confesses in twilight


 ――程無くしてフットボールフロンティア本戦が始まり、ますますサッカーへの熱意を高めていく帝国学園サッカー部。
 初戦、第二戦の相手は本戦に相応しく中学サッカー界でも名高いチームであったが、馨の采配とメンバーの実力とが上手く噛み合ったため、特に苦戦を強いられることはなかった。
 そして次の準決勝の相手は、やはり名門である木戸川清修。昨年は決勝で戦ったチームでもあるので対策は難しくないが、向こうも前回の二の舞にはならないようにとあれこれ仕掛けてくるはずだ、そう易々と勝たせてはもらえないだろう。影山が最低限の口出ししかしてこない今、誰よりも頭を悩ませるのはチームのブレイン役を担っている馨だった。
 そんなある日、馨は木原と連れ立って稲妻総合病院を訪ねることとなった。誘われたときは頷くのを躊躇ったものの、いずれはやってくる時なのだとして、腹を括ってそこへ出向いた。
 ――その目的とは、最近病棟を移ったらしい香澄の見舞いである。

「部活で疲れてるだろうに、わざわざありがとうな」

「座れよ」と促され、二人はベッドの横に備えてあった椅子を並べて腰掛ける。複雑な思いからなかなか顔を上げ辛い馨とは対照的に、木原は初めからしっかりと香澄と向き合っていた。
《皇帝ペンギン1号》を使ったことで二度とサッカーができなくなり、それどころか足を動かすことすら叶わなくなった香澄。
 絶望の淵どころか完全に谷底へ突き落とされたといえる境遇の彼は、それなのに落ち込んだ様子を全く見せはしない。既に彼を見舞った他の部員の話によれば、今は布団に隠れて窺えない両足も、器具などによってがちがちに固定されているらしい。前までは自由自在にボールを蹴っていた足だと思えば、二人の胸は強く痛んだ。
 痛み入るような木原の視線を受けつつ、香澄は彼の隣でやや俯き気味の馨へと目を向ける。

「マネージャーも、来てくれて嬉しい。ずっと気になってたからな」

 その台詞でやっと顔を上げた馨の目に、驚く程優しい目元の香澄が映る。
 途端、弾かれるようにしてその唇が開かれた。

「……香澄先輩、あの」
「あぁ、謝るなんてことはするなよ。オマエは全然悪くないんだから」
「でも!」
「良いから! ……あの技を使ったのは、他でもないオレ自身の意思なんだよ」

 馨の瞳が揺らぐ。木原がちらりと横目で見た彼女は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「オレは帝国にサッカーのスポーツ推薦で入学しているんだ。だから尚更結果が望まれる人間だったし、結果を出さなきゃいけなかった……のに、二年になってからはからっきしダメになっちまってな。能力だけ伸びて、結果が残せない。すごく焦ってたんだ、内心」

 香澄の言うように、彼は馨の知り得る限りステータスだけなら部内でも三本の指に入る逸材だった。
 しかし、ステータスが良いだけであって実際に試合で何かしらの活躍をしているわけではない。帝国学園サッカー部は“使える”有能者を集めた場所だ、結果が出せない天才はいても仕方がない。香澄が切られるのも時間の問題だった。

「だから、マネージャーが新しい技の使用者にオレを選んでくれて、本当に嬉しかった。あれは最強のシュート技だ。ここでしっかり成功すれば、まだサッカー部でいられる、帝国にいられると思ってな」
「……ですが、オレたちが強さを求めた結果は……」
「これで良いんだ」

 はっきりとそう返した香澄は、部活中では見たことがないくらい穏やかに微笑んでいた。

「オレでなくても誰かがきっとこうなっていたんだ。それなら、サッカーに押し潰されそうになって、サッカーを重圧としか思えなくなっていたオレが一番の適役さ。オレにとって、サッカーは最早義務でしかなかった。実際にサッカーを失って、漸く本当の自分が見えたよ」
「香澄先輩……」
「確かに不便なことはたくさんあるが……両足が無くったって、まだ両腕はある。あとオレ、実は絵描くの結構好きでな、有り余る時間を利用して油絵を始めてみようと思ってるんだ」

 ただの微笑は、語る中でじわじわと柔らかな笑顔へ変わっていく。決して馨の罪悪感を払拭させようとしているのではない、本物の安息が香澄を取り巻いていた。両足を失って始めて気付いた己の在り方を、彼は真っ向から受け入れ、こうして朗々と笑っている。
 その笑顔を見つめる馨は胸がいっぱいになり、同時に言おうとしていた言葉が全て不発のまま喉を下っていった。さっきまでは言い切れぬ程数多の謝罪が頭の中をぐるぐる巡っていたのに、彼の笑う姿がそれらを丸ごと消し去ってしまう。自分でもどうして良いか解らず、僅かに視界が濁った。

「先輩……私は、本当に……」
「それと、聞いてるよ、チームが変わったこと」

 香澄に無理矢理遮られた馨と言葉に反応した木原が、同時に肩をぴくりと揺らす。

「サッカー部はサッカーをするものだって、基本的なことを忘れてたって言ってたぞ、アイツら。木原のおかげみたいだな」
「いや、オレは大それたことは何もしてないです……ただ、自分の理想を形にしてみたかっただけで」
「それでも、帝国学園サッカー部は変わった。純粋に楽しんでサッカーのできるチームに変わった。……感慨深いよ。もしもその変化がオレと、あと藍原の件がきっかけになっていたなら、まさしく怪我の光明ってやつだ」

 細められた目には慈愛が感じられ、言葉に詰まった馨と木原は無意識に顔を見合わせた。
 完璧主義の帝国サッカー部。そこでサッカーを重く感じることしかできなかった香澄の最後の足掻きは、最終的に彼を最悪の結果へと引きずり落とした。
 だが、そんな大きすぎる犠牲を生み、やっとチームはこれまでの自分たちの過ちに気付き、そして変わろうとした。
 自分は謂わば人柱になったと言っても過言ではないのに、それにも拘わらずチームメイトから部の変化を聞いた香澄がこんなに優しく居てくれることに、二人は何とも言い表せぬ激しい感情を抱いた。
 反応し辛そうな後輩を前にし、香澄はからからと小さく笑った。二人が重く捉える空気も、どうってことないように軽く吹き飛ばしてしまう。

「マネージャーだって、前よりずっと丸くなったように思えるしな」
「そう、ですか?」
「名前呼びしてるとか聞いたし、今日見てみて何となく感じた。なぁ木原」
「やっぱり、変わりましたよね馨。何か普通の女子らしさが出たと言うか」
「木原まで……そうかなぁ、あんまり自分では解らないんですけど」

 両者に言われて居心地悪そうに身じろぎする馨。自分ではあまり周囲に対する態度の変化を認識してはいないものの、環境や空気が変わったことで、以前と抱えるものは変わったかもしれない。香澄や木原はともかく、他の部員が言うならそうなのだろう。それだって、別段悪い変化ではないと思えた。
 馨の結論は香澄の意見と同じだったらしい。若干困惑混じりだった馨の目線を捉え、彼は一つ首肯した。

「そうやって変わっていくのは良いことだ。オマエらや他のチームメイトには、ずっと楽しくサッカーをやっていてほしい。オレの分まで、なんて重いことは言わないから、二度とこんな出来事を起こさないようにしてほしい」

 ――サッカーの楽しさを忘れ、強さだけを求め、故にサッカーを失ってしまう哀れな人間を増やさないでほしい。
 自己に起こった全てを踏まえ、現実と向き合い、涙を拭って未来への繋がりを願う。
 そこにあるのは、二度と帰らぬ時へ馳せる思慕と、唯一つの希求。己の歩んだ道に確かな意味を残す彼の言葉は、痛いくらいに二人の胸を震わせ、浸透していった。

「……はい」
「オレたちは、もう大丈夫です」

 馨と木原、二人が揃って強い眼差しにありったけの思いを込めて頷き返せば、香澄はゆっくりと、まるで救われたように瞼を下ろした。


 病院からの帰り道、二人はいつもは通らない河川敷を歩いていた。夕方の日差しは眩しくて、その中で遊び回る小さな子どもたちは皆真っ黒な影に見えている。

「香澄先輩は、強い人だな」

 コート内で駆ける影を目で追いながら、木原はそっと呟いた。馨がそちらを向いても、彼は依然として視線を動かさない。

「もしもオレが先輩の立場になったら、生きていけない」
「……サッカーができなくなるから?」
「あぁ」

 冗談なんかではない、どこまでも真剣な声音。夕日に照らされ、わけもなく不安定に見えた木原の横顔に、いつもの明るい笑みは無かった。

「ずっとずっと我慢して、堪えて、自分を殺して、やっと手に入れたものを、また奪われたりしたら……」
「木原?」

 何の話だ、と口を挟もうとして開いた唇は小刻みに震える。時間帯のせいか、業火のような風景のせいか、それとも初めて見る木原の表情のせいか、馨は今という瞬間が何故か途轍もなく、怖くて堪らなかった。
 ――彼は、小学五年生まで全く運動をしなかった。
 途端に蘇るのは、いつか新田に聞かされた木原の過去。不明瞭で不透明なそれがまた、馨を不安にさせてならない。

「木原……ねぇ」

 眉を寄せて再度声を掛けた馨。
 直後、ぱっと向けられたのは今までと一転した、あの溌剌とした明るい笑顔。

「なーんてな、オレはそう簡単に死んだりしないよ」

 両手をひらひらさせてそう(うそぶ)く様子は、一連の言動全てを無に帰すものでしかなく――。

「……バカ! アホ! ハゲ! もう知らん!」
「ちょ、そんな怒るなよ、ゴメンって! つーかハゲてねーし!」

 怒り心頭でずんずん先を行く馨の背を、謝りながら必死に追いかける木原。彼女らを染め上げていた橙色は、いつしか世界を飲み込む底無しの闇へと変化していた。


* * * * *


「そういえばさ」

 明くる日、部活終了後の静かな昇降口。
 すぐそこの自販機で買った缶ジュースを傾けながら、木原は何気無く馨の手首を指し示した。

「それ、虫刺され?」

 それ、の示すものは、手首に一つ残された紅い斑。比較的白い肌の上、小さな彩色はやけにくっきりと目立っている。
 ずっと触れられなかった部分をいきなり指摘されて一瞬肝が冷えた馨は、しかし何食わぬ顔で自身の手首を軽くさすった。

「あぁ……これは、そう、虫刺され。もう夏も近いし、最近蚊とか増えてきてうんざりしちゃう」
「だよなぁ、んでこの時期うっかり自転車で蚊柱とかに突っ込んだりするとスゲー萎えるし」
「あーやだ、想像するだけでやだ、最悪」
「ははっ」

 些細な、けれども一歩間違えれば大きな問題となる疑問は他愛も無い雑談に変わり、木原に隠れてこっそり安堵する馨。その後も特に有意義とは言えないような他愛も無い雑談をだらだらと続けながら門を出て、帰路の違う二人はそこで手を振って別れた。
 ――そっと撫でた跡は、それを付けられた日より少しだけ色を薄くしているが、あの瞬間に感じたちくりとした感覚は今も尚鮮明に思い起こされる。
 どうして影山があんなことをしたのかは定かでない。その前に向けられた虚な瞳が関係しているのかも、やはり解らない。思慮をするための手掛かりすら与えられていなかった。影山の考えや感情を汲み取るなんて、やはり不可能なのだろうか。

「……」

 いっそ、意味など無い方がずっと楽なのに。
 影山の言っていたように、全てが“戯れ事”の一言で終わらせられるのなら、こんな複雑な思いを抱かなくて済むのに。
 ――そんな思考の裏側には、やはり確固たる意味を求める自分がいて。
 ぶつかっていくことに逡巡し、また泥沼に沈む。この一年間は誰よりも彼の傍にいたはずなのに、前よりも彼のことが見えなくなっていた。

「馨」
「……!」

 木原と別れてから一歩も動かないでいた馨の肩越しに、随分と懐かしく思える声がした。
 振り返らなくても解る。この声を、忘れるわけがない。

「……賀川先輩」
「話があるの。今から、良い?」

 暗がりだからか、以前職員室前で見かけたときよりもさらにシリアスな顔つきの賀川。いいえと答えても逃がさないと言いたげな雰囲気に気圧されず、馨はそちらへ一歩踏み出すことで肯定の意を返した。


 連れて来られたのは近場のファミレスだった。
 夕飯時ということでそこそこ混んでいる店内の一番隅の席を選び、二人は向かい合って腰掛ける。水とお絞りを置いてテンプレート通りの簡単な説明をした店員が完全に去っていくのを確認してから、賀川は表情を変えぬままぽつりと話を切り出した。

「単刀直入に言うね」

 口調はどこまでも堅く、心なしか苦しそうでもあった。

「馨……貴女、今すぐ影山総帥から離れた方が良いよ」
「……総帥から、離れる?」

 本当に単刀直入な一言に、馨の眉間に幾つかの皺が寄った。一体何を言っているんだと視線で訴える馨に答えるように、賀川はその先を紡ぐ。

「私、馨に謝らなきゃいけない……たくさん傷付けちゃったから、本当ならあの日、馨と向き合った日に謝らなきゃいけなかった……」

 賀川の話が、自身が女子部を辞めるまでに至ったいじめのことであると悟った馨は、話の主旨が上手く理解できない状態でもただ無言で聞いているだけだった。段々と小さく、そして弱くなっていく彼女の声を拾い、相槌を打つことなく先へ先へと言葉が繋がるのを待つ。その最中、今更そんなことを言い出した賀川に対する憤りは募りつつあったが、今はぐっと堪えた。

「仕方ない、だなんて言うつもりはない。全部私が悪かった……けど、貴女には聞いてほしい。言い訳にしか聞こえないかもしれないけど、真実を知ってほしいの」
「真実?」

 ある日突然わけの解らないいじめに遭い、今目の前にいるキャプテンには厄介者だと面と向かって言われ、辞めてほしいと言われ、だから辞めた――馨にとって、それが真実だ。自身に起きた出来事は、他でも無い自分こそが証明者となれる、全て確かな真実であったのだ。
 それが今更、弁明でもするつもりなのだろうか――手持ち無沙汰だった片手を水の入ったグラスへ伸ばす。恐らくこの先何を言われても言い訳にしか捉えられないだろうと、そう思いながら馨は続きを促した。
 賀川の唇が、何か恐ろしいものを語るように、薄らと開かれる。

「――あれは全部、総帥のご意向なのよ」

 グラスを掴んだ手が、止まった。

「……なに?」
「総帥は、私にこう言った――江波を部から追い出せ。どんな手段を使っても構わないが、身体だけは傷付けるな。……私だって、最初は勿論反対したけど」

 苦痛に語る賀川の言葉を、馨はきちんと受け取ることができなかった。目の前の口から発せられる台詞が全部、どこか知らない国の知らない言語に聞こえる。意味が解らなかった。
 ――総帥が、何を、言った?
 グラスを持つ手に痺れが奔る。手のひらから伝わるはずの冷たささえ、神経の途中で行方不明になってしまったようだ。頭の中はただ、ただ、真っ白だった。
 総帥が、総帥が、そうすい、が……。

「でも、ダメだった……あの人には逆らえなかった……ごめんなさい馨、ごめんなさい……ッ」
「……どう、いう」

 やっとのことでこじ開けた口からは、壊れた玩具の如きぶつ切りの音しか出てこない。鼓膜の奥で、自分の声がぐわんと響いた。

「総帥の考えは私にも解らない、訊いても答えてくれなかったから……。馨、私たちは皆、貴女を疎ましくなんて思ってなかったよ。確かに最初はいきなり何なんだろうとは思ってたけど……けど、大事な仲間だったんだよ……!」

 つついたら泣き出しそうな、そんな表情で馨を一心に見構える賀川。そこには嘘や偽りは見えない、あのとき教室で向かい合った賀川とは全てが真逆だった。馨を邪魔だと言った彼女は今、どこにも存在しない。

「……総帥、が」

 だとしても、到底――信じられる話ではなかった。

「そ、んなわけ……」

 やっとまともに動くようになった頭で、辿々しくも思考を巡らせる。
 昨年の事件は、馨からサッカーという最も大事なものを奪っていった。そのサッカーを、馨のサッカーの才能を見い出したのは他でもない影山で、帝国学園女子サッカー部という舞台を与えてくれたのも影山だったのだ。
 そんな影山が、わざわざ馨を女子部から追いやるように仕向ける必要性がどこにある? 意図は? 理由は?
 ――有り得ない、有り得ないのだ、そんなことは。

「……ふふっ」

 意識せず、微かな笑い声が漏れた。

「冗談でも性質が悪いですよ、先輩」

 驚いて肩を跳ねさせた賀川から目を離し、馨はグラスを掴む自身の手を見る。根元に彩る跡は、そこだけ色素を多くしたかのように真っ赤に燃えていた。

「貴女たちは私からサッカーを……居場所を奪った」

 次いで戻した視線の先には、怯えた顔をした賀川がいる。語調は自然と責めるようなかたちになっていたが、馨は気にせずに短く息を吸い込んだ。
 燃えたぎる感情が渦を巻き、一気にせり上がってくる。瞼の奥が熱かった。

「でも総帥は違う。あの人は、帝国でのサッカーを諦めていた私にもう一度手を差し伸べてくれた! チャンスをくれた! それに総帥は私のことを求めて……信じてくれている」

 例え、影山が自身の――江波馨の中に別の誰かを見ていようとも、彼は確かに求めてくれたのだ。信じてくれているのだ。自分が辛いとき、影山は誰よりも傍にいてくれたのだ。彼の傍にいて、彼に触れられて、自分は感じたことのない安らぎを得られたのだ。
 そんな人を、今、どうして疑うことができようか。

「そんなこと……先輩の言ったようなことを、あの人がするわけない!」

 ここまで溜まっていたものを全てぶちまけるように言い捨てると、最後は半ば怒号と化した。同時に、強く握りすぎたグラスが指先から滑って倒れ、あっという間にテーブルに水が広がる。淵の寸前で止まった水も、周囲の客が何事だとこちらを見る目も、その一切を気に留めずに馨はじっと相手を睨んでいた。
 賀川は零れた水を拭くこともなく、薄らと瞳を潤ませて馨の視線に応えている。その瞳には明らかな戸惑いと困惑、そして拒絶されたことへの焦りが見え隠れしていた。

「馨……」

 泣くまいと、一度ぎゅっと閉ざした瞼。次にそれを持ち上げたとき、彼女はひたすらに真摯だった。

「……信じてもらえないのは百も承知だよ。でも全部本当なの! 薄らと感じる……あの人は、馨に危ない何かを向けているって……もしかしたら今後、もっと酷いことをするかもしれない。危険だよ!」
「……私は、私を信じてくれる総帥を信じてます。総帥のことを疑いなくなんてないし、裏切ったりもしない」

 身を乗り出す勢いで訴え掛ける賀川には、淡々とした静けさだけを返す。これ以上彼女の言葉を脳に入れたくはないと、そう言わんばかりの口振りだった。

「あの人は、私の……」

 その先にどんな言葉を続ける気だったのかは、自分自身でもよく解らない。不自然に生まれて一瞬で消散したそれは、二度と心に戻ってくることはなかった。
 口を噤み、一人立ち上がる馨。様子を見に来ていた店員の狼狽した眼差しを振り払い、背中越しに呆然としている賀川を一瞥すると、そのまま黙って店をあとにした。


 ――ボスッと音をたてて倒れ込んだベッドは、気のせいかいつもより少し固く感じられた。

「……」

 スカートが皺になるのも厭わず、倒れたまま膝を抱え込む。やり場の無い思いを打ち消そうと腕に力を入れればそれだけ、がんがんと頭が痛むような気がした。
 脳裏から消えない、賀川の必死の形相。必死の声音。彼女の言葉を借りれば、自分に対して“真実”を伝えようと懸命だった。
 あれが本当に、真実ならば。

「……あの日」

 影山は、何も言わずとも馨の身に起きた事件を把握していた。涙を隠そうとするだけの馨を優しく包み込み、全てを理解したように涙を促した。
 彼は、いじめのあった三日間は学園にいなかった。いじめは、認知できるわけがなかった。
 ――だったら何故、知っていた?

「……違う」

 今の自分は賀川の言葉に囚われている。考えすぎだ、きっと。彼はいつだって何もかもを知っている、そういう人なのだ。何故を辿るだけ無駄だと、以前もよく思っていたことなのに。
 手首を持ち上げる。紅はよく目立つ。見る度に、寄せられた唇の冷たさを思い出す。そしてその冷たさは、連鎖的に彼の体温と心肝に響く低音を蘇らせた。
 あの体温が、自分をここへ連れて来たのだ。
 あの声が、自分を今へ導いたのだ。

「貴方を、信じたい……」

 自分を誘った全てが享受して良いものであるのだと、思い続けていたいのだ。


* * * * *


 結局その夜は思うように寝付けず、すっきりとしないまま翌日を迎えることとなってしまった。
 何故寝付けなかったのか、何がそんなに心を惑わせているのか、自身に巣食う明確な原因は不明だ。けれど根本にあるものは解っている。解っていて、より深いところまで考えたくなかった。何とも言い難い重苦しさが、頭の天辺から足の先までに纏わりついているようだった。
 それでも何とかいつも通りに振る舞って朝練を終え、授業を受ける馨。指名されたらきちんと答えられる準備だけはしておき、教師の言葉を半分以上受け流す。時々脳内をちらつく昨日の出来事は目を瞑って掻き消した。何度も何度も、あの必死な表情を無に帰した。
 ――あれは全部、総帥のご意向なのよ。
 彼女の放つ言葉は、己を惑わせる。だから否定する。
 例え彼の、影山のサッカーに疑問を抱こうとも、影山自身にまでその疑念が及ぶなんて馨にはとても耐えられなかった。何故なら、影山を疑うということは自分自身がこれまで培ってきた想いを全て突き崩すことと同義であると、知っているから。
 信じた。好いた。求めた。どこまでも一途に、彼という人を。
 そんな自分が、全て幻想であったなんて受け入れられるわけがない――。

「馨!」

 もうすっかり慣れてしまった呼び声が教室に響いたのは、馨がちょうど弁当を広げ終えた昼食の時間。箸を手に取ろうとする動きを止めてそちらを見れば、木原が真っ直ぐ席へやって来るところだった。彼は一枚の紙を持っている。

「木原……わざわざどうした?」
「お昼時に悪いな。オマエ、今日の午後部出れないんだろ?」
「うん、委員会でね」

 先日からばたばたと動き出した委員会の影響を受け、馨は今日の部活は出ないことになっている。代わりに、既に引退した槻尾が雑務をやってくれるらしい。
「ごめん」と詫びを入れた馨は、真横に立った木原に身体ごと向き合う。続けてここへ来た用事を問うと、木原は持っていた紙を広げて馨の方へと差し出した。

「これ、見てくれ……今日の朝練の後に、総帥から渡されたんだけど」

 受け取って中身に目を通すと、粗方進んだところで馨の目が僅かに見開かれた。

「……これは……決勝戦の、作戦?」
「あぁ、そうみたいだ」
「どうして、決勝でいきなり作戦なんて……」

 馨の言うように、紙に書かれていたのはすぐ近くに控えた決勝戦用のフォーメーションと戦略である。決勝の相手はこれまで以上の強豪ということで馨も気合いを入れて作戦を考えていたのだが、どういうわけかここへきて突然影山からの指示が投下された。
 だが、馨が気にしたのはそこではない。問題はその中身にあった。
 影山の作戦は一言で表すと、“以前の帝国のやり方に戻った”だけだ。相手のスタメンに厄介な選手が数人いるため、まずは左サイドの重要選手を三人、次にキーパーを潰す。相手が右から左へ選手を動かしてきた場合もやることは同じである。フィールドの方を制圧できたら、あとは交代したキーパーを削りながらシュートを狙う。そこまですれば勝利は確実だ。何も珍しい作戦ではない、帝国サッカー部ではこれが当たり前なのだから。
 ――以前までの、帝国サッカー部ならば。

「馨……オレは、こんな作戦、嫌だぜ」
「……」

 帝国はあの事件を境に生まれ変わった。相手を痛めつけるだけのサッカー、まともに試合をせずに得る歪んだ勝利、そんなこれまでの自分たちとは決別したのだ。
 勝利に固執するだけが本当のサッカーではないと知ったから、そしてそれを身を以て解らせてくれた香澄のためにも、チームはサッカーの持つ純粋な楽しさを追い求め始めた。そうやって変化を迎えたからこそ、もう昔のようなサッカーはしたくなかった。
 木原が奥歯を食い縛る。馨にも、彼の抱く気持ちが痛い程伝わっていた。

「やっと皆で楽しくサッカーができるようになったのに、また前みたいに戻るのは嫌だ」
「うん……私も、嫌だ」
「馨……」

 はっきりと賛同する馨に、木原は僅かに感動したような素振りを見せる。
 だが、彼の見下ろす先にある瞳は決して、彼の期待するような確かな一色に染まってはいなかった。

「総帥と、話し合ってみる」

 その目は暗に、私にはどうすることもできないと断っているようにも見えた。


 職員室へ入るときにかける「失礼します」とこの部屋へ入るときの「失礼します」は、同じ言葉であるはずなのに口にする瞬間の心持ちが全く違う。後者の、言い終えた後にやってくる胸が爆ぜそうな感覚は、この先何年も言い続けていたらいずれ何とも無くなってくるのだろうか――そんなことを胸中に巡らせ、馨は開かれた先へ足を進めた。
 正面にいる影山はどうやら通話中のようだ。間が悪かった、と後悔した馨だが、扉を開けたのは影山本人なのだから聞かれてマズい内容でもないのだろう。通例の場所で足を止めて見上げる彼は、暫くの間携帯に向かって何も喋らずにいた末、(おもむろ)に通話を切った。今のが果たして通話と言えるのか、馨は内心小首を傾げた。
 携帯を懐にしまった影山が、椅子を軋ませて足を組む。馨はあちらから切り出されるまで、ひたすら黙ったまま待ち続けていた。

「江波か、そろそろ来る頃だろうと思っていた」
「通話中だとは知らず、失礼しました。……総帥、あの作戦の件なのですが」
「やはりな」

 全てが全て、彼の想定内のような物言い。含み笑いを湛えてシナリオの答え合わせでもしているかの如き様相に、馨の眉間に細かな皺が生まれる。

「私たちは、あのような強引な方法でなくとも勝利することができます。そのためにこれまで練習を重ねてきましたし、ここまで勝ち上がってきました」
「決勝とそれ以外の試合を、同列に見るのかね」
「……確かに、優勝と準優勝では大きな壁がありますが……」
「それに、私は完璧な勝利を求めていると言ったはずだ」

 馨は返す言葉に詰まり、口を閉じる。
 影山の思い描く勝利は、この一年と半年でよくよく頭に焼き付いていた。それがどんな背景によって形成されたものなのかも、半分以上推測ではあるが知ることができた。それと共に、自分の言葉なんかでは彼の持つ世界をひっくり返すどころか震わせることさえできないのだとも、理解していた。こんなちっぽけな声では、底の見えぬ深淵に震動を生み出すことすらしない。
 馨が無言のまま戸惑っていると、影山はふっと嘆息してサングラスを押し上げた。そんな些細な動作にさえ馨の身体は反応し、息を呑む。

「最近はずっと好きなようにやらせていたが、そのせいでオマエは本来の帝国のサッカーを忘れてしまったようだな」

「来なさい」と声が手招く。
 異様に近くで聞こえたような気がしたそれに従い、馨はのろのろと、もう久しく立っていない指定場所へとその身を踏み入れた。顔を上げれば、すぐ傍まで骨ばった手が伸ばされていた。

「江波のサッカーも良いが、それ以上に私の下でフィールドを支配するオマエの方がずっと魅力的だ」
「……ですが、私はもうフィールドプレーヤーではありません」
「そんなことは問題ではない。オマエは、私と共に歩むべきなのだよ……」

 するりと頬を下って首筋を撫でる掌はひやりと冷たい。動きに合わせるように零される影山の言葉も、対象は真っ正面にいるのに、何故だろう。どこか別方向へ向けて語られている心地しかしなかった。


 その後、委員会から解放された頃には部活の時間も終わっており、馨はグラウンドに寄ることなくそのまま昇降口へ向かった。携帯を開けば槻尾から『任務は無事完了』と簡素なメールが入っており、感謝の意を返してからパタリと閉ざした。
 すぐそこまで夏が来ているため、外はまだそこそこ明るい。と言っても、昇降口を染め上げる色は目に痛い程に鮮やかな橙だ。強烈なコントラストに視界がちかちかするのを堪え、靴を履いて外へ出れば、逆光の中に一つの影を見つけた。

「おー、お疲れ」

 そこにいたのは木原だった。

「木原? まだ帰ってなかったの?」
「いや、ちょうど帰ろうとしたらオマエ見つけたから待ってた」

 馨はぱっと笑顔を返してくれる彼を見て、そういえば言わなければならないことがあるのだと思い出す。だが、どうにも上手く言い出すことができない。
 ――作戦の変更は叶わなかった。
 申し訳ない、非力な自分を恨んでくれと、そう言いたいのに口が動いてくれない。彼の笑顔を、崩したくなかった。
 鞄を肩に引っ掛けて隣に並んだ木原は、馨の顔を覗き込むと一瞬だけ目を伏せた。が、馨が気付く間も無くすぐに正面を向く。

「んじゃ、公園でも行くか」
「は?」

 何を突然言い出すのだと口を開きかけるが、彼の足がネットに入ったサッカーボールを小さく蹴っているのを見て潔く追及をやめる。聞かずとも返答は解り切っているのだ、ならばぐだぐだ言っても仕方ない。

「……校則じゃ、寄り道は厳禁なんだけどねー」
「オマエそんなキャラじゃねーじゃん」
「うっさいな」

 憎まれ口を叩く木原の背に軽い蹴りを決めると、彼はけらけら笑いながら大袈裟に吹っ飛ぶ真似をしてみせた。
 頭上で高らかに響き渡る烏の鳴き声を耳に受け、二人がやって来たのは学園からそう遠くもない場所にある小さな公園。馨はこちらにはあまり来たことがないが、木原はそうでもないようで、「相変わらず寂しいなー」などと漏らしては鞄をベンチへ放り投げた。馨も彼に倣って同じく持ち物をベンチへ預け、早速ボールを取り出した木原の向かいに立つ。ローファーにスカートだが、一応動けないこともない。
 燃えるような夕日に照らされる中、トン、とボールが蹴り上げられる。全く動かずとも足元へ届いたそれに興奮を抑えられない馨は微笑を浮かべ、今度は地面を滑るかたちで蹴り返した。見てみれば、木原はとっくに満面の笑みだ。

「あー、やっぱ楽しい」
「そんな顔してるよ」

 特に高度な技術を使うわけでもなく、無邪気な子どもの遊びのようにボールを蹴り合う。ただそれだけなのに、馨も心の中に充実感に似た暖かさが湧いてくるのを実感していた。

「オレ、オマエとボール蹴ってるときが一番落ち着くよ」

 高いループを描いたボールをツータッチで受ける木原。馨はつくづく彼のストッピングやトラップの動きは美しいと思った。感嘆の息すら吐いてしまいそうになる。当然、彼のプレーの魅力はそれだけではないのだけれども。

「オマエは?」
「私は、木原とも勿論だけど、皆と一緒にいるときが一番好きだな」
「馨らしいや」

 爪先で弾いてから柔らかに蹴り上げ、彼は白い歯を見せて鮮やかに笑う。黄金の夕日に染められたその光景は、不思議と儚く透き通ったもののように感じられ、ボールを受け止めた馨は無意識に小さく息を止めた。
 魔が通ったのだろうか――こんなに穏やかにボールを蹴っている自分が、まるで信じられないと思えてしまう。
 向こうには蹴ったボールを受け止め、笑ってくれる人がいる。明日になればまた部活があり、たくさんのチームメイトと共にサッカーができる。彼らのサポートをして、彼らのつくるサッカーを誰よりも傍で見守っていることができる。
 確実に現実に溢れるそれらが、なのにどうしようもなく脆く不確かであると感じられてならない。こんなに、それこそ手を持ち上げるだけで触れて感じられる距離にあるというのに。
 その、一種の不安めいた感情。突如湧き起こって内心を乱してしまうそれはしかし、ある一定の箇所を過ぎれば、改めて現実を再認識させるだけのものとなる。もう一度しっかりと抱いてみて、何て優しいのだろう、何て尊いのだろうと思えたら、あとは愚直に身を委ねるだけ。
 ――幸せなのだ。
 色々思い悩むことや辛いこともあるけれど、自分は今この瞬間にこの世界で生きていることに、確かな幸福を覚えていた。自分を囲う環境を、幸せだと思えていた。
 ひたひたと胸に染みるものを感じつつ、止めていた足を浮かせてパスを出す。その軌道に乗せて、そっと紡ぐ。

「時々思うんだ。このまま――時が止まってしまえば良いのに、って」

 しなやかな声音。
 どこまでも澄んだ思いの込められたボールを受け止めた木原は、いつしか顔面から笑みを消していた。

「……オレ、サッカーが大好きだ」

 代わりに浮かべるのは、彼には珍しく形容し難い複雑な表情。
 けれども馨は驚かなかった。
 彼の発する台詞を、ただ真摯に受け入れるだけで。

「知ってるよ」
「オマエの……馨のサッカーも、好きなんだ。あんなプレーができるのに、どうしても馨ってプレーヤーの姿がはっきり見えてこなかった。それが何故か無性に悲しくて、何かいろいろ、偉そうなこととか言ったりしちまったけど……」

 語尾は殆ど口の中で転がしたまま終わった。木原は、喋る間中ずっと何かのきっかけを探すようにボールを捏ね回し、言葉が切れたらポンッとそれを宙に跳ね上げる。ワンバウンドの後に通ったパスは、彼の心がそのまま乗り移っているみたいに素直な感触がした。
 馨はくすりと笑い、両肩を持ち上げる。そのとき脳裏に浮かぶのは、木原との初対面から今までの様々なやり取りばかりだ。思い出せばそれだけ、こそばゆい気持ちになった。

「良いの。そんな木原のおかげで、今の私がいるんだから。寧ろ感謝してるんだ」

 自分のサッカーとは何か。
 サッカーの本質とは何か。
 木原がいなければ、きっと思い出せずに失ったままだったのだ。こんなに大切なものだったのに。

「私だって、大好きだよ」

 その洗練された美しいプレー、明るい笑顔、人を導く光となる精神、希望に満ち溢れた木原暁というプレーヤーそのもの。そしてここに至るまでの全ての道程を含めて、彼は自分の太陽であったと胸を張って言える。どうかいつまでも穢されぬようにと、心からそう思えるのだ。
 夕日の強い光が馨を目映く照らす。真っ白に映るその中でも解るくらい、彼女はたおやかな表情を浮かべることができていた。
 それを真正面から受け止める木原の心が、大きく波打つ。

「……ありがとう、馨」

 このパス一つで、胸に巡る全ての気持ちが伝わってくれたら良いのに――そんな儚い思いを抱きながら、二人は夜が世界を包むまで、いつまでもボールを蹴り続けていた。




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