信頼のぬくもり


「オレ、もうあの人のつくるサッカーじゃプレーできない」

 少年に迷いは無かった。
 語る言葉も、口調も、瞳も、何もかもが真剣だった。

「あの人は間違ってる。あんなに勝つことばかりを求めるサッカーは、オレたちのやりたいサッカーじゃない」

 少年は同意を求めるように、目の前の少女の顔を覗き込んだ。
 しかし、少女は頷けなかった。彼の意見に同意できないわけではなく、ただ、あの人という存在を否定することができなかった。

「……私は」

 信じていたかったのだ、自分にとって神様である彼を。

「私、は」

 ――そのとき一度でも頷けていたら、少女にはまた違った未来が待っていたのかもしれない。



* * * * *


 練習を終えて帰っていく部員たちを見届けた後、馨は最終確認としてベンチに戻ってきていた。

「あー、忘れてた」

 前髪を掻き上げながら、疲れたように嘆息する。忘れ物が無いかチェックしながらゴミなどの掃除をしていたとき、ベンチ下のカゴにビデオカメラが入ったままでいるのを見つけたのだ。
 いつもは、帰宅した鬼道が細かな部分を見返すためにとビデオ本体ごと彼が持ち帰っている。今日は先に帰ってしまったため、うっかり渡し損ねていた。もしかすると、あちらもこのことに気付いているかもしれない。

「……渡しに行くか」

 試合まで日が無いのだから、やるなら明日よりも今日の方が良いに決まっている。
 馨は壊さないよう丁寧にビデオを鞄にしまうと、時間を確認しつつ鬼道邸へと足を向けた。


 前に鬼道を家まで送るという名目で鬼道邸付近まで行ったときのことを思い出しながら、すっかり暗くなった住宅街を歩いていく。殆どの家は夕飯時なのであろう、そこかしこから腹の虫を刺激する香りが漂ってきていた。
 数十分程歩いたところで、漸く見覚えのある建物が見えてきた。いつ見ても立派な一軒家は、外観からしてさすが財閥の社長の家と言わざるを得ない。一般人である自分なんかが近寄るのを躊躇させる、そんな尊厳な雰囲気を醸し出していた。

「あれ?」

 よく見てみると、家の前に一台の乗用車が停まっている。先客だろうか。闇に溶け込む黒色のそれは、馨がじっと見つめる前に発進し、エンジン音と共にどこかへと走り去っていった。結局、中に乗っている人物が誰なのかは判らなかった。
 車が消えたことで、馨はそこに一人の男性が立っているのに気付く。纏う衣装からして、恐らくこの家の主――鬼道の義理の父であろうと推測された。
 ふっと息を吐いて肩の力を抜いたような彼に、少し戸惑いを覚えながらも近付いていく馨。やがてあちらも馨の存在に気付き、来客用とでも名付けられそうな人当たりの良い笑みを浮かべて見せた。

「おや、どなたかな。何かご用ですかね」
「はい。私、帝国学園サッカー部マネージャーの江波馨と申します」

 初めて会う財閥社長との会話。粗相の無いようにと意識すれば自然と身体が緊張し、使っている敬語が合っているのかと不安になってしまう。
 引き攣った表情で身体を硬くしている馨からの自己紹介を受け、鬼道の義父は「おぉ」とやや大袈裟に眉を持ち上げた。

「貴女が江波さんですか、話は息子から聞いています」

 鬼道が一体どんなことを話して聞かせたのかは気になるが、馨が返すより先に彼はさらに言葉を続ける。

「有人に用ですよね、どうぞあがってください」
「いえ、ただ渡すものがあるだけなので……」
「あの子は自室にいますよ」

「さぁどうぞ」と有無を言わさぬにこやかさで中へと促されてしまえば、もう断ることなどできやしない。馨はそっと頭を下げ、おっかなびっくりしながらも初となる鬼道邸に足を踏み込んだ。
 外装もさることながら、内装もまた高級をそのまま具体化したような場所であった。自宅よりも遥かに高い天井と、明るさにさえ値段がつけられていそうな綺麗なランプのある廊下を歩く間、馨の視線はなかなか一点に留まらなかった。一応、失礼にはならないよう顔面だけは前方に向けていたが、あちこちにある見慣れない家具や調度品の前を通り過ぎるたび、いちいち眼球がくるくる動いて仕方なかった。
 ただ、歩きながらも義父は会話を途切れさせなかったので、意識はそちらへと固定されたままである。話の内容は、内装とは違った意味で馨の興味を引くものであった。

「孤児院にいた有人を養子に勧めてくださったのは影山さんなんですよ。私は子育てというものが解らなくて……それからずっと、あの子のことは影山さんに任せていましてね」

 苦笑いを浮かべる彼の斜め後ろで相槌を打ち、馨は密かに眉を寄せた。
 ――孤児。
 以前、叔父がそのようなことを口にしていたのを思い出す。鬼道財閥の社長が、孤児を養子にしたのだと。そこに至るまでにどんな経緯があったのかは解らないが、孤児だったという事実だけでも馨の胸を痛めるのには充分だった。
 養子を迎えるにあたっての手引きは影山で、さらに義父が頼りにしていたということは、鬼道の幼い頃からその傍には影山がついていたということになる。話す様子を見るに、義父は影山に全幅の信頼を寄せているようだ。それはサッカーだけでなく、鬼道の人生までもが彼の思うがままであったということだ。
 そうなると、鬼道にとって影山は最早父親と言っても過言ではないだろう。そのことが果たしてあの忠誠心に繋がっているのかどうかは定かでないが、少なくとも彼の中での影山という存在が決して小さいものではないことは解った。そんな相手に不信感を抱かなければならないなど、心が弱い者にはきっと耐えられない現状である。
 ふと、先程停まっていた黒塗りの車を思い出す。ざわりと胸にさざめきが広がった。

「もしかして、さっき来ていたのは影山……さんですか?」

 こういうときの嫌な予感とは大抵当たるものだ。
 義父は特に隠すような素振りも見せず、「そうです」と答えた。

「どうも、帰ってきてからの有人の様子がおかしくて、話をしてもらったんですよ」
「おかしい?」
「私にはよく解らないのですが、何やら思い悩んでいるようで……影山さんは、成長段階にはよくあることだと言っていましたけど」

「あの子は繊細ですから」と暗い顔をする彼からは、確かな父親らしさが感じられる。微笑ましいところなのであろうが、今の馨には素直にほのぼのできるような心の余裕は無かった。
 鬼道の悩みとは、ほぼ間違いなく先日の出来事――影山とサッカー絡みのものであろう。それに加えて、今日雷門を訪ねたことで何かを感じ、僅かでも心を動かしたのかもしれない。そんな不安定な彼に、そもそもの原因である影山が話をしても、状況が良い方向に傾くはずがない。
 一体二人は何を話したのだろう――最後に見たあの小さな背中を思えば、ひたすら心配ばかりが募る。

「良ければ、江波さんからも話を聞いてやってください。有人も貴女を信頼しているようですから」
「……力になれるかは解りませんが、できる限りで鬼道くんを支えてあげたいとは思っています」

 ――信頼しているというのなら、今すぐにでも頼ってほしい。
 柔く握り拳をつくり、馨ははっきりとした語調でそう応えた。


 ちょうど会話が途切れたところで、義父は鬼道の自室らしき部屋の前で足を止めた。扉は豪勢な観音開きで、とても個室とは思えない。豪邸に足を踏み入れて早数分。馨はいい加減驚きこそはしなかったが、何だか落ち着かない気分になった。
 そんな馨の心持ちなど知らぬまま、義父は二回ノックをしてから中に声をかける。

「有人、江波さんがいらっしゃったよ」

 それからすぐにガチャリと僅かにドアが開かれ、隙間からあのゴーグルがひょっこりと覗いた。予期せぬ来訪者の姿を認め、形の良い柳眉が驚きと疑問を表している。

「江波さん?」
「こんばんは、いきなり押しかけてごめんね」
「いえ、構いません。中へどうぞ」

 促す言葉と共に大きく開かれたドア。馨は一歩引いたところにいた義父へ会釈をしてから、努めて冷静に部屋の中へと入った。
 馨があちこちへ視線を巡らせている背後でドアの閉じられた音がした。鬼道がソファーの上に置いてあったボールを片付けている間でさえ、眼球の忙しなさは変わらない。いい大人がみっともないと叱ってくれる人がいたら良かったのだが、残念ながらここには馨と鬼道しかいなかった。

「ひっろ……」

 いかにも高そうなソファーやカーペットに美術品、極めつけには何インチあるのか解らないような巨大なテレビ。馨の自宅の部屋が丸ごと入ってしまいそうな広さの部屋には、とても中学生の私室には相応しくないものが置いてある。非現実的にすら感じられる空間に身を浸してみれば、先程まで胸に抱いていたシリアスさは一気に下方へと押し込まれてしまった。
 まるで初めての海外にやって来た旅行客のような反応をしている馨。鬼道は彼女の意識を引いてソファーに座るよう勧め、自身はその隣へと腰を下ろした。ふかふかのクッションに背中を埋めることすら憚られ、馨は少し浅めに腰掛けたまま溜め息混じりに口を開く。

「すごいなぁ、この部屋だけで私の家の倍はありそう」

 本気で言ったそれを冗談だと受け取ったのか、鬼道はふっと微笑を零した。

「そこまでではないですよ。物が少ないので、広く見えているだけです」
「そんなこともない気がするけど……うちにはこんなふかふかで気持ちいいソファーなんてものも置いてないし」

 片手でやんわりとソファーを押してみると、皮製のなめらかな手触りと程良い弾力が手のひら越しに伝わってくる。その気持ち良さに思わずにやりとすれば、隣からはくすくすと笑う声が聴こえてきた。

「お気に召していただけたようで何よりです。気兼ねせず、もっと楽に座ってください」
「……失礼しまーす」

 遠慮していることを見抜かれた羞恥を掻き消すように、馨はポフンと控えめにクッションへと背中を沈めた。身体中をやさしく包み込んでくれる感触が手のひら以上にダイレクトに伝わる。ああ気持ち良い、このまま眠ってしまえたら最高だろうなあ――にやにやしたままつい目を閉じてみると、鬼道の笑いがまた一段と大きくなった。

「それで、用件の方は?」

 一頻り落ち着いたところで本題を切り出され、馨ははっとして体勢を元に戻した。

「そうだった。今日の分のビデオ、鬼道くんが持って帰ってなかったから届けに来たんだ」

 横に置いていた鞄から件のそれを取り出し、手渡す。目を丸くした様子からして、鬼道もすっかり忘れていたようだった。

「お手数おかけしてしまいすみません、ありがとうございます」
「いえいえ。もうすぐ予選決勝だし、時間は大事にしないと」
「確かに、そうですね」

 苦笑いを浮かべビデオをしまいに歩く背を眺めながら、馨は気付かれないように嘆息する。いつもと違う場所でいつもと違う彼と話しているからか、不思議と全く気持ちが落ち着かない。マントも上着も纏っていない私服姿の鬼道は、普段よりもずっと小さく華奢に見えた。
 用件を済ましたのに、何となくソファーから動き辛い。物音しか無い沈黙が嫌で、馨の唇は狼狽の末、何かしらの取り留めの無い話を求めて動かされた。

「この家には、鬼道くんとお義父さんだけしかいないの?」
「家族と言えるのは父だけです。あとは使用人が何人かいますが」
「そっか。こんなに広い家なのに、なんか勿体無いなぁ」

 ギシリとソファーを軋ませて、鬼道が再び着席した。

「江波さんは、確か現在一人暮らしをされているのですよね。ご兄弟はいるんですか?」
「いや、一人っ子。小さい頃は親もあんまり構ってくれなくて、基本一人でいたっけな」

 台詞の流れで自然にそう言った馨だが、口にしてから鬼道の境遇を思い出して内心しまったと顔を顰めた。幼くして親から引き離された彼に、こんな話はすべきでなかった。
 しかし、そんな心配とは裏腹に、鬼道は顔色一つ変えずに相槌を打っている。ただ、直後には眉尻を微かに下げて切なげな表情をつくった。

「一人放っておかれれば、寂しいと思いますよね」
「寂しい、か……確かに、当時はちょっと感じてたかもしれない」

 でも、気付けば一人でいることに慣れていたから。
 暗い会話を打ち消すようににっと笑いかける馨を目前に、鬼道はどこか複雑そうに目を伏せた。
 ――何かを案じるような慈愛と、その狭間に戸惑いや迷いが含まれている眼差し。
 馨はそこに、一瞬でもあの男の影を見出だしたような気がした。今の鬼道有人を構成している要素の一部が、すぐ傍まで滲み出てきていると感じられた。直感的なもの、しかし高鳴る鼓動がそれを徐々に確信へと変化させていく。
 どうして孤児になったのか。
 どうしてサッカーを始めたのか。
 どうして影山に従うようになったのか。
 どうして影山を神だと思うようになったのか。
 どうして――そんなに悲しい顔をするのか。
 鬼道について知りたいことの全てが、手を伸ばせばあと少しで届く位置にあるように思えて。

「鬼道くんには、兄弟いる?」

 これがタブーでないことを祈りながら鸚鵡返しの質問をすれば、鬼道の瞳がゴーグルの奥で揺れるのが判った。
 答えを得るまでには、ほんの少しの時間がかかった。
 やがて、静けさの合間に何かしらの決心をしたらしい鬼道が、俯き気味になっていた顔を上げて馨を見据える。

「……います」

 貴女も既にご存知だと思いますが、と続けられたその先の言葉に、馨は思わず驚きの声をあげた。

「雷門中の、音無春奈です」


 妹の話を皮切りに、鬼道の口から彼自身の過去が語られる。
 そこには、馨の知りたかった全てが存在していた。
 物心がつく前に両親を飛行機事故で亡くし、父の唯一の遺品であるサッカー雑誌をきっかけにボールを蹴るようになったこと。孤児院にてその才能を発揮していたところを影山に見出だされたことで、結果的に妹――音無と引き離されてしまったこと。義父に、三年連続でフットボールフロンティア優勝を果たした暁には妹を引き取ってくれるよう頼み、約束をしたこと。約束を果たすべく、これまで死に物狂いで努力してきたこと。音無とは故意に連絡を絶っていること。
 馨が身じろぎ一つせずに聞いている中で、鬼道は淡々と、物語を朗読するように語り続けていた。まさに壮絶としか言いようのない人生は、けれど決して物語なんかではなく、確かに目の前の少年が送ってきたものである。聞いているだけでも胸が締めつけられるのに、当人の彼は驚く程落ち着いていた。
 大変だったね。辛かったね。悲しいね――彼に言えることはたくさんあったが、馨はどれも口にするのを憚られた。
 鬼道の気持ちや心情など、同じ経験をしたわけでもない自分に解るわけがないのだ。豪炎寺と相対したときにも感じたこと。どんなに同情したって、決して同一の痛みは味わうことができない。彼の生きている道は想像以上に辛く、過酷なものであったから。
 馨には今、何と言って良いのか解らなかった。

「春奈と暮らすためには、何が何でも勝たなければいけない。だから俺は……あの人の勝利に対する考え方に惹かれました。あの人を、影山を神様だと思い、信じてきたんです」

 たった一人の大切な妹と再び一緒に暮らすため、鬼道には力が必要だった。確実に勝利できるだけの絶対的な力。それはまさに、影山の求めている“完全なる勝利”そのものである。だからこそ、鬼道は影山の下で忠実なサッカーを行い、彼の理想を具現しようとしてきたのだ。
 それまではただ切なげに歪められていた鬼道の眉が、不意にきつく寄せられた。次の言葉を紡ぐことが苦痛だと言わんばかりに、ぎりっと奥歯を強く噛み締める。

「なのに、今は……その総帥が信じられない」

 最後の一言を耳に受けた瞬間、馨の心臓が大きく跳ねた。

「……鬼道くん」

 ――その言葉を、ずっと待っていた。
 鬼道が揺れ悩んでいることは解っているのに何もできないまま、ただ待つことしか許されなかった。信じている、なのにどうしても不安感は拭い去れずにいた――そんな彼の思いを、心の内を、初めて聞くことができたのだ。
 鬼道の影山に対する不信感は、ただの雰囲気から具体的なかたちとなって馨に届けられる。それは場違いな安心さを彼女に齎した。

「これまでずっと、総帥の指示で動いてきました。そうすることで勝利を掴めていたからです。だけど……」

 欲しくなったんです。
 何が、とは訊かずとも理解できていた。雷門と御影専農との試合後に鬼道が見せた笑みが、馨の脳裏に鮮明に映し出される。無意識に口が動いていた。

「なら、その欲しいもののために動けばいい。鬼道くんには、それを手にする権利があるんだよ」
「ですが、俺は……鬼道有人として――」
「影山が言ったの?」

 殆ど反射的だった。
 視線を強めて真っ直ぐ見据えれば、少し驚いた顔をしている鬼道の首が一度だけ上下する。馨は頭に熱が募るのを感じた。
 ――鬼道有人。
 その名前が背負う意味を、重みを、本人程ではないとはいえ知っているからこそ、まるで諦めるようにそれを紡ぐ鬼道を認めたくない。どうしても、許したくない。

「それはお義父さんに期待されている鬼道財閥の跡取りとして? 四十年間無敗の帝国学園サッカー部のキャプテンとして? 妹のために約束を交わした兄として? だとしたら違う、違うよね」

 肩書きや世間体としては間違ってなどいない。
 しかし馨が言いたいのはそういうことではなく、もっと本質的なことだった。

「君は財閥の跡取りだったりキャプテンだったり兄だったりする前に、ただのサッカー好きな一人の少年だよ。自分の意志を示せるし、欲しいもののために動ける、個人としての鬼道有人なんだよ」
「……江波さん」
「例え影山であろうが、お義父さんだろうが、春奈ちゃんだろうが……鬼道くんの大好きなサッカーを制限できる人なんて、この世のどこにもいない。だけど君が諦めちゃったら、そこでおしまいだよ」

 この世界の誰一人として、彼のサッカーに対する思いを縛り上げることなどできやしない。本人が諦めない限り、鬼道ではなく有人としてここに在ることができる。大事なのは自らの周りにあるものばかりではなく、意思を持つ自分自身でもある――いつか土門にも似たようなことを言ったと思い返しながら、馨は頭に浮かぶ思いを全て、目の前で呆然としている鬼道へとぶつけた。

「君は、大人になろうといつも背伸びしてる。すぐに割り切ろうとする。でも嫌だよ、そんな鬼道くん……君が良くても、私が嫌だ。だって、鬼道くんが本当は諦めたくないこと、知ってるから」

 いつになく厳しい面持ちで、はっきりと言い募った馨。
 対して暫し動けずにいるままだった鬼道は、ややあってからひゅっと息を吸うと、僅かに顔を伏せた。

「……どうして貴女は、そんなに……」

 漏らすように吐き出された声は、静寂の空間にそっと溶け込んでいった。
 次いで再び顔を上げ、同時に下がっていた眉尻をも吊り上げる。無意識に細まった瞳が、睨むようなかたちとなって馨を射抜いた。

「俺は……俺は、貴女の傍でサッカーをしたい」
「え――」

 脈絡無くそう告げられ、馨は面食らって返事に詰まる。それでも鬼道は迷わず先へ進んだ。

「俺たち自身のサッカーがしたい。総帥の手の及んでいない、自由なサッカーがしたい。実力で勝利を得るためのサッカーがしたい。でも、そこに貴女がいないと意味がない!」
「き、どう、くん」
「恐らく江波さんは俺の選択を支持するでしょう。そして俺たちのために動いてくれるでしょう。しかし、それではダメなんです――総帥がいる限り」

 わけが解らず刻まれていた馨の眉間の皺が、そのとき一気に消え失せた。

「……まさか、君は」

 ――江波さんも、例外ではないんです。

 土門や冬海の件で交わしたあらゆる会話が蘇る。鬼道の言動を思い返してみると、今ならその全てを明瞭に理解し得る。
 決して、戦力外通告されていたわけではないのだ。頼られていないわけではないのだ。
 嫌でもその背後に透けて見えるのは、彼が口にしたその人の、憎たらしくつくられた歪んだ笑み。
 鬼道が決断に惑っていた理由は、彼と、彼に関わるもう一人の人物の存在。
 則ち。

「今回のことで解りました。あの人は、勝利のためなら何だってする。だから、だから――」

 声音はそこで不自然に途切れる。原因は、不意に訪れた他者の温度。
 ――気付けば馨は、鬼道を抱き締めていた。

「江波、さん……」

 今度は鬼道が驚く番だった。あれだけ威勢のあった声も、今はすっかり驚愕に呑み込まれてしまっている。
 しかし馨はそんな鬼道にも構うことなく、ぎゅっとその背に回した腕へと力を込めた。

「鬼道くんさ、覚えてる?」

 いつもよりずっと近いところで、そっと問う。

「私がマネージャーになると決めたとき、その理由になってくれたのは、君だよね」
「……覚えて、います」

 たどたどしくも答えてくれた鬼道に、馨はくすりと微笑を零す。それを受けて微かに震える小さな肩を、やんわりと手のひらで撫でた。
 あのときはきっと、鬼道は何の意味も解らずに頷いたことだろう。突然「理由になってくれ」と言われ、しかしそれがマネージャーになる条件だというのだから、深いことは考えずに承諾したことだろう。馨だってそれで良かった。最初はただの自己保身でしかなかったのだ。だから本当は、こんな意味を持つことになるはずもなかったのに。
 ――けれど、気付けばあの“理由”の中に込められた意味が、変わっていた。
 自己保身ではない、逃げ道でもない、その理由は。

「鬼道くんは、私がここにいる理由になってくれた。だから、私をどうこうすることができるのは影山なんかじゃない――」

 泣きたくなるくらい懐かしい場所で、新しい愛しさと大切な存在を見出だせた。空虚な心を満たすことができた。
 最終的にその契機をくれたのは、馨にとっては決して影山なんかではなく。

「……君なんだよ」

 ――弱虫な自身の代わりになってくれた鬼道こそが、ここにいることの、何よりの理由であるのだ。

「でも、総帥は貴女に何をするか……」
「大丈夫」

 小柄な身体を包んでいた腕をやんわりと緩め、馨はゴーグル越しの瞳と己の視線とを絡める。自然と持ち上がる口角に、柔らかく細まる目。その先にいる鬼道は、今や何とも形容できない表情で馨のことを見つめていた。

「アイツがどんなことをしてこようが大丈夫、私が皆の傍にいたいんだから。君や君たちが望んでくれるなら、私は絶対に離れたりしないし、どこにも行かないよ」

 ――そして、その進む道の果てまで見守っていよう。
 雷門にあったように、彼らにも可能性がある。その種が芽を出し花を咲かせるまで、隣で支えていてあげたい。
 彼らの、本当のサッカーを見たいのだ。

「約束しようか? 指切りげんまん」
「……ふっ」

 ん、と小指を出しては、そのままにこっと子どものような笑顔を浮かべる馨。その纏う雰囲気にはどことなく不釣り合いな表情を真正面から受けた鬼道は、一気に膨れ上がる様々な情を宿すように、控えめな笑い声を零した。

「……とても不確実な言葉なのに、信じてみたくなるのはどうしてでしょうね」

 そう呟く鬼道を、馨はもう一度やんわりと両腕に抱き込んだ。

「私が鬼道くんを好きだって、解ってるからじゃないかな」
「……勘違いはしないので、安心してください」

 そこで漸く余裕が生まれたらしい鬼道が、今度はきちんと、気持ちを込めるようにして馨の背中へと両手を添えた。そうすると、馨だけが抱き締めていたときの何倍も何十倍もあたたかさが増して、重なっている部分から溶けてしまうんじゃないかという錯覚にすら陥りそうだった。初めての感覚、不思議な感覚、だけどそれは言葉にできないくらいに、心地好いものであった。
 それから数分もしないうちに、二人は自然な動きで腕を解いた。両者がそれぞれ動いたことで、ソファーがギシ、と皮の擦れる音をたてる。
 最初にここへ訪れたときとは明らかに違う柔らかい空気の中、馨は鬼道の顔を見ると、完全に勢いで行動してしまったことに対する遅い羞恥が湧いてきて、少しはにかんだ。
 鬼道の方は、そんな馨に一瞬はっとしたような顔をしたと思えばすぐに明後日の方角を向いてしまった。そして(おもむろ)に立ち上がると勉強机のある方に行き、何かを手に取って再び隣に戻って来た。

「これが、先程言っていた父の形見です」

 そう言うのと同時に差し出されたのは、すっかりぼろぼろになった一冊のサッカー雑誌だった。
 鬼道の話の中にあった、彼にとってサッカーに触れるきっかけとなったもの。馨は目の前にあるそれに手を伸ばそうとして、しかしふと躊躇いが生じた。

「鬼道くんにとって大事なものなんだよね、私が触っても良いのかな」
「江波さんだからこそ、です。俺はこの雑誌を、他の誰にも触らせたことはありません」
「……そうなんだ」

 何の迷いも無い鬼道の言葉が嬉しくて、呟いた声は密かに震えた。
 せっかくだからと雑誌を手に取る馨。中を捲るわけでもなく、ただ色褪せた表紙をゆっくりと撫でるだけ。鬼道にとっての宝物を壊してしまわないよう、大切に大切に、愛おしむ手つきで指先を滑らせた。
 それにしても、本当に古い雑誌だ。鬼道が孤児になった年のものならば、今から八年近く前の刊行になる。それを未だにこうして所有し、父との思い出を忘れようとしない鬼道にとって、これは影山との繋がり以上に大事なものなのだろう。

 ――オレは、楽しい楽しくないでサッカーはしていません。

 そんなはずはないと解っていても、どうしてもずっと頭の片隅に焦げ付いていたあの言葉。
 今ならばきっと、また別の答えが聞けるのではないかと思えた。

「……今日、こうやって話ができて、正直すごく安心したよ」
「安心?」

 空気を壊さぬように口火を切ると、雑誌を撫でる馨の指を眺めていた鬼道が、視線を合わせるべく顔を上げた。

「鬼道くんにとってのサッカーって、私が想像するより何倍も重くて苦しそうで、私なんかでは全然理解できないんじゃないかって思ってた。君は前に、『サッカーは義務』だって言ってたから」
「……」
「実際、そうだったんだよね。春奈ちゃんと暮らすためには絶対勝たなきゃいけなかったんだから、そういう意味では義務だったんだと思う。さっき話を聞いて、解ったんだ」

 過去を語る切実な横顔を思い出しながら、人差し指で表紙に映る名も知らぬ選手の輪郭を辿る。

「それだけじゃなくて、鬼道くんにとってはもうサッカーは楽しくないものなのかなって、ちょっぴり不安に思うときもあった。傍で見てたくせに、どうしても心配になっちゃったんだよ。影山に従い続けることで、君がサッカーの大事な要素を失ってしまったんじゃないかって」
「……否定は、できません」

 鬼道が吐息を吐き出すように囁いた。

「俺は多分、いろんなものを見失いかけていたんだと思います。今ここでそれに気付けなければ、これから先、もっと多くのものを……本当の意味で、失っていたんじゃないかと」
「でも、そうならなかった。鬼道くんはちゃんと、自分の本心を大事にしてくれた。だから私は安心したし、すごく嬉しいよ」

 そこでやっと、馨は雑誌から目線を鬼道に移した。明るいライトの下ならば、彼のゴーグルの奥だって今やはっきりと見える。切れ長で、でもどこか十四歳らしいあどけなさも残っている二つの瞳が、馨のことを一切ぶれずに正視していた。
 自身の膝の上に置いていた雑誌を、やんわりと鬼道の膝へ返す。それを受け取った彼の手の上に、馨はそっと右手を重ねた。触れたところから生じる熱が、あっという間に全身へと駆け巡るのを感じられた。
 今ならば、きっと。

「サッカーって、楽しいものだもんね」
「えぇ。サッカーは……楽しいです。楽しみたいんです。これからも、ずっと」

 馨が待っていた、馨が聞きたかった、もう一つの答え。それを口にする鬼道の声はどこまでも揺るがず、ただ心のままに求めている。静かな部屋の中、木霊するわけでもないその言葉は不思議といつまでもそこに残り続け、二人の心の奥に幾重もの波紋を広げた。
 その最後に、まるで何かを確かめるように互いに顔を見合わせる。そして幾許かもしないうち、どちらともなく噴き出すように破顔した。


 時刻が八時を過ぎると、馨はこれ以上長居をするわけにはいかないと言って腰を上げた。
 鬼道と義父には夕飯の誘いを受けたものの、家に課題を残していることを思い出したので丁重にお断りをした。それに、財閥社長との食事など、きっとまともに食べ物の味を楽しむことなどできないだろう。つくづくすごい相手と交流を持ったものである。

「父が、今度時間があるときにでも食事をご一緒したいと言っていました」

 鬼道家の車で自宅まで送ってもらう最中、隣の鬼道がそう言った。気のせいか、少し楽しげな口調である。

「良いのかなぁ、私なんかただの一般女子大生なのに」
「なにも商談をするわけじゃないんですから、そんなに畏まらなくても」
「確かにそうだけど……うん、またそのうちね」

 日本人特有の社交辞令じみた返しになってしまったが、普段は一人で侘しい食事をしている分、相手が誰であろうと多人数で食卓を囲むこと自体には人間的な嬉しさを感じる。滅多に無い経験ができるのだからと腹を括ってしまうのも良いだろう。鬼道が口元で笑ったのを見れば、尚更そう思えた。
 さすがにこの時間にもなれば、元々そんなに活気のあるわけではない道路からは車の影も消え失せる。渋滞も何も無い静かな道を、三つある信号のどれにも引っ掛からずにスムーズに走り抜けていけば、ものの十数分で馨の自宅前に到着した。
 相変わらず無言の運転手にお礼を言ってから降車した馨は、タイミング良く窓を開けた鬼道へと向き直る。

「じゃあ、鬼道くん」

 そして、膝を折って目線の高さを合わせ。

「今度からは一人で何でも抱え込まないで、私のことも頼ってね」

 今回の件は、鬼道が馨の身を案じた故に起きた些細なすれ違いだったのだろう。寧ろ、どちらかといえば馨の存在は彼にとっての重荷にしかなっていなかった。しかしこれからはもう大丈夫だと、今ならば解ってくれているはずだ。確証なんて無いけれど、彼の心がそう感じてくれていることを、馨もまた自覚していた。
 幼い頃からの境遇故に他者を頼らず、何でも一人で抱えて解決しようとしてしまう、やや自己犠牲的な面のある鬼道。自分の言える義理でもないかもしれないけれど、まだ子どもである彼には、もう少し他者を頼るということを覚えてほしかった。せっかく傍にいられるのだ、苦悩も困難も共有しなければ勿体無いし、置いて行かれる側はどうしても歯痒く感じてしまうのだから。
 鬼道は一瞬だけ逡巡したが、素直にこくりと頷いた。
 が、その後すぐに「ですが」と言葉を添える。

「江波さんが無理をしないと約束してくれるなら」
「解った、約束約束」

 何だか前に破った覚えのあるそんな約束も、今度こそちゃんと守らなければならないだろう。鬼道がそうしたように、自分もまた素直に頷くことにした。
 話が途切れたところで、改めて別れの挨拶を交わす。

「また明日、部活でね」
「はい。……今日は、ありがとうございました」

 初めて見る程に晴々とした表情の鬼道。
 馨は何も言わずに笑って、伸ばした手で彼の頭を撫でた。その行為だけで、気持ちが全て伝われば良いのにと思いながら。
 もう慣れた様子でされるがままの鬼道が「くすぐったいです」と軽く頭を振るまで撫で続け、やがて窓を閉じて去って行く漆黒の車を、穏やかな心持ちのまま見送った。




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