misty outline


 それから、時間はまさに矢のように過ぎ去っていった。
 馨はチーム全体の動作をより極めることに成功し、それに基づいて定められた道をただ辿ることによって、帝国サッカー部はフットボールフロンティアにて見事優勝を手にした。一点も許さず且つ大差での勝利、まさに影山の言う『完璧な勝利』を重ねて掴んだ栄光。メンバーも嬉しくないわけはなかったのだが、堅い空気が彼らに浮かれる隙を与えなかった。次なる目標は、来年のフットボールフロンティアである。
 大会が終わり定期テストが終わり、ばたばたと慌ただしい中でいよいよ待ちに待った夏期休暇がやってきた。
 当然ほぼ毎日のように講習と部活があったが、馨にとってそれらは面倒であっても苦にはならない。何より、休みの最後には一大イベントが控えている。淡々と日々の練習をこなしつつも、馨の頭の中は影山との旅行のことでいっぱいだった。
 サッカー観戦――という名のイタリア旅行――は予定通り二泊三日で行われた。
 初めてのフライト、しかも当たり前のようにファーストクラス、加えて影山と二人きりということでこれ以上ない程緊張していた馨だったが、影山が普段より気持ち優しく思えたので緊張はすぐに解けた。
 ワインを飲むかと冗談を吹っ掛けられたときはさすがに戸惑ったし、驚いた。オフでは割りと陽気な人なのかと思ったが、一方で機内のシステムに初心者丸だしな態度をとっていると、呆れたようにあの冷たい口調でいちいち教えを挟んだので、やはり彼のことはよく解らない。けれど、その冷たさが影山という人物を構成する要素の一つだと思えば何もおかしなことはないと、馨は自己の中で勝手にそう結論づけた。
 イタリアでは定番であるローマを中心に観光し、二日目にはきちんと一番の目的であったセリエAの一試合を観戦した。
 片方は地元でも有名なチームだったため、会場の熱気はまた一段と凄まじい。影山のことだからてっきりVIP専用の席でも取っているのかと思った馨だが、予想に反して二人が座ったのは熱狂的なサポーターに囲まれた普通の座席だった。
 最初こそ日本との空気の違いに戸惑ったものだが、試合が始まればここが外国だとかそんなことは一切頭から吹き飛んだ。世界の一流プレーヤー同士の生の戦いは、幼いながらも一端のサッカープレーヤーである馨の心を強く揺さぶった。洗練され研ぎ澄まされたプレーはどこまでも美しく、感動すら覚えたものだ。周りと一緒になって声をあげる馨を、影山は最後まで咎めたりなどしなかった。
 雰囲気あるローマの風景と素晴らしいサッカーを手土産に、少しだけ肌を小麦色に染めて再びファーストクラスに乗って帰国すれば、すぐに新学期が始まった。
 予め宿題は全て片付けていたから特に困ることはなかったが、部活が始まってすぐにまた木原が後ろにくっついてくるようになったので悩みは尽きない。今のところは無視したり拒絶したりと上手く回避しているが、鬱陶しいことこのうえないことには変わりなかった。
 そんなこんなで騒がしい夏も終わり、中庭の木を色づけた秋も過ぎ、登下校する生徒にもマフラーや手袋が目立ち始めてきた初冬。
 席の近い友人と適当に喋っていたときに、その話題は唐突にあがってきた。

「そういえば馨、初等部のサッカー部って知ってる?」
「初等部のサッカー部?」

 指先を揉んで寒さを和らげていた馨は小さく首を傾けた。帝国学園が初等部から存在することは知っていたが、そういえば部活動について考えてみたことは一度も無かった。一応ありはするのだろう、学校なのだから。

「その部にね、すごい子がいるんだって」
「へぇ、どんな子?」
「私もよくは知らないんだけど、とにかくプレーとか小学生ってレベルじゃないみたいだよ。あと、髪型がドレッドらしい」
「ドレッドって」

 本格的だなぁと薄く笑えば、友人も同意して肩を揺らした。
 それにしても――そんな噂になるくらいすごい子がいるだなんて知らなかった。サッカーが上手いとなれば、もしかすると影山が自分のようにどこからか連れてきた子なのかもしれない。

「放課後、ちょっと見に行ってみようかな」
「部活は良いの?」
「グラウンドのライトの調整入るから、今日の午後部は開始が遅れるって連絡もらった」

 ただの興味、好奇心。それ以外の何物でもない。
 小学生の“すごい”というレベルを一度見てみようという軽い気持ちで、その後馨は友人を連れて初等部側のグラウンドへと足を運んだ。
 初等部の子たちの視線をそこそこに集めつつ、二人はフィールドを一望できる高台から顔を出した。光景には特に変化も無く、中等部と同じ見た目のグラウンドを使って練習をしている。強いて言うなれば、そこでストレッチやウォームアップをしているのが、自分たちと同じユニフォームを着た自分たちよりも小さな子どもたちだというところが違っていた。

「ほー」
「あ、あそこにいる子がその子だよ」

 物珍しそうに視線を動かしていた馨は、友人の指差す先に目立つドレッドの頭を見つけ、目元に力を込める。運悪くこちらに背を向けているため顔は見えないが、背丈は普通かそれよりも若干小柄。スマート、悪く言えば華奢だ。本当にサッカーが上手いのだろうかと考えていると、不意に彼に近づく一つの影がベンチ側から出てきた。

「あ、総帥」
「……」

 それは見紛うことなき影山だった。
 影山はちょうど少年の身体が隠れてしまう位置に立つと、見上げてくる彼に対し何やら話をしている様子である。内容は全く聞き取れないが、ちらりとだけ見えた少年の目が嬉しそうに細まったのを見るに、少なくともマイナスな会話ではないようだ。何か褒めたのだろうか。
 その後、少年がまだ声変わりをしていない声で「はい!」と一際大きく返事をし、他の子と一緒に練習に混ざり始めた。何気ないように足を動かし、最低限の動作で軽やかにボールを捌く。その姿に、馨はつい感嘆の息を零した。

「……上手っていうか、普通に……天才」
「やっぱり。本物見たの初めてだけど、素人の私でもすごいって思うもん」

 無駄の無い動きなら中等部のサッカー部員の殆どができるが、彼のような美しいフォームでできるかと言えばそう断言はできない。あれは才能が成せる業だと思い、馨はそこで少年から目を逸らした。もう充分である。
 ――彼も恐らく、目をかけてもらっているのだ。
 先程の影山との様子を見ていれば何となく解る。影山が傾斜しているのは、決して自分だけではないということが。

「……帰るか」

 理解し、次いで湧いてくるのは不可思議な感情。
 ストレートな嫉妬や怒りではなく、もっと複雑に入り組んだものだった。


 順当に練習を終えて、特に記載することのない報告書を仕上げてから影山のもとへ届けに行く。最早毎日の通行儀礼にもなっているこの行為は今日とてぶれることはない。
 白い部分の目立つ二枚の紙にさっと目を通してから、影山はそれについて何か言うこともなく、ただ無感動に馨を招き寄せる。傍に寄れば肩に腕を回された。いつもは日常的な会話を交わしたり、時には無言のまま終えることもあるこの時間、今日は馨が早々に口火を切った。

「あの、総帥」
「何だね」

 さっさと話を始める馨が珍しかったようで、影山は首を僅かに動かして馨を横目に捉えた。

「つかぬ事をお訊きしますが、初等部サッカー部のドレッドの少年はどういった子なんですか?」
「ドレッドの……あぁ、アイツか。あれはオマエの気にする相手ではない」

 特徴的な髪型のおかげで、示した人物はすぐに解ってもらえたようだ。そして名前すら教えず終わらせようとするのも想定済みである。馨はそこで引かず、少し無理矢理に話を続けてみた。

「少し、気になったんです。噂によれば、彼はすごくサッカーが上手だそうなので」

 敢えて実物を見たことは言わない。何故か言う気になれなかった。

「どんな子か、ちょっとでも良いので知りたいだけです」
「……確かに、あれ程のサッカーの才能は同年に類を見ないな。まだ八歳であるが、あそこまで完成された存在を私は知らない」
「八歳……」

 そんなに若かったのか、と絶句する馨。初等部なのだからそれなりに幼いだろうとは思っていたが、まさか一桁だとは。年齢を知れば、あのとき見たボール捌きがますますすごいものに感じられる。
 影山に“完成された存在”とまで言わしめるのだから、試合をしてみればさぞや輝く子なのだろう。彼を語る影山の口調はどこか楽しげで、馨は無意識のうちに少々俯き気味になっていた。気付いたところで、直そうとはしない。
 そんな馨の様子をじっと見つめている影山は、やがて愉快そうに口端を吊り上げると、肩に添えていた手で馨の首筋をそっと撫でた。

「何を不安がっている……オマエとはまたベクトルの違う天才だ、江波。その才能とて、私は未だに同等どころか比べるに値する存在さえ知らないのだからな」

 諭すような声音が、馨の背筋を滑り落ちていった。
 影山が江波馨に見出した才は、プレーヤーとしてよりも指導者としてのものの方が強いのだと、馨は最近はっきりと理解していた。だから男子部に置いてでも自分を使ってくれているのだ。フィールドプレーヤーとしては輝けない場所で、サポート役として。
 けれど――嬉しい言葉を掛けられたはずなのに、馨の内側は依然すっきりとはしない。己は確かに影山が欲してくれる人材であると解っているのに、憮然とした気持ちがそこにはあった。
 理由は、きちんと自覚できている。

「……もしも」

 全ては仮定の話。
 そして、ここのところよく胸に燻る思いの欠片。

「もしも私が、男だったら……今以上に、総帥のお役に立てていたのでしょうね」

 呟くように紡いだ言葉は、相当に小さな声にも拘わらず、きちんと相手の耳に届いていたようだ。
 昔に比べれば女子サッカーの知名度や認知度はそれなりに上昇している今現代。しかし、やはりサッカーとは男の行うスポーツという印象がどうにも強い。その証拠に、公式大会であるフットボールフロンティアには、どんなに実力があったとしても女子の参加は認められていない。差別、と言ってしまうのは少し違うのだろうが、実際性別の壁は未だに分厚いところがあるのが現実だ。
 今更女子部でサッカーをしようとは思わない。あそこは、あの世界は、自分にとって少しばかり小さかった。
 だから男子部に来たのだが、そうすれば自分は、試合の際にフィールドに立ち入ることが許されない身となった。もう選手たちに混じって、その中央でゲームを動かし試合を支配することは叶わなくなってしまったのだ。サポーターとして実力を発揮するのも良いが、やはり一番最初に影山に見初められたプレーヤーとしての力を、まだまだ奮ってみたかったというのが本音だった。
 ――もしも自分が男なら、もっともっと影山の望む最高の選手になれたかもしれない。
 我ながら幼稚で、話してみたところでどうしようもないただの愚痴。それでもぽろりと零してしまったのは、今も脳内でボールを蹴っているあのドレッドの少年の姿が、少年と会話する影山の姿が、やけに眩しく思えてしまったからで。
 眉尻を下げて暗い空気を纏う馨に、話を聞いていた影山は表情を変えぬまま何度も首筋を、そして頭を撫で続ける。拗ねる子どもをあやすものに似た動作に馨が微かに身を捩れば、彼はふっと小さく息を漏らした。

「――オマエが……」
「え?」
「いや、何でもない」

 聞き取れずに瞬きする馨に軽く首を振り、改めて口を開く。

「江波……私は君が江波馨だからこそ、ここに置いている。現状以外の姿になりたいなどとは考えるな」
「……ありがとうございます。しかし……」
「そんなに試合に出たいのか?」

 強引に台詞を遮ってきた質問には、控えめに、それでいて強い願望を持って首肯を返した。いつの間にか上げていた視線の先にしっかりと影山を映し、一つだけ頷く。男子になりたい以前に、あのサッカー部の一員として試合に参加したいという意志を、そうすればきっと今以上に彼の希望に叶う存在でいられるという思いを、確かに込めて。
 その瞬間、影山の眉間の皺が一本だけ消えたような気がした。

「そうか」

 真剣な空気を無視するような簡易な三文字で相槌を打ち、そこで会話を終わらせた影山。彼は馨の髪をくしゃりと弄びながら、ただ静かに笑っていた。


* * * * *


 中庭にある桜の木に桃色が宿り、吹く風からは凍てつく冷たさが消えた。その代わりに、世界を覆う空気全体が睡魔を呼び起こす心地好い暖かさを纏い始めた季節。
 帝国学園に入学してから二度目の春、部活を含め周囲の環境が目まぐるしく変化する中で、馨は一つの事実を耳にすることになった。
 ――女子サッカー部の廃部。
 その理由は解らないので飽くまで推測の域を出ないが、恐らく前回の大会決勝で負けたことが最も大きな一因なのだろう。馨を追い出して試合に敗れ、挙げ句部自体が無くなってしまったという、何とも哀れで悲惨な結末だ。

「……」

 偶然職員室で見かけた新入生用のプリントには、確かに女子サッカー部の名は存在しなかった。ちょうど一年前、半ば強引にレギュラーとして入部したあの場所は、己のサッカーをあの人に捧げようと決意したあの空間は、もうこの学園のどこにも無いのだという。
 無表情のままプリントから目を離し、職員室を出ようとする馨。
 そのときふと、別所からの視線を感じたので首を動かしてみれば、そこにあったのは随分と懐かしく思える賀川の姿だった。

「……馨」

 まただ。
 また、彼女は苦痛な面持ちで泣きそうに名を呟く。
 どうして貴女がそんな顔を――まるで被害者のような顔をするのかと、結局今回も訊けぬまま、馨は彼女へと背を向けた。
 ――ちくり。
 よく解らない胸の痛みが、その背中を引き戻そうとするようだった。


* * * * *


 男子サッカー部では、前年度の個人成績をもとにして一軍のメンバー変更が行われた。
 影山よりメンバー選出を一任されていた馨は、私情を挟まぬ公平な判断によって、今年度より木原暁を一軍のベンチへ選抜することを決定した。もしも私情が許されたとしたら間違いなく選んだりはしなかったところだが、個人能力だけを見れば彼は他の二軍選手よりも飛び抜けており、充分一軍の戦力になるプレーヤーだったのだ。
 少々ではあるが顔触れの変わったメンバーによる初めての練習。これからはあの「サッカー勝負しろ!」を毎日聞く羽目になるのだろうかと憂鬱な気分の馨だったが、しかし顔を合わせた木原は全く予想外のことを口にした。

「そんな嫌そうな顔すんなって。もう無理に誘ったりしないからさ……オマエがやりたいって思ったときに、やろうぜ」

 苦笑いしつつそう言った彼に、つい拍子抜けしてしまった馨。一息遅れて、約束された今後の平穏にほっと安堵した。
 新たな面子が加わったことで木原自身、そしてチーム全体に再び調整をしなければならなくなった。昨年度までは主に雑用を担当してくれていた槻尾は、受験勉強に集中したいからと言って一足先にマネージャーを辞めてしまったため、今日からはチームの観察と共に全ての仕事を平行していかなくてはならない。文字通り、目が回るような忙しさだった。
 木原が二軍でどんな練習をしていたのか、その詳細までは知らないが、どうやらあちらでも一軍とそれ程変わらないメニューをこなしていたようだ。後半の紅白戦に入るまでを傍から見ているに、一日目にしてすっかり慣れた様子である。それに、このチームにとても順応した動きをしているため、連携含めて必要な調整は本当に僅かなものだった。
 本人自体はなかなか強引な性格ではあるが、少なくとも秩序を乱したりするような身勝手で傲慢な者ではないらしい。これには馨も大助かりだ。

「木原暁――フィジカル、バランス、シュート、チームプレー、……各種、問題無し……と」

 自身の選択に間違いは無かった。この両目でそう確かめられたことに気分を良くし、馨は満足げに笑って報告書に文字を書き込んだ。
 改めて試合を見てみる。現在レギュラーのMFと交代して中央に入っている木原は、専ら司令塔向きの選手だ。二軍でもそういう練習をしてきたのだろう、的確に他のメンバーを動かして試合の流れを掴み、離さない。どことなくプレーヤーとしての自分と似ているような気がした。
 こんな選手があの影山の下でずっと二軍にいたなどとは考えられないが、もしかすると最初はここまでの実力を持ってはいなかったのかもしれない。本人もそんなことを言っていた覚えがある。ならば、仮に自分が才能の者だとすれば、彼は――努力の者とでも言えようか。
 ただ、一つだけ違和感があった。
 以前に二軍グラウンドで見た試合を行っている木原と今目の前で動いている木原とが、どうしても綺麗に重なり合わないのだ。

「……」

 すぐに悟れた理由は、表情、そして醸し出す雰囲気の明らかな違い。
 あのときの彼は、さながらこの世の幸福を全て掻き集めたような顔をしていたが、今はどこか退屈そうで、つまらなさそうでもある。覇気はあるし声もよく出ているけれど、外から見ていると一目瞭然だった。何かを望んでいるような、満足できていなさそうなのが、動作の一つ一つからひしひしと感じ取れた。
 だからと言って、それが練習に支障をきたしているわけではない。木原一人が物足りなさげであったとしても、チームは特に問題無くいつも通りの時間を過ごしていく。だから馨も、彼のメンタルケアまでをしてあげようという気は起こらなかった。滞りなく練習ができるならばそれで充分だった。
 部活が終わり、メンバーが全員部室に引き揚げた後、馨はいつも通りグラウンドの片付けを始める。恒例となっている足でのボール集めをさっさと終えてからゴミが落ちていないかチェックしていると、不意に背後の出入り口から自分の名を呼ぶ声を聞いたような気がした。

「ん? ……どうかした?」

 振り向き、首を傾げる馨。
 階段から顔を出したのは、既に制服に着替え終えた木原だった。

「片付け、手伝おうかと思って」
「いいよ、私の仕事だから」
「大変だろ、チーム見ながら雑用もするのって」

 話を聞いているのかいないのか、鞄をベンチに置いた木原はグラウンドを歩いている馨の隣に肩を並べる。一瞬追い返そうとした馨だが、きっと言ったところで疲れるだけなのだろうと思い直し、不本意ながら彼を連れ歩くことを無言で認めることにした。
 途中でユニフォームのものだと思われる糸を拾った以外、特にゴミは落ちていなかった。ここでガムでも落ちていたら大変なことだが、幸い帝国は規律が厳しいためそういった問題は今のところ発生していない。
 馨は溜め息を吐いて踵を返す。終始黙ったまま馨についていた木原はそこでふと、世間話でもするように口を開いた。

「なんかつまんねーよな、帝国のサッカーって」

 唐突に切り出された一言に、馨は眉間に皺を寄せる。

「なら辞めて良いよ」
「いやいや、辞めないって」

 とんでもないと言わんばかりに両手を挙げた木原に、彼へ突き刺さる視線はまた一段と凄みを増した。ただ単に、木原の言うことが理解できないからそうなったのだが、どうやらあちらは脅されているとでも勘違いしたらしい。少し焦ったように笑うと、次の瞬間には少し真面目な顔をして天井を見上げた。

「なんつーか、勿体無いんだよ。あれだけ上手い奴ら集まってるのに、ただマニュアルをなぞるだけの練習ばっかりなんて」

 勿体無い――その意味が解らなくて、馨はまた首を傾ける。やや伸びてきている前髪が、さらりと鼻先を掠めた。

「勝てるんだから良いじゃん」

 影山の定めたマニュアルと馨の導き出したタイミング。
 この二つさえあれば、帝国はずっと無敵でいられるのだ。勝者だけが得られるフットボールフロンティアに於ける絶対的な王者の地位、それを守り続けるために帝国学園サッカー部は毎日きめ細やかな練習を行っていた。怠らなければ、その先には約束された勝利があるのだ。選手は皆、ただその一点だけを目指してここでサッカーに取り組んでいる。
 一軍への昇格を拒否しなかった木原がそれを勿体無いと言う真意が、馨には見えない。木原だって、勝ちたいからこの地に立っているのではないのか。

「私たちは、勝つためにここにいて、練習をしているんだよ」
「……サッカーの醍醐味って、勝敗だけじゃないと思うんだ」
「醍醐味?」
「サッカーってスポーツの、楽しさ」

 楽しさ、という単語を聞いて、思い出す。
 そういえば以前、彼に同じようなことを言われ、問われた記憶がある。そのとき自分は、果たして何と答えたのだろう。

「なぁ江波」

 会話をするたびに思う。木原の発言に、木原自身に理解が及ばないと。彼と自分とがあたかも別世界に生きているような感覚すらするくらい、何かが決定的に違っているのだと。
 ――けれども、確実に、浸食されている。
 こうして向き合えばそれだけで、己の中の己が彼を呑み込んでいる。考えようとしている。その行為は、もしかするとアイデンティティを崩壊させてしまう恐れがあるかもしれないのに。
 ずっと予定調和の世界で生きてきた。
 それが今になって、無意識のところで少しずつ――傾いている。

「オマエは、オマエ自身は、サッカーのどこが楽しいんだ? サッカーに何を求めてるんだ? オマエのサッカーって、何なんだ?」

 江波馨のサッカー。その本質。
 そこにはいつだって必ず、無謬(むびゅう)の答えがあった。

「……」

 あったはず、だった。


「総帥」

 彼を真正面に捉えることにだって、今は恐れや不安を抱いたりなどしない。一年間傍にあり続けた結果、あのサングラス越しの視線のやり取りはすっかり慣れたものだが、その奥にある暗闇からは少し遠ざかったように思えた。

「総帥は、どうしてサッカーに携わっているのですか?」

 誰よりも近くにいながら、これまで一度だって訊いてみたことのない問いかけ。自分を見つけ出し、傍に置いてくれた影山という人物の原点とも言える質問。馨はひたすらに真っ直ぐ、相手を見つめ続けた。

「……お前には関係の無いことだ」

 影山の声に抑揚は無い。聞いているだけでは会話の意味なんてなくなってしまう程、そこから彼の考えを読み取ることは難しい。いっそ不可能なのだ。
 台詞の頭にくだらない、とでもつけそうな様子の影山。馨はそれでも目線を外さないし、引かなかった。答えを貰えなくたって良いから、今の時間で何か一つでも、彼のサッカーに対する思いを探り出したかった。

「なら……サッカーの楽しさって、何なのでしょうか?」
「楽しさだと?」
「或いは醍醐味……本質とでも言うのでしょうか。私のサッカーに、それがあるのかを知りたいのです」

 影山総帥を、彼から与えられたサッカーを疑ったりするつもりは毛頭無い。
 ただ、少しだけ不安になっただけなのだ。
 もしや自分は、木原の持っている何か大切なものを持っていないのかと思えて、本当の意味での完璧になるにはそれが必要なのではないかと思えて、ならばそれとは一体何なのか、知りたくて。
 自分が今日まで行ってきたサッカーを、確かなものだと思いたくて。影山と共に歩んできた道に、一つも間違いは無かったと信じたくて。

「総帥……」

 返答の無いまま微動だにしない影山に、ささやくように漏れた声。
 すると直後、彼は椅子から立ち上がると一直線に馨の目の前へと歩を進めた。

「何も考えるな」

 低く響いたのは、いつかも耳にした一言。
 影山は思わずたじろぎ退こうとする馨の肩に片手を置き、もう片方の手が両目を覆って視界を隠す。何も見させぬように、何も考えさせぬように、世界に自分だけを認識させるように、五感の一つを掌握する。
 視界を奪われた馨は一瞬肩を震わせたが、危害が加えられるわけではないと解るとすぐに落ち着きを取り戻した。それでも動物の性なのか、足は小刻みに震えていた。

「私は江波、オマエが常に勝者であり続けることを期待している。あの場所で自分のやるべきことをやっていれば、オマエはずっと私の望む存在でいられるのだ。完璧な、勝者として……それで充分だろう」

 ――私の傍にいる、オマエならば。
 ねっとりとした言葉はそこで切られた。視界はまだ戻ってこない。真っ暗で音も聞こえなくなった中、馨は鼓動が大きく高鳴っている響きだけを感じていた。
 影山は解っている。自分がどれ程彼を敬愛し、信頼し、求められようとしているのかを。だから、今の台詞にはそれら全てを掌に乗せ、自分を招き寄せ、そのまま強く握り込む意味が込められていた。要するに彼は、釘を刺したのだ。影山についていくと決めたのだから、彼の望むもの以外が本質であるわけがないと、暗にそう言われたのだ。
 影山は何度も『完璧な勝者』と口にしてきた。その都度馨は頷いた。彼の求めるまま、才能を発揮して勝利を得て捧げて、そうして築いてきた関係。サッカーで勝つことが影山と馨を繋ぐ、謂わば絆のような役割を果たしていた。
 自分のサッカーとは、影山に捧げる“勝利”そのもの――でも、本当にそれが答えなのだろうか。
 今も視界を隠す絶対の存在。
 疑いたくなどないのに、心のざわめきは止まない。

 ――オマエは、オマエ自身は、サッカーのどこが楽しいんだ? サッカーに何を求めてるんだ? オマエのサッカーって、何なんだ?

 暗闇に、木原の楽しそうな姿が浮かび上がる。
 瞼を閉ざしても尚消えない彼の幻影が心中に雫を一滴落とす。そこから生まれた波紋は、いつまでもいつまでも消えないまま、音も無く広がり続けていた。




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