想い飛び交う戦国伊賀島戦


 日付が変わり、雷門中対戦国伊賀島中戦当日。
 激戦の舞台となるフロンティアスタジアムには開会式と同じく溢れんばかりの数の観客が集まり、選手たちと同等、或いはそれ以上に凄まじい熱気を放っている。まだ試合開始前だというのに、スタンドへ移動する人混みは早くも茹で上がる勢いでボルテージを高めており、その最中を入り割って進んで行く者をいろんな意味で難儀させた。

「席はとってあるんだっけ?」
「はい。高さもそれなりですし、かなり観やすい場所だと思います」

 二人並んで大混雑の人混みを突き進む馨と鬼道。今回はありがたいことに事前に鬼道が指定席を二人分確保していたため、座席を探し回ったりスタンディングを心配することもない。ちなみに、馨が誘いをかけるより先に二人分用意していた理由は、鬼道曰く「行かないはずがないと思ったので」とのことだ。誘われなければ自分から声を掛けるつもりだったらしい。嬉しいが、とことん年上としての甲斐性を失くしてしまう相手である。
 心の余裕がそのまま動きにも反映し、どちらも焦ることなく地道に観客席への道を歩いていく。時々人の波に揉まれて(はぐ)れそうになるので、その都度馨は鬼道の手を掴んで離れないようにする必要があった。もういっそ、ずっと手を繋いでいた方が楽だし合理的なのではないかと思うのだが、手を掴む度に鬼道が緊張するのが肌越しに伝わってきたので、彼のプライドを最優先して断ずるのは止しておいた。
 スタジアム入り口からある程度進んだところで、やっと人混みが緩和されてきた。ふう、と席に着く前から一息吐いてしまう馨。鬼道の方も、サッカーの練習とは違う意味で揉まれ、些か疲労しているようだった。

「逸れなくて良かったよ」
「本当ですね」

 では気を取り直して先へ行こうかと足を踏み出そうとしたそのとき、不意に馨の視界で光が輝いた。

「……ん?」

 何かが反射したのだろうかと思いそちらを向けば、それはこんなに人の多い場所でも目立つ、眩い金髪だった。一瞬昨日の夕方の出来事を彷彿とさせられたが、よく見たら全くの別物だ。
 何の因果か、その人物はよく見知った紺色の制服を着ており、見覚えのある褐色肌をしている。そして、思わずじっと見つめてしまっていた馨の視線に気付いたのか、突然くるりと振り向いた。

「あっ」

 目に映ったのは、綺麗な翡翠の瞳――瞬間、馨は彼のことを思い出した。先日、河川敷ですれ違い様にこちらを睨みつけてきた、風丸の仲間であるという陸上部の少年だ。
 相手も馨を思い出したのか、一瞬目を瞠った後にぎゅっと眉間に皺を寄せる。かと思えば、わざわざ引き返して馨の目の前までやって来たではないか。

「貴女、江波さんですよね」
「あ、えっと、はい」

 どこか怒ったような顔に見構えられてたじたじの馨。足を止めていると、少し先に進んでいた鬼道も異変に気付いて戻ってきた。しかし、何やら穏やかではない二人の様子に口出しするのは躊躇われたようで、まだ時間に余裕があることを確認すると、そのまま馨の隣で黙って傍観する構えをとった。
 少年は鬼道のことなど気にも留めず、はっきりとした口調で話を始めた。

「ボク、風丸さんの後輩で陸上部の、宮坂っていいます」
「宮坂くんね……で、どうして私のことを知ってるの?」
「突然サッカー部にやって来たコーチっぽい変な女の人、知らない人は多分雷門にはいませんよ」
「そ、そうなのか」

 異名なのか何なのか解らない妙な呼び名が広まっているらしいことを知り、渇いた笑いが漏れる。確かにその通りなのだが、もっとこう、少しでもまともな言い方は無かったのだろうか。
 しかしどうやら宮坂のしたい話はこれではないようで、「それより」と潔く話題を切り替えた。

「風丸さん、解りますよね」
「解るよ。サッカー部の風丸一郎太くん、でしょ」
「はい、あ、いや、そうじゃなくて、風丸さんは!」

 正しいはずの情報をわざわざ訂正しようとするあたり、馨は宮坂が何を言いたいのか何となく察することができた。だから代わりに、やや混乱している彼へ一番適正な答えを与えた。

「陸上部からの助っ人」
「そ、そうです! 風丸さんは元々……いや、今も陸上部の仲間なんです!」

 少し感情的になってきた宮坂。彼がわざわざ言い直してまで強調した部分から、馨はあの日の河川敷で見掛けた宮坂、そして風丸の背中を思い出した。深刻そうな雰囲気を纏う二人と、その後、自分を睨み上げた宮坂のあの恨めしそうな目。
 ――なるほど、これはなかなか厄介な問題になっているようだ。
 推測をほぼ確信にできかけたとき、まるで心を読んでいたかのように、宮坂が河川敷で風丸と交わした会話の内容を語って聞かせた。
 陸上も好きだが、今はサッカーが楽しくてやめられないのだと。これまで陸上部で共に頑張ってきた後輩に対し、サッカーをやめることができないのだと。風丸は、そう言ったらしい――一部始終を語る宮坂の語り口はどこまでも憎々しげだったが、風丸の言葉を話すときだけはそこに隠しきれない甘い色が潜んでいることに、果たして本人は気付いているのだろうか。

「ボク、風丸さんの口からあんな言葉が出てくるなんて思わなくて……それもこれも、全部サッカー部のせいなんです! 助っ人だなんて言って風丸さんを連れていくから!」
「でも、それを決めたのは風丸くん自身なんだよね。だったら、一番は風丸くんの意思を――」
「解ってますよ、そんなことは!」

 正論を述べたところで、今の彼には無意味だった。二人の持つ先輩と後輩という関係性が、この問題をより複雑に、そして感情論でしか語れなくしている。宮坂のような境遇にも風丸のような立場にもなったことのない馨では、宮坂の内心を推察しても、真に理解しきってあげることは難しいように思えた。ちらりと横目で鬼道を一瞥するも、彼は完全に傍観者となっているため助力はもらえそうになかった。

「……難しいね、どっちにとっても」

 そんな無難な返しをした馨だが、正直これ以上何か言葉をかけてあげることはできない。これはサッカー部へ助っ人参加を決めた風丸自身と、その後輩である宮坂との問題であるし、馨の意見一つでどうこうできるものでもない。そもそも、何故宮坂は自分を恨んでいる様子なのだろう――疑問は膨らむばかりだ。
 ところが間を置かずして、そんな馨の考えすら見透かしたように、宮坂の口はその疑問に対する答えを紡んだ。

「風丸さんを引き留めているは、それだけじゃないんです」
「え?」

 じろりと、大きな両目が馨を捉えて(すが)められる。

「……江波コーチ、貴女のせいでもあるんです」
「わ、私?」
「そうですよ! 何で自覚してないんですか!?」
「いや、いきなりそう言われても……」

 一体全体何のことだか見当もつかない。馨が眉をハの字にして狼狽えていると、宮坂は奥歯を噛み締めた後、さらに河川敷での会話の続きを話してくれた。
 あの日風丸は、自身がサッカー部から抜け出せない理由を全て語ったという。陸上部にはない楽しさ、まだ見ぬ未知のライバルへの期待……そして最後に、真っ直ぐ濁りのない瞳で、彼はこう言った。

 ――サッカープレーヤーとしてのオレを見出だし、支え、応援してくれた人がいる……その人の期待に、オレはもっと応えたい。
 ――あの人の応援は不思議でな、もっともっと頑張りたいって、もっとすごいプレーをするオレを見てほしいって、そう思わせられる。こんな感覚、初めてなんだ、オレ。

「……」

 宮坂の言葉が、自然と風丸の声で脳内再生される。不思議と、そのとき彼が湛えていたであろう表情すらも思い浮かんでくるようで。
 馨は言うべきことを見失い、暫し呆然としていた。そんな中でも心の片隅からじわりじわりと湧いてくるのは、恐らく、嬉しさ。
 風丸にそんなことを思ってもらえているなんて、知らなかった。

「風丸くんが……」

 無意識に口元が緩みそうになったが、表情を変えない宮坂の手前、無理矢理顔の筋肉を引き締めて真摯な面持ちを保つ。話はまだ終わっていない。

「そうか、私がいるから風丸くんはまだサッカーをやめられないってことなんだね」
「そうです」
「じゃあ、風丸くんはもうずっとサッカーやめられないよ。だって私もサッカーが好きで、雷門が好きで、この先もずっと関わり続けていきたいって思ってるから」
「……ッ!」
「それがどうしても許せないっていうのなら、私がサッカーを、雷門を応援するのを、やめなきゃいけない。でも、本当にそれだけで風丸くんはサッカーをやめて陸上に戻るのかな。サッカーに未練たらたらの先輩と一緒に走ってて、君は本当に楽しいのかな」
「……」

 馨が言葉を放つごとに、宮坂の表情から元気が失われていくのは気のせいではないだろう。これではまるで馨が彼を苛めているように思えてしまう。が、一度出てしまった言葉は二度と無かったことにできないし、そうするつもりもない。少なからず自分がこの問題に引っかかっていると知った以上、馨には宮坂の中に、何であれ自分の意見を一つ残しておく義務がある。
 馨の意見は簡単なものだ。先程言いかけたことと同じ――風丸は風丸自身で道を選んでいるのだから、その選択を決める権利は他の誰にも無いのだ、と。
 これは雷門サッカー部のせいでも、馨のせいでもない。当人の風丸を含め、誰も悪くはない。そんなことはこの、目の前で今にも萎んでしまいそうな宮坂にだって、本当はちゃんと解っているはずなのだ。その理解を理性で制して表現することが、感情的になってしまっている今だと、少し難しいだけなのだ。
 馨は膝を折り、宮坂と目線の高さを合わせた。いきなり屈んだ馨に吃驚したのか、丸くなった翡翠が何度かぱちぱちと瞬きする。

「今日は、風丸くんを見にきたんだよね?」

 微かに首を傾けつつ訊くと、宮坂は視線を彷徨わせた後、ぽつぽつと答えた。

「風丸さんに試合を観てほしいって言われて、来たんです」
「なら、一瞬も目を離さないで見ててあげてね。サッカーをする自分を見て、何かを感じて、それから君にもう一度考えてみてほしいんだよ」
「……解ってます、だから来たんです。それと……この目でちゃんと、確認したくて」
「何を?」
「風丸さんの足は、サッカーでだって誰にも負けたりしないってことを」

 風丸がサッカーをすることに反対していようと、それを口にする際の彼はとても誇らしげであった。
 例え陸上でなくとも、いつだってどこでだって憧れの風丸にはずっと輝いていてほしい――宮坂自身も大好きな先輩を取られてしまう悲しみに押されて自覚していないであろうそんな気持ちを、馨は確かに感じ取った。

「うん、風丸くんは本当に素晴らしい選手だよ」

 最後にそれだけ言ってから膝を伸ばし、軽く手を振って宮坂と別れを告げた。あちらから手を振り返されることはなかったけれど、去り際の彼は出会い頭と少し雰囲気が変わっていた気がするので、きっと大丈夫だろう。次に会うときはもっと穏やかな会話がしたいと思った。
 今度こそ観客席へ向かうために歩み出すと、今の今まで一言も言葉を発しなかった鬼道が隣に並びつつ、そっと口を開く。

「随分慕われているのですね」
「あれ、もしかしてヤキモチ?」
「図星です……とでも返しておきましょうか?」
「……いい性格してるなぁ」

 すっかり慣れた軽口の応酬と共にスタンドへの入り口を抜ければ、よりいっそう会場の熱気が増したような気がした。
 もうすぐ試合開始だというのに、スタンドの通路では未だ落ち着かない観客たちがあちこち歩き回っていた。おかげで外へ出られたは良いものの、狭い通路での押し合いへし合い譲り合いが続き、馨たちが席へ座れたのは宮坂と別れてから数分程経った頃だった。
 ようやっと落ち着ける、と並んで腰を下ろした二人。
 直後、ピッチを見た鬼道が疑問の声を漏らした。

「何か揉め事でもあったのでしょうか」
「ん?」

 馨もつられて見てみれば、センターサークル付近に雷門イレブンと、相手チームである戦国伊賀島メンバーの内の三人が集まっている。まだウォームアップ時間内であるし、彼らは宣戦布告にでも現れたのだろうか。今来たばかりの馨たちには事情は解らないが、程無くして戦国伊賀島の三人が姿を消したので――本物の忍者だ! と馨はつい興奮してしまった――特に大した騒ぎではなかったらしい。
 敵がいなくなり、再び練習を始めた雷門イレブン。その中で一際燃えているように見受けられたのは、やはりと言って良いのかは解らないが、宮坂の眼差しに応えようとしている風丸だった。


『毎年幾多も名勝負を生み出してきたフットボールフロンティア全国大会! ここフロンティアスタジアムは、試合開始を今や遅しと待ち構えている!』

 今日も今日とてパワーと気迫全開の実況に耳を傾けていると、ついにキックオフを告げるホイッスルが鳴り響いた。
 雷門ボールから始まった雷門対戦国伊賀島の試合。このまま一気に先取点といきたいところだったが、相手もそうそう甘くない。染岡から半田へのパスは、戦国伊賀島の霧隠による素早いインターセプトによってあっさりと奪われてしまった。

『おっとーッ! 戦国伊賀島の速攻! 霧隠が雷門陣内深くへ切り込む!』
「霧隠才次……スピードだけなら今大会で一、二を競う選手ですね」
「しかも今の反射神経すごかったね。ただ速いだけじゃなくて俊敏さも持ってるのは厄介だな……さすがキャプテン」

 馨もそうだが、鬼道も今大会の有力選手についてはその情報を余すことなくインプットしている。二人で交わす会話は、もしも聴こえているのだとしたら、その周囲にいる観客にとっては良い解説となっているのかもしれない――それはさておき、鬼道の言うように霧隠のスピードは大会屈指である。これは、同じくスピードを武器に戦う風丸にとっては、自分を試すことのできる絶好の相手なのではないかと思えた。
 しかし、戦国伊賀島の脅威はスピードだけではない。すぐにボールを取り返すべく向かっていった風丸を、霧隠は自身の残像を作り出して見事翻弄してみせた。

「出た、忍者サッカーだ」
「あれは《残像》ですね……解っていたとしても、こうして目の当たりにするとやはり驚きます」
「確かに」

 今のがまさしく、戦国伊賀島中サッカーの特徴である忍術を用いた必殺技だ。しかも尾刈斗のときとは違い、これは種も仕掛けも無い歴とした戦術。小細工ではなく、正々堂々と真正面から打ち破らなくてはならない。
 霧隠による戦国伊賀島のファーストシュートは、円堂が難なくしっかりキャッチした。が、目の当たりにした忍術にやや混乱気味である様子だ。

「そりゃ驚きもするよね」

 何せ、彼らは本物の“忍者”なのだから。これまで散々突飛な相手と戦ってきた雷門でも、よもや忍者を相手にする日が来るとは思いもしなかったことだろう。馨は自分の心がわくわくするのをそのまま声音に乗せ、ゆるりと腕を組んだ。

『さぁ、今度は雷門中が伊賀島陣内に切り込む!』

 ボールは雷門側へ回ったものの、試合展開は依然伊賀島の流れのままである。半田と豪炎寺が何とか敵陣内への侵攻を試みるも、相手は瞬時に二人を追い囲むフォーメーションをとってきた。戦国伊賀島の蹴球戦術である『鶴翼(かくよく)の陣』は、相手の意思に拘らずじわじわとサイドから追い詰めていき、その行動範囲を限定させる。そして最後に、成すがまま中央に誘い込まれた半田が豪炎寺にボールを託したところでDF陣が《四股踏み》でまとめて二人を吹き飛ばし、ボールは相手キーパーへ渡る。まさに完璧な作戦であった。

「忍者サッカーか……これはどんな試合展開になるか予想もつかないな」

 どこか楽しそうな鬼道の呟き。馨は何も返さず、ただ僅かに顎を引いた。

『さぁ、まさにフットボールフロンティア全国大会に相応しい白熱したゲーム! ここまでは戦国伊賀島が意表を衝くプレーを駆使し、優位に試合を進めている!』

 雷門メンバーのやる気や気迫も充分だが、それ以上に戦国伊賀島の技能が一枚上手である。見たこともないような必殺技で幾度となく意表を衝き、選手たちを翻弄し、困惑させていた。せっかく撃てた《ドラゴントルネード》はキーパーの《つむじ》の技でキャッチされ、続く《イナズマおとし》のチャンスもMF風魔による《くもの糸》で不発に終わる。今のままでは、雷門側に勝機は見出だせない。

「忍術だけじゃなくて、サッカーとしての戦術も完璧に完成させてきてるなぁ」
「伊賀島仙一監督はご高齢ながら未だ現役ですし、然もありなんというところですね」
「んー、これは雷門も辛い。これだけ押してるっていうのは良いことなんだけど」
「最後の契機が掴めない、というところでしょうか」
「だね。この流れすら断ち切られたらさすがに厳しいな」

 だからこそ、今の時間帯で絶対に先取点が欲しい――そう考えていたとき、自陣ゴール前にいた風丸が不意にオーバーラップをした。きっと彼も同じことを考えている、だから何としても点を取りたいと思っての行動なのだろう。隣には豪炎寺も並走しているので、以前円堂が言っていた“新たな必殺技”でゴールを狙いに行くのかもしれない。
 風丸は素早いフェイントによってDFの高坂を抜き去ろうとする。しかし抜けたと思った矢先、高坂の《影縫い》によって足を捕らえられてしまった。馨も今のはいけたと思ったのだが、やはり相手のやり方がその上を越えてしまう。

『さぁ今度は戦国伊賀島の攻撃だ!』
「まずいぞ……」

 馨が歯噛みしている間にも、零れたボールは一気に前線にいた霧隠に渡り、ついに必殺シュートが放たれた。巨大な塊となってゴールに襲い掛かる《つちだるま》は、霧隠の合図と同時に割れて中から勢いのついたボールが飛び出す。円堂は《熱血パンチ》で迎え撃つが防ぎきれず、無情にもボールはゴールネットに強く突き刺さった。

『ゴール! 先取点は戦国伊賀島だ!』

 大会初の得点シーンに会場全体が湧き返る中、ドサリと倒れ込む円堂。右手から崩れたその倒れ方を見て、馨と鬼道は同時に顔を顰めた。

「今……」
「嫌な倒れ方をしましたね。ダメージが無ければ良いのですが……」
「思いきり体重かけながら倒れてたし、少なからず影響はあるかもしれないね」

 その後再び放たれた戦国伊賀島の《分身シュート》は何とか防いでいたが、どうにも気掛かりでならなかった。
 そこで前半終了となり、選手たちはそれぞれのベンチへ引き揚げていく。馨も鬼道も円堂の手とチームの雰囲気が気になり、席を立たずに雷門ベンチをじっと見つめていた。が、どちらも心配するまでもなかったようだ。円堂はやはり怪我をしていたらしく、秋によって手当てを施された。加えて、痛みを堪えてゴールを守っていたキャプテンに感化されたのか、遠目でも解るくらいにイレブンは気合いを入れ直していた。

「キャプテンが怪我して士気が上がるなんて、本当に面白いチームだなぁ」
「これも全て、円堂守の成せる業というところですか」
「雷門サッカー部の中での円堂くんの存在は大きいからね。当然、帝国に於ける君の存在も」

 にっと白い歯を覗かせて笑いかければ、鬼道も応えるように微笑して「解っています」と頷いた。
 やがてハーフタイムも終わり、会場は再びぴりりとした緊張感に包まれる。そんな中で一瞬たりとも気を抜かず、真剣な目つきでグラウンドを見つめる馨。そのときふと、センターライン上にボールを置いた風丸と目が合ったような気がした。

「……」

 ――遠すぎて表情すら解らないくらいだ、勘違いであるかもしれない。
 けれど、それでも良いと思いながら、馨はますます目元に力を入れて風丸を凝視した。頑張れ、という熱い思いを眼差しに込めて。風丸が小さく頷いたように見えたのは、きっと勘違いではないはずだ。

「……期待してるよ」

 小さく零せば風丸がポジションに移動し、程無くして後半開始のホイッスルが轟いた。

『さぁ、後半開始早々戦国伊賀島の猛攻撃だ!』

 初っ端から容赦の無い戦国伊賀島の猛攻を、雷門DF陣はペナルティエリア外で何とか防ぎ続ける。円堂に負担を掛けさせまいという気持ちが見ているだけで伝わってきた。中でも風丸の気迫は凄まじく、遠くにいる馨の瞳を焼き焦がさんばかりに刺激するようであった。

「風丸くんすごいな、前半以上にキレがある」
「期待に応えるため、かもしれませんね」

 にやりと笑ってわざわざ含みを持たせる言い方をする鬼道の肩を、馨は緩く握った拳でコツンと突いた。
 前半よりも対等にやり合えているかと思えたのも束の間、戦国伊賀島はさらなる戦術を見せてきた。初鳥の合図と共に瞬時に組まれた隊列『偃月(えんげつ)の陣』が砂塵を巻き上げながら突進していき、雷門DFたちは成す術も無く吹き飛ばされてしまう。あっという間にボールは雷門エンド前まで運ばれ、風丸も抜かれ、残るは壁山ただ一人。
 そこで遂に、壁山の才能が日の目を見た。

「おぉ!」

 思わず感嘆の声をあげる馨。壁山の覇気が、まるでそそり立つ巨大な壁のようにボールを弾いた。ここへきて、彼はDFとしての新たな力を発揮してきたのだ。
 しかしまだボールは生きている。霧隠はもう一度《つちだるま》で追加点を狙いにいき、何とか戻った風丸がブロックに入ろうとするも間に合わない。円堂との一騎打ちだ。

「止めるか……」
「怪我がある分、厳しいかもしれませんね」

 円堂は先程と違い《ゴッドハンド》で対抗を試みる。だが、やはり怪我の分だけ力が入らないようで、シュートを止めることができなかった。呆気無く砕け散る《ゴッドハンド》、そのまま二点目が入る――かと思いきや、そこへ颯爽と現れてボールを弾き飛ばす影。正体は風丸だった。

「風丸くん!」
『何と風丸がその名の通り風のような速さでゴールを阻止ーッ! これはスーパープレーだーッ!』

 実況の大絶賛と相俟(あいま)って観客はさらに湧き立ち、その例に漏れない馨もまた、興奮のあまり片腕で鬼道の肩を掴み寄せた。

「すごいすごいすごい! さすが風丸くんッ! かっこいい!」
「ちょ、江波さん、まだ試合は続いてますよ!」

 鬼道はされるがままに肩を揺すられながらも、隣ではしゃいでいる年上の大人を見上げ、仕方ないなというような苦笑いを零した。
 鬼道の言うように、試合はまだ続いているしますます白熱の一途を辿っている。『さぁ息吐く間も無く風丸が上がっていく!』――ボールを持って一気に駆け上がる風丸は、先程壁山を苦しめた風魔の《くもの糸》さえ自慢の足で易々と振り切った。そのまま横の直線上にいた豪炎寺とアイコンタクトを取り、高くボールを蹴り上げる。瞬間、馨の脳内に以前円堂の言っていた言葉が再度思い起こされる。
 ――豪炎寺と風丸による、新しい必殺技。

「《炎の風見鶏》!」

 二人が蹴りつけたボールは炎を纏った鳥となり、相手キーパーに必殺技を出す隙すら与えずゴールネットを大きく揺らした。
 ピーッと笛が鳴り、雷門の得点を高らかに宣言する。会場が嵐のような歓声に包まれた。

『ゴールッ! 豪炎寺と風丸の二人が放つ必殺シュートが炸裂! 雷門中同点だーッ!』
「やったーッ! 鬼道くんやった! やったよ!」
「素晴らしいシュートでしたね」

 鮮やかで、かつ強烈なシュートを目にして、馨は思わずその場で立ち上がりそうになった。そこは何とか踏み止まるも、興奮は収まるところを知らず、寧ろどんどん高まっていくばかりだ。うっかりすると、そのうち隣に鬼道がいることさえ忘れてしまいそうだ。それくらい、この熱い試合に釘付けだった。

『さぁ試合終了の時間も迫ってきた!』

 残り時間ももうあまり無い。同点となってどちらも必死な時間帯、ボールを取ったのはまた風丸だった。そこへ果敢に単騎挑みにいったのは霧隠で、二人は互いに肩をぶつけ合いながら激しくボールを奪い合っている。ドリブルをしているとは思えないスピードだった。
 このままでは埒が明かない――誰しもがそう思っている中、二人の一騎打ちに終止符を打ったのは風丸。彼はコーナー付近で走るのを止めると同時に、爪先でボールをふわりと浮かせることにより霧隠の頭上を越えさせ、完全な不意打ちで霧隠を抜き去った。

「チップキック!? 風丸くん、いつの間にあんな技術を……」

 明らかに上がっているテクニックを目にし、馨も驚きと感心の入り混じった声音でそう漏らす。サッカーに於いて重要なのはスピードだけではない、それをさらに活かせるだけの技術だって大事だ。それを解っている分、今回は霧隠よりも風丸の方が上手(うわて)だったということだろう。隙を見せればボールを奪われてしまうという緊張感をものともせず、彼は高等技術であるチップキックで好機を掴んだ。本当に素晴らしいサッカー選手である。
 風丸が豪炎寺にパスし、間髪入れず放たれた《ファイアトルネード》が相手ゴールへと突き刺さる。ワァッと天を貫かんばかりに湧き上がる歓声。その直後に鳴ったホイッスルが、試合終了と共に雷門の逆転勝利を告げた。

「勝ちましたね、雷門」
「うん、本当にすごい試合だった」

 興奮冷めぬまま満足そうに二度三度頷くと、鬼道は不敵に笑って眼下へ目を遣った。

「決勝で戦うときが楽しみです」
「私もだよ」

 言いながら馨も、視線をゴール付近で大喜びしている雷門メンバー、その中央にいる風丸へと向ける。
 今日の彼の気迫掛かったプレーは、ただ試合に勝ちたいという執念のみが成せたものではない――彼自身が答えを見つけたからこそ、そしてそれを見せつけたい相手がいたからこそなのだ。こんなプレーを見せられては、きっと宮坂だって。

「……嬉しそうな顔するなぁ」

 ――その人の期待に応えたいんだ。

 反芻した台詞に、胸中でそっと返事をする。
 期待以上だよ、と。


* * * * *


 試合終了後、馨はいつも通り鬼道と別れてから雷門の控え室を訪ねていた。勝利の余韻に浸ってテンションの高いメンバーに祝勝の言葉を掛け、ちょっとした会話を交わす。最早恒例行事となりつつあるその時間は、馨にとって癒しすら感じる落ち着いたひと時である。
 ちょうど壁山の新必殺技――目金曰くの《ザ・ウォール》――についての話が一段落したところで、ふと馨は、この場に今試合のMVPとも言える存在がいないことに気が付いた。

「あれ、そういえば風丸くんは?」
「風丸なら、会う予定の人がいるっつって少し前から出てるぜ」

 隣の染岡が肩を解しながら答えると、馨はすくりと腰掛けていたベンチから立ち上がる。と同時に円堂がもう帰るのかと訊いてきたので、一度頷いて鞄を肩に引っ掛けた。

「風丸くんに声掛けてから行くよ」
「そっか、見に来てくれてありがとうな!」
「さよなら、コーチ」
「帝国も負けるなよ!」

 最後に飛んできた半田の言葉には、挑戦的な笑みと力強く立てた親指で応えてやった。こんな試合を見せられたのだ、帝国だって黙ってはいられない――帰ったらますます熱を入れて取り組んでやる、そんな気概を込めたサムズアップでもあった。
 帝国の練習にも戻らなければならないので、あまり長居はできない。だから、風丸がすぐに見つからなかったら潔く諦めて帰ろうと考えていた馨だったが、結果として彼は案外すぐ近くで発見できた。
 そして、予想通りの人物と向き合い、話をしているところであった。
 柱の影からそっと窺う。宮坂と対話している風丸の雰囲気は穏やかで、二人の間には河川敷で見たあの重苦しさは一切感じられない。宮坂もまた同じく、試合前まで纏っていた刺々しさはどこへやら、優しい笑顔で先輩のことを見つめている。端から見ただけで、宮坂の中で起きた変化は容易に見抜けた。
 そうであろう、と思う。先輩にあんな姿を見せられて、魅了されない後輩などいない。

「フィールドを駆ける風丸さんはカッコ良いです! ボク、応援してますから!」
「ありがとう、宮坂」

 宮坂は背を向けるも、数歩進んだところでふと立ち止まり、そっと丁寧に手渡しするような声音でこう言った。

「またいつか、一緒に走ってください、ボクと」

 精一杯の思いを込めたその言葉を受け取った風丸は、やがて宮坂の姿が見えなくなったところで、ふっと小さく息を吐いた。
 そのタイミングで柱から姿を出し、馨は風丸の背中をポンと一つ叩く。

「かーぜまーるくんっ」
「わっ!」

 瞬間、びくりと身体を跳ねさせたのが触れた手越しに伝わり、つい笑みを零した。

「な、なんだ、江波コーチか……もう、ビックリさせないでくださいよ」
「ごめんごめん。それより、試合お疲れさま」

「すごかったよ」とより笑みを深めれば、風丸の口端がゆっくりと持ち上がる。心から満足そうな笑顔だった。

「今日はオレ、自分でも良い試合ができたと思うんです。オレがサッカーに抱く想いを、全部プレーに表せました」

 言われるまでもなく、馨にだって今日の風丸のプレーには熱い気持ちが込められていたのだと解っている。あんなに力強いプレーと懸命な瞳、気迫がかったバイタリティ、それら全てが彼の想いが生半可なものではないことを如実に表していた。
 馨は風丸の背に置いていた手を離し、正面から向かい合うように移動する。身長差のせいでやや見下ろすかたちとなりながらも、茶がかった綺麗な双眸と視線を合わせた。

「選んだんだね、きちんと、自分の意思で」
「……コーチ」

 意味深な台詞に、馨が自分に起こっていた出来事を知っているのだと悟ったらしい風丸。僅かに俯いたと思えば、次の瞬間には再び顔を上げた。意思を込めた強い眼差しで、しっかりと馨を射抜いている。

「オレは、サッカーが好きなんです。この試合で改めて解った……オレは助っ人でもなんでもなく、一人の純粋なプレーヤーとしてアイツらとやるサッカーが大好きで、それで、もっとサッカーを続けていたいんだって」

 陸上を捨てたわけではないけれど、陸上以上の魅力をサッカーに見出だした。陸上では得られないものがサッカーにはあるということに気が付いた。そして今は、それをひたすらに追い続けていたい――そんな思いが、ひしひしと伝わってくる。風丸は、今というときが本当に楽しいのだと思い知らされる。それが馨にとっては何より喜ばしいことだった。
 真摯で、何より楽しげな声音に、馨も優しい表情を浮かべる。今日のプレーを思い返してみれば、風丸の一言一言が全ての動作に響いているように感じられた。
 少しの間を空け、ふいと風丸が馨から目線を外す。馨は一つ瞬きをした。心なしか両頬に彩りを宿した彼は、少し言い難そうに唇を動かす。

「それに……初めてディフェンスを指導してもらったとき、コーチに褒めてもらえたのが、すごく、嬉しかった」

 散らばった言葉を手繰り寄せるように、初々しくもありたとたどしくもある口調。
 馨は軽く目を丸くして、しかし遮ったりはせず、その続きが紡がれるのを待っていた。脳裏に映されるのは、初めて彼らと顔を合わせ、風丸に指導をした日のこと。まだ不慣れな関係で、それでも褒めれば嬉しそうに笑顔を返されたのを、昨日のことのように覚えている。

「こんなの、子どもみたいだとは解ってます。けど、コーチが褒めてくれたりオレたちの勝利を喜んでくれたりするのが嬉しくて、コーチの見ている場所で頑張っていきたくて、もっとたくさん期待に応えたいと思えて、だから……」

 ――オレはサッカーを、やめられないんです。
 まるで一世一代の告白めいた台詞は、そんなあたたかい言葉で締められた。

「……」

 宮坂から既に、風丸が自身に対して抱く想いは聞いていた。だから驚くことはしない。
 それでも、こうして面と向かって真っ直ぐに伝えられると、あのときとはまた違う感情が満ちていくような気がした。嬉しさとも、或いは感謝とも言える気持ちが、胸いっぱいに波紋を広げる。あたたかくて心地好い、幸福にも似た波紋だった。

「なら、これからももっともっと風丸くんの活躍するところ、たくさん見せてね」
「はい! オレ、もっとたくさん頑張ります!」
「うんうん。……今日は本当によく頑張ったね、最高にカッコ良かったよ」

 ゆるりと持ち上げた手を空色の頭に乗せ、気持ちを伝えるように柔らかに撫で下ろす。手が置かれた瞬間は驚いて反射的に肩を竦めた風丸だったが、やがて触れる手のひらの温度に感じ入るように微笑を湛え、すう、と目を細めた。

「――ありがとうございます、コーチ」


* * * * *


「覗き見なんて、趣味悪いぞ」

 自分のことは棚に上げ、茶化すようににやりと口角を吊りながら柱の向こうを覗き込めば、そこには先程去ったはずのまばゆい金髪が在った。

「……江波さん」
「今日の風丸くんは一段とすごかった」

 ぱっと弾かれるように上を向いた翡翠が、微かに揺れた。
 馨は敢えて彼と目を合わせぬまま廊下の先を見据え、先を続ける。

「気迫が凄まじかった。プレーの全てに風丸くんの想いが乗り移ってて、全身全霊でサッカーをやってるっていうのが見ているだけでも伝わってきた。あれは、誰であろうと目を離せないね」
「……あんな風丸さん、初めて見ました。……それと」

 一瞬、間が置かれ。

「――誰かに褒められてあんなに嬉しそうにする、風丸さんも」

 そこで初めて、馨の瞳は宮坂の顔を捉える。もう彼の目に、馨を恨む色など存在してはいなかった。そこに在るのは、ただ先輩を思う一途な後輩としての思いと、――今にも弾けてしまいそうな、薄い水のヴェール。

「風丸さんのこと、よろしくお願いします」
「……良い後輩だね、宮坂くんは」

 優しく肩を引き寄せて目を離せば、視界の外でグスンと鼻を啜る気配がした。




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