あなたが沈む虚の底へ


 ずっとずっと、知りたかった。
 貴女の感じた痛みや苦しみを、少しでも分かち合えたらと思っていた。
 誰も知らない暗闇で一人膝を抱える貴女が、酷く、いじらしかった。


 雷門への転校を決めた後の鬼道の行動は早かった。
 まず真っ先にフットボールフロンティアの大会規約へ目を通し『プレーヤーは試合当日までに転入手続きを済ませていれば大会中のチーム移籍が可能』であることを確認してから、義父に今回の事情と自身の煮え滾らんばかりの思いを伝え、無事に転校の承諾を得るに至った。
 以前の地区予選にて“敗戦にも意味がある”ことを鬼道と共に学ぶ結果となった義父は、息子がどんな思いでこの決断を下したのかを皆まで言わずとも察してくれた。試合まで日が無いと知ると、「手続きは私の方で早急に進めておく」と言って早速手配をしてくれたようなので、とりあえず当日に参加すること自体はできるようになったはずである。
 そんな鬼道の突飛な即断即決っぷりに舌を巻いたのは、雷門サッカー部監督である響木正剛だった。
 彼の経営するラーメン店へ挨拶に伺うと、話を聞いてまず驚愕――サングラスと口髭のせいで表情の変化は見て取れなかったが――し、次いで豪快な笑い声をあげて今度は鬼道を驚かせた。事情があるとはいえ、敗戦チームからの大会中の電撃移籍という相当な暴挙を、それでも彼は快く受け入れてくれたらしい。何やらそれにも理由があるようなのだが、詳しいことは試合前日の夜、この雷雷軒で改めて相談をするということだ。その場は一旦お開きとなり、鬼道は店を後にした。
 帝国のメンバーには、既に話をつけてある。さすがに「雷門へ転校をしたい」と言い出した際には驚きを通り越して呆然とさせてしまったが、その目的が仲間の悔恨を晴らすための世宇子へのリベンジだと理解すれば、皆一様に笑顔で送り出してくれた。未だ病院のベッドの上から抜け出せない彼らが、果たして心から喜んでそうしてくれたのかどうか、鬼道がその深みまでを推測しても仕方がない。だから今は、そうして笑顔でいてくれる大切な仲間たちのためにも、自分のできる精一杯をやり遂げるだけである。
 移籍について佐久間は、鬼道がきちんと試合に参加できるのかどうかを最も気にしていた。いざ転校したところで大会に参加できないのなら無駄になってしまうと、当人である鬼道以上にあれこれ心配する姿はまるで母親のようで、申し訳無いが少し笑ってしまったことは未だ記憶に新しい。
 なので、諸々の件がひとまず落ち着きそうであることを一旦報告すべく、鬼道は再度病院を訪ねることにした。日に何度も見舞うのは些か忙しない気もしたが、とにかく時間が無いのだし、話は遅いよりも早い方が良いだろう。
 途中の商店街で買ったフルーツの盛り合わせを持ってやって来た鬼道を、佐久間はぱっと晴れるような笑みと共に迎え入れた。

「準備は順調か?」
「あぁ、おかげさまでな。転入手続きも滞り無く済みそうだし、試合参加は問題無くできそうだ」
「それは良かった。あとは当日、きちんと雷門と共に戦って勝つだけだな」
「ふ、簡単に言ってくれるな」
「オマエがいるなら簡単な話だろう、鬼道」

 身体のあちこちに包帯や湿布が点在し、腕からは点滴の管が伸びているという見るからに痛々しい状態の佐久間だが、話している分には本当にいつもの佐久間である。試合に負けても、鬼道が雷門への転校を決めても、こうして何も変わりなく絶大な信頼を寄せてくれる彼がいるからこそ、鬼道も安心して帝国を去ることができるのだ。
 見舞い品を手近な棚の上に乗せ、ベッド脇の椅子を引き寄せて座る鬼道。佐久間はフルーツを一瞥して「そんな気遣わなくてもいいのに」と小さく笑ってから、やおらその表情にシリアスな色を滲ませた。

「鬼道、さっき馨が来たんだ」
「江波さんが?」

 彼女は帝国サッカー部のマネージャーなのだし、怪我をした選手の見舞いに来ること自体は何らおかしくはない。なのに思わずそう返してしまったのは、病院前での別れ際、最後に見たあの姿が今も脳裏に鮮明に焼き付いているからだった。
 ――自分以上に傷付き、どうにもできない程の泥濘に嵌っていながら、それをおくびにも出さずにいようとする人。
 この頭部に触れた手のひらの温度は、いつだって忘れられないものだった。素直に甘えてしまいたいと思えるものだった。しかしあのときだけは違う。鬼道は、あのときの馨にだけは、あんなことをしてほしくないと思っていた。つい口にしたら尚更傷付くように自嘲気味に笑われて、これでは互いに傷の舐め合いにすらならないと思えたからこそ、それぞれ独りになることにした。
 あれ以降、鬼道は馨と会っていないし、連絡も取ってはいない。彼女が何をしていたのか、知る由も無い。

「雷門に行くこと、まだアイツに話してはいなかったんだな。オマエのことだから、いの一番に報告すると思っていたが」

 佐久間は、少しだけ意外そうな口振りだった。鬼道も、客観的に見れば意外に思えるだろうと解っている。帝国サッカー部に於いて、鬼道と馨は殆ど二人三脚のようなかたちで行動を共にしていたのだから。

「いろいろと立て込んでいてな」

 鬼道はそっと嘆息にも似た吐息を漏らす。

「ただ、忘れていたわけではないんだ、そのタイミングが掴めなかっただけで。……世宇子戦以降、俺はあまり江波さんに接触しない方が良いと思っていたからな」
「どういうことだ?」
「前にも言ったが、あの人は良くも悪くも自分を棚に上げるところのある人だ」

 身じろぎすると、簡素なパイプ椅子はギシリと鉄の軋む音を立てた。

「オマエたちがこんな目に遭って、試合にも負けて、それをあの人は俺以上に悲しみ、傷付いていた。そんなことを直接口にされたわけではないし、ずっと気丈に振る舞われていたがな。ただ、何かあの人の中で小さくない変化が起きたことくらいなら、俺にだって解っている」
「……」
「俺も江波さんも結局、本音を言うことはしなかった。それはあの人が俺に――俺だけに、優しくしようとするからなんだ。本当はそんな余裕など無いくせに、その全てを包み隠して俺にばかり気を遣う」
「大人だから、年上だから、って言い分なんだろうな、向こうとしては」
「……俺は、あの人のそういうところだけは、認められない」

 六歳という年齢差は、確かに大きいものかもしれない。中学二年生と大学二年生は、精神的にも肉体的にも社会的にも、大きくかけ離れた存在なのかもしれない。鬼道だってそんなことは解っているし、馨がそうまでして大人であろうとするその気持ちも、全く汲めないわけではない。
 だが――悔しいのだ。
 馨の持つ“六年前”と同じで、そこから先は彼女にとって誰にも触れさせたくない禁忌なのだろう。鬼道にだって嘗て存在していた、人に話すことも見せることも躊躇われる、黒く重たい澱みなのだろう。
 そして、そこへ触れることはおろか手を伸ばすことさえさせてもらえないことが悔しくて、また、未だにその域へ至れていない自分に対して、腹が立つ。
 決して長くはなくとも密度の濃い時間を共有し、心を開き、共に同じ道を歩んでいけるようになったはずなのに、彼女はそれでも、自分に全てを明かすことをしてくれない。大人として、年上として、そうであるべきだから。傍にいたって、ただただ(いたずら)に傷を隠させ、気を遣わせ、孤独に追い込んでしまうだけ。
 いつだって、彼女は人のことばかり。人のことを心配し、気遣い、優しくし、「頼ってくれ」と言うことはできるのに、どうして自分に対してはその一切を認められないのか――それこそが江波馨という人物なのだと言われてしまえばそれまでだが、鬼道にとっては辛いだけだ。だから馨のそんな部分だけを、どうしても許容することができないでいる。
 この意見に関して、佐久間も否定はしなかった。
 例の“禁断の技”騒ぎの渦中にいて、馨と面と向かって腹を割る機会のあった彼もまた、今の鬼道と同じような思いでいるのかもしれない。

「なるほどな、だから少し距離を置いていたわけか」

 納得というよりは現状を噛み締めるように一つ首肯した佐久間は、次いで鬼道へと橙の瞳を向けた。

「だとすると、まだ馨には会ってないんだよな」
「あぁ。だが、さすがにこのあと報告に行くつもりだ。黙ったままにはしておけないし、……気がかりでもあるしな」

 鬼道自身の整理がついた段階で会いに行くとは決めていたことだ。今ならば、鬼道が落ち着いている分試合直後よりはちゃんとした話ができるだろうし、少しは馨の話も聞けるかもしれないと。そう考えていた。
 佐久間は「そうか」と言ってやや俯き、銀糸のような髪が音も無く流れる。すぐにまた顔を上げた彼の眉は、先程よりもさらに真ん中へと寄せられ、真摯さを増していた。
 そして、色素の薄いその唇より放たれた言葉が、鬼道の胸へと鋭く突き刺さる。

「鬼道、オマエは馨と一緒に雷門に行くつもりはないのか?」

 いよいよ核心を衝かんとする、その言葉。
 鬼道は一瞬目を瞠ってから、密かに奥歯を噛み締めた。答えに迷ったわけではない。突然すぎて動揺をしただけだ。
 しかし佐久間は口を結ぶ鬼道を見て瞳を細め、さらにこう続けた。

「なら質問を変えるぞ。鬼道は、アイツと一緒に行きたいか? 行きたくないのか?」
「……随分、意地の悪い質問だな」

 鬼道は遂に、自嘲混ざりの笑みを零した――訊くまでもない、だなんてそんなこと、この聡い男ならばとっくに解っているくせに。
 馨と共に雷門へ行くという未来を、考えなかったはずがない。機能を停止した帝国サッカー部の中で唯一動ける二人なのだ。そのうちの一人である鬼道が仇討ちという選択を取ったならば、では馨はどうするだろう、今までの行動を鑑みてみれば自ずとヴィジョンは見えてきた。新天地でも彼女と共に在れれば、どれ程心強いだろうかと思う。

「俺の気持ちを答えるならば、勿論、一緒に行きたい。だが――」

 ――それでも今回は、これまでとは事の運びが違う気がするのだ。

「今の江波さんに、そうしてくれと頼むのは……難しいのではないかと」
「素直に頷いてはもらえなかったよ、オレはな」

 溜め息混じりの発言に、鬼道は僅かに目を丸くした。

「言ったのか?」
「言ったよ、鬼道の傍にいてやってくれってな。でも、あれじゃ到底無理だ」

 ゆっくりと首を左右に振る佐久間。眼帯に覆われていない左目が、しみじみと思い耽るようにして閉じられる。鬼道の与り知らぬところで、彼は馨と会話したのだという。そのときの彼女がどんな様子だったのか、それを推し量るには充分な反応だった。鬼道の眉間に無意識ながら皺が寄っても、佐久間は話すことを止めない。

「だけど……そうだったとしても、オレと、あと源田、それに他の奴らもそうだが、馨には鬼道と共に先へ進んでいってほしいと思ってる。それはオマエのためでもあるし、それに、馨のためでもある」
「……江波さんの、ため」
「アイツ、ここで足を止めたら――」

 そこで一呼吸置いた佐久間は、あたかもそこにいた何かを思い出すように虚空を見つめ。

「――サッカーに関わること自体、今度こそ本当に……やめるかもしれないぞ」

 静かに、それでも苦しいまでの重さを込めて紡がれた台詞に、鬼道は暫し黙り込むしかなかった。

「……」

 そうなってしまったのか、というのが、今の正直な気持ちだった。
 病院前で見た馨は、ただ世宇子戦で帝国サッカー部がああなったからという、それだけの理由で傷付いているわけではなかった。根拠が無いので飽くまで直感的なものでしかないが、少なくとも鬼道の目には、ずっと傍で彼女を見ていたこの両目には、そう映っていた。
 ――六年前。
 依然彼女を苛むその記憶が、きっとそうさせている。まるで心を打ち砕かれたような、二度と立ち直れないような、そんな苦しげな表情をさせている。サッカー自体やめてしまうかもしれないと言わせるだけの窮地に、彼女を追い込んでいる。
 そこまで解っているのに、しかし――鬼道は、これ以上どうすることもできないのだ。
 それは(ひとえ)に、鬼道が馨の過去を殆ど何も知らないからという理由に他ならない。
 自分が円堂や豪炎寺のおかげで立ち直って新たな道に足を踏み込めたように、今、馨にだって誰か手を繋いで引っ張ってあげられる存在が必要なはずなのだ。そして恐らく、その役目に一番近い場所にいるのが、自分だと。自惚れを差し引いても、鬼道はそう思っている。
 けれど、そのためにはまず何より、江波馨という人物を知らなくてはならない。傷付いているその根本的な原因、彼女の中に深く根付いている昏い過去、それらのほんの一欠片でも良いからこの指に触れて、捉えて、彼女の内側に潜り込むきっかけをつくらなくてはならない。そうしなければ、真に理解することなど不可能だろう。
 それは、決して容易くはない話である。ここまでずっと頑なに閉ざされてきていた馨の深層を暴く行為は、鬼道にとって、そして馨にとって、本当にプラスに働くかどうか、謂わば一つの賭けとなる。
 だとしても。

「……今のままの江波さんを、放ってはおけない」

 非常に烏滸(おこ)がましい言い方であるだろうが――少しでも良いから、彼女を救いたい。
 ずっと支えてきてくれた彼女のことを、今度は自分が、支えたい。

「江波さんの意思を無視してまで、無理矢理雷門へ引っ張っていくというつもりはない。けれど、あの人が今も独りで苦しんでいるというのなら、俺はどうにかしてそれを助けたいと思う」
「そうしてやってくれ。……オレたちじゃ、とても力にはなれそうにないんだ」

 佐久間とて、馨からある一定の境界を敷いたうえで弾き出されている自覚を持っている。そこに立ち入ることが許されていないと解っている。それだけでなく、身体の自由すらも利かない現状では、自ら動くことすらできない。馨がどんどん沈んでいってしまう姿をただ見ているだけの状態、そこにある歯痒い思いを鬼道は眼差しを通じて感じ取り、頷くことでそれに報いる決意をした。

「俺は、やれるだけのことをする。また落ち着いたら改めて見舞いに来るからな、佐久間」
「あぁ、待ってる」

 情けなさそうに、信頼しきるように、或いは――その先にある結末を確信できているかのように。
 佐久間はゆるりと微笑を浮かべて頷き返し、病室を出て行く鬼道の背を優しく見送っていた。


 病院を出た鬼道がまず向かった場所は、帝国学園内の資料室だった。
 中学サッカー界のデータベースであるここには、現在、そして過去のサッカー事情までもが事細かな記録として残されている。メインは他校の情報であるが、自分たち帝国学園サッカー部についても例には漏れない。過去四十年分の選手一覧や個々の記録、フォーメーションの変遷、必殺技のデータ等、外部に漏洩したら一大事になるような情報が、アナログとデジタルの両方に記載されていた。
 江波馨は元帝国学園の生徒であり、サッカー部のマネージャーとして活動をしていた。そこまでは鬼道や他のメンバーも知る情報だが、もっと言えば鬼道たちはこれ以上の情報を有してはいない。だから探るとしたらまずはここからなのだ。その時期にどんなマネージャーが所属していたのかは、個々のデータが無いにせよ日誌や活動記録などで確認できる。そこに『江波馨』という名前を探すところから、鬼道は手を着けることにした。
 しかし――おかしいのだ。
 江波馨という人物の名前を探す以前にまず、馨が在籍していたはずの六年前のサッカー部の記録そのものが、ここには存在しなかった。
 いや、それだけでは語弊がある。事実、存在自体はしていた。ただその記録はとても限定されており、具体的に言えば、当時のフットボールフロンティアで大会優勝を果たしたメンバーの記録しか残されていなかったのだ。

「どういうことだ……他の年は通年一軍の記録を取っているし、メンバー入れ替えの詳細まで記しているのに……」

 該当のファイルをどれだけ捲っても、六年前のデータはそれだけしか見つからない。日誌も活動記録も一切無く、フットボールフロンティア優勝時の選手が一覧となって記録されている、ただそれだけ。
 この年以外はどこも欠けることなく緻密な情報が纏まっているというのに、まるで敢えてそこだけ無かったことにしているような不自然さで、六年前の帝国サッカー部はその全貌を隠されてしまっている。

「……だとすれば」

 鬼道は、これを人為的なものであると認識した。
 馨と影山の歪みきった関係性を思い出せば、自然とそんな結論に達せられる。六年前に何かが起こって馨はサッカー部を離れ、その際に影山は馨が所属していた部のデータそのものを消し去ったと考えるべきだろう。やはり、あの二人の間には相当深い事情がありそうだ。
 六年前のサッカー部に関してはこれ以上の収穫も見込めないので、鬼道は次に、江波馨本人について調べることにした。
 といっても、こちらはかなり難航した。馨が帝国を卒業していたのなら、学校のサーバーに保管されている過去の卒業生一覧を探せば良いのでまだ楽だったのだが、如何せん馨は中学二年で転校をしている。馨の代の卒業アルバムを見てもやはり名前は載っていないし、それどころか写真一つ残されていない。
 ならば逆に入学時の記録から洗ってみたらどうかと思いつき、今度はさらに逆算して馨の入学した年の新入生一覧を探してみた。卒業生にいなくとも、こちらにならば名前くらいはあるだろうと思っていたのだ。
 だが、これも結局無駄足に終わる――必ずやいるはずの、いなければおかしいはずのそこにも、『江波馨』という人間は存在しなかったのだ。
 まるで、最初からそんな生徒自体ここにはいなかったとでも言わんばかりに、馨に関する何もかもが学園内には残っていない。マネージャーとして活動していたはずのサッカー部も、生徒としての江波馨自身も、記録上は全く存在しないものとなってしまっていた。

「……仕方ない」

 影山という男の支配下にあった学園だ、今更訝しんだところで話は進まない。データで見つけられないのなら、人の記憶を頼るまで――資料室を飛び出した鬼道が次に行ったことは、六年前から在職している教員への聞き込みだった。
 何かと異動の激しい仕事ではあるが、恐らく影山の権力のおかげで帝国学園の教員異動は他の学校に比べてかなり少ない方だ。影山に反発したり気に入らないことをしでかしたりした教員のクビが飛ぶ以外、あまり顔触れが変わることはない。六年前からいる教員など片手では足りない程いるはずだ――鬼道は初等部からずっとこの学園で学んでいるため、それが特別変だとは思っていないのだが、世間的に見れば充分異質な部類に入ることだろう。
 職員室に行くと、生徒が夏休みだろうが何だろうがお構いなしに働いている教員や事務員の姿が数名程あった。鬼道はまず手近な教員に声を掛け、話を聞くことにした。
 実質学園のナンバーツーである鬼道に話しかけられると、教員でも生徒でも必要以上に腰を低くしようとする。もう影山はいないのだからわざわざ畏れる必要も無いというのに、今までの威圧的だった環境が未だ尾を引いているのか、今し方声を掛けた男性もやはり肩をびくつかせて鬼道を振り向いた。

「き、鬼道くんじゃないですか、どうかしましたか?」
「少し話を伺いたいのです。先生は、『江波馨』という元在校生をご存知ですか?」
「江波……?」

 その名を出したとき、それまでびくびくとおっかなびっくり状態だった教員の目が、遠い記憶を掘り起こすように宙を彷徨った。

「あぁ、そうですね、確か……五、六年前の……」
「知っておられるのですか?」
「知っている、という程でもありませんが、名前くらいなら……私は昔から数学のクラスを受け持っていましたので、そんな名前の生徒がいたな、というくらいに」
「ただ、その名を出すのは当時タブーとされていましたね」

 教員の背後から別の声が飛んできて、鬼道は反射的にそちらへと目を遣る。それまで黙々とパソコンの画面を覗いていた女性が、ギィ、と椅子を回転させて向き直り、二人を見つめた。

「タブー? 何故ですか?」

 鬼道が怪訝に眉を顰めると、女性教員は腕を組んで難しい顔をした。

「さぁ……私もだし、他の先生たちも皆、その理由までは解らないんですよ。とにかく影山総帥から、彼女についての一切のデータを消去するよう仰せつかったので、それ以来存在そのものを匂わせることすらできなくなった、と言いますか」
「……総帥が」
「あぁそうでしたね、そんなこともありましたね」

 当時を振り返って懐かしむ、というにはやや苦々しい面持ちの教員二人。どうして馨の存在がタブー扱いになったのか、当時を知る人間であるこの両者に解らないのならば、鬼道にだって当然見当づけることすらできない。なので今はその点を一旦置いておき、得られる情報にだけ集中しようとした。

「でも、今となっては総帥もいませんし、問題無いでしょう。少しでも良いので何か教えていただけませんか?」
「そうですねぇ、うーん……何となくですけど、鬼道くんと少し似ていたかもしれませんね」
「俺と?」

 そういえば以前、馨もぼそりとだがそんなことを呟いていた覚えがある。すぐに忘れろと言われたが、人の記憶なぞそう易々と消せるわけもない。
 だとして、一体何がどう似ているのだろうか。

「私はサッカー部のことはよく知らないですが、江波さんは随分と総帥に目をかけてもらっていたみたいですよ。かなり優秀だったようで、学園内でよく名前を聞いていた気がします」
「優秀……それは、マネージャーとして、ということですか?」
「多分、そういうことじゃないんですかね。ごめんなさい、サッカー部の事情までは詳しくないんです。そういえば鬼道くんは初等部の頃からサッカーをしているのですよね、話に聞いたことはありません?」
「いいえ、特には……初等部は初等部で、中等部とは切り離されていましたから」

 年齢的に考えれば、馨が十四歳のときに鬼道は八歳であり、ちょうど初等部の三年生だったことになる。それだけ噂になっていた生徒ならば、例え学年が違っていても多少小耳に挟んでいたはずであろうが、鬼道にはさっぱりその記憶が無い。何せ、江波馨という生徒が先輩にいたこと自体知らなかったくらいなのだ。それに、当時の鬼道は鬼道で総帥のお眼鏡に叶うべく初等部のサッカー部にて奮起していたので、恐らく噂を耳に入れていたとしても覚えておく余裕など無かったことだろう。
 鬼道がどんな学園生活を送ってきたのかは、教員たちとて把握している。密やかな気苦労を読み取って労わるような眼差しを浮かべつつ、女性教員は小さく息を吐いた。

「皆、てっきり江波さんは総帥のお気に入りとばかり思っていたから、突然転校していった挙げ句にデータを消せと言われたときは本当に驚いたんですよ」
「その転校は、そんなに突然の出来事で?」
「えぇ、ちょうど今くらいの時期だったような……その理由も解らないんですけどね」
「……そうですか」

 ここまでの会話で判ったことを纏めると、“江波馨は確かに帝国学園に在籍していた過去があり”、“優秀だとして影山に重宝されており”、“突然転校していった末に存在を抹消された”というところだろう。どれもこれも疑問は湧くものの馨の核心に迫るには弱い情報だったが、何も知らないよりはうんと良い。鬼道は両教員に頭を下げ、職員室を後にした。
 当時のサッカー部の記録は無く、江波馨個人についてもなかなかその真髄に辿り着くことができない。影山との関係性だって、垣間見える仄暗さに手が届きそうで届かない。その全てが“六年前”に集約されていることは解っているのに、依然靄がかった不透明さが晴れない。これではいよいよ本人に直接問い質すしかなさそうだ。
 だが、こんな状態で訊きに行っても良いのだろうか――もっと大事な、馨の根幹に関わるような情報が自分には欠けている気がしてならず、鬼道は学園を出たところでふと足を止めた。
 そのとき、何とも絶妙なタイミングで彼は現れた。

「おや、オマエさんは確か、鬼道有人か?」
「え?」

 振り返った先にいたのは、無精髭と草臥(くたび)れたコートが妙に印象的な刑事――あの日影山を連行してくれた、鬼瓦源五郎だった。


「――なるほどな、江波について調べているわけか」
「いえ、調べているというより……あの人のことを、知りたいだけなんです」
「まぁ、どっちも同じような意味だ」

 鉄棒に凭れかかった鬼瓦が、髭の奥で小さく笑う。聞こえの良い言葉を選んだ鬼道だったが、確かにどちらも詮索という意味では同じだな、と内心少し反省した。
 ――場所を移すため、学園から数分のところにある小さな公園へとやって来た二人。
 そこで諸々の事情を聞かされた鬼瓦は、現在手詰まり状態の鬼道に対して協力的な姿勢を見せてくれた。曰く、彼もまた学園前で馨と会い、彼女がだいぶ精神的に疲弊しきっている様子を目の当たりにしたのだということだ。

 ――私のサッカーは、皆を不幸にすることしかできないんです。

 鬼瓦を前にして、馨はそんなことを言っていたという。
 それを初めて聞いたとき、鬼道は身ごと心を切り裂かれる思いがした。そんなことはない、と否定したくても、当人がいない場所では意味を成さない。それにもしも自分がその場にいられたとして、では何か力になってあげられたのかと言われれば、潔く首を横に振るしかないだろう。
 鬼道同様、鬼瓦も馨のことを気にかけてくれている。どうにかならんもんか、とぼさぼさの眉毛を難しく歪めた。

「俺も、以前アイツについて少し調べたんだよ。別に疑ったりしてるわけじゃない、ただ影山に関する人物だから仕方なく、な」
「そこで、何か解ったのですか?」
「オマエさんの望む“何か”に該当するかは解らんが……そうだな、恐らく江波が転校したその一番の理由なら、調べをつけることはできた」
「一番の理由……」

 先程までの八方塞がりが一変し、一気に真相に近付いていけることへのひやりとした感覚が全身を駆け抜ける。興味、関心、そんなものではない。もっともっと痛みを伴う、知るということに対する恐ろしいまでの責任のようなものが、重く心に圧し掛かる。心臓がぞわりと寒気立つように震えるのが判った。
 鸚鵡返しをして聞く体勢に入った鬼道を見て、鬼瓦もその話をする覚悟を決めたらしい。懐からよく使い込まれた古い手帳を取り出すと、乾いた指先で数ページ程捲ってから、そこに書かれているであろう文字を読み上げ始めた。

「『フットボールフロンティア全国大会決勝当日、当時の帝国サッカー部一軍を乗せたバスが落下してきた工材に巻き込まれ、メンバー全員が負傷。大会には二軍が参加して優勝した』」
「……! 事故、ですか?」
「そうだ、六年前に起きた帝国の事故……四十年の歴史の中でたった一度だけ起きた、悲惨な事故だ」

「これが当時の新聞の切り抜きコピーだ」――そう言って渡された、非常に小さな枠の記事。どうでもいい些細な事故です、という扱いを受けているような小ささのそれには、今まさに鬼瓦が読み上げた内容と合致した文章がみっちりと綴られている。
 確かな情報であるのは間違い無いのに、それでも、鬼道は俄かに信じ難かった。
 あの帝国が、あの影山が率いていた帝国学園が、そんな事故になぞ遭うなんて。誰よりも影山の近くで同じ世界を見続けていた鬼道だからこそあの男の完璧主義をよくよく知っているし、その経験を踏まえたうえで、事故なんて起こす真似をするとは到底思えないのだ。
 しかも、そんな話自体学園内のデータのどこにも記されてはいなかったし、記憶にだって見当たらない。鬼瓦の言うように四十年間の内でたった一回しか起こっておらず、それを影山が何らかの理由によって事実ごと隠蔽したのだとしたら。
 そこまで考えたところでふと、鬼道の脳裏にある記憶が蘇ってきた。世宇子との試合当日、学園私有ではなく敢えて一般企業のバスを手配し、さらに会場への移動ルートをわざわざ変更していた馨の姿――ここまで来たら、察しないという方が無理な話だろう。

「……総帥の仕業、でしょうか」
「確証は無いが、恐らくな。江波も、そう考えていると言っていた」
「だとすると、江波さんが転校をした理由も……」
「あぁ、十中八九この事故について影山に言及したからだろう」

 やっと、最初の一歩を踏み出したと、そう思えた。
 馨の中の闇に触れるための準備が、少しずつ、少しずつ、着実に整いつつあるのだと。

「……江波さんはその事故によってチームを失い、そして学園を出て行った、と」

 久方振りに思い出す、あの水銀のような瞳。そこに確かに潜められていた愛おしさは、嘗てマネージャーとして共に過ごし、魔の手による不幸な出来事で失った、その六年前のチームに向けられていた。
 これまで不明だった部分が浮き彫りになっていくにつれ、自分の知らない江波馨という人物の姿が見えていくにつれ、鬼道の内側には黒々としたざわめきが広がっていく。一つずつパズルのピースが当て嵌まっていく感覚に似ているが、そこには決して達成感や快感などは無い。ただただ、寂寥感のようなものが募っていくばかりだった。
 鬼道が細い吐息を吐き出すと同時に、鬼瓦は手帳をさらに捲った。

「この事故に巻き込まれた当時の一軍だが、事故による死者は出ていないようだ。ただ、全員かなりの大怪我を負ってな……内の一人は両足をコンクリートに挟まれて壊死している」
「壊死……!?」

 とんでもない大事故ではないか、と鬼道は殊更に驚愕した。サッカー部員にとって両足を失うということは、即ち命を絶たれたも同然だ。その選手の心境を考えると、自分のことのように胸が苦しくなる思いがした。
 そこまで甚大な被害の出ている事故なのだし、当たり前だが当時中継もされたという。やはり鬼道には覚えが無かったが、鬼瓦の方は薄らだが記憶にあるらしい。だが結局事故は事故で終わり、そんな不幸な出来事は多忙な世の中のほんのささやかなニュースとして、いつしか社会の流れに葬られていった。もしくは、そこにも影山の手が伸びていたかもしれない。今となっては推測しかできないが、それで納得はできた。

「もしや江波さんも、そのとき……」
「いや、その中に江波馨という名前は無かった。そもそもアイツはバスに乗ってすらいなかったんだ。警察の調べのついた範囲だから、これは間違いない」
「良かった……ですが、それはそれでおかしい話ですね。江波さんはマネージャーだったので、大会に参加するのならば普通はそのバスに乗っているはずなのに」

 巻き込まれずに済んで安堵する反面、冷静に考えればそこには純粋な疑惑が残る。どうして馨はバスに乗らず、事故を回避することができたのだろう?
 だが、さすがにそこまで調べはつかなかったようで、鬼瓦もお手上げだと言いたげに肩を竦めた。

「それ以上のことは俺の管轄外だ。……あとは、本人が口を開くのを待つしか」
「……そうですね」

 どうやらここが限界らしい。
 学園の記録と警察の調べ、それを合わせて判明したのは飽くまで表面上の出来事だけだ。その裏に隠されている真実や当時の馨の動向、そして馨の真意については、彼の言うように本人に直接話してもらうしか知る術は無い。そして鬼道が至るべき場所は、まさにその中枢、馨の中の最深部である。
 ――どうやら、自分の思っていた以上にその闇は深いようだ。
 そんな、彼女の最も恐れる部分へ割り入ることは、入る側でありながらとても勇気がいる。だとしても、鬼道とて生半可な気持ちでここまで首を突っ込んだわけではない。一筋でも良いから彼女のもとへ光を届けてやりたい、自分にとっての円堂守のように手を差し伸べてあげたいと、そんな思いでいっぱいだった。
 鬼道は携帯を開き、時間を確認した。もうじき夕方と言っても良い時刻だ、そろそろ本人を探しに行かなければ日が暮れてしまう。
 鬼瓦の方も悟ったらしく、鉄棒から腰を浮かせて解散の姿勢を取る。簡単な挨拶を置いて去っていこうとする彼を、鬼道ははっとして少し焦ったように呼び止めた。うっかりして大事なことを訊き忘れていたのだ。

「鬼瓦刑事、最後に一つお尋ねしても良いですか?」
「何だ?」
「江波さんは、六年前に……サッカープレーヤーとして活躍していたという、そのような記録はありませんでしたか?」

 そう、ずっと気掛かりだった“馨は本当にマネージャーとしてだけ活動していたのかどうか”という部分。鬼道の調べだけでは全く突き止められなかったが、もしかしたら鬼瓦刑事ならば、と思ったのだ。

「プレーヤーとして? いや……」

 だが、鬼瓦の方も指を顎に添えてしまったので、恐らくは。

「俺の調べた限りでは見当たらなかったな。大会側の公式記録にも無かったし、そもそも帝国学園には女子サッカー部自体存在せんだろう」
「……解りました、ありがとうございます」

 ――ということは、この件もやはり、当人が口を割らねば判明しないことなのだ。
 今一度頭を下げ、鬼道はその場から駆け出した。背中に向かって掛けられた「頼んだぞ」という案ずる声音を胸に、ひた走る。

「……江波さん」

 真っ暗な秘密だらけの、誰よりも優しい彼女を探すため。
 その秘密に触れ、沈みゆく深淵に光を届け――救い出すために。


* * * * *


 馨の行きそうな場所と言っても、そう何ヶ所も思い浮かぶものではなかった。
 一番可能性が高いのは自宅だろうが、生憎鬼道は馨の家の住所を知らない。それを今から調べていては本当に夜になってしまう。次に雷門中が思い浮かんだのでそちらにそっと顔を出してみたが、やはりというか何というか、影も形も見えなかった。今日も元気に練習を続ける雷門サッカー部の様子を見て少し、いやたくさん言いたいことがあったが、それは後程の響木との面談に取っておくことにする。肝心の馨は、次に赴いた河川敷にもいなかった。
 そうなると、最後はここ――帝国学園になる。
 鬼道自身も数刻前まではいたので除外していたが、もしも、という可能性もある。自分だって、世宇子に敗戦した直後は何故かここに足を運んでいた。どうしてだろうか、理由ははっきり解らないけれど、気付いたら静かなグラウンドの真ん中に立っていたのだ。
 だから、そんな自分と似ているらしい彼女がいるとしたら、きっとここなのだろう。ある意味この帝国学園は、彼女にとっていろんな意味で思い出深い場所であるはずだから。
 鬼道は意を決して校内に入り、真っ直ぐグラウンドを目指した。
 そして、やけに久しく感じる薄暗い階段を上りきった、その先に。

「……木原、やっぱりダメだったよ」

 そんなか細い囁きを漏らす、彼女がいた。
 ――木原。
 鬼道の耳には聞き慣れぬその名こそ、まさしく彼女の沈んでいる場所が鬼道のいる時代ではないことを如実に表しているのではなかろうか。自分の知らないその木原という人物が、今の馨にとってそれだけ大きな意味を持つ人物なのだろう。

 ――内の一人は両足をコンクリートに挟まれて壊死している。

 そんな鬼瓦の説明が頭を過ぎり、もしや、という思いが湧いて出る。だが、これも馨本人から聞かない限りは断言できない。聞いて良いものなのかどうかは、今更考えたところで遅いだろう。
 ここからどうやって声を掛けようかやや逡巡する鬼道。その際、不意に過ぎったのはつい先日ここにいた自分の姿。あのとき駆けつけてきたのは円堂だが、彼はどうやってこの身を惹いてくれただろうか――思い至ってから行動するのは早かった。
 音を立てずに部室へ戻り、常備されているボールを一つ持って再びグラウンドに戻る。そして未だにセンターサークル内から動かずにぼうっとしているままの馨へと、少し力を込めてそれを蹴りつけた。それでも充分な威力があったため、ボールは空気を切り裂いて真っ直ぐに馨のもとへ飛んでいく。

「ッ!」

 はっとして瞬時に振り向き、両手で受け止めた馨。彼女が息を呑むのが、離れた場所にいる鬼道にも空気越しに伝わってきた。
 素手でしっかりとボールを捕まえて回転を止めた馨は、シュートを撃った犯人が判るや否や引き攣ったような笑みを浮かべた。

「……不意打ちは酷いよ、鬼道くん」
「江波さんなら反応できると思ったんです」

 嘘ではない、彼女ならば大丈夫だという確信のもとで及んだ行為だった。またの名を“信頼”ともいう。馨がただのマネージャー以上の実力を有していることなど、鬼道にはとっくの昔からお見通しだった。
 久しぶりの再会だというのに碌な挨拶ではない。しかし鬼道は謝ることもなく、一直線にセンターサークルへと歩を進めていく。それを無言で見つめているだけだった馨だが、鬼道の足が歩むのを止めると同時に、持っていたボールを投げて返した。

「聞いたよ、雷門に行くことにしたんだってね」
「はい」

 迷い無く答えると、馨はふっと細く息を吐いた。弱々しく尻下がりとなった眉、その下で細められる双眸には、つい先日まであったはずのあの強い輝きが灯っていない。

「世宇子に、勝ちたいよね」
「当然です」
「……君ならそうすると思った」
「江波さんは、このままで良いのですか?」

 容赦などせず、鋭く問う。返答には少しの間があった。

「……良い、なんて……そんなわけが……」

 絞り出すようにそう吐露し、顔を歪める。
 最後まではっきりと言い切りはしなかったが、今回の件を悔やんでいることはあまりにも明白だ。言わないだけで、馨だって鬼道や他の帝国サッカー部員と同じだけ、世宇子に対してリベンジしてやりたいという気持ちでいるはずであった。
 そんな馨を飽くまで冷静に見構えている鬼道は、一歩だけ踏み出し彼女との距離を僅かに縮めた。ゴーグルに隠した瞳は、彼女の中にあるものを引きずり出さんとして(すが)められる。

「――六年前のフットボールフロンティア全国大会決勝当日、帝国学園サッカー部レギュラーを乗せたバスが近隣の工事資材置き場を通過する際、吊るされていた鉄筋コンクリートが突如落下してバスを直撃。乗っていた選手らは全員大怪我を負い、内の一名はコンクリートに両足を挟まれ、壊死させるまでに至った」
「……!」

 所詮鬼瓦からの受け売りでも、馨の気を惹くには充分だった。
 いっそ痛々しいまでにびくりと身体を震わす馨に罪悪感を覚えたが、鬼道とてここまで来たら引き下がるわけにはいかない。あと少し、あと少しで手が届くというところまで来ているのだ。

「ただ、大会には既に二軍選手の登録がされており、試合は滞り無く続行。帝国学園は見事優勝し、これで三十四年無敗の記録を残すこととなった」
「……何で、それを」
「申し訳ありません、可能な範囲で調べさせていただきました。……貴女が囚われている六年前に一体何が起こったのか、俺は知りたい」

 また一歩、二人の身体が近づく。
 距離が近づき、光の加減が変わり、きっと馨の方には鬼道のゴーグルの奥までも見えていることだろう。逃げも誤魔化しも許さないとして強められる眼力を受けて、馨は今や四肢が凍ってしまったように動かない。ただ呆然と目を見開いたまま、歩み寄ってくる鬼道のことを正視している。

「知りたいのです。何故ボールを蹴らないのか、何故俺たちに対してそこまで過保護なのか、何故影山が貴女を知っているのか、何故貴女が影山を憎むのか、何故――悔しさを抱いたのに、またサッカーから遠ざかろうとしているのか」

 初めて出会ったときから、馨の中にある暗い何かの存在は感じ取っていた。今はもう見ることのなくなった水銀のようだと例えた瞳と、影山零治という男だけに向けられた深い憎悪。その根底にいるのは、六年前に確かにここに存在したチームに生きていた江波馨。もう幾度と無く感じてきたことである。ここまで見えるようで見えなかった彼女の影を、今だからこそ鬼道はこの手に掴みたかった。
 鬼道も馨も一つの転機を迎える、このときこの瞬間、だからこそ。
 ぶつけられる言葉を聞きながら、馨は黙って目を伏せた。それはともすれば諦めをつけているように儚く、脆く、触れたらすぐにでもほろほろと崩れて無くなってしまいそうな程、繊細な表情だった。

「この“事故”が全てではないことは、何となく解ります。それに、江波さんがまだサッカーを本当に好いているのも解るのです。だからこそ、俺は貴女を――」
「解った」

 気付けば、両者の間には殆ど空間が無い状態となっていた。そこでやっと我に返って現状を把握した鬼道が身を引こうとすると、途端に腕を緩く掴まれ、次いで馨はそれまでとは違う引き締まった面構えではっきりとそう言い放った。
 或いは少しだけ泣きそうな、そんな表情で。

「……解ったよ」

 ――たった五文字が持つ意味は、どこまで深くなるのだろうか。
 そうしたのは自分だ。引きずり出そうとしたのは自分だ。だから後悔をしているわけではないし、この先の何もかもを受け止めるつもりでここに来た。
 それでも、繰り返し紡いでから硬く締められる口元を見ると、鬼道は自身の心臓が一度大きく高鳴るのを感じた。


「狭いけど、どうぞあがって」
「お邪魔します」

 ガチャリと無造作に開いたドアの先へ案内され、鬼道は緊張の隠せぬ面持ちで小さく頭を下げた。
 帝国学園を後にした二人が続いてやって来たのは、住宅街の中程にある一棟のアパート――鬼道の初めて訪れる、馨の自宅だった。
 落ち着いて話せる場所ならばどこでも良かったところ、「うちにおいで」と言い出したのは馨の方だった。以前鬼道と共に影山への離反を決定づけた場所が鬼道の私室であったので、恐らくはそれを踏まえてという要素もあるのかもしれない。今の今まで場所さえ知らなかった馨のプライベートな空間に招き入れられるということは、これまでよりももっと深い場所への立ち入りを許されたことと同義に思え、故に鬼道の胸は不思議な感覚にとくとくと駆け足な鼓動を打ち続けていた。
 ワンルームらしく、玄関を抜ければすぐに生活スペースが広がっていた。夏場に締め切っていたこともあって暑苦しい空気が篭っていたが、馨が謝りながら窓を開けると一気に外気と内気が入れ替わり、ふわりと涼しい風が薄いレースのカーテンを揺らし始めた。
 二人も入ればもっと狭くなる部屋の中、ベッドの傍らで棒立ち状態だった鬼道に、馨は小さく笑って適当に座るよう促した。鬼道はそわそわと落ち着かない自身を何とか宥めつつ、ベッドの側面に背を凭れるようにして座り込んだ。
 程無くして、冷蔵庫から何かを取り出すパタンという音、グラスに氷が落とされるカランという音、そこに何かが注がれて氷の割れるパキパキという音が、静かな室内に響き渡る。生活感溢れるそのオノマトペたちに、漸く鬼道は平静を取り戻すことができつつあった。
 と、そこへ二つのグラスを持った馨が戻って来る。

「綺麗にできてなくてごめんね。一人暮らしだとどうしても気持ちが弛んじゃって」
「いえ、寧ろ……すっきりしすぎだと思いますが」
「そうかな? まぁあんまり家具とか置かない人間だから、簡素には見えちゃうかも。いろいろ置くと掃除が面倒でさ」
「江波さんらしいですね」
「どんならしさよ、それ」

 鬼道が言ったように、室内には必要最低限の家具が置かれている以外、殆ど物は存在していない。馨くらいの年頃の女性ならば、他にもいろいろと華美な雑貨などを置くものなのだろうが、ここは本当に生活するためだけのスペースと言わんばかりの質素さである。
 普段から私生活がミステリアスだった馨の不思議な、しかし強ち彼女らしいとも思えてしまう、そんな部屋。鬼道が訊いてみた、ほぼ唯一の雑貨と言えるベッドの頭側に置かれたサイドボードも、引っ越し祝いに叔父に貰った物だという答えが返された。その上には意図的に伏せられていると思しき写真立てが乗っているが、馨はそのことに触れぬまま手にしていたグラスを鬼道へと手渡したので、鬼道もまた気付かない振りをすることにした。
 小さなローテーブルを挟んで正面に座った馨。彼女がお茶を飲んでいる間も失礼のない程度に視線をあちこち動かしていた鬼道は、ふと、ゴミ箱の傍にぐしゃぐしゃの紙屑が落ちていることに気が付いた。ただの紙ではない、見た感じの質感が写真らしいそれがどうしても気になった鬼道は、意を決してその紙屑へと手を伸ばした。
 直後に、様子を見ていたらしい馨が短く声を掛ける。

「鬼道くん」
「っすみませ……どうしても気になって」
「良いよ。それ、貸して」

 粗相を犯したと思い大きく反応した鬼道を特に怒ることもなく、馨はすっかり握り潰された紙屑を受け取り、今一度指先で丁寧に広げてみせてくれた。
 正体は、鬼道の推測通り写真だった。
 そして、色褪せたうえ皺だらけのそこに明瞭に写っていたのは、見慣れた帝国のユニフォームを纏ってピッチで髪を踊らせる、馨によく似たあどけない少女の姿――目にした瞬間、鬼道は思わず息を詰めた。

「これは……江波さん、ですか?」

 散らばっていたピースが、いくつも枠へと嵌め込まれていく音がする。
 意図せず神妙な声音となった鬼道とは対照的に、馨は存外あっさりと頷いた。

「うん、ちょうど六年前……いや、正確には七年前かな」
「七年? ですが、これはマネージャー、ではなく……」
「ただの選手だったんだ、このときは」

 淡々と語る馨の目つきはやや虚ろだ。自分のことのはずなのに、喋る口調はあたかも他人事のようだった。
 せっかく落ち着いた心臓が再び早鐘を打っている。それを何とか無視して、鬼道はどんどんと彼女の中に迫っていく。これこそが江波馨の本当の姿であるのだと、早くも理解し始めた脳が今に熱で茹って溶けてしまいそうだ。

「江波さんにも、選手だった時期があったのですね」
「うん。それで、前の君たちのようにアイツの……影山のことを神様だと思っていた時期の、私」
「神様……」

 写真の中の馨は周囲に指示を出しているのか表情こそやや険しいが、思い切り持ち上げられた口端などから活き活きとして楽しそうであることが紙面越しにも伝わってくる。スポーツ少女らしく短めの髪が乱れることも厭わない、どこまでも純粋にサッカーをする十三歳の馨。色褪せていながら輝きを失わないこの写真一枚が、当時の彼女の全てを表現しているようだった。
 現実の馨がぽつぽつと語るのを聞きながらも、鬼道はこの写真から目が離せずにいた。マネージャーではなく選手そのものとしてサッカーをする馨に驚いたのも確かだが、それ以前に。

「……江波さんは、キャプテンをやった経験はありますか?」

 ――お前こそが帝国学園サッカー部のキャプテン、鬼道有人だ。

 初めて馨を目撃したとき、影山が放ったあの台詞が脳に蘇る。
 あのときは、女性についての話をしている最中にキャプテンを強調された意味が解らなかったが、馨が選手として実際にプレーをしていたのなら話は別だ。
 と考えたところで、そもそもどうして女性である馨が帝国学園でサッカーをしていたのか、という根本的な疑問が浮かんできた。ルール上、公式戦への女子の参加は不可であるし、鬼瓦が言っていたように帝国学園に女子サッカー部など存在しない。そんな、悪く言えばどんなにサッカーに長けていようが試合には出られないような無意味な人材を、あの影山が意味も無く選手起用するとは思えなかったのだ。
 問うて暫くは、水を打ったような沈黙が空間を包み込んだ。時折ふわりとカーテンが揺れ、結露を起こしたグラスの表面を水滴が伝っていく。何も音の無いそこで、じっと緊張の綻びを待つ鬼道。
 その向かいにて微動だにしなかった馨は、やがて写真を見つめていた瞼をそっと下ろす。写真に触れていた指先が動き、じわじわと、再びその掌に握り込んでいった。

「……多分、今からする話を聞いたら、鬼道くんは私のことを嫌いになると思う」

 たっぷりの間を置いてから、か弱い声でそっと漏らされる言葉。
 それで馨が全てを話すつもりなのだと悟った鬼道は、微かに眉間へ細かな皺を寄せた――心外である。

「なりません、絶対に」
「……ありがとう」

 きっぱりと断言する強い語調に、一瞬だけ面食らった馨。次いで信じてはいなさそうな、しかし薄ら救われたような淡い笑みをみせてから、一つ大きく深呼吸をした。




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