雷雷軒へ


 学校の時計が七時を示したら、その日の部活は終了となる。
 円堂の号令を受けた全員がベンチ前に集合し、昨日同様本日の反省と明日の確認をしてから解散。すっかりくたくたになった部員たちは流れる汗を拭いながら、帰宅準備をするために部室へと引き揚げていった。グラウンドからでは見えないが、校舎の影にある古い掘っ建て小屋がサッカー部の部室となっているらしい。本当にどこまでも扱いが悪いことに失笑すらしてしまう程だが、木野曰く「部室があるだけマシ」とのことだ。
 さて、部員たちが制服に着替えて戻って来るまでの時間は馨にとっての本日の反省タイムである。静寂のグラウンド内、練習を見ている間に気になる点などを箇条書きにしておいたノートを眺めながら、ゆっくりと思案に耽る。
 DFとMFの指導は当初の予定通り進んでいる。DFは素早いパス回しにも混乱しない程度の耐性を得られ、また敵への距離の詰め方や密着時の立ち回りも昨日以上に上手くなりつつある。MFは瞬時に状況判断し、その場その場で最適な行動を取るためのきっかけを掴み始めているし、このままいけば全員きちんとチームの中堅を担えるだけの選手になってくれるだろう。まだ練習二日目なのにも拘らず、ここまで明確な成果が出るとは正直思っていなかった。その点に関しては、馨自身も指導する立場として素直に嬉しいと思えるし、ある種のやりがいのようなものも感じていた。
 ――しかし、同時に苦しい現状にも気付いてしまった。

「必殺技が無い、か」

 そう、彼らは揃いも揃って≪必殺技≫を身に付けていないのだ。
 必殺技とは選手固有のステータスを限界まで引き出して繰り出す技であり、その一撃が試合を左右することになるといっても過言ではない、謂わばキーカードのようなものである。シュート、ドリブル、ブロック、キャッチ――選手によって得意とすることが違うように必殺技も多種多様。器用な選手なら数種類の技を使い分けてゲームを動かすこともできるが、大抵の者はどれかに特化して磨いていくことが多い。
 実際に、帝国学園の選手は基本全員が何かしらの技を有しているし、最低限それを上手く使いこなせなければまずあのチームでスタメンにはなれない。帝国学園特有の、代々受け継がれている伝統的な技はどれも威力や精度が凄まじく、例え基本スペックが帝国に勝っていようとも必殺技によって敗北してしまうチームもたくさんいたことだろう。
 逆にいえば、いくら基礎能力が劣っていても起死回生の手段があればまた違ってくる。
 だから、もしも誰かが独自の必殺技を持っていたならば、それを伸ばしていくことで新たな道を切り拓けると思ったのだが――そんな可能性も視野に入れつつあった馨にとって、これは大きな誤算だった。が、よくよく考え直してみれば、廃部寸前に追い込まれる程の弱小である雷門イレブンがそんなもの持っているわけがなかった。希望的観測をしすぎてしまったと反省せざるを得ない。
 だったら、一筋の望みにかけてこれから開発していけばいいじゃないかという案も一瞬脳裏を過ぎったが、問答無用で却下した。もう練習試合当日まで三日を切っているというのだ、できるかどうかも解らない必殺技を身に着けようとする余裕なぞ残されていない。基本動作だけでも二日を要したのだから、あとの三日間はとにかく覚えるべきこと、練習すべきことが山積みである。
 となれば、まずは帝国学園側の使ってくる必殺技への対策が大事になってくる。そこに関しては、あちらが雷門の力をどのくらい把握しているかによって使ってくるか否かが変わってくるだろう。こちらを完全な格下、雑魚だと決め付けていれば、無駄な労力は必要無いと考え普通のプレーで勝ちにくるパターンも考えられる。逆に悪いパターンだと、新必殺技の練習台として選ばれており再起不能レベルにまでされる場合もある。それは本当に最悪の事態だ。
 ただ、練習相手とするにしてもだ。近年一度もフットボールフロンティアに出場していないようなチーム相手では、まともなデータなど取れるとは考えにくいのだが。帝国学園程の実力チームならば、もっと上の、全国大会出場常連校くらいであっても充分練習相手として機能するし、その方がメリットも大きいはずではないか。

「……あれ?」

 そこまで考察し、ふと引っ掛かりを覚える。
 そもそも、何故帝国はこんな弱小校に練習試合を申し込んだ――?

「江波コーチ!」
「あ、はーい」

 思い至った一つの疑問にどくりと心臓が高鳴った瞬間、部室から駆け出てきた円堂に呼ばれたので咄嗟に考えるのを中断した。背中に嫌な汗が伝うのを気にしない振りをして、最後の挨拶をするために戻ってきたメンバーのもとへ向かう。
 ――あまり悪い方向に考えすぎてはいけない。
 帝国、そのトップに君臨する者の意図なぞいくら馨が推測したって現状では何ら意味を成さないし、頭を使うだけ無駄だ。それよりももっと悩める部分があるし、とりあえず必殺技やら今後の練習内容の再検討については家に帰ってからじっくり考えよう。この場で性急に答えを出せる程、馨も優秀なコーチではない。
「ありがとうございました!」と、疲れているにも拘わらず元気に挨拶をした彼らに同じように軽く返礼して、馨はこっそり嘆息した。

「あの、江波コーチ、この後って暇ですか?」

 帰ろうとして鞄を担いだとき、風丸が控えめに話し掛けてきた。

「うん、暇だけど」
「じゃあさ、一緒にご飯食べに行こうぜ!」
「ご飯?」

 風丸の後ろから出てきた円堂の言葉を復唱し、ひょいと自分の周りを見てみる。帰る気配の無い部員たちがこちらに目を向け、勘違いでなければ何だかうずうずしているようだった。どうも円堂の突発的な思いつきというわけではなさそうだし、部室で相談でもしたのだろうか。コーチを夕飯に誘ってみようか、なんて。
 ご飯か、と馨口の中で呟きを転がす。どうせ帰ったところで冷凍食品なのだし、たまには外食も良いかもしれない。
 それに、こんなにたくさんの期待溢れる眼差しに見守られては、鬼とてノーとは言えないだろう。

「いいよ、行こう」

 こくりと頷いた馨。途端に皆の顔が明るくなった。

「やったっスー! オレもう腹ぺこで死にそうだったんスよ!」
「よっしゃ決まり! なら、雷雷軒とかで……」
「えー、あの頑固親父の店?」
「でもあそこのラーメン美味しいって聞きましたよ?」
「近いし、もうそこで良いんじゃね?」
「早く行こうぜー」

 めいめい好き勝手に発言しつつ、行き先は雷雷軒に決まったようだ。
 雷雷軒といえば、今さっき半田が言ったように堅物な店主が独りで経営していることで有名なラーメン屋である。マナーがなっていない客は注文してようがしてまいが容赦無く追い出す、などといろいろ強烈な噂は立っているが、味は悪く無いので客が全く入らないわけではないという。
 雷雷軒か――馨の舌がいつぞや通っていたときの記憶を呼び起こし、口内に唾液を滲ませる。
 凡そ一年前、大学生になって一人暮らしを始めたばかりの頃、馨も件の雷雷軒へよくラーメンを食べに行っていた。店自体は高校生だったときも何度か使った覚えがあるが、連日ともいえる程頻繁に通っていたのはその当時だけだ。大学から自宅への中間地点に位置するため利便性が高かったのと、あとは単に、自炊するのが面倒臭かったからというのが主たる理由だった。
 最近はめっきり行かなくなってしまったので、一体どれくらい振りになるのだろう。久々にあの頑固店主のラーメンを食べられるのが楽しみだし、彼と話せるのもまた楽しみだ。それに加え、部活帰りというシチュエーションにも心躍るものがある。

「……なんか、青春って感じ」
「コーチ、行くぞー」
「はーい」

 ぽそりと零した独り言は誰の耳にも届かず、ただ馨の胸中で弾むだけ。
 染岡の呼び声に返事をする馨は、木野を抜いた総勢八人の子どもたちと共に、日の暮れた道を歩いて商店街へと赴くのだった。


* * * * *


 商店街の中程にひっそりと佇んでいるラーメン屋、雷雷軒。
 世間はすっかり夕食の時間だというのに全く賑わっている様子の見られない軒先は相変わらずで、ある意味安心感を与えられるようだ。重たい暖簾をくぐって引き戸を開ければ、懐かしいあの低音が無愛想に客を迎えてくれる。

「らっしゃい……なんだ、お前さんか」
「お久しぶりです、響木さん」

 来店は随分久しいというのに、彼はちゃんと自分のことを覚えてくれていたらしい。少しはにかんで応えると、すぐ後ろにいた半田が素っ頓狂な声を上げた。

「え、江波コーチ知り合いなの!?」
「言ってなかったっけ?」
「初耳でやんす!」
「そっかそっか。実は私、前までここの常連だったんだよ」
「それも初耳っスよ!」

 入店早々そんな騒がしいやり取りをしつつ、空いている席――と言っても店内はがらがらだったが――に着席する一同。皆どうやらそれなりに通い慣れているらしく、特に指示が無くとも勝手に奥のテーブル席から埋め、早くもメニューを開き始めている。馨自身も慣れているカウンター席を選べば、その両サイドには円堂と風丸が座った。
 先にテーブル席の客へ冷水を出した店主、響木。次にカウンター席の円堂と風丸、そして最後に馨の前にコップを置き、改めて入ってきたばかりのお客を見渡した。

「最近来ないとは思っていたが、なんだ、教師にでもなったのか?」
「あはは、年齢的に無理がありますね。ちょっといろいろあって」
「ほぉ。引率役がよく似合っているぞ、いっそ本当に教師になったらどうだ」
「うーん、一応考えておきます」

 とか言っておいて、馨の中に教師になるだなんて考えが一ミリも存在しないことは響木にも解っているだろう。ちょっとしたジョークの応酬のようなものだ。
 響木は声音の低さとその体格の良さ、何より彼の少々愛想の悪い性格のせいで初見の人には誤解を与えやすく、また噂通りの怖い店主だと思われてしまうことが多い。確かに無愛想で堅物気味なのは馨とて否定できない。
 だがその実、こうして冗談を言い合って仄かに笑ってくれることもままあるし、マナーを守って美味しくラーメンを食べる相手に対してはちゃんと接してくれる人物なのだ。現に、がやがやと賑やかに食べるものを決めている中学生軍団にだって嫌な顔一つしないし、本当は心根が優しい人であることを馨はよく知っている――まあ、せめてその口元を覆い隠す髭と丸いサングラスをどうにかすれば、少なくともぱっと見の威圧感は無くなると思うのだが。

「コーチとおじさん、仲良いの?」

 入店時から二人の関係が気になる部員全員を代表し、円堂が率直に問い掛ける。
 彼の言葉に先にぴくりと反応したのは響木だったが、答えたのは馨だった。

「仲良いというか、さっきも言ったように前はよく食べに来てたからね。大抵独りだったから、こうしてカウンター席に座って話し相手になってもらってたよ」
「そうなんだ! あ、でもさっき久しぶりって言ってたってことは、最近は来てなかったんだ」
「うん。電子レンジ買っちゃったら、レンジでチンに頼りきりになっちゃってねー」

 身体に良くないのは解ってるんだけど、と苦笑いを湛えれば、響木から「毎日ラーメンも充分身体に悪いぞ」とご尤もな追撃を受けた。言い返せない馨にくすくすと笑いを隠せていない風丸が、さらに問いを投げかける。

「コーチ、もしかして一人暮らしなんですか?」
「そうだよ。高校卒業してからだから、もう二年かな」
「へぇー、そうな……え?」

 メニューを手渡しながら首肯すると、風丸は判りやすく隠されていない右目を丸くした。見えないが、恐らく左目も同じ状態なのだろう。そのままメニューを受け取る途中の体勢で固まってしまった。

「ん?」

 やけに大きなリアクションだなと思いつつ反対側の円堂の方を見てみれば、彼もまた口をぽかんと開けてぱちぱちとしきりに瞬きをしていた。
 両者とも、今まさに驚愕の事実を知ったと言わんばかりの顔。馨は意味が解らず首を傾げ、響木は微かに漏れる笑い声を咳払いで誤魔化す。
 そして硬直する二人の代弁をしたのは、ちょうど真後ろのテーブル席に座っていた染岡だった。

「高校生じゃなかったのか……」
「は?」
「オレら、てっきりコーチは高校生だとばかり……」

 続いて聞こえた半田の台詞に次々と同意の声が上がる。高校一年に見えた、二年に見えた、三年に見えた、と学年はばらばらだがどれも高校生という括りには違いなく、彼らに自覚は無くともその言葉は確実に馨の胸に突き刺さっていく。
 ――嘘でしょ……。
 百歩譲って、これが大学一年の春だったらまだ解る。実際に少し前までは高校生だったのだから。しかし今の馨はもう大学二年生、二年間も大学生をやっているのだ。服装は動きやすいものにすべきだと思ってシンプルなシャツとスキニーという地味な格好をしているが、一応自分の中で見た目はそんなに幼く見えないと思っている。思っていた。今の今までは。
 でも現実、皆には高校生だと勘違いされたままだったらしい。もう二日目なのに。それなりに向き合って練習をしていたのに。それはやはり、外見が幼く見えるからなのだろうか、それとも言動が子どもっぽく映るからなのだろうか。

「……マジか」
 
 冷水を飲もうとしていた手を止め、薄笑いを浮かべる。氷がカランと虚しい音をたてた。

「一応、現役大学生なんだけどね……別に良いけどね、年齢なんて練習に関係無いし」
「ご、ごめんなさいコーチ」
「ほらやっぱりオレが言った通りじゃんか!」
「宍戸だって最初は絶対高校生だって言ってただろうが!」
「う、うるせーよ染岡!」
「だって自己紹介のときに名前しか言ってくれなかったんスから」
「ふっ……まぁ、江波なら仕方ないだろう」
「響木さん酷くないですかそれ」

 遂に笑いを隠すのをやめた響木に力無く突っ込めば、左右の少年が全く同じタイミングで小さく吹き出した。


 その後は各自食べたいものをオーダーし、響木が一つ一つ作ったものを届いた順に食べ始めた。食事中も雑談は絶えず、特に人数の多いテーブル席の方は大盛り上がりしている。

「お前、七味入れすぎだろ!」
「えーこれくらい普通ですよ。ねー、壁山」
「おい誰だオレのチャーシュー食った奴!」
「汁飛ばすな!」

 笑い声と怒鳴り声が程よく混ざった中学生らしい元気な会話をBGMに、馨も目の前に置かれたラーメンに手をつける。ここのところご無沙汰だった響木のラーメン、やはり味は変わらず美味だった。注文したのはあっさりめの塩味、このしょっぱすぎず薄味すぎずな塩加減が絶妙で堪らない。付け合わせの少量の炒飯、そしておまけでつけてくれた叉焼の切れ端も味が沁み込んでいてとても美味しかった。
 提供は馨の分が最後だったらしく、今まで忙しなく動き回っていた響木は手を洗ってからふっと一息吐く。一度客全員が満足そうに食しているのを見てから、汁を飛ばさぬよう頑張っている馨の前に肘を置く。

「ところで江波、お前コーチをしているのか?」

 先程から散々コーチコーチと呼ばれているのだし、気付かないはずもないだろう。
 邪魔な前髪を耳にかけつつ、馨は視線だけ響木の方へと向けた。

「はい、やらせてもらってます」
「ほぉ、お前がなぁ……何の部活だ?」
「サッカーです」

 今度はきちんと顔を上げて素直にそう答えると、ほんの一瞬だけ響木の眉間に皺が寄る。それは本当に一瞬のことで、馨が瞬きしたときには既にいつもの仏頂面に戻っていた。

「そうか。せいぜい、肩書き負けしないようにな」
「響木さん、ちょっと今日酷すぎませんか」

 勘違いにすら思えるくらい些細な響木の変化。馨は特に気にしないまま、手厳しい一言に対し苦笑をした。
 酷いとは言いつつも、実際初日なんかは心の片隅で肩書き負けを気にしていた自分がいる。だが、負けたかどうかは試合をするまで解らないし、負けとは即ち雷門イレブンの崩壊を意味することになるのだから負けられない。

「私はただ、自分のできることをやるだけですから。あと三日間、全力で」
「三日間?」
「練習試合があるんです。そのためにコーチを買って出たんで」

 澱みなくそう言い切れば、響木は暫し馨の目を見構え、ややあって軽い相槌を返すとそれ以上は追求しなかった。何か言いたそうな様子にも見受けられたが、彼が口を噤むならばわざわざ蒸し返す必要も無いだろう。馨もまた潔く話を切り上げ、器に残っているもやしを摘まんだ。
 そんな一連の会話を聞いていたらしい円堂はごくりと口の中のものを飲み込むと、身を乗り出す勢いで話に加わってきた。

「コーチはスゲーから大丈夫だって! な、風丸!」

 馨越しに同意を求められた風丸も、きりりと眉を上げて大きく頷いた。

「あぁ、指導してもらってからディフェンスの要領も理解できたし、上手くなってる自覚があるぜ」
「ほら、風丸もああ言ってるだろ? コーチと一緒に練習できてオレたち嬉しいよ」
「二人とも……」

 両側の教え子から称賛され、嬉しさと一緒にじんわりと感動すら覚えた馨。ほぼ反射的に伸ばした手で二人の頭を撫でれば、撫でた張本人も含め、三人揃って照れ臭そうに表情を崩した。
 ――それからはサッカーの話題から離れ、互いに他愛もないことを話しながら食を進めた。
 授業の話や先生の話、今日起きた出来事から昨日のテレビの話まで、皆が交わすのはどれも馨を懐かしくさせるものばかりだ。高校時代、よく弁当をつつきながら友人たちとこうして纏まりのないことをだらだら語らっていたのを思い出す。学生は窮屈で、でもその窮屈さが環境や情報の共有を生んでコミュニティを形成させる。当時は何とも感じなかったのに、成長してある程度の解放感を得た今、あの頃もあの頃で悪くなかったな、などという懐古的な情を湧き起こさせた。
 それなりに時間が経てば、おかわりをする子もちらほら出てきた。壁山なんかは既に三杯目を食べ切ろうとしていて、あの調子では四杯目に突入することが楽に推測できる。周りの目が少々げんなりしてきているのは気のせいではないだろう。ただ円堂曰く「いつものこと」だそうなので、めでたく馨の雷門データベースに『壁山は食いしん坊』の一文が追加された。
 円堂は二杯目を食べ終わり、満腹になったのか幸せそうな顔をしている。その隣、とっくに完食して冷水をちびちび飲んでいた馨は、何のきっかけも無しに突然あのことを思い出した。

「そういえば、豪炎寺くんだっけ。あの子はどうなった?」

 円堂が以前興奮しながら話していた、例のスゴいシュートを撃つという少年。何だかんだで忘れていて今更になったが、てっきり入部するとばかり思っていた彼の姿が部内に無いことに気付いたのだ。
 話を振られた円堂は、ややしょんぼりした面持ちで溜め息混じりに返した。

「あー、アイツはダメだった」
「断られたの?」
「うん。サッカーしないんだってさ……もったいないのになー」

 心底残念そうに話す円堂。見ているこっちまで同じ気持ちになってくるような空気を醸し出す彼に、馨もつられて眉の尻を下げた。
 円堂の話でしか聞いたことがないので予想にしかならないが、彼が言う程に強烈なシュートを撃つならばストライカーの素質があるに違いない。もしかすると前の学校ではサッカー部に所属しており、実際にエースストライカーとして活躍していたかもしれない。それが何らかの理由でサッカーをやらなくなったのだとしたら――所詮、不毛な妄想でしかないけれども。
 ただ、そんな人材がこのチームにいてくれたら、染岡とツートップにできてかなりやり方も変わってきたはずだ。そこは残念だと心から思う。

「……まぁ、人には人の事情があるしね」

 円堂には可哀想な話だが、サッカーをするもしないも、結局はその当人しか決められないことだ。他人が干渉出来る範囲はごく限られており、無理強いしてプレーさせることはできないし、させてはならない。
 円堂のニュアンス的にわりとしぶとく粘ったのだろうが、それでも折れずに断ったということは余程やりたくないのだろう。或いは――やれない、のか。どちらにせよ、彼が本当にサッカーと関わりたくなさそうなことは話を伺うだけでも感じ取れた。
 人を助けるためにボールは蹴るがサッカー自体はやらない、豪炎寺という少年。声も姿も知らぬ存在が何となく気になって、馨は円堂に豪炎寺のことをもう少し尋ねてみた。まずは、どんな見た目かどうかを問うてみる。
 すると。

「豪炎寺はねー、きりってした顔で、白っぽい髪してる」
「白っぽい?」
「そうそう、それを逆立てて大人みたいにしてんだ」
「逆立てて……」

 聞いてみて、あれ? と眉根を寄せた。
 円堂の言う特徴を頭の中で形にしてみると、どうもどこかで見たことのあるような人物が完成したのだ。
 色素の薄い髪を逆立てた、大人っぽい顔付きの男の子。だがしかし、雷門中は何せ全国有数のマンモス校だ。そんな容姿の子は一人に限ったことではないのかもしれない。
 試しに、こちらからも特徴を出してみることにした。

「その子って、もしかして眉毛がちょっと……こう、ぎざぎざしてたりする?」
「眉毛? ……あっ、そういや後ろの方がぎざぎざしてたかも。あんまし見ないよなーああいう眉毛」
「……」

 そこでやっと、確信した。
 ――間違いない。
 豪炎寺とは、あのコーヒー少年のことだ。

「コーチ、豪炎寺と知り合いなんですか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」

 風丸の問いへ、咄嗟に口をついて出たのは否定の言葉。お互いに名前すら知らないのだから、これはあながち嘘ではない。ただちょっと、自販機前で当たりの一本を互いに譲りあったり、足りない小銭を貸してもらったりする程度の関係性なのだ。
 それにしても、まさかあの少年が――馨は殆ど無意識にコップを掴み、一気に水を煽った。
 人と人との縁とは実に奇妙で、狭いものである。ずっとどこか遠い存在だった豪炎寺という名が途端に身近なものに感じられ、逆に些か親近感を覚え始めていたコーヒー少年の輪郭が急激に遠のいていく。
 彼と出会う場所は決まって病院前の自販機だ。そして去るときは大体院内へ入っていく。思えば、ある日を境にしょっちゅう顔を合わせるようになったことを少なからず疑問には思ったが、豪炎寺があそこにいることについて何か考えたことは無かった。
 皆が部活をやっているような時間に病院へ訪れ、力はあるのにサッカーをしない。断片的な条件だけで推察するならば、彼が何かしらの怪我を負ってしまいプレーができないと考えるのが合理的だと思われる。しかし本当にそうなのだろうか。円堂との初対面時、彼は確かにシュートを放ったのだから、やりたいのにできないという状況では無さそうな気もするのだが。
 ぐるぐると一人脳内で情報を掻き回してみても、やはり現時点で答えは出てこない。
 第一、答えが出たところで馨がどうこうできる話でもないのだが。

「……あ、そうだ、響木さん」

 コーヒー少年、もとい豪炎寺について思い出したついでに、馨は財布から千円札を引き抜いて響木へと渡す。

「それ、百円玉に両替してもらえませんか?」
「うちはコンビニじゃないぞ」

 返ってきたのは、小さい子が聞いたら涙目になってしまいそうな低音と、実に冷たい口振り。だが、そんな拒否するような対応をしつつも、響木は言われた通りレジから百円玉を十枚取り出してくれた。
 お礼を言ってからそれを受け取ると、馨は段々と賑やかさの薄れてきた背後を見遣る。全員完食し、心身共に満たされたようだった。見たところ、あの後壁山は四杯目を自重した様子である。塩分の高いラーメンを四杯というのはさしもの壁山でもキツかったのだろうか。
 思い思いに談笑していたメンバーたちは馨が振り向いたことで悟ったのか、脱いでいた上着を羽織るなりと帰る支度を始めた。

「それじゃ、帰ろうか」

 円堂や風丸らが頷き、器をカウンターの上に返して席を立った。
 馨は皆から代金を集めると纏めて支払いをし、お金と併せて「美味しかったです」と率直に伝えた。雷雷軒には結構な回数通っている馨だが、帰り際にこうして感想を言ったのは初めてだったと記憶している。不意打ちに近かったため、驚いた響木の眉がくいっと持ち上がった。

「……美味くなけりゃ、出したりしないからな」

 照れ隠しなのか、軽い咳払いと共にそう呟く響木。早く行ってやれ、とばかりに扉の外を指されたので、馨は肩を揺らしながら踵を返す。

「響木さんの性格も相変わらずですね。また来ます」

 それだけ言い残して外へ出れば、雲一つ無い爽やかな夜空に綺麗な三日月が浮かんでいるのが目に入った。まだまだ春の暖かみで満ちている気持ちの良い夜、眩い月明りは暗がりであっても部員たちの姿を明瞭に照らしてくれている。
 馨が出てきたことに気付いた円堂が全員に声を掛け、その場で改めて解散の挨拶をした。

「んじゃ、バイバイ!」
「さよなら、コーチ」
「バイバイ、皆気を付けてね」

 もう遅い時間だし、本当は一人一人家まで送った方が良いのかもしれないが、さすがに八人分は現実的ではない。しかも全員見事に馨の帰路とは反対方向だったので、せめてもと馨はその場で皆の姿が夜道に溶け込んでいくのを見送った。
 やがて最後尾にいた壁山の影すらも見えなくなってから、馨はもう一度頭上に輝く月を仰ぐ。自身を照らす煌々とした光に、ふわりと形を成さない思いが浮かんでは消える。いつしか自分が微笑んでいることに気付いて、小さな吐息を漏らした。

「……ふぅ」

 久しぶりに食べたラーメンのおかげか、それとも食べた環境のおかげか、或いはその両方か――馨の気分は、自分でも驚く程に穏やかだった。


* * * * *


 ――雷雷軒からの帰り道。
 殆ど帰り道が一緒なため、円堂と風丸は二人並んで歩いていた。
 時刻は八時を少し回ったくらいで、住宅街に入ればさすがに人影は見えない。先程までは他の部員たちもいてそれなりに賑やかだったが、幾つか分かれ道を経て人数が減り、今はたった二人ぼっち。自分たちの足音以外に音も無く、満腹感と疲労感からか自然と会話も途切れていたので、辺りはまさに静謐(せいひつ)そのものだった。
 そんな中、ふと話を切り出したのは風丸の方だった。

「……なぁ、円堂」
「ん? どした?」

 やや堅苦しい雰囲気だった風丸に対し、円堂はいつもの調子で気軽に応答する。呑気だなと思いつつも、その変わらなさのおかげで先の話題もすんなり続けることができたので、ある意味有難いばかりだ。

「江波コーチなんだけど、あの人って全然ボール蹴らないよな」

 口にしたのは、この二日間の指導を経てずっと感じていたとある違和感。
 その瞬間、円堂の表情が少し強張ったのは見間違いではないだろう。

「……やっぱり蹴ってないのか」
「やっぱり? 円堂、何か知ってるのか?」

 ずっとつきっきり状態で指導を受けていた風丸や他のDF、MF陣は全員がその疑問を抱き、首を傾げていた。FWの染岡とも練習していることがあったから、きっと彼も既に気が付いているのだろう。そんな中、まだ直接的にコーチングをしてもらってはいない円堂も気付いていたのは、風丸からすれば正直驚きだった。
 だがそういえば、江波コーチは円堂の知り合いとしてここに来ているのだということを思い出し、ならば彼が何か事情を知ってても変では無いかと思い直す。ただ、どうも円堂の表情を見ている限り愉快な話では無さそうで、風丸は本当に問うて良かったのかどうか少し戸惑った。
 円堂は円堂で、やや躊躇う様子を見せている。それでも彼の中で決着をつけたのか、「あのな」と風丸へ向けられた顔は風丸以上に真摯さを帯びていた。

「本当はオレから話すことじゃないと思うんだけど……実はコーチは昔足に怪我をして、そのせいでボールが蹴られないらしいんだ」
「怪我って……そんなに酷かったのか?」
「さぁ。詳しいことはオレも聞いてないんだ」

 話したくもなさそうだったし、と彼らしいことを続けた友人に、風丸はそれ以上詳細を訊こうとはしなかった。ただ一つ、ボールに触れない理由が知れただけで、今は納得しておける。
 ――彼女、江波馨の指導はとても正確だった。
 元々風丸自身陸上で身体を動かすことに慣れており、サッカー自体もそんなに不得手としていなかった。それでもいざDFとしてのポジションを意識して動こうとしてみると、体育の時間にプレーしたものとはまた違う難しさがあり、とてもじゃないがあの帝国学園との試合で活躍できるとは思えなかったのだ。そんな折、突然現れたあのコーチに細かい部分を指導、調整してもらってからは、前よりずっとプレーに自信が持てるようになった。馨がいなかった初日に比べ、昨日今日は格段に有意義な練習を行えていたと思う。
 しかし、どうにも不思議だった。
 彼女は全てを口や身振りで説明し、決して自分からボールに触れようとしないのだ。
 気付いた当初はあまり気にしなかったが、さすがにおかしいと思い始めたのは今日の練習中。MFの高速パス回しの練習を終えたあとのことだ。

 ――帝国の選手はあまりパスを回さず、一人で無理矢理突破をしてくる確率が高い。相手との実力差を知れば尚更ね。それに、当たり前のようにヒールリフトを使ってくる。対峙してない他のDFはマークも大事だけど、まずボールを持っている選手の足元……左右の足の位置を見て動いてほしい。ここにボールがあるとすると――

 ある程度を口で説明し、どういう動作でフェイントに入るのかをボール無しの状態、所謂エアーサッカーとして実演してくれた馨。そこでも既に怪しかったのだが、当時はとにかく彼女の指摘する足の動き集中していたので特に何とも感じなかった。
 そして流れでいえば、この後に行うのはヒールリフトの実際の対策であろう。当たり前だが雷門サッカー部にそんな技術を持った選手はいないため、必然的に知識を有している馨がドリブル役をすることになる。コーチなのだからできるものだと、皆そう信じていた。
 なのに、馨は何故か以降そこには触れず、宍戸のドリブルを使った別の練習に切り替えたのだ。
 そのときは、彼女はヒールリフトができないのだろうと思って流すことにしたが、僅かでも疑問に感じ始めると後から後からそういう面が目についてしまうもので――。

「……怪我か」

 けれども、ちゃんとした理由があるなら仕方ない。話したくないらしいことからも余程の事態だったと窺える。納得はできたし、皆も一言伝えれば黙って呑み込んでくれるだろう。
 今ので、馨がボールを蹴らない事情は解った。
 ただ、風丸にはまだ気になることがあった。こっちはそこまで大したことではないかもしれないが、今の話の序でに言ってしまうことにした。

「あともう一つ……コーチ、かなり帝国に詳しいんだよ」
「へぇー、スゲーなやっぱ」
「スゲーどころじゃないぞ。どういう攻め方をするかとか、使ってくるかもしれないフォーメーションとか。パス回しのスピードの話もしていたが、あれは予想どころか完全に言い切ってたぞ」

 情報の真偽は置いておいて、今挙げたことに関して馨は驚く程の知識を有していた。
 今日の練習でMFが難題をこなすことになった理由もそうだったし、先程のヒールリフトのことだって、帝国学園サッカー部なのだから使える“だろう”という仮定の話ではなかった。馨は、確かに使ってくると言い切ったのだ。どうしてあそこまで確定出できるのかと、聞いたときからずっと謎で仕方なかった。
 風丸が未だに疑念を拭い去れないでいるのとは対照的に、円堂は今度のことはあまり不審には思わないようで、さっぱりとした表情で口を開く。

「研究熱心なんじゃないのか? 練習試合を見に行ってるとか」
「でも大学生らしいし、そんな暇じゃないだろう」
「なら、昔実際に戦ったとか試合見たとか」

 円堂の予想は良く言えば信頼が高く、悪く言えば楽観的。
 そういうところも彼の良さなのだと解っていながら、しかし風丸は肯定することができなかった。

「……中学時代、帝国の生徒だったってことはないのか?」

 馨が元帝国生――風丸が一番それらしい理由だと考えていたことだ。過去にサッカー部に関係していたなら、やたらあちらの内部について詳しいことも合点がいく。プレーについて断言できるあたり、マネージャーをやっていた可能性だってあるだろう。
 仮にもしこの予想が真実だとしても、特別何かがあるというわけではない。馨が現在コーチをし、風丸や他のメンバーたちの技能を向上させてくれていることには違いないからだ。馨が元帝国学園の生徒だからといって、コーチを辞めてもらうとかそんな決断をするつもりは無かった――が、良い噂より悪い噂が絶えない帝国学園サッカー部。そこに所属していた人物にサッカーを教わることについて複雑なものを感じないといえば、それは嘘になる。
 だが、それは存外呆気無く否定されることになった。

「あ、コーチはうちの卒業生だってさ。江波馨って生徒、冬海先生が知ってたし」
「……そうなのか」

 あっけからんと紡がれる言葉に、体内にあった小さな重しが消えた気がした。

「なら、良いんだ」

 ほう、と小さく嘆息し、無意識に入っていた肩の力を抜く。
 ――彼の、円堂の言うことなら、間違いはないはず。
 あれだけいろいろ疑い考えたわりに、案外あっさりと事実を受け入れられる自分自身に驚いた風丸。研究熱心だとか試合を見た記憶を掘り起こしてるだとか、その辺の理由が自然と心に落ちてくる。不思議な気分だった。
 それはきっと、円堂があまりにもずばっと言い切るからだ。彼の放つ言葉にはそういう力がある。無条件に信じたくなる、温かい力が。そんな彼だからこそ、こうしてサッカー部に入ってまでして助力してしまうのだろう。
 風丸が納得したことに満足したのか、円堂はその肩をパシパシと叩く。

「あんまり自分について話さない人だし、疑問が多いのはしょうがないよな」
「そうだな。けど、強くしてもらえてるのは確かなんだし、あんまり疑っちゃ悪いか」
「おう、オレたちももっともっと頑張らなくちゃな」

 そんで、帝国学園から勝利をもぎ取ってやるんだ!
 拳を高く突き上げる円堂を見て、風丸もますます頑張ろうという気持ちになった。もっと色んなことを馨から学び、サッカーが上手くなりたいと思った。それは何の裏目も無い、純粋な勝利への欲求と、自身の可能性への期待だった。
 ――もう、細かいことは気にしないでおこう。
 馨は帝国と戦う自分たちを支えてくれている。まだたったの二日、されど彼女の思いは発せられる声に宿っているような気がして、それは受け取る度に着実に力となっている。自分の力。自分だけの力。自分のつくる、サッカーだ。

「頑張ろう、円堂」

 ――ナイスディフェンス、風丸くん!
 鼓膜の奥に未だ残り続ける一言。
 単なる助っ人とはいえ、DFという新天地で揺るぎない自信をくれた馨。
 例え勝てる見込みが限りなくゼロであったとしても、それでもせめて、彼女の支えを無駄にするような試合にはしたくなかった。




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