佐久間次郎の決着
――最初の一瞬は、衝撃的だった。
「寺門、佐久間、いくぞ」
「おう」
「あぁ」
思えば、初対面の流れは現状を踏まえると最悪なものだった。アイツはオレたちの敵である雷門側に所属していて、あろうことか試合中にシュートの妨害に入ったのだから。とはいっても、乱入してきたときのアイツはパーカーのフードを被ったうえでサングラスをかけるという不審者極まりない出で立ちをしていたから、それが女なのか男なのかすらオレには判別つかなかったけども。
ただとにかく、普通に考えれば最悪だ。
この上ないくらいに、最悪なかたちの出会いだった。
「くっ」
けれど、突然飛び出してきた挙げ句《デスゾーン》を蹴り飛ばしたソイツを見たとき、オレが一番初めに感じたのは驚きでも戸惑いでも怒りでもない――戦慄、だった。
「佐久間、一歩半遅れているぞ。もう一度だ!」
「すまない!」
――サングラス越しだというのにやけにはっきりと感じた視線。鋭い矢のように、シュートを撃ったオレを真っ直ぐ貫いた視線。今まで見たこともないような視線。
それがほんの少し、肌を掠めただけ。たったそれだけ。
なのに、その瞬間どういうわけかびりびりと身体が痺れ、脳が痺れ、何が起きたか把握するより先に、わけが解らないまま胸が震えた。どうしてなのかは今となっては不明だし、当時もはっきりと認識できていなかった記憶がある。とにかくとんでもない戦慄と衝撃が走って、目の前で眩いフラッシュが焚かれたような気分になって、鼓動が一気に加速して。
頭が現実に戻るまで、オレはその場で呆然と突っ立ったまま、ただひたすらに震撼していた。
「今度は寺門がずれている、二人の呼吸をきちんと合わせろ!」
「ああ!」
パーカーにサングラス、おまけに試合乱入、火を見るよりも明らかな不審人物。
それなのに、ソイツはオレたちの渾身の《デスゾーン》を片足一本で蹴り返したのだ。何度も何度も、血反吐も厭わず必死に練習を重ねてきた必殺技を、あんなにも何てことなさそうに軽々と。試合中だってのに一切の躊躇無く飛び込んできて、オレたちの努力を、あのたった一本の脚で全部無に帰した。
まず、意味が解らないだろ。そんなことする意味が。わざわざ試合を中断させてまでシュートを止めにくるなんて暴挙、ただのプレーヤーでしかないオレに理解できるわけもなかった。
けど、その理由は訊くまでもなく、すぐに判明した。
原因不明の震えと心臓の高鳴りに苛まれていたオレの意識を引きずり戻したのは、その不審者が半ば泣き叫ぶように放った一言だった。
――もし、サッカーができなくなったりしたらどうするの!?
そう言って雷門のキーパーの肩を揺する姿を見て、オレの心は依然動けないままのオレ自身を置いてけぼりにして、独りでに冷静さを取り戻した。
ああ、なるほどな、と。
つまりアイツは、あの雷門キーパーがこれ以上傷付くのが嫌だから、試合への乱入なんて暴挙を行ったんだ。下手すりゃ自分が危なくなるのに、そんなこと一切考えてませんという程の勢いで、己の身を挺して《デスゾーン》の前に立ち塞がったんだ。
あのキーパーを守るため、たったそれだけのため。
それだけのことなのに、あんなにも鋭い目ができるものなのか。目が合った人をいっそ一突きで殺せるんじゃないかってくらいの眼差しができるものなのか。現にオレは、もうここで殺されるんじゃないかとすら錯覚する程、わけも解らず心と身体を震わせるしかなかったんだ。天下の帝国サッカー部でレギュラーを張っているオレでも、そんなの初めての経験だった。
アイツは真剣だった。ここがどこで今現在何をして自分がどんなことをしでかしてるのかすら忘れるまでに真剣に、キーパーのことを案じていた。傍から見ているだけでも解るくらい、切実に心配していた。
もしもそれがオレの感じたもの全ての原因だったとしたら、そんな人間、オレは人生で初めて出会ったことになる。少なくとも帝国の中にはあんな、ただの他人に対してあそこまで愚直にぶつかっていくような奴、一人もいなかった。
だからこそますます意味が解らなくなって、そこでやっと、オレの中に“困惑”という感覚が生じたような気がする。
得体の知れないパーカーサングラス、声だけで辛うじて女と判る程度の不審者。ソイツは、オレにとってとにかく異質で、不思議で、理解不能で、――記憶に、強く強く焼き付いてならなかった。
「昨日より息が合っていないぞ、集中しろ!」
そんな折に、ソイツは鬼道に連れられて帝国学園へやって来た。
多分あっちは知らないだろうが、マネージャーとして正式に紹介される前に二人が観客席の方からオレらを眺めていたこと、オレは密かに気付いていた。一緒にいた他の奴らはどうだか知らないけど、気にしているのはどうもオレだけだった。
いや、気にするというより、気にせざるを得なかったんだ。
ふと何気なく視線を感じて上を見たら、謎の女――パーカーでもサングラスでもなかったから初見じゃ例の不審者と同一人物だとは気付けなかったけど――と鬼道が一緒に立っていたものだから、まず第一にその女が新しいマネージャー候補であるということを察した。そこまではいい、昨年度までなら何度かあったことだからいい加減慣れている。まあ、これまでは就任したところですぐ辞めちまうような骨の無い奴らばっかりだったから、ただのマネージャーってだけなら全然気にする必要は無かった。
……ただのマネージャーってだけなら、な。
オレが気にした一番の原因は、その女の持つ、異様さだった。
遠目でも、見ただけですぐに解ったんだ。
その瞳が含む、気持ち悪さが。
「まだだ、俺たちならばもっと上を目指せる。一息入れて、もう一度やるぞ」
気付いたときには、その気持ち悪さを上手く表現できなかった。何と言っていいのか解らなかった。
ただ、そんな目をしてオレたちのことを――この帝国サッカー部のことを見つめられていることに、無性に腹が立ったのをよく覚えている。自分でも収まりどころの見えない、謎の怒りだった。
「なあ鬼道、もう少し蹴り出しを強くできないか?」
「平気なのか?」
「あぁ、頼む。こんなんじゃまだ足りないんだ」
そして、少し経ってから女はマネージャーとしてオレたちの前に姿を現した。
そこで挨拶のために開かれた口から声が漏らされ、オレは恐らく、鬼道を抜いた部内の誰よりも真っ先に気付けた。ソイツがあのときの不審者、オレの記憶からいつまで経っても出て行ってくれない謎の人物、要するに、雷門のコーチなのだということに。
でも、何でだ、何もかもがおかしいんだ。
あのパーカーサングラスの奴がこの女と同一人物なのだとしたら、それはあまりにも、あまりにも違いすぎるじゃないか。あの瞬間、オレの中に意味不明の感覚を迸らせたはずのサングラス越しの眼差しが、目の前にいる女の瞳と同じなんて。ありえない。
だって、コイツはオレたちのことを真っ直ぐ見ているようで、そこに“オレたち”は映っていないんだ。
遠目ではなく近距離の真正面から見たことで、やっとオレは少し前に感じた“気持ち悪さ”の正体を把握した。近くで見ればますます解る。人を殺せる程に鋭利なものなんかじゃない、昏く濁った水銀のような瞳。鈍色の視線。あの日オレが感じたものなんて、そこには一欠片も残されちゃいなかった。
「オマエたちがきちんと揃えられたら、実際に始動させてみる」
それを悟った瞬間、胸の震えは鎮まった。
驚く程の早さで静まって、後に残されたのは、どうしようもない憤りだった。
「解った……寺門」
「あぁ、集中していくぞ」
敢えて言葉にするのだとしたら、多分一番近いのは、“嫉妬”ってやつなんだろう。
練習試合のとき以外も、例えば雷門と尾刈斗の練習試合。雷門のことはあんなに真摯な目で見るくせに、オレたち帝国のことはただ視界に映すだけ。過去を持つ場所が違うだけで、どうしてこんな違いをつけられなければならないのか。アイツは今、帝国学園サッカー部のマネージャーとして存在しているはずなのに、肝心のオレたちのことはちっとも見てなどいない。ずっとずっと雷門ばかり、あの澄んだ瞳は追いかけている。
あのとき打ち震えた眼差しは、アイツが傍についてからどんどんと遠ざかっていった。というより、最初からオレたちに対してはそんなもの、向けられることなどなかった。オレたちはアイツにとって、ただ過去に失った時間を補うためのパイプ程度でしかなかったんだ。オレたちのことなんて、どうでもいいんだ、アイツからすれば。
他の奴らは、最初こそ元雷門のコーチがどうたらと不満そうだったけど、アイツの素性が知れたことで徐々に慣れていったらしい。初日の時点では既に何人かはだいぶ打ち解けた様子で、数日経つ頃にはすっかり皆がアイツの存在を受け入れていた。“六年前”という時間軸の存在を知って、アイツがオレたちを自己満足のための道具にしていると解っても、誰一人として文句など言わなかった。鬼道ですら「割り切れ」と言って、アイツのことを許容していた。
それでもオレは、許せなかった。誰が何と言おうと、胸で燻る篝火を消し去ることはできなかった。
正直、自分でも何でこんなにムカつくのか解らなかったんだ。だから源田なんかにいろいろ説教じみたことを言われても、そもそも自分が一番意味不明なんだから、どうにもしようがなかった。感情の理由を失っていても、とにかく受け入れ難いという意識だけが焦げ付いてならなくて、他の奴らみたいに「どうでもいい」と放り出すことができなくて。
帝国のグラウンドでマネージャーとして働くアイツと、尾刈斗との試合で見た雷門ベンチのアイツ。
二人のアイツが脳裏にずっと佇んでいて、ただただ堪らなく悔しくて、腹立たしかった。
「意識を整えろ! まだいけるだろう!」
「解ってる!」
だからといって、アイツに何を望み、何をしてもらいたいかっていう明確な要求も不透明なままだった。
頭では解ってるんだ、アイツ一人に認めてもらったところで帝国サッカー部としては何の意味も無いのだと。別にオレたちはアイツのためにサッカーをしているわけじゃないから、アイツがどんな目的でここにいようが気にしなくてもいいんだって、冷静に考えればそんな答えは簡単に弾き出せる。
以前部室で鬼道に言われた通りなんだ、本当は。結果だけを受け取ればいい。六年前の経験を活かしたアイツのおかげで《ツインブースト》は無事完成し、オレたちにとっての新たな戦力になったと、その結果だけを喜ばしく思っておけば全てが丸く収まる。それにどうしてわざわざ歯向かう必要があるんだ。そこから何か、オレにとって得になるものが生み出されるわけでもないのに。
解ってた、解ってたよ、そんなこと。鬼道に言われなくたって、解ってた。
なのに結局、オレはそうなれなかった。
じゃあ、オレはアイツに何を望んでいるんだろう。オレたち自身をきちんと見てもらいたいのか? 雷門に向けるものと同じ眼差しで応援してもらいたいのか? もう一度、あの魂を震わす感覚を呼び覚ましてもらいたいのか? ――それが、一体何になる? 何でそれをオレはここまでして求めなくちゃならない?
全部が全部朧げで、抽象的で、なのに悔しさだけがいっこうに収まらなくて、最早苦しかった。アイツが近くにいればいる程、オレの中がぐちゃぐちゃに乱されていくような気がしてならず、そのうちアイツの顔すら見ることはできなくなった。
どんなに献身的にされようが無視をして、無下にして、粗暴な言葉を吐いて、撥ね退けて。
オレは、こんなにガキみたいな奴だったっけ、なんて第三者視点のオレが無情に呟くのを聞いて、自嘲しかできない。
とっくにアイツと親しくなっている成神や辺見あたりが、オレの言動を否定的に捉えていることは知っている。佐久間らしくないなんて言われてることも知っている。オレだってそう思う。他でもないオレ自身が、今の自分を自分らしくないと認識してるから。
何でだろうな、でも、どうしても忘れられないんだ――あの目が、あの衝撃が、あの戦慄が。
オレの記憶に熱波を起こし、影を焼き付けるようにして刻み込まれたあの日の姿が、どうしても、どうしても忘れられなくて。
そんな女々しい自分こそがまた歯痒くて苦しくて、終わりのない真っ暗な道の中、ずっと堂々巡りを繰り返すばかりだった。
「よし、今の調子を忘れるな!」
――そして、五日前。
オレは遂に、なにもかもをぶちまけた。この一ヶ月以上の間に溜め込んできたあらゆるものを、全部アイツに向かってぶちまけた。もう、きっかけなんて何でも良かったんだ。何にでもなれたんだ。ただ、そこがオレの我慢の限界だったってだけ。アイツがあの技をオレたちから遠ざけようとするその行為が、オレの最後の地雷を踏んでしまったってだけ。タイミングが悪かった、なんて言葉で終わらせるのは、今となっては簡単にはできないことなんだけれども。事実、当時はそうだったんだ。
ああ、そうだ、全部オレのせいだった。
アイツの双眸に走った強い閃光、この場所で初めて見る悲しいまでの鋭さ、そして――あの技を、使わせてしまったこと。
全部全部、オレのせいなんだ。
「今からは本番だ。俺も二回、三回が限界だろうから、しっかり決めるぞ」
「任せろ、鬼道」
あんなにもダメだダメだと声を荒げていた技を自ら使おうとする時点で、嫌な予感はしていた。それなのにオレはもう全く動けなくて、バカみたいに呆然と、アイツがそれを行う姿を見ていることしかできなかった。真っ赤なペンギンが地面から湧き出しアイツの足に食いついて、アイツの顔が苦痛に歪んだ瞬間、漸く喉から飛び出した声はそれでも、とっくに手遅れで。
空間の切り裂かれる感覚と共に地面に崩れ落ちたアイツを見た瞬間、全てが弾け飛んだ気がした。いっそ頭痛すらする程に頭が急激に冷やされ、あらゆる気持ちが消失し――やがて一つ、後悔だけが戻ってきた。
オレのせいだ、と。
それなのに、アイツは去り際に力無く笑ったんだ、オレに対して。何でだよ、何でそこでそんな顔すんだよ、と言いたくても言えないオレのことを、アイツは一つも責めようとはしなかった。ただ、心底安心したようなあの顔。それが終ぞ網膜から離れず、目を閉じれば常にそこに浮かんで消えなかった。
それからばたばたと忙しなく動いていく世界の中、オレは独り取り残されていた。
どうしよう、どうしよう、どうすればいいんだ。
本当に、アイツは、死んじゃうんじゃないか。
そればかりが脳内を占拠し、何もかもが手に着かない。やらなきゃならないことがあるはずなのに、何にも解らない。あらゆる物事が遅すぎて、どうにもならない。たくさんの感情がオレの中で激流をつくりあげ、あがる飛沫はオレの後悔をより鮮明なものにしかできず、ひどく混乱した。
アイツによく懐いていた成神は、アイツが病院に運び込まれたと報を受けた後、オレに向かってかなり怒っていた。そこで何て言われたのかすら思い出せない。が、「先輩のせいで!」という言葉だけは明瞭に耳に残っている。胸倉を掴まれ、部室の壁に背中を打ったことも覚えてはいる。源田が仲介に入ってくれて騒ぎはそこで収まったが、それでもやはりオレは何も落ち着かず、ここで生きている心地すらしなかった。
「いくぞ」
そんなとき、鬼道が提案をしてくれたのだ。
この技を完成させたら、あの人のところへ行け――そう言って、ある技をオレに教えてくれた。
だからオレは鬼道、そして寺門と共に、それを完成させることに全てを注ぎ込んだ。後悔ばかりが先走り、何ができるのかすら見失っていたオレの唯一の道標となってくれた、その技を。
「皇帝ペンギン……!」
「2号ッ!」
総帥は一切関与していない。六年前の過去とも関係無い。
これはオレたちのつくり上げた、オレたち自身の技だ。
――アイツは一体、どんな反応をしてくれるのだろう。
* * * * *
辺見から、アイツが退院する時刻は六時頃だと聞いていた。
だから部活の途中で抜けさせてもらい、オレは稲妻総合病院へと赴いた。病室の番号や場所も事前に確認してあったので、特に迷うことなく目的地に向かう。恐怖でも動揺でもない、でも少し逃げ出してしまいたくなるような心地に竦む足を叱咤しながら、着実に先を急いだ。
リノリウムの床は踏み締めるとゴムを捻ったような足音を奏で、ここまで駆けてきたために荒がった息を整えようと呼吸を深めれば、どこからかアルコールの強い匂いが漂ってくる。三階に上がるまでに二人のナースとすれ違い、階段の真正面の病室からは車椅子の女性が出てきた。
その病院独特の雰囲気が、オレの脳内を少しずつ、整然とさせてくれるようだった。
まず会ったら何を言おう。何から切り出そう。いろんなことを考えて、落ち着きを保ちながら整理した。アイツのことだから、きっとオレが顔を出したら驚くだろうし、もしかすると怯えるかもしれない。いつだったか肩に触れた手がビクつくあの感覚を思い出すと、また自己嫌悪に陥りそうだった。
とにかく、まずは謝らなきゃいけない。オレのせいで危険な真似をさせたことを、心から謝罪しなきゃいけない。
そう覚悟を決めたところで、アイツのいる病室前に到着した。
「もう松葉杖はいりませんね」
半開きのドアに近付くと、中から看護婦らしき女性の声が聴こえてきた。
「何か手伝いが必要なら呼んでくださいね」
「はい、ありがとうございます」
そっと中を覗くと、アイツは既に検査を終えて退院の準備を始めているようだった。傍らの看護婦が、恐らくアイツの使用していたであろう松葉杖を担いだままこちらに向かってきたので、オレは思わず飛び退くようにしてドアから離れた。
「あら」
部屋から出てきた看護婦と目が合い、反射的に小さく会釈する。
それだけでも彼女は何やら察したようで、くすりと笑うと同時に声も無く「ごゆっくり」と言ってからどこかへ去って行った。別に、ごゆっくりするような関係でもないんだが……どうでもいい、今はそんなこと考えてる場合じゃないだろう。
改めてドアに近付いて、もう一度中を見てみる。アイツはもうすっかり良くなったみたいだった。見舞いに行った奴らが「包帯だらけの足が痛々しかった」と言っていたけれど、今は元の素足に戻っている。退院できるんだからそりゃそうだろうと解ってるのに、どこかほっとする自分がいた。
がさごそと、大したサイズでもないボストンバッグに荷物を詰めているアイツ。五日間という長くもなければ短くもない入院生活で、アイツはそんなに多くのものを持ち込みはしなかったようだ。ある意味アイツらしいと思う。いや、そんなこと思える程オレはアイツのことを知らないし、親しくもないんだけどさ。
オレは暫く、そんな調子でアイツのことを観察していた。入る機会を窺っていた。根っこが生えたみたいになっている足を、何とか動かせるタイミングを計っていた。
まあ、本当のことを言うと、少し、いや――結構、ビビッていただけなんだ。
今更オレの言葉を受け取ってもらえるのか、どうしても不安は拭い切れなかった。去り際の笑顔は一切オレを責めていなかったというのに、それでもオレはアイツがオレに愛想を尽かすんじゃないかって、心のどこかでは怖がっていた。じゃあどうやって伝えればオレの気持ちが全部伝わるのか、ここまで来たというのにまだ上手くまとまらない。心臓がドキドキしすぎて死にそうだった。
けど、このままずっとここにいたら、やがては帰宅の準備を済ませたアイツが出てくるだろう。そんな、鉢合わせみたいなかたちの状態での会話なんて、きっとオレの言いたいことには相応しくない。きちんと向き合える環境で、しっかりと伝えなければいけないはずなんだ。だから早く、アイツが用意を終えてしまう前に、中に入って声を掛けなきゃいけない。
『意を決する』ってのは、多分こんな感じなんだろうな。
「……おい」
「わっ!」
勢いでドアを開けて部屋に入り、辛うじてそんな声を絞り出した。
いきなりだったせいで相当驚いたらしい彼女は、悲鳴をあげつつものすごい速さでこちらを振り向いて。
「え……あ」
目が合った瞬間、それは大きく見開かれた。
「佐久間くん……」
「退院、できたのか」
「あ、うん、おかげさまで」
オレは何とか平静を装いながら、まず一番初めに用意してあった言葉を静かに口にした。対する彼女もすぐに驚きを消し去り、いつもみたいな優しい口調で応えてくれる。
そう、いつも通りだった。あんなことがあったってのに、彼女は何も変わっていない。他のメンバーに接するのと同じだけの柔らかさで、それどころかどこか嬉しそうなまでに、オレと向き合っていてくれる。
そのことが、やけに辛くてならない。
だからなのか解らないけど、せっかくまとめてあったあれとかそれとか、言いたいことが全部どっかにぶっ飛んでいってしまった。口にしようと喉で待機していたはずの言葉たちが、霧のように消えてなくなってしまった。
ぱかりと開いた口が、目的を失って狼狽える。だけど無言にだけはなりたくなくて、必死に何か単語を掻き集めた。
「……足、もう平気なのか」
「平気だよ。検査結果でもばっちり完治したってお墨付きもらえたしね」
「痛みは、ないのか」
「全然ないよ、歩いても大丈夫」
「安静にしてなくて、いいのか」
「あ、マネージャー仕事のこと? お医者さんにも訊いたけど問題ナシだって。皆には迷惑かけちゃったから、明日からだけどまた頑張らせてもらうね」
「……」
話せば話す程、彼女が笑えば笑う程、苦しい。苦しくて苦しくて仕方ない。着地地点の無い会話が生み出すものは、確実にオレの心をぎりぎりと強く締めつけていった。
なあ、何でそんなにオマエは笑えるんだよ。オレなんかに。オマエを傷付けたオレなんかに。そんな優しい笑顔、何で向けられるんだよ。
いっそのこと、詰ってくれればまだ楽だった。アンタのせいで危うく二度と歩けなくなるところだったって、そう怒鳴ってくれた方が良かった。オレのせいだって責めて責めて責めて、関係を完全に断ち切ってくれた方がマシだった。
でも、コイツがそんな奴じゃないってことを、残念ながらオレは知っているから。そんな期待は持てないし、この苦しさも全てが自己責任でしかないこと、理解してる。
それに、詰られたところで結局楽になるのはオレだけなんだ。オレがコイツに感じた“自己満足”と同じでしかない。一方の都合だけで相手の感情をコントロールするなんて、そんなのはコイツの“自己満足”よりも、ずっとずっと卑怯な考えでしかない。
息が苦しい。呼吸が難しい。
眼前でオレを真っ直ぐ見つめるその瞳を、今や直視することができない。
「……あ、の」
いよいよ言葉に詰まる。
言いたいことはこんなにもたくさんあるのに、どうすれば綺麗なかたちになれるのか。どうすれば上手なかたちになれるのか。全然もう、解らないんだ。
自分の気持ちを伝える、たったそれだけのことがこんなに難しいんだって、今の今まで知らなかった。
「……オレ、は、……」
謝らなきゃ。
謝らなきゃ。
傷付けてゴメンって。
信じられないなんて言ってゴメンって。
あんな技を使わせてしまってゴメンって。
言わなきゃ。
言わなきゃ。
伝えなきゃ。
――泣いては、ダメだ。
「佐久間くん、ごめんね」
突如。
ぱちん、と空気が爆ぜるような感覚と共に、彼女がそう言った。
オレはそこでやっと、自分が深く俯いてしまっていることに気付いた。だからすぐに顔を上げて、ようやっと、彼女の顔を見ることができた。
何で、何で。
「何で、オマエが謝るんだよ……その足は、オレが」
「君の言う通りだった、全部」
オレの言葉を強引に遮り、彼女は続ける。
「そして、私が言った通りでもある。私は君と、君たちを酷く傷付けた……謝らなきゃいけないのは私の方だよ。佐久間くんじゃない」
オレが言った通りであり、彼女が言った通りでもある。
それはつまり、彼女がオレたちを通して六年前の過去の幻影を追いかけていたってことだろう。オレたちがどんなに懸命に練習へと励んでも、それを媒介としてしか認識してもらえないのだと。オレはそんな理由で、彼女に腹を立て続けていた。
でも、今になって思うんだ。
本当にそれだけだったのかって、今更、本当に今更、オレは感付いてしまっているんだ。
オレはもしかしたら、そこにあるものがずっと見えていなかっただけじゃないかって。オレの方から避けることで、彼女の持っている本質を、オレ自身が目隠しして見えなくしてしまっていたんじゃないかって。
だからこんなに――苦しんじゃないか、って。
「……ッ」
だとしたらオレは――最低な奴だ。
「……だからって、何でここまで……」
「君たちが、大切だから」
吐息のような言葉にも、彼女は間髪入れずそう返した。
「過去とは関係無いし、罪の意識でもない。今の君たち帝国イレブンが大好きだからこそ、私はあれを使ったことを少しも後悔してない。君たち……特に、あれを使う可能性の高かった佐久間くんには、絶対に傷付いてほしくなかった。そのためなら私、何だってできるから」
ゆるりと、ほろ甘く崩れるように微笑むその表情。蛍光灯の明かりのせいか少し輪郭のぼやけた、その表情。
オレはもう、瞬きすらすることができないでいる。視界がぼんやり霞むことすら気にも留めず、正視したそこから動けないでいる。
「……バカ、だろ、そんなの」
違うんだよ、本当はこんなこと言いたいわけじゃない。もっと別に、伝えたいことがたくさんあるんだ。なのにどうして、オレはそんなことしか口に出せないんだろう。素直になれないんだろう。彼女はもう、ずっともう、オレの前にいてくれているのに。
だけど、こんなオレでも、彼女はちゃんと受け止めてくれる。どこか虚をつかれたように目をぱちりとさせて、また顔を綻ばせた。
「バカだって言うなら、最初からだ。でも、だからこそ皆に会えたし、この場所にいることができる。私は、それがすごく嬉しいよ」
「……」
オレはいよいよ以て、言葉を失った。正しく言い直すと、逃げ道を探すような言葉を、だ。
完全に手を止め、向き合ってくれている彼女。オレはその正面に立って、顔を背けず、今この場で、伝えなきゃいけない。オレたちの間にできてしまっていた溝を、この手できちんと埋めなければいけない。
そうしなければ、最初の一歩、踏み出すことができないから。
「……なあ、オレは、オマエのことをずっと、嫌ってたんだ」
ゆっくり、丁寧に、間違いのないように。
けれどそれが自分の本心であることだけは見失わないように、そっと切り出した。
彼女は一瞬素の表情に戻ったけど、すぐに一つ頷いて、オレの話を聞くための笑顔を浮かべてくれた。
「うん」
「いや、嫌ってたってのは、ちょっと違くて……なんか、なんつーか、悔しかったんだ」
「うん」
「オマエが、雷門の試合を観るときはあんなに楽しそうに目をきらきらさせてるくせに、オレらの前じゃ全然そんなんじゃないことが、どうしても、嫌だった」
「うん」
「こんなの、ガキみたいだって解ってるんだ。オマエのためにサッカーするわけじゃないし、オマエがどんな理由でウチにいようが関係無いって、解ってたんだ、頭では。なのに、オマエが一番最初、雷門との練習試合でシュート弾いたとき、あのときにスゲー衝撃受けたことを思い出すと、むしゃくしゃして堪らなかった。六年前のことばっか追いかけてるその目が、気持ち悪いって思えてならなかった」
「うん」
「どうしてほしいとか、そういうんじゃなくて、これはもう、オレの中での問題だったんだと思う。でも、そうやってケリつけることもできなくて、オマエにたくさん、当たり散らした。どうにもならないって知ってるくせに、どうしていいか解んなくて、オマエをずっと、困らせてきた」
そのときだけ、彼女は相槌を挟まなかった。
オレはそんな些細なことにすら息の詰まる思いをしながらも、懸命に先を続けた。
「だけど……だけど、な、オレは、やっと気付いたんだ。遅すぎるけど、オマエがあの技を撃ったことで、やっと気付けたんだ。オマエがちゃんと、いつも、オレたちのことを思ってくれてたって。ずっと見えてなかった。見ようとしなかった。だからこんなことさせて、そうでもしないと、気付けなかった」
彼女は、徐に首を横に振った。
でもオレはその否定を受け入れない。彼女がどんな意味を持って否定したのか解るからこそ、受け入れられない。
彼女はきっと、自分が本当に自己満足のためだけにオレたちの傍にいたって思ってるんだ。それを自覚させたのがオレだって思ってるんだ。自覚したからこそ、変われたんだと思ってるんだ。
それが仮に間違いではなかったとしても、認めたくない。
彼女にはこれ以上、自分に非があると思っていてほしくない。
ちゃんと向き合うことができなかったのは、オレの方だったんだから。
「今更言ったって遅いかもしんないけど、でも、オレはオマエに傷付いてほしかったわけじゃない。オマエが倒れたとき、本当に、心臓が止まるかと思った。オマエに言った言葉、全部後悔してる。今でもしてる。あんなこと言わなきゃよかった、そうすればオマエが傷付くこともなかったのに、って」
「……」
「それでも、こんな、ムシが良すぎることかもしんないけど、でも……嬉し、かったんだ」
ぐ、と握り拳をつくって力を込める。そうしないと目頭が熱くて仕方がなかった。
ふらりと揺らいだ視線を彼女に定めると、少し面食らったような顔がそこにあった。
その、丸いかたちをした両の目。サングラスに阻まれてなんかいない、クリアに見える二つの瞳。オレはそれをじっと見つめ、その奥深くにあるものへと、手を伸ばし。
――ああ、やっと見つけた。
オレがずっと欲しかったもの。焦がれていたもの。でもあの日雷門で見たそれとはまた違うもの。濁った水銀なんかじゃない、過去への憧憬なんかじゃない、今目の前にいるオレだけに向けられる、きれいなもの。
確かに、彼女の瞳の中に見つけることができた。
それだけでもう、身体中が熱くて熱くてならなくて、オレは堪らず唇を噛み締めた。歯形が残るんじゃないかってくらいきつく噛み締めて、熱情を一回やり過ごして、また唇を開いた。
「だから……今まで本当に、ごめん」
そして最後の最後まで、何かが零れ落ちてしまうのをしっかり堪えて、大切に紡ぐ。
「それと、ありがとう――馨」
初めて呼んだその名前は、口にすると何故だろう、心が一気に穏やかになるようだ。自然と口元が弧を描くのが自覚できた。頬を何かが伝っていく感触にも、もう気など向かなかった。
だからだろうか。
目の前で息を呑んだ馨は、少しの間を置いてから不意に顔を伏せた、かと思ったら。
「……こちらこそ、ありがとう。……佐久間」
今にも泣き崩れそうな、ともすればもう泣いているかのような。
やはりオレの初めて見るそんな笑顔を、引き出すことができた。
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