colorfast dream


 その翌日、馨は予定通り影山に連れられ、男子サッカー部のレギュラーメンバーの練習グラウンドへ赴いた。

「うわ、すごい……」

 思わず感嘆の声が漏れる程、彼らの練習は気迫掛かっていた。女子部も真面目に取り組んではいたが、ここまで気合いが入っていたかと言われると首を傾げてしまう。場合によっては殺気すら感じ取れそうな勢いだ。
 紅白戦中の彼らは盛んに必殺技を使い、時折状況を判断してラフプレーに及ぶ。練習、しかも仲間相手にも容赦の無い様子に、馨はここが今までとは違う場所であることを強く実感させられた。と同時に、ここでなら影山の求める『完璧な勝利』をもっと追求できると、そう確信した。
 数分経ってから休憩時間になり、収集された選手たちの前で、馨は影山より新マネージャーとしての紹介をされた。
 そのときの反応は人それぞれだったが、大抵は馨の名を知っている者ばかりだったので、やはり突然の転向に驚きを隠せないようである。それでも影山の推薦、そして元々選手として能力が高い人物であるということを知っているだけあり、案外すっきりと迎え入れられることになった。

「基本の雑務は既にいるマネージャーから教わることだ。それに加えて、オマエにはその目で選手たちを観察し、実際に練習に混じる仕事もある。良いな?」
「はい」

 そこで紹介された二年の男子マネージャーである槻尾(つきお)と軽く挨拶を交わし、改めて影山を仰ぐ。

「何も遠慮することはない。今までのように、持てる全てを発揮しろ」
「……はい!」

 昨日の今日だから、彼なりの励ましの台詞なのだろう。
 馨は先程よりもさらに気持ちを込めて返事をし、去っていく影山を見送ってから早速先輩について業務を教わることにした。
 マネージャーの仕事は思っていたよりも単純なものだった。女子部にもマネージャーはいたが、自分の知らないところで動いていることが多かったので、具体的な仕事内容はドリンクやタオル用意、試合のスケジュール管理くらいしか知らなかったのだ。
 だが実際に教わってみると、選手個人の様子を見たり対戦相手について調べたり備品の管理をしたりデータを纏めたり、確かに部活に於いて必要だと思えるものが大半だった。いつも何気なく目を通したり影山へ届けていた報告書も、その大半はマネージャーが作成してくれていたものだったらしい。尤も、今はもう関係の無い話であるが。

「こういった雑務は僕が中心的に片づけるから、江波さんはさっき総帥が言っていたように、特にチームの方へ目を向けていないといけないね」

 言いながらピッチを見る槻尾に続いて同じ方を向くと、今はポジションごとに分かれて練習をしているところであった。前半は個人や少人数での練習とミニゲーム、後半はポジション別と全体での試合を想定した実戦練習。流れは女子部のときと大差ない。
 影山が馨に最も求めているのは、彼らの練習に混じって細かな部分を訂正することだ。仲間内では気付けないことや見落としがちになる些細なところにまで及ぶ、徹底的な観察。マネージャーと言うよりはコーチに近い。
 頑張れ、と肩を叩いて激励する槻尾に笑みを返しながら、馨は再び気を引き締めた。過度の期待を背負うことと環境の変化に適応することは、それなりに得意である。


「――で、どうだった? 江波」

 MFの練習を見ながら持参したメモへ気付いたことを書き留めていた馨は、不意に掛けられた声に眼球だけを動かしその主を見た。にこにこと馨の答えを待っている彼はどこか楽しそうで、MF全員の練習が終わってから纏めて伝えようとしていた馨の計画にちょっとした混乱を生んだ。

「えーっと、今言っても良いんですか?」
「あぁ、構わないよ」
「そうですね……岩崎さんは右足に変な癖、ついていますよね。だから相手を右側から抜くってことに向いていないのは自覚されていると思います」
「……すごいなオマエ」

「よく見てるんだな」と感心する岩崎とその周辺。
 馨は特に反応せず、さらにその先を紡いだ。

「でも、その癖は上手く活かせば逆に有利になるかと。私としては、《ジャッジスルー》に少し手を加えたら良い気がします」
「手を加える?」
「はい。相手と対面する場面、正面から行きがちなところを位置調整できればと」

 興味深そうに小首を傾げる岩崎へ口頭で自分の考えを告げれば、彼は納得して実際に練習してみることにした。近くにいたチームメイトに相手役を頼み、決して心から喜んで受け入れた様子でない彼に対し、問答無用で《ジャッジスルー》を叩き込んだ。呻いて吹っ飛ぶ彼に、しかし誰も駆け寄ったりはしない。あちらもそんなことは最初から解っていたようで、痛がりながらも一人で立ち上がる。

「もうちょっと、相手に対して半歩左に回り込む場所で……そうですね、三十度くらい下から入れて、気持ち蹴り上げる感じにできますか?」

 相手が戻ってくる間にジェスチャーで修正を入れ、もう一度。言われたように前の動きと違いをつけた岩崎の《ジャッジスルー》は少しだが威力を増したようで、同じように吹っ飛んだ彼の表情には一回目よりも激しい苦痛が表れている。呻き声も心なしか大きくなったように聞こえた。馨は「そうそう」と口角を持ち上げた。
 岩崎に続き、他のMF陣も殆どの動きに修正が入った。単なるパスの際にある無駄や必殺技の動きなど、一連の練習を見ていて馨の気付けたことは全てその場で調整される。
 それにより、ほぼ全員が必殺技やプレーの相手役、犠牲になったが、引き替えに個々の精度は上がったのだ。女子部よりもさらに徹底した勝利へ固執しているこの場所で、文句や不満は欠片も漏らされなかった。
 今日一日過ごしてみて、馨の胸中で練習参加前に感じた確信はさらに強固なものとなった。
 ここは部活の場ではなく、強いて言うなら――戦場だ。
 仲間が倒れようと構わない、生き残った者だけが勝利を掴める。そんな場所。

「……完璧な勝利」

 あの日、影山の言いつけ通り相手チームの10番を潰せなかったときのことを思い返し、瞼を下ろす。次いで蘇るのは、試合で確実に相手選手にダメージを与えていく自分の姿。

 ――君の才能は“活かす”のではなく“活かされる”べく存在する。そのためにはそれ相応の舞台が必要なのだ。

 確かに彼の言う通りである。
 自分はここにいる限り、何も考える必要など無いのだ。


* * * * *


 馨が男子サッカー部マネージャーになったことは、女子部レギュラー確定入部のときよりもさらに急速に校内へと広まっていった。偏差値の高さは生徒の冷静さには決して結びつかないものである。
 しかし、噂の中ではその具体的な理由についてあやふやになっているようで、馨自身が耳にしたのは『江波は女子という狭い環境でのサッカーに飽きた』だの『女子部を手駒にしてしまったから次に男子部を狙っている』だのと心外なものばかりだった。だからといって訂正も否定もしない、したところで面倒しか残らないことは解っている。幸い転部について直接何か言われることもないので――総帥の存在も一因なのだろうが――気持ちを新たにサッカーへ取り組むことができていた。
 マネージャーの仕事は槻尾の助けもあって大した負担ではなかった。元々選手に注意を向ける癖があり、且つ観察眼も優れている馨には、この役割が存外似合っているようだ。「マネージャーって、きっと江波さんの天職だよ」――データの纏め作業が楽になったことを槻尾はとても喜んでいた。
 その日の部活を終え、更衣室へ引き上げていくメンバーから洗濯物を回収した馨は、タオルやシャツが山をつくっているカゴを槻尾に託すと駆け足でグラウンドの片付けを始めた。ゴール付近に特に集中しているボールを、足で器用に操りつつ一つ一つ確実に戻していく。この作業では絶対に手を使わないと決めていた。いくらコーチングの権限があるといっても、選手として部活に参加していたときよりボールに触れる機会は格段に減っている。だからこうして足先の感覚を確かめることで、自身の力を落とさないよう気を付けているのだ。マネージャーと言えども、三十三年間無敗の帝国学園サッカー部の一員、少しの油断も許されない。
 トンッとヒールでボールを入れ物に蹴り入れると、一息吐いて次の目標へ足を向ける。残りはこの一つだけだ――どうやって片付けようか考えていると、不意に視界の端に影が現れた。

「よっと」
「あっ」

 思わず声があがる。
 今まさに足を伸ばしたボールは、一瞬先に別の爪先によって掬い上げられてしまった。

「面白い片付け方してんだな、江波」
「……なんだ、木原か」
「なんだって失礼だなオマエ」

 肩にスポーツバッグを引っ提げた木原は、足の甲に乗せていたそれを、馨を真似たようなスリータッチできっちりと入れ物に収めた。その一切無駄の無い繊細な動作に、正直な馨の目は暫し奪われてしまう。けれど、どうだ、と得意気に笑う彼を素直に褒めるのは何だか癪だったので、ただ一言片付けてくれたお礼のみを口にした。

「で、何の用? もう皆更衣室行っちゃったよ」
「いや、一軍さんに用は無い」

 わざわざ敬称をつける意味が解らないが、特に何もないのだろう。
 木原は(おもむろ)にボール入れから一つを手に取り、満面の笑みでこう言った。

「サッカーやろう! この前約束したしな」
「は?」
「おい、まさか忘れたわけじゃないだろうな、オレとの約束」
「忘れたわけじゃないけど……」

 ――今、ここで?
 まだ作業は残っているし、この後は今日の報告をしに影山のところへ行かねばならない。それに正直、二軍の木原とサッカーをしたところで自分に何か得るものがあるとは思えないのだ。無駄なことをして体力を消耗したくない。
 明らかに嫌そうな顔をしてボールを見ている馨に、木原の眉間へきゅっと皺が寄る。約束を破棄しようとしているからというのもあるだろうが、それよりも馨が誘いを断る理由そのものが、彼女の浮かべる表情から見て取れたからだ。
 つまり、見下されているのだと。

「オレだって、一応帝国サッカー部員なんだけど」
「……言っちゃ悪いけど、時間の無駄だと思うよ」
「解んねーぞ、案外」

 木原だって、馨の実力は嫌と言う程解っているはずだ。二軍で燻っているような選手なんかでは、影山から特別な扱いを受けている馨にはとても及ばないことも。

「なぁ、やろうぜ!」

 ――それでもこうしてサッカーに誘ってくるのは、一体何故だろう。
 純粋に、一緒にやりたいと思っているからなのだろうか。

「一回だけ、オレからボール奪うだけで良いからさ」

 ここで諦めてしまえば、これからずっと彼女が誘いを受け入れてくれることはないと感付いていそうな程に食い下がる。笑顔を絶やさず、それでいて懸命に頼み込んだ。
 そんな引き下がる様子を見せない木原に、とうとう馨も降参の溜め息を吐いた。押しの強さに折れたわけではない、こうして押し問答していることが一番時間の無駄であると気付いたのだ。

「解った、一回だけね」
「よっしゃ!」

 小さくガッツポーズをつくる彼にどうしてそんなに嬉しがるのか疑問を抱きつつ、馨は軽く屈伸をして身体を解す。あちらは部活終えたてほやほやなこともあり、準備は万端なようであった。バッグを放って既にボールを構えている木原と距離をあけて向き合い、ふっと漏らした吐息に混ぜて、一言。

「五秒で終わらせるよ」
「ご――」

 直後に地を蹴った馨と、言い返す間も与えられずすぐさまキープのためにボールを自分へ引きつける木原。切り込んで狙ってくるであろう足を警戒して足元とその周辺へ意識を向けていた彼は、次の瞬間、視界の高さに影を捉えて反射的にしゃがみ込んだ。

「わっ!」

 頭上の空気を物凄い勢いで切り裂いた影の正体は、馨の左足。本来下方に向けられるべきそれが今、有り得ない場所から飛び出してきたのだ。何とか回避はしたものの、微かに空気を裂く音を聞いた気がした木原は戦慄した。今の一撃は、避けなければ確実に危ない位置を意図的に狙っていた。
 木原がバランスを崩したところで、馨は無防備になったボールをわざとじっくり、見せつけるようにして自らのもとへ蹴り寄せた。目を丸くしてこちらを見ている男に対し、飽くまで普通の顔を崩さない。

「ほら、五秒」
「おまっ……あぶねーだろ!」
「別に今は試合でもないし、ファールも無いんだから良いでしょ」
「それでも、こんなやり方卑怯だろ」
「卑怯? ただ私は、アンタからボールを奪うって条件を満たしただけだよ」

 結果的に勝利は勝利、と目を細めた馨の眼差しはどこか冷めていて、木原は何か言おうとして開きかけた口を、結局無言のままに閉ざした。


* * * * *


 それから暫くして、フットボールフロンティアが開幕した。日本中学サッカー界の雌雄を決する大規模な大会、周囲の学校が熱くなる中で帝国サッカー部レギュラーはどこまでも冷静だった。いつも通りの練習、特訓、何もイレギュラーなことは無いままに日々を過ごす。そこにあるのは約束された勝利への自信と確信。今のまま均衡を崩さなければ、敗北など有り得ないことをメンバー全員が知っているのだ。当然、馨もその中に含まれている。
 学校全体が男子サッカー部に注目する傍ら、密かに女子サッカー部が大会決勝で敗れたという報が馨の耳に飛び込んできた。サッカーの名門である帝国学園にあるまじき事態に、生徒たちは皆、この話を大っぴらにしようとはしていないようだ。言ってしまえば腫れ物扱いなのだ。影山もその件に関しては一切コメントをしておらず、その後の対応も、もう当事者ではない馨にはまるで定かではない。それ以前に、興味が無かった。
 ――私を邪魔だと追い出して、この結果か。
 もしも未だに自分があそこでプレーをしていたら、勝利を掴むことができていたのだろうか。そんな考えが頭を過ぎったが、想像するだけ無意味だとすぐに掻き消した。

「江波さーん、紅白戦やるよー! 記録取ってー!」
「はーい」

 槻尾の呼び声に応えると、ビブスを着てチーム分けを確認していたメンバーのところへ駆け寄った。
 程無くして始まった試合をいつもように観察し、気になる点をメモに書き留め、バインダーに挟む。以前は箇条書きにすればそれなりの行数になっていたメモも、現在は真っ白なままで試合を終えることもざらになってきていた。全てのポジションと全体の調整を終えてしまったので、もうこれといって指摘するようなところは残されていない。
 目の前で繰り広げられるのは、王者に相応しい“完璧”なサッカーだ。

「これじゃ、次の相手は練習試合程度かな」
「そうですね。寧ろ、練習になれば良いんですけど」

 ドリンクとタオルを個人分に纏めながら、一寸の狂いもない動きを見せて見事なシュートを決めたFWたちを見つめる。
 型にはまった完璧なプレー、それは即ち、彼ら個人の頂点を表していた。レギュラーメンバーは誰も彼もが優れた身体能力を有しており、故に影山が定めた帝国学園のマニュアル通りのサッカーができる。全員が予め決められた最高の動作に最高の力量で応じられるからこそ、この部は常に最強であり続けることができるのだ。
 そして逆に言えば、ここがチームの限界でもあるということ。ある意味それは、帝国の唯一の弱点にも成り得るところであるが。

「……」

 フェイントからダイレクトパスを通した中盤の選手、次いで《キラースライド》でそのボールを奪ったDFを目で追っていると、ふと馨の脳で何かが弾けた。
 と同時に、感じた。

「……なるほど」

 ――だからこそ、可能なことがある。
 一人胸中で呟くと、ビデオを片手にベンチから腰を上げてライン寸前まで出た馨。にぃ、と小さく笑みを浮かべ、電源ボタンを押した。


「――ほう、リズム……か」

 深海のように仄暗い部屋の中に、関心を持ったバリトンボイスが響く。
 長い腕を組んで話を聞いていた影山は、視線を遣ることでさらにその先を促した。

「全ての動作は一定のリズムで構成されています。そして必ず、ある一ヶ所に於いてその動作の威力や精度は最大になります。帝国学園のサッカー部員は皆が計算され尽くされた動きをしているので、これらを踏まえれば……」
「最高のタイミングを見つけ出し、プレーに反映させられる……ということかね」
「はい」

 真っ直ぐ、自信に満ちた色を宿して影山を見据える少女の瞳。加えて最後の返事まではっきりしていることから、影山は彼女がこの発言にしっかりと責任を持っていることを悟った。
 馨の言っていることは理屈だけならその通りであるし簡単なことだが、いざ“タイミング”を見つけ出すとなると話は別である。馨が有する鋭い観察眼を評価している影山でも、そう易々と上手くいくとは思っていなかった。下手に介入をすればチーム全体を乱してしまうかもしれない。一種の賭けでもあった。

「ふむ……」

 だが、正面から向けられるのはひたすらに強い意志。役に立ちたいという思いが、そのまま空間を突き抜けて直接訴えかけてくるようだった。
 一途に、愚直に、ひたむきなその眼差し――そう仕立て上げたのは他でも無い、自分自身であると。

「私は、口だけの人間は嫌いだぞ」
「お任せください」

 遠回しな許可の言葉が下され、馨は心底安堵したように笑みを零す。それと共に約束を重ねれば、影山もまた満足そうに口元を歪めた。
 二人が黙れば、この場に一切の音は無くなる。最初こそは緊張を生むものでしかなかった沈黙も、今となっては多少の緊張は否めずともすっかり慣れたものである。疲れを見せずに背筋良く影山からの次の言葉を待っている馨を前に、彼は肘掛けに置いた指をトンと鳴らした。

「どうだ江波、あのサッカー部は」

 問うたのは、何てことのない当たり障りのない事柄。業務的なやり取りの後だからか僅かに脱力した馨は、一拍置くと視線の先に影山の指を定めてそっと微笑した。

「はい。とても居心地が良くて、楽しいです」

 あんなことがあったのだから、全く疑心暗鬼にならなかったわけではない。また自身の力がチームを掻き乱し、誰かを悲しませるのではないかと不安を抱いたこともある。
 が、そんな考えは杞憂に終わった。
 調整をする中でチームの本質、勝利することへの誇りを感じたことで、影山の言っていたことの意味を深く理解することができた。女子部に収まりきらなかった自分を、男子部は余裕をもって受け入れてくれる。選手として試合に参加できないのは残念ではあるが、間接的にチームの勝利に貢献、延いては影山の期待に応えられている。完全なる勝者であり続けるこの部を見ていることが、楽しかった。
 馨の返答にも表情一つ変えない影山。トントンと拍子を刻んでいた指の動きを止めた。

「それなら良い。精鋭を集めたチームだ、あそこならば誰もオマエを邪険にはしない」
「……ありがとうございます、総帥」
「構わん。オマエが活きる場所を提供したまでだ」

 影山が、あたかも自然のような動きで腕を持ち上げると、やはり自然な動きで馨の身体が彼のもとへ向かう。総帥だから、先生だから、といった考えはどこか遠いところに落としてきてしまったらしい。磁石のS極がN極を引き寄せるように、皺が目立ち始めた手は馨の頭上に添えられた。

「ありがとう、ございます」

 微小ながら震える声で繰り返せば、影山の笑みがほんの少しだけ深まる。ニヒルとしか形容し難いそれは、やはりその真意を導き出す要素にはならない。
 そう解っていながら、馨は彼の全てを覆い隠してしまっている黒いガラスを、じっと正視し続けた。


* * * * *


 先日、木原とボールの取り合いをしてからというもの、馨には少々厄介な事が増えた。
 木原暁。
 彼と出会う度に、サッカー勝負を挑まれる羽目になってしまったのだ。

「江波! サッカーしろ!」
「嫌だって言ってるじゃないか」

 コーンを回収して歩く馨の後ろにぴったりとくっついた木原は、これまで何度も同じやり取りをしているというのに一向に諦める様子を見せない。部活後だけでなく、学校生活の至るところでサッカーやろうと迫ってくるのだ。さすがに担任に任された授業用具を運んでいる最中に現れたときは、馨も額に青筋を浮かべたものである。
 これで何回目だろう――最早不毛に近いことを考えながらコーンを倉庫に戻した馨は、背後でボールを抱えている木原を心底面倒そうな瞳で睨めつけた。

「前ので勝負はついたでしょ? 何でそんなに私にばっかり拘るの?」
「あんな負け方しておいて納得いくかっての!」
「はぁ?」

 倉庫の鍵を掛け、ポケットに入れる。どうせ明日も自分が一番にここを開けるのだ。職員室へ戻しに行くのは面倒だし、鍵管理は基本一任されている状況だから問題無いだろう、そのまま帰ることにした。
 目の前の人物など意にも介さず踵を返す馨を、尚も彼は追い続ける。

「次は絶対オレが勝つ、絶対」
「そこまで必死になる理由が解らないんだけど」
「好きだからに決まってるだろ、サッカーが!」

 好きだから。
 そう、強い口調でずばっと言い切った木原。馨は一瞬足を止めたが、何もリアクションはしない。ただ、胸中で一人「好き」と呟いて、再び足を動かした。

「オマエも、サッカー好きならもっと正々堂々と戦おうぜ!」

 背後から聞こえた声は少しばかり遠ざかっている。もう追っては来ていないようだ。歩む足は止めないし振り返りもせず、馨の足は淡々と地を踏み続けていた。

「……サッカー」

 彼にとって、木原にとって、サッカーとは何なのだろう。
 データとしての結果の残らない遊びの勝負に、何故あそこまで熱くなっているのだろう。負けて悔しいのは解るが、彼はそれだけではないように思えてならない。

「……」

 ――あの男のことはよく解らない。
 耳を澄ませど、もう自分以外の足音は聞こえない。廊下の暗い雰囲気と冷ややかな空気は己をどこまでも冷静にする。小さく首を振ってそれまでの思惟を散らし、馨は無意識のうちに下がっていた顎を真っ直ぐ持ち上げた。


* * * * *


“最高のタイミング”を見つけ出すために、馨はこれまで以上にチームの皆を事細かに観察するようになった。
 動作の一つ一つを食い入るように見つめては分析し、複数のパターンを弾き出してまた分析。そうして絞ったものをもとに選手らに実際に動いてもらった結果を踏まえ、さらに分析と試行を重ね、一旦の結論とする。最終的な決断は影山に任せているが、ここまでの馨の研究は全て滞りなく認められていた。影山としても、馨が短期間でこれ程成果を挙げるとは思っていなかったらしく、数日置きに新たなデータを持ってくる彼女を見ては満足げな様子を見せていた。
 勿論、そんな簡単にほいほいと結果を出しているわけではない。
 基本動作についてはそんなに難しくはなかったが、必殺技になるとまた少し難易度が上がる。何か一つ壁にぶつかれば、その都度馨は影山と向かい合って相談をした。そうすれば必ず答えが導き出せた。馨だけでは考えつかないようなところに、彼の柔軟な発想力や洞察力は的確なメスを入れ、答えへの道をつくり出すのだ。
 今日もまた、二人でデスクにメモを置いて話し合っていた。今取り組んでいるのは帝国サッカー部に於いて最も重要なシュート技である《デスゾーン》なため、殊更念入りに調整を行っていた。

「――もうこんな時間か」

 ふと傍らの時計を見た影山がぼそりと漏らす。
 そこで同じく時計を見た馨は、今が七時半過ぎであることに気付いて慌てて立ち上がった――それまでは影山の膝に座っていたのだ。今や長い会話をするときはここが定位置となっている。ここには影山の座っているもの以外の椅子が無いので、必然的にそうなっているとも言えるだろう。

「すみません、こんな遅くまで」
「構わない、部にとって大事なことだからな。……車を手配しよう」
「え?」
「こんな時間に女児を一人で歩かせられるわけがないだろう」

 今は夏で日も長いが、確かに七時半ともなればさすがに暗くなっている。当たり前だろうとでも言いたげに述べてから携帯を開く影山を見上げ、馨はやっと彼の言ったことの意味を理解すると、口から落っことすように「ありがとうございます」と言った。
 影山が携帯に向かって車の要請をしてからすぐに部屋を出て、二人並んで外に出る。そこには既に黒塗りの車が一台用意されていた。紺色の世界に溶けるように、しかしやけに存在感を感じさせてならないそれは、どこからどう見ても高級車という部類のもの。影山が金や権力をその手にしていることは承知していた馨も、目の前に現れた具体例には思わず気遅れせずにはいられなかった。
 運転手が後部座席のドアを開けてくれたので、影山に続いてそっと車に乗り込んだ馨。中は一見普通の車とそう変わりはしなかったが、座ってみれば値段の張る素材のシートであるとすぐに解った。座り心地が明らかに違う。つい顔を綻ばせてシートの感触を楽しんでいると、隣の影山がこちらをじっと見つめているのを感じ、はっとした馨は耳を赤くしながら佇まいを引き締めた。
 エンジンがかけられ車が発進してから、暫くは何の会話も無い無言の時間が続いた。ラジオもCDもかけていないので――影山がJ-POPなどを聴いていたらそれはそれで驚きであるが――響いているのは外の喧騒と若干のエンジン音のみ。別段話したいことがあるわけでもないし、場所があの暗い部屋ではないからか、それ程緊張もない。影山は腕を足を組んだままどこか一点を見ており、馨の意識もまた、外を流れていく鼠色の景色に向けられていた。
 どのくらい走った頃だろうか。
 不意に、静寂を破る声がした。

「江波は、海外サッカーには興味は無いのかね」
「え? ……海外ですか?」

 久々の会話に微かに身体を震わせつつ、応じる。

「そうですね、興味はあります、とても。海外の選手の動きは日本人のものとはまた一味も二味も違いますし、癖が強くて面白いです。日本では採用されないようなアクティブな戦術も多くて、勉強にもなりますし」
「そうか、私の知らないところで観てはいるようだな」
「はい。と言っても、テレビでだけですが」
「ならば、今年の夏休み……フットボールフロンティアが終わってから、私と共にどこかのリーグを観に行くというのはどうかね」

 会話の流れそのままにさらりと、明日の予定を告げるのと同じくらい自然な呼吸で、影山はそう言った。あまりにも普通に言われたため、理解の遅れた馨は目を瞬かせて彼の横顔を見つめることしかできなかった。

「……あ、え? わ、私が、ですか?」
「君以外に誰がいるというのだ」
「ほ、本当ですか?」
「嘘は嫌いだ」

 解っている。そして影山が同じことを二度繰り返すことだって嫌いなのを、馨はよく解っている。だからこそ、今出された提案は衝撃的だった。
 ――今年の夏、海外サッカー観戦、総帥と一緒。
 重要である部分を一つずつ丁寧に咀嚼し、飲み込む。そうすれば勝手に脳裏にはそのヴィジョンが映し出された。
 そこにいるのは、眩しい太陽の下、見知らぬ世界、凄まじい熱気の中で影山と並び、見知らぬ人々に囲まれてサッカーを観戦する自分……映像が鮮明になればなるだけ、鼓動が加速した。

「ですが、費用が……」
「自分の立場を忘れたか? 江波。お前は私直々の特待生としてここにいる。勉学や学校生活のみならず部活動に掛かる“学費”は全てこちらが負担すると言ったはずだ」

 つまり、この旅行――と言って良いのか馨は些か不安であったが――は、部活動の一種という名目で行うつもりらしい。
 きっと、他の部員にはこんなことをしていない。今更感じる特別扱いに、馨は自身の胸が震えるのをはっきりと自覚した。

「不満かね?」
「っいいえまさか、全然! 総帥さえよろしければ、是非ともご一緒させてください!」

 目を爛々と輝かせ、語気を強める馨。その遠足前の子どものような姿にふっと口を緩めた影山は、ではどこの国が良いかとさらに問い掛けた。
 それに対して、馨は一気に真剣な面持ちで自らの考えをぽろぽろ零す。垣間見せた幼さも、サッカーの話をするときはどこぞへと引っ込んでいた。

「うーん……近年のチームごとの成績や試合の様子を見て、サッカーを学ぶという観点から言えばスペインが妥当かと思うのですが……個人的には、若手新星の多いセリエが気になるところです」
「今のところプレミアリーグは参考にはならなさそうだな……ブンデスはどうだ?」
「チェックはしていましたが、今期はどのチームもメンバーに大きな変動が無いのが少しつまらないなと思いまして。でも、総帥がそれだと言うなら」
「いや、イタリアにしよう。君の言うことは確かだしな」

 ポンと小さな肩に置かれた手が、二人の行く先を容易く決定した。自分の意見が無理を通したのかと思いやや焦った馨だが、目線の先にある顔がいつになく優しいことを暗闇の中で感じ取り、余計なことは言わず素直に頷いた。
 どうしてまた、突然こんな提案を持ち出したのだろうか――馨の中で興奮と疑問が螺旋をつくる。各国リーグならば八月に拘る必要性もそんなにないし、限られはするが冬休みにだって観られるところもある。選択の余地と余裕を持つにしても、セリエAならば開幕は八月の終わりで新学期直前。慌ただしくなることは必至だ。
 ぐるぐると、この突飛な旅行の計画について思考を巡らせる。
 だが、結局彼の考えることは汲み取れず、ただサッカーを観に海外へ行くだけなのだ、という身も蓋も無い答えで落ち着いた。いろいろ考えはしたがそれで良いのだ、そこに特別な意味など必要無い。
 それに、影山に誘われ海外へ飛び立つという予定そのものが、馨を何よりどきどきさせていた。

「私、海外に行くのは初めてです」
「ならば、まずはパスポートの申請をせねばならないな」
「今度の休日に、叔父と共にしてきます」

 目前の信号が赤くなり、車体がゆっくりと停車する。隣に並んだ小さな車には、薄らだが子どもが乗っているのが見えた。そのせいだろうか、馨は気付けばこんなことを口にしていた。

「両親はどちらも忙しくて、海外は疎か旅行にすら行ったことがないんです。修学旅行とかは別ですが……誰かと一緒にどこかに出掛けるなんて、小さいときに叔父さんに連れられて動物園に行ったっきりです」

 人間は五歳より前のことは覚えていないというが、恐らくその頃から既に両親は忙しかった。幼稚園ではなく保育園に預けられ、迎えに来てくれるのはいつも叔父か叔母で、たまに両親が来てくれるときは決まって園内で一番最後だった。当然休日に遊びに行く機会も稀だったし、遠出なんでできやしなかった。一度だけ遊園地に行こうとした日があったが、結局当日の朝に仕事が入ってキャンセルとなった記憶がある。
 しかし、それを悲しいとは思わない。幼いながらに両親の大変さはきちんと理解していたし、駄々を捏ねたところでどうにもならないと悟っていたのだろう。諦めというより、それが当然だったのだ。そんな娘を、両親が「良くできた子だ」と褒めていると叔父から聞いたが、嬉しくも悲しくもなかった。求めないし、求められない。そういう家族であることを受け入れて、ずっとここまで生きてきた。
 馨が語る間、影山は相槌を挟むことなく黙って耳を傾けていた。姿勢は変わらないし視線も馨に向いてはいなかったが、それでも馨は語る口は止めない。せっかくだから、今ここで、胸に湧き出るこの思いを伝えたかった。

「だから、あの……勿論サッカーの勉強のためだっていうのは解ってるんですが……とっても、嬉しいんです」

 総帥に遠いところへ連れて行ってもらえることが――そう紡いだ唇は、明らかな喜びに満ちてはっきりとした弧を描く。そこでまた視線を馨へ定めた影山は、暗い中でも一見だけで解る程の笑顔を向けている彼女を捉え、僅かに眉を動かした。
 喋るのをやめても、その対象であった影山は何も言わない。何も反応しない。広がるのは沈黙ばかりで、ずっと笑みを湛えていた馨は、時間の経過と共に顔を下げていった。俯けば、心に後悔が生まれる。高ぶった感情をそのまま口に出してしまったが、もしかすると呆れられただろうか。飽くまで部活の一環なのに私情を挟む自分を卑しく思われただろうか――とにかく静寂を破るためにもまず謝ろうと、勢いをつけて顔を上げた。

「そ、」
「三日間だ」
「はぇ……?」

 つい、何とも間抜けた声が漏れた。羞恥に苛まれ、焦って両手で口を覆うも、影山は然して気にしていない様子だった。

「旅行は三日間を計画している。まさか、試合当日以外ずっとホテルに留まっているわけにもいくまい」
「えっと……」
「イタリアならば私も何度か行ったことがある。……実物のサン・ピエトロ大聖堂は、生きているうちに一度は見ておくべきだと思うがね」

 ――『ローマの休日』くらいは見たことがあるだろう。
 そんな一言で締めた影山は、サングラスを中指で押し上げると再びそこか別の場所へ目を移した。その表情は依然として、無。

「……総帥」

 だが、今度はしっかりと彼の意向を受け止めた馨は、今目の前にあるいつもと変わらないような無表情にすら計り知れない感動を覚えていた。『ローマの休日』は三度程見たことがあるしあれは名作の名に相応しい映画であったが、そういうことではない。
 口調は基本的に冷たく眼差しも冷厳で、滅多に表情を崩さないものだから何を思い何を考えているのか殆ど知り得ない。サッカーに関しては特に厳しく、勝利への強い思いは時々ぞっとする程である。瞳の奥にある昏いものも、その正体は掴めないままだ。
 それでも、馨は知っている。感じている。自分にだけではないのかもしれないが、少なくともかなり限定されたところに注がれる、その――優しさ。

「すごく、すごく楽しみにしてます、イタリア旅行」
「多少のイタリア語くらいは身につけておけ」
「はい!」

 例え影山という人間の本質が全く解らずとも、馨は彼が、自分が心の奥底で欲しているものを与えてくれる彼が、好きだった。




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