変革を告げる電話


「オレ、お前とボール蹴ってるときが一番落ち着くよ」

 ツータッチで受け止めたボールを器用に爪先に乗せ、少年が笑う。

「お前は?」
「私は、君も勿論だけど、皆と一緒にいるときが一番好きだな」
「馨らしいや」

 ははっと軽快に歯を見せる少年に、少女もまたはにかむ笑顔を見せた。

「時々思うんだ。このまま――」

 ――時が止まってしまえば良いのに、って。



* * * * *


 この幸せな時間がずっと続いてくれたら良いのに、と願うのは、人として当たり前のことなのかもしれない。皆で笑い合っていられる世界であり続けてほしいと、いつの時代でも人はそんな儚い望みを抱いて生きている。
 しかし、どんなに平穏な日々にもいつかは終わりが訪れる。不変などこの世にはありえない。その変化こそが世界を動かし、新しい道をつくりあげる契機となることができるのだから、決して望まれないものではないはずなのだ。
 ただ、今という時が心地好ければそれだけ、人は変化を受け入れ難くなる。そしてそういう状況下で齎される変革であるからこそ、そこには大いなる意味と可能性が秘められている。
 そのことを、馨はずっと昔に、身を以て経験していた。
 そんな彼女が再びそれを痛いくらい感じることになるきっかけとなったのは、鬼道と二人でミーティングをしていた際に彼が受けた一本の電話だった。

「失礼します」
「良いよ」

 マナーモードにしているらしく、音は鳴らずにちかちかと光を点滅させて震えるだけの携帯。スタイリッシュな赤いそれを眺めつつ、機種は何だろうなどとぼんやり考えている馨の前で、鬼道は慣れた動作で電話口に応答をした。彼の返す言葉はどれも短く、電話の相手は馴染みのある者であることが解る。上下関係を匂わせる口調から、馨は会話相手をほぼ断定することができた。
 通話の時間はほんの数十秒だった。最後に「解った」とだけ言ってからボタン一つで通話を切った鬼道は、携帯をしまいながらガタリと席を立つ。

「すみませんが、少し出てきます」
「土門くんから呼び出された?」

 小首を傾げながら何となしに問うてみた馨に、鬼道は呆れと感心の入り混じった顔をしてみせた。

「……本当に、勘の鋭い方ですね」
「それほどでも。呼び出しってことは急ぎの用事なのかな」
「さぁ、用件までは聞いておりません。すぐに戻るので、それまでグラウンドの奴らを見ていてやってください」
「了解」

 軽いやり取りをしてから机上に広げていた資料や筆記用具を片し、馨もまた腰を上げて既にドアを開けている鬼道の後に続く。目の前にあるのは真っ赤なマントをはためかせる王者の背中。あの夕暮れに肩を並べたものとはまるっきり違う、しゃんと伸びた揺るぎない背中。

「ねぇ、鬼道くん」

 それを見ていたら、いつの間にか口から問いが零れ出ていた。

「もしも総帥の指示か自分自身の決断か、そのどっちかを選ばなきゃいけなくなったら、どうする?」

 我ながら唐突だと思えるその問いは、二者択一。どうしてこんなタイミングで訊いたのか自分でもよく解らないけれど、何故か今ここで、彼の中にそんな問いかけを残しておきたいと思ってしまったのだ。
 それはもしかすると、彼を呼び出したのが土門飛鳥だからなのかもしれない。これから何かが起きるのではないかと、そんな予感が胸に去来したからかもしれない。
 どちらにせよ、そんな馨の胸中なぞいざ知らずな鬼道は歩くスピードを落とし、いきなり何なんだと言いたげにこちらを振り返った。当然の反応だろう。返答をするより、そこから続く出方を窺おうとするような様子の鬼道に、馨はただ眉尻を下げる。

「私は、君の選択を信じたいと思ってるからね」

 そう言い残してグラウンドへ続く階段を上る馨は、結局最後まで鬼道の答えを聞けることはなかった。


* * * * *


 ズバッとゴールネットを揺らす音が空間に響くと同時に、今まさにシュートを決めた三人が綺麗に着地をした。

「馨、どうだった?」

 そのまま小走りで駆け寄って来たのは、洞面を始めとする通称《デスゾーン》組。馨は片手に持っていたビデオの画面を彼らがよく見えるように動かし、再生ボタンを押した。直後に映像の中の三人が飛び上がり、くるくると回転しながら宙で三角を描く。

「タイミングも力のバランスも申し分ないね。前よりもっとキレが良くなってるよ」
「まあ、回るのにももうすっかり慣れたしな」

 寺門の台詞は冗談めいた物言いで、馨は笑いながら相槌を打つ。確かに、あれだけ回転しながらボールへと力を集中させるのは色々と辛い部分があるのだろう。実際に《デスゾーン》を撃ったことはない馨だが、傍からでも充分にこの技の難しさは見て取れた。
 馨が冗談半分で受け取っていることを悟った佐久間は、やけに真剣な顔つきで「笑い事じゃないぞ」と溜め息を吐いた。

「最初の頃なんかは本当に酷かったんだぜ、冗談抜きで」
「そうそう。三人揃ってサッカーどころじゃなかったですよね」
「あらら、グロッキー的な意味で?」
「まぁな。鬼道はスパルタだったからなぁ」

 遠い目をして思い出話をする三人の脳裏には、恐らく在りし日の自分たちの様子が鮮明に蘇っている。馨にはその具体的なかたちは見えないが――スパルタ鬼道だけはやたらリアルに想像できた――語る彼らの雰囲気からして相当大変であったことが窺えたので、依然として笑いながらも「大変だったね」と労いの言葉をかける。

「でも、そんな努力が今の君たちをつくってるんだから、悪いことばっかでもないよね」
「おー、なかなかそれっぽいこと言うんだな、馨」

 少し照れ臭そうに口元を緩める寺門。隣では佐久間がフンと鼻を鳴らしていたが、満更でもなさそうであった。
 四十年間無敗の帝国学園サッカー部。長年築き上げてきた栄光の影には、いつだって部員たちの血と汗と涙が流されている。努力の無い勝利など有り得ない。弱者を痛め付けてせせら笑うサッカーをするようなところは、いくら過去に同じことをしていたからといって手離しに賛同できる部分ではないが、少なくともその強さの裏には死に物狂いの努力の末に得た力があることを馨はよくよく承知していた。帝国サッカー部というチーム全体が、他の学校に引けをとらぬどころか他よりもずっと厳しい練習を重ねている。だからこそ馨は、このチームが行うサッカーそのものを否定することはできないのだ。
 しかし――実際のところ、その“四十年間無敗”という伝説に関しても、今となっては怪しいものがある。
 帝国サッカー部が強いこと自体は本当だ。けれども、これまで影山が裏で行ってきた行為を思い返せば、彼らの掴んだ勝利は常に純粋なものだったとも言い切れない。選手を完全に駒扱いし、執念とも呼べる程の粘着質さで完璧な勝利に拘る影山が、今年の大会だけあんな卑怯な真似をしているとはとても考えられなかった。
 そのことを、今も馨の眼前で真剣にサッカーへ取り組む皆は知らない。皆は、帝国の誇る四十年間無敗という記録も、それに続くようにして勝ち取っている勝利も、全てが自分たちの努力の成果だと信じてやまない。自分たちの実力なのだと疑わない。本当はね、と誰かが告げ口したところで、到底信じられることでもないだろう。皆は、影山のことをチームを導く総帥として信用しているのだから。
 故に、馨は影山が憎い。純真なる信用を無下にし、メンバー全員が一丸となって目指す勝利を穢し、その努力を踏み躙るような行いばかりをするあの男のことが憎くてたまらない。そんな男の下で毎日健気に励む皆の姿を見ていると、時折胸が締め付けられる思いがする。
 影山のやっていること、彼の本性、勝利の裏に隠された真実――帝国の根底を覆すそれらを知ったとき、このチームはどんな道を選ぶのだろう。
 そんな、考えたところで答えなんて出しようの無い自問は、遠くから己の呼ぶ源田の声によって静かに霧散していった。

「馨ー、今いいかー?」
「はーい、すぐ行くよー。じゃあ三人とも、一旦休憩を取ってから次のトレーニングに移ってね」
「あいよ」

 三人が返事をしつつラインの外に出ていくのと共に、馨は自分を呼んだ源田のいるゴール前へと駆け寄る。体幹を鍛えるために逆立ち状態を維持していた彼は、馨が到着するより早く足を地に着けた。

「どうしたの? 何かあった?」
「何か……というより、少し相談なんだが」
「ん?」

 相談ならば《フルパワーシールド》の件だろうかと推測し、話を促すように首を傾ける。源田は徐に右手のグローブを外すと、古傷の目立つそれを左手で軽く撫でつけた。

「ここまで何度か両腕で試してきて、結局どうしても違和感が残ってならないんだ」どこか申し訳なさそうな口調で、彼は馨の目を見つめた。「やはり、右腕一本の方が良い気がする」
「……」

 源田の提案に、馨は暫し口を閉ざした。その間にもふと湧いて出てくるのは、やはりな、という端的な気持ち。技の使用者張本人である源田ならば、その“違和感”とそれを取り除くための解決策にも気付かないはずはないだろうと思ってはいた。
 ずっと右腕一本で《パワーシールド》を繰り出していたからか、両腕を使うようになってからの彼には少しまごつく面も無いことはなかった。使用する腕が二本になり、パワーを込める場所が分散したことが原因だ。そしてそこが完成に到達できない最後のポイントだった。馨としては、何とか決勝までに両腕で衝撃波の壁をつくり出すことに慣れ、違和感を違和感とも思えなくなってくれることを期待していたのだが、もうそういうわけにはいかなさそうだ。
 そもそも、馨が何故片腕のままパワーアップを図ろうとしなかったのか、何故両腕の使用を提案したのか。実際に使っている身ならば、源田だってその理由はとっくに察しがついている。

「多分、馨はオレの腕を案じてくれてるんだよな。今以上のパワーを一点集中で出せば威力は一気に増すけど、その分腕への負担も大きくなるから。両腕でやってるだけでもこれだけ大変なのに、それを一極型にすればどうなるか、って考えて」

 それを案じていると取るか舐められていると取るかは人によるだろうが、源田は何の含みも無く前者を取ってくれた。依然黙ったまま源田の右手を正視している馨に、困ったような表情を浮かべてみせる。

「でも、オレだって帝国のゴールキーパーなんだ。キング・オブ・ゴールキーパーだなんて大それた肩書き背負っておいて、自分の限界を勝手に決めることはしたくない。オレのプライドが、次の雷門戦では一切妥協したくないって、そう言ってるんだ」
「源田……」
「もしも万全じゃない《フルパワーシールド》で相手のシュートが止められなかったら、それこそオレは一生レベルで引きずる。だから、この腕一本でやっていくことを許してほしい」

「すまない」という謝罪で締め括られた源田の言葉が、馨の胸に深く突き刺さる。
 決して彼には無理だと思って避けていたわけではなく、単純に彼の右腕を気にして明言することをしなかった。本人が言うように、両腕だけでも回数を気にして練習しなければならない技なのだから、その威力を片腕に集めて全力で繰り出そうものなら、下手するとその後にまで響いてしまうかもしれない。あの禁断の技程の被害は無いとしても、そうそう気軽に使えるようなものではないのだ。だからこそ《パワーシールド》は連発性を重視し、一枚の壁を薄くしているともいえる。
 けれど、そんな憂いも源田のプライドには敵わない――愚直なまでに言い募られたのはどれも真摯な彼の本心で、それを切って捨てるだけの無情さなど、馨には備わっていなかった。
 源田の瞳の中に宿る“帝国サッカー部のキーパー”という強い誇りを垣間見て、眩暈のような感覚がぐるりと身体の中を一巡した。

「……私の方こそごめんね、君の覚悟を甘く見てたかもしれない」

 絶対に、雷門のシュートを止めたい。絶対に、雷門に勝ちたい。
 そのためならば腕一本だって安いものだという思いは、源田だけでない、キーパーならば誰だって持っているものなのだろう。あの練習試合の日の円堂もそうだった。
 ならば、それを正面からぶつけられた馨がやるべきことは、否定をしてやることじゃない。その腕一本が最低限の被害で留まるため、彼が何も失わないために尽力する、ただそれだけ。
 一緒に頑張るというのは、きっとそういうことであるはずだ。

「右腕に集中させるなら、フォームとかいろいろもう一度見直したい部分が出てくるね。あまり時間は無いけど、私も全力で手伝うよ」

 改めてよろしくの意を込めて、源田の剥き出しの右手にそっと触れる馨。源田はぱっと切り替えるように満面の笑みを浮かべ、その手を取って握手のかたちにした。

「ありがとう、馨。後悔しない試合にしよう」
「そうだね、全力を出し切れるのが一番だもんね。ただ、解ってるとは思うけど使えるのは多分一回きり、良くて二回が限界だよ」
「あぁ、それでも充分だ。まだ《パワーシールド》が破られると決まったわけでもないしな」

 やさしい力で握ってくる手は、馨よりも一回り近く大きくてしっかりしている。古傷も多いし皮は分厚く張っているので決して触り心地が良いとはいえないけれど、とてもあたたかみのある手だ。この手こそが彼の誇りの表れであると思うと無性に尊い気持ちになって、馨はしみじみと感じ入るようにして何度もそれを握り返した。
 そんなことをしている最中、不意にパンツのポケットに入れていた携帯がぶるぶると振動し始めた。

「わっ!」
「電話か?」
「うん……誰だろう」

 一言断ってから手を離した源田と距離を置き、携帯を開く馨。画面に表示された数字の列を見ると怪訝に眉を寄せた。見覚えの無い番号だ。

「もしもし」
『あ、もしもし、江波コーチっすか?』

 鼓膜を震わす声は機械越しだからそう聞こえるのか、寝起きのような、或いはわざとそうやって潜めているような、ひどく掠れた低音だった。
 だが、どこかで聴いたことのあるような声でもある。最近耳にした覚えがあった。そして妙に馴染み深い口調だ。一体誰だろう――返事も忘れてぐるぐると考えた結果、最終的にぴんときたその名を思い切って口にしてみた。

「……もしかして、土門くん?」
『ご名答です』

 声の調子から、電話の向こうで彼が微笑むのが解った。微笑んではいるが、空気はあまり穏やかでない。

「いきなりどうした? それに、番号はどうやって……」
『円堂に聞いたんです。今って周りに誰かいます?』
「誰か……いるけど、一人になった方が良い?」
『はい、お願いします』

 いつになく切羽詰まった声音。唐突にかかってきた電話に思考を追いつかせる前に、馨は彼の言うようにグラウンドを出て作業場へと身を移した。自分以外の存在しない静かな空間。土門の用件が誰にも聞かれてはならないようなものなのだと理解すると、緊張からどくりと心臓が高鳴る。

「移動したよ。それで、何の用かな」
『……今から言うことは、全部本当のことです』
「解ってる」

「信じてください」と僅かに声を震わせる土門に、見えないと解りつつはっきり頷く馨。
 土門はそこで意志を固めたように息を吐くと、声を潜めて話を切り出した。

『何から話せば良いか……あの、まずコーチに謝らなきゃいけないことが……』

 言い難そうに口篭る様子から、土門が伝えたいことを汲み取った馨。きたか、と思いながら微かに笑み、それ以上言わせぬようにと先回りをした。

「スパイのことなら、謝る必要は無いよ」
『……! 気付いてたんですか』

 肯定の相槌を打てば、見えないところで彼が僅かなりとも脱力したのが解る。貴女のことを監視していました、などという嫌な告白をしなくて済んだからなのだろう。それでも罪悪感が消えるわけでなく、先を語る口振りはどこか弱々しかった。

『すみませんでした、オレ……』
「気にしてないって。影山からの指示だったんでしょ?」
『……はい。豪炎寺がウチ……いや、雷門に入部するのと同じくして、総帥からスパイとして潜り込むよう命令されました。雷門の情報を逐一報告したりとか、それと……』
「もういいよ、土門くん。私だって帝国にいる人間だから全部解ってるし、納得できてる」
『でも、オレは――!』
「土門くん」

 どうしても言い足りなさそうにする土門を、真剣な声音一つで制止した。電話の向こうは息を呑むようにして瞬時に黙り込み、電波の雑音に混じって浅い呼吸音だけが聴こえてくる。
 ここまでの言い方からしても、全てのことを土門が望んでやったことではないと感じ取ることができる。馨としてはそれでも充分だったし、これ以上彼の口から己の罪を告白させるのは気が引けた。だから、声を張ってきっぱりと話題の転換を行った。

「それより、話はこれだけじゃないんでしょ?」
『……はい、それが……』

 そこでやっと気を持ち直したのか、土門の声音が鋭さを増す。

『スパイは、オレだけじゃないんです』

 その暴露に一瞬目を見開いた馨だが、よく考えてみれば自分自身、土門が雷門へ入るよりも前に誰かしらが情報を漏洩させているのではという推察をしていた。雷門と帝国の練習試合、帝国は馨が雷門にいるということを普通ならありえないタイミングで気付いていたのだ。それがスパイによるものだったとすれば辻褄は合う、今更驚くような情報ではない。

「……それは、誰?」

 どくどくと五月蝿い心臓を上から押さえ込みながら、恐る恐る問うた。

『顧問の冬海です』
「アイツか……」

 名を聞いて、怒りや驚愕よりも先に悔しさが募る。握り拳を壁に当て、馨はぎゅっと顔を顰めた。
 今になって思えば、あの男はあまりにも挙動不審すぎた。自分に向けられる視線の気持ち悪さも、恐らく馨に対する監視の目からきていたのだ。馨が雷門のコーチを始めたことを影山に流したのも彼であろう。何故もっと早く気付けなかったのか――過ぎたことは仕方ないにせよ、この憤りはどうしようもなかった。
 土門が心配げに大丈夫かと尋ねてきたのに対し、飽くまで冷静さを失わぬよう努める馨。大丈夫だと普段通りの返事をしたことに安堵したのか、土門はさらに落ち着いた調子で話を続けた。

『その冬海が今朝、雷門イレブンが決勝戦に向かう際に使用するバスに細工をしていたんです』
「細工って……まさか」
『はい……ブレーキオイルを、抜いてました』

 その瞬間。
 ダンッ! という固い衝撃音が作業場に、そして電話越しの土門のもとへと響いた。

「信じられない……」

 わなわなと全身が震えるのが解る。壁に打ちつけた拳の痛みすら消散してしまう程の激情が、行き場無く体内を暴走しては爆発し損ねていた。ありとあらゆる暴言が頭を過ぎり、言葉になる前に掻き消えていった。

 ――バスの事故だって。
 ――聞いたよ。なんでも、一人は足がもうダメらしいとか。
 ――決勝戦はどうするんだ?
 ――あの子マネージャーじゃなかったっけ。どうしてここにいるんだろう。

 鈍器でしこたま殴られたような鈍痛が、脳髄から脊髄を伝って身体中に広がる。ぐわんぐわんと不快に反響する音の塊を、深く息を吸うことで無理矢理自身から閉め出した。
 落ち着かなければいけない。冷静さを欠いてはならない。自分を失ったら、そこで負けてしまう。
 ゆっくりと深呼吸を繰り返せば、再び壁の冷たさを感じられた。今一度周囲に誰もいないかを確認してから、馨は壁を背にしてその場にずるずるとしゃがみ込んだ。

「それは、影山の指示で?」
『恐らくは。あまり詳しいことは解りませんが……とにかく、アイツはどんな手を使ってでも雷門を決勝戦に行かせないつもりです』

 どうだろうか。影山の性格を考えれば、直接バスに細工しろと名を下したとは思えない。雷門がここまで勝ち進んだことに対し、冬海自身が影山から何かしらの宣告をされたと考えるべきだろう。どうにかして雷門の決勝戦への参加を阻止しなければ、スパイである冬海にとっては身の破滅となってしまうはず。だからこそ、そんな――選手の命すら捨てられる凶行に及べたのだ。
 今馨の身が雷門中にあったなら、すぐに冬海を探し出して問答無用でその面を殴り飛ばしていたに違いない。そして二度と雷門サッカー部に関わりが持てぬよう、あらゆる手を尽くして彼を追い込んでいた。自分が帝国にいて身動きがとりづらいことを、あの男は涙して天に感謝すべきだと思えた。

「そのことを皆は知ってる?」
『いえ、知りません。だからオレ、明日の部活前に雷門夏未へ告発します』
「えっ」

 何の躊躇いも無くされた宣言に、馨は一瞬言葉に詰まった。

「でも、そうしたら……」
『解ってます』

 冬海を告発するということは則ち、土門自身の素性をも暴かれてしまう可能性があるということだ。あの男のことだ、道連れとばかりに土門がスパイであることを喋ってしまうに決まっている。雷門サッカー部に限ってそんなことはないと思うが、万が一があれば、これ以降土門はあのチームに在籍できなくなってしまうかもしれない。
 それでも真っ直ぐに応える土門は、全てのリスクを理解したうえでもう腹を括っているのだろう。そうしなければいずれバスに乗り込んだ雷門イレブンがどんな道を辿るのか、それを己の立場と天秤にかけて答えを選んだ。馨も、そこを否定するなんて野暮なことをするつもりは無い。
 ほんの数秒の間が空き、彼がすうっと息を吸う微かな音が聞こえた。

『オレは大丈夫です――あと、江波さんのことも』

 そう言われ、気付く。
 ――盲点だった。
 あの男が最後の悪あがきをすれば、もしかすると馨が現在帝国にいることを雷門イレブンへ暴露するかもしれないということを失念していた。知られるとすれば、それは最も最悪なかたちである。馨自身が弁明も経緯の説明もできない状況で、もう一度疑念を抱くようなことを言われてしまったら。

「……土門くん」

 だが、馨自身遅かれ早かれ明かさなければならないのだととうに覚悟は決めている。
 土門と同じように、彼らとの向き合い方はきちんと定めているのだ。

「私のことは気にしなくて良いから、自分自身のことを一番に考えて――」
『オレは、アイツらとやるサッカーと同じくらい、アイツらを応援してる江波コーチが好きなんですよ』

 無理矢理台詞を被せられ、馨は呆気に取られて押し黙る。
 機械を通しているというのに、土門の告白はまるで直接目の前で言い募られているように、その言葉の一つ一つが強く胸に共鳴するようであった。

『コーチがアイツらを、雷門サッカー部をスゴく好きでいるってこと、知ってます。まだ一緒に過ごした時間は短いかもしれないけど、でも、ちゃんと感じてるんです、コーチが皆を大事に思ってることを。だから、貴女からあの空間を奪わせたくない。絶対、奴らに疑わせたりしません』

 勝手に巻き込んですみません、でもこれがオレの“心”なんです――一切のブレを感じさせぬ真摯な言葉を以て、土門は語る口を閉ざした。
 漣の如く訪れた、機械音のみが残る沈黙。その間に彼が何を思い何を考えているのか、馨には一筋の決意だけしか感じ取れなかったけれども。
 ――心だ。
 これこそが、帝国のスパイでも何でもない、土門飛鳥その人なのだと解る。彼はこれから、誰の指示でもない土門自身が決めた道を歩いていこうとしているのだ。ならばそれ以外、他に何が必要だろう。
 何より、彼の放つ言葉の全てが途轍もなく、嬉しかった。

「……解ったよ。何かあったらすぐに連絡してね、力になるから」
『はい。一応、このことはさっき鬼道さんにも伝えときました』

 鬼道が呼び出された用件もこれと同じものだと知り、密かに心臓が震える。

「鬼道くんは、バスのことを知ってた?」
『いや、知りませんでした。ただ“総帥の批判は許されない”とだけ』
「そうか……」

 神だと崇め、一心に信じてきた総帥。そんな彼による、目を暝るにはあまりに酷で卑劣な行い。
 彼に一番近しい人物である鬼道が今現在どういう心持ちでいるのか気になる半面、これから先を考えると少しやるせない気持ちになった。鬼道だけではない。今この瞬間もグラウンドで懸命に練習に励んでいるメンバーの姿を思い起こすと、尚更気落ちしそうになる。
 鬼道は、果たして正しい道を選ぶことができるのだろうか。
 その果てにもしも、もしも鬼道が総帥に背を向ける結論を出したとしたら――今後、この帝国サッカー部は一体どう動いていくのだろうか。
 歴史は、再び繰り返されるのだろうか。

「……!」

 遠くでカツンと靴音らしき音がしたのが聴こえ、馨は咄嗟に立ち上がると携帯を両手で包み隠すようにした。

「誰か来たから、切るね」
『はい。……本当に、すみませんでした』
「ううん、謝らなくていいってば。私も、自分を裏切らない君のことが大好きだよ」
『……ありがとうございます、江波コーチ』

 少し湿った声で紡がれた名に微笑んで、彼の身を案じながら通話を切った。幸い靴音は作業場の前を通り過ぎ、そのままどこかへと消えていった。
 もう誰とも繋がってはいない携帯の画面を眺めながら、馨の脳内では様々な事柄が交錯していた。混乱しないようきちんと整理しながら、渦巻く感情をゆっくりと理性の向こう側へと押しやっていく。今はまだ、結果を見届けることしかできない自分が酷くもどかしい。
 今日のこの時間、たった数分程度の短い時間の中で、自分や皆に絡む出来事は大きな進展を見せた。その全てが一つに収束している部分は、今更言うまでもない。
 ――影山。
 あんなに膨れ上がった怒りが嘘のように、今の心は落ち着いている。
 あとは、重要人物である少年の帰還を待つだけだ。


 マネージャー業務に戻った馨が帰ってきた鬼道と再会したのは、部活ももう終わるという夕暮れ時であった。

「おかえり、鬼道くん。遅かったね」
「……先に総帥のところへ行っていました」

 不在の間は特に問題無く練習を行っていたことを報告すれば、鬼道は曖昧に相槌を打つだけでそれ以上話を膨らませようとはしなかった。
 応える声にいつもの覇気は無い。湛えるのはいつものポーカーフェイスにも見えるが、時々どこか思い詰めたような表情が見え隠れしている。
 勿論、彼がこうなることは馨も予想はしていた。それでもやはり、胸が痛む。

「鬼道くん、あの……」
「江波さん」

 どう口火を切るべきか迷う馨より先に、鬼道が端然とした態度で口を開いた。

「冬海の件は、恐らく既に土門から聞いていると思います」
「うん」
「けれども、これは俺と総帥の問題です。江波さんは何も気にしないでください。できることなら――」

 できることなら、忘れてください。
 鬼道は紛れも無くはっきりと、そう言い切った。

「……忘れる、って」

 さながら権力を用いた命令にも近いその一言は、馨の心を大きく揺すった。
 聞き間違いでもなんでもなく、彼は確かに今回の件を意識から抹消しろと言ったのだ。当然無理な話である。冬海の細工によって雷門イレブンの生命が危険に晒されるいう事態を知ってしまった今、確かにできることは無いと自覚はしているが、せめて鬼道の力にはなりたい。鬼道がどんな思考を巡らせているのか、彼の味方として少しでも知りたいのだ。場合によっては影山に盾突くことだって考えていた。
 なのに、目の前の少年は恐らく、この問題を一人でどうにかしようとしている。馨の存在を蚊帳の外と見ているのか、他に理由があるのか。そんなこと馨には解らないけれど、少なくとも頼ろうという意思が皆無なことだけははっきりと感じられた。

「そんなこと、できるわけないでしょ? 私だって帝国のマネージャーとして皆のことを、鬼道くんのことを支えるためにここにいる」

 せっかく彼にとって僅かでも特別な存在になれたと思ったのに、こんな大事な局面で閉め出されてしまっては意味が無い。募る憤りを何とか抑え込みながら、鬼道に一歩近づいた。

「だから、せめて……君の考えを聞かせてほしい」
「……俺もまだ、自分自身がよく解りません」

 まだ決断には至れていないのだろう、ゴーグルの奥の瞳は複雑な悩みに濁っている。馨ははっとして身を固くし、思考の要求はまだ性急だったと内省した。それでも、一緒に結論への道を進むことくらいは許してほしいのに。

「ですが、貴女が動く必要はありません。このままずっと、いつも通りで良いのです」
「けど、今回のことは君だって……だから、私は、」

 鬼道の纏う雰囲気からして、影山の行いを肯定しているとは思えない。だのにこうして馨が近寄ることを拒絶する。そんな態度に理由も解らぬ焦りを感じ、馨の声が僅かに大きくなった。
 しかし。

「俺たちに総帥の批判は許されません」

 空気を縛りつけるような強い語調に、馨の目が微かに見開かれる。
 土門にも言ったというその台詞はまさしく、帝国学園サッカー部のトップに君臨する鬼道有人のもので。

「江波さんも、例外ではないのです」

 ぎらりと鈍く光る双眸に見据えられてしまえば、馨はもう、言葉を発することさえできなかった。


* * * * *


「疲れた……」

 ハァ、と小さく溜め息を吐いて、馨は持っていたミネラルウォーターを一口だけ喉に流し込んだ。
 様々なことが折り重なったせいで随分とくたびれた今日の部活。帰るついでに病院へ寄ってみたのだが、面会時間が七時までであることをすっかり忘れていたために無駄足となってしまった。
 濃紺の空に瞬く星を仰ぎながら、何をすることなくぼうっと突っ立っているだけ。人も少ない今の時間では、例え正面玄関付近にいたとしても邪魔にはならないだろう。無意味に星と星とを線で結んでみては、また嘆息をした。

「……何でだろう」

 自分は確実に渦中にいるはずなのに、何もできない。何もさせてもらえない。土門のことも鬼道のことも、ただ見ていることしかできないのだ。もどかしくてもどかしくて仕方ない。それに、あまりにも力不足だという現実を突きつけられたようで、心はどんどん重さを増していく一方だった。
 ――鬼道は、どうするつもりなのだろう。
 彼の選択を信じたい。彼の内側に確かに存在する、雷門によって芽吹いた可能性を信じたい。
 だが、彼が総帥に忠実であるという事実が頭から離れない。「批判は許されない」と言い放ったあの声音が、どうしても忘れられなかった。

「あーっもう!」

 募る思いを背中に乗せ、ガンッと鈍い音と共に自販機へと寄り掛かる。ぶつけた肩甲骨が痛くて、いっそう情けなさばかりが膨らんでしまった。
 そんなとき、どこからか声が飛んできた。

「おい、壊すなよ」
「ん?」

 顔を向けてみれば、そこには両手をポケットに入れた状態の豪炎寺が立っていた。
 馨は自販機に凭れたまま、こちらへと歩いてくる彼の色素の薄い髪を見つめていた。軽い挨拶ついでに訊いてみたところ、妹の見舞いの帰りだそうだ。彼がここへ来る理由はそれくらいなので、特に訝しむようなことはしなかった。
 豪炎寺はペットボトルの紅茶を買い、そのまま馨の隣へと並んだ。

「……で」

 そして何の前置きも無く、こう言った。

「オマエ、今帝国にいるのか?」
「ブッ!」

 突然すぎるうえに信じられない問いを投げ掛けられ、思わず飲んでいた水を吹き出してしまった馨。三度程咳込んでから、真ん丸にした目で問うてきたその人を見た。

「え、え……何で」
「この前は言わなかったが、オマエが入院してたときに帝国の生徒が見舞いに来てたのを見た」
「あの……えっと」
「まだ誰にも言ってない。その様子だと、どうやら本当みたいだな」

 あまりに狼狽えている馨の姿に、発言の衝撃さとは裏腹に微笑を浮かべる豪炎寺。秋葉名戸でそうだったのと同じくどこか愉しげでもある彼は、マイペースに紅茶を飲みながら馨の混乱が収まるのを待っていた。
 対する馨はいきなりの展開にわけが解らない状態であったが、豪炎寺がまだ誰にも言っていないと解れば少しは落ち着くことができた。明日の告発よりも前に豪炎寺に真実を知られてしまうという現状をよく考えてみれば、そこに大したデメリットが無いことに気付く。発覚がたった数時間早まっただけではないか。
 それに、知っても尚口外していない彼なら、今も冷静に話を聞いてくれるかもしれない。

「……いずれは話そうと思ってたし、ちょうど良いや」

 決めていた覚悟を引っ張り出して、馨は自身に起きた全てのことを彼に話して聞かせた。
 帝国に入ってから今までは、時間にすれば一ヶ月弱、わりと短い期間であろう。しかし実際に纏めて話してみると、随分と長い時間あの場所で過ごしたような気持ちになった。まるでもう何年も、帝国サッカー部で彼らの駆ける姿を眺めていた気分だ。
 豪炎寺は、足を痛めた理由を聞いたときに多少反応を見せただけで、馨が喋っている間は一言も口を挟まなかった。そして全ての話が終わったところで、ふっと瞼を下ろす。

「相当いろいろあったんだな」
「まぁ……ね。ずっと黙ってて申し訳ない気持ちはあったんだ。ごめん、こんな中途半端な奴で」
「別に、オレは何とも思わないが」

 俯き気味だった馨が、ぱっと顔を上げた。

「少なくともオレは、オマエがどこにいようが気にしたりしない。コーチならともかく、今はただのファンなんだろ」
「そう、だけど」
「蹴らないと言っていたボールを蹴ってそのうえ怪我までするような奴なんかが、まともにスパイできるとも思えないしな」
「はは……」
「それに」

 豪炎寺の目線が、半笑いをする馨から雷門中の方向へと流れる。

「オマエが、好きなサッカーをわざわざ裏切るような奴じゃないことも知っている――多分、アイツも同じことを言うと思うぞ」

 アイツと言われて浮かぶのは、太陽のように明るい笑顔の少年。鮮明に思い出される彼は、いつもと同じ溌剌さで自身に笑いかけてくれる。そして、「サッカーが好きな奴に悪い奴はいない」と言って、あの土門のことも受け入れてくれそうな気がした。
 彼――円堂守とは、そういう人であるから。

「……リアルに想像できちゃったよ。君は慰め上手だね」

 存外細くなった声音で「ありがと」と言えば、豪炎寺の眉が僅かに優しいかたちをつくった。
 その後も数分程続いた会話。そこで新たに発覚したことは、豪炎寺は土門がスパイであるのにも気付いていたということだった。気付いていても、馨のときと同じく飽くまで様子見を貫くつもりでいたと言う。
 どこまで勘が鋭いのだと眉根を寄せる馨に、彼は恐らく円堂も既に勘づいてはいると言った。ただ、今のサッカー部のままでいたいから、土門が本気でサッカーに取り組んでいるのを知っているから、敢えて言わないだけなのだと。どうしてそこまで断言できるのかと問えば曰く「何となく」らしい。その返しには馨もつい笑ってしまった。
 円堂がいれば、きっと大丈夫――いつだって無条件にそう思えるから、不思議だった。

「円堂くんはサッカーだけでなくて、サッカーが好きな人は皆愛してるようなものなんだね」
「それはお互い様なんじゃないのか」
「でも、あの子には及ばないよ」

 豪炎寺の視線が向けられた自身の右足をそっと撫でながら、馨は深く息を吐く。
 ――サッカーが好き。サッカーをしている皆が好き。
 円堂程ではないかもしれないが、馨だってその気持ちは何があっても手離さないし、いつだって一番大事にしていたいと思っている。大好きなサッカーを穢すものは許せないし、大好きなサッカーに励む大好きな人たちのことが、ただただ心から愛おしい。
 ふと、瞬きの合間に見えたのは朧げな赤色。
 いつだったかサッカーを“義務”だと言い切り、今は暗闇で独りもがき苦しんでいる、そのくせそんな素振りを見せたがらない、小さくて孤独な背中。
 彼は楽しい楽しくないでサッカーはやっていないと言っていた――でも、そんなはずがない。

「……好きじゃなければ、楽しくなければ、一生懸命にはなれないよね」

 ふとそんなことを呟くと、「そうだな」と短い相槌を打った豪炎寺が空っぽになったペットボトルをゴミ箱に放り入れ、馨の正面に立ち直った。それ以上の言葉は必要無いといわんばかりに、彼は馨のことをじっと見つめている。馨もまた自販機から背を離すと、今一度覚悟を決めるように、豪炎寺へと一つ頷いてみせた。
 サッカーが好き。サッカーをしている皆が好き。
 そして好きなことを一生懸命頑張る彼らの邪魔は、誰であろうと絶対にさせたくなかった。


 その翌日の夕方、馨のもとへ一通のメールが届く。
 差出人は円堂守、内容は――

『決勝戦で待っててくれよな! by雷門サッカー部』

 飾り気の無いシンプルな、しかし確かな思いの込められたメッセージであった。

「……皆」

 どういう経緯があったのかは知り得ないが、全てが無事に終わったことはこの文面だけでも理解できる。

「楽しみに、してるよ」

 自分を信じてくれた彼らのためにも、帝国の問題にはきっちりケリをつけなければならない。




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