇帝ペンギン1号》は筋肉の組織そのものを破壊してしまう恐ろしい技だということ。馨本人の言うように、一回だけだったからただの入院レベルで済んだのだ。もしあれ以上使用していれば、まず間違いなく二度と歩行はできなくなっていただろうと医者は言っていた。それでも僅かながら既に破壊された筋肉組織を元通りに回復させるため、五日間という決して短期ではない入院期間を要してしまうことにはなったのだが。
 あの瞬間、自身の脚が悲鳴をあげる瞬間。
 二度とは経験することのないそれを、馨はこの先一生忘れることはないだろう。

「俺は言いましたよね、『自愛してください』と。あのほんの数時間前に、確かに貴女に言いましたよね」
「はい、確かに聞きました」
「その結果が、これですか」

 鬼道が溜め息を吐き、吊された馨の右足を見る。

「……あんな、危険なことをする必要は無かったのに」
「いや、ああでもしないと佐久間くんは納得してくれなかったよ」

 返す口調には一切の後悔も無い。自身の身体を壊しかけたにも拘わらず、馨はいつになくすっきりとした気分でいられた。
 あのとき、溜め込んでいた心境を一気にぶちまけた佐久間は、馨への不満と己の意地とが混ぜこぜになって暴走気味だった。それは傍から見ていた鬼道にも判ったことだったろう。本当の意味で暴走したのは馨だったが、そのきっかけをつくったのは佐久間である。馨を信用せず、意固地になって聞く耳を持たない。そんな彼を強引にでも納得させるには、実際にその脅威を肌で感じさせるしか方法が無かったのだ。
 いちいち説明せずとも鬼道だってそんなことは解っているだろう。馨の意見を肯定すべく頷いた鬼道に、馨の口元も微かに綻んだ。

「ただ、約束を破ったのは本当に悪いと思ってる。ごめんね、鬼道くん」
「いえ、もう……それは、いいんです」

 ゆるく首を振って零されたそれは、一種の諦めのようにも聞こえた。実際、鬼道は諦めたのだと思う。馨がそういう人物であるということを、この一ヶ月弱程度の付き合いの中で彼なりに理解したらしい。しかし彼の纏う雰囲気は突き放すという程冷たくはなく、どちらかといえば仕方ないなと許容する、そんなあたたかさを孕んでいた。

「寧ろ、本当は感謝しなければならないのでしょう、俺たちは」
「感謝?」
「貴女が身を挺してあの技の脅威を知らしめてくださらなければ、もしかすると佐久間が使用することになっていたかもしれません」

「あれはシュート技ですから」と続ける鬼道。
 確かに、《皇帝ペンギン1号》は単独シュート技な上に飛距離もそんなに長くなく、また並み大抵以上の相当な脚力を要する技だ。万が一使用するとしたらFWの佐久間が適任であろうし、もし馨があれの齎す悲劇を知らずにいた場合も、やはり佐久間を使用者として抜擢していたに違いない。
 そんな“もしも”の想像ですら怖気が走る。薄い入院着の下で無意識に立った鳥肌を手のひらで擦り、馨はしみじみと、脳裏に過ぎるものを掻き消しながら言った。

「そうならなくて、本当に良かったよ。例え勝利のためだとしても、自分の身体を犠牲になんてしてほしくないしね」
「ええ、それは俺も同感です。……だから、俺たちは江波さんの過去に救われました。ありがとうございます」

 感謝の言葉と同時に、鬼道の膝上に置かれている握り拳にやんわりと力が込められる。馨はどんな顔を浮かべるのが適切なのか少し迷った挙げ句、へらりと脱力したような笑みを浮かべて「どういたしまして」と返した。
 鬼道の言葉によって、自分の行動が自己満足だけに終わらずきちんと彼らの役に立ったのだと、そうはっきり感じることができた。自らの生きた過去を、ただの幻影ではなく今現在のために活かすことができたのだと。それが嬉しかった。もう、今に過去を投影するような真似をせずとも、ここでちゃんとやっていける。そんな確信を持てて、心が安らぐ思いがした。
 馨は再びフォークを手に取り、メロンの欠片に刺し込んだ。「鬼道くんも食べる?」「いえ、それは江波さんのために買ってきたものですので」という会話を交えつつ口に運ぶと、またもや暴力的な甘さに頬が落ちかける。美味しい美味しいと言って喜ぶ馨を、鬼道はまるで兄にでもなったような目つきで見ていた。

「それで、その後は?」

 メロンを全て食べ終えたところで、話を再度元に戻した。

「あの技は、もう一度封印することにしました。すぐに総帥へお返ししましたので、誰も詳細は知りません」
「佐久間くんは?」
「アイツも了承しています。相当ショックを受けていたようですから」

 去り際に見た佐久間の表情を思い出せば、それもそうだろうなと納得できる。彼には可哀想な光景を見せてしまったのだろうけれど仕方ない。これは多分、帝国サッカー部が必ずや通らねばならない道だったのだ。

「そうなんだ、なら良かった。安心したよ」

 あの技の使用を拒否したことを影山がどう認識したのかはさておき、彼らがそんな選択をしたことに心底安堵した。ほっと一息吐くと、鬼道は当然でしょうと言いたそうにゆっくり一つ首肯した。
 ――皆のためなら、私の足なんて。
 口にすれば間違いなく怒られるので、胸中でそっと呟くだけにしておく。自己満足の次は自己犠牲かと誰かが笑う声がしたが、結果的に彼らのためになれれば今となっては何でも良かった。今回は未然に防げたものの、あの総帥の下にいる限り選手は脅威に晒され続けることになる。その都度、馨は馨のできる最大限の手段で、皆の身を守っていくだけだ。
 ただ、マネージャーの仕事が五日間もできなくなってしまうことだけは辛い。せっかくつっかえていたものが取れた矢先にこれでは、皆にかける迷惑のことを考えただけで頭痛がする。さらに私事ではあるが、大学も休まなければならないのでその間の補完が大変だ。――禁断の技を使った代償だと思えば、こんなものほんの些細なことなのかもしれないが。
 後悔はしていないにせよ、今回の行動が後先考えないものであったことに違いはない。そこは、馨もきちんと詫びなければならないことだろう。

「私がいない間、また誰かが雑務をやらなきゃいけなくなるよね。皆にも、迷惑かけてごめんって伝えておいてくれないかな?」
「一応お伝えはしますが、誰も迷惑とは思っていません。元々自分たちでやっていたことでもありますし、江波さんが気に病む必要は無いですよ」
「それなら……お言葉に甘えさせていただきます」

 これ以上遜るのもどうかと思われたので、ここは鬼道の言うことを大人しく受け取っておく。ぺこりと軽く頭を下げれば、見えないところで鬼道が微かに笑い、続いて「しっかり完治させることが先決です」と説得力しかないことを言った。
 とりあえず、馨自身のことも帝国サッカー部側のことも、これで何とか落ち着きはしただろう。
 それからの会話は、今後のスケジュールやトレーニングメニューをざっと確認するといった具合の事務的な内容ばかりであった。
 今週末に行われる美夕帝中との予選三回戦目は、日付的には雷門の試合と同日ということになる。鬼道は別に雷門側を観に行っても構わないと言ってくれたが、さすがにそこで易々と頷くような人間ではない。勿論、帝国サッカー部マネージャーとして同行するに決まっている。その旨を伝えると、彼は「言うだけ野暮でしたね」と、その返答すら解りきっていたような微笑を返した。
 そして時計の短針が来たときよりも半分程進んだところで、鬼道は話に区切りをつけて音も無く立ち上がった。

「では、俺はそろそろ帰ります」
「うん、わざわざありがとう。練習頑張ってね」

 彼の手荷物は見舞いのフルーツだけだったので、帰りは手ぶらだ。小さく頭を下げてから背を向けた鬼道の手が、金属製のドアの取っ手にかけられる。
 だが、何故かなかなかそれを引こうとはしなかった。

「鬼道くん?」

 不思議に思って声を掛けてみる。
 ややあってから、彼は馨へと背中を向けたまま。

「……早く、戻って来てください」

 それだけ言うと、言葉を返す隙を与えずにドアの向こうへ姿を消した。
 独りきりになってからも、暫くは彼のいた一点から目線を外せなかった馨。そこにいた少年の背中を思い浮かべ、放たれた台詞を反芻すれば。

「……私も、早く戻りたいよ」

 つん、と鼻の奥に仄かな熱が灯った。


* * * * *


「……不謹慎だ」

 誰もいない廊下を一直線に歩きながら、鬼道は自身を咎めるようにぼそりと独り言を漏らす。
 つい先程まで目にしていた入院着姿の馨が、痛々しく吊られた包帯巻きの右足が、今も網膜に焼き付いて離れない。それと連動して蘇るのは、《皇帝ペンギン1号》と称される技を撃った直後、視線を戻した際にセンターサークル内で倒れている馨を発見した際の、心臓が張り裂けそうなあの感覚。
 本当に、死んでしまうのかと思った。
 病院に担ぎ込まれて検査と治療を受け、その後容態が安定するまでの間、鬼道はずっと不安で不安で堪らなかった。馨を通じて医者の診断結果を知らされて、そこでやっと安心することができたのだ。生きていて良かった、歩けなくならなくて良かった、もうあんな思いは二度とは御免だ、と。殆ど自分への気休めとして買ったメロンは存外喜んでもらえたので何よりだけれど、これだけ心配したのだということだけはちゃんと解っておいてほしかった。
 ただ、鬼道にとって今回の件は、それだけではなかった。
 あんなことが起きて、ひたすら心配と不安でいっぱいになっていなければならなかった心の中。しかしそのとき、そこにはまた別の感情があったことを、今となってはもう自覚せざるを得なかった。
 ――嬉しかった。
 彼女が、馨が、自分たち帝国サッカー部への思いを明瞭にしてくれたことに、純粋な嬉しさを感じてならなかった。
 雷門にしか向けられていなかった輝く瞳。真っ直ぐな瞳。いつも見ていた水銀なんかではない、透き通った真水のような瞳――鬼道はあのときあのグラウンドで、初めてそれを見出だした。彼女の中に、見出だすことができたのだ。それに気付いた瞬間、自分は確かに、身体の真ん中へ小さくも熱いものを感じたのだ。
 馨の過去は未だ解らないままである。
 彼女自身の問題だから、自分が出る幕はないと思っていた。佐久間のように憤ることもなく、このままなるようになれば何だって良いのだと。ただ単に馨がマネージャーとして難なくやっていてくれるなら、あとはもう望むものは無いのだと。
 ――けれど、意識の奥底ではきっと、こうなることを望んでいたのかもしれない。
 口では冷静ぶったくせに、結局は佐久間と大して変わらなかったのではないか。以前部室で佐久間と向き合った日のことを思い出せば、無意識に嘲笑が浮かんできた。
 自覚したものが内側へ浸透し、胸に涼やかなさざめきを広げる。
 やっと手を伸ばせば届くところに来てくれた、あの人の笑顔を思い出す。

 ――大好きな皆のために、できること。

 やんわりと木霊する言葉。
 過去ではない、現在の自分たちのために、身を擲ってまでしてそれをやり遂げてくれた馨。
 そんな彼女の過去、彼女が自分たちの向こうに見据えていた過去。
 もしも、それを超えることができたなら。過去を超越する程の輝きを、今の彼女に見せることができたなら。
 一体、そこにはどんな景色が見えるのだろう。

「……」

 今の自分たち――今の帝国学園サッカー部だからこそできることがあるのなら、やってみたいと。
 純粋に、素直に、そう思えた。


* * * * *


 病院とは本来、安静に怪我や病気を治すための場所である。何にも脅かされることなく、静かに落ち着いた心持ちで身体を休め癒す場所、それが病院なはずだ。常識的には。
 なのに馨が入院してからの五日間は、何故だかそんな安寧からは程遠い気質のものだったように思える。


 一日目。
 いきなりだが、早速叔父に入院したことを知られてしまった。
 理由は何てこと無い、検査のための移動の際に偶然廊下で鉢合わせてしまったのだ。この近辺に病院は一つしかない関係で同じところに入っているのだし、いつかはこうなるだろうとは覚悟していたが、いざ包帯に巻かれた足を見られ目を真ん丸にされると何とも言えない気持ちになった。「馨ちゃん!? その足は何!?」と驚愕する叔父には、ただ『階段から落ちた』とだけ言っておいた。信じられないと言わんばかりであったが、一応はそれで納得してくれたようだ。

「最近顔を出す頻度が減って、でもそれは馨ちゃんがいろいろ頑張ってる証だし、僕も喜ばしく思っていたんだけど……まさかこんな怪我をしてるとは」
「ちょーっとした不注意だったんだけどね。打ちどころ、いや当たりどころかな、とにかく運が悪かったというか、何というか」
「骨が折れていないだけ運が良かった方だよ、無事で何よりだ。……それにしても本当にびっくりした、退院する前に心臓止まって死ぬかと思った。僕が言える義理でもないけど、頼むから気を付けてくれよ、馨ちゃん」
「ごめんって叔父さん。でも叔父さんよりは早く退院する予定だから」
「それはそれで寂しいなぁ」

 最近若干久しい顔合わせとなっていたためか、叔父は馨が怪我したことを心配しつつもどこか嬉しそうにそんなことを言った。退院したらもっとお見舞いに行く頻度を上げてあげよう、と内心そう決める馨。そんな胸中も知らない彼は、それから毎日午前中に、リハビリと称して部屋を訪れるようになった。
 そして午前中を叔父と共に過ごした後、夕方になったら帝国の制服に身を包んだサッカー部メンバーが数人、病室まで顔を出してくれた。誰も彼もが馨の元気な姿を見るなりほっと安堵する中で、成神は部屋に入るや否や眉を吊り上げ、泣きつかんばかりの勢いで馨へと詰め寄った。

「馨のバカ! アホ! あんな無茶すんなよ! 今の馨は馨だけのものじゃないんだからな!」
「う、うん、ごめん成神、反省してるから」

 聞きようによっては誤解の生まれる言い方に、一緒に来ていた寺門や万丈もついつい苦笑いを浮かべた。
 見舞いの人数はその三人だけだが、組み合わせとしては何だか不思議なような気もする。それに、時間的に今はちょうど部活真っ只中なはずだけれど、ここにはわざわざ練習を抜けてまで来てくれたのだろうか。
 そんな馨の些細な疑問を察したのか、先に口を開いたのは寺門だった。

「ここの面会時間って七時までだろ? そうすると部活終わったあとじゃ間に合わないから、本当は見舞いより練習を優先させるつもりだったんだよ。馨もそっちの方が喜ぶだろって」
「そうだね、気持ちは嬉しいけど一番優先してほしいのはサッカーの方かな」
「だよな。でも成神がな、見舞いに行きたい行きたいってガキみてーに騒いでならなかったんだわ」
「ってぇ」

 コツン、と軽く成神の頭を小突いた寺門。「当たり前じゃないすか」と口を尖らせる成神と苦笑い継続中の寺門を見るに、彼はどうも相当騒いだようだ。嬉しいことに違いはないが、少し照れ臭い。
 寺門の話の続きを引き受けるように、万丈がその先を話した。

「そうしたら鬼道さんが今日だけ見舞いの許可を出したんだけど、まあ、全員で行くとうるさいし迷惑がかかるからとりあえずジャンケンってことになってな」
「オレは言い出しっぺなんでジャンケン免除してもらったんだよ!」

 得意げにピースする成神の頭をよしよしと撫でながら、馨は肩を揺らして笑った。

「そうだったんだね、わざわざお見舞い来てくれてありがとう」
「ま、足も大丈夫そうで何よりだぜ」
「ホント肝冷やされたからなー」
「マジで馨が死んじゃうんじゃないかって思ったんだからな、オレたち」

 傍から見た際にどんな光景だったのか、三人は飽くまでフランクな空気のまま語ってくれた。
 馨の立場からすればシュートを撃ったあとはとにかく激痛との戦いだったので、正直はっきりと周囲のことを覚えてはいないのだが、やはり非常にショッキングな出来事として皆の記憶には色濃く残されたようだ。それこそが馨の目的だったので無事に達成されたと喜ぶ場面、とはいえ、そこまで心配をかけてしまったことについては改めて自分の口から謝罪をした。
 鬼道の持ってきてくれた見舞い品は推定高級メロンだった一方、こちらの三人のチョイスはハイチュウだった。どうしてそのセレクトなのかは解らないけれど、せっかくなのだしありがたく貰っておく。ちなみにヨーグルト味だった。口に入れるとヨーグルトの爽やかな味わいが広がって、メロンとはまた違う意味で頬が緩んだ。

「そういえば、部活中の雑用とかは誰かが代わりにやってくれてるんだよね? 大丈夫そう?」
「うん、前までやってたオレと洞面と、あと二軍の奴らが交代でやってるよ」

 ベッド際に座った成神は、特に気にしていなさそうな口調でそう答えた。
 しかし、椅子に腰かけている寺門たちの方はあまり喜ばしいとは言えない面持ちを見せる。

「コイツら、基本的に奉仕の心ってやつがねーんだよ。ついでに華もねーし」
「そうそう、もう顔面から『チッめんどくせーなぁ』ってのが滲み出てる。あー馨ー早く帰ってきてくれーマジでー」
「はぁー? せっかくオレが練習時間割いてまで先輩たちのためにやってるのに、何すかそのひでぇ言い草! 大体先輩たちも使ったもん放りっぱなしだしおあいこでしょーが」
「まあまあ、落ち着いて三人とも」

 元はと言えば自分が不在なために生じた諍いなので、下手に口は挟まずただやんわり宥めることしかできない。洞面はともかく、成神が先輩相手でもこんな調子なのは今に始まったことでもないので、そのへんは先輩たちにも潔く割り切ってもらうしかないだろう。一応ちゃんと仕事をしているだけでも褒めてやりたいくらいだ。
 というより、馨が来る以前はこの形態が当たり前だったのだから、たった五日間元に戻る程度ならば雑務を任せる側に大した問題は無いと思っていたのに。

「なんか、オレたちすっかり馨に飼い慣らされた気分」
「それは否定しないっす」

 結局のところ、そういうわけらしい。
 最終的に全ての原因が馨に帰属したような結果となったが、そんなに悪い気はしなかった。


 二日目は、予め連絡を入れておいた吉岡が見舞いに来てくれた。

「アンタが入院とかもう来週には世界滅びるんじゃない!?」

 という第一声と共に病室へやって来た彼女には、大学の授業のノートや資料などに関する頼みごとをしてあった。いくつか被っている基礎教養の講義分は吉岡、それ以外の専門科目はまた別の友人にお願いし、必要なものを一緒に持ってきてもらったのだ。ついでに休講になった講義の確認も取ったが、残念ながらゼロだったらしい。夏期考査前に結構な痛手となったけれど、こればかりは致し方が無い。
 叔父に伝えたのと同様、吉岡にも怪我の原因は『階段から落ちた』と伝えた。こちらは難しいことなど考えずあっさり信じてくれたので、持つべきものは優しくて単純で余計な詮索をしない友人なのだと痛感した馨。見舞いのプリンを一緒に食べながら、吉岡が喋る他愛も無い世間話や愚痴などを聞いていた。

「もう来年には就職を視野に入れなきゃじゃない? だからうちの親ももう地味にぴりぴりムード入っているっていうかさー」
「しっかりしたご両親じゃん。そうでもしなきゃよーちゃんずーっと遊び歩いてそうだもん」
「それは違いないわ」

 そこは否定しろよ、と思ったが、そうしないのがこの吉岡日夏だ。
 何だかんだの腐れ縁としてここまで仲良くしてきたが、そんな馨の目からも、正直なところ彼女はあまり真面目に映ってはいない。中学でも高校でも、考査シーズンだろうが受験シーズンだろうがお構いなしに遊び回っていた記憶しかなかった。

「ていうかさ、よーちゃん応用生物学だっけ。将来何になるつもりでそこ入ったの?」

 どんな答えが返ってくるか薄ら予想はできるけれど、敢えて尋ねてみる。
 そしてそれは見事に予想通りだった。

「特に考えてない。将来は適当な会社でお茶汲みOLにでもなろっかなーって」
「夢も希望も無いな……」

 バイオ系として専門的な研究職に就くこともできる分野で学んでおきながらこの言い草、さすが吉岡だ、とある意味感心しかできない。が、失礼ながら彼女がばりばりのキャリアウーマンとして働く姿も想像できないので、そんな平凡な夢もありなのかもしれないと思えた。
 肩を竦める馨に対し、ベッド脇の椅子に足を広げて座っていた吉岡はむっとしながら身を乗り出した。

「じゃあ、馨は将来何になるわけ? 教師はやだって前に言ってたけど、教育学部なら私のとこ以上に幅狭くなるんじゃない?」
「あー」

 切り返されると、何も言えない。馨だって、今いる学部学科が本当に自分の学びたい分野なのか、未だに納得しきれないままなし崩し的に授業を受ける日々を送っている。吉岡に偉そうなことを言える立場でも無いのだ。
 馨にとってのやりたいことは、全てが“今”に詰まっている。大学の外で雷門や帝国のサッカーを応援し、皆と触れ合っていられる今この時間こそが、馨の一番やりたいことだ。それが己の学ぶ学問に活きるのか、或いはその逆、学問を彼らとのサッカーに活かせるのか、そんなことは解らない。とにかく無我夢中で今を生きているから、そんなもの考えたこともなかった。

「うーん、……解んないな、まだ」
「よし! じゃあ馨も私と一緒にお茶汲みレディになろ!」
「それもなんか違うけどなぁ」
「いいじゃん、お茶汲んでコピーして電話取ってお金もらお!」

 本当に夢も希望も無い現金主義の言葉をさらりと受け流しつつ、馨はバフンと立てたベッドへ背中を預けた。
 ――将来、か。
 サッカーのコーチではない、マネージャーでもない、教育学部で学ぶ大学生としての江波馨の将来。
 二年の夏という時期ならば、まだもう少し猶予があると思いたい。せめて来年までに明確な目標、将来の夢、そういったものを定めることができたら良いけれど、今はそこにかまける時間も余裕も無いので保留にしておくしかなかった。


 薄味の病院食にもそろそろ飽きてきた三日目は、ぎりぎり消灯前の午後八時過ぎに円堂から電話が掛かってきた。幸いここは四人部屋でありながら現在は馨単独で使用しているので、特に誰に咎められるわけでもなく通話できるのがありがたい。
 話の内容は、雷門の予選三回戦の相手についてのものだった。

「秋葉名戸か……あそこのサッカー部、あんまりよく解らないんだよなぁ」

 秋葉名戸学園。
 トーナメント表に載っているので事前に確認はしていたが、いまいち詳細が判然としない学校なのだ。練習試合の記録も無いし、実績も無い。それなのに、以前雷門を苦しめたあの尾刈斗中を撃破してここまで上り詰めているというのだから、何だか不気味な話である。
 手持ち無沙汰な指先で髪をくるくる捻る馨。電話の向こうの円堂も、あまり状況が芳しくなさそうに弱気な声音をしていた。

『だよなー。だから今日さ、目金の提案でアイツらが関係してるらしいメイド喫茶ってとこに行ってみたんだけど、それでもいまいちよく解らなかったんだ』
「メイド喫茶? あ、もしかして新しくできたところ?」
『そうそう、商店街にある店。姉ちゃん行ったことある?』
「あはは、さすがに無いかなぁ」

 商店街に新しくメイド喫茶が出ていたことは知っていたが、まさか中学校が絡んでいるとは思わなかった。しかしあの店は商店街の雰囲気にはそぐわないせいか、あそこだけ抜きんでて奇妙な空間になっている。そもそもあんなところにメイド喫茶なんてつくってどうするつもりなのか。
 さすがの円堂も、媚び媚びなメイドに出迎えられたり不思議な名前のメニューを頼んだり、そういった異様な空気の店は肌に合わなかったらしい。普段の饒舌さは鳴りを潜め、あまり詳細を語ろうとはしない彼に、馨も苦笑いを禁じ得なかった。

『ただ、目金が何か解ったっぽいこと言ってたから、とりあえず今回はアイツ頼みになるかなーって感じ』
「へー、目金くんすごいね」

 彼はややオタク気質なところがあるので、そういった部分で何かシンパシーを感じたのかもしれない。ただ、誰一人として相手を理解できないまま試合に臨む、なんてことにはならなくて良かっただろう。目金が何か上手い作戦でも閃いてくれることに期待したい。
 もう一つ懸念することといえば、前の試合で足を痛めた豪炎寺のことか。

「豪炎寺くんの調子はどう? 次の試合は大丈夫そう?」
『うーん、病院の先生には様子見って言われたらしいんだ。練習も参加できてないし。一応、当日まで待ってみるけど……無理だろうなぁ』

 秋葉名戸の異様さもだが、こちらの方が円堂的には問題が大きそうだ。
 明らかに残念そうに話す円堂に、馨は軽い相槌を打ってから努めて声音を明るくした。

「まあ、無理させて予選決勝にまで響いたらそれこそ大変だしね。今回は豪炎寺くん抜きでも余裕で勝てちゃうくらい、皆で頑張っていこうよ。たまにはストライカーさんも休ませてあげなきゃ」
『そ……そうだよな! 豪炎寺にばっか頼ってちゃダメだし、皆今まで以上に練習頑張ってるから大丈夫だ! ありがと、姉ちゃん!』
「いえいえ」

 大したことは言ってないけれど、元気になってくれて何よりだ。
 毎回何かしらの問題を抱えつつ、着実にそれを乗り越えて強くなっていく雷門サッカー部。次の試合もきっと大丈夫だと、馨は何ら不安を覚えずに応援することができていた。


 いい加減身体を動かしたくなってきた四日目の夕方には、二回目となる成神とその保護者兼監視役的な辺見という面白い組み合わせが、再度見舞いに訪れてくれた。

「ほれ、見舞いのハイチュウ。しかもイチゴ味」
「うわ、やった! 心得ておりますなー辺見くん」
「選んだのオレだから!」
「金出したのはオレだろーが」
「はいはいどっちもありがとうね」

 ここが病室なことを忘れる勢いで騒ぐ二人を静かにさせ、早速貰ったハイチュウを口に放り込む馨。この前のヨーグルト味も美味しかったが、どちらかというと馨はイチゴ味の方が好きだ。そもそも何故ハイチュウが見舞い品の定番になっているのか不思議ではあるけれど、この際そんなことは気にしない。多分、最初の見舞いの際に喜んだのを覚えておいてもらえたのだろう。
「んまい」とにんまりしながら口をもごもごさせていると、成神がカレンダーを見ながら嬉しそうに目を細めた。

「やっと明日で退院だね、馨」
「五日って案外短いもんだな」

 辺見の言うように、時間は矢のように過ぎ去っていった。毎日誰かしらが訪ねてきたので、本当の意味で休まることができたのは就寝時くらいであったが、足も順調に回復しているので問題は無い。寧ろ、いろんな人が交互に顔を出してくれたおかげで退屈せずに済んだくらいだ。
 既にギプスと包帯を外して元に戻った状態の足をゆっくりと動かす。もう痛みは無いし、以前通りしっかり動いてくれる。それでも成神がまだ心配そうに足を見ていたので、馨は「平気だよ」と笑って彼を安心させた。

「たくさん世話かけちゃったし、戻ったら今まで以上に頑張るからね」
「おー助かる助かる。もうそろそろそこのクソヘッドフォン野郎のマネも限界だったかんな」
「それはこっちのセリフなんすけどねデコ先輩」
「ぁあん?」
「こらこら」

 またもや言い争いを始めようとしていた二人の間に割って入ると、辺見は「けっ」と捨て台詞を吐いてから改めて馨に向き直った。

「まあ、でも、無理はすんなよ」
「大丈夫だって」

 そこで笑い掛けて、ふと思い出す。

「そういえば、佐久間くんはどうしてる?」

 入院初日に鬼道が「相当ショックを受けていた」と言っていたことが、今でも少し気がかりだった。馨が《皇帝ペンギン1号》を撃ったのはほぼ彼のためといっても差し支えないので、今回の件を深く抱え込んでしまっていたらどうしようかと不安でもある。平常に練習を行えているか、そんな程度で良いから彼の状態を聞いておきたかった。
 馨が首を傾けながら問うと、二人は一瞬だけ互いに視線を合わせた。

「アイツなら、練習頑張ってるぜ」
「馨が気にすることないよ」
「そう?」

 なら良いんだけど。
 そう口にはしたものの、何となく二人の様子が気になる。また目を合わせたと思ったら、辺見の方が微かに頷いた。

「まぁ、もしかしたら明日辺りに来るかもしれないしな」
「え、……来てくれるかな?」

 馨が少しだけ瞳を輝かせると、辺見がもう一度、今度は馨に向かって首肯する。

「来るだろ。今日の時点でほぼ完成――」
「ストップ!」

 そのまま何かを言いかけたところを咄嗟に成神が遮れば、彼は「あ」と間抜けた声を漏らし、それっきりぴったり口を閉ざした。
 中途半端に終わった台詞。それ以上はアウトだとばかりに制止をかけた成神。
 明らかにおかしい雰囲気が生まれ、さすがに馨の顔にも怪訝の色が表れる。

「どうした? 何かあったの?」
「いや、何でもない。それより、明日は何時にここを出るんだ?」

 かと思えば唐突に話題が切り替わり、馨はやや戸惑いながらも明日の予定を振り返った。

「えっと、最終検査が終わって結果が出てからだから……予定では、多分午後の六時くらいかな」
「六時か」

 よく解らないがとりあえず質問には答え、馨はそれっきり先程の話には触れないでおいた。「オッケー」と返した辺見と、何だか形容し難い変な顔をしている成神が、一体馨に隠れて何を考えているのか。不可思議だけど、恐らく悪いようにはならないだろう。
 それに、実際にどうなるかはさておき、彼らに「佐久間は来るかもしれない」と言ってもらえただけでも、充分に嬉しかった。
 もしも本当に来てくれたらまずどうしようか、何を言おうか、何を話そうか――そんなことを考えるだけの余裕がある自分にも、少しほっとした。




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