victim of love


 話の始まりは十四年前まで遡る。
 馨が小学校にあがる前、吉良ヒロトと吉良瞳子と河川敷で遊ぶことがなくなってから少し経った頃。
 その日、馨は相変わらず仕事に忙殺されている両親の代わりに、叔父と叔母と一緒に小学生になるにあたって必要なものを揃えるために買い物へ出ていた。大きなものは宅配で自宅まで送り、細々したものは先に車で帰った叔母が持ち帰ることになり、残された叔父と馨は二人で歩いて帰路へ着いていた。
 のんびり歩きながら他愛もない会話を交わしていた二人。そのときふと、馨はある一点に目を留め、繋いでいた叔父の手をくいっと軽く引っ張った。

「おじさん」
「ん?」
「あれ、何?」

 馨が“あれ”と言って指差したのは、視線の前方、少し遠くの方に聳える大きな建物。遠目でも目を引くそれを見て、叔父は「あぁあれは」と口を開く。

「帝国学園だよ。とっても頭の良い学校なんだ」
「ていこく……なんかカッコいいね」
「馨ちゃんは帝国学園に通いたかった?」

 馨の住居からでは帝国学園はやや遠いので、区分されている通りに別の小学校へ通うことになっている。それに、塾にも行かず特別賢いわけでもない馨では帝国初等部の入学試験は厳しいだろう。彼女の両親も、娘にエリートコースを歩ませようとする意志は無い。
 もしかして興味があるのではないかと思ったらしい叔父の問い掛けに、しかし馨は首を横に振って答えた。

「ううん、カッコいいけど、なんか……怖いもん」
「ははっ、怖いかぁ」

 確かに言い得て妙だな、と口にはしないが内心で同意する叔父。段々と近付いてきた学園の門を大きな瞳で興味深そうに眺めている馨の頭を一撫でし、改めて手を繋ぎ直した。
 そして二人は門の前を通過しようとする。馨の目は、昼間なのにやけに薄暗いその奥をしかと見ようとぱちり、一つ瞬きをした。
 暗闇で何かが動いた。目を凝らせば、そこに大人らしき高身長の誰かが立っているのが解る。歩みを進めれば、影に溶けるようにして存在しているその人物の姿が前よりも鮮明に見えるようになった。

「……」

 第一印象は、黒い人。
 謎の威圧感を覚えるサングラスと暗色の服を着た男性は、馨の視線に気が付いたのか、誰か他の人と喋っていたらしい顔を彼女の方へと向け――。

「馨ちゃん、疲れたかい?」

 突然頭上より掛かった声に、微かに肩を跳ねさせて叔父を振り返る。

「えっ、ううん、大丈夫だよ」
「そう。今日も叔父さんちで夕飯食べようね、叔母さんに美味しいものをたくさん用意してもらうから」
「本当? ありがとう、楽しみだなー!」

 ――気のせいだろうか。
 一瞬、あの男性が自分を見て、驚愕の表情を浮かべたように思えたが。

「……」

 叔父に悟られぬよう、こっそりともう一度門の向こうを見てみる馨。だが、例の人物は既に姿を消していた。
 ――思えばそれが、馨と彼とが初めて会った瞬間だったのだ。


* * * * *


 馨が小学生になる前に吉良ヒロトが留学し、それに伴って瞳子も交えた三人で河川敷にて共にサッカーをすることは無くなった。
 しかしそれからも、馨は独りで河川敷での練習を続けていた。いつかヒロトが帰ってきたとき、以前よりもずっと上達した自分の姿を見せて驚かせてやりたい。そんな思いを抱いて、独りになってからもひたすらボールを蹴っていたのだが、月日が経つにつれ、とにかくサッカーがしたい、サッカーが楽しい、という気持ちが先行するようになっていた。
 小学生時代は学校内での友人はそこそこつくっていたが、放課後はやはりボールを持って河川敷に直行していた。女子ともなると、どの子もプライベートでサッカーをしようとはしない。お人形やままごとに夢中な友人とはその辺の趣味が合わないことを早いうちから理解していた馨は、放課後になると専ら知らない男の子たちに混じって小さなミニゲームをやってばかりいた。休日には叔父を連れ出したこともあった。が、彼はサッカーを殆ど知らないし、あまりこちらに付き合わせてせっかくの休みを潰させてしまうのは気が引けたので、実際はほんの一度か二度程度だった。
 以前ヒロトに教えてもらったサッカーのルールやテクニックを活かし、今まではできなかった大人数でのゲームでも毎回のように活躍してみせる。少年ばかりの中でほぼ紅一点状態、そしてセンスも抜群である馨の存在は、自然とサッカー男児、そしてその母親たちの間で目立つものとなっていった。
 そんな生活が六年続き、あと半月もしないうちに小学校卒業というときになっても、相も変わらず馨はサッカーに明け暮れていた。いつしか河川敷以外に友人といえる友人はいなくなっていたが気にならない、ボールを蹴っていられればそれで充分だった。

「じゃ、オレたち帰るな。また明日もやろうぜ!」
「ばいばーい」

 いつものメンバーが帰り、一人夕闇の中に残される。暫くの間は去っていく皆の背中に手を振っていた馨だが、彼らの姿が見えなくなると再び足元のボールを弄り始めた。吉良のおじさんに教わった足の使い方を思い出しながら、その場で器用にボールを操る。何も考えずひたすらそれを繰り返していた馨は、故に背後より近付いてくる気配に気付くことができなかった。

「ほう、随分と綺麗な足の動きをするのだな」
「わっ!」

 突如聞こえた低音に吃驚し、足はボールを蹴り損ねた。転がっていく白黒を気にせず勢い良く振り向けば、そこに立っていたのはサングラスをかけた背の高い男性だった。

「背筋も伸びているし、軌道も正確」
「……おじさん、誰?」

 いきなり名乗りもせずに話し掛けてきた不審な人物に、馨は以前似たようなかたちで出会った吉良のおじさんのことを思い出していた。訝しそうに首を傾ければ、彼は中指でサングラスを押し上げて感情の無い声で返す。

「私は影山という者だ。良ければ、君の名前を教えてくれないかね?」
「怪しい人には名前を言っちゃいけないって、学校で習ったよ」
「……怪しい人、か」

 男――影山はふっと不思議な笑みを零すと、いつの間にか草むらの方まで転がってしまっていたボールを取ってきた。両手で持っていたそれを宙で離せば重力に従ってバウンドし、ツーバウンドする寸前で右足を出して受け止める。

「ならば、君が私からボールを奪えなければ教えてもらうことにしよう」
「えっ? サッカー?」
「そうだ、君の得意なサッカーだ」

 吉良のときもそうだったが、馨は興味のあることを提示されるとなかなかに弱い。影山の足がトントンとボールをお手玉しているのを見て、暫くは眉間に皺を寄せていたが、やがて口元に挑戦的な弧を描いて彼に向かって飛び出していった。条件のことなど大して考えてはいない、ただ実力を有していそうな雰囲気の彼とサッカーをやってみたいという好奇心があっただけである。
 ――結果から言えば、馨は影山よりボールを奪うことはできなかった。
 時々惜しい部分はあったものの、それは影山が意図的にそうしていたのだと馨は悟っていた。そうやって舐められていたのは悔しいが、取れなかったのは明らかに自分の実力不足。
 加えて、彼のボール捌きは見事なものだった。己より劣る同年代の子たちとばかりのプレーにどこか物足りなさを覚えていた馨にとって、圧倒的な技術を持つ影山は自身の欲を満たしてくれる嬉しい存在だった。

「っはぁー……おじさんすごい、全然取れなかったや」

 地に座り込み、あがった息を整える馨。
 その横に立ったまま、息どころか纏う衣服すら少しも乱していない影山は、楽しそうに微笑んでいる馨を見下ろして「さて」と口火を切った。

「約束は覚えているかな?」
「うん、私の名前だよね。馨だよ」
「苗字は?」
「江波」

 素直に訊かれたままを答えれば、一瞬、サングラスの奥で影山の瞳がぎらりと光った。

「……そうか、江波馨、か」

 呟くようにフルネームを紡んだ唇が、ほんの僅かに笑みを湛える。が、馨が彼を仰いだときには変わらぬ無表情へと戻っていた。

「名前なんて知ってどうするの? 影山さん」
「いや、ただ知っておきたかっただけだ。……ところで、君はもう進学する中学校は決めているのかね?」
「中学校? どうだろう、多分雷門かなぁ」

 脈絡の無い質問を不思議に思いつつ、曖昧に答える。
 中学進学と共に、馨の両親は海外へ行ってしまうことになっている。そのため、これからは今まで両親と住んでいた住居ではなく、お世話になる叔父叔母の家に居候させてもらう予定になっているのだ。そこから一番近いのは帝国学園なのだが、学力も学年で中の上程度、ここまで放課後はサッカーしかしてこなかったうえに結果も残してはいない馨には縁の無い場所。日本中学サッカー界の頂点に立つ帝国学園に興味はあるが、仕方のない話である。
 候補としては、次いで近場にある雷門中学校になるのだろう。何せ、親は忙しいあまり進学のことも殆ど話し合ってはいない。これまで通り、馨の好きにさせようというスタンスをとっているのだ。馨もそれで良いのだが、一つ不満を挙げてみるとするならば、雷門中にはサッカー部が存在しないという点である。。そもそも、部があったとしても女子が入れるとは限らないし、入ったところで公式試合に出ることは叶わないのだが。
 ――それでも、今以上の環境でサッカーができるならば、それで良い。
 傍らのボールを抱き上げ、馨は一人そっと微笑を浮かべた。
 足の間に置いたボールを手で弄んでいる馨を、影山は何を考えているのか読めない表情でただじっと見つめている。沈みゆく太陽が、最後の輝きを放って二人に濃い影をつくり出していた。

「……君は、江波は、その才能を存分に活かしてみたいとは思わないか?」
「え?」

 影山の声はどこまでも落ち着いている。そのせいか、馨は言われた言葉の意味をすぐに理解することができなかった。
 聞こえなかったわけではないと解っている影山は、ボールから意識を離して自分を見上げている少女に向かって、今度ははっきりと、こう告げた。

「我が帝国学園に、特待生として君を迎え入れたい」

 特待生――馨の口が音も無く動く。
 影山は頷きもせずに話を先へ進めた。

「我が校には女子のサッカー部も存在している。サッカーをするには最高の環境、そこで君は本当のサッカーを学ぶべきだ。こんなところで燻っているような人間ではない、君のような人材を私は探していた」
「……私が帝国で、サッカーを?」
「私は学園の理事長だ。私の権限で、君の学費などは全て無償にできる。どうだ、悪い話ではないだろう?」

 思わぬところで訪れた好機。あの名門帝国学園に、特待生として入学することができるというのだ。
 馨の心臓が、かつて無い速度でどきどきと鼓動を打っている。
 ここで今、目の前に立っているこの男性の手を取れば、先に広がる自分の未来は大きく変わることになるだろう。サッカー部そのものが無いという雷門で燻った三年間を送るか、帝国の女子サッカー部でさらなる飛躍に挑むか。しかも、後者の場合は親にも金銭的な意味での負担を掛けなくなる。どちらが美味しいのか、まだ幼い馨でも解らないはずがなかった。
 ――それに、影山は言ってくれた。自分のような才能を持つ者を探していたのだと。吉良たちと出会ってからこれまで一途に励んでいたサッカーを、やっと、やっと見出してもらえたのだ。
 馨は一旦顔を伏せ、またすぐに影山を見上げた。その両目は夕日の光を砕き、きらきらと橙の輝きを宿していた。

「……私、帝国に行けばもっとサッカーが上手くなれますか?」

 途端に丁寧になる口調。
 影山は口端を上げるだけの笑みをつくり、クッと喉を鳴らした。

「当然だ、君にはその素質がある……江波」

 顎が引かれ、微かに垣間見えたサングラスの向こう側。仄暗い水底を思わせるそこに、馨は何か他の人とは違うものを見つけたような気がした。


* * * * *


 馨が帝国学園への入学を相談したときの両親の反応は、馨の予想以上にすんなりとしたものだった。
 ただ、母親だけは影山の名を出した際にどこか不安げな様子を見せていたが、最終的には娘の強い意志が尊重された。そうして入学式前日に海外へ飛び立った親に、しかし馨は不安や悲しみなど大して感じてはいなかった。どうせ今までの生活と大して変わりはしない、それに帝国には彼――影山がいるのだ。彼は自分の才能を見抜いて欲してくれた。そのことが、馨のアイデンティティを強く確立させていると言っても過言ではなかったのだ。
 期待に胸を膨らませ、彼女はぱりっと硬い帝国の制服へと腕を通した。
 試験無しでの特別な入学は、それを周囲に知られぬよう配慮がなされているようだった。好奇な目を向けられることもなく、至って普通に入学式は終了した。
 学力を考慮して分けられたクラスの中、馨は真ん中より少し下のクラスへ配属させられていた。レベル的にはもう一つ上でも大丈夫ではあったのだが、どうして敢えて低いレベルのクラスになったのか。
 その理由は、入学から暫く経った日、新入生の部活動見学が始まったときに何の脈絡も無く判明した。

「わー……」

 吹奏楽部を希望する友人と別れ、馨は一人で女子サッカー部の練習するグラウンドへと赴いていた。他にも何人か入部希望なのか見学に来ている子はいる。ただ、一部の子の視線が隣のグラウンドで駆け回っている男子サッカー部に向けられているのに気付き、馨はこっそり顰め面をした。
 五分程だったろうか。ミニゲームをする先輩たちを眺めていると、不意にキャプテンらしき生徒がこちらのベンチ側を見て、足を止めた。すると続々と皆が練習を止めたため、どうしたのだろうかと思い馨も後ろを振り向いてみた。
 直後に視界いっぱいに入ってきたのは、限りなく黒に近いネイビー。

「っか……」
「影山総帥!」

 正体は、すぐ後ろに立っていた影山だった。
 驚いて一歩後ずさる馨に見向きもしない彼は、慌てたように駆けてきたメンバーを一望すると突然馨の肩に手を乗せ、抑揚の無い声で話し始めた。

「諸君、彼女は江波馨。本日より部のレギュラーとして活動してもらう」
「え!?」

 唐突にも程がある命令だ。
 驚いたのは馨だけではない。淡々と放たれた今の言葉に、部の全員、そして同じく見学をしていた他の新入生も、揃って目を真ん丸にしていた。
 呆然状態の生徒たちの中、やっとのことで口を開いたのは先程のキャプテンらしき部員だった。

「し、しかし総帥、彼女は新入生なので最低でも一週間の体験、その後に入部テストをしてからでないと……」
「必要ない、実力は私が保証する」

 きっぱりと言い切った影山のサングラス越しの視線が、すっかり身体を固くしている馨へと向けられる。

「江波、君はここで自分の才能を最大まで引き出すことに専念しろ。最早河川敷でのようなお遊びサッカーではない、惜しみなく、最高のプレーを心掛けるんだ」
「……最高の、プレー」
「そうだ。私は君の、誰にも負けぬ本物の強さが欲しい」

 肩に置かれた手にほんの僅かに力が籠もり、声には鋭さが含まれる。
 たかが中学の部活動に対しては些か厳しすぎる発言ですらあるはずなのに、どうしてか馨には彼に反抗する意識は存在しなかった。過剰に掛けられた期待を感じても尚、プレッシャーから逃げるどころか寧ろ、心は疼くばかりで。
 ――本物の強さ。
 河川敷の男児たち相手ではもう物足りなくなっていた。けれどもここでなら、自分の内に眠っているであろう力をどこまでも解放することができるのだろう。吉良に言われたときからずっと自分を試してみたいと思っていた。ここは、その絶好の舞台なのだ。
 ボールを追いかけ、強さを追い求め、そうすることを影山は望んでいる。そのために勿体無い程の豪華なステージを与えてくれた彼が、自分が強くなることを期待している。
 ならばその思いに応える以外、無いではないか。

「……解りました、私、強くなります――総帥」

 ――ここで花咲かせる自分の姿を、その目で確と見ていてほしい。
 それは誓いにも似た交錯。確かな光を灯した瞳で影山を見据えれば、彼はサングラスを押し上げて満足げにふっと微笑んだ。


 入部テストも無しに無条件で入部、しかもまだ新入生だというのにいきなりレギュラー獲得。
 いくら学園理事長である影山総帥の意向だとしても、やはり当初はこの破格の待遇に部内にも反発する者はいた。馨自身も、一部の人間から歓迎されていないことは文句などを言われずとも雰囲気で把握できている。それでも何も言わず、ただやれることをやるだけだと割り切っていた。
 ところが馨が入部してレギュラーの練習に合流してからすぐ、部のメンバーはどうして彼女が総帥に見定められたのかを嫌でも理解せざるを得なくなった。
 彼女には、とにかく才能があったのだ。
 サッカープレーヤーとしての技術は当然ながら、それ以外にも他の人が持っていないものを持ち合わせている。それは努力する凡人では到底叶わぬ、見て見ぬ振りはできぬ、圧倒的なまでの――才能であった。

「斉藤先輩は10番、斐川さんは6番のマークを。パスはできるだけワンタッチで隙をつくらず、左から一気に切り崩していきます!」

 高らかに声を張って指示を繰り出すその姿は、共に走る先輩たちにも引けを取らぬ程凜としたものだった。
 馨が入部してから行われた試合中の運びやゲームの流れは、ほぼ完全に彼女が掌握している状態である。元々司令塔らしい司令塔がいなかったチームにとって、的確にゲームを動かし戦況を有利に持っていける馨の存在は、試合を重ねる毎に心強いものとなっていった。
 さらに、彼女には幼少時代に河川敷で鍛えられた他人を視る“目”がある。これもまた、周囲にその力量を示す要因となった。

「ねぇ江波さん、どうも私、最近タッチが上手くいってない気がするんだけど……どうかな」

 ボールを抱えてやってきたのは先輩の一人。最初こそ馨の入部を快く思わない目で見ていた彼女だが、今はもうそんなことはない。
 眉をハの字にしてだいぶ悩んでいる様子の先輩に、馨は腕を組んで首を捻る。

「うーん、多分今の時期に上手くいかないってのは身長が伸びたことが原因じゃないかとは思いますが……ちょっとボール弄ってもらって良いですか?」
「うん、ここをこう……ね、内側から外に持っていくのが何かもたついちゃって」

 その場で小さく動いてみる彼女の足をじっと見つめ、何度か繰り返してもらうこと五回。結論が出た馨が顔を上げると、先輩は期待を込めた眼差しを、自分より二つ下の後輩へ向けた。

「……やっぱり足の長さですかね。なら、ボールを今よりもっと深く持ってきて、あまり力まないように柔らかさを意識して蹴り出してみれば……どうですか?」
「解った……おっ」
「あんまり手前にやりすぎず、気持ち前に押し出す感じで……そうそう、力入れすぎず」
「よっ、あっ、な、何かいけそうな感じかも! もうちょっとやってみるね、有難う!」

 細かい修正を重ねてみれば、どうやらしっくりきたらしい。笑顔で片手を挙げてグラウンドの中央、コーンを使っての練習をしているところまで駆けて行く彼女の背中を見送って、馨は小さな達成感から一つ溜め息を吐いた。
 よもや先輩に対して指導をすることになろうとは、自分だって入部したときには考えもしなかったことだ。けれど、今はそれが半ば日常茶飯事のようにも感じられる。相手の修正すべき点が明確に視えるこの目は、チームの中でもかなり重宝されていた。
 ベンチに座ると、先に休憩をとっていた同期の速水が馨のボトルを手渡してくれた。お礼を返しながら隣に座り、中の飲料水を喉に流し込む。動いたあとの水分は格別に美味しいものだ。

「馨ちゃん、すごいよね」
「すごい?」
「今日の試合も完璧に相手の動きを封じてたし、面白いくらいにこっちのペースだったじゃん。これなら大会も楽勝だね、頼むよ!」

 にこにことそう言うチームメイトに、馨は特に笑うこともなく当たり前だとでも言わんばかりに言葉を返す。

「完全無欠が我がチームのモットーだもん。あれくらいしないとね」

 もうすぐ入部してから半年が経とうとしている。近々女子サッカーのみの大会が開催される予定で、その予選は今日行われたばかりの試合で全て消化し終えたところだった。結果は五戦中無敗、しかも無失点。普通ならば褒められるべき成績だが、勝利を当然としている帝国学園サッカー部ではこれ以外の結果になっては恥だとも言える。
 ただ、試合運びに関しては自分でも誇れるものだったと思うが、果たして彼は、影山は。

「……総帥は、どう思ってるのかな」
「褒めてくれるでしょう、さすがの総帥でも」
「そうかな」

 肩書きは監督だが、普段は練習になど滅多に顔を出さず、試合すら観に来ないことの多い影山。この半年間で彼に会ったのはほんの数える程度だが、そこでも会話らしい会話をした覚えはない。最後に話したのはいつだったか、と考えるだけ無駄なような気がした。
 馨はベンチ下へ手を伸ばし、五試合を通した結果の報告書を纏めたファイルを取り出す。初めて参加する大会の予選なのにも拘らず、その報告はキャプテンではなく最も試合を動かしていた馨が行くことになっているのだ。空白になっていた最後の欄に自身の名前を書き込むと、ゆっくりと腰を上げる。

「じゃあ、報告行ってくるね」
「行ってらっしゃい」

 軽いとも重いとも言えない足取りで目指すは、最近やっと経路を覚えたばかりの総帥の部屋。ひんやりとした無機質な廊下に人影はなく、静かな水面のような静寂が不思議な緊張感を抱かせる。そうして何回か角を曲がった先、やがて辿り着いた物々しいドアの前で、馨は大きく深呼吸をして高鳴る心臓を落ち着かせた。

「失礼します、江波です」

「報告書を持って来ました」とはっきりした口調で言えば、自動でドアが開かれる。奥には椅子に腰掛け卓上に膝を置いて指を組んでいる影山がおり、馨を一瞥することもなく「入れ」と低音を響かせた。
 初めて足を踏み入れた、帝国の頂点が居る空間。学校のどこよりも厳かで張り詰めた空気を漂わせているそこで、馨は圧迫感に押し潰されぬように密かに下唇を噛んだ。飽くまで冷静さを保ちながら足を進め、持っていたファイルを机の上に差し出した。影山の指が一本、微かに動く。

「それで、今日の結果はどうだったのだね?」
「はい、失点を許さずに十二対零で勝利しました」
「……めりはりのある展開だった。どんな些細なシュートチャンスも逃さず、確実に得点へ結びつける。相手の隙を衝き、こちらの隙をつくらぬゲームメイク。完全に相手を翻弄していたな」

 やけに具体的な言葉の羅列に、馨は眉を跳ね上げた。

「そ、総帥、観ていらしたのですか?」
「この半年で君がどれだけ伸びたのか、確認をしたかったのだよ」

 その台詞で、今日の試合を観られていたことを悟った馨。報告だけで済ませようと思っていた分、どう対応して良いのかとその後の言動に詰まってしまった。どうでしたか、と訊くのも何だか烏滸(おこ)がましいような気がして、変に横たわる沈黙にそのまま身を委ねる。ここから影山がどんなこと言うのか、想像もできずに全身を固くしていた。

「江波」

 その静寂を破ったのは、影山の無表情な声。
 いつの間にか俯いていた面を持ち上げた馨。それを見据えている彼はただ一言「来なさい」とだけ言った。
 よく解らないまま、言われた通り机を回り込み、影山の隣まで歩み寄る。すぐ近くに座っている人物は、この雰囲気のせいか触れることすら許されないような高貴な存在に感じられた。
 影山は横にいる馨へ身体を向けはしない。
 だが、首だけを少し動かして視線を合わせ、次いで伸ばされた手の向かうところは――。

「よくやったな」
「……!」

 頭の頂上。
 そこに受け止めた、他人の温もり。
 それが一瞬信じられなくて、馨は大きく目を見開いた。

「そ、うすい……」

 ――総帥に、褒められた。
 自分のサッカーをし、結果を出し、認められた。期待に応えることができた。たった一言だったけれど、それでも構わない。こんなこと、今まで一度だって経験しなかったことだ。
 サッカーをやっていても、親も叔父も、肝心な人は誰も見ていてはくれなかった。いつだって自分のために、自分だけでボールを蹴り続けていた。あのときはそれで良いと、それで満足だと思っていたのだ。ただサッカーができるだけで幸せだったのだ。
 でも、今この瞬間、確かに湧いたのは――喜び。これまでとは違う、誰かのために結果を出せることへの、歪みない幸福だった。

「さすが、私の見込んだ者だ」

 影山の掌が頭を撫で、そのまま輪郭を伝って降りてくる。ぴくりと僅かに身体を震わす馨に構わず、そっと片方の頬を包み込んだ。彼を覗く馨の瞳は、この妖しい空気に中てられたように、どこか濡れた輝きを宿していた。

「今後もさらにその力を磨き、サッカーの全てを自分のものにするのだ。私は君が、頂点に立つことを望んでいる」

 誰かに必要とされること。望まれること。
 ひょっとしたら、生まれてからずっと、心のどこかで求めていたのかもしれない。

「……できるな、江波?」
「――はい、影山総帥」

 目を細め、静かに、それでも揺るぎない声音で紡ぐ。
 多数のモニターに照らされた暗がりの中、馨の心に一切の迷いはなかった。




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