the sun lit up the way


 その晩、馨は夢を見た。
 香澄が、藍原が、地に臥しながら自分を見ている夢だった。
 その目は、恨みなのか憎しみなのか解らないくすんだ色をしていて、大きく肩を揺らし呼吸しながら、彼らは一瞬たりとも馨から視線を外しはしなかった。それは暗に「許さない」と言われているようで、怖くなった馨は目を閉じて二人の存在を打ち消そうとした。
 しかし、一度起こってしまったことはこの先一生消えたりしない。現実は無かったことにはできない。
 それを再三刻み込むように、身体中にぐさりぐさりと鋭く刺さるものを感じながら、声は出さずに小さく口を動かす――ごめんなさい。


* * * * *


「馨ちゃん、どこか身体の具合でも悪い?」

 軽い陶器を置くような音と共に頭上から声が掛けられ、そこで馨ははっと意識を引き戻した。
 見上げれば、出勤準備の整った叔父が心配そうにこちらを見つめているところで、その高低差によって現在自分は朝食のため食卓についていることを思い出した。陶器の正体は目の前に置かれたマグカップだ。中には美味しそうなココアがなみなみと満ちている。

「随分呆けた様子だけどさ」
「ううん、大丈夫」
「なら良いけど……勉強とサッカーの両立は大変だろうし、あまり無理はしないようにね。身体を壊したら元も子もないんだから」
「……うん、解ってるよ」

 飽くまで心配しているが故に放たれた気遣いの言葉は、皮肉にも馨の内面を抉ることとなる。それでも馨は不規則に高鳴る心臓に気付かぬ振りをし、叔父をこれ以上心配させぬようにと奥に引っ込んでいた笑顔を何とか引っ張り出した。

「いってらっしゃい、叔父さん」
「あぁ、行ってくるよ」

 姪の笑顔に安堵した叔父がドアの向こうに消えるまで手を振り続け、ガチャリとドアが閉まったのを確認すると一つ溜め息を零した。口角は勝手に下がってくる。自分は上手く笑えていたのか不安になった。
 ――サッカー。
 昨日から、否、それよりも前から内心で何度も同じ問答を繰り返してきた。
 けれどもはっきりとした答えは得られなくて、次は誰よりも頼りにしてきた影山にも問うてみた。それでもやはり求めていた答えは与えられず、事件は起き、遂にはそれまで心に落ち着いていたはずの“答えであったもの”まで掻き消えてしまった。

「……帝国のサッカー……私のサッカー……」

 消えて、そこに残っていたものはただ一つ、違和感。影山が自分に求めるものと自分の抱く感情に、確かな差違が生まれていた。応える声に迷いが生じる。何も考えぬままに命令を遂行していたときとは、自分の持つ何かが明らかに変わっている。
 ならば、その“何か”とは? ――問うても問うても、未だに誰も答えをくれない。自分でさえ見つけられないのに、外側にいる他人に見つけられるはずがないのかもしれない。
 ぐるぐると渦巻く速さを増していく激情の中心にあるもの。真っ暗の闇に閉ざされた、火傷しそうな程に熱を持ったもの。
 誰か、誰か。
 一筋で良いから、足元に、光を。
 答えまで至る道に、光を、誰か――。

「……!」

 瞬間フラッシュバックしたのは、楽しそうな横顔。
 あまりにも眩しいそれに頭がスパークし、目を見開く。

「……」

 目の前には卵焼きとレタスとスライスしたトマトの乗った美味しそうなトースト、そして先程叔父の淹れてくれたココアが湯気をたてている。いつもならばきちんと、時間に余裕を持ってお腹に収めていく朝食。時計を見ればまだ家を出るには充分に余裕があった。
 しかし、馨は朝食に一切手をつけることなく音を立てて立ち上がった。そのまま用意していた制服を纏って鞄を持ち、追われるように家を飛び出す。急くことはないと解っているのに駆ける足は止まらない。脳裏を掠めたあの横顔、あの人物が、馨の身体をどこまでも引き寄せるようだ。朝焼けに照らされた見慣れた景色の中を普段以上の速さで駆け抜けて、一心にその場所を目指した。
 そうやって無我夢中で走り続け、やがて辿り着いたのはいつも練習をしている帝国学園のサッカーグラウンド。
 ハァ、とあがった息を整えながら階段を上った先には、馨の求めていた姿があった。

「……木原」

 無意識に名前が零れ落ちる。
 視線の先で、彼は一人リフティングをしていた。いつからいるのだろうか、身体はよく温まっているようである。
 リズミカルに、そしてやはり無駄のない動きでボールを操っていた木原は、ふとボールを高く蹴り上げるとそのままの流れでゴールめがけてボレーシュートを放った。直後にネットを揺らす音がして、馨は思わず息を呑む。蹴り上げ、ボールに追いつき、インパクトを決めるまでの一連の動作の美しさ。練習中に何度も見てきたはずなのに、今はやけにそれらが輝いているように見えて仕方がなかった。
 シュートを決めて地面に着地した木原は、満足そうに笑みを浮かべて額に滲む汗を拭う。散った汗がきらりと光る。照明などついていないのに、どうしてか彼の周囲だけ明るかった。以前にも似たような感覚を覚えたことを思い出す。あれから一緒にいる時間は増えたのに、やけに久々の感覚だ。理由はきっと、木原の周りの空気の違いなのだろう。
 一軍にあがってから、木原は本人自身も「つまらない」と言った通り、なかなかその気持ちを入れることができないでいたようだった。それが今は、前につい目を奪われてしまったときと同じ、心を惹き寄せるような笑顔と眩いばかりのオーラを纏っている。見ていると胸が強く鼓動を打って、何とも言い難い不思議な気持ちにさせてくれるのだ。
 オマエにとってサッカーとは何なのか、サッカーの何が楽しいのか、と投げ掛けてきた木原。そんな彼が見せる、心から楽しそうな笑顔。
 そうだ――馨は拳に力を込める。
 木原なら、自分に足りないものを持っているあのプレーヤーならば……。

「馨?」

 一息吐いたところで馨の存在に気付いた木原が、ボールを片手に歩み寄る。まだ着替えてすらいない彼女にやや怪訝そうだが、にこやかな笑顔と共に朝の挨拶を口にする。

「おはよう、今日はやけに早いな」
「……木原、私……」

 だが、馨が普通ではない真剣な表情で目を細めると、木原も笑みを引っ込めて口元を引き締める。部活以外ではあまり積極的に話し掛けてはこない馨のどこか必死な声音に、ゆっくりと急かさぬように先を促した。

「どうした?」
「……どうして、私はここにいて、サッカーをしているんだろう」

 ほろりと、崩れた先から零れ出てきたその言葉。
 小さくてか細いそれに、木原の目が僅かに揺れた。

「私のサッカーって何なんだろう」
「馨……」
「今までずっと、総帥の意のままにプレーして、そうして勝利を得て総帥に満足してもらって……それが私のサッカーだと思ってた。それで充分だった。でも違った……いや、今でも総帥のお役に立ちたいとは思ってるし、認められていたいとも思ってる。けど、自分がプレーするサッカー、自分の足でボールを蹴るってことの意味が……解らない」

 影山の期待に応えることが自分の望みでもあった。
 しかしそれは果たして、自分のサッカーだと言い切ることができるのだろうか? あのとき得た勝利に抱いた苦痛な思いは、自分のサッカーをやって得るものなんかではないはずなのに。

「昨日、木原の言う“サッカー”ってやつが、少し解った気がしてた。それでもやっぱり、木原と私は違う。君は私の持ってないものを持ってる。そしてそれはサッカーをやるうえできっと必要なもので……私は、それが何なのかも解らない」

 馨は、自分で言っていて情けなくなってきた。
 結局、自分がこれまでやってきたことはサッカーなんかではなく、“影山に勝利を提供するための手段”でしかなかったのだ。或いは、とっくに気が付いていながらわざと無視をしてきたのかもしれない。気付いていたとしても、だからどうしたと、恐らく以前の自分ならばっさりと切り捨ててしまっていただろう。
 少しずつ与えられた変化が着実に己を革新させてきたからこそ、この瞬間にこうして彼と向き合っていられる。嬉しいことなのか悲しいことなのか、判断はできない。
 言葉尻が消散しかけた台詞の後、苦しそうに顔を歪めて俯く馨。そこまで堅い顔つきのまま黙って聞いているだけだった木原は、ややあってからふっと表情を緩めた。

「この間の質問の答え、出た?」

 質問、と言われて馨は顔をあげる。
 わざわざ思い出さずとも、頭に染み着いて離れない。自分をここまで悩ませる、ある種の元凶とも言えるあの質問。
 馨の首が、力無く左右に振られた。

「……ううん」
「じゃあ、今から見つけようぜ、一緒に」
「え?」

 ――一緒に?
 思いがけない言葉が耳に入り、疑問の声をあげてしまう。けれども木原は気にせずににっと優しく軽快な笑みを見せ、持っていたボールを落として器用に自身の爪先に乗せた。状況が呑めない馨の前で、足首を使って軽くそれを弄ぶ。
 ただ、その間に紡ぐ声は驚く程真っ直ぐだった。

「馨が、掴み取った勝利を総帥に還元しているってのは解るよ。オマエと総帥の間に特別な何かがあるってのも、ちゃんと解ってる」

 トン、と小さく跳ねさせてから、足裏でしっかりと地に押し止める。

「けど、馨のサッカーは馨自身のものだよ。それは他の誰でもない、オマエだけがその真理を見極められるんだ」

 木原の口調には何の澱みも濁りもない。それ自体が確証となった一つの真実として、馨の心に深く突き刺さり――共鳴する。

「……私、だけが」
「さぁ、やろうぜ、サッカー」

 ルールは前と同じだと言う木原は早速ボールを自分に寄せ、馨と距離をとるためにフィールドの中央へと駆け出した。馨の脚は思考の前に反射的に彼を追いかける。突然始まったミニゲームに、しかし反論する気は全く起きない。意識は木原の持つボールへ向かっていた。
 馨はまず、あることを確かめたくて以前と全く同じ方法でボールを奪いにいくことにした。足元に集中させておき、警戒している木原の頭の高さへ一瞬で片足を振り上げて蹴りを入れる。予想通り彼は屈んでそれを避け、そこに生まれた隙を狙って空を切った馨の足がボールへ向かう。前はこれで勝負が決まり、木原は理不尽さに腹を立てていた。

「甘いな!」
「っ!」

 が、今回は違った。
 馨の次の手を読んでいた木原は、やや前屈状態というアンバランスな体勢にも拘わらず右足でボールを器用に動かし、掠め取られるのを阻止したのだ。

「二回目が通用するなんて思われちゃあ、オレも悲しいもんだね」
「……やっぱりか」

 空振りに終わった足を戻し、口端を微かに吊り上げる。馨とて二度目も同じ展開になるとは思ってはいなかった。木原があれから大きく成長しているなんて、彼を一軍に入れると決めたときから既に解っていたことだ。
 それからは、どちらも譲らない一進一退の攻防が長く続いた。
 馨は何度も不意を衝いてボールを狙いにいくが、ぎりぎりのところで何とか対応する木原には思うように通じない。彼の反射力、瞬発力、柔軟さ、そしてとっさの判断力の素晴らしさを、プレーの最中だというのに馨はひしひしとその身で感じ取っていた。と同時に、いつの間にか胸の内が熱くなっているのに気付いた。
 もうずっと、自分と真っ向から勝負できるような選手と出会ってはいなかった。もうずっと、こんなに懸命にボールを追いかけようとすることはなかった。
 次の手、さらにその次の手を考え、相手の動きを読み、こちらも動く。時にはわざと誘導して隙をつくらせ、そこを見逃さずに狙う。そうやって何回向かっても上手く取れなくて、でも負ける気はせず、だから諦めたりしない。
 ボールに対してこんなに真剣になれるのは、本当に久々だった。

「っやるな、馨!」
「そっちこそ……!」

 木原も逃げるのに必死な様子で、だけれど表情はどんな局面でも楽しそうだった。馨の繰り出す戦略を読んでかわすことに専念しながら、彼はどこまでもこのサッカーを楽しんでいる。それは正面に立っている馨にもしっかりと伝わっていた。彼の放つ輝きが、馨の足元を確かに照らしてくれていた。
 馨は必死にボールを追いながら、胸の熱さと高鳴りの渦中で自身の意識が少しずつ動いていくのを感じていた。
 記憶の逆流。
 ホワイトアウトした脳内に遠くの、またそう遠くもない過去の自分が蘇る。

 ――きっかけは、少なくともそのときの自分にとっては、本当に些細なことだった。
 転校してきたばかりで放課後に遊ぶような友達がいなくて、毎日河川敷で男の子たちの繰り広げるサッカーを見ながら夕日が沈むのを見送っていた。
 そんな自分に初めてサッカーボールを手渡してくれたのが吉良のおじさんで、彼の言うようにボールを蹴ってみればこれが存外簡単で、面白くて。
 翌日にはヒロ兄とみこ姉がやって来て、一緒にサッカーをしてくれると言ってくれた。嬉しかった。独りぼっちだった自分と時間を共有してくれる人の存在が、幼心ながらにとても嬉しかった。
 そこでサッカーの楽しさを知ったのだ。
 二人と共にサッカーをする時間が大好きで、楽しくて、ただボールを蹴っているだけなのにどうしてこんなに楽しいのだろうかとすら思えて。ヒロ兄は上手くてなかなか勝負には勝てなかったけれど、いつも必ず、少しずつ追いついていけてるのではないかと思える瞬間があったから、負けることは苦ではなかった。
 やがて二人が来なくなっても、一人でボールを蹴り続けた。そうやっていられるときが一番幸せだったのだ。例え勝負に負けたって、相手がいなくたって、ボールと両足さえあれば自分はサッカーをしていられる。ただ転がるボールを追いかけ、掬い上げ、自分の意のままに操ることが楽しかったのだ。
 初めて影山が来たときも、彼のテクニックの前では手も足も出なかったがそれで満足だった。夕日に照らされた影山を見上げ、純粋に思えたのだ。世界にはこんなに上手な人がいて、そんな人とサッカーができるなんて、本当に幸せなことなんだと。
 最初は、サッカー自体に興味があったわけではなかったのだ。
 けれど、偶然河川敷で見ていたのがサッカーで、サッカーのできる吉良のおじさんに声を掛けられて、そこから全てが始まった。
 蹴ってみれば面白くて楽しくて、何も考えずボールを蹴っていられればそれで良くて、いつしかサッカーが自分の人生で掛け替えの無いものにまでなっていた。思い返せば一瞬のでき事のように思えるが、あの頃毎日毎日蹴り続けたボールの感触は、今だって忘れることはない。
 自分がどんな気持ちで、どんな表情で、どんなことを考えながらボールに触れていたのかも、忘れられるはずがなかった。
 ――忘れては、いけなかったのだ。

「――見えたッ!」

 何度も重ねたフェイントのほんの一瞬、最後までついて来れなかった木原の見せた針の穴程の隙を見つけ、馨は身を捩って左足を払う。木原がハッと一際大きく息を吸うのと、馨の足元にボールが引き寄せられるのとは、殆ど同時だった。

「はっ……はっ……とれた……」
「あーっくそ、マジでフェイントキツすぎだろー……!」

「負けた!」と大声を出して芝に尻餅をつく木原。肩で息をする彼の真向かいで、ボールの感触を足に残したまま、馨は無言で呼吸を繰り返す。木原に勝ったことよりも、もっと他のことが感覚となって身体中を満たし尽くしていた。
 今し方、激しい奪い合いの中で自分は大切なものを見つけ出した――いや、取り戻した。
 それは、最初は自分だってしっかりと持っていたものだったのに、気付けば流れゆく時の中に置き去りにしてしまっていたものだ。己を取り巻く環境の変化がそうさせたのか、とにかく、それは絶対に手放してはならないものだった。こうして再び抱き込んで初めて、その大切さが身に沁みた。
 そして思う――自分はなんて、愚かだったのだろう。
 遠くを見つめている馨の瞳には、これまで見られなかった明るい光が宿っている。座り込んだまま彼女を見上げる木原は、柔らかく微笑んでそっと口を開いた。

「……で、答え、見つかったか?」
「……うん」

 頷く馨の顔には、もう何の迷いも戸惑いも無い。
 ――サッカーの本質、根幹を見失っていた。
 今この瞬間に取り戻したのは、誰かのためではない、自分のためのサッカー。木原にあって自分に足りなかったものはこれだったのだ。本当にありふれた、こんなにも簡単なことだったのに、今までずっと見失っていた。影山の期待に応えること、あの両目で見ていてもらうことに必死になりすぎていて、サッカーをするに於いて最も大事なことを忘れていたのだ。
 それを確かに思い出せた今なら、胸を張って言える。
 熾烈な駆け引きや戦術、洗練されたプレーの応酬、相手と向き合い自分の持てる全力でぶつかる本気の一瞬、思うように動けたときの高揚感、ボールを蹴るその感覚……例え勝てなくたって構わない。心身で感じるその全てをひっくるめて、自分はサッカーが、大好きなのだと。

「……こんなに、近くにあったのにね」

 そして大切なそれを思い出させ、取り戻させてくれたのは。

「ありがとう、木原」

 ――私のサッカー、思い出したよ。
 花の咲くような淡い笑みと共に木原を振り向けば、彼は一瞬肩を震わせ、次いでへにゃりと気の抜けた面を見せて「どういたしまして」と返した。


 それから三回程、攻守を入れ替えて同じゲームを行った。
 結果は馨が二勝、木原が一勝。ほぼ互角と言っても間違いない。つい一年前までは特別待遇のレギュラー選手と二軍選手との格差があった二人だが、木原は馨の知らないところで一気に力をつけていたのだろう。彼は努力の人なのだと、馨は再三感心した。
 やがて朝練の時間となり、ユニフォーム姿の部員が続々とグラウンドに集まってきた。馨も頭を切り替え、ジャージに着替えて必要なものをベンチに運んでから、その頃には既にストレッチを終わらせていたメンバーの観察を始める。その表情は少し息苦しいものだった。
 今のチームは、全体が暗く沈んでいるようである。重たい鎖を引きずっているような、或いは頭から泥水を被ったような、何とも言えない空気を漂わせていた。
 それも仕方のない話だ。あんな試合を見て、それどころか当事者として関わってしまったのだから。香澄と藍原の状況についても早々に耳にしているであろう皆の顔は、尽くその色を悪くしていた。普段は機械的と思える程にすらあったはずの試合への気迫ややる気も、今は全く感じられない。
 勿論馨とて、あの二人のことを忘れたわけではない。それどころか馨は当人らに次いで事に深く関わっていた。あのことを考えればあっという間に罪悪感が胸を支配するし、この先ずっと忘れるべきではないと思っている。
 しかし、こんな状態のままではとてもじゃないが試合なんてできやしない。もうすぐフットボールフロンティアの予選が始まる、ここで立ち止まったままではいけないのだ。どうにかして、彼らに前を見て、足を踏み出してもらわねば――考えあぐねていると、不意に一部の空気が変わったような気がした。

「先輩たちのことは、深く受け止めるべきだと思います」

 凛とした声でそう発言したのは、木原だった。

「けど、受け止めて抱え込むだけでそこから先へ進めないのは、何か違うんじゃないでしょうか。先輩たちがどんな思いであの技を使って、ああなってしまったのか……オレたちはそれを踏まえて、もう一度歩き出さなきゃいけないんじゃないですか?」

 広いグラウンドの隅から隅まで、彼の言葉は満遍なく行き届いて空間を埋めていくようであった。どこも欠けてはいない力強い疑問、それは聞いている皆に迷いではなく一つの答えを導かせる。馨は、目の前で一人、また一人と、メンバーの表情に光が灯されていくように思えた。

「やりましょうよ、サッカー。オレたちのサッカー。例えオレの言ってることが意味不明で理解不能で正直腹立たしくても、とりあえずボール蹴りましょうよ」

 オレたち、サッカー部なんですから。
 木原の話はそんな一言と、太陽みたく溌剌とした笑顔によって締め括られた。この空気の中では不釣り合いなくらいの明るいそれに、馨はつられるようにして影で微笑をつくる。
 ――彼らしいな。
 木原はどこまでも明るい。明るすぎて、他の場所にある暗闇さえ照らしてしまう。真っ直ぐで、正直で、放つ全てに心地好い温もりが備わっていて、まるで太陽みたいで。
 そんな人だから、自分も彼の傍に行こうと思えたのだ。

「……ふっ」

 そこまでただ呆然と聞いているだけだったメンバーの中から突如、誰かの柔らかな笑い声がした。明らかに否定や拒絶の類ではない反応に、次いで呼応するようにそれぞれが口を開く。

「確かにオレら、サッカー部だ」
「一年に説教されるなんて、先輩として情けねーよ」
「香澄さんたちのことを考えたら複雑だったけど、そうだよな……」
「立ち止まってたって、何にも変わらないんだよな」

 好き好きに喋っているようで、その思いはある一点に集中している。それを表すかの如く、数多の視線が同じところを注視していた。
 背筋を伸ばし、後輩だからといって気後れせずに堂々と言い放ってくれた一年の、優しくも堅いその眼差し。自分に向けられる全ての思いを受け取った彼の瞳は、最後に斜め後ろに立っていた馨へと定められる。それに対して馨が、言葉無き心情を伝えるために一つしっかりと頷けば。

「……やりましょっか、サッカー!」

 脇にあったボールを前方へ放り投げながらフィールドへ飛び出していく木原に続き、他の部員たちもわっと勢い良く駆け出し、転がるボールを追いかけていった。
 チーム分けもポジショニングの確認も、ゲームを行うにあたって必要なことを何一つしていないというのに、一つのボールと複数の選手がいるだけで気付けば試合は始まっている。敵も味方も決まっていない、パスをされたその瞬間に決定されるという滅茶苦茶な試合模様に、馨はまるで幼稚園児だと呆れながらも楽しげに白い歯を見せた。
 木原の一言、そして予定も計画も何にもない無鉄砲な行動が、今やこうして皆の笑顔とサッカーへの前向きな心を引き出している。
 ここまでずっと、マニュアル通りの型にはまった練習しかしてこなかった帝国サッカー部が、まさかこんな部活の時間を迎えることになるなんて思いもしなかった。予め用意されているフォーメーションや作戦を無視し、けれども確かな技術とセンスで遊びの枠に収まらない高度なサッカーを展開しているメンバーたち。彼らがあんなに愉快そうに、そして清々しくボールを蹴っている姿を、馨は初めて目にすることができている。
 今この瞬間に胸に湧いているのは、感動、というものなのだろう。身体中がぽかぽかと温かくなっていく、やさしいばかりの心地がしていた。
 ――そんな彼女のもとへ、突然高速のボールが飛んできた。

「えっ!?」

 思わずストッピングして両手に持ち、目を真ん丸にする。誰かのパスミスかと思って飛んできた方向を見遣れば、木原が腰と口元に手を当ててこちらへと叫んでいた。

「馨ー! オマエも参加しろー!」
「は?」

 どうやら意図的なパスだったらしい。
 とっさに、私マネージャーだし、とボールと共に応えを返そうとした――が。

「そうだそうだ、マネージャーもやれば良いじゃん!」
「つーか江波さんって相当強いんだろ? オレらヤバくね?」
「あ、オレ実は一回でも良いから一緒にやってみたかったんだよな」
「マネージャー、早くー!」
「遅延行為でイエロー出すぞー」

 すっかりテンションの上がっている面子から一斉に声があがり、押し戻されて返事をするタイミングを失ってしまう馨。暫くぽかんとしたままフィールドの全員の注目を浴びた後、自然と視線を動かした先には、勝手に決定し早く早くと急かす男の笑顔。あまりにも爽やかで悪意の欠片も見出せないそれを直に受け、ふっと顔を伏せて。

「……まったく」

 ほとほと呆れたと言わんばかりにそっと呟いてから、勢いよく顔をあげて地を蹴った。

「私を入れたこと、後悔させてやるよ!」

 ――痛いくらいせり上がってきた目頭の熱は、きっと気のせいだ。

「うわっ、怖っ」
「阿修羅だ阿修羅」
「オレ、マネージャーと同じチームが良いなー」
「木原、責任とってお前マネジの敵な」
「おー、望むところっすよ! いくぞ馨!」
「受けて立つぞ木原! よーし岩崎先輩、サイドから一気にあげますよ!」
「任せろ! 新田、勝負だ!」


 そうして朝練をほぼ遊びの時間で潰してしまったことを影山に咎められるかと思いきや、フットボールフロンティア副会長である彼は現在大会の事務で忙しいので、部活については全面的に馨に任せる方針をとるらしい。ただし敗北は有り得ない、無様な試合は許さない、必ず勝利しろ、の三拍子を言いつけられたうえで、馨は影山の部屋をあとにした。
 大会はその翌日から始まった。昨年も参加しているので、大会中の校内の空気などは馨もきっちり把握できている。どうせ今年も優勝だろ、という声が何より大きいのは相変わらずだ。良くも悪くも、三十三年間無敗という歴史は生徒たちの中に深く刻み込まれていた。

「マネージャー!」

 だが、何の変化もない周囲とは対照的に、今回の帝国サッカー部は例年とは少し違っている。フットボールフロンティアで優勝することを“当然の義務”として取り組んでいたこれまでとは違い、今は全員がサッカーをすること自体に意欲的な姿勢を見せていた。
 その最も解りやすい変化として、彼らは総帥からの指令ではなく、独自で必殺技を編み出そうとしていた。

「今の、どうだった?」
「前よりも息は合ってきています。けど、やっぱり決め手のタイミングを合わせるのが難しいですね」

 乱れた呼吸をそのままに、馨の持つビデオを覗き込んでくる部員。彼は、二人技であるその新たな必殺技を発動させるうちの一人だ。繰り返しリプレイしながら難しい顔をしている馨を横目に捉え、小さく溜め息を吐く。

「そうか……なかなか難しいな」
「焦らずに、時間が掛かっても良いのでしっかりと仕上げていきましょうよ」
「あぁ、そうだな、よろしく頼むぜ」

 この技が少し特殊な動きを用いているからということを抜きにしても、新しいものを零から作り上げることは予想以上に大変である。一から百は容易くとも零から一は難しい、とはよく言ったものだ。前回は間違いだったものの、いつも強力な必殺技を独自で考案している影山は一体どんな思考回路をしているのだろう――馨の肩をポンポンと叩いて練習へ戻っていく彼の背中を見送りながら、馨は改めて影山のすごさを実感するのだった。
 その後、引き続き必殺技の特訓をしていた部員が、同じことの繰り返しで気が抜けたからなのか着地に失敗して足を挫いてしまった。大したことはない様子だが、心配だからと手当てをし、暫く安静にと言い聞かせベンチに座らせた馨。コールドスプレーが無くなったことに気付き、部室へと予備を取りに戻ったのは、それから数分後のことだった。

「えーっと、スプレーは……わっ!」
「おわっ!」

 誰もいないだろうと思って独り言と共にドアを開ければ、予想外にそこにはベンチに腰掛ける木原がいた。あちらも突然やってきた馨に相当驚いたようで、悲鳴をあげて背中越しに振り返ったまま固まってしまっている。

「き、木原か……ビックリした」
「そりゃこっちの台詞だって」

 気を取り直して本来の目的を果たすために棚を物色し始めた馨と、持っていたペットボトルの蓋を閉める木原。何やら小さな物を片手に握り締めているように見えたが、馨の興味が向かう前に彼はそれを鞄の中に突っ込んだ。

「で、ここで何してるの?」

 ダンボール箱の中からスプレーを取り出した馨が振り向くと、木原は手にしていたペットボトルを軽くお手玉して見せた。

「いや、なんか水飲みたくなって」
「水なら言えば持って行ったのに」

 木原からの答えには、馨の気には留まらない程度のほんの僅かな間があった。

「そんなことで、いちいち馨の手を煩わせるわけにもいかないだろ」
「マネージャーなんだから、もっと扱き使ってくれて良いんだけど」

 マネージャーとは、選手がいつでも最高のコンディションで練習、そして試合に臨めるようにすることが仕事なのだ。どんな内容であれ、選手のためならば喜んで働きたいというのが馨の思いだった。
 それに対し、木原は困ったように笑いながら「オレの中で馨はマネージャーってよりチームメイトだから」と返した。つまり、自分は木原に同じフィールドで戦う選手として見られているのだろうと馨は解釈し、少し嬉しくなった。帝国サッカー部と関わっていられるならどんな役柄でも良いと思っていたが、やはり一人のプレーヤーとして見てもらえているのは純粋に喜ばしい。例え実際には共に戦えなくても、そう思ってもらえているだけで充分だった。
 嬉しそうに顔を綻ばせて「ありがとう」と言い、馨は木原の隣のスペースへ腰掛けた。ギシッと、ベンチが二人分の重みを受けて軋む。

「木原が」

 何気なく口をついて出た言葉は、昨日からずっと言いたかった言葉でもあった。

「あのとき皆の前に立ってから、チーム全体が以前と変わったよ。勿論、良い意味で」
「だって、そのために勇気振り絞ったんだぜ」

「めちゃくちゃ緊張したんだからな」と冗談めいた物言いをする彼は、台詞とは裏腹に穏やかな面持ちをしている。

「オレはただ、自分のやりたいサッカーを求めてるだけなんだけどな。こういうとちょっと傲慢だけど」
「木原のサッカー、ねぇ。良いんじゃないかな、それが帝国サッカー部に上手く溶け込んだからこそ皆変わってくれたんだろうし。私も、今の空気の方が断然好きだよ」
「サンキュ。……なんか、スッゲー嬉しいんだよなぁ」

 本当に、心から歓喜するように目を輝かせている木原。あのときに見せた穀然とした強い眼光も、今はただただ嬉しさを噛み締める齢十四の少年そのもの。じんわりと目元に彩りを灯す様を見ていると、馨は何とも言えない幸せな気持ちになるようだった。彼の言動の端々からは、いつだって爆発しそうなくらいの熱い思いが伝わってくる。

「君さ、本当にサッカーが好きなんだね」

 全ての単語を大切に包むようにして優しく零せば、木原の細まっていた目がいよいよ完全な弧を描いた。

「あぁ――オレ、サッカーができるならあとは何も望まないよ」

 ――そう言って愛おしむようにボールを抱き締めた彼の表情を、馨はこの先一生忘れることはないだろう。




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