ラーメン屋と刑事と


 外界が夏の陽気を増していくのと同じく、帝国サッカー部の練習も対雷門に備えてますます激しくなっていった。
 練習メニュー自体は変わらない。影山の組み上げた完璧なる計画は、いついかなるときでも冷静にチームの力を維持しようとしている。だから練習内容そのものが大きく変化したということも無く、今でも尚、帝国のグラウンドには最適化された王者のサッカーが健在していた。
 変わったのは、選手の方だ。
 あの夜の一件以来、いろいろなものが吹っ切れた様子の鬼道。もう何の意味も篭っていないシュートを撃つような自傷行為をすることもなくなり、これまで以上に真摯にサッカーへ打ち込めているのが傍から見ているだけでもよく判った。何より、楽しそうでもあるのだ。決して義務なんかではない、自分の欲しいサッカーだけを健気に追求していく様は、馨の目にも本当に楽しそうに映った。
 そして、そんな鬼気迫る勢いで練習にのめり込むキャプテンの姿は、自然と他のメンバーにも感化を齎したらしい。気付けば、どの部員も鬼道と同じような顔をして、今までにない程の熱量で部活に臨むようになっていた。
 彼や彼に続くチーム全体をしっかりバックアップしようと思えば、馨の仕事も以前より大変なものになる。学生としての義務や家事との平行作業は文字通り目が回りそうではあるが、それでも苦痛ではなく、寧ろ楽しいくらいであった。
 ただ、影山の目を気にしながら動くのは不快である。鬼道が心配しているのだから仕方ないことだと解っていても、表面上だけでも従っているかたちを繕うのは辛いものがあるのだ。どうであれ、あちらの動きを把握しておくには、まだ一応従順な振りをして内側に入り込んでいなければならない。
 また不思議なことに、雷門にスパイがいなくなってしまった現状でも、馨の行動が何かしら制限されるということはなかった。
 信用しているわけでは決して無いのにどうして危険因子である自分を縛っておかないのか、馨自身謎でしかない。忙しすぎて雷門に顔を出しに行く時間が無いのを知っているからだろうか。本当の答えなど解らないが、特別気にする必要はないのかもしれないと思っておくことにした。そうでないと、不安で胃痛を引き起こし兼ねなかった。


 試合の二日前の夜、久々に円堂から電話がかかってきた。ちょうどお風呂から上がり、リビングの座椅子で濡れた髪を拭っているときのことだった。
『こんばんは、姉ちゃん!』から始まる元気な声を聴くと、どんなに日々が多忙でも一気に疲れが吹っ飛んでいく気がするから不思議だ。馨は肩にかけたタオルで頭を拭いながら、早く話したくて堪らないといった具合の円堂に用件を窺った。

「それで、今回は何のご報告なのかな?」
『聞いてくれよ! オレたちの新しい監督が見つかったんだ!』
「ホント!?」

 思わず声量が倍にまで跳ね上がった。アパートの薄い壁は隣人への騒音をきちんと遮断してくれたか一瞬不安になったが、それも円堂の嬉しそうな肯定を聴けばすぐにそんなことは気にならなくなった。

「あー良かったー! 話聞いてから心配してたんだよ」
『へへ、まあいろいろあったけど何とかなったよ。ホントは最初姉ちゃんに頼もうって話も出たんだけど、ほら、姉ちゃん今帝国にいるだろ? これ以上仕事増やさせてどーすんだって、風丸とか染岡に言われてさ』
「ああ……」

 やはり、彼らは馨に気を遣って敢えて連絡を寄越さなかったようだ。それについての諸々をここで弁明するのは何か違う気がして、馨はただ「力になれなくてごめんね」とだけ返した。電話の向こうの円堂は、全く気にしてないとでも言うようにからりと笑っていた。
 それにしても、雷門の監督の件は馨も帝国の練習を見ながらもずっと気にしていたことなので、この報告にはほっと安堵の溜め息を漏らした。これで雷門が予選決勝を不戦敗するという最悪のシナリオは回避できたわけだ。帝国も、雷門と戦うために毎日激動の時間を過ごしているのだし、彼らには是非とも当日無事に帝国学園までやって来てもらいたい。
 さて、ではその新監督というのは一体誰なのか。
 いっそ当日までのお楽しみにしても良かったかもしれないけれど、どうせ円堂には黙っておくことなどできないと解っている。それこそが、彼の最も話して聞かせたい内容だったのだろう。本題に入った途端、彼の声はいっそう活き活きとしだした。

『それでな! その新監督が何と……』
「何と?」
『雷雷軒のおじさん、響木さんなんだ!』
「ええーっ!?」

 今度こそ、隣人から苦情でも来かねない程の絶叫だった。でもそれは仕方のない、不可抗力というやつだ。
 雷雷軒の店主、響木――ここのところなかなか顔を合わせる機会の無い彼の姿が脳裏に浮かび上がってくる。彼是二年近くの付き合いだが、どう見たってただのラーメン屋の店主で、サッカーに明るいような匂いは一切漂わせていなかった。それが一体何が起こって雷門サッカー部の監督になったのだろうか。そもそも何故、円堂たちは彼に監督を頼もうと思ったのか。
 すっかり驚愕したまま口を半開きにする馨。その頭の中でぐるぐると渦巻く質問を先読みしたように、円堂がそうなった経緯を話し始めた。

『あのおじさ……いや、響木監督は、実は伝説の元祖“イナズマイレブン”のメンバーの一人だったんだ。オレのじいちゃんが監督してたチームで、オレとおんなじキーパーをやってたんだって』
「へぇー、そうだったんだ」

 以前音無からそのイレブンについて話を聞いた覚えがあるけれど、それがどれだけすごいチームだったのかということは未だによく解らないままだ。円堂の祖父が監督をやっていたこともだし、響木がその一員であるということも全く知らなかった。自分は雷門に関しては本当に知らないことだらけである。
 ただ、円堂たちはそのことを知ったからこそ、彼に頼もうとしたのだろう。

「でも、響木さんじゃそう易々と受けてくれはしなかったんじゃない? そういうタイプの人じゃないし」
『あはは、大正解! だからオレ、おじさんと勝負したんだ。おじさんの撃つシュートを三本止めたら監督になってくれるって約束でな』
「なるほどね。それで、勝負に勝ったと」
『ああ! 響木監督のシュート、スッゲー強くてさ……でも、最後に《ゴッドハンド》で止めたら、大喜びしてくれたよ。“大介さんがピッチに帰ってきた!”って言って』

 どうやってあの頑固親父の承諾を得たのかと思えば、何てことない、いつも通りの円堂節だった。響木もきっと、約束以前に円堂のこのひたむきな熱さに影響された部分もあるはずだ。普段見ているぶっきらぼうな態度からでは円堂の言う“大喜び”は想像できないが、それだけ彼もサッカーが好きなのだろう。
 とにかく、響木がただのラーメン屋の店主ではなかったということは確かである。これから彼の指導の下で雷門サッカー部はより力をつけていくに違いない。帝国の練習を強化して正解だったと、内心で鬼道を褒めてやった。
 この電話の後、馨はインターネットでイナズマイレブンの情報を検索してみた。響木が中学生だった頃の話なので昔なのは当然だが、四十年前に全国規模でかなり注目されていた十一人であるらしい。
 検索結果として出てくるのは彼らを讃えるような噂話が多かったが、それと同じくらい目にしたのは――。

「バスの事故……」

 フットボールフロンティアの決勝戦当日、イレブンに起きた悲劇。過去のニュース記事や詳細情報を読みながら、馨はマウスを握る手に力を込めた。ざわざわと落ち着かない心を押さえ付け、今はイナズマイレブンのことにだけ意識を集中させる。
 ふっと蘇るのは、まだ自分がコーチをしていた際に雷雷軒へ行ったときに見た、当時は気のせいで済ませた響木の反応。自分がサッカーのコーチをしていると言ったとき、彼は微妙に気を暗くさせていたような気がする。こんな事故――もしくは事件――があったから、響木はサッカーをやめてしまったのではないだろうか。
 そしてそんな彼が今このタイミングで、再び円堂たちの監督になってチームを支えてくれようとしている。
 ――まるで自分のようだ。
 動いている。サッカーで繋がる世界が、確かに動いているように思えてならなかった。
 さらに記事を読み進める中で、もう一つ気になる部分があった。この事故のあったときの決勝戦の相手は、まだ無名だった頃の帝国学園だったのだ。ここで不戦勝をしてから帝国の無敗の歴史は始まっている。関係があると断言はできないが、奇妙な話であると感じてしまってならない。因果とでもいうのだろうか。

「響木さん、か」

 時計を見上げれば午後九時前、まだ店じまいをするような時間ではない。言っては悪いが、あそこは夕飯時を過ぎた時刻にも賑わっているような店ではないし、突然訪ねたとしても然程迷惑にはならないであろう。
 ――話すだけ話してみる価値はある。
 馨はパソコンの電源を落とすとすぐに出かける準備を整え、夜空の下へと飛び出した。


 雷雷軒は暖簾が出ているものの、外からでは店内に人がいる気配は窺えない。響木には悪いが今は好都合だと思いつつ、馨は上がった息を整えてから木製の扉を引き開けた。

「いらっしゃ……なんだ、オマエさんか」

 ガラリという音と共に入店した客を認め、「久しぶりだな」と洗い物をしていたらしい手を止める響木。馨は後ろ手にドアを閉めると、彼の正面に立って肩に力を入れた。真剣さを込めた瞳で、丸いサングラスの奥を見構える。

「響木さん……いや、響木監督」
「……どうやら話は聞いているようだな」

 とりあえず座るように促された馨が着席すると、同時に水の入ったグラスが目の前に置かれた。話を始める前に、走ってきたためにからからになっていた喉を潤そうと思って一気に煽る。そこで初めて、馨は店の端に一人の客が座っていることに気付いた。相手は新聞を広げているため顔は見えないが、響木が何も言わないならば無害なのだろう。
 瞬く間に空になったグラスを返しつつ、すっかり潤った馨の口が開かれる。紡ぐ声音は至極冷静だった。

「響木さんも、恐らく聞いていると思いますが」
「あぁ」

 当然のような返しは、やはり当然のようにさらりと続けられる。

「――オマエが今、帝国にいることならな」

 響木が言い終わらぬうちに突然バサリと音がして、先程まで新聞に隠れていた客の顔が露になった。馨が反射的にそちらを見ると、まるであちらも今までずっと様子を窺っていたかのように、勢い良く視線がぶつかり合う。
 そして互いに、目を丸くさせた。

「オマエさんは……」
「あ、あのときの」

 そこにいたのは、御影専農の自販機で出会ったコートの男性だった。
 まさかこんな場所で再会するとは思わず、まさに開いた口が塞がらない状態の馨。響木はそんな二人を交互に見遣ると、「なんだ知り合いだったのか」と小さく驚いてみせた。
 馨もびっくりしていたが、男性はそれ以上に衝撃的だったようだ。響木に確認するような眼差しを送り、返ってきた肯定の頷きを受け取ればしげしげと馨を見つめ始める。彼のことを全く知らない馨は、じろじろ見られることに対して少し訝しげな表情をした。

「……あの」
「あぁ、すまん。初めて会ったときもそうだったが、やはり良く似ていると思ってな」
「似ている?」
「オマエの母さんにだ」

 ――お母さん?
 そう言われ、久々に脳裏へ現れた女性の容姿は自身の母親であるにも拘わらず、ここ最近会っていないためか少し朧げだった。昔はよく、ちょうど同い年くらいの頃の母に似ていると言われていた記憶があるが、今はどうなのだろう。自分ではよく解らない。
 それより、何故彼が自分の母を知っているのだろうという当たり前の疑問が湧き上がる。友人だったりしたのか、と勝手に推測をする前に、男性が「中学時代の母さんと知り合いだったんだ」と言った。どうやら響木もそうらしい。ということは、響木と鬼瓦も所謂友人関係にあるのだろうか。他にもいろいろ聞いてみたいところだが、馨は本題の話を進めるため、ひとまず頷くだけに留めておいた。
 男性はやおら、懐から手帳を取り出して見せてきた。

「俺は鬼瓦源五郎、刑事をしている」
「江波馨、大学生です。……刑事さんだったんですね」

 提示されているのは警察手帳、しかもきちんと本物だ。初めて見るそれをついじっと眺めていた馨だったが、彼が苦笑いしつつ手帳をしまうのと同時に改めて背筋を正した。
 それにしても、こんなところに刑事がいるなんて不思議だ。ただ偶然居合わせたというわけでもなさそうだが――疑問ばかりが脳に湧いて出るのに、それについて問い質して良さそうな空気ではない。やはり、まず本来の目的を遂行するのが先決なようだった。
 互いに簡素な自己紹介が済み、そこで漸く話ができるようになったとでも言いたげに、響木がカウンターに肘をついた。

「それで、さっきの話の続きだが、事情は知っている奴らに聞いた。オマエさんは飽くまで中立なんだな?」
「中立っていうのかな……雷門サッカー部も帝国サッカー部も、どちらも同じくらい大切に思っています」
「なら、今帝国で何が起きているのか……話せるか?」

 いつの間にか鬼瓦も話に加わっている。元々鋭い目つきをさらに険しくして、馨のことをじっと見据えていた。
 帝国の内部事情――これを話すというのは一種のスパイ行為になるのだろうが、馨に選択の迷いは無かった。寧ろ言われなくてもそうするつもりだった。今現在の帝国はどんな動きをしているのか、それを全て知ってもらったうえで、ここへ来た目的を果たしたい。

「お話しします」

 何が起きるか解らないからこそ、今のうちに少しでも動いておかなければならない――馨はもう一つ貰ったグラスの水を一気に煽ってから、毅然として話を切り出した。

「まず事の発端についてですが、冬海の件は聞いていますか?」
「冬海? 元雷門サッカー部の顧問だった奴だな。そいつが辞めたから、俺が監督になることになったんだろう、確か」
「そうです。その辞めた……いや、辞めさせられた理由は、彼の雷門サッカー部に対する工作を告発されたから」
「工作?」
「次の決勝で皆が使用する予定だった遠征バスから、エンジンオイルを抜いていたんです」
「なっ!?」

 鬼瓦と響木が同時に目を見開いた。当然の反応だ、初めてそれを聞かされた馨だって彼らと同等、もしかするとそれ以上に絶句したのだから。
 馨は今でも思い出すたびに苦々しい気持ちになる。それが表情に現れ、いつしか目元に力が篭っていた。目の前の二人も同じように顔を歪め、鬼瓦に至っては「あの野郎……」と口髭の奥で毒づいていた。
 しかし、両者共に信じられないというような反応は見せなかった。この時点で、ある程度どういう事情なのかを悟ったのかもしれない。おかげで以降の話はスムーズに進んだ。

「冬海には、影山の息がかかっていました。私ももっと早く気付けていれば良かったんですが……影山のスパイとして、何としてでも雷門の決勝進出を阻止しようとしていたみたいです」
「そうでなければ、そいつの方が身の破滅の危機だろうからな」

 鬼瓦が嘲るような口調で言った。馨は視線だけで同意しつつ、先を続ける。

「冬海の件以外でも、影山は度々雷門を潰すためにあれこれ画策していました。結果的に雷門はそれらを乗り越えてここまで来てくれたし、私も、そして帝国サッカー部のメンバーも、影山の行いには口を挟むことはできないままでした。でも……正直、ここまでするとは思えなかった」

 完全に見下す対象であったはずの雷門に、まさか影山がそれ程執着するとは思わなかった――これは馨の正直な気持ちだった。完璧な勝利にこそ価値があるという彼の信条は知っていても、こんなに直接的に潰しにかかるなんて、想像を超えていたのだ。実際にバスに細工を施すという選択をしたのは冬海であろうが、そこまで追い詰めたのは他でもない影山なのだ、どちらにせよ同じ話である。
 あの男の執着心は、今や並みの感情では表現することができない。嫉妬、憎悪、そんな言葉ではとても足りないと感じてしまう程、影山のサッカーに対する行為は狂気じみていた。
 そしてそんな理解し難いまでの狂気に触れたことで、革命の旗は静かにその身を翻した。

「転機になったのは、その一件だと思います。影山のやり方に納得のいかない帝国のメンバーが、今まさに、アイツを否定しようとしているんです」
「なるほどな。……さすがに、選手たちも愛想を尽かしたというわけか」

 鬼瓦が新聞を畳みながら溜め息を吐いた。響木は変わらぬ姿勢のまま、眉を寄せて黙っている。
“選手たち”と言っても、まだ選手全員が鬼道の意思に続くかどうかは解らない。皆には明日の部活前に話すと鬼道は言っていたから、その件については報告待ちになる。
 だが、馨にはもう答えが出ているという確信があった。彼らの必死になって練習する姿を見ていれば自ずと先は見えてくる。
 彼らが、自分たちのサッカーを手に入れる未来――雷門と帝国とが全力で戦う、熱い未来が。

「帝国サッカー部が反抗すれば、影山が何かしてくるかもしれません。それに、雷門の決勝進出阻止も諦めたとは思えないんです。あの男なら、必ず何かしら仕掛けてきます」

 だから、雷門帝国関係無く、彼ら全員のことを守ってあげてください――握り締めた拳をさらに固くして、馨は響木と、そして刑事であると言った鬼瓦へ懇願する瞳を向け、頭を下げた。

「……さすが、アイツの娘だな」

 ぼそりと独り言のように漏らしたのは響木。鬼瓦もまた同調するように彼と目を合わせると、何かを確かめるように微かに首を上下させた。
 やがて、次に口を開いたのは鬼瓦の方だった。

「江波、俺は今、わけあって影山を追っている。そのために刑事になったようなものだ」
「影山を?」

 その張本人を警戒しているときにそんな都合の良い話、と思いかけたところで、ふと馨の頭にあの事件のことが過ぎる。

「……もしかして、それってイナズマイレブンの事故と関係ありますか?」
「なんだ、知っているのか。俺は当時の監督の円堂大介と親友でな、どうしても諦めがつかずにこうして尻尾を探そうとしてるんだ」
「ってことは、その事故もやっぱり……」
「ただ、まだ奴の仕業だと証拠が出たわけじゃないがな」

 つまり、半分は肯定なのだ。
 書類上でも馨の中でも、イナズマイレブンの件は“悲劇の事故”として処理されている。当時を語れる人間が生存しているのにそう結論づけられているということは、そこを訝しむだけの要素が今も出てきてはいないのだ。確かに、話だけ見聞きする限りではただの不幸なバス事故だった。
 だが、鬼瓦の放つその言葉には、彼が影山を疑っているという事実がはっきりと表れていた。刑事になってまでして影山を追いかけるのだから、その疑惑も安いものではないはずである。そう考えるのには何か理由があるのだろうが、馨はまだそこまで深く問おうとはしなかった。
 思考が巡る。
 ――四十年前のバスの事故。
 もしそうだとしたら……六年前の、あの出来事だって……やはり……。

「とにかく」

 鬼瓦の声に、はっと意識を引き戻された馨。いつしか手元のグラスに向いていた視線を持ち上げると、真剣そのものな面構えがそこにあった。

「決勝戦当日は、俺たち警察も頑丈に警備を固めるつもりだ。誰一人犠牲が出んようにな」
「雷門の奴らは俺に任せて、江波、オマエは帝国の部員たちを気にしていろ」

 鬼瓦の後にそう続けた響木は腕を伸ばし、その大きな手の平をぽんと馨の頭上に乗せる。自身が時折鬼道にやっていた行為と同じそれは、頭のてっぺんからじんわりと、身体全体へ温かさを広げていった。比例して、安心感とよく似た感情が膨れ上がる。

「響木さん、鬼瓦さん……」

 自分よりも大人である二人を頼れるということ。信頼できる存在がいるということ。ただそれだけのことが、とても心強く感じられる。もう一人じゃないんだと思うと、ますます勇気が湧いてきた。
 馨は拳を握り締め、改めてもう一度、頭を下げた。

「ありがとうございます、お願いします」

 ――絶対に、守りたい。
 やっと掴める帝国サッカー部の未来を、雷門との再戦を、何としてでも守り抜きたいのだ。


* * * * *


「皆、俺たちのサッカーをしようと言ってくれました」

 翌日、いつもより少し遅れて学校を訪れた馨を出迎えたのは、無表情の裏に嬉しさを押し隠した様子の鬼道。
 出し抜けに告げられたその台詞は端からすれば言葉足らずだったが、馨が理解するにはそれだけで充分であった。

「そっか」

 解っていたことなのに、胸いっぱいに広がるのはあたたかい安堵感。
 そしてふと過ぎる、あの男の言葉。

 ――歴史を繰り返すのか否か、決めるのはお前自身だ、江波。

 今再び、自分は、皆は、その“歴史”の入り口に立たされている。何もかもが同じ世界の中、時代を越えたここで、今一度叛旗は翻された。もう後戻りなどできない。歴史は確かに動き始めている。
 だが、今ならば――六年越しの今ならば、大丈夫だと。
 根拠となり得る程明確な物証は無いけれど、大丈夫、そう思えるのだ。昨日雷雷軒で響木や鬼瓦を頼れたこともその理由であろうし、こうして目の前で覚悟を決めている鬼道を見れば、何度だって言いたくなる――「大丈夫」と。
“歴史”は繰り返さない。
 そのために、自分はここにいるのだから。

「なら、ますます気合い入れないとね。最後の練習だし」
「勿論、そのつもりです」

 にっと笑う馨につられ、鬼道も熱い意志を感じさせる笑みを浮かべた。
 数多の決意と共に迎えた最後の練習は、やはり皆、昨日までとは全てが違うように感じられた。
 鬼道と佐久間の《ツインブースト》、そして漸く完成を迎えた源田の《フルパワーシールド》、その他も含めて雷門を迎え撃つ準備は万端だ。影山の支配から抜け出して行う、彼らだけのサッカー。それが実際にどんなかたちで展開されるのかは試合が始まるまでお預けだが、何となく、練習の断片からでも見て取れるように思えるのは気のせいだろうか。
 ボールを追いかける足、シュートを撃つ勢い、ひたむきに前を見据える眼差し、……それと。

「馨!」

 そうやって呼んでくれる表情に宿る、輝く笑顔。
 今ここにある何もかもが、確かに明日の試合のためだけに成されている。あらゆる部分に、自分たちのサッカーを行えることへの期待が宿っている。
 そう感じられるだけでも既に、馨にとっては胸が苦しくなる程に幸せなことだった。

 ――全てとは言わないが、これまでを殆どを覆すことになるであろう明日の試合。
 抱える思いは様々であるが、今はただ、皆には最高のプレーをすることを一番に考えてもらいたい。今日みたいに、皆が明日も笑っていられれば良い。
 皆がサッカーを心から楽しんでくれれば、それで良いのだ。




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