枷を外して


 ――無償の愛を知らない。
 与えられた分だけ返さねばならぬ、対価を必要とする愛しか知らなかった。
 そんなものを愛と呼べるのかどうかは、判らない。


 完全なるダークホースであった雷門が決勝へと駒を進めたことで、さすがに帝国サッカー部の中でも雷門に対する見方が変化しつつあった。もうただの弱小チームだとは呼べなくなってきたと認識せざるを得なくなり、そんなチームが次の対戦相手であると思えば、練習にもますます力が入るようになる。新技や既にある技にさらなる磨きをかけ、連携プレーも着実に精度を上げ、妥協は許さない。
 例えどんな相手であろうが、完璧な勝利を掴んでこその帝国学園――その伝統と誇りの重みを忘れぬよう、確実に雷門に勝てるよう、皆が努力を惜しまなかった。

「円堂守の《ゴッドハンド》もだが、新しいシュート技……《イナズマ1号》だったか、あれも警戒しなきゃならないな」
「見た感じ、小細工無しの単純高火力技だからね。こちらも真正面から受け止める気概でいかなきゃ」

 ポジション別練習の時間帯、キーパーの源田はFWのシュートを受け止めつつ自身のトレーニングメニューをこなすのが普段の流れになっている。『キング・オブ・ゴールキーパー』の異名を背負っている彼は、名実共に現在日本一の守護神だ。だからこれまでは、そのトレーニングさえきちんとこなしていれば決して相手にゴールを許すことなどなかった。そんな彼にとっての命取りは、雷門との練習試合時のような一瞬の油断。源田自身も、あのときのことを思い出しては時折歯噛みをしていた。
 しかし、その雷門が驚くべき勢いで強さを増していると知った今、もう現状維持などという甘い考えは捨て去るべきだろう。ただでさえ強固なその守りを、いっそう堅牢なものにしなければならないのだ。エースストライカーである豪炎寺、そして彼と組む様々なメンバーの繰り出す強力な必殺シュートを、源田は何としてでも防がねばならない。
 現在、ゴールポスト前では源田と馨が向かい合って相談をしている。FW陣は反対側のゴールを使ってシュート連携の練習をしているので、広大なグラウンドの中、この一帯だけは少し静かだった。

「源田の《パワーシールド》なら、威力的にもあっちのシュートは何とか防ぎきれるんじゃないかとは思う。連続で……仮に《ドラゴントルネード》からの《イナズマ1号》が来ても、ボールが跳ね返ってから相手がシュート体勢に入る時間を考えれば猶予はあるし、いけるよね」
「あぁ、隙は作らない。ただ、問題は……」
「……壁の薄さ、か」

 馨は源田の両手を見ながら腕を組み、源田は難しい顔をして両手を握っては開くを繰り返す。あまり好調といえる雰囲気ではなかった。
 源田が日本一のキーパーとして名を馳せられる一番の要因が、彼の繰り出す必殺技である《パワーシールド》だ。謂わば衝撃波の壁であるそれは並大抵のシュートならば易々と弾き返してしまえるだけの堅さがあるうえ、初動に隙が無いため何度も連続で出すことができる。例えキーパーを突破するための最善策である連携シュートを狙って来られたとしても、源田ならば問題無く対応が可能なのだ。
 だが、連発できるのにはそれなりの理由がある。そしてそれは《パワーシールド》の唯一といってもいい欠点――即ち、一枚一枚の壁自体は薄いのだということ。
 今まで一度も破られたことがないため本人も気にしてはいなかったらしいが、奇跡めいた試合展開をする雷門が相手である手前、万が一のことは考えておく必要がある。もしもあちらがこの弱点に気付いてしまった場合、源田が帝国ゴールを守ることは途端に難しくなってしまうだろう。

「一度につくる壁をもっと強くしたいんだが、そうすると連続して出す際にどうしても隙が生じてしまう。上手いこといくよう練習はしているつもりなんだけどな」
「大丈夫、源田が頑張ってることはよく解ってるから。それでもこればっかりは技の特性だから仕方ない……って割り切っちゃうのはまだ早いか」
「何か手があるのか?」
「手っていう程の得策は無いけど……少し動きを見せてもらっていいかな」
「あぁ」

 とにかく、少しでも《パワーシールド》の壁を強くし、それでいて現状の発動スピードを維持したい。『二兎を追う者は一兎をも得ず』とはよく言うが、勝負の世界に生きている以上、弱点を克服したいという向上心は誰にも咎められないものなのだ。
 馨の頼みを受けた源田は、馨がその場から数歩下がったのを確認してから《パワーシールド》を発動させた。高く跳び上がって落下すると共に拳で地面を殴りつけ、その勢いによってゴール前面を覆う衝撃波の壁を張り巡らせるのがこの技の原理だ。目の前に現れた眩い壁、その向こうでは源田が腕一本のまま逆立ち状態になっている。やがて彼が両足を地面に着けて立つと、壁は瞬時に姿を消した。

「どうだった?」
「完璧だね」

 馨は一言で言い切った。今し方見せてもらった一連の動作、そのどこにも口を挟める要素が見当たらなかったのだ。「さすがキング・オブ・ゴールキーパー」と称賛を贈ると、源田は照れたように鼻先を掻いた。
 けれどもすぐにまた真面目な面持ちに戻り、話を元に戻す。

「ということは、やっぱり改善できそうな部分は……」
「この技に関しては、改善が逆に改悪になっちゃいそうだ」
「そうか。……何だか喜んで良いのかどうか微妙だな」
「誇りには思って然るべしだよ、源田。自信持って」
「そうだな、ありがとう」

 ふっと表情を緩める源田に内心安堵しつつ、馨はさっきの源田の動きを脳内で何度も再生させた。
 壁の強さは衝撃波の強さ、つまり地面を殴る勢いを生むための跳躍力にかかっているのだが、これを今よりも高くしてしまうと先程源田の言っていた“隙”に繋がってしまう。《パワーシールド》の運用方法的にはまさに現状がベストなのだ。強いて言うならば体幹を鍛えれば持続力が上がるのだろうが、それも壁自体の強さには結びつかないのが難儀なところだ。そのことを源田に伝えると、彼もまた腕を組んで唸りながら首を捻った。
 なまじここまで向かうところ敵無しだった分、単純に戦力アップをさせれば良いという他プレーヤーに比べてキーパーの強化は困難だ。馨もキーパーというポジションに関してはあまり多くの知識を有していないし、彼と一緒に頭を悩ませるので精一杯だった。

「最悪、雷門が壁の薄さに気付かないうちにこちらが点を取れれば勝てるって話だけど、気付かれた場合がキツい。なら、そのときのために一つでも対応策があればいいよね」

 本気で対策を立てるのなら、新技を編み出すという手段が最も有効的だ。《パワーシールド》を常用しつつ、いざというときのために出せるとっておきの技を用意しておけば、精神的にも楽に試合を行えるだろう。
 馨の提案に、源田は「確かにな」と一つ二つ首を上下させた。簡単には言っているが、それがどれだけ大変なことなのかということを、どちらもきちんと理解している。つい最近完成させたばかりの《ツインブースト》だって、馨がつきっきりで指導しても完璧と呼べるようになるまでそれなりの時間を要したのだから。

「馨のいた時代には、他のキーパー技は無かったのか?」
「六年前か……当時から《パワーシールド》がほぼ無敵だったし、あとは――」

 ふと考えたとき、馨の脳裏にある一つの技の名が過ぎった。それを自覚した瞬間怖気が奔り、すぐに掻き消す。あれもまた、《皇帝ペンギン1号》と同じく世に出てはならないものなのだ。影山があのもう一つの“禁断の技”を持ち出すことだけは、絶対に阻止しなければいけない。
 馨はふるりと首を横に振り、一旦思考を消散させた。そして改めて目の前にいる少年を見構え、唇に弧を描く。

「いや、ここは源田の限界を突破させるくらいの気持ちで頑張ってみよう」
「限界?」
「今は連発性を重視して腕一本でやってるけど、それを両腕で、一撃に全力を込めてやったらどうなるかな」
「それは……」

 源田の視線がふと宙に浮く。己の両腕が繰り出す技を想像したのだろうか、やがてその両手がぎゅっと握り込まれた。

「多分、すごいことになりそうだ」
「だよね。試してみる価値ありそうじゃない?」
「あぁ、やってみよう。《パワーシールド》を超えた威力の――そうだな、《フルパワーシールド》を目指すんだ」

 すっかりやる気に満ちた瞳を輝かせ、源田はその名を口にした。まだ見ぬその技は、きっと馨の想像を絶するような、まさしく“絶対障壁”と呼ぶに相応しいものになるだろう。雷門のどんなシュートでも止められる強靭な守り。それを相手がどう攻略してくれるのかという点も含め、馨は今から決勝戦が待ち遠しくてならなかった。
 それからの馨は、《ツインブースト》特訓時と同様にマネージャー業と平行して源田の練習を見るようになった。他ポジションのメンバーたちもそれぞれこなさなければならないメニューはあるが、手の空いている者に頼めば積極的にシュートを撃ち込んでくれる。また、シュート練習の時間ならば源田の調整も同時進行できるので、馨は逐一彼の動作をビデオに収め、休憩の度にああでもないこうでもないと相談を重ねた。
 本当ならば、馨がシュートを撃つ役を担えれば一番良いのだろう。けれどそれができないのは今更で、どうしようもないことで、ひたすら動きを見て改善点を探し出すことに注力するしかない。
《皇帝ペンギン1号》を撃てた馨がよもやボールを蹴られないだなんて、そんな事情は恐らく誰も、源田だって知らないはずだ。それでも彼は一切シュートを要求せず、馨の指示を一途に呑んで練習に励んでいる。無理をさせないという優しさなのか、それとも単に思い至ってないのか、どちらにせよ馨はそんな源田の態度に少なからず救われた気分になれた。

「江波さん」

 紅白戦を終え、部活終了時間となってから数分後。
 未だベンチ前で身体を休めている選手たちからタオルを回収していた馨のもとへ、鬼道が歩み寄って来た。

「源田を見てくださっているのですね」

 さすがキャプテン、とでも言おうか。直接話したわけでもないのに、二人の様子を見て早くも察した様子だ。

「うん、さすがに《パワーシールド》だけじゃ厳しいんじゃないかって」
「以前から何度かアイツとの話には出ていたのですが、なかなか手が回らずにいた部分です。お手数おかけしてしまい、申し訳ありません」

 どうやら、源田は前から鬼道に同じ内容の相談自体はしていたらしい。それでも鬼道にだってやるべきことはたくさんあるわけなので、現状維持で大丈夫だったうちは後回しにしていたようだ。それをこうしてわざわざ詫びるなんて、本当に彼は人間としてできすぎているように思えてならない。
 馨はいやいやと眼前で手を振った。そんなことは《ツインブースト》の指導をした時点で当たり前の仕事として受け入れておいてほしいくらいだ。マネージャー業からは完全に逸脱しているけれど、馨はもうそれを苦だとも何とも思っていないのだから。

「鬼道くんも大変だろうし、こっちは任せておいてよ。というか、源田の素質がありすぎて私がいなくても平気そうな勢いだからね」
「……でしたら、お言葉に甘えさせていただきます。よろしくお願い致します、江波さん」
「はい、お願い致されました」

 律儀に頭を下げてから、踵を返して階段を下りて行った鬼道。赤いマントを翻すその背中を見送りながらゆっくり肩の力を抜いた馨の背に、今度は別の声が掛けられた。

「馨、お疲れさま」
「あ、源田。そっちもお疲れさまでした」

 背後からひょっこりと顔を出した源田が、ドリンクボトルを片手に馨の横に並ぶ。そして馨と同じく先程鬼道が消えて行った方向を見遣りながら、何とも言えない表情で小さく息を吐いた。

「付き合ってもらって悪いな、馨。……アイツのことも頼りにしてないってわけじゃないんだが、どうにも抱え込むタチだから」

 今の馨と鬼道のやり取りを聞いていたのか、ほろりと零されるのは心配故の苦笑いだった。

「雷門の件もあって、総帥は今まで以上に鬼道へいろいろと指示を出されている。その内容はオレたちチームメイトですら知ることはできないし、問題を共有することもできない。そうなると、あとは余計な負担を少しでも減らしてやることしかできないんだ」
「……優しいんだね、源田は」

 階段の奥に篭る影から視線を動かし、自分とほぼ同じ位置にある源田の横顔を見る。そこには確かに鬼道への気遣いが込められていた。源田には彼の身に降りかかる重圧そのものは目視できていないだろうに、肌で感じられるだけ、せめてその分だけでもと懸命に力になろうとしているのがよく解る。
 馨の言葉に、源田はいっそう苦笑を深くした。直接的に何かができないことは、きっと彼にとっても歯痒いことなのかもしれない。もっと明確に支えになれればと悔しい気持ちがあるのかもしれない。
 でも、今の段階では源田にできることは本当に限られている。そしてそれは馨も同じことだった。

「私もね、よく同じことを考えるよ。あの子のために何ができるんだろうって」

 毅然とした態度で去りゆく赤を思い返すと、人知れず胸が痛む。本人が自覚しているか否か定かでないその変化を感じ取ればそれだけ、このままいくと彼はどうなってしまうのだろうかと不安になる。
 いろんなものを背負って、抱えて、それでも帝国サッカー部のため勝利のため、鬼道は今も弱音一つ吐かずにひたすら突き進んでいる。常人ならば耐え難い環境下に置かれていようが、誰も彼が頽れるところを見たことがない。それこそが“フィールドの帝王・鬼道有人”なのだろうけれど、でも――彼はまだ、ほんの十四歳なのに。

「でも、いつも答えは出ないままで終わっちゃう。鬼道くんにとって本当に必要なものがまだはっきりと視えなくて、何をしていいのか解らない。だから、そうやってちゃんと考えて行動できる源田を尊敬するし、私で良ければ何でも力になりたいって思うよ」

 年上として情けなく、でも本当のことなのだからどうにもしようがなく。様々な感情を混ぜ合わせた末にへらりと笑うと、こちらを向いた源田も似たような表情になった。似たようではあるが、馨の浮かべるものとはまた、含有する意味が違うものに感じられた。

「馨は、オレたちとは少し違うと思うけどな」
「違う?」

 よく解らなくて訊き返すと、源田は自身の後頭部をくしゃりと掻き乱す。

「うーん、何がどうとは上手く言えないんだが……とにかく、違う気がするんだ」
「……そんなことは無いと思うんだけどな」
「それは馨が馨自身だからじゃないか? でも傍から見てるとそう思えるんだ。……だからできるだけ、アイツの傍にいてやってほしい」

 馨には、彼の中にあるその意図がいまいち読み取り切れなかった。けれども彼が真剣にそう言ってることはきちんと理解できたので、「解った」と一つ返事で頷いた。自分が鬼道の傍にいることで何かできるわけでもないことは重々承知しているが、恐らく、誰もいないよりかは誰かがいる方が良い。源田もそういう考えで言ったのではないかと、馨はそう結論づけた。
 鬼道のため、帝国サッカー部のため――自分ができることならば何でもやると決めたのは、他でもない自分自身。この場所にいる皆が後悔無き道を歩んでいけるよう、少しずつ、少しずつ、そして確実に、この足を前に進めていくだけだ。

「そんな頑張ってる鬼道くんのためにも、《フルパワーシールド》は絶対完成させなきゃね」
「そうだな、オレもますます頑張るよ。明日からもよろしく頼む、馨」
「こちらこそ」

 何にせよ、まずはとにかく目先の課題。
 馨が拳を差し出すとグローブ越しの拳がそこにぶつかり、ポスッと柔らかな音を奏でた。


* * * * *


「疲れた暑い死ぬ。馨、なんか飲み物ないのか?」
「ドリンクはもうおしまーい。外に自販機あるからそこまで我慢ね」
「ひえー鬼ィー」
「ウチの自販機って何であんな高いんだろな」
「誰か奢ってくれ」
「源田で良くね?」
「嫌に決まってるだろ。じゃあな、馨」
「お疲れーっす」
「バイバイ、また明日ね」

 今日も今日とて激しい鍛練を乗り切り、各々疲れた身体に鞭打って帰路に着く。鞭打つわりに口数が減らない辺りはさすが男子中学生といったところだろうか。
 わいわいと馴れ合いながら帰っていく彼らの背を見送った馨も、それから十数分後には残っていた作業を手早く終わらせて帰る準備を済ませた。ポキポキと嫌な音をたてる首や腰に顰め面しつつ、鞄を担いで校舎の外へと歩いていく。
 その途中で、彼を見つけた。

「まだ残ってたんだね」

 遠くからでも一目で判断出来る個性的なドレッドは、少なくともこの学園内では鬼道以外の何者でもない。
 隣に並んで歩みを揃えれば、鬼道は馨が来るのを解っていたかのようにテンプレめいた台詞を返した。

「お疲れさまです」

 言いながら、彼が反対側の手に持っていた携帯をこっそりポケットに戻したのを、馨は敢えて見ないふりをした。

「今から帰りか。車?」
「いえ、今日は歩きです」
「へぇー、珍しいね」
「遅くならないときはいつも徒歩で通学していますよ」

 移動するときは常に車のイメージがあったので、足を使って帰るという当たり前のことが意外に思える。それだけ鬼道という少年の異質な部分が自身の中に浸透しているのだと自覚させられ、馨は少し反省した。
 せっかくなので一緒に帰ろうかと提案すれば、案外素直に受け入れてもらえた。躊躇された末の承諾かクールに断られるかのどちらかを予想していたので、言い出したくせに少しだけ驚いてしまった。それを見上げた鬼道から「何故誘った側が驚くのですか」とご尤もなツッコミを入れられ、馨はせり上がる気恥ずかしさを適当な空笑いで誤魔化した。
 二人並んで、特に盛り上がることもなく暮れかけの夕空の下へ出る。七時を過ぎた学園前の通りは人影も無く、また車道にはちらほら車が通るだけなので、喧騒とは程遠い世界であった。ついさっきまで掛け声にまみれた環境で散々身体を動かしていたためか、今はそんな静けさがやけに心地好く感じられた。

「源田の方はどうですか?」

 校門を抜けたところで、鬼道がそんな話題を振ってきた。馨は調子の良さをそのまま声音に乗せて返す。

「いい感じだよ。両腕を酷使することになるから短時間にそう何度も試すわけにはいかないのがちょっと大変だけど、かたちは充分できてきてるしゴールも近いかな」

《フルパワーシールド》は威力こそかなり期待できるが、その分使用者である源田の腕への負担も大きいという一長一短の技だ。おかげで回数を重ねるような練習方法は取れない分、一回一回の試行錯誤に重きを置いてやるようにしている。元々パワーの強い源田はやはりキーパーとしてかなり優秀なため、早くも実用可能なラインが見えているし、雷門との決勝までにはきっちり間に合うと踏んでいた。
 馨の話を聞いた鬼道は満足そうに微笑み「それなら良いです」と言った。
 最近の彼は部活中、連携強化のためにとMFだけでなくFWDFを含めた全ポジションでの練習を行うため、グラウンドをひっきりなしに駆け回っている。それも総帥指示らしいのだが、キャプテンかつ司令塔を担っている鬼道の負担はこれまで以上に重くなっているのが現状だ。そんな中でも源田のことを気にかけてくれているらしいが、馨からすれば逆にこちらが彼を気にかけてやりたくなってしまう。

「鬼道くんの方も、最近は練習内容も変わってきてて大変だよね。身体は大丈夫?」
「問題ありません。メニューの内容自体もかなり煮詰められていますし、こなす意義は確かに感じられますから」
「それはそうだけども」

 帝国サッカー部の練習メニューは影山と鬼道が共同で決めているが、その実九割以上が影山考案であることを馨はずっと前から知っている。そして、その内容だけを見ればサッカー選手を育成するために必要な要素がしっかり詰まっていることも知っている。影山の性根は最悪でも、彼の選手育成能力だけは本物なのだ。鬼道も、そんな総帥の指示だからこそ融通が利かなくても文句一つ言わずに真剣に取り組んでいるし、完璧にこなそうと必死になっている。

「たまには休息を取ることも大事だからね」
「解っています」

 端的な返事。きっと本当の意味では解ってもらえていないだろうなと憂いていると、それが正しかったことを表すような切り返しが待っていた。

「江波さんも、今はきちんと睡眠時間を確保できていますか?」
「でき……てます、勿論!」
「……」
「ほ、本当だよ、一日六時間は寝るようにしてるから。それ以上は時間的に無理だし」
「なら、少しは安心しました」

 ふ、と吐息を漏らすように笑う鬼道に、馨はますます立つ瀬が無くなったような気になって首筋に手をやった。こちらが気にかけたつもりだったのに、いつの間にか年下に睡眠時間の心配をされるとはどうなんだろう。そもそも鬼道があの会話を覚えていたことも驚いたし、恥ずかしいし、立場が無い。無意味に首元を撫でながら、何とか話題を変えようと思案した。頭上ではカアカアとカラスが鳴いている。

「そういえば、もうすぐ帝国もテスト期間じゃない? 夏休み前だし」
「あぁ、そうですね。来週から考査週間が始まる予定ですが、サッカー部は大会があるので部活停止にはなりません……っと、江波さんも元帝国の生徒ですから知っていますよね、こんなこと」

「すみません」と何に対してなのかよく解らない謝罪をされたが、馨は「ううん、ありがとう」と言って話を続けた。

「前に他の子から聞いたんだけど、鬼道くんって帝国に入学してから一度も一位以外取ったことないんだってね。大体いつも全教科満点だって」

 他愛無い雑談の最中に聞いた話を思い起こしながら言うと、鬼道は何てことなさそうに小さく首肯した。

「鬼道家の名に恥じないよう、文武両道をモットーにしていますから。それと、いつも全教科満点というわけでもありません。くだらないケアレスミスで失点してしまうこともありましたので」
「それでもずっと一位って充分にすごいよ。不得意な教科とか無いの?」
「特に不得意だと感じるものは無いですが……以前失点したのは、国語でしたね」
「国語かー、何か懐かしいなぁ。『登場人物の心境を述べよ』とか『作者の意図を答えよ』とかだよね。たまに結構理不尽な答えとかあったりして」
「俺が間違えたのも、まさにそんな感じのものでした。何というのか……言い訳のつもりじゃないのですが、問いが抽象的ではなく理路整然としていて、式を解くことで唯一無二の答えが明確に判明するような問題の方が好きなんです」
「へぇ、じゃあ鬼道くんはどちらかというと理数系の人って感じなのか、かっこいいなぁ。私は文系だったから数学とか物理とか苦手だったんだ」
「ああ、何となく江波さんのイメージは文系な気がします。……あ、いえ、決して理数が苦手そうという意味では無くて」
「あはは、大丈夫だよ。自分でも文系っぽいなって思ってるから」

 静かな夕暮れの道を、そんな会話をしながらのんびりと歩いて行く。二つ並んだ高さの違う影が前方に真っ直ぐ伸び、時折互いのどこかが重なっては離れ、また重なる。馨も鬼道もそんなことなど気にも留めず、何も難しいことなどない対話を楽しんだ。
 思えば、こうして二人きりで雑談を交わすことなど初めてではないだろうか。鬼道家の車や帝国学園の車には必ず寡黙な運転手が同乗していたし、会話の内容だってサッカーのことやチームのことばかりだった記憶しかない。二人きりになる頻度だけなら他のメンバーよりもうんと多かったのに、選手とマネージャーという互いの立場が一番表にある状態でしか話をしてこなかった。そのせいで、もう一ヶ月以上近い距離で時間を過ごしてきたというのに、馨は今の今まで鬼道の不得意な教科さえ知らなかった。
 そこにはいろんな理由があるのだろう。馨も鬼道も相手に対してどこか一線を引いていたし、割り切った付き合いをしているという自覚があった。それに馨からすれば、鬼道はあまり自身のプライベートに干渉してほしくなさそうにも見えていたのだ。話題を振っておいてなんだが、彼が自分のことをこれだけ話してくれるなんて思いもしなかった程に。
 心はひどく穏やかだった。もう、鬼道と一緒にいても息苦しさなんて感じることはない。沈黙に困るようなこともない。彼と共にいる時間が自分にとって大切なものなのだと、確かにそう思えるようになっていた。
 カアカアと喧しく鳴くカラスは、そのうちどこかへ飛び去っていった。夕日は未だ燃えるような金色に輝いていて、二人の背後から強い光を当ててくる。人気の無い街路が眩い黄金に照らされている。そこに連なる影が、今はぴたりと重なったままだ。
 静かに、けれど自然に途切れることなく続く二人の会話は、そのうち鬼道の持つ鞄の話へと移っていた。

「帝国の鞄って、確かどっかの有名デザイナーにデザインを描いてもらったんだよね」
「そうらしいですね、デザイナーはイタリア人だと聞いています。それでリクルートバッグのブランドメーカーが作っているとか」
「そこまでは知らなかったわ。見た目すっごいお洒落だもんね、鬼道くんが持つと尚様になるというか」
「ありが……待ってください、それは褒め言葉ですか?」
「褒めてるって! まさに一大企業の社長様って風格があるというか、中にパソコン入ってそうというか……うん、改めて見てみると、なんかやけに重そうに見えるな」
「まあ、一応教科書やノートなどが入ってるので重いと言えば重いですけど」

「これくらいなんてことありません」と右手の鞄をその場で持ち上げてみせる鬼道。彼は学年一の秀才であるから、俗に言う“置き勉”などは十中八九しないのだろう。馨は自身の中学時代の鞄の中身を思い出しては内心で空笑いし、徐にそのぱんぱんになっている鞄を掠め取った――途端、ずしりとした重みが半身にかかった。

「うわっ、重っ!」
「そこまででもないはずですが……もしかして江波さん、まともに教科書を持ち帰ったことありませんか?」
「う、それはそれで置いといて……」

 痛い話が広がりそうなので、そこは苦笑いで流しておいた。
 軽々と持ち運んでいるように見えたから、例え中身が詰まっていたとしてもそこそこの重さ程度だと思っていたのだ。それなのに、実際持ってみるととてもじゃないが片手では厳しい。鬼道の腕力が凄まじいのかはたまた自身の力が弱いのかは定かでないが、これの重さが学生鞄の範疇に留まっていないことだけは確かである。本当にパソコンでも詰まってるのではなかろうか。馨は片手の限界を感じ、すぐに両手で持ち直した。
 そのまま歩みを進めながら、中に入っている教科を問うてみた馨。さも当然なように返ってきた答えは、副教科を除く全ての科目であった。

「今日授業が無くても、予習や復習は毎日やらなければいけないことです。習ったことを忘れては意味無いので」
「ひゃー。あんなに厳しい部活終わった後で、辛かったりしないの?」
「勉強もサッカーも両立すべきものなので、どちらももう片方を疎かにする言い訳にはなりません」
「……そっか」

 はっきりとそう明言されるのを聞くと、馨は短い相槌を打って顔を正面に向けた。
 ――余計なことを訊いたせいで、すっかり雰囲気が元の鬼道に戻ってしまった。
 堅苦しい物言いですら中学生らしさに欠けるというのに、今の言葉には、六つも年上の馨にすら無い“大人らしさ”が秘められていた。馨が子どもなのでなく、彼が大人に限りなく近い存在であるのだ。以前御影で感じた感覚が、よりいっそう強くなって心に戻ってくる。
 彼の背にあるのは、鬼道財閥の跡取りかつ四十年間無敗の天下の帝国学園サッカー部を率いるキャプテンであるという肩書きによる重圧。齢十四の少年には酷い苦痛にしかならないそれを背負い、こんなに重たい鞄を持って歩いているのだ、鬼道有人という少年は。きっと自分には計り知れない重荷であろうと思う度、馨は自分自身の在り方についてまで考え直したくなる。
 同時に、微かな憤りも覚える。
 ――自分を大切にしないのは、彼もまた同じことなのに。
 幾度と言われた言葉を思い返し、音にはせずに呟く。鬼道だって、周りに求められるまま大人になろうと背伸びばかりして、子どもらしく弱音を吐くことなどすっかり忘れてしまったみたいに振る舞っている。馨が肉体的に自身を苛めているとすれば、彼は精神的に自身を苛めているのだ。本人はきっとその事実を、無視をしすぎた結果見失ってしまっている。
 ――誰かに身を委ねることは、決して罪にはならない。
 つい最近、源田と交わした会話が蘇る。源田も自分もただのチームの一員でしかない。だから決して鬼道に頼られたり寄り掛かられたりすることはないのだろうが、それでも、どうしたって心配する気持ちは抑えられないし、ほんの僅か、ほんの一欠片でもいいから、抱えているそれを預けてほしいと思ってしまうのだ。
 夕日の加減により、鬼道の顔に濃い影がかかる。表情は依然として“帝国の鬼道”のままであった。そんな彼が、暫しの間を置いて口を動かす。

「江波さん、鞄を――」
「鬼道くんの家ってどこだっけ?」
「え?」

 タイミングを計ったように遮る馨に、鬼道は一瞬呆気に取られてから半ば機械的に己の住所を告げる。馨はにぃっと口の端を吊り上げた。

「もう暗くなるし、危ないからお姉さんが送っていってあげる」

 時刻はもう七時をとっくに過ぎている。初夏という季節のおかげで未だ世界は眩い橙色に包まれているが、じきに夜を迎え濃紺と鼠色に覆われていくであろう。
 わざわざ“お姉さん”を強調してそう勝手に決めつければ、それまで微動だにしなかった鬼道の眉が大袈裟なくらい持ち上がる。

「い、いえ、俺は平気です、そんなご迷惑かけるわけには……それに、江波さんは駅に向かわれるのですよね、位置的に道を外れてしまいますから」
「そんなの問題じゃないよ。今のご時世、男の子だって何が起こるか解らないんだから。鬼道くんみたいな可愛い子、特に気を付けなきゃ」
「かわいっ……!」

 畳み掛けるようにして出した発言。普段言われ慣れない単語が出てきて返す言葉に詰まった鬼道の頬は、影になっている中でも判りやすいくらい朱を差していた。
 彼のこういった反応を見ると、馨はどこかほっとした気分になる。前に頭を撫でたときも同じ思いを抱いた。世間体や体裁でがちがちに固められた蝋の殻を、少しずつ叩き崩しては素顔を暴いていくのに近い感覚。そこに本当の鬼道有人の断片を見つけ出せば、落ちてくるのはささやかな達成感。十四歳らしいありのままの鬼道を、もっと身近に感じたかった。
 両手で持った鞄はそのままに、馨は鬼道の帰路と同じ道を進もうとする。未だ戸惑っている彼を尻目に捉えつつ、真っ直ぐ伸びる影を見つめながらぽつりと一つ、口にした。

「それにね、私がもう少し一緒にいたいんだ、鬼道くんと」
「え……」

 途端、鬼道はぴたりと足を止めてその場に留まった。しかしすぐにはっとして馨の横へ並び、その横顔を仰ぐ。

「江波さん……」
「私たちって結構こうして二人になる機会多いけど、今日みたいにたくさんお喋りしたこと無かったでしょ。私の話はともかく、鬼道くんの話ってあんまりしたことなかったよね」
「そう、でしたか?」
「うん、そうだった。だから、今こうして一緒に帰りながらいろんな鬼道くんの話が聞けるの、私はすごく楽しいんだ」

 そこでやっと、馨は隣を歩く少年のことを見下ろした。ぱち、と重なり合う眼差し。ゴーグルの奥に薄らと見える切れ長の瞳が、あたかも何かが眩しそうにやんわり細まっていく。

「鬼道くんが嫌なら、勿論無理強いはしないけど……今日だけでも、こういうのはダメかなって」
「いえ……ダメとは、言っていません」
「じゃあ、一緒に帰っても?」
「……江波さんがよろしいのなら、ぜひ」

 さっきまでの溌剌とした話し方とは打って変わった小さな声で、けれども鬼道は拒絶をしなかった。自分から望んだような言葉ではなかったけれど、馨はそれで充分に嬉しかった。彼の瞳を覗いたことで、少なくとも自分のこんな好意が迷惑ではないのだと、そう感じることができたから。

「江波さんこそ、帰りは気を付けてくださいね」
「大丈夫、駅もそんなに遠くないし」

「ついでにラーメンでも食べて帰るよ」と付け加えてみれば、馨の健康を気にしてくれる鬼道の肩からほんのり力が抜けていくのが目に見えたような気がした。

「あと、鞄は自分で持ちます。重いでしょうし」
「重いからこそ私が持つの」
「でも」
「良いから」

 ぴしゃりと言い放ち、馨はそれ以上食い下がるのを許さない。
 そこで、もう口ではどうにもならないと悟ったらしい鬼道が、眼差しだけで疑問を投げかける。どうしてそこまで譲らない? ――そんな問いを真正面から受け止めた馨は、ふっ、と細い息を吐いた。

「私と二人きりのときくらい、重さなんて忘れても良いんだよ」

 涼やかな風が二人の間を通り抜け、馨の髪を掬い上げた。
 鬼道が、まるで呼吸を止めるようにして動かなくなる。

「鬼道くんはいつも頑張ってるけど、無限ってわけじゃないんだから。どっかである程度緩めておかなきゃ、いつか身体を壊しちゃうよ」

 結局、馨が本当に伝えたいことはこれだった。一緒にいて、いろんな話をして、その最後に知っておいてほしいのは、とても単純でとても簡単で、なのに彼へ伝えるにはとても難しいこと。
 鬼道はすっかり動かない。だから馨も同じく足を止め、彼を振り向いた。ほんの少しだけ互いの距離が開き、影はいつしか離れ離れになっていた。
 でも馨は、今、鬼道と出会って以来最も彼と近い場所に立っている気持ちでいられた。ここでならきっと、この思いもしっかり伝えることができるのだろうと。確証など無いのにそう思えるくらい、彼のすぐ傍にいられるような気がしていた。

「『解るよ』なんて軽い気持ちで言えない。私は鬼道くんじゃないから、鬼道くんがどんな風に何を感じて生きてるのか、全部丸ごと理解できるわけがない。でも、鬼道くんが重いと思うものは、私にとっても絶対重いものなんだってことは確かだと思う」
「……」
「吐き出せる場所、抜けられる場所、なかなか無いよね。見てるだけで息苦しいから。……ただ、私なんてただの雇われマネージャーだし、あの総帥とかに比べれば全然ちっぽけな存在でしょ」

 馨は自分で言っている最中、ふとあのとき源田が口にした言葉の意味を漸く理解できたように思えた。『オレたちとは少し違う』という言葉は、ああ、確かに間違ってはいなかったようだ。
 馨は源田を始めとした帝国サッカー部員たちとも、その頂点に君臨するあの総帥とも違う、帝国からすればある意味異種なる存在だった。鬼道にとってもきっと同じことだろう。キャプテンとして常に気を張り皆の手本になろうと背筋を伸ばし続けている必要も無ければ、総帥の右腕として命令に忠実でなくてはいけないという必要も無い。もっと言えば、馨は“鬼道財閥の御曹司”だなんて肩書きすら、この鬼道有人には求めていないのだ。
 力になりたい、だなんて大それたことを言える義理も無いかもしれない。
 ただ馨は、彼に何の見返りも求めない。対価なんて必要としなくたって一心に思っていられる。彼がありのままでいてくれればそれで良いと、そんな眼差しのみをやさしく向けていられる。
 もしかすると、鬼道にとって自分は、そういう意味で少しくらい特別な相手になれるのではないか――やっと自分の立ち位置を認識できた馨の口元が、花開くようにゆっくりと綻んだ。

「だったら私の前でくらい肩の力抜いて、ついでに息も抜いて、いろいろ忘れちゃっても損はないんじゃないかな、と。少なくとも私は、そう思うな」

 いまいち慣れてはいない物言いを、それでも照れを隠して全て言葉にする。これが馨の伝えたいことの全てだった。遍く感受してもらえたかどうかは解らなくても、きちんと伝えきれたというだけで心のつっかえが一つは外れた心地がした。
 鬼道はやはり、まだその場で立ち尽くしたままだ。ゴーグルの奥はこの位置からでは逆光になってしまって見えないけれど、僅かに震える肩、そして緩く握られた両の拳が、彼の心境を汲み取るには充分な役割を果たしていた。
 それからどのくらい、こうして二人で向き合っていただろう。

「……江波さん」
「はい?」

 ふと名を呼ばれると、爽やかな風が再び互いの間を吹き抜け、そのままくるりとあたたかい空気で包み込んでくれるようで。

「ありがとう、ございます」
「どういたしまして」

 大丈夫。例え鬼道の声が微かに揺れていたとしても、馨には真っ直ぐ、痛い程に真っ直ぐ、ちゃんと届けられた。
 だから次は二人で笑い合って、もう一度影を重ねて、帰路を行く。何の肩書きも持たない鬼道有人として、江波馨として。何てことない時間を共に過ごし、何てことない談笑を交わし、二人はそのうち鞄の重みなんてすっかり忘れてしまっていた。




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