食卓を囲んで


 無事に雷門が全国大会初戦を勝ち抜いたことで、帝国サッカー部のやる気もますます鰻登りとなった。
 試合当日まであまり日数が無い中、先日鬼道と馨とで決めた新しいフォーメーション――佐久間をボランチに置いた3-6-1の型での練習に明け暮れる帝国イレブン。
 鬼道は飽くまで序盤ベンチを前提にしているので、試合や足の様子を見つつ、いけそうな場面では復帰してそのままダブルボランチ型を取るのが望ましい。その場合、元々司令塔レジスタとして攻撃的ボランチ配置であった鬼道の対になる佐久間は、転じて流動的なダイナモ型ボランチに回ることになる。攻撃の始点役である鬼道がいれば、佐久間も充分ストライカーとして機能するからだ。そのため、一試合の中で役割を切り替える機会があるということで、佐久間には機敏かつ柔軟に対応できるよういっそうハードな練習が必要とされた。
 本番でいざというときピッチに戻れるよう、鬼道は極力激しい練習は控えるようにしている。その分、佐久間の動きを見ながら適宜鋭い指示や指摘を飛ばしているので、今の彼は選手でありながら一端のコーチでもあった。

「佐久間! 今のシーンはDFのライン確認をしてから戻るべきだった! もっと周りを見て状況を把握しろ! オマエがゲームメイクをするんだ!」
「すまない、解った!」

 傍で聞いている馨ですら背筋の伸びる鋭いダメ出しも、佐久間は全く怖気づくことなく素直に呑み込む。ハンディカメラに映る彼の表情は、気のせいでなければ鬼道から指摘が入る度に活力を増していた。
 それだけならばただのやる気に満ち溢れた凡選手だが、佐久間は飛んでくる指導をきちんと自分のものにし、次に活かしていくこともできている。FWとは違う環境で、さらなる躍進を遂げようとしていた。

「佐久間、やっぱり素質あるなぁ」
「えぇ、それにアイツは根っからの努力家ですから。試合を経て経験を積めば、より精度を上げていくでしょう」
「無事に勝てたら、第二試合では開始からダブルボランチ型でいきたいね」

 今から第二試合のことを考えるのは些か尚早かもしれない。ただ、この分だと早くも明日に迫った世宇子戦では充分な活躍が見込めそうだ。鬼道も馨も、それに他のメンバーたちも、新たなかたちを追求していくこのチームに対して大いなる期待を抱いていた。
 そろそろ箔もついてきた、佐久間が伸ばした人差し指と共に各自へ指示を飛ばす姿。それを全景でカメラに収めながら、馨はふと、まだマネージャーになったばかりの頃に見た練習風景を思い出した。
 あの頃、自分は彼らのハードながら規則正しいばかりの練習を見て“マリオネットのようだ”という感想を持っていた。個々に秘められた力を充分発揮できることもなく、ただ帝国サッカー部としての伝統を重んじ、総帥の操る盤面上でひたすら糸を引かれているだけだった皆の姿は、魂を持たぬ操り人形にしか見えなかったのだ。
 しかし、今、こうして目の前で自分たちの新天地を目指す彼らは――確かに生きている。マリオネットではない、誰からの支配も受けない、自我と魂の熱量を持てる本物の人間である。あの頃とはいろんなものが変わり、見ているだけで熱くて、心臓が震えて、希望を見出せる、そんなサッカーができるようになった。
 理想を追い求めた先にある“結果”は、次の世宇子戦を終えないことには手に入らない。そこが彼らの最初の基点となれるのだ。それが最高のものにできるようにと、こうして毎日瞳を輝かせながらグラウンドを走っている。
 だから、まだ胸をいっぱいにするのは早い。感動するのは、試合が終わってから――そう解っていながら、馨はふとした瞬間に、物思いのような感慨に耽ってしまいそうになる。どうかこの幸せな時間がずっとずっと続いてくれれば良いのに、と願ってしまう。そんなこと叶わないととっくに知っているはずなのに、どうしても、願わずにはいられない。
 その根底にあるのは、今という時を生きる帝国サッカー部に対する、単純な愛おしさ。
 それに、もう一つ。
 ――世宇子中。
 先日出会ったあの美貌、一目見たら忘れられない金色。照美と名乗った少年が十中八九在籍しているであろう、次の戦いの相手。実力はほんの一欠片程度しか目にすることはできなかったけれど、それでもその一欠片だけで、彼が相当の技能を有していることが感じられた。
 それに別れ際、彼は確かに馨の目と鼻の先から、一瞬にして姿を消したのだ。あんなこと、戦国伊賀島中選手のような忍者でもなければ、普通の人間にはまず無理な芸当だろう。一体どんな種が仕掛けられていたのか、未だにその尻尾すら掴めない。得体の知れない奇妙な残り香が、いつまでも馨の身体に纏わりついているようだった。

「……」

 どんな技を使うのか、どんな戦術を駆使してくるのか、何もかもが不明なままの世宇子サッカー部。
 今、この帝国サッカー部は、新たな可能性に挑もうとしている佐久間は、どんな戦いを繰り広げることができるのだろうか。きちんと自分たちのサッカーを通して戦い抜くことができるのだろうか――。

「江波さん、そろそろ休憩にしましょう」
「――そうだね」

 ――全てが今更だ。
 ここまできたら、もう後戻りはできない。だったらひたすら全力で、眼前に聳える未知なるものにぶつかっていくしかないだろう。怖がってばかりいたって始まらないし、成長しない。マネージャーならば、皆のことを信じ抜く覚悟を持たなければダメだ。影山はもういないのだから、大丈夫、大丈夫……。
 馨は首から下げていたホイッスルを咥え、ピィッと吹き鳴らした。ぬかるんだ思惟を丸ごと消し飛ばすよう、いつも以上に力いっぱい息を吹き込んだ。


* * * * *


 試合前最後の練習は、明日に備えて体力を温存するという意味も込めて平時より一時間早く切り上げられた。
 ぞろぞろと帰っていく部員たちの背を見届けてから、馨は明日の準備のために少し居残りをした。一応講義の前の時間を使って学園から会場への見送りには来るつもりだが、あまり時間を取られないため、今のうちに用意できるものは全て整えておきたかったのだ。
 それに、明日はこれまでの帝国サッカー部とは少し違うかたちで会場入りをすることになる。その点の最終チェックも兼ね、時間にして凡そ一時間弱、すっかり人気ひとけの無い校内で黙々と作業を行っていた。

「――よし、こんなもんだな」

 充分な数のドリンクやタオル、医薬品、備品、その他諸々。あとは明日来てからもう一度確認することにして、漸く馨は家路に着くことができた。時間的には普段の部活終了と変わらないのに、最後に「さよなら」と口にしてから随分経ってしまっているからか、廊下を抜ける際の孤独感がいつもより少し強く思えた。
 薄暗がりの学園校内とは一転し、外はまだ辛うじて明るさを保ってくれている。遠くの空は早くも茜から紺へのグラデーションに染まろうとしているが、日が完全に落ち切るのはもう少し先だろう。学校の壁にとまっている蝉の合唱を背に受けながら、馨はのんびりと自宅への道を歩み始めた。
 部活帰りの学生や退勤後のサラリーマン、犬の散歩をしているご老人、笑顔で駆けていく小学生。駅へ向かう道中は夏の雰囲気にあてられたかのように依然賑やかであり、それは何の変哲も無い、普段と同じ帰り道。今日もまた、近くのスーパーで買い足した食材と冷蔵庫の中の残り物とを合体させ、適当な夕食を作り、食べ、寝るのだと。取るに足らない一日の終わりを迎えるのだと。ぼんやり今夜の流れを思い描きながら歩いていた馨は、点滅する歩行者信号の前で、当たり前に足を止めた。
 ――きっかけがあったとしたなら、多分その信号なのだろう。
 いつもと同じ日常が、ある瞬間から急激にイレギュラーなものへ変化する――馨ならばそろそろ慣れても良いはずのそれは、やはり未だに慣れることができるわけもなく。

「江波さん?」
「ん?」

 ふと、どこからともなく聴こえてきたのは確かな己の苗字。
 自然反射できょろりと周囲を確認した馨の、すぐ横。信号待ちで車道に停まっていた一台の乗用車、その後部座席の窓が、何故か空いていて。

「おぉ、やはり江波さんでしたか!」
「……あ」

 そこからひょっこりと満面の笑みを覗かせていたのは、なんとあの鬼道財閥の社長――則ち、鬼道有人の義父だったのだ。


 何故自分がこんな空間にいるのかと、答える者のいない問答を胸中で繰り返すこと早数分。伊達に普段から鬼道と関わっていない馨は、いい加減そろそろこの空気にも馴染みつつあったけれど、やはりといって良いのか、最後の緊張を解くまでには至っていない。
 ――彼はさすが大企業の社長らしく、いろいろなところで実に積極的だった。
 馨を見つけるや否や、あれよあれよと言う間に車、しかも自分の隣の席へ座ることを促した義父。促すというより、あれは殆ど強制に近かったと思う。何せどちらも信号待ちをしており、もうすぐ青信号になるかという瀬戸際でもあったのだから、馨には悩むどころか戸惑う隙すら与えられなかったのだ。
 そして、車はそのまま馨のことを自宅へ送ってくれるのかと思いきや。

 ――このあと、何かご用事は?
 ――いえ、特にありませんが……。
 ――なら、是非うちで夕食を食べていってはくれませんかね。
 ――え!?

 勿論、馨はご迷惑ですから云々とテンプレめいた理由を並べてご遠慮した。思い返せば以前、鬼道伝いに食事の口約束自体はしていたが、今は正装もしていないし何より心の準備が全くできていない。第一明日は試合があって、だからこそ鬼道も今日はゆっくり休むためにと早めの帰宅をしたのだ。変にプライベートへ介入し、彼の安息をぶち壊す真似だけはしたくなかった。
 だが、義父もなかなかに引かない人だった。「有人も喜びますから」を筆頭とし、わざとなのか馨の心を揺するような言葉を用い、遠慮の気持ちを押し退けようとしてきた。そんな結果の見えきったやり取りを数度交わした末、案の定断り切れなかった馨は、半ば流されるかたちで鬼道家での夕食を承諾したのだった――無論、本来ならば願ってもない申し出なのだということは、きちんと心に留めている。

「いつもは今日のように早く帰れないもので、有人には独りで食事をとらせてしまっているんですよ」

 義父が言うに、この時間に帰宅できることは本当に稀なのだそうだ。愛息子と共に頂く夕食を楽しみにしていたのだと、彼は尊厳を保ちつつもどこか朗らかな調子で語っていた。

「鬼道さんもお忙しいでしょうし、仕方ないですよ」
「確かに、それは私もどうしようもないことでして……だからこそ、江波さんが一緒の食卓に座ってくだされば、きっとあの子も喜ぶはずです」

「有人は貴女を好いているようですから」と優しい笑みを湛える義父。その横顔は、前に見たときよりもずっと父親のそれに近付いたと思える。以前はどちらかというと“保護者”でしかなかったのだが、今はきちんと、そこに本物の家族と同じだけの愛情を窺い知ることができる。いろんな出来事があって、鬼道と義父との関係も少しは変化したのだろう。
 馨は「私もです」と同じく微笑んだ。邪な思いではなく純粋な、これもまた家族に向けるべきであろう、そんな感情である。

「私も、幼い頃は両親が仕事で多忙でしたので、一緒に食事を摂った記憶は殆どありません。一応親戚がいたので独りではありませんでしたが、それでもたまに両親とご飯を食べる機会があると、すごく嬉しかったことを覚えています」
「そうですよね、それが普通ですよね。あの子はそういったことを一切口にしませんので、なかなかその胸中を知ることもできず……」
「鬼道くん、強かな子ですからね」

 罪悪感を抱いているような声音に、馨は努めて明るく返した。
 義父を社長に持つ大企業の跡取りで、同じ屋根の下には義父と数人の使用人以外はいない。独りでの食事など日常茶飯事であろうし、鬼道は同年代の子に比べて精神面で非常に大人であるから、これまで黙って何とも無く過ごしてきたはずだ。彼の性格的に、ある程度割り切っている部分もあるのだろう。
 それでも、全く寂しくないわけがない――馨はともかく、彼はまだ十四歳、ほんの子どもなのだ。

「忍耐強くて辛抱強くて、私でもまだ、彼の本心を上手く聞いてあげることが難しいです。その分いろいろ抱え込んでしまうタイプではありますが、そこも含めて鬼道くんらしくて、私は好きです」
「……江波さんは、本当によくあの子のことを見てくださっているのですね」
「完璧、とはいかないのですが、自分なりに頑張っているつもりです。それに以前、鬼道くんの支えになるって言いましたから」

 そう言えば、義父は心底ありがたそうに目を細め、厚い唇の端をさらに大きく持ち上げた。
 車は幾つ目かの角を曲がり、やがて赤信号でゆっくりと停まる。馨も義父も視線は互いに別々の方へと向けられている。他の車の走るエンジン音がやけに響くこの空間、二人の意識が重ならない状態で、その話は実に唐突に始まった。

「私は、父親として最低なことをしていました」

 独り言にも捉えられる語調に、馨は外を見ていた両目を隣の彼へと定めた。

「江波さんも、当然既にご存知かと思います。忙しさにかまけて有人を放っておいただけでなく……私はあんな人に、あの子の生活を委ねてしまった」

 義父の指す人物の姿が、馨の脳裏に容易く浮かび上がってきた。
 影山が連行されて帝国を去ったことは、彼と関わりがあった義父には既に伝わっていたようだ。養子とは言え、可愛い息子を八年間も犯罪者に任せてしまっていた――彼の後悔や心労は計り知れない。馨は同情するように眉を下げた。

「鬼道さんのせいではありません」

 しっかりと断言するように言えば、義父の眼球がくるりと動いて馨を捉えた。

「それに、鬼道くんはあの男からの離反を自分から望んだんですよ。彼の行いがどんなものか、ちゃんと解っていたんです」
「……本当に、良くできた子ですよ」
「はい。確かに影山は最低なことをしていましたが――そんな人の下でも、鬼道くんはあんなに素晴らしく、立派に成長した」

 帝国の頂点に君臨し、勝利を求め弱者を見下すサッカーをしていた鬼道を影山が育てたというのなら、真実を知って尚真正面より悪と向き合う決意をした鬼道とて、影山が育てたといえるのだ。あの頂点に立つに相応しい天才的なサッカーや秀でた頭脳も含め、鬼道有人という人間の形成に最も深く関わったのは影山。それは紛れも無い事実であるが、その全ての結果として――今がある。

「人格はどうであれ……教育者、指導者としてだけなら、あの人はとても優秀でしたよ」

 自分でも気付かぬうちに、声音が神妙なものになっていた。膝の上に乗せた拳を、義父が気付かぬ程度にぎゅっと握り込む。
 人間性を無視すれば、馨も彼の他人を導く力は否定できない。カリスマ、とでも言うのだろうか。あの男には、善悪はさておき人の前に確固たる道を敷き、そこを歩く者の眼差しを一身に奪うだけの存在感がある。だからこそ、勝利を欲していた鬼道にとって、己を真っ直ぐ力強く導いてくれる影山が神様に思えたのだ。
 それに――馨だって。

「影山からの英才教育を受け、その上で自分の進むべき道を選び、得たもの全てを自分の糧にできた鬼道くんは……本当に、すごいです」

 慰めでも何でもなく、心からそう思う。鬼道の辿った道筋を思い返すたび、馨は彼のことが眩しいと感じられるのだ。自分が到達できなかった場所へ踏み込めた鬼道のことを尊敬するし、同時に、羨ましくなる――醜い感情だ、と馨は胸の奥で思考を閉ざした。
 義父は馨の言うことを慰めと受け取ったのか、柔く破顔するとそっと感謝の言葉を漏らした。

「有人が江波さんを信頼する理由が、よく解りましたよ」

 穏やかな口振りを受け、馨は僅かに俯いていた顔を上げる。義父はさらに続けた。

「あの日、貴女が帰った後のあの子は今までにないくらい凛としていました。本当の意味で有人の力になったのは、江波さんだったのですね」
「いや……私は、ただ話を聞いただけですよ」

 謙遜でなく、本当にそうだった。
 影山の悪事に気付いてから覚悟を決めて鬼道へ伝えたのは土門であるし、鬼道の燻っていた気持ちを明白にさせたのは恐らく円堂で、最終的に離反の道を選んだのは鬼道自身である。
 対して馨は役立つどころか、寧ろそんな彼の弱み、障害となってしまったのだ。試合当日もそう、真に解決へ導いたのは鬼道だった。悩みを聞いたくせに要らぬ心配を掛けるばかりで、結局最後まで決定的な手助けはできなかった。何もできなかった。
 振り返れば、いつも言葉ばかり達者で大したことはしていない。逆に迷惑や心配させてしまうことの方が多い気さえする。そんな自分に気付くと、ただ情けなさや虚しさだけが降り積もっていくのだ。

「私なんて、傍にいることしかできませんし」

 ――傍にいれば、不幸にしてしまうかもしれないし。

「もっともっと、何かしてあげたいとは思うんですけれど」

 いつの間にか走り出していた車の窓から差し込む夕日が、徐々に俯く馨の顔に濃いコントラストを生み出す。そこへ現れるのは、まるでこの心に巣食う黒い塊を表すような歪なかたちの影。馨は悟られぬ程度に、一旦閉じた唇を噛んだ。
 義父は、暫し馨の影を正視していた。何かを見定めるように、何かを噛み砕くように、動かない馨のことをじっと見つめ、ややあってからゆるりと組んでいた腕を解く。

「傍にいるだけで良い存在――というのもあるのでしょう」

 そしてそのまま片腕を伸ばし、無意識に力の入っていた馨の肩に、そっと添えた。

「有人にとって、江波さんはそういう存在なのだと……少なくとも“父”である私は、そう思いますが」

 父を強調し、諭すような声調で語る義父。
 馨は強張りかけていた面を持ち上げ、微笑む彼の顔を見た。

「……」

 ――傍にいるだけで良い存在。
 本当に鬼道にとって、そして他の皆にとって、自分がそのような存在として在れているのなら。
 それならば一体、どれ程この心が救われるだろう。

「そう、でしょうか」
「えぇ、私は嘘を吐きませんよ」

 誰よりも父親らしい彼の言葉に、頭を覆っていた思考が薄れていくのを感じた。対面したのはこれで二度目だというのに、どうしてこんなにも、その言葉が心強く響くのだろう。彼が、鬼道の父親だからだろうか。きっと、そうだからに違いない。
 それ以上の何かを考えるより先に、ぽろりと零れるようにして口から転がり出たのは。

「……ありがとうございます、鬼道さん」
「それはこちらの台詞ですよ」

 これからも、有人をよろしく頼みます。
 馨は相手が一大財閥の社長であることなどすっかり忘れ、肩に感じていた重みに自身の手を柔らかく重ねる。そうしてやっと、彼に向かってはっきりと頷いてみせることができた。


「有人、ただいま帰ったよ」
「おかえりなさい、義父さ……え!?」
「こんばんは、突然だけどまたお邪魔します」

 義父の後ろから姿を現した馨を見るや否や、口をあんぐり開けて一瞬フリーズすらした鬼道。少々オーバーではあるもののその反応は当然だろうと思いながら、馨は再びあの豪邸へと足を踏み入れた。
 義父の一言で馨の分の夕食もあっさり準備されることになり、準備の間は応接間で鬼道と共に待つことになった。そこでこうなった経緯を伝えれば、彼はとんだサプライズだと笑って、馨の同席を喜んでくれた。食事は人数の多い方が楽しいと言う鬼道はどこか懐かしげな顔をしていて、馨は恐らく孤児院時代の食事風景――音無が傍にいたときのことを思い出しているのだろうと悟った。
 談笑すること約三十分、やがてどこからともなく現れた使用人によって、馨は鬼道と共に一足先に食堂へと案内された。
 食堂に入ったのは初めてだったが、大凡想像していた通りの豪奢(ごうしゃ)な空間である。シャンデリアはこの鬼道邸に於いて最早標準装備らしいので敢えて触れないが、その下に当たり前の如く設置されているテーブルには、さすがにまたもや驚くしかなかった。中世英国映画にでも出てきそうな、必要以上に――と思うのは馨が庶民だからだろうか――横長のテーブルには、染み一つ無い清楚な白いクロスがかけられている。既にぴかぴかの銀食器も配置されており、その位置的に鬼道と義父が両サイド、馨がちょうどその真ん中あたりで食べることが決まっているらしい。
 使用人が引いてくれた椅子に、小さく頭を下げつつ腰掛ける。ここまでくると椅子の座り心地になんていちいち気が回らない。目の前に置かれている食器に施された細かな装飾を見て、思わず感嘆の吐息を漏らしそうになった。これは絶対に馨の見たことがない桁がつくレベルで高価なものだ、扱いには気を付けなければなるまい。

「なんか、どきどきしてきた……」

 殆ど意識外で口をついて出た独り言に、鬼道が笑いを堪えるように口元を隠した。それは普段の小憎たらしい皮肉というより、部活では見られない馨の萎縮した態度につい出てきた笑いのようだ。軽く咎めるような視線を向ければ、小声で「すみません」と返ってきた。まだ食事は始まっていないのに、早くも彼はどこか楽しげである。

「そんなに緊張しないでください、ただの夕食ですよ」
「わ、解ってます」
「お待たせしました、江波さん」

 何故かひそひそ話の声量になっていた二人のもとへ、使用人らしき初老の男性を連れた義父がやって来た。その声に馨の身体がびくつかなかったのは奇跡の域だろう。
 義父はそのまま席に座り、静かに横に立っている使用人のことを馨へと紹介した。今夜の食事を作ったのはこの袴田(はかまだ)で、腕は当主の私が保証します、とのことだ。この場合どういう返事が正しいだろう、とりあえずお礼を言えば良いのだろうか――何とか平常心を維持しながら、馨は「ありがとうございます、いただきます」とだけ言ってぺこりと会釈した。鬼道の物珍しそうな視線が本当にいろんな意味で辛い。
 紹介を受けた使用人こと袴田が、早速前菜からメニューの説明を始める。と同時に他の使用人数名が一斉に動き、三人の目の前にそれぞれ料理を差し出した。オードブル、スープ、そしてメインディッシュ。質の高いレストランに行けばコースとして順番に出されるであろうそれらも、この場では形式に則らず一気に提供された。ペースを気にせず、談話を楽しみながら好きなように食べ進めてほしいとのことだ。
 てきぱきと配膳された料理はどれもこれも見た目からして垂涎ものである。中でも目立つのはメインのステーキ。肉の横にそっと添えられているバターニンジンすら、いつも目にするニンジンとは輝きが違って見えるから不思議だった。

「牛はお嫌いですかね?」
「あ、いえ全く」

 ついつい見入ってしまっていたせいで、余計な気を回させてしまったらしい。咄嗟に首を振った馨は、「しがない学生なのでステーキなんて滅多に食べられません」と出かかった言葉を何とか喉の奥に押し込んだ。

「なら良かった。どうぞ、遠慮せず食べてください」
「はい、いただきます」
「いただきます」

 三人揃ってナプキンをつけ、豪華な灯りの下、何とも優雅な空気の中で食事は始まった。
 間も無くして音も無く脇に現れた使用人が、手慣れた動作で赤ワインを義父のグラスに注ぎ込む。次いで馨にも飲むかどうか問うてきたので、少しくらいならと思って頂戴することにした。高校生に間違えられなくて良かったと内心ほっとしたのは秘密だ。
 注がれた赤ワインを一口飲む。どちらかというと白ワインやロゼの方が飲み口がすっきりしていて好きな馨だが、これはかなり美味しいと思えた。舌に乗せた瞬間に伝わる濃厚さ、そして飲み下した後に咥内へ広がる深い風味が絶妙だった。甘みの強い白ワインやロゼには無い重厚な濃密さ、とでも言うのだろうか。……これは間違いなく高価な類のやつである。
 価値はともかく、美味しさにつられて表情筋が緩む。そうして舌鼓を打つ馨に気を良くしたらしい義父が、にこにこしながら片手でグラスを揺らした。

「ボルドーから取り寄せた1980年もののロートシルトです、どうですか?」
「とっても美味しいです! 酸味の中にある渋味が良いアクセントになっていますよね、あまりこういった深い味わいのワインは飲まないので新鮮です」
「普段からお酒は?」
「ほんの付き合い程度ですが、一応。といっても殆どは居酒屋の安酒かバーのカクテルですので、本場のワインはなかなかお目にかかれません」

 美味しいと繰り返しつつもう一口頂けば、義父の機嫌はますます良くなったように見受けられた。
 さすがにワインの種類や銘柄までは詳しくない馨でも、美味しいかどうかくらいは判断できるし味の感想を伝えることだってできる。成人すると途端にこういう酒の席を通じてのコミュニケーションが増えてくるものだが、飲める人間で良かったと己の体質に感謝をしたのは初めてのことだった。
 この中で唯一未成年の鬼道は当然禁酒なので水を飲んでいる。その視線が大人二人の傾けるワインに向いていることに気付いた義父は「早く有人とも酒を飲み交わしたいな」と言って、早くも一つ目のグラスを空けようとしていた。少しペースが早い気もするが、いつもこうなのかもしれない。馨はアルコールだけで腹を満たすことのないよう、早速料理に手を着け始めた。

「そういえば、江波さんは現在大学生でしたかな?」

 緩やかな空気の中、齎される会話の切り口もやはり緩やかなものだった。

「はい、二年生です」
「ほう。どこに在学を?」
「稲妻中央大学です。教育学部に在籍しています」

 そう答えれば、義父の顔がさらに明るくなる。

「教育学部とはご立派ですな。子どもに興味がおありで?」
「いや、興味があるというより――」

 そこで一度言葉を区切る。
 馨は前菜のサラダに刺したフォークを止め、興味津々な様子の義父から目を逸らすと、隣で話を聞いている鬼道を僅かに視界の端に捉えた。

「子どもに、憧れていたのかもしれません」

 自分のことなのに、まるで他人事のような口振り。或いは今まさに気付いたとでも言うような物言いを、馨自身も変だなと自覚できていた。
 実際、自分が何故今の学部に進学したかについては、以前よりずっと心の片隅に引っかかっていることなのだ。敢えてそこに理由付けをするとしたら、と考えたとき、真っ先に浮かんできたのが“憧れ”という単語だった、それだけだ。
 義父はこの返しにいまいちぴんと来なかったようだが、馨の表情から何か得るものでもあったのか、それとも子どもに対して友好的であるというその態度自体が気に入ったのか、ただ一つ「なるほど」と相槌を打った。
 鬼道の方は、馨の視線が自分に向いていることに気付いてか、いつしかフォークとナイフを持つ手を止めている。眉一つ動かさずに、まるで馨の意思を読み取ろうとするかの如く、じっとその目を見つめていた。
 そのとき、どこからともなくカチャリと金属が皿に当たる軽い音がした。それを合図に馨は快活な笑みへと切り替え、今度こそ真っ直ぐに鬼道の顔を正視する。

「だから、鬼道くんたちと一緒にいるのが楽しくて仕方ないんだよね。うっかり自分が学生だってことを忘れそうになるくらい」

 切り替わった笑顔にころりと変わった空気。
 それを感じ取った鬼道は二度三度瞬きをしてから、止まっていた手をゆっくりと動かし始めた。

「楽しいのは良いのですが、それは問題ですよ。江波さんに限って、留年なんてことにはならないと思いますが」
「一応頑張ってはいるんだよ、一応は」
「マネージャーをしていただく俺たちとしても、江波さんがきちんと学業と両立できることが一番だと思っていますからね」
「はい、肝に銘じておきます……」

 おかしい、これでは完全に立場が逆転しているではないか。
 立つ瀬も無く苦笑いを浮かべる馨と微笑む鬼道を見て、義父は明朗に笑った。

「まぁ、自分が一番輝ける場所にいるというのも大事なことですよ。学業や肩書きも大切ですが、それよりももっと活きてくるものが、そこにはあると思いますからね。自分が“ここにいたい”と思うということは、意識的にでも無意識にでも、そこに自分にとって必要なものが眠っていると気付いているのではないかと、私はそう考えておりますよ」

 流れの中でさらりと口にされた台詞だが、一大財閥の社長の言葉だからこそ重たい意味があるように感じられる。義父の目は馨、そして隣の鬼道を見据えており、何となく父の言いたいことを察したらしい鬼道は口元を綻ばせると微かに俯いた。
 堅苦しい話はそこまでだった。
 あれだけ緊張気味だった馨の心身もだいぶ解れてきて、食材の味を楽しみながら悠々と談笑する余裕も出てきた。他愛も無い世間話をしつつ、プツリとフォークで刺したトマトを口に運ぶ。瑞々しい野菜がふんだんに使われたサラダは普段食べているスーパーのものとは全く別物で、聞けばこれらは全て無農薬栽培されたものであり、毎朝農家から直送されてくるものを使用しているのだそうだ。

「んー、美味しい!」
「そう言ってもらえるのなら、こちらも食事に誘った甲斐があるというものです」
「いつも食べているものと同じ野菜とは思えませんよ。やっぱり無農薬は違いますね」
「そうでしょう。決して農薬が悪いとは言いませんが、使わない方が野菜の本質をより魅力的に引き出せると私は思ってましてね。子どもだって、きっとそうなのでしょう」

 ちらりと鬼道を見た義父につられ、馨もそちらを見る。二人分の視線を一身に注がれる当人は、やや気恥ずかしそうにぱくりとステーキの切れ端を頬張った。そんな様子に二人揃ってくすりと優しい笑みを零す。

「そうですね。何でもかんでも形式ばってあれこれ整えてあげるより、その子の中にある素質を見出してありのまま伸ばしていった方が良い。サッカーを見てると、特にそう思えます」
「うむ、さすがは江波マネージャーですね。有人、本当に素敵な方が傍についてくださったんだな」
「えぇ、自慢のマネージャーです。価値観も観察眼もサッカー知識も、どれも素晴らしいんです、江波さんは」
「て、照れるからそのへんにしておいてください」

 何故か今度は馨が恥ずかしがる番となってしまい、しおしおと顔を伏せる。鬼道と義父は顔を見合わせて小さな笑い声をあげた。
 義父はすっかりご機嫌な様子でワイングラスを傾ける。馨が二杯目を頂いた時点で、彼は既に三杯目を飲み終えようとしていた。顔も若干だが赤みが増してきているので、少し酔いが回っているようだった。
 それにしても、サラダ、スープ、メイン、どれもこれも本当に美味しいし、食べているだけで気分も良くなる気がする。アルコールが入っていることも関係しているかもしれないが、仮にそれを抜きにしたとしても、こんなに食事を美味しいと感じる時間はとても久々だ。
 馨が何でもにこにこしながら食べているからか、ふと鬼道が何気無いように問うてきた。

「江波さんは、好き嫌いは無いのですか?」
「んー、特には。美味しいものは何でも好きだな。鬼道くんは?」
「俺も、これといっては。色んなものをバランス良く食べることも、スポーツや勉強をするうえで重要なことですし」

 当然、馨にとってこの返答は想定内だった。しかし、完璧な鬼道だからこそ一つくらい苦手なものがあったりすれば面白いのに、と思う心もある。和やかな雰囲気にあてられてか、馨の気持ちは普段よりも随分と軽かった。

「偉いねー鬼道くんは。けど、子どもなんだから嫌いなものの一つや二つあっても良いと思うんだけどなぁ。ピーマンは?」
「食べられますよ。肉詰めにすると美味しいじゃないですか」
「むむ、じゃあグリーンピースは? 私、子どもの頃あれ嫌いだったんだ」
「嫌い、と言う程ではないです。ミックスベジタブルとかカレーに入ったやつとか、美味しいと思います」
「なら……」
「有人、ナスはどうかね? 実は私はあれが今でもなかなか苦手でねぇ」
「以前食べた焼きナスは良かったです……って、義父さん、ナス嫌いだったのですか」

 ごくごく自然に話に入ってきていた義父に鬼道も小さく噴き出す。馨は空になった皿にフォークを置くと口の周りをそっと拭った。

「いくらお義父さんでも、人間ですから好き嫌いくらいありますよね」
「人付き合いのためには我慢せねばならないと思いつつ、どうにも嫌いなものは嫌いで」
「あぁ、解ります……いえ、私の人付き合いとは次元が違うとは承知してますが、そういうお気持ちはなんとなく察せます」
「いやいや、他者との交流なんてどこの世界でも似たようなものですよ」

 一般の女子大生と企業の社長など決して同じ目線で語れないものかと思えば、案外そうでもないようだ。馨の同意にさらに機嫌を良くした義父は、席に着いた当時よりもずっと砕けた様子でふぅ、と小さく溜め息を吐いた。その嘆息に彼の日頃の苦労が如実に表れている気がして、馨も自身のことと重ねては労わるようにうんうんと頷いた。
 時間もそれなりに経ち、そろそろ三人の皿の上からも殆どの料理が姿を消していた。そのときタイミングを見計らったかの如く運ばれてきたのはデザートのジェラートで、目を輝かせる馨に鬼道が説明して曰く、これは本場イタリアの老舗から届けられたものらしい。口に入れた瞬間広がる甘さに馨はすっかりご満悦だった。
 義父もジェラートを食し、美味だと言いながらさらにワインをおかわりする。続いて馨にも飲むよう促したので、馨は促されるまま追加を頂いた。鬼道は少し心配そうな様子だったが、義父も馨も最初の頃とは別人のように楽しそうに喋っているので、水を差すのはやめようと思い、二人の会話に相槌を打つなり加わるなりしてこのときを楽しむことにした。
 ――そして、それから幾許かが経過し。

「私はね、江波さん、有人は絶対にできる子だと思っていたんですよ。だからあの人が薦めてくれた際、一つ返事で受け入れたんです。決して、あの人に何もかも丸投げで決めたわけではないのですよ。有人は良い子なんです」
「大丈夫ですお義父さん、それは私も重々承知しています。鬼道くんは本当に良い子です。素晴らしい子です。頭の良さとかサッカーの技能とかはこの際置いといて、とっても良い子、まず根が良い子なんです、そうでしょうお義父さん!」
「えぇ、えぇ、そうですともそうですとも、有人は心が優しくていつも誰かのことを考えていられて、自分で正しい道を選ぶことができて、トップに立つ者としての素質以外にも人間的に必要なものをきちんと兼ね揃えているんですよ、まだ十四歳なのに! 私はそんな有人の人間性をきちんと見てあげられず、本当に情けないばかりで……」
「その話はさっき車でしたじゃないですか、お義父さんは情けなくなんてない、それなら寧ろ傍にいたのになにもできなかった私の方が……」
「その話だってしたはずですよ江波さん、貴女は今のままでいいんです! 有人はほら、こんなに立派になってくれましたよ。できすぎなくらい立派な子です、本当に。自慢の息子なんです」
「全くです、立派です。いくらでも自慢してください。何でも完璧にできるようで、でも実はちょっと抜けているところがあるっていうのがまた、こう、庇護欲が湧くといいますか、要するに、可愛いんです」
「そう、可愛いんですよ、有人は! 解りますか! それが!」
「解ります、可愛いです! カッコ良いし可愛いです! サッカーできて勉強できて努力家で優しくて見た目も良くて、なのにたまに繊細というか、天然なところが!」
「可愛い」
「可愛い」
「有人はすごい」
「鬼道くんはすごい」

 ――どうして、こうなったのだろう。
 お互いワインの入ったグラスを片手に、日頃溜め込んでいるものを全部吐き出さんという勢いでこんな小っ恥ずかしい会話をしている。彼是何分、いや何十分経っただろう、なのに全く終わる気配を見せない。馨はここへ来た当初の余所余所しさは見事に影を潜め、義父は義父で客人相手ということを綺麗さっぱり忘れているレベルだ。
 最早このヒートアップのきっかけすら思い出せない鬼道は、両者共に初めて見る程に白熱した“鬼道有人はすごいトーク”を交わしている大人たちを前に、いっそ羞恥すら飛び越えて虚無の域に達していた。

「……」

 話題の渦中にいる張本人として、何とも言えない複雑な気持ちになりつつ――それでもどうしたって、むず痒さに表情が緩むのを抑え切れない。大人たちが完全に二人の世界に入っていてくれて良かったと、密かに胸を撫で下ろす鬼道だった。


* * * * *


「……諸々、本当に申し訳なかったです」

 時刻はもうじき夜の九時を回ろうとしている。
 いい加減止めた方が良いと思って二人に割って入った鬼道のおかげで、義父も馨も漸く我に返って冷静さを取り戻すことができた。もう遅いということで帰ることにした馨は、泊まっていけば良いと言って別れを惜しむ義父に感謝の意を伝え、鬼道と共に車に乗り込んだ。今は自宅へ向かっている最中である。
 元来酔いやすいという性質でもないので、アルコール自体はそこまで浸透してはいない。けれど多少は脳がふわついている感覚が残っている。あの席では、それに加えて所謂空気というものがあったので、いろんな意味でいろんなものの回りを良くしてしまっていたのだろう。馨は頭を下げ、そして抱えた。

「お酒が入っていたとはいえ、仮にも招かれた席で、あんな恥ずかしい真似を……」
「それを言うなら義父さんもですよ。江波さんが帰宅の準備をしているとき、今の江波さんと同じことを言ってましたから」

 苦笑いをして励ましてくれる鬼道は、時折あのときのことを思い出してか変に口端をひくつかせている。馨とて、自分が何を口走っていたのかは残念ながらはっきりしっかりと覚えているので、彼がそのような反応をすることも疑問に思えなかった。

「正直、俺は死にそうになるくらい恥ずかしかったですけれども」
「だよね、そりゃそうだよね、本当にごめん……あ、でも決して酒の勢いで出た嘘ってわけじゃないからね? 鬼道くんがすごいとか頑張ってるとかカッコいいとか可愛いとか、ちゃんと本心だから」
「……それはそれで、結局恥ずかしいのですが」

 溜め息混じりに顔を逸らした鬼道の耳は、暗がりでもよく判る程に赤く染まっている。悪いことをしてしまった。けれどあれを嘘だと思っていてほしくはなかったので、馨としてはこれでちょっとはすっきりできる気がした。いや、あれ程散々吐き出したのだから元々すっきりはできていて然るべきなのだが。
 ゴォ、とすぐ脇を通りすぎていったトラックの重低音が車内に響く。住宅街を抜けた車はそのままネオン煌めく繁華街の中に滑り込んでいった。色とりどりの蛍光が映り込む窓。そこから再び馨の方を振り返った鬼道は、既に顔の赤みを引いていた。

「でも、楽しかったです。あんな賑やかに食事をしたのはとても久々で」
「ホントに?」
「はい。家族で食事をするのってこういう感じなんだろうか、と思えました」
「ふふ、それなら良かった。鬼道くんが楽しかったなら、私も恥晒した甲斐あったかもね」

 鬼道邸へ向かう車内で交わした義父とのやり取りを思い返しつつ、馨は外の景色を眺めながら悪戯っぽく微笑んだ。街明かりが次から次へと移り変わり、その度に馨の表情に乗せる色を変えていく。そのちかちかと忙しなく点滅する光の中、窓ガラスに映る鬼道が微かに身じろぎをした。

「……江波さんは、どうしてそんなに俺に優しくしてくれるのですか?」

 唐突に飛び出た質問は、やはり唐突にその対象の鼓膜を揺さぶらせる。馨は窓の外に向けていた顔を鬼道に向け、きょとんとした。

「どうして、って……何でそんなこと訊くの?」
「訊きたくなったからです」

 今日という日だからか、それともさらに心を許してくれている証なのか、鬼道の追求はいつにも増して直情的だった。訊いてみたかったから、というある意味究極的にシンプルな理由のもと、真っ直ぐ馨のことを見据えている。
 馨は片手で前髪を掻き上げ、小さく唸った。返答に困るというより、どう言えば適切なのかと思いあぐねる、そんな唸りだった。

「そういっても、自分では特別優しくしてるっていう意識は無いんだけどね。鬼道くんとはこういう風に接していたいなっていうそのまんまでいるつもりだし」
「無意識だったのですか」
「うーん、そういうのを考えたことも無かったよ、本当にただ普通にしてただけだから。その普通が、君にとっては“優しく”感じられるのかな」
「自惚れだと言われればそれまででしょうが、……少なくとも、江波さんは年上として、大人として、俺に心配りをしてくださっていると。自分ではそう思うのです」

 馨としては本当に、そういった具体的な考えを持っての言動には心当たりが無い。“優しくしよう”“親切にしよう”という、穿った言い方をすれば打算的な思考を持ち合わせたことも無い。鬼道の傍にいるときや、離れている場所から彼のことを思うとき、それはどこまでも自然体かつひたむきに、真剣なばかりだった。
 だとしても、鬼道の言うように馨が鬼道に心配りをする場面が多かったことは事実だろう。影山の件、雷門の件、あらゆるシーンで馨は鬼道の近くにいたし、悩める鬼道を救いたいと考えていた。何でもかんでも一人で抱え込んでしまう鬼道のことをいじらしく思い、重荷を少しでも分けてほしいと思っていた。それとて一心不乱ばりに愚直なまでの純真だったのだが、そんな馨の一挙一動が彼にとって“優しくされている”ように感じられたというのなら、わざわざ否定するつもりも無かった。優しくしたい気持ち自体、無いと言えば嘘にもなる。
 では、それは何故かと訊かれたら、端的に言って。

「そうしたいから、としか言いようがないかな」
「……」
「あとは――何となく、昔の自分に似ているような気がして」

 あたかもおまけのように付言したその一言に、鬼道がぴくりと反応した。

「似ている?」
「いや、今のは忘れて」

 即座に言い切り、彼がそれ以上何か言う前に言葉を続ける。

「私は鬼道くんが鬼道くんだからこそ、こうやって過ごしていたいなと思う。本当に、ただそれだけ。鬼道くんと一緒に部活やって、お喋りして、たまに一緒に帰って、こうしてご飯を食べて、そういうことできるのが私にとってすごく嬉しいことだから、してるだけ」
「境遇を知っている俺に気を遣われているとか、そういうわけではない、ということですか?」
「当たり前でしょ、私そんな器用な人間じゃないよ」

 まさか、ここまできてそんなことを気にされているとは思いもしなかった。確かに、鬼道の辿ってきた人生や影山の下で苦しめられていた時のことを思えば胸を痛めもするが、それがそのまま鬼道と共に歩んでいく理由なわけがない。
 一体どんな難しいことを考えていたのか、と笑いながら、鬼道の無防備な額を人差し指で小突く馨。それを素直に受け止めて軽く仰け反った鬼道は、虚を衝かれたためかやや間の抜けた顔をし、片手をそっと小突かれた箇所に添えた。

「勿論、それは依怙えこ贔屓でもないんだよ。帝国も雷門も、皆のことを大切にしたい。それぞれに相応しいかたちで、傍にいたいって思ってる。その中にいる鬼道くんとは、今まさにこういうかたちが良いっていう、それだけの話」

 言葉の芯まで届けるように首を傾ければ、そのうちゆっくりと手を下ろした鬼道は微かに頷き「解りました」と囁いた。ゴーグルのレンズには今も尚街路の灯りが流れ込んでくるため、そこの内側を垣間見ることができなかった。
 馨はふっと細く息を吐き、姿勢を正す。

「いよいよ明日だね」

 突然話題が変わり、馨の声の調子も前より明るくなる。鬼道も俯きがちになりつつあった顔を上げた。

「そうですね、いよいよです」
「相手は世宇子……私は傍にいられないけど、頑張ってね」

 語尾に力を込めてそう言う。ここまで必死に抑えつけてきた世宇子への畏怖を、何とか最後まで押し隠すように。フィールドプレーヤーとして参加はしない鬼道だが、馨は彼も含めたチーム全体に、この胸で燻る正体不明の憂いによる影響を与えたくはなかった。だからずっと、大丈夫だと自分に言い聞かせて、ここまで練習を見守ってきていた。
 それなのに、試合前夜となった今、または今だからこそ、どうにもさざめきが止まない。気を緩めたら、心中の不安全てをここで鬼道にぶちまけてしまいそうだった。
 そんな馨の肩肘が張っていることを察したのか、鬼道は逆に、リラックスするように身体の力を抜いた。

「アイツらも言っていましたが、大丈夫です。雑務も元々は一年がやっていたことですし、江波さんは自分のことに専念してください。お互い、やるべきことをやりましょう」
「……うん」
「らしくないですよ、江波さん」
「ごめん、やっぱお酒は危ないね」

 続けて「きっと大丈夫」と独り言のように零した言葉は、横を通っていったバイクの派手なエンジン音に掻き消された。
 車が信号を曲がり、少し傾く身体。何度か体験したこの感覚で、馨はもう自宅が近いということに気が付いた。頭のふわつきはまだ地味に尾を引いている。だから、こんなに思考が行ったり来たり、コミカルだったりシリアスだったりしているのだろうか。もう暫くはアルコール摂取するのを控えた方が良いかもしれない。
 ――いろいろあったけれど、でも。
 最後に残るのはやはり、隣にいる鬼道とつくった新しい思い出への喜びだ。

「今日は、私もすごく楽しかったよ。何気に鬼道くんと夕食ってのも初めてだったしね」
「良ければ、またいつでも食べに来てください」
「そんなお邪魔してたら迷惑にならないかな」
「義父さんが喜びますよ」
「鬼道くんは?」

 問うてから、少し意地悪だったかと内省した馨。
 それで、またいつものように子どもらしくない皮肉でも返ってくるかと思って待っていたら。

「……解っているのなら、わざわざ訊かないでください」

 予想外の返答と共にそっぽを向かれたので、馨は気付けば片腕で彼の身体を抱き寄せていた。




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