不思議な人


 ――気付けば、深い闇の中にいた。
 真っ黒に塗り潰された世界、光も音も感覚も無い空っぽの世界の真ん中で、ただ立ち尽くしていた。

「……あ」

 不思議と驚くことはなかった。多分、無意識に漏らした声がきちんと耳に届いたから、まだこうして落ち着いていられるのかもしれない。何も見えないけれど、自分の声が確かに自分の内側から漏れ出たというその事実だけで、すんなりとその暗闇、そこに立っているだけの己という存在を受け入れられる。
 試しに力無く垂れていた両腕を持ち上げてみても、指先に触れるものは無く、それだけでここには何も存在しないのだと感じられた。右も左も、上も下も、前も後ろも無い。自分以外の質量を感じず、けれどどこまでも果てしないとは思えない不可思議な感覚。広いのか狭いのか、それすら判らぬ真っ黒な箱の中に閉じ込められているような、そんな感覚。
 そして間もなく、ああこれは夢なのだ、自分は今眠っているのだ、と冷静な頭のまま状況を呑み込んだ。
 夢――人とはこんなにも空虚な夢を見るものなのか。何にも無くて、ひたすらに暗闇で、世界の全てが自分を拒んでいるような孤独感。呼吸すらままならなくなる閉塞感。何もかもを失ってしまったかの如き虚無感。

『夢とは、人の深層意識の具現化である』

 いつだったか心理学の本で読んだか、或いは教授が言っていたことか、そんな一文が脳裏を過ぎる。
 深層意識と今の状態をイコールで結べるというのなら、一体自分の心はどうなっているのだろうか。こんなにも黒くて虚ろな空間が、意識の奥に潜んでいるとでもいうのだろうか。
 ――そんなこと、夢の中で考えても意味が無いのに。
 目を閉ざしても変わらない光景。どこまでも終わりの見えない漆黒。伸ばした腕を再び垂らし、僅かに顎を引く。そのまま一歩も動こうとせず、ただ静かに目覚めの時を待ち続けた。

「……怖いね、私は誰も幸せにできない」

 ――唇から零れた声は確かに自分のものなのに、言葉だけは何故だか他の誰かのものに思えてならなかった。


* * * * *


「馨、馨!」
「……ん」

 耳元で叫ばれると同時に身体を揺すられ、その衝撃が馨の意識を現実へと引き戻す。途端に周囲の喧騒がさながら濁流のように一気に耳へと流れ込んできて、しばしぼうっとしたままの頭を半ば無理矢理覚醒させた。どうやら眠っていたらしい、枕にしていた腕が少々痛む。
 ――何か、夢を見た気がする。
 奇妙な浮遊感のようなものが足元に纏わり付いていた。どんな夢だったかは忘れてしまったけれど、あまり良いものではなかったことだけは解る。夢の内容なんて気に留めるものではないと、すぐに深追いするのはやめた。
「馨!」と何度目かの呼び声が鼓膜を刺激する。小さく呻きながら顔を持ち上げてみると、そこにはむくれ面をした吉岡の顔があった。はて、別の学部の彼女が何故目の前にいるのだろう。

「……はよ、よーちゃん」
「ったく、いつまで寝てるのさ。もうとっくに講義終わったよ!」
「え?」

 のろのろと身体を起こしながら、腕時計を確認してみた。
 ――五時。
 長針と短針の刻む時間を認識した瞬間、ぼんやりしていた頭が急激に冷やされていく。

「や、やばい、やばい!」

 今日も雷門中で練習がある。今度こそは早めにグラウンドへ行ってできるだけたくさんの時間を練習に当てようと思っていたのに、これではいきなり遅刻確定だ。しかも理由が居眠りなんて……笑えない。
 がばっと上体を起こして机の上に放置されたままだった筆記用具と掻き集める。開きっぱなしだったノートには、居眠りする寸前まで考えていたサッカーのフォーメーションやポジショニング、プレーの流れなどの図が書き込んであり、それを活かせるのは他でもない練習時間。無駄にするわけにはいかない。今一度、ノートを閉じる前にざっと全体に目を通した馨は「よし」と呟いてからそれも鞄に突っ込んだ。
 突然わたわたと焦り出して荷物を纏め始めた馨に、吉岡が不思議そうに横から問う。

「あれ、何か用事? 叔父さんのとこ行くだけじゃないの?」
「あ、そうだそれもあった!」
「忘れてたのかい」

 呆れ笑いをする吉岡がよいしょと自身の鞄を持ち直せば、片付け終えた馨が勢いよく立ち上がる。そのあまりの速さに、今までの帰宅準備中最高速度だ、と吉岡は内心こっそり拍手を送っていたが、当の本人には届かない。

「起こしてくれてありがと! じゃ!」

 簡潔なお礼と別れの挨拶を置き土産に、そのままスタートダッシュをきった馨。
 そんな慌ただしい彼女の背中を見届ける親友の目は、どこか母親的な温かさを湛えているようであった。

「……何か見つけたのかな、あの顔は」


* * * * *


 先に済ませるべきは叔父のお見舞い、ということで急いで病院へとやって来た馨。今日は、事前に持ってきてほしいと頼まれていた叔父の私物を届けにきただけだ。私物自体も朝回収してきたので、さっと渡してさっと戻ればそんなに時間を食うことはないはずだ。
 ここに来る道程で何より心配していたのは電車の時間だったが、運良く来たばかりの電車に乗れて時間も短縮できた。あとはここさえ手早く終えれば、昨日よりは少しだけ早めに参加できるだろう。引っ切り無しに腕時計を見つつ、安堵の溜め息を漏らした。
 だが、現実はなかなかそう甘くはないもので。

「入れ、入ってくださいお願いしま……ハァ」

『追加でカフェラテを買ってきてくれないか』と叔父から頼み事メールを受け、今こうして病院の自販機の前に立っているわけであるのだが。

「何故に入らん!」

 ――何度も何度も千円札を投入口に差し込んでは戻される、先程からその繰り返し。
 間髪入れず突き返される野口英世に、そろそろ自販機を殴りつけたい衝動に駆られるが、何とか理性を以て己を鎮める。嗚呼、財布の小銭口に百円玉が一枚でもあれば、こんな無駄な破壊衝動など抱かずに済んだというのに。どうして昨日、自分はアイスなんて買ってしまったのだ――悔やんでも悔やみきれないが、後悔は決して先に立たないものである。
 病院の受付は両替してもらうにはあまりに忙しそうだし、売店にはカフェオレはあってもカフェラテは売っていない。そしてコンビニは駅前まで行かなければならないから時間が掛かる。とは言っても、いつまでもここで千円札をパスアンドリターンしているよりはマシかもしれないが。
 とにかく叔父の頼みなのだ、買わないという選択肢は端から存在しない。ただでさえお見舞いに時間を掛けられないのだし、せめて頼まれ事くらいはきちんと遂行したいではないか。

「……よし、これでダメなら駅前まで行こう」

 意思を固め、祈るような思いで千円札を送り出す。入ってくださいお願いしますとお空の神様にまで頼み込み、手を離した。
 それでも、どんなに強く願っても、相手が機械である以上結果は勿論変わるわけがない。
 無情にも返ってきた野口をいっそ破り捨ててやりたくなりながらも財布へしまい、馨はやるせなさに大きく肩を落とした。あとで受付に言って自販機の整備をお願いしよう。

「ついてないなぁ……走るかなぁ」
「……あの」

 そんな馨の耳に、もうそろそろ聞き慣れつつある一つの少年の声。
 駅前へ行く最短距離を考えていた馨は、ぱっと思考を取り止めて弾けるようにしてそちらを向いた。

「あれ、コーヒー少年くん」
「コーヒー少年って……」

 薄色の髪をしたその子は、初めて会ったときにコーヒーを選んだから、コーヒー少年。彼の名前を知らない馨が記憶するためにつけたあだ名だが、実際に付けられた方の少年は明らかに嫌そうに顔を歪めた。確かに、髪色的にはコーヒーというより寧ろミルクティー少年の方がしっくりくるかもしれない。
 何だかやたらと縁がある馨とコーヒー少年。これで何度目だったかと記憶を思い起こしていた馨の前に、不意にずいっと、何かを掴んでいる拳が伸びてきた。

「ん、なに?」
「……小銭」
「小銭?」
「無さそうだったんで、良かったら……これ」

 ぎこちない台詞の後、流れで差し出した馨の手には百円硬貨が一枚、落とされた。

「へ? ……え?」
「急いでるみたいだし、必要なら」

 それはつまり、これまでの馨の様子を見て小銭が無いことを悟ったらしい少年が、気を遣ってこれを渡してくれたということで。
 目を合わせずぽつぽつと喋る少年には何の悪意も無い。ただ単に困っているらしいからと、善意で助けてくれようとしている。
 だからこそ、馨は焦った。

「いや、でも、お金はっ」

 どこの誰かも知らぬ子から手渡されたお金、そう簡単に受け取るわけにはいかない。勿論助かることには違いないが、金銭問題は気の知れた仲同士であっても注意しておかねばならない程にデリケートであり、どんなに小さな綻びからでもあっという間に大問題へ発展する可能性がある。少年が善意で行動したのなら、彼より大人である馨は余計にそれを気にしなければならないだろう。
 すぐに返そうと硬貨を乗せたままの掌を軽く動かす。些細な動作だが、受け取れないという意思は伝わったはずだ。
 なのに、少年は下げていた目線を上げて馨をひと度見構え、前と同じように会釈をしてさっと背を向ける。伝わったはずの意思は完全にスルーされてしまった。

「ま、まっ……あ、ちょ」
「……また今度、会ったら返してください」

 上手く呼び止められず空回る馨に背を向けたまま、一言。また今度、なんて今後も会える確証など無いのにそう言い切った少年は、そのままいつものように病院内へと入って行ってしまった。
 最後に残されたのは不確実な未来の話と、少し錆びた一枚の銀色。
 中途半端に腕を持ち上げたままという間抜けた格好で置いていかれた馨は、大きな溜め息を吐いて鞄から携帯を取り出し、メモ帳機能に『コーヒー少年に100円』と一言付け加えておいた。


 コーヒー少年から借りた百円でカフェラテを買い、無事に叔父のお見舞いを済ませた馨。ばたばたと駆け込んできた馨の様子で時間が足りていないことを察した叔父は、一言二言の挨拶を交わしつつ荷物を受け取り、馨に早く行くよう促してくれた。その気遣いに感謝しつつ、馨は数分足らずで再びマラソンへ身を投じた。
 病室を出たら院内の階段を三段飛ばしで駆け降り――すれ違った看護婦の顔が何か言いたげに顰められたのは見なかったことにして――道という道を全て全力疾走。こんなに走ったのはいつ以来だろう、高校の体育祭のリレーでもここまで死ぬ気にはならなかったと思う。最後に本気になったときなど、本当にもうずっとずっと昔の記憶でしかない。
 しかし頑張ってはいるものの、自販機前でうだうだしていたために時間は昨日よりも押している。今日という日、病院と雷門中との距離がそう離れていないことを感謝せずにはいられなかった。それに、何だかんだいってコーヒー少年から借りた百円玉がありがたい。彼には必ずやお返しをしようと、今にも物理的に破裂しそうな心に決めるのだった。
 五時半を過ぎた頃になって、やっと雷門中グラウンドへと駆け込めた。尋常ではない勢いで突っ込んできた馨に対し、彼女の努力を知ってか知らずか、練習真っ最中だったイレブンは各々多種多様の表情を見せた。

「江波さーん!」

 ゴール前からぶんぶんと手を振って無条件に歓迎してくれる円堂のような子もいれば。

「あの人、コーチなのに来るの遅いよな」

 悪口とも不満とも捉え難いことを本人に聞こえない程度に呟く染岡のような子もいれば。

「何してる人なんだろうね」

 馨については細かい紹介がされていないために、素性の知れぬ女性に対し疑問しか抱けない少林寺のような子もいた。
 夕方だけの、しかもほんの二時間程の指導。何より二日目ということが最も大きいのだろうが、まだ皆が馨へ向ける眼差しには多かれ少なかれ探りや窺いなどが見て取れる。当然、そう簡単に心を開いてもらえるなどとは馨自身も思っていなかった。
 それに、彼女の目標はチームに馴染み受け入れられることではない。
 帝国学園との試合、少しでも皆が傷付かないようにする。その目的のためだけに、ここへ来ることを決めたのだ。

「お、そくなって、ごめんなさ、い」
「江波さん、大丈夫ですか? 息が……」
「き、木野さん、大丈夫だいじょうぶ……うん、はぁ、ふぅ……」

 全く以て不甲斐ない話だが、どうも体力の衰えを自覚せざるを得ないようだ。全力で走った証といえば聞こえは良いが、自分でも驚く程に息は荒がるし心臓は爆発せんばかりに早鐘を打っている。
 やっとのことでベンチまで辿り着き、膝に両手を置いてゼイゼイと肩で呼吸を繰り返しながら必死に全身をクールダウンさせようとする。マネージャーの木野が狼狽しながらも急いで持って来たタオルを受け取ったときには、何とかいつもの調子を取り戻すことができた。

「急いで来てくれたんですよね、ありがとうございます」
「ううん、こっちの都合で遅刻しちゃったからさ……ありがと、木野さん」

 さすがに遅刻の理由までは言えないので伏せておく。意図せず含みのある表現になったからか、木野は馨にも深い事情があるのだと考えたらしく、それ以上追及はしてこなかった。
 木野から受け取ったタオルで額と首筋に滲んでいた汗を拭い、ふぅー、と大きく息を吐き出す。そのついでに荷物をベンチの隅へと纏め置き、軽いストレッチを行う。実技をするつもりはないけれど、一応心持ちを切り替える意味も込めて。屈伸する際に膝がボキボキと音を立てたことに少し悲しくなりながら、身体中の筋肉を解していった。
 ストレッチ終了後、さて昨日の続きからだな、と脳内メモをチェックしながらグラウンドの中へ踏み込む。すると、それまで染岡のシュートを受けていた円堂が急に練習を止めた。

「みんなー! ゴール前に来てくれー!」

 ボールを小脇に抱え、声を張り上げる。少年特有のよく通る声は拡声器無しでもグラウンド中に響き渡った。それを聞き、各々の動きを停止させるメンバーたち。キャプテンからの突然の召集にも拘わらず、皆何の疑いも無しに彼のもとへと集まってきた。
 入って早々、予想外の展開に思わず顔で足を止める馨。何事だとでも言うように口を半開きにした彼女の前には、円堂を始めとした雷門中サッカー部員たちがきっちり全員揃って並んでいた。

「……な、なにかな?」

 ずらりと一列に並んだ中学生が、物も言わずに真っ直ぐ自分を凝視している。人数差もあるが、一人一人の視線の強さにやや気圧されそうになる。何だろうか、まるで今から尋問でも行うようなどこか緊張した空気感だが、もしかして二日目にして早々指導役解雇にでもなるのだろうか――そんな嫌な予想が脳の片隅を掠め、自然と馨の口元も引き締まった。
 一方、全員いることを確認し終えて一番左端に並んだ円堂は、ちらりと隣の風丸とアイコンタクトを取ると深く息を吸い込んで。

「江波コーチ、よろしくお願いします!」

 勢い良く頭を下げた彼の口から飛び出したのは、いかにも部活らしい挨拶の言葉。それに続いて他の部員も声を揃えて「よろしくお願いします!」と一礼をした。
 ――天にも届く高らかな声が消え、しんとした静寂がグラウンドに、馨たちに降り注ぐ。
 あまりにも突然で、あまりにも思いもよらぬ出来事に、馨の思考回路は暫しの間仕事を放棄した。何も返せぬまま、ただぼけっと突っ立ったまま、目を丸くして皆を見つめることしかできない。
 まさか、ばたばたと落ち着かずにコーチとなった自分のような人間に、素性も知らない人間に、こんなことをしてくれるなんて――色んな感情が身体の奥から滲み出してきてはまぜこぜになる。言い表しようのない、例えるなら電撃に似た痺れのようなものが、一瞬で全身を駆け巡った。そしてその痺れは、巡りながらもどこからか懐かしさを連れてきて。
 ――衝撃的、だった。

「……あ」

 ようやく我に返ったときには、もう全員の顔は地面を向いていなかった。皆一様に、馨を――コーチのことを見つめている。
 そんな肩書きで呼ばれるような、大した存在ではないのに。ずっとサッカーから離れていた、ただのしがない大学生でしかないというのに。それでも、他でもない彼らが自分をそう呼んでくれるというのなら、このうえない光栄であり、名誉でもあると思える。
 素直に受け止めよう。そして、認めよう。
 今だけ、自分はこの雷門中学サッカー部の、コーチであるのだと。

「よろしくお願い、します」

 掠れた声。みっともなく歯切れの悪い言葉。
 それでもやっとのことで挨拶を返せば、少し緊張気味だった皆の顔に朗らかな笑顔が灯る。どうやら馨が返したことでかなり安心したらしく、さっきまではどこかぴりっとしていた空気が一転し、ふんわりと優しいものになった。
 選手とコーチ。その両者が揃って初めて得られるのは、もうずっと前に感じていた本格的な部活らしさ。感化されて馨も一緒になって表情を緩めれば、ふと視界の片隅に、にっと健康的な歯を見せる円堂が映り込む。
 ――また、あの男の面影を見た。

「江波さん、オレたち頑張るから!」

 新たな指導者に対して強く誓うように拳を握る円堂の――いや、円堂だけではない。ここに集う全員の、強固に揺るがない瞳の奥。
 そこに、勝利への確かな挑戦を見出だしてしまった馨は、ただ一つ、ゆっくりと頷くことしかできない。

「そうだね」

 自分はコーチだ。彼らのコーチだ。彼らのサッカーを見て、指導をして、今よりももっと良いものにしていくという存在だ。
 けれど――残念ながら、彼らが目指す場所と自分の目指す場所は、大きく異なっている。
 昨日冬海に向けて言ったように、馨はここへ「勝たせるために来ているわけではない」のだ。雷門が帝国に勝てるなんてハッピーエンドのおとぎ話でもない限りありえなく、そこを終着点にするには馨はあまりにも無力で、役立たずで、場違いでしかない。馨のできることは、彼らを“守る”ことだけだ。
 それを今ここで告げるには、まだ何もかもが整ってはいない。もっと皆の手助けをしてから、いつか必ずそのときは訪れる。

「雷門中ー! ファイッオー!」
「ファイッオー!」

 掛け声と共にグラウンドへ戻っていく数多の背中。勝利を目指す無垢な瞳。自分とは全てが違っている純粋な心。
 覚悟は決めているというのに、それを改めて目の当たりにすると――飽くまで勝たせる気が無い自分自身に、心を針で突かれたような小さな痛みを覚えた。


 サッカーに於いて重要なのは勿論個人個人の技術であるが、最も重視しなければならないのはまず何と言ってもチーム全体の連携である。
 いくら技が上手くても、他の選手とのチームプレーができなければ完璧な選手とは言えない。サッカーは決して一人でやるものではなく、イレブン全員の呼吸を合わせて行う競技。強い相手に立ち向かうのならば尚更、誰か一人ではなくその一人をカバーできる全体の力が必要なのだ。だからこそ、馨はできるだけ個々の調整に時間を割きたくなかった。
 とりわけ、DFは他よりもチームワークが大切なポジションだ。一人が抜かれた後のフォローやパスの阻止、数人掛かりでのディフェンスや圧掛け。どれも味方の動きの把握や意思疎通の上に成り立つものばかりであり、誰か一人でも調子を崩せば一気に瓦解してしまう。
 帝国学園サッカー部のFWをゴールに近寄らせないためのDF。サッカー強化人間とも言える奴らの猛攻を少しでも防ぐためには、正直個人だけの技術はあまり役には立たないだろう。昨日指導した1on1の場合の動きは本当に最低限の話だ、基本的にはボールを持っている帝国相手に単騎戦を行うべきではない。数人がかりで圧をかけ、そのうえで動きを制限していくのが主たる動きとなる。
 昨日の教えはそれぞれ予習したのかだいぶマシになっていた。ならば次は、現在ここにいるDF陣三人でのチームプレイを練習していきたい。

「試合ではあと一人か二人くらい入ると思うけど、とりあえず今は三人で……そうだな、まずは距離を詰める練習だね。ボールを持っている相手にむやみに突っ込んでいくだけじゃディフェンスにならないし、何より危ない。数人がかりで相手の動きを制限させる練習をしよう」
「は、はいっス!」
「やっとそれっぽくなってきたでやんすね!」
「お願いします、江波コーチ」

 どうやらいつの間にか呼ばれ方は江波コーチで定着したらしい。慣れない呼び名が何だかむず痒かったが、ここは大人の威厳を保ってにっこりと微笑みで返す。
 ――年齢差はたったの六歳なんだけどね。
 胸中では薄く苦笑いし、次いでぐるりとグラウンドを見回す。探すのは、この練習に必要なもう一つの役所。

「じゃあ、そうだな……MFの子たち、ちょっとこっち来てくれる?」

 すぐ近くでパス練習をしていたMF陣――半田、宍戸、少林寺を手招きで呼び寄せると、三人は特に疑問も持たずにこちらへ駆けてきてくれた。寧ろ馨の招集を今か今かと待ち構えていたかのような反応速度で、まさかそんなに機敏に反応されるとは思わず、馨は小さく笑みを零した。
 さて、DF陣の練習とは言ったがディフェンスを行うにはオフェンスが必要になる。そこで集まってもらったMF陣、こちらもこちらでボールを持っている際の相手のかわし方を教える良い機会だ。
 帝国が強いとはいえ、何も一切合切ボールを持てないというわけではない。試合開始時にコイントスでボールを得るなり、ラインを割る直前にボールに触れるなり、ゲーム中必ず雷門側ボールになる時間は出てくる。
 そこで重要なのがチームのパイプ役を担うMFだ。最前線のFWへパスを繋いだり、または自分自身で相手のエリアへ攻め込んでいったり、はたまた相手の攻め込みに圧を与えてフィールドを制したり。とにかくMFは忙しいうえ、自ずとボールを所持する時間も長くなってくるので、こちらがボールを持っている場合はDF以上に注意せねばならないポジションである。

「MF側は少林寺くんのスローインから入って、DFの動きを見つつパスを回していこう。DF側はそのパスをカットするのが目標ね」
「パスだけでいいんですか? 抜いたりはせず?」

 ボールを抱えた少林寺が首を傾げる。馨は「そう」と言って頷いた。

「ただし、MFには追加で条件があります」
「条件?」
「一人一人がボールを持っていい時間は三秒だけ。三秒以内に他の子にパスしないとダメ」
「さ、三秒ぅ?」

 半田と栗松の少し間抜けた声が重なったが、他のメンバーも似たような反応を見せている。ただでさえまだ不慣れなのに、たった三秒で相手の様子を観察し状況判断を下してパス回しを行わねばならないなんて、客観的に見ても難題としか思えない。
 馨自身さらっと簡単に言ってのけた自覚はあるので、そんなの無理だと言い返したい皆の気持ちはちゃんと解っている。あんなにうずうずしていたはずのMF陣の表情が早くも曇りつつあるのを見て、さらにこう続けた。

「帝国学園のサッカーは、とにかく展開が早いの。うかうか考え事なんてしながらボールを捏ねてたらあっさり奪われてしまうし、逆に呑気してたらあっという間にボールをぶつけられてしまう。今の調子で練習をしていたら、本番圧倒されて何もできないまま終わるのが目に見えてるよ。三秒っていうのも、ちょっと猶予持たせてるとこはある」
「マ、マジかよ……」
「自陣キーパーのスローインから最前線までボールを運ぶのに十秒以上は使わない、ってくらいだからね。君たちもそのくらいのスピードに慣れていかないと」

 若干引きつつある空気だが、これが嘘であればどんなに良いかと馨でも思う。
 帝国学園は個々が実力を有しているからこそのスピードサッカーを可能としており、その即断即決具合に翻弄されてしまうため、まともなチームでも手も足も出ないという試合展開になってしまうことが多々あるのだ。剛速を両立させる強敵と相対するためには、このくらいの練習で音を上げてもらっては困る。
 もしかすると、この中には帝国の行うサッカーを一度として見たことのない者もいるのかもしれない。それならば尚のこと、驚異的な試合展開を想定できるだけの余裕を持たせるべきだといえよう。
 三秒ね、と再三繰り返す馨。理由を納得した半田や少林寺はそこで素直に承諾したが、残りの宍戸はまだまごついている。

「オレ、焦ってちゃんとパス出せないかもしれないです……あんまり自信ない」
「まあ、三秒ってかなり短いしなぁ」

 風丸が腕を組みつつ同調すると、ますます自信無さげに凹んでしまう宍戸。その背を叩いた半田が励ましてみるものの、その顔つきはまだ晴れない。
 確かに無理強いをさせてはいるが、でも――徐に馨は宍戸の前で膝を折り、目線を合わせる。急に同じ高さに現れた双眸に驚いたのか、彼は前髪の奥に隠れた目をぱちくりと瞬かせた。
 そこへにこっと微笑みかけ、ゆっくりと言い聞かせる。

「宍戸くん、大丈夫。パスできなくてもいいし、ミスしてどっか違うところに飛ばしちゃってもいい。何なら相手にボールを取られちゃってもいい」

 そっと両肩に手を乗せて、僅かに指先へ力を込めて。
 自分は決して宍戸の自信を喪失させたいのではないと、しっかり伝わるように。

「難しいことを言ってるって、私も解ってるよ。だけどまずはやってみてほしいんだ。一度でもいいからやって、少しでも慣れて、一つでも多くのことを四日後の練習試合のために吸収してほしい。ミスなんてそんなの誰も笑わないし、私だって怒ったりするつもりないんだから」
「……江波コーチ」
「私が一番嫌なのは、この練習で宍戸くんが――皆が何も学べないまま試合に臨むことだよ。改善できるところは私が教えるから、ね、一緒に頑張ろう」
「……本当に、ミスしても大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。最初から何でも上手くできる人なんているわけないしね」

 最後にぽんぽんと軽く肩を叩いてから再び立ち上がれば、馨の目線を追って見上げるかたちとなった宍戸はきゅっと口元を引き締め、ややあってからふと口角を緩めた。

「わかりました、オレ、やってみます!」

 前髪で見えなくとも、その両目に決意が込められたことは馨にもきちんと感じられる。最初から諦めるという謂わば“逃げ”の選択肢を捨てた宍戸に、他の部員たちもよりいっそう士気を向上させた。
 やってやろうという気概に溢れた皆の姿、そして何より宍戸が己の言葉でやる気を取り戻してくれたことが嬉しくて、自分でも思っていた以上に胸が踊る。これから先も彼らにとっての無理難題を押し付けることになってしまうかもしれないが、きっと上手くいくだろうと。
 そんな仄かな希望に未来を託し、馨は場を切り替えるために手を打ち鳴らすのだった。

「よし、じゃあ始めようか」


 一方、そんな馨と他メンバーの反対側に位置するゴール前。
 軽い休憩がてらその様子を遠目に眺めていた円堂と、彼にドリンクを手渡しに来た木野が和やかに談笑をしていた。

「新しいコーチ、良い人みたいで良かったね。いきなり来たときは、正直ちょっぴり不安だったんだけど」
「江波さん……いや、江波コーチは最初から良い人だよ。あの人もオレたちと同じで、サッカーが好きなんだ」
「でも、一体どこの誰なんだろうね。円堂くんの知り合いっていうのは解ったけど、それ以外には私たち何にも知らないし……」

 突然現れ、円堂の知り合いといって紹介された江波馨という女性。所在も年齢もサッカー経験も全てが謎に包まれたままの彼女は、それでも悪意無く練習を見てくれている。良い人なのには間違いないし、ならばそれで良いじゃないかと円堂は思う。実際、馨の指導によって少しずつでもチームは変わりつつあるのだし、感謝こそすれ拒絶する必要は無い。
 けれど、どうして彼女はこんな弱小チームのコーチになろうとしたのか――木野にとってはそれが最も疑問なようで、未だにこうして首を傾げている。
 話を聞いていた円堂も、そういえば自分は馨のことを全然知らないのだと気付かされた。知っていることといえば、名前と、雷門の卒業生であることと、サッカーをやらない理由と、過去に自分によく似た友人がいたということ。それが全てだ。これでも木野や他の部員よりは情報を知りすぎているくらいだというのに、改めて考えてみると、まだ赤の他人から一歩踏み込んだ程度の関係性なのだと思い知らされる。
 それに、馨自身が言っていた通り、彼女はサッカーをプレーすることがない。見ている限り、練習中に一度もボールを蹴ってはいなかった。
 足の怪我という理由。それが馨にボールを蹴られなくさせているというのなら、仕方ないこととはいえ円堂にとってこんなにも寂しいものはない。

「オレ、コーチとサッカーしたいな」

 気付けば、そんなことを零していた。
 初めて見たときから、馨の放つシュートをこの手で止めてみたいと思っていた。どうしてか、あの人は物凄い力を秘めているような気がしてならないと。根拠も無しにそう感じてしまうから不思議だった。
 足元に転がっているボールを手に取り、くるりと宙で回す。向こうでは早速DFとMFに分かれたメンバーたちが練習を始めており、選手の回す素早い間隔のパスに対して馨がしきりに声を上げていた。こんなに離れていても解る程に、その目はどこまでも真剣で、真っ直ぐで。

「きっとスゴく上手なんだろうなぁ。昔は女子チームとかにいたのかもね。もしかしたら今もどこかのチームに所属してたりして」

 同じ光景を見ている木野が感嘆するように言う。円堂は「どうだろうなー」と相槌を打ち、またボールを投げた。
 馨がボールを蹴られないことは、まだチームの皆には言っていない。もしも言及されたときは、馨の口から話さなければいけないと思ったからだ。自分に対して教えてくれたときの辛そうな表情は、彼女の負った“怪我”がただならぬものであるということを如実に表しているようでもあった。それが彼女にとっての、非常に大事な部分であるかのように。
 事情を知らない木野には曖昧な返事しかできないまま、今も皆に対し声高らかに指示を出している馨を目視した。
 確かに、あれだけ的確にそれぞれの欠点を見抜き、指摘し、修正できる人であれば、実際のプレーもスゴいのであろう。木野の言うように昔はチームに所属していたかもしれないし、或いは今も尚、現役コーチとしてサッカーに携わっているのかもしれない。
 馨は出会った当初はサッカーに対し否定的な態度を見せていたが、所々で確かな興味や関心は示していた。河川敷にて垣間見た、ボールを追い掛ける子どもたちを見守る馨の瞳を思い出しながら、円堂はボールを足元に戻して爪先で弄る。
 ――けれども、円堂には何か胸に引っ掛かるものがあった。
 それは恐らく初めて馨と知り合ったときからあったもので、しっかりと存在を自覚したのはほんのつい最近。雷門中学サッカー部というこの場所で、馨をより近くで見るようになって、明瞭になったもの。

「不思議な人だね、江波さんって」
「……あぁ」

 なのに、その“何か”の正体は、依然として解らないままだった。




 |  |  |