end of farce


「――え?」

 彼の口から発せられた言葉に、馨は思わず耳を疑った。
 全ての動作を止めて自身を見つめている彼女に対し、今まさにその原因を発したばかりの唇は、言い含めるように再び同じ動きを繰り返す。

「オレは……いや、オレたちは今日、総帥の指示したプレーはしない。最初から最後まで、オレたち自身のサッカーをやる」

 残酷な程にはっきりと、木原暁はそう言い切った。


 ――フットボールフロンティア全国大会決勝当日の朝。
 選手より一足早く来てウォーミングアップと試合のための準備をしていた馨は、その後すぐに現れた木原に連れられ、今は誰も使っていない古いロッカールームにやって来た。大切な話があると言う木原に対し、わざわざこんな隠れるような真似をする必要があるのかと怪訝に思いながらも用件を促す。すると少しばかり躊躇する姿勢を見せつつ、木原は一言「もう総帥には従えない」と口にしたのだ。
 あまりに急で、且つ衝撃的な発言に、馨の脳は一瞬働くことを止めた。言葉がそのまま質量を持ってがつんと脳髄に直撃したような感覚が奔る。
 ――馨は解っていた。木原が影山に対し良い感情など抱いていないことも、木原や今のチームがやりたいサッカーは下される命令と全く逆のものであることも、いつかはこんな日が来るのではないかということも。
 そして木原は遂に、この決勝戦という大舞台の中で、影山に逆らうことを明言したのだ。影山という存在が絶対である帝国学園に於いてそれがどんな意味を持つのかなど、彼にだって理解できていないはずがない。
 脳はすぐに覚醒したが、発する台詞は混乱からか、どれもしどろもどろになってしまった。

「でも、木原……下手に逆らうと、どうなるか……」
「馨」

 様々な感情が入り交じって不安定に震えている声を打ち切り、木原は強い語調で名を紡ぐ。下がりつつあった顔を持ち上げれば、目の前にはただただひたむきに、真正面だけを見据える瞳が在った。

「好きなもんからは、逃げちゃいけないぞ」
「……!」

 その一言が、全てだった。
 木原が影山に牙を剥くのも、チームがそれに続くのも、また――馨が彼を止められないのも。
 サッカーが好きだからという、この言葉に尽きるのだ。

「やっと本当にやりたかったサッカーが手に入ったんだ。ここでまた昔みたいなやり方に戻ったら、今度こそオレたちは本物のサッカーを失うことになる」

 木原の放つあらゆる単語が胸に突き刺さる。やりたかったサッカー、本物のサッカー。馨だって影山の下にいて手放していたもので、今となっては二度と忘れたくない大切なものだ。
 解る、解るからこそ、痛い。
 影山のサッカーが間違っていることを解っていながら、馨は木原に対し一度だって頷き、同意することができないでいる。神経の途中で何者かが信号を消してしまっているみたいに、何も反応ができない。ぐちゃぐちゃになった複雑な思いが、心の奥底で煙をあげて燻っていた。
 ――彼を、影山総帥を、裏切る。
 先日交わした賀川との会話が蘇る。あのとき、賀川からの警告を撥ね退けて、自分は何と返しただろうか。
 そして今、木原は賀川と同じく、影山に背を向けようとしているのだ。
 ならば、自分は……。

「仕方ないとは思うよ」

 泥沼に沈みかけていた馨の意識を引き上げたのは、木原の、どこか苦しさを伴う声音だった。

「馨はオレたちよりもずっと総帥に近い場所にいるから、そう簡単に割り切れるわけないよな。……でも、自分のサッカーを取り戻せたオマエには、オレの……オレたちの思いを知ってもらいたい。今日は帝国じゃなくて、オレたち自身のサッカーをする。オレたちだけのサッカーが、したいんだ」

 丁寧に、けれどもしっかりと訴えるように語る姿は、ただのサッカーが大好きな一人の少年でしかない。純粋に理想を追い求める瞳はどこまでも澄んでいて、あのサングラスの奥に隠されたものとは、まさに完全なる真逆の位置にあるものだった。
 木原には全て見透かされているのだろう――馨は今すぐにでも、声をあげて泣きたくなった。
 馨にとってこれは、最早どちらかの味方をするだとかしないだとか、そんな次元の話ではない。もうとっくに自分の中では処理しきれないレベルまできていた。どうすれば良いのか、自分はどこへ行けば良いのか、何もかも全然解らなかった。
 ――いつしか、視界には無機質な床と使い古されたシューズのみが映っていた。
 頭の頂点にそっと、小さな温かさが乗せられる。

「ごめんな」
「……木原が謝る、ことじゃない」

 素直に背中を押してあげられない自分こそが、謝るべきなのに。
 両者を天秤に掛けても全く動かない、否、動かせない。賀川のときも、今も、自分の中の彼の位置は不動だった。変えられなかった。だからこれは、本当に、どうしようもないことでしかなかった。
 ――だが、ここで一度でも頷けていたら、全ては大きく変化していたのだろう。


 ウォーミングアップをすると言う木原と別れた後、馨は影山から緊急の呼び出しを受けて彼の部屋を訪れていた。
 この時間はいつも試合前の準備で忙しいので、あちらもその辺を考慮して無理に呼びつけたりはしてこなかったというのに、今日のこの呼び出しは非常に珍しい。それに加えて緊急ということなので、室内へ足を踏み入れた馨はいつもより緊張した面持ちを浮かべていた。木原たちのことも心に引っ掛かっていたが、そこは悟られぬようにと努めて平然を装う。

「総帥、ご用件は」
「試合開始時刻が変更になった」

 端的に纏められた用件は、これまででも初めてのものだった。
 影山曰く、どうやらフロンティアスタジアムの設備に問題が発生したので、今から調整を行うということだ。大会始まって以来初の出来事なので、大目に見て開始時刻を二時間程遅らせるらしい。本来の出発時間は今より三十分後だったが、これによってまた変わってきてしまう。
 準備を急がなくても良いのは嬉しいがいろいろと面倒だな、と馨は内心で嘆息した。また、試合が遅れることで胃の痛む時間が増えたことにも、ますます心は暗くなるばかりだった。
 淡々と事の次第を述べた影山は、最後に馨へ一つの指令を下して話に終止符を打った。

「準備を終えれば時間は余るだろう。その後は三階の資料室で前年度の試合データを整理し、確認しておけ。来年度へ向けての練習で使用する」
「解りました」

 そう答えつつ、資料室の場所を脳内で確認する。二年目に入っても未だ朧気な三階の地図、資料室は確か一番隅にあったと記憶している。ここから最も遠い部屋だ。
 何はともあれ、用事を言い渡されたのなら時間内にきっちり終わらせなければならない。一刻も早く動こうと、馨は背筋を伸ばした。

「では、先にメンバーに報告を……」
「その必要はない。先程木原に同じことをチームへ伝えるよう言ってある。早く準備を済ませ、資料整理に取りかかれ」

 先回りするように告げられ、一瞬面食らう。

「……はい」

 いつの間に、と不思議に思いつつ、それ以上何も返しはしなかった。考え始めればきっと、どんどん黒い方に進んでいくしかない。
 ――もう何も考えたくなかった。
 影山のことだって、これからの試合のことだって。
 何も考えず、ただ時間の流れるままに任せてしまいたい。そうしていなければ、そのうちきっと心臓が削られすぎて死んでしまうに違いないから。

「総帥」
「何だね」
「……いえ、何でもないです」

 賀川と木原の真剣な顔がちらつく度、姿勢を正す。正して見構えるのは、いつだってこの人でしかない。
 彼のことを疑いたくないと思っているのは、他でもない自分自身なのだから。


 影山の部屋をあとにしてから、馨が木原や他のチームメイトのいるグラウンドへ顔を出すことは一度も無かった。影山に指示されたようにさっさと準備を終わらせるためというのもあるが、本当はもっと別の理由がある。
 ――彼らと向き合うことが怖かった。
 彼らのサッカーを好きだと言いつつ、影山を否定できないような中途半端な立ち位置にしかいられない自分には、あそこに混じる資格など欠片も無い。木原はこんな自分を認めたように笑ってくれたが、チームはどうだろう、裏切り者だと蔑むだろうか――それが当然だ。
 なら自分は、そうなってまであの人を信じていたいと思っているということなのだろう。これは意固地なのか本能なのか、済んでしまった今となっては探るだけ無駄である。

「……」

 トントンと束になった資料を纏め、バインダーに通す。試合が終わったその時々にはきちんとデータを纏めているが、通年で見ると全体的にばらばらになってしまっていた。そんな資料を見やすいように時系列順に並べていく作業も、あと少しで漸く終わりを迎えるところだ。少し凝った肩を解すように、肩胛骨をぐるっと回した。
 何の気無しに窓の外を見てみれば、そこにはまさにスポーツ日和と言える爽やかな晴天が広がっていた。予報によれば気温も風速も上々、サッカーをするにはうってつけの気候だそうだ。
 あと少しもすれば、あのメンバーたちはこの空の下、青い芝生の上、ボールと勝利を追い求めてひたすらに駆け回ることとなる。想像するに易い光景を脳裏に広げると、自然と眉尻が下がってきた。
 こんなことを言ったり、思ったりする権利などないかもしれない――けれど、自分は確かに木原たちのつくり出すサッカーが大好きだ。愛おしいのだ。この気持ちに嘘は吐けないし、吐くつもりだってない。
 影山の指示を無視した試合は、きっとこれまでで最も素晴らしいものになるに違いない。その後どんな制裁が待っていようと、プレー中のサッカーは誰のものでもない、それに興じる選手たちだけのものとなるのだ。
 目を輝かせて活き活きと走る姿を思い浮かべるだけで、幸せな気持ちになれる。影山への裏切りを傍観することになる胸の痛みはあれど、同時に心は期待に揺れてもいる。何て自分勝手なのだろう。でも、これこそが江波馨の本心なのだから、せめて自分自身だけでも認めていてあげたかった。
 自分は影山との繋がりを断ち切ることができない。
 でも、今日の試合を見て何かが変わるかもしれない。
 木原が大きな決断をしたように、自分も……。
 最後のバインダーを閉じて指定の場所に仕舞い、馨はすくりと立ち上がる。腕時計は移動開始時間の十分前を示していた。

「……行こう」

 誰にともなく呟き、ドアに手を掛けて廊下へと出た。
 ――すると。

「馨!」

 鋭い叫び声が耳をつき、思わず肩を震わせて声のした方を見遣る。廊下の向こうから全力で駆けてくるシルエットが見え、目を凝らせばそれは賀川であるとすぐに判った。

「賀川、先輩?」
「馨! どうしてこんなところに……ッ!」
「は?」

 いきなりわけの解らないことを言う賀川に首を傾げると、彼女は突然がっと馨の手首を掴んで一気に駆け出した。

「ちょっ、先輩! 一体何が――」
「来て! 早く!」

 状況は全く解らないが、賀川の様子からして何やら深刻な事態が起きたらしい。それでも何が何だか現状の把握すらできないうちに、馨は階下の一教室へ連れ込まれた。
 そこには数人の生徒がいて、揃って何故か点けられているテレビを見上げていた。だが馨と賀川が飛び込むと一斉に顔をそちらに向け、やはり揃って驚愕の表情を浮かべた。

「江波さん……何でここに……」
「なに、が」
「馨、テレビを……見て」

 意味不明な反応に戸惑っていると賀川に肩を叩かれ、言われた通りにテレビを見上げる馨。映っているのは速報と右上に表示されたニュース番組。そこに記されているテロップは――。

『中学生を乗せたバスが鉄筋コンクリートの下敷きに』
「……え?」

 流されている現場の映像には、文字通り鉄筋コンクリートの下敷きになり、見るも無惨な姿になった見覚えのある色をした“物体”がある。中継のリポーターはヘリコプターや周囲の騒音に負けぬようにと大きな声で現場の説明をしていた。

『えー、このバスは名門帝国学園の移動用車両で……サッカーの大会に向かう最中……工材置き場を通りかかった際、落下した鉄筋コンクリートが直撃したと見られております――』

 帝国学園。サッカーの大会。
 聞き間違いではない、確かに今、そう言った。
 確かに説明した。説明が示すものは、帝国学園サッカー部一軍。違いない。
 でも、そんなのおかしいのだ。あってはならない、あるはずがない。
 だって、自分はここにいる。
 自分たちの移動時間は、まだなのに。

『現在、乗車していた生徒たちの救助作業が行われています』

 キャスターのどこか切羽詰まったような声。耳に入った瞬間、馨は全身から力が抜けて膝から床に崩れ落ちた。
 ――どういうことなんだ。
 頭がぼうっとする。声が遠い。視界がぶれる。テレビでは依然事故現場の映像が流されている。あれは真実か? 現実か? おかしいそんなわけがないのに。
 出発時刻は、あと十分後。だからあんな場所にバスがあるはずないし、選手が乗ってるはずもない。
 間違っている。あのニュースは間違って――。

「馨……ッ」

 首ががくりと揺れる。賀川が自身をきつく抱き締めているのだと自覚したのは五秒程経ってからだった。賀川の震えが身体越しに伝わってくる。微かな嗚咽が聞こえる。周囲の生徒が何とも言えないような目を向けてくる。
 ――何故?
 何が、一体何が、起きている。

「……あ」

 まさか、という単語が頭に浮かんだ途端、心がばちんと大きな音をたてて弾けた。

「馨!」

 気付けば馨は賀川を引き離して立ち上がり、一目散に廊下へと飛び出していた。
 その足がただ一つ目指すのは、大好きなものたちと比べても疑えやしなかった、あの人のもと。
 ――嘘だ、嘘に決まっている。
 あの映像はきっと、質の悪い悪戯に違いない。そうでなければ、辻褄が合わないではないか。
 息が切れるのも厭わず全力で走る馨。道中の脳裏では同じことが何度も何度も、あたかも自分自身に擦り込ませるように巡り続けていた。未だに自分の両目が何を見、両耳が何を聞いたのかを受け入れられない。信じられなかった。
 ――木原が……メンバーが、事故だなんて。
 有り得ない、有り得ない、と繰り返す胸中。
 きちんと思い出せるのだ。今朝木原と話したときの声音も、表情も、体温も、全部そのまま鮮明に思い出されるのだ。チームが集まってウォーミングアップをする姿だって、今も尚現物のように蘇ってくる。事故なんてそんな、あっては、ならない。
 しかし思考の片隅、ほんの僅かな隙間に、絶対零度の可能性があることに気付いてしまったとき、馨はどうしようもない激情に襲われた。
 だから一心不乱に足を動かす。確かめなければいけないのだ。あのニュースが本当なのか、直にこの身体で確かめる必要があった。

「……ッ」

 影山の部屋に向かう途中、足を止めたのはグラウンドを一望できる高台。眼下の見渡す限り青いそこに、誰一人チームメンバーはいない。しんと静まり返ったグラウンドは、冷たく馨を迎えていた。
 彼らの不在――それは、嘘であってほしかった全てを真実にする、冷酷な現実。

「どうして……何で……ッ!」

 きつく握り固めた拳で手摺りを殴りつけ、悲観する間も無くすぐさま踵を返す。とっくに脳のキャパシティは越えていた。これはもう自分で理解のできる範疇ではない。
 だから、求める。
 恐らくどんな理屈を並べ立てられようとも納得などできないし懐柔もされはしないだろうが、今起きているあらゆるでき事に対し、説明が欲しかった。

「影山総帥!」

 誰よりも信じ、誰よりも敬っていたかった存在――影山からの、説明が。

「総帥、これは……これは一体どういうことですか……!」

 入室の許可も待たずにずんずんと室内へ歩みを進め、デスクを挟んで少しのところで強く訴える。だが、これまでずっと忠実だった者に牙を剥き出しにされたところで、影山は動揺どころか微動だにしない。

「出発の時間はまだ先のはずです。なのにどうして、彼らはここにいないのですか!? 総帥は確かに、二時間遅らせると仰いましたよね!?」
「……」
「予定の時間ではないのに出発した皆は……皆は……ッ!」

 くっと声が詰まり、きつく眉根を寄せる。言葉にするだけで、胸が張り裂けそうな気持ちになった。
 影山は、困惑と疑念と僅かながら敵意を露わにしている馨に相変わらず冷たい眼差しを向けている。苦しげに見上げてくる視線を受け止めながら、その表情には何の興味も感情も浮かびはしない。
 こんなに必死になっているというのに、返ってくるのはいつもと変わらぬ態度。だからこそ、馨は激しい憤りを覚えざるを得なかった。

「総帥……!」

 歯の隙間から絞り出すように呼べば、ふいと長い腕がデスク上のリモコンへ伸ばされ、一つのボタンを押した。瞬間的に眼前へ現れたのは、先程教室で見ていたものと同じニュース画面。しかし今度はヘリコプターからの中継映像のようで、バラバラと喧しい飛行音に負けぬようにとリポーターが声を張り上げている。

『――鉄筋がバスを直撃した事故について、現在も乗車していた生徒の救助作業が進んでいます。負傷者多数ですが、死者はいないとのことです』

 リポーターの説明に、ほんの少しだけ馨の面持ちが緩む。殆ど原型を留めていないバスと、そのバスに我が物顔で突き破っている巨大な鉄筋コンクリート。非日常的な光景だが、確かに起こった、起こってしまったリアルの出来事。事故自体は不幸以外の何物でもないが、こんな大きな事故で死者が出なかったなんて奇跡的な話である。
 ほっと胸を撫で下ろす馨の前で、影山はやはり無感動に報道の画面を見ているだけだ。どうして突然ニュースを点けたのか、その意図が解らぬまま、馨はさらに続けられるリポーターの言葉に耳を傾けた。
 ――衝撃の度合いで言えば、事故を知った瞬間とほぼ同じか……或いはそれ以上だったのかもしれない。

『えー、しかし……あー、一名……木原暁くんが、未だ意識不明の重体で――現在も救助の最中ですが――鉄筋に挟まれた下半身を――作業は難航しているようです――』
「……え」

 ――意識不明の重体?

「う、そだ」

 下半身を――鉄筋に?

「……き、はら……」

 木原暁。きはらあきら。馨はこの名を持つ人物を帝国学園で一人しか知らないし、恐らく一人しか存在しない。その木原が、意識不明の重体で、そして。
 断片的ながら聴こえてくるその声を鼓膜から脳へ通した瞬間、ぽーんと、気圧が変化したように耳が遠くなる感覚に苛まれた。果たして今この世界に溢れているものは本物なのか、それとも幻なのか、解らない。心身が気持ち悪く浮遊する、内蔵があらぬ方向へ引っ張られる、そんな心地が精神ごと自分を呑み込んでしまったようで。

 ――ごめんな。

 優しく頭を撫でながら告げられたあの台詞が、耳の奥で儚く木霊した。頷けない自分に、それでも大好きなサッカーをやり遂げるのだと強かに宣言した彼の真摯な顔が、霞となって消えてゆく。
 ――何なのだろう、今という時は。本当に、これは、現実なのだろうか。

「そ、すい」

 気付けば画面は消されており、今やこの空間で音を発するのは馨の声帯と微かに擦れる衣服のみ。暗く、深海を思わせる部屋の中で放たれるのは、ガラスのように脆い言葉の繋ぎ合わせ。
 無意識にゆるゆると己の身体を抱き締めながら、馨は震える喉で懸命に声を押し出した。

「総帥、そうすい……こんなの、おかしいです、よね……」

 もう泣きたいのか笑いたいのか解らない。
 何とか放った言葉は不自然に振れ幅のある奇妙なものとなったが、構わない。構えもしない。

「だって、総帥は二時間後に出発だって言いましたよね……木原にも伝えたから私が伝える必要は無いって、そう言いましたよね……試合のときはいつも十分前集合だから、皆が時間を間違えるはずもない……」

 ほんの一握りでも疑いたくなかった。
 彼を信じて歩んできた自分を無下にしたくなくて、自分を信頼してくれる彼の思いに応えたくて、ずっと彼の真ん中にあるものを信じ続けてきた。与えてくれた分だけきちんと返したくて、ここまで歩んできた。例えサッカーへの考えや思いが違ったとしても、影山というその人に対する心は最初から何も変わってなどいない。いないと、信じてきた。
 けれど、それでも、もう――ダメだ。
 あと一度、たった一撫ででも刺激を与えられたら、全部が崩壊してしまいそうだった。

「なのに何で……私はここにいて、彼らは……ッあんな事故に……!」

 限界を越えたところで視界が煙り、頬を伝う熱い雫はそのまま硬質の床に落ちてポツポツと小さな音を立てる。痛覚すらどこぞへ遣ってしまったのか、血が滲む程に握り込んだ手のひらには何の感覚も奔りはしない。

「総帥ッ……どうしてこんなことになっているのですか……知っているのでしょう、ならば教えてください!」

 涙が散るのも構わずに、きっと鋭く顔を正面に向ければ、それまで一途に無を保っていた影山の表情に少しばかり動きが現れた。一直線だった唇が微少に歪む。同情や悲しみは一切見受けられない、何も読み取れない造形がそこにあった。
 頬に細い涙の筋を残している馨。潤みながらも気丈な眼差しを向けてくる瞳と暫し無言で見つめ合ってから、影山はやおらデスクの引き出しを開け、そこから一枚の紙を引っ張り出した。そしてぴらりと、馨の足下めがけてそれを放った。
 突如投げ渡された用紙。彼の状況にそぐわぬ行動を訝しみながら、馨はその紙を拾い上げて中に書かれている文章に目を通す。

「……公式大会、ライセンス……?」

 聞き慣れぬ文字をそっと零すと、そこでやっと影山は重たい口を開いた。

「本人がそこの空欄にサインをすれば、正式に認められることになる。……オマエが、女子の身ながら正式に公式の大会へ参加できる資格だ」
「……!?」

 そんな資格があることを、馨は今ここで初めて知った。確かに書面は本人同意のサイン欄のみ空白なので、自分がここに名前を書くだけで影山の言うように公式で試合をする権利が貰えるのだろう。そのような説明も書いてある。
 ふと思い出されたのは、以前影山と交わした会話の一部。初等部で見つけた有能な男児に興味を示す影山に少し寂しさを覚えていたとき、試合に出たいのか問われ、馨は確かに頷いた。男のように公式戦で戦いたいと、強く願ったのだ。それがあと少しで、実現しようとしているのだという。突然すぎて上手く呑み込めなかった。
 だが、これだけははっきりと解る――今はこんなものについて話している場合ではないのだ。
 一体何を考えているのだという目つきで、馨は目の前の男を今度こそ明確に睨み上げた。噛みつかんばかり勢いの馨に、しかし影山はどこまでも普段通りの冷静さでのみ応える。暗い瞳が、一直線に馨の心臓を射抜いた。

「どうやら、あのチームは私に従う気が皆無だったようなのでな」

 粘着質な物言いに、ぞくりと背筋を悪寒が滑り落ちるのが解った。

「誠に残念なことだ……あんな愚下之民の集団は、オマエの見るべきチームではない。江波、君はもっと誇り高き王者の椅子に座るべきだ」
「……何を……言って」
「感化されすぎたようだな。だがしかし、すぐに思い出すだろう……完璧なる勝利を掴んだ瞬間の、何ようにも変え難き陶酔を。そして今度はそれを、オマエはフィールドの上で直接手にすることができるのだよ……江波」

 ――あれらは、下らぬものを目指した負け犬たちの成れの果てだ。
 そう言って、影山が続いて投げて寄越したのは黒のボールペン。カツンと床を弾いて転がるそれに視線を遣ったとき、最早馨は言葉を失う程の絶望的な心境に陥っていた。
 全体に皹の行き届いた硝子は、遂に崩壊した。
 もうこれ以上はいらない。
 影山の表す全てが、事を説明するには充分すぎたのだ。

「……ま、さか……総帥、そんな……」

 全て知られていた。
 この決勝戦で木原を始めとしたチームが叛旗を翻そうとしていたことを、影山は既に知っていたのだ。
 だから彼は、己の言いなりにならないチームを“処分”することにした。それがきっと、あの事故なのだ。彼らを乗せたバスが、予定通りフロンティアスタジアムに着くことなどなかったのだ。
 さらに、そこでわざわざマネージャーである自分を引き離して事故から遠ざけた、その目的は。

「もしかして、私を……」
「私の理想は、私のためにゲームを制する者が頂点に君臨するチームだ。いつかのように、な」

 ――新しい選手、延いては、キャプテンにするため。
 辿り着いた答えが限りなく正解に近いことを悟ると、馨の手から音も無く紙が滑り落ちた。
 影山は否定しない。それどころか肯定としか思えないようなことばかり口にする。砕けた破片をさらに粉々にするかの如く、彼は刃物を降り下ろす。砕けて、飛び散って、やがて欠片は光さえ反射しなくなる。
 時間が遅れているという話も、自分がバスに乗らなかったことも、全部影山の書いたシナリオの一部なのだ。マネージャーを欠いていることを不思議に思いつつも大会へ向けて発進したメンバーは、やがて大きな“不慮の事故”に遭う。
 そして、その中で、木原は……。

「オマエは誰よりも私を信じ、私のためになろうとする」

 目が虚ろになりかけている馨をじっと見据え、低音は彼女の内部すら侵そうと響き渡る。自身を取り囲む全ての環境についていけなくなってしまった馨は、それでも首を(もた)げて彼を見る。涙はとっくに枯れ果てていた。

「……そうす、」
「オマエはな、江波。私を一切疑いもしない、このうえなく愛しい、最高の――」

 昏い瞳が、愉しげに細められ。

「――愚かな人形だ」

 ――そうして放たれた言葉が、これまで築いてきた日々を残らず灰に帰した。

「か……げやま……ッ」

 信じていると、何度言われただろう。
 求めていると、何度囁かれただろう。
 今なら解る。それも所詮、人形を操るための吊り糸でしかなかったのだ。彼がここまで紡いできた言葉や行為に、自分が望んでいるような意味や思いはこれっぽっちも込められてなどいなかったのだ。この思いは、この信頼は、ずっとずっと最初から、裏切られ続けていたのだ。
 ――賀川先輩は、間違ってなどいなかった。
 あの一連の騒動も、彼女の言っていたように影山の仕組んだ茶番だったのだろう。自分をよりいっそう影山に心酔させるために、女子サッカー部まで利用した壮大なマッチポンプとして。
 影山の為に必死に、そしてこれを幸せだと疑わずにサッカーをしていたあの日。本当のサッカーを取り戻して、それでも影山を信じ続けていたかった自分。木原と比べても捨てられなかった影山への思慕。
 全部全部何もかも、一方的でしかなかった。
 嬉しさも、幸福さも、人形を操るために必要だから与えられたもの。
 なんて滑稽で、愚かしい話だろうか。

 ――あんな日々はもう、二度と帰っては来ない。

 馨は落とした紙をもう一度拾うと、その場でぐしゃりと握り潰した。両手を使って何度も皺を重ね、最後は二つに引き裂いて床に散らす。
 その両目には、今やたった一筋の光も無い。

「……なるほど。つまり、オマエはもう私のもとに従うつもりはないということかね」

 こうなることすらも読んでいたと言いたげに口角を吊り上げる影山。目を合わせることもなく動かないままの馨に対し、次の瞬間、彼は恐ろしいまでに雰囲気を一変させた。

「ならば去れ。帝国は、私に愚かな程従順な、勝利を掴むに相応しい者以外など要らぬ……どうやら貴様は私の見込み違いだったようだ」

 どこまでも鋭く冷厳に言い放ち、サングラス越しでも解るくらいに強く睨めつける。馨は終始目を合わせず、また唇を動かすこともなく、ただ顔を歪めて背を向けた。
 ここへ入室したときとはあらゆるものが変わった。ここに信じるものは何も無い。
 何てことはない、一年半以上もずっと心を委ねていたものは、ただの薄汚い錆びた偶像であったのだ。

「江波」

 あと数歩で扉を越えるというところで、不意に呼び声が掛かる。
 馨は振り向かず、ただ足だけを止めた。

「最後に一つだけ、覚えておくが良い……」


 ――全て、貴様のせいだ。


 鼓膜が震えた刹那、がんっと重たい鈍器でこめかみを強打されたような衝撃が、馨を大きく揺さぶった。反響する痛みが、脳髄にそのまま繰り返し言い募ってくるようだった。

「貴様がサッカーなどやっていなければ、こんなことにはならなかった」

 影山の低く冷たい声音が、骨の芯まで痺れを及ぼす。
 ――もしも、自分がサッカーをやっていなかったら。
 女子サッカー部も、賀川も。
 男子サッカー部も、木原も。

「……ッ」

 あんな目には、遭わなかった?

「ッそんな……私はただ、サッカーが好きだからボールを蹴っていただけなのに……!」
「だが貴様は私の目に留まるような場所で才能をひけらかし、挙げ句私の誘いに乗って帝国でサッカーをする道を選んだ。貴様のその決断、そのサッカーが、結果的に貴様の大切な者たちの破滅を引き寄せたのだ」

 激しく責め立てる言葉の数々が、否応なしに馨の身体へと突き刺さる。違う、サッカーが好きだからやっていただけでそんなつもりは全く無かった――大声で否定したくても、振り返ることができない。さっきまでは何とも無かったのに、今や金縛りにでも遭ったかのように身体が動かなくなっていた。
 背中に影山の視線を感じる。何故かそれだけで、細かに肩が震えた。

「才能を秘めた者が動けば、自ずと世界も動いていく……貴様が、アイツらからサッカーを奪ったのだよ。木原も、あれではもうサッカーどころかまともな運動――いや、最早歩くことすらできないだろうな」
「ちが、う……違う……私はそんなつもりじゃ……」
「全て貴様の、せいだ」

 前よりも明確に放たれた二度目の言葉に、とうとう呼吸が止まった。
 馨をさらに取り入れるために利用された結果廃部となり、サッカーを失った女子サッカー部。
 馨をキャプテンに仕立てあげ、さらなる理想のチームをつくるために破壊された男子サッカー部一軍。
 その破壊に巻き込まれ、サッカー生命を絶たざるを得ない程の甚大な被害を被った、サッカーを愛する一人の少年。
 辿れば、目を背けられない。
 それら全ての出来事の源流に立っていたのは、いつだって。

「わ……たし……の……サッカーが……」

 ――私のサッカーが、皆のサッカーを奪ってしまった。
 今や思考回路は巡っていない。真っ白なそこに浮かんでいる単語を連ね、呆然と呟く。
 そして意図せずともそれが、馨にとって決定的な致命傷となってしまった。
 あの低音と重ねて自身の声が落ち、そうして生み出された波紋はどこまでも、どこまでも、果てしなく広がり続けていく。

「忘れるな、江波……貴様のサッカーは誰も幸せにすることなどできやしないのだ」

 背後から飛んでくる影山の最後の台詞に耳を塞ぎ、馨はその部屋を――帝国学園を、飛び出した。




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