secret desire


 大会の予選が始まっても尚、影山から作戦などの具体的な指示が下されることは無かった。どうやら彼は言葉通り、本当にチームを丸ごと馨に任せるつもりらしい。
 そうなれば、以前までの馨ならば徹底した戦略を練って完璧な勝利を演出し、影山の最も望むかたちでの優勝を手にしようとしていたはずである。そのためなら、相手でも味方でも、多少の犠牲は仕方がないと割り切った試合展開を描こうとしただろう。
 ――しかし、今は違う。
 勝つことを一番にするのは当然であるが、同じくらい“チーム”そして“選手”を重視していきたいのだ。もう無理なラフプレーで相手を潰し、安全な道を確保するような作戦を立てたりはしない。サッカーというスポーツを楽しむことを思い出したチームのため、その個性を強く引き出せる、心躍るようなゲーム展開をさせたかった。

「――Romeo is the son of Montague, an important citizen of Verona.」

 教師が流暢な英語を読み上げる中、授業用ノートの下に隠しているもう一冊のノートを少し引き出した。
 そこには、今後どの学校と当たっても大丈夫なようにと、全ての対他校チームを想定した作戦やフォーメーションなどが事細かに書き込んである。いろいろと研究した結果を踏まえてのものなので、何かがあればその都度変更することにはなるだろう。
 ただ、どれもこれさえあれば完全に試合を掌握できるという程でもなくて、最終的には選手らの動きや対応力なんかに頼る部分が大きい。きっとこれを影山に見せれば、彼は溜め息と共に「情けない」と口にするだろう。その表情までもが容易に想像できた。
 彼のつくる作戦の場合、選手はただの駒だ。駒は意志を持たず、ただ指示された通りに動くだけで勝敗を決められるものであるからして、よって影山は自らの作戦のみで勝利を手にしようとする。選手には、己の思考通りの働きができる程度の能力しか求めてはいないのだ。
 それに気付いたとき、馨は単純な寂しさを覚えた。
 影山のつくり出すゲームは正確無比で勝利に最も近いと言えるのは間違いないのだが、指揮者である彼自身の思いが、勝利への欲求以外全く見えない。昨年まで彼の一番近くで動いていたというのに、一切何も感じられなかったのだ。
 いつだってあの暗いサングラスの奥に全てを隠し、まるで一瞬で計算式を弾き出すコンピュータのようにしてサッカーと向き合っている。いや、それ以前に向き合ってもいないのかもしれない。影山は常に、こちらへ背を向けているような人だった。

「He happens to meet and instantly fall in love with Juliet, the daughter of Montague's great enemy, Cpulet.」

 教師の声は淡々としている。そこに感情なんてものは存在せず、ただ生徒に教えるのだという教員らしい使命、或いは義務感のみが、彼に英語を喋ることを続けさせている。それは影山が話すときとよく似ていた。だとするとあの人もまた、何かの使命感や義務感を背負ってこの学園の頂点に立ち、四十年間無敗のサッカー部を率いているのだろうか。そもそもどうして、サッカーを始めようと思ったのだろうか。前に訊いたときも、確か答えは得られなかった。
 ――自分は、影山という人物のことを何も知らない。
 知りたい、と思わないわけではないのだ。
 だが、彼は決して自身のテリトリーへこの身を立ち入らせてはくれない。生徒と学園長、子どもと大人という関係上仕方のないことだとしても、未だそれを完全に割り切れずにいる。近付けば近付く程、馨の手は彼の内側へと伸びていた。
 勝利への執着の理由、あの闇を潜めた瞳の正体、そしてただのサッカー少女である江波馨という人間をあそこまで求めてくれる真意――知ったところで、何があるということでも無いのだけれど。
 ただ、影山が、少しずつ歩む道を外れてきた自分に対して未だ愛想を尽かしていないのならそれで良いのだと、そう思う自分が確かにここに居る。

「The couple secretly get married but,――じゃあ、ここからは誰かに読んでもらうぞ」

 読むのが面倒になったのかそう発した教師に、教室の空気が僅かに動く。目の前の男子は教科書の影で読んでいたらしい小説を机の中に押し込んでいた。馨も今まさにサッカー用ノートに線を書き込もうとしていた手を止めて、目立たないようにそっと教科書を引き寄せた。


 学期始めの委員会選択を誤った、と馨は今更ながらに後悔していた。
 何かと入り用な教科担当や美化委員辺りにならなければ良いだろうと思い、面倒なジャンケンを避けるためにそのとき空いていた保健委員を選んだのだが、この適当さがまさしく仇となった。昨年はやらなかったくせに今年になっていきなりアンケートをとろうと言い出した担当教師に、笑顔のまま内心で不満をぶち撒けてきたのはつい先程の話である。
 アンケート制作のために若干遅れて部活に行く羽目になった馨。先に着替えてからグラウンドへ出ようと思い更衣室へ足を向けたが、直後に盛大な咳が聴こえ、ぐるりと首を捻る。

「……誰か噎せてる?」

 ゲホゴホという咳はグラウンドの方から響いてきている。選手の誰かだろうか。馨は予定を変更し、制服のままで階段を一段飛ばしに駆け上った。

「おーい、咳き込んでるの誰?」
「ゴホッ……馨か、ケホッ」
「え、木原だったんだ。……ちょっと、大丈夫?」

 芝生に寝転んだ体勢で口に手を当てていた木原は、水が膜を張った瞳を傍に立つ馨へと向け、首をこくりと上下に動かした。

「だいじょぶだ……ちょっとはしゃぎすぎたかな」
「騒いでゴメンな馨。ミニゲームで張り切りすぎたんだよ、コイツ」
「別に謝ることじゃないんだけど……廊下まで響いてたから、少し心配しただけ」

 隣にやってきて木原の背を支え起こしたのは、馨と同じ二年生の新田(にった)。チーム内でも特別木原と仲が良いようなので、恐らくこの二人でゲームをして白熱した結果がこれなのだろうと馨は結論づけた。
 ――今、ごく自然に下の名前で呼ばれたが、それで馨が驚いたり反応に戸惑ったりすることはない。そんな反応は三日前で終わっている。
 木原がいつの間にか「馨」と呼んでいたように、気付けば他のチームメイトもそう呼ぶようになっていたのだ。十中八九木原の影響だろうとは推測されるが、別段困ることはないので馨も拒絶したりはしない。寧ろ、部内の雰囲気がいっそう柔らかくなったように感じられたし、何より真に仲間として受け入れられていると実感できることを嬉しく思ったくらいだ。
 新田に手を引かれ立ち上がった木原は、目尻に溜まった涙を拭うと馨に向かって苦笑いしながら「心配かけてゴメン」と言った。馨が気にしていないと返せば、踵を返して階段へと向かっていった。手にタオルを持っているので、顔を洗いに行くつもりなのだろう。
 そして、自分もいい加減着替えに行くかと馨が足を動かそうとした瞬間、不意に彼は振り返って。

「つーかさ、今時スカートの下に短パン履くってどうなんだよ」

 女子として――そんな言葉で締めてから、悪戯に口端を持ち上げた。

「……き、木原!」
「お、おい、馨、落ち着けって、な?」

 その意味を理解し、明らかに憤怒の表情を浮かべた馨を新田が何とか宥めようとするが、全く以て効果は無い。

「アイツ……人がせっかく心配してたってのに信じられない! 待てやコラ、《ジャッジスルー》お見舞いしたろかァアン!?」
「ちょ、オマエ女の子だろ! 言葉遣いに気を付けなさい!」


 その後は何だかんだで馨の怒りも鎮まり――木原の額が赤いのもその一環だ。まさか額だとは思わなかった、と彼は後に語っている――いつものように平穏な部活は始まった。
 前から練習を重ねていた二人用の必殺技は開始早々に完成され、彼らはこれに《ツインブースト》という名を付けた。馨がこれまで見てきた練習に基づいて作成してきた《ツインブースト》についての資料も無事完成し、チームの記録や情報を纏めているバインダーに綴じられた。
 個人練習の時間に入り、それまで立ちっぱなしで定期的にホイッスルを鳴らしたりしていた馨は、大きく息を吐きながらベンチへ腰掛ける。目線は自然と中央にいる木原に定められ、相変わらず楽しさ満点の煌めきを纏う彼についつい微笑が零れた。いつ見ても、どれだけ見ても、彼がサッカーをする様は見飽きない。不思議なことだ。

「暁、本当にサッカーバカだよな」

 そこにやって来たのは新田だった。
 彼は自分の名前の書かれたボトルを手に取ると、自然な動きで馨の横へ腰を下ろした。

「見てるだけで、あぁアイツサッカー好きだなって解るっていうかさ」
「そういえば新田って、木原と随分仲良いよね。付き合い長いの?」
「うん、オレたち幼馴染だから」

 さらりと放たれた台詞に少しだけ驚く馨。だが、中学生のうちで幼馴染なんて関係はそう珍しいものでもないと思え、簡単に相槌を打つ。すると新田は面白そうに小首を傾げた。

「もしかして妬いた?」
「んなわけないでしょ。……もしかして、木原って昔からああだった?」

 ああだった、とはつまり、サッカーバカだったのかということ。あれだけサッカーサッカーな人間が一体いつから形成されたのか気になって、何気なくそう問うてみたのだ。馨は内心、どうせ幼稚園か物心ついたときには既にボールを蹴っていたのだろう、と考えていた。
 しかし、新田から返ってきた答えはその予想を大きく裏切るものだった。

「いや……アイツがサッカーやり始めたのは、確か小学校五年くらいだったよ」
「は、五年? 結構……最近なんだね」
「今の暁からは想像つかないだろうけど、アイツはその小五まで、全く運動しないものすごーく静かな奴だったんだ」
「え!?」

 ――全く運動しないものすごーく静かな奴。
 新田の声が鼓膜の奥で何度も反響する。俄には信じられない。彼の口にした過去の木原の姿は、現在とはまさに真逆ではないか。
 目を見開く馨の反応が当然と言わんばかりに肩を竦めて見せ、新田は視線を木原へ戻した。

「体育の授業も、オレの知る限りではずっと見学してたよ」
「で、でも、今の木原は……」
「うん。そんである日な、体育の授業でサッカーをやったんだ。そのとき偶然、こっちのパスミスで見学してた暁のところにボールが飛んでいったんだ。そしたらアイツ、信じられないような瞬発力でそれを蹴り返して……もうクラス中ビックリ。クラスの奴らはてっきり暁が運動全くできないと思っていたから、アイツがボールを正確に、しかもすごい威力で蹴ったことに、相当驚いてた」

 馨は開いた口が塞がらない状態のまま、水を差さずにその先を黙って促す。

「その瞬間、多分暁の中の何かが変わったか……或いは切れたんだろうな。次の日から、アイツ別人のように積極的に運動するようになったんだよ」
「……意外だったな。木原にそんな時期があったなんて」
「オレからすれば、暁が噎せるまでボール追っかけ回してる今の方が不思議なもんだけど。アイツも楽しそうだし、別に気にしないけどさ」

「無茶さえしなけりゃなー」と天井を仰いで笑う新田はさながら木原の保護者のようで、それが何だかおかしくなり、馨も同じように小さな笑みを浮かべた。
 ――本当に、不思議な話だ。
 あの木原に、サッカーどころか運動すらしない時期があっただなんて、正直他人の口から聞いただけでは信じられない。話では運動が苦手だったわけでもなく、嫌いだったわけでもなさそうなのに、果たしてどういうことなのだろうか。
 けれど、彼の人柄すらも変えたという激変の瞬間、そしてそこに至るまでには、それ相応の理由や意味や事情あるはずだ。そしてそれはとてもプライベートなことであろうし、自分のような部外者が介入して良い領域でもない。これ以上詮索する気は起きなかった。
 過去はどうであれ、今を、サッカーをしている今を楽しめているなら、それで良いではないか。

「よし、オレも練習戻ろうかな」
「あー、私もサッカーやりたいなー」
「やれば? また前みたいに面白いゲリラ試合やろうよ」
「ダメだって、もうすぐ本戦の一回戦なんだから。あんまり遊んでるとそろそろ総帥に怒られるよ」

 つまらなさそうな新田にタオルを投げ渡し、小走りでピッチへ戻っていく背中を見送る。己で口にしてみれば改めて、大会の本戦が始まっているという緊迫感を自覚できた。
 眼球は無意識に、ベンチの片隅に置いてあるサッカー用ノートを視界に捉えた。ただ表紙を見つめているだけで、様々な思いが胸の奥からじわじわと湧き立ってくるようだった。
 ――何も解らないことだらけだ。
 大切なことはちゃんと思い出したのに、まだ解らないことが多すぎる。知らなくても良いのだろうが、触れてみたいことばかり。木原のことも……影山のことも。

「……総帥」

 ――このまま“自分のサッカー”で勝ち続けていれば、いつかあなたの瞳の奥を覗ける日が、来るのでしょうか。


* * * * *


 例え今はチームを一任されていようとも、《ツインブースト》という新たな必殺技が完成したことはきちんと報告すべきなのだろう――そう思った馨は、部活終了後に影山のもとを訪ねることにした。
 それに対し木原は報告の必要など無いと言っていたが、監督は影山なのだからそういうわけにもいくまい。バインダーを小脇に抱えて去っていく馨を、彼は最後まで複雑そうな瞳で見つめていた。
 影山の部屋だけに限らず、帝国学園にあるドアは基本的に物体を感知すれば自動で開く仕組みになっている。ただ、馨は影山が了解して開くのを待つため、いつも感知されないぎりぎりのラインで一声掛けることにしていた。
 今日も例外無くドアの前で足を止め、彼を呼ぶ。

「影山総帥、お時間よろしいでしょうか?」

 だが、いつまで経っても返事どころかドアを開けての入室許可すら得られない。外出するという話は聞いていないのだが、不在なのだろうか。
 一分程待ってみても変わらぬ沈黙を不思議に思い、念の為「失礼します」と言ってから一歩踏み出し、自ら入室した。

「……総帥?」

 影山は、いた。
 いたのだが、どうも様子がおかしい。椅子に深く腰掛け背凭れに身体を預けたまま、馨が近付いてみても微動だにしないのだ。
 ――眠っている?
 サングラスのせいで目は見えないし寝息も聞こえないが、ぴくりともしないところを見るに、どうやら寝てしまっているようである。彼も人間なのだから転寝(うたたね)くらいするのであろうが、普段の印象とのギャップのせいかとても意外に思われた。
 恐る恐る距離を詰め、影山のすぐ傍まで寄ってみた馨。
 そのとき、デスク上のモニターに何やら映像が流れていることに気が付いた。

「これは……」

 微かに音が漏れているそれは、見たところサッカーの試合のようだ。しかも、映像の質からしてかなり古い。影山はこれを見ている最中にうっかり睡魔に襲われたようだ。
 サッカー、しかも影山が見ていた試合ということで興味を持った馨は、音声を聴こうとしてそっと身を乗り出した。
 映像の中では激しい試合が行われ、実況や解説も大盛り上がりだった。たった今、一人の選手がDF三人を一気に抜き去り鋭角から見事ゴールを奪うというスーパープレーをして見せたところである。

『――素晴らしいプレーです、これこそまさに影山東吾の真骨頂と言えるでしょう!』
「影山?」

 実況の歓喜しながらのコメントに聞き慣れた名を見つけ、思わず手元のボタンで巻き戻しをした。確かに実況は「影山」と言っている。ただの偶然かもしれないが、そうそうメジャーな苗字でも無いはずだ。今隣で眠っている影山との関連性が気になったものの、とりあえず彼に注目して最後まで試合を観てみようと決めた。
 影山東吾――馨は彼がどんな選手だったのか、その詳細までは知らないが、少なくともここで映像の中のプレーを見ている限りはただただ圧倒されるばかりだった。
 動きのキレ、スピード、パワー、そしてセンス。どれをとっても東吾は素晴らしい選手だ。もっと綺麗な映像で、さらに言えば実物をこの目で見たいとすら思えた。実況の絶賛コメントや観客の大歓声に応えるように、彼は巧みにゲームを支配してフィールドを自分のモノにしている。過去にこんな選手がいたという事実に、馨は自らの胸が打ち震えるのを感じていた。
 気付けば、音割れするくらいの大喝采に包まれて試合が終わっていた。と同時に映像の再生が終わり、電源ボタンを押せば一瞬でモニターが消える。泡が弾けるように静寂を迎えたことで、まるで楽しい夢から醒めたような侘しい感覚が全身を駆け巡った。

「すごい……影山、東吾」

 脳内で思い返せばいっそう鼓動が速くなる。できればもう一度彼の活躍を見たいところだが、そろそろ影山を起こすべきだろうと思い踏み止まった。

「総帥、総帥、風邪を引いてしまいますよ」

 少し顔を近付け、声を掛ける。身体を揺するのは何となく憚られたので、そこまで大きくは無い声で何度か呼び掛けるだけにしておいた。
 すると、サングラスの奥で目が僅かに開かれるのが薄らと見えた。続いて色の無い唇がそっと開かれ。

「……つ……き」
「総帥?」

 ぼそりと、掠れながらも小さく漏らされた言葉はしかし聴き取れない。馨が怪訝に再三呼んでみれば、そこで完全に覚醒したらしい影山はゆったりと背凭れから背中を離した。

「……江波か」
「勝手に入ってしまい申し訳ありません。返答が無かったので、気になって」
「……あぁ」

「構わない」と返した影山の中指が、大してずれていないサングラスの位置を戻す。寝ていたからか声はいつもより若干低めだった。
 馨が距離を取ってから改めてバインダーを開こうとすると、それより先に抑揚の無い声音が空間に響く。

「あのビデオを観たのか」

 目線は依然真っ直ぐなまま、問う。モニターが消えているのを見て、馨がそこに流れていた映像を目にしたのだと推測したらしい。相変わらず情の含まれない口調では怒っているのかどうかも解らないが、何か不味かったのかと先走りした馨はどきりと心臓を高鳴らせた。

「す、すみません……あまりにも素晴らしい試合だったので、つい最後まで観てしまいました」
「何を謝っている。私は咎めているわけではない……最後まで見たのならば、是非とも感想を聞かせてもらおうか」

 悠然と足を組む影山が、少しだけ顔を馨の方へと動かした。サングラスの隙間から視線に射抜かれ、小さな身体が緊張に震える。

「感想ですか……えっと、全体的にどの選手の精度も高くてとてもハイレベルな試合だったと思います。互いにサイドを使って大きく切り込む戦法を多用していましたが、それぞれ裏の裏をかいていて非常に頭を使うゲームでもありました。それに――」

 試合を思い出しながら浮かんだ感想で言葉をつくり、碌にブレスも入れずに勢いで語る。どんなに良い試合だったのかは馨がわざわざ言わなくとも影山には解っているだろうし、マネージャー兼オペレーターという自身の立場を考慮し、敢えて戦術をメインに感想としてみた。
 ただ、内容的に戦術からは大きく外れてしまうけれど、これだけはどうしても言わずにはいられなかった。

「その中でも特に、影山東吾という選手は本当に凄かったです!」

 抑えられなかった笑顔と共にそう言えば、影山の瞳がぎゅっと細まる。馨はそれに気付かず、高ぶった気持ちをそのまま言葉に乗せる。

「あの方は総帥と同じ苗字でしたが……」
「私の、父だ」
「やっぱり、そうだと思いました! 総帥のすごさは親譲りなのでしょうか……とにかく、あの方はまさにファンタジスタでした!」

 見ているだけでこちらまで熱くさせられ、楽しくさせられ、一つの動作にさえ感動を生み出す。それこそがファンタジスタ、そして先程見た影山東吾というプレーヤー。彼の血を引く目の前の人物もまた、類い稀なるサッカーセンスを持っている。確かに血は受け継がれているのだ。
 ――しかし、違う。
 影山とその父を並べてみれば、そこには明らかな違いがあった。シュートを決めた直後の東吾には、今の影山には絶対に存在しないものがあったのだ。
 だから、今ならより真髄に近付けるような気がした。

「総帥――」
「オマエは」

 けれども影山に遮られ、素直に口を噤む。
 一瞬後、伸ばされた片腕によって勢い良くこの身を引き寄せられた。

「そうすっ……」
「私の名を知っているか」

 ぐっと近くなったところで慌てる馨に、頭上から追い立てるように声が降ってくる。随分と唐突で、意図の読めない質問だった。答えなど訊かなくても解るだろうにと怪訝に思いながら、それでも馨は律儀に返す。

「影山、総帥」
「下の名だ」
「……零治、さん」
「もう一度、呼んでみろ」

 意味が解らない。
 自分が下の名前を呼ぶことで、何かあるのか――そう問い返そうとした馨だったが、顔を上げた瞬間にそんな気はどこかへ飛んでいってしまった。
 一直線にぶつかりあう視線。何故か明瞭に見えた向こう側の瞳。暗い瞳。悲しい瞳。確かに自分へ向けられている。目前の、選手でありマネージャーである一人の少女を見つめているはず。
 なのに。

「……零治さん」

 ――どうして。

「零治さん」

 どうして、そんな目をするのですか……総帥。

「零治さん……」

 くしゃりと顔が歪み、声調はどこか訴えるような震えを伴い、要求をしたその本人へとぶつけられる。それを受けても尚、影山は何も言わない。ただ、視線だけは一寸もぶれずに馨を捉えている。

「……」

 だが、馨はそこで遂に、悟ってしまった――彼が、影山が、自分のことを見てなどいないことを。
 真っ正面に立っていながら、江波馨ではなくその奥にいる“誰か”を見ていることを。別の人物の面影を瞳に映していることを。一年以上経った今、ここで、知ってしまった。
 理解し、ゆっくりと自覚させれば、胸が痛むのが解った。どうしてなのかは定かでない。今この瞬間、影山の両目が決して自身を見ていないという真実に触れて、どうしても身体の中心部分がきりきりと締め上げられる思いがする。
 辛いのか、寂しいのか、苦しいのか、悲しいのか。
 感情はどれも綺麗に枠に当てはまりはしなかった。

「馨」

 ずっと長い間閉ざしていたような感覚さえする。そんな影山の開かれた口から出てきたのは、初めて耳にする己の名。不意打ちに声無く驚愕する馨に目線を遣ったまま、彼は表情一つ変えずに淡々と語る。

「覚えておくと良い……甘美な想い程、無駄なものもない」

 零れ出る単語の全てが、静かに胸の内へ落ちていく。
 その氷の塊は溶けることもなく、届いたところを冷やすだけで。

「永遠の想いなどというものは、決してこの世に存在しないのだ」

 いつものような感情を見せぬ冷たい物言いだったのに、それは酷く悲しい言葉に聞こえてならない。機械のような単調さがそうさせるのか、微かに諦めにも似たものを感じさせた。
 片腕に抱き寄せられながら、馨はゆっくりと影山から目を離した。視界には服の色であるネイビーがいっぱいに映っている。さながら彼の心を表したみたいな色だ。他の色で塗り替えても、もう明るさは取り戻せない、それ程までに濃い宵闇の色。
 ――永遠の想い。
 反芻すればするだけ、悲しくなる。何が影山零治をここまで暗く染めてしまったのだろう。どうして彼は、ビデオの中の影山東吾のように輝けないのだろう。

「……確かに」

 彼の中には、何が潜んでいるのだろう。

「永遠なんて言葉は曖昧で、何よりも不確かで、決して約束されないものかもしれません」

 目を伏せた状態で、それでも言葉はしっかりと芯を持って放つ。喉が震えているのも気にせず、確実に。

「……それでも、今ここにある想いがこの先もずっと消えることなく、いつか永遠のものとなる……そう信じていたいという気持ちはどうしたって仕方のないもので……誰にも否定はできない、と思います」

 彼の言う“永遠”を信じているのではない。全ての時間には限りがあるし、いつだって時間に縛られて生きるのが人としての世の常である。
 だけれども、自分はこの先ずっと、時間の許す限り皆とサッカーをやっていきたい。そして影山の傍にいたい――そう思う気持ちは、例え影山にだって否定はしてほしくなかった。何があったって自分はサッカーが好きで、これは生涯消えることのない想いとなる。今を強く在るためにも、時間という概念を越えた先にあるものを信じていたいのだ。
 サッカーだけではない、誰かが誰かを好きだと思う気持ちだってそうである。自分が木原や、影山を好いているように――。

「……あっ」

 見上げたところにあったサングラスに映った自分は、存外怖い顔をしている。無意識のうちに力が入っていたようだ。影山はやはり無反応だが、馨が狼狽え出すとほんの僅かに纏う気配を変えた。

「すみません……ただの戯言です。聞き流してやってください」
「……気狂い、か」
「え?」

 動揺して大きく顔を背けるも、不意に片手を取られてまた戻る。微かに聞こえる程度に呟かれた台詞の意味も解らぬまま、取られた手は彼の意のままにその口元へ運ばれ。

「――ッ」

 音も無く、手首に唇が押し付けられた。

「……そ、総帥」

 一度だけ軽く吸い付かれたそこには、仄かな痛みと共に小さな紅い跡が咲く。理解不能な行為を受けて混乱気味に仰いでくる馨を無視し、影山は親指で跡を撫でる。その動作はぞっとする程優しくて、後には虚しさだけを残した。

「そうだな……全て戯言で、戯れ事だ」


* * * * *


 その後帰宅した馨が真っ先に行ったことは、影山東吾についての情報収集だった。幸いネット環境の整っている家では難しい話でもなく、少し調べてみればすぐに粗方の情報は手に入った。
 影山東吾――サッカー界で一世を風靡したといっても過言ではないその選手は、その後現れた新星の若手たちによって脇に追いやられてしまい、蹴落とされたことでの精神的な問題なのか試合でのプレーは荒れる一方。言動も酷くなり、幻滅したファンたちによってバッシングをされてまた荒れるという負の連鎖に囚われてしまった。噂によればこの時既に妻子持ちで、散々問題を起こした結果、家庭は崩壊したようだ。
 そのときの息子というのが、即ち。

「……そんな父親を見ていた息子は」

 一体どんな気持ちだったかなんて、想像するだけでも辛い。
 そしてそんな影山は今日、果たして何を考えながら父親の活躍するビデオを観ていたのだろう。あの常闇を秘める瞳には、過去の輝かしい父の姿がまだ深く刻み込まれ、もう二度と帰らぬ日々を望んでいるというのか。負け犬となってしまった父を見て、結局は勝てなければダメなのだと、選手には勝利が全てなのだと、そのような考えが固い鎖となって彼を縛りつけているのか。
 ――それだけではない。
 影山が勝利に執着する理由が少しだけ解った気がしたが、あの瞳に潜む常闇の正体はまた違うと肌が感じていた。彼はいつかの自分のように、大切な何かを失っている。或いはその何かを恐れていると、そう思えてならないのだ。
 自分にとっての“何か”は、サッカーというものの本質と過去の自分だった。
 ならば、影山にとっての“何か”とは、一体。

 ――永遠の想いなどというものは、決してこの世に存在しないのだ。

 彼の声が脳裏で反響する。網膜に焼き付いて離れないのは、自身を見つめる虚ろな瞳。
 手首に残された跡が、不自然に疼いたような気がした。




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