アメリカからの客人は、


 次の日から、馨は予定通り雷門サッカー部の練習に参加することとなった。
 朝の開始時刻は帝国よりも遅めなうえ、家から学校までの距離が格段に近付いたおかげで時間にかなり余裕が持てるようになったことはありがたい。のだが、何分これまでずっと帝国の練習に合わせて早起きをするのが習慣づいていたため、結局は新たに設定し直したアラームより先に目が覚めてしまった。
 カーテンを開け、窓を開け、清々しい朝の空気を肌に感じながらてきぱきと準備を済ませる。身なりを整え終えれば出発の時間まではまだ少し猶予があったので、ベッドに放置されていた携帯を開いた。新着メッセージは無い。その確認ついでに、昨夜までに貰ったいくつかのメールへと再度目を通した。

『明日から雷門コーチになっちゃうんだよね?(´・ω・`) でも馨はいつまでも帝国のマネージャーだから! オレたちのこと忘れないでね! 頑張って!(≧◇≦)ノ』
 ――相変わらず顔文字乱舞のこれは成神からのもの。忘れるわけなんてないのに、それでも一時の別れを惜しみつつ激励してくれる彼は本当に良い子である。
 馨がそんな気持ちをそのまま返信すると、泣き顔の顔文字連打で返された後、同室である咲山から『成神が泣いてて鬱陶しい』とリアルタイムで苦情が来たので、馨は思わず画面の前で笑ってしまったものだ。

『明日の部活は朝八時に集合、八時半からスタートだぜ!!! もう一度姉ちゃんと一緒にサッカーできるなんて夢みたいだ!!!! オレめっちゃ頑張るから、よろしくな!!』
 ――これは円堂からのメール。昨日はうっかり時間を確認せずに飛び出してしまったので、わざわざ教えてもらえて助かった。
 成神のメールを読んだ後だと顔文字が無い分シンプルに見えるが、数の多い感嘆符の一つ一つに彼の熱意がまんま込められているように感じられるので、良い意味での喧しさならば同じくらいだと思えた。

『朝のうちは店の仕込みをするから、アイツらのことはオマエに任せるぞ、江波』
 ――上の二人以上に簡素なこちらは響木からの業務連絡。
 どうやら午前は響木が不在で、馨のみが監督者となって部活を行うようだ。練習を見ることもそうだが、事故や怪我などが起こらぬようにするという意味でも、きっちりと監督者としての役目を果たさなければならない。これは大人の担うべき責任だ。
 その他、帝国メンバーやいつの間にかアドレスを入手していたらしい雷門メンバーとのやり取りを振り返っているうちに、気付けば家を出る時間となっていた。

「……よし!」

 今一度気合いを入れ直し、馨は足取りも軽く雷門中へと向かっていった。


「おはようございまーす」
「おはようございます、コーチ!」

 揚々と挨拶をすれば、既にグラウンドにて準備に取り掛かろうとしていた音無が、朝から元気いっぱいの笑顔で返してくれた。馨はベンチの隅に荷物を置き、早速身体を解し始める。

「他の皆は部室?」
「はい、もうすぐ着替え終えて戻ってくると思いますよ! あ、そういえば木野先輩と土門先輩は少し用事があるらしくて、午後からの参加になるかもしれないとのことです」
「用事かー、解った。じゃあ午前中は春奈ちゃんだけがマネージャーやるんだね」

 木野は用事でいないし、夏未はまだ理事長の怪我が回復しきっていないそうで復帰は難しいうえ、元々事務専門というかたちだったのであまり直接的なマネージャー業務には携わっていないらしい。
 ということは即ちそういうわけなのだが、音無の方は自分一人で全ての作業をこなすことを何とも思っていなさそうだ。馨の言葉に、溌剌として大きく頷いた。

「そうですね、でも平気ですよ! それに、コーチだって帝国では一人でマネージャーやってたんですよね、お兄ちゃんから聞きました!」
「私は慣れてたし、一応これでも二十歳だからね。準備大丈夫? 手伝おうか?」
「心配には及びません! 私だって立派なマネージャーなんですから」

 えっへん、とそのまま単語が見えそうなくらい堂々と胸を張る音無。

「雑用とかそういうことは全部私や、今はいないけど木野先輩たちに任せてください。コーチがコーチに専念できるように、ますます頑張ろうって思ってるんですから!」
「そっか、ならお願いするね。ありがとう、春奈ちゃん」

 こうした役割分担というのも大事なのだろうと、彼女の態度を見ているとそう思う。音無がせっかくこう言ってくれているのだから、馨も自分がやれること、やるべきことにしっかり注力すべきだろう。お礼ついでに頭を撫で、さらに少しずれていたバレッタの位置を整えてやると、音無は擽ったように少し首を引っ込めた。

「えへへ……だって嬉しいんです、こうしてコーチと一緒に練習したいなーってずっと思ってたので。また、夢が叶っちゃいました!」

“また”というのは、少し前に一緒に商店街を歩いたときに交わした『お姉ちゃんに憧れていた』というあの話にかかっているのだと、馨はすぐに思い至ることができた。

「私も、春奈ちゃんと一緒に部活をやるのすごく楽しみにしてるんだ。頼りにしてるよ、これからよろしくね」
「はい! よろしくお願いします!」

 一段と明るさを増した音無の大きな声が校舎の壁に反響する。嬉しそうにぴょこぴょこと跳ねながら準備作業に戻っていく背中を見つめつつ、馨もより強い責任感、そしてそれを上回る程の期待感を胸に湧き上がらせるのだった。
 その後、ユニフォーム姿に着替えた部員たちがぞろぞろとグラウンドに集まってきて、いよいよ新生雷門サッカー部による初めての部活動がスタートした。
 各自がストレッチとウォーミングアップをしている間に、馨はまず、選手個人の能力データを確認するところから始めることにした。本当ならばこんな作業は昨日のうちに済ませておきたいことではあったが、如何せん持ち出し厳禁の情報、さらに馨本人が半ば逃げ出すかたちでさっさと帰ってしまったので致し方無い。誰もいない部室にて管理されていたファイルを一つずつ手に取り、しっかりと、それでいて素早く、その全てに目を通す。

「……思った以上に成長してるなぁ」

 実際に目で見るだけでも彼らの成長具合は相当なものだと理解できていたが、こうして明確な数字として記載されているものを比べてみれば、その上がり様は一目瞭然。響木が言っていたように、全く手つかずだったからこその飛躍的向上である。ここまで光れるようになるものなのかと、馨はそれぞれのファイルを捲るたびにいちいち舌を巻いていた。
 持ち出しができないため、必要な情報は全て頭に叩き込む。そしてこれからやっておきたいことを走り書きで用紙に書き留め、バインダーに挟んだ。外からは――時間的にもまだウォーミングアップをしているだけのはずなのだが――ここにいても聴こえてくるくらいの元気な掛け声が響いてきている。早く練習に参加したいと、馨の身体は年甲斐も無くうずうずしていた。
 バインダーを抱えてグラウンドに戻ると、ちょうど二人一組でのパス&トラップの練習に入るところだった。

「お帰りなさい、コーチ! 情報はあれで足りましたか?」
「うん、充分だったよ。細かく記録取っておいてくれて助かった」
「そちらは夏未先輩の管轄ですね」
「じゃあ後でお礼言っておかないと」

 夏未が丁寧にこれまでの記録を纏め、且つ変遷として確認しやすくしてくれていたおかげで、馨の頭には今後活かしていくには充分な情報が詰め込まれている。それを早速活用するのが、このパス練習である。
 チーム間の連携については、昨日の試合の中で鬼道が粗方修正してくれたおかげでマシになってきてはいるようだ。まだ手直しの足りていない部分はあるけれど、見ればそれに気付いた鬼道が逐一皆に声をかけている。コーチ型無しとまでは言わないが、彼の存在一つでも雷門の連携はほぼ問題無く整えられていくだろう。効率的に事を進めるためにも、ここはやはり役割分担といきたい場面だ。
 馨が指導をしたいのは、能力の向上に追いつけずまだまだ荒削りな動きの目立つ、個々のプレーの方だった。
 まず真っ先に目につくのはFW陣。今まさに豪炎寺から投げられたボールをトラップしたものの、上手いこと懐へ収められず難しい顔をしている染岡。続けて豪炎寺へパスを出すも、思うように真っ直ぐ飛んでいかなかった。

「染岡くん、ボールを受け取るときにもう少し足を深く傾けるようにしてみて」
「深く?」

 さっと後ろについて端的な指示をすると、染岡は何ら訝しむことなく素直に頷く。そして豪炎寺が投げたボールを再度トラップする際、指示通りに足の傾きに意識を向けたことが功を成し、以前までのように綺麗に足元に収めることができた。

「す、すげぇ! 何で解ったんだよコーチ!」
「染岡くん、ボールに対する反射神経が前より格段に上がってるんだよ」

 脳内ライブラリから彼についての情報を引き出しつつ、馨はその疑問にさらりと答える。

「だからしっかりボールを見る余裕ができてるのに、身体がそれに順応せず、前までと同じ突発的な動きで取ろうとしてた。もっと動作一つ一つに余裕と、あとは単純な身体能力の上昇を加味した深みと含みを持たせる必要がある」
「深みと、含み?」
「今、私に指摘されたことで少し考えてから動いたでしょ? だから上手く取れたんだよ。足の傾き自体が浅かったのも確かだけど」
「あー、なるほど、つまりオレの中で一拍置くのが良かったってことか」

 馨の説明によって、染岡は自分でその結論を導き出すことができた。一から百まで説明してやるのも良いが、こうして選手本人が改善点へ至れることだって、きっとコーチングの大事な点に違いない。馨が満足してにっこり笑えば、染岡の表情にどこか尊敬の色が浮かんできた。

「つーか、それ今気付いたんだよな……やっぱコーチ、すげぇわ」
「じゃ、次はそれを踏まえて自分でタイミングを計ってみてね。考えなくても自然と取れるようになれれば完璧だよ」
「おう! その次はパスの方も頼むな!」

 頼る気満々の染岡が豪炎寺にボールを投げ、今度はあちらがトラップをする。さすが初期からできあがっていたエースストライカーだけあり、染岡程の大きな変化やミスも無く綺麗に受け止めることができていた。
 彼もまたイナビカリ修練場によって能力を向上させてはいたのだが、本人はきちんとそれを自覚し、己の動作に活かすことができているらしい。動きそのものが前に見たものとまた違っていることに気付き、馨は「わぉ」とアメリカンかぶれな感嘆を漏らした。

「豪炎寺くん、やっぱりすごいねぇ。やっていて気になる点は?」
「特に無い……と言いたいところではあるが、少し」
「私でお役に立てるかな?」

 豪炎寺側へと回り、隣で小首を傾げる。
 それを見た豪炎寺はぷっと微かに噴き出すと、足元のボールを爪先で器用に掬い上げ、何度かお手玉した。

「走りながらパスを出すとき、微妙にもたつくんだ。自分でもいろいろ足の動きを変えて試してみたんだが、なかなかしっくりこなくてな」
「あぁ、豪炎寺くん足の速さが上がってたからそのせいかもね。ちょっと助走つけて蹴ってみようか……ごめーん染岡くーん、距離取ってー」
「どのくらいだー?」
「五メートルくらーい」

 言われた通りに距離を置いた染岡。
 豪炎寺はお手玉していたボールを地面に置き、軽い助走をつけて蹴り出した。低めのループを描いて染岡のもとへ飛んでいったボールを染岡の方も上手にトラップできていたが、馨の視線は終始豪炎寺の左足に集中していた。じっと観察すれば判るが、「もたつく」と本人が言っていたように、いまいちシュート時のインパクトが落ち着いてはいないように思えた。

「今までは何をどんな感じに試してみた?」
「そうだな……蹴り出しまでの歩数を増やしたり、逆に減らしたり」
「ふむ、蹴る側の足に問題があるわけでもなかったし……じゃあ、踏み出す方の足の……位置かな。少し変えよう」
「位置?」

 染岡からボールを返してもらってから再びセッティングし、さらに馨はボールの少し手前にガリガリと靴でラインを引いた。ボール一個と半分程、インパクト時に左右の足に空間を持たせるための印である。

「ここに踏み込む足の爪先が合うようにして蹴ってみて。合わなければ調整していくよ」
「解った」

 そうして豪炎寺もまた、馨の指示には素直に従う姿勢を見せた。
 思えば、彼をこうして指導するのは初めてのことである。音無がそうだったように、豪炎寺も馨がコーチを辞めて以降に参入した部員なのだ。『炎のエースストライカー』相手に指導なんて畏れ多い部分も否めないが、せっかく頼りにしてもらえるのだから精一杯頭を働かせて成果を出し、彼のさらなる成長に一役買いたいではないか。
 助走をつけようとする豪炎寺の足を見つめながら、馨は唾を飲み込む。らしくもなく緊張する自分がいることに気付いた。

「……おっ」

 豪炎寺は言われた通りにライン寸前で右足を止め、これまでよりも大きくなった踏み込みと共に勢い良くボールを蹴り飛ばした。ドカッ! という威勢の良い快音が天高く響き渡り、一回目に比べてやや高さの増したボールが見えない軌跡を引く。五メートル離れただけでは足りなかった染岡が、何やらわーわー言いながらバックして辛うじてトラップに成功していた。
 染岡には少し悪いことをしてしまったけれど、今のパスは豪炎寺的にも手応えがあったのではなかろうか。馨は興奮しそうになるところを理性で制し、努めて冷静に彼を振り向いた。

「今の良い感じじゃなかった? 足の具合はどう?」
「……馨、魔法使いか何かなのか?」

 豪炎寺は暫し自分の足を見下ろしていたが、やがてそんなことを言いつつゆるりと馨を仰ぐ。台詞に反して心底大真面目な切れ長の眼差しを受け、馨はぱちりと瞬きをした。
 魔法使い――そんな豪炎寺らしくない子どもじみた表現も、今はきっと、彼なりの最大級の賛辞なのだ。
 何だか妙に擽ったくなって、くすりと笑う。豪炎寺がはっとしたように肩を揺らした。

「いや、……違和感はだいぶ減った。すごいな、たった一回でここまで直せるなんて」

 今の発言を無かったことにしようとする様子が、彼もまた十四歳なのだなと思わせられてどことなく可愛く映る。弄り倒せばもっといろんな反応をしてくれるのだろうが、彼のプライドのためにもそんな真似はしないでおこう。馨は潔く真面目な顔に戻り、豪炎寺の足とラインとを見比べた。

「だいぶってことは、まだ完全ではなさそうだね。なら納得いくまで何度か試してみようか」
「ありがとう、『江波コーチ』」

 照れ隠しのついでに馨を茶化してみようとしたのだろうか、豪炎寺はそう言ってにや、と意味深に口端を軽く吊り上げた。大方、慣れない呼び名に戸惑う馨の姿でも期待しているに違いない。
 だがそう易々と乗せられていては、コーチどころか年上としても型無しになってしまう。

「んー、なんか君にそう呼ばれると落ち着かないなぁ」
「でも、コーチなことに違いはないだろう?」
「まぁそうだね、少なくとも“魔法使い”ではないことは確かかな」

 せっかく触れないでいたのに、先にけしかけてきたのはそちらなのだから一応これでおあいこだろう――豪炎寺と同じだけにやりと笑んで切り返すと、珍しく返しに詰まって目を丸くした豪炎寺。やがてぷいっとそっぽを向いて、「……それは忘れてくれ」と小さく呟いた。


 そんなこんなで染岡、豪炎寺を始めとしたメンバーの個人修正を加えていくうちに、時間はあっという間に進んでいった。
 パス、トラップ、ドリブル、ブロック、シュート――各種練習中に、馨は何とか全員の動きを見ることができた。さすがにこの身一つでは全員分を完璧に直しきるまでは無理だったが、最低限手を入れておきたい部分は調整できたはずである。何も今日中に全てを終える必要も無いのだし、あとはスケジュールを組んで丁寧に仕上げていけば良い。帝国との練習試合時の突貫工事具合に比べればかなりマシな状況だった。
 さて、個人やペア練習が終わったところで次はいよいよポジション別、そしてチーム全体での練習に移る。
 ポジション別の方に関しては、特に連携が重要視されるMFに鬼道がいてくれることがとてもありがたい。直接彼らと共にゲームを進めながら練習できるわけではない馨と、実際に選手の一人としてパスワークの中に組み込まれている鬼道とでは見えている世界に若干の差異がある。その二つの視点を擦り合わせていけば、より確かに連携強化へと繋げていくことができるだろう。

「鬼道くん、どうだった?」

 一通りの動きを確認した後、MF陣が集まって半円をつくる。その正面に立ってバインダーを手にしている馨は、カチカチとボールペンを弄びながらそう問うた。

「はい。やはり全体的にパスの威力も精度も上がっているため、もう少し大きな動きを組み込んだ方が良いかと思われます。これまでの雷門はとにかく小さくてもパスを繋ぐことを重要視していたようですが、そろそろその枠を逸脱しても良さそうです」
「うん、サイドの切り替えはもっとスムーズに、ダイレクトにできるようになったら良いよね。ロングパスももっと正確に通るようにしたいし、間に鬼道くんが入ってボールが捌きやすくなってる分、MFは今以上に大胆な動きをしてみせたいな」
「何だか難しそうな話ですね……」

 二人の会話を聞いて、少林寺がうむむと眉を寄せている。確かにいきなりいろいろと要求を増やすぎかもしれないが、今の彼らにはどれもそこまで難しい相談ではない。

「そんなことないよ。現状の力があれば、あとは意識して練習を重ねていくだけでちゃんとかたちにすることができる。それだけの実力があるんだから、自信持って」

 笑いかけると、少林寺は少し安心したように眉同士を離して頷き、ふわりとポニーテールを揺らした。

「なら、具体的には何をどうすればいいんだ?」

 半田が腰に手を当ててそう尋ねる。
 馨は手元のバインダーへと視線を定めつつ、「えーっと」と考えをまとめた。

「まず、半田くんは今よりももっとボール保持率を上げたいな。君はDF寄りポジショニングだからゴールキックやDFからのパスに応じる機会が多いし、脚力も素早さを活かしてある程度持ち込んでもいける。そこから司令塔の鬼道くんに繋げるも良し、逆サイドの宍戸くんに渡すも良しって感じで」
「おぉ、保持率ってことはとりあえず取られない練習が大事だな」
「次にマックスくん、君はとにかくボールの扱いが上手いから専ら中継役向き。どこからパスが来ても受け取れて、どこにパスを出しても通るような正確さが欲しい。広い視野を持ってボールの流れと選手全員の動きを見られる観察眼を鍛えていきたいな」
「オッケー、器用さ活かしてやってみるよ」
「で、少林寺くんは俊敏さがかなりあるから自分で盤面を操るっていう意識を持った方がいいかもね。鬼道くんは前衛に出ていくことも多くなるし、その分後衛寄りの中盤は少林寺くんが抑えておきたいな。ここは鬼道くんと要相談で、動き方を確認してね」
「解りました! き、鬼道先輩、よろしくお願いします」
「あぁ、よろしく頼む」

 まだどこかぎこちないながらも頑張って親交を深めようとする二人に、馨はほのぼのしながらもさらに続けようとした。

「そんでもって、宍戸くんは――」
「え、オレもですか?」

 のだが、宍戸のそんなとぼけた一言で言葉はぷつりと途切れてしまった。
 何を言ってるんだ、ときょとん顔をしてしまう馨の向かいで、宍戸も同じくきょとんとしている。まるで、今馨が彼の名を挙げたことが思ってもみなかったものだと言わんばかりの反応だ。
 そう、まるで――これから先、ずっと宍戸の出番など無いかのような反応。

「宍戸、何を言っているんだ」

 馨よりも先に言い返したのは鬼道だった。
 それに続き、半田や少林寺、松野も物言いたげな眼差しを宍戸へ向ける。皆が言いたいこと、そして宍戸本人が言いたいことは、ここにいる全員が既に解っていることだろう。
 数多の視線を一身に受けた宍戸。どうやら先程の一言は咄嗟に口をついて出てきたものだったようだ。暫しの間は困惑したようにもごもごと口篭らせていたが、そのうち観念したのか、ぽそぽそと口火を切った。

「だ、だってオレ、鬼道先輩が入ってきたならベンチじゃないっすか……だから、練習メニューに組み込まれる必要あるのかなーって、思って……」
「オマエが最初からずっとベンチだなんて、一体誰が決めたんだ。練習に参加する必要が無いわけないだろう」

 すぐにそう返した鬼道の声音は鋭いけれど、そこに彼を責めようとする気持ちが無いことはきちんと解っている。ただ、先の千羽山戦で自分に代わって宍戸がベンチ入りをしたことを知っている鬼道は、それっきり口を閉ざして音も無く溜め息を吐くと、ちらりと馨へ目を遣った。その視線を感じ、馨も一つ頷いた。

「宍戸くん、サッカーはスタメンの十一人だけでやるものじゃないんだよ」

 鬼道が言いたかったことも含め、馨は全てが上手く宍戸へ伝わるためにと丁寧に言葉を選ぶ。

「ベンチにいる選手はただそこを温めてるだけじゃない。いつどのタイミングで交代しても存分にチームが力を発揮できるよう、常に万全の準備を整えておかなきゃならない。そのためには誰が誰と入れ替わっても大丈夫なように、ポジション内でしっかり練習をしておかないと」

 宍戸の、前髪の向こうに隠れている双眸を真っ直ぐ見つめる。確か以前コーチをしていたときも、こうして宍戸に対し、直に言い聞かせるようなことをしていた。あの頃から自分も随分と心持ちが変わったが、果たして今回もちゃんと伝えきることができるだろうか。コーチとして、彼の心を解きほぐしてあげることはできるだろうか。
 膝を折り、目線の高さを合わせる。宍戸が少しだけ顔を持ち上げた。

「それに、今鬼道くんが言ったように、宍戸くんをベンチ固定にするだなんて誰も言ってないよ」

 そう言ったとき、彼が「え……」と微かに漏らす声が聴こえた。馨はそれを聴き漏らさず、ゆっくり大きく首肯する。

「同時に、鬼道くんをスタメン固定にすることもない。他の三人もそう。臨機応変、相手のチームやこちらの戦術によってスタメン選出と選手交代を上手く活かしていかなきゃいけないんだから、誰がどのタイミングでベンチになるかなんて、試合対策を練らないうちは全然解らないものなんだよ」
「でも、鬼道先輩は司令塔だから、スタメンじゃないと……」
「雷門サッカー部は、必ずしも司令塔が中心にいる必要のあるチームではない」

「帝国とは違ってな」――少し懐かしむような口調でそう言って、腕を組む鬼道。続ける台詞はどことなく愉快そうであった。

「これまで散々突飛なことをしでかしてきたんだ、俺がいようがいまいがその点は変わらないし、それを毎回戦術に組み込めというのも無理な相談だぞ」
「ホントにね。第一、MFなんてゲームメイクするうえでかなり重要なポジションなんだから、せっかく増えた人数を有効的に使わない手はないでしょ。少林寺くんも半田くんもマックスくんもそうだよ、どんなタイミングで出番が来るか解らないんだからきっちり備えて、いつでもいけますって状態にしておいてね」

 すっかり聞き役の立ち位置にいた三人を見遣って話を振れば、全員揃ってしゃきりと居住まいを正した。

「そ、そうだよな、オレたちだって同じだよな」
「やべー、気ィ抜いてらんないねー」
「ボクも、いつでもちゃんと仕事ができるように頑張ります!」

 先輩の半田と松野、同い年の少林寺も、強い心構えを持って宍戸へエールを送っていた。
 ここにいる五人は、確かに身体能力や司令塔としての統率力などの差こそあれど、各々担える役割は違ってくるのだ。今後もしかすると一度に投入するMFを五人に増やす場面が出てくるかもしれないし、逆に減らす場面だって出てくる可能性はある。そのとき、常に最高のかたちでそれぞれが真価を発揮し、それによってチーム全体を支援していけるようにするためには、現時点の誰一人として欠けてはならない。宍戸と鬼道を比べて宍戸を外す、なんて極端な采配を、馨は勿論響木だって考えてはいないはずだった。
 それにしても、鬼道がこんな風に冗談交じり――強ちそうでもないかもしれないが――で誰かを励まそうとするなんて、少し驚きだった。そんな意を込めてアイコンタクトを取ってみると、鬼道の方も何だか馨と似たような反応を返してきた。帝国では殆どただのマネージャーだった分、こうして指導者らしい大人ぶったことを言う馨が珍しかったのだろうか。
 馨は両目を宍戸に戻し、その肩に手を置いた。

「ね、宍戸くん、そういうわけだから練習はがっつりやってもらうからね」
「え、えっと」
「うーん、せっかく宍戸くんのためにってあれこれ考えたのに、それをやらなくても良いんじゃないかって言われちゃうと悲しいなぁ、切ないなぁ」

 わざとらしくバインダーを覗きながらしょぼんとすると、そんなものわざとだと解っているくせに、宍戸は大袈裟に両手を振って声をあげた。

「い、い、言わないですっ! やります! オレも練習、頑張ります、コーチ!」
「よしよし、よく言ってくれた」

 ありがとうの気持ちと共に頭を撫でてやると、両手を挙げた妙な姿勢のまま一瞬硬直した宍戸。それを見た半田と少林寺が可笑しそうにけらけら笑い、松野は「照れんなよ宍戸ー」と囃し立て、鬼道は鬼道で、まるで宍戸に賛同するようにやれやれと嘆息していた。
 兎にも角にも、これで練習は継続できるわけだ――最後に宍戸に任せたいことを口頭で告げた馨は、バインダーに挟んでいた用紙へ手早く文字を書き込むと、紙だけを引き抜いて鬼道へ手渡した。

「私はFWとDFの方を見てくる。あとは鬼道くん、よろしく頼むね」
「了解しました」

 練習を見ながら気付いたこと、そして今日のうちに仕上げておきたいことが書き込まれているそのメモ。受け取った鬼道は内容に目を通してから、すぐにMF各人へと指示を出し始めた。さすが、あの帝国でキャプテンを務めていただけあって、彼の指示には強い統率力を感じられる。真面目な面持ちで鬼道の言葉を受けたメンバーは、互いに頷き合うと再びグラウンドに戻っていった。
 その背中を見送る馨の目もまた真剣そのものではあるが、内心はとにかく楽しくて仕方がなかった。

「よし」

 思考を切り替え、今度はFWとDFの合同練習へ首を突っ込むことにする。既にゴール前に集まっていた皆のもとへと駆け足で赴いてから、早速練習を再開させた。
 FW側は、FW一人ずつに対しDF全員がかりという多勢に無勢な状況でのフィジカルを見る。DF側は、ディフェンスのサポートの際に生じていたズレを完全に直す。そのような目的を持って行う練習なのだが、何分最後はシュートを撃つという流れまでが決まっているのだ、ゴール前では円堂が待ち切れなさそうに両手を叩き合わせていた。彼の場合はシュートがもらえれば何でもオッケーなのだろう。
 馨は主にDF陣の動きを広く見るため、最初はベンチ前まで離れることにした。準備をしている最中も円堂は「早くー! シュート撃ってくれー!」と声を張り上げて催促を繰り返しており、思わず呆れ笑いをする馨。その様子に、ベンチに座っている音無がくすくすと笑みを零した。

「さすが、キャプテンって感じのやる気ですよねー」
「チームを盛り上げるためにも、あれくらいしてもらわなくちゃ」

 言いつつ、馨はホイッスルを吹き鳴らした。それと同時にボールを持った染岡が一気に駆け出し、少々強引ながら影野と栗松を抜き去った。今のは影野と栗松のカバー位置が被り気味だったのが良くない――バインダーの新たな用紙に指摘点を書き連ねつつ、目は離さない。猛然と突き進む染岡の前に、今度は風丸と壁山が立ち塞がる。ボトルを持ったままの音無が小さく唸った。

「二人相手だと、ちょっと厳しいですかねぇ」
「いや……そうでもないかも」

 思わぬ馨の否定に一瞬そちらを見上げた音無だが、またすぐに突っ走る染岡を目で追う。バランスの取れた風丸と威圧感のある壁山を相手に、しかし彼は一切怯むことなく勢いそのままにドリブルを続けた。そして二人がかりのディフェンスも何のその、隙間を割って身体一つで無理矢理突破していったのだった。

「染岡先輩、すごーい! あそこ力づくで行けちゃうんだぁ」
「あれが染岡くんの魅力だね。屈強な身体と不屈の精神。絶対的な自信があるからこそ、あんな強行突破も可能になる。良いFWだよ」

 一人でがんがん前線まで運んでいけるパワープレーヤーの存在はチームにとっても大きい。あれだけフィジカルが強いのなら、パス先以外のサポートにつける人員もそんなに割かなくて良さそうであるし、そうすれば万が一奪われた場合のカウンター対策も幅が広がる。あとは彼自身がきちんと周囲の状況を判断したうえで強行突破をしたかどうかが大事だが、それはまた個別に話をすれば良いだろう。
 染岡のパワープレーを受けたDF陣たちは揃って感心したように彼の背中を追い、その横で練習していたMFの面子も足を止めて染岡のことを見ている。皆、この後すぐに繰り広げられるであろう染岡と円堂の一騎打ちを期待しているようだった。
 せっかくMFの意識もこちらに向いたのだし、この後は全員で一度試合の流れを組み立ててみても良いかもしれない――片手でペンをくるくる回していた馨は、突然ふと、右隣に気配を感じた。
 視線だけを向けてみると、そこにはいつの間にやら見知らぬ少年の姿があった。

「え、君――」

 誰? と言いかけたところで、ゴール前に辿り着いた染岡が《ドラゴンクラッシュ》を撃ち込んだので、ついそちらへ目を遣ってしまう。千羽山戦でも感じたことだが、やはりシュートの威力も格段に上がっている。対して繰り出された円堂の《熱血パンチ》が染岡渾身の一発を止めるまで、馨はゴールから目が離せなかった。

「すごい、どっちもかなり進化してる……」
「うんうん、ジャパンの選手もやっぱり強そうだ!」
「そりゃあちゃんと鍛錬重ねてるし……って、ちょ――」
「おーい、ボールー!」

 円堂が取り零して転がってきたボールを掬い上げたのは、先程まで右隣にいた少年。はっとした馨が声を掛けるより先に、彼はボールを取ってくれと声を張り上げる円堂へ向かって一直線に駆け出した。

「待って、君誰!?」

 突然の乱入者に困惑する馨がそう叫ぶも、その背中は止まらない。
 知らない誰かがドリブルで突っ込んでくるという突拍子も無い出来事に驚いたイレブンたちは、本能からかとっさに守備の陣形をとった。が、少年はとても良い笑顔を浮かべたまま、ひょいひょいと半田や栗松を抜き去ってしまう。

「あの二人をあっという間に!」
「上手いぞあの子……」

 驚く音無の隣、馨はぽかんと半開きになった口を閉じられないままでいた。
 少年はゴール前で一旦足を止め、円堂と向かい合う。解りきったことではあるが円堂は早速受け入れ体勢に入っていた。それに応えるようにしてにっこり笑った少年は、逆立ちから繰り出される見慣れない必殺シュートを撃ち、対する円堂は《ゴッドハンド》でそれをしっかりと止めた。止められて尚少年の笑顔は崩れず、それどころかさらに嬉しそうににこにことしている。
 すごい威力のシュートだった――今こそ円堂はきちんと受け止めたが、恐らく少年の距離が遠かったというのもその理由に入っている。ペナルティエリア内だったらどちらに軍配が上がったかは定かでない。
 最初こそは呆然としていた他の部員たちも、いきなり現れては何やら強烈なシュートをお見舞いしたその少年が気になり、わらわらとゴール前へ集まっていく。馨も同じく気になり――一応責任者の一人でもあるのだから――慌ててそのサッカー少年団子の方へと駆け寄った。

「アメリカでサッカーやってるのか?」
「うん、この間ジュニアチームの代表候補に選ばれたんだ」

 名前も知らない人物だというのに、既に円堂は心を許しきっているようである。さすがはサッカーバカ、とでも言うのだろうか。サッカーの実力がある者に対しての心の開き方は最早菩薩レベルである。

「聞いたことがある」

 少年の言葉に、何か思い出したらしい鬼道が口を開く。

「将来アメリカ代表入りが確実だろうと評価されている天才日本人プレーヤーがいる、と」
「まさか、君が?」

 途端にざわつくメンバー。それもそうだろう、アメリカ代表入り確定とまで言わしめるなんて相当の実力者なのだ。そんな大それた人物がいきなり目の前に現れて興奮しないサッカー選手などいない。馨はアメリカのサッカー事情まではそんなに詳しくないが、ただとにかくこの少年がすごい選手なのだということは、先程のシュートからも感じ取ることができていた。
 すっかり皆、少年を囲んで和気藹々といった調子だ。誰かが少年に質問し、それに答えが返って来るたびに、揃って「わー」だの「すげー」だのと湧き立っている。とても穏やかな空気、それは良い、問題ではない。
 だがとりあえず、馨の立場としては目的すら解らない部外者をいつまでもここにいさせるわけにはいかなかった。悪い人ではないのは解るが、素性の知れぬうちは部外者なことに変わりない。相変わらず笑みを絶やさぬ少年に、馨は肩の力を抜きつつ問い掛けた。

「それで、君はどうしてこんなところにいるの? 転入生ってわけでもなさそうだし」
「あぁ、実は日本の友人に会いに来たんだけど」
「友人? それが何で雷門……」
「何してるの? 皆」

 言いかけたところで、背後から別の声が割り入ってくる。
 振り向くと、そこには朝から用事があるといって不在にしていた木野と土門が立っていた。

「二人とも、おかえり。用事はもう済んだの?」
「ただいまです、コーチ。いや、用事の方はちょっと手違いがあって……」
「あ、木野、こっち来いよ! 今すっごいサッカーが上手い奴が来ててさ――」

 二人の帰還に気付いた円堂が木野の手を取ろうとした瞬間、シュバッと音がしそうな程のスピードで、あの少年が木野へと抱きついた。

「えーっ!?」
「オ、オマエ! 何を……!」

 驚愕して一斉に声をあげる他メンバーに、拳を握って少年を警戒する土門。抱き着かれている木野は頬を染めたまま固まっている。
 何だこれは、一体何が起こっているのだ。
 馨はとっくに監督者としての責務を放棄し、目の前で起こる出来事をただ追いかけることしかできないでいる。

「久しぶりだね」
「……え?」
「オレだよ」

 やっと木野を離した少年が、木野、そして土門からも自分がよく見えるようにと少し離れる。その顔をはっきりと認めた瞬間、木野は大きく目を見開き、彼の名前を口にした。

「……一之瀬くん!」
「ただいま、秋」

 気付いてくれたことが心底嬉しかったのか、少年はここまで見せてきた人当たりの良い笑みとはまた違う、どこか特別な笑顔を浮かべた。
 ――この後、若干置いていかれつつあった他のメンバーからの質問攻めにあった三名の説明を纏めると、まず少年の名前は一之瀬一哉。彼の会う予定だった友人というのが、まさしく木野と土門のことだったという。二人に知らせていた飛行機の便より一つ早めの便に乗ったため、こうした行き違いが起こったようだ。
 こうして、今まで素性不明だった少年の身元は晴れてすっきりと判明した。騒ぎが落ち着いた後、馨の一声で練習に戻った部員たち。一之瀬は現在、木野と土門と共にベンチに腰掛けて談話に花を咲かせている。

「なぁ姉ちゃん、一之瀬も一緒に練習やって良いだろ?」
「まぁ、実力はあるみたいだけど……」

 準決勝を控えているのだし、あまり下手にチームを動かしてしまってはその後の練習に影響が出るかもしれない。一之瀬がこの後もずっと選手として参加してくれるのならば一つ返事で頷いている場面だが、どうやら短期間の帰国らしく、またすぐにアメリカへと帰ってしまうようだ。そもそも、雷門の生徒ではない彼は公式戦に参加することがまず不可能である。
 響木からチームを一任されている現状、勝手な判断で余計なことをしてはいけないという理性が働いているのだ。

「一緒にやれたら楽しいとは思うよ、私も」
「だったらお願いだよー、ねぇねぇ姉ちゃん、コーチィ、頼むってー」

 がくがくと肩を揺すられながらも悩む馨。困り顔で見る先には、今も会話を続けている一之瀬ら三人。話の内容が昔話か空白の期間の話かは定かでないが、楽しげに語り合う様子には自然と心が温かくなる。特に、一之瀬を見つめる木野の表情は驚く程穏やかだった。
 ほっこりとする馨だったが、そんな彼女に訴えかける円堂の頭の中は一之瀬とサッカーをすることでいっぱいになっている。依然諦めずに答えを催促する円堂の後ろでは、風丸が呆れつつも可笑しそうに口端を上げていた。

「オレも、アイツともうちょっとサッカーやってみたいです。お願いします、コーチ」
「より強い選手のプレーに感化されれば、気合いもいっそう入ると思いますよ」
「良いシュートを撃つ奴だったな」

 風丸に続いて鬼道、豪炎寺が寄って来る。確かに鬼道の言うことにも一理あるし、お願いしますとまで言われてしまっては断ろうにも断れないではないか。
 君たち練習に戻ったんじゃないの、と言おうとした口を閉ざし、一つ嘆息。面倒なことをいろいろ考えたが、どうもこの胸の高鳴りは隠せそうもない。
 自分だってサッカー経験者の端くれだ、一之瀬のプレーに興味が無いわけない――これも練習の一環として、いっそ楽しみ尽くしてしまおうか。

「よーし解った、じゃあまずは一之瀬くんを止めるところから始めようか!」
「よっしゃ、そうこなくっちゃ姉ちゃん! おーい一之瀬ー!」

 待ってましたと言わんばかりに一之瀬を呼ぶ円堂。暫くすると、一之瀬が土門と共に小走りで駆けて来る。ベンチでは木野と音無が微笑ましそうにこちらを見守っていた。

「えーっと、コーチ、でいいんですよね?」
「初めまして一之瀬くん、江波馨です。一応はコーチだけど、そこはあんまり気にしなくていいよ」

 確認するように話し掛けてきた一之瀬。馨が握手を求めると、彼は実に嬉しそうに白い歯をみせてそれに応じ、ぶんぶんと勢い良く手を振った。

「江波コーチ、オレも混ざって良いの……んですか?」
「大歓迎! せっかくだからアメリカ仕込みのサッカーで、皆のことを揉んでやってほしいな」

 あまり慣れていないような敬語に敢えて挑戦的な物言いでそう返すと、お礼を述べる一之瀬の肩に円堂が嬉々として片腕を回した。
 そうしてとんとん拍子で一之瀬を交えたゲームが決定する中、鬼道がふと、楽しそうに少年たちを見つめている馨へと振り返った。

「江波さん、ありがとうございます。監督からチームを任せられているというのに」
「いや。特別ゲストだし、どうせなら楽しまなくちゃね。鬼道くんも負けてられないよ?」
「望むところですよ」

 にやりと不敵に笑う鬼道――だが、後に一之瀬のプレーは彼の想像以上に優れたものであることが判明し、雷門イレブンは揃いも揃って本当に揉まれてしまうことになるのだった。


* * * * *


「あー、疲れたー……!」
「お疲れさまですコーチ、すっごい走り回ってましたもんね」
「ああでもしないと追いかけられないんだよね、一之瀬くんの動きって。おかげで年甲斐も無くはしゃいじゃったよ……」
「もー、そんなこと言って、まだ二十歳じゃないですか」

 勢い良くベンチへ座り込んだ馨へ、木野がタオルとボトルを差し出しながら微笑ましそうに笑った。馨はそれを受け取り、一気に喉へとドリンクを流し込む。帝国では専ら差し出す側だったので、こうして奉仕されるという状況が何だか妙にこそばゆく感じるけれど、これはこれでかなり良いものだ――深く息を吸い込んでから、ふう、と大きな溜め息を吐き出した。
 あの後、雷門イレブンは散々一之瀬に振り回されつつも、非常に刺激のあるミニゲームを行った。
 最初のときと同じく簡単にDFを抜き、さらにはあの鬼道すら翻弄してみせた米国の新星には、さしもの馨とて驚かされること数知れず。基本はスマートで洗練されているプレーなのに、時折見せる癖のある動きがこちらの動作、そして思考を掻き乱す。加えて相手の数手先まで読める頭のキレの良さが、一之瀬一哉をますます魅力的な選手に仕立て上げていた。
 観察すればする程に胸が疼く。堪らない。相手が素晴らしいプレーヤーであるからこそ我慢ができず、遂には馨もボールと一緒にラインを駆け回りながら、雷門側へあれこれ指示を飛ばし始めたのだ。完全にのめり込んでいる馨からの怒声混じりの指摘を受けつつ、どうにかメンバーは一之瀬の動きについていけるようになった。
 現在は、円堂からの申し出により一之瀬とのPK対決を延々と行っているところである。彼是一時間は続けているだろうか。入ったり入らなかったり、お互い一歩も譲らない全力の攻防戦を見ていると、性格面に於いて二人はよく似ているのだと気付かされた。

「似てるよね、あの二人」
「円堂くんと一之瀬くんがですか?」
「うん。言葉では上手く言い表せないけど、雰囲気とか、他にもいろいろと全体的に」
「……やっぱり、コーチでもそう思いますよね」

「私もそう思ってました」と紡ぐ木野はやはりあたたかな瞳をしている。
 馨は顔を拭いていたタオルを首にかけ、両腕をベンチについて体重を後ろへ預けた。燦々と照り付ける夏の日差しが首元を焼くが、今はそれすらも心地好い。

「にしても、やっぱりすごいなー一之瀬くんは。アメリカのジュニア代表候補は伊達じゃないね」
「昔っから、一之瀬くんは飛び抜けて上手でしたよ。でも今はあのとき以上に上手になってて、私もビックリです」

 シュートが決まったのか、円堂の悔しがる声が届く。と同時に、並んで二人の様子を見ていたメンバーの一部から「だらしねーぞ!」との辛辣な意見が飛んできた。それが可笑しくて馨と木野はついつい吹き出し、顔を見合わせた。

「秋ちゃんは、一之瀬くんと幼馴染なんだっけ?」
「はい、私と一之瀬くんと土門くんの三人で、幼馴染です。アメリカに住んでいた頃は皆で毎日サッカーをやっていました」

 馨も、まさか木野と土門が帰国子女だったなんて知らなかった。土門に関しては以前河川敷で盛大な嘘を吐かれていたが、あれが半分は本当のことだったと知って心底驚いた。『嘘を吐くときは少しだけ真実を混ぜろ』とは本当によく言ったものである。
 数年越しに再会したという幼馴染三人の話に、馨は興味深そうに耳を傾ける。挟まれる最低限の相槌を受けつつ、木野は昔を思い出すように懐古感溢れる口振りで、さらに先を続けた。

「自分で言うのもなんですけど、三人ともすっごく仲が良くて、これからもずっとサッカー続けていようねって、そんな約束をしたくらいで……」

 不意に、木野の口が止まる。
 どうかしたのかと思い横目で見ると、ふんわりとした笑顔があったはずの表情に、心なしか少し暗い影が表れていた。
 音無は現在分担したボトルの洗浄へ行っているため、ここには木野と馨しかいない。話し声も、他の誰にも聴こえない。
 だが、馨は敢えてこちらから訊き出すことはしなかった。時々タオルの端で頬を拭きつつ、この沈黙に身を任せている。言いたくなければ言わなくて良い、別の話題を振れば今の空気も忘れる、口にせずともそういう空気を纏い、木野の反応を待っていた。

「……ちょっと、暗い話ですけど……良ければ聞いてもらえますか?」

 それを理解したうえで、木野はそっと話を切り出す。
 そうすれば、何も言わずに目が合ったところで頷いた馨へ、その話は静かに語られ出した。

 ――一之瀬一哉は、幼い頃より卓越した身体能力と天性のサッカーセンスを有した、まさにファンタジスタの星となれる希望に溢れた少年だった。
 そんな彼と幼馴染であった木野と土門は、先程木野が言っていたように毎日サッカーに明け暮れて、特に土門の方は親友でありながら好敵手(ライバル)でもあるという関係を築いていた。二人が懸命にボールを追いかける姿を、木野はずっと傍で見守り続けていた。三人でずっとサッカーを続けようね、いつか世界に羽ばたいていこうね、そんな幼いながらも真剣な約束を交わした三人は、忘れようにも忘れられぬ深い絆で結ばれていた。
 だがある日、不幸な事故によってその絆は断たれてしまう。
 きっかけは、三人がサッカーの帰りに見かけた光景、道路に飛び出した一匹の子犬だった。そこへ突っ込んできたトラックが、今まさにその子犬を轢いてしまうという刹那、ボールを捨てて飛び出したのは一之瀬だった。

「……その後、一之瀬くんは遠くの病院に運ばれて、暫く連絡が取れなくなって……数日後にやっと、一之瀬くんのお父さんから電話があったんです。『一哉は亡くなってしまった』……って」
「……」

 そう言ったときの木野の声の震えは、そのまま馨の心臓にまで伝わってくる。胸が押し潰されそうな程の強い悲しみが、まるで木野本人にでもなったようにリアルに感じられる。
 ――本人にはならなくとも、馨には解るのだ、その気持ちが。嫌というくらいに。

「それから私たちはそれぞれ別の道を歩み始めて、土門くんは帝国学園でサッカーを、私はこの雷門中で……最初は、サッカー部のマネージャーなんてやるつもりはなかったんですけど」

 苦笑いをする木野が言うに、彼女は一之瀬の事故以来、それこそサッカーボールを見ることすら嫌悪を覚える程だったそうだ。ボールを見ると、一之瀬のことを思い出すから。ずっとサッカーを続けていこうという約束を、もう叶えることはできないと思っていたという。
 けれど、そんな彼女を変える出会いがあった――円堂守との出会いによって、木野はもう一度、サッカーと向き合うことを決めたのだ。
 馨はそこまで聞いて、いよいよ吐息すら零すことができないでいた。
 木野の気持ちが苦しいまでに解る。でも、自分はそれに同調して語ることができない。語ってはいけない。そこに、己の中の何物も重ねてはいけないのだと自覚できているからこそ、暫くは奥歯を噛むことしかしないでいた。
 そのうちやっと、まともな言葉が喉から出てきた。

「……でも、一之瀬くんは生きていた、んだよね」

 そう、一之瀬は生きていた。現に今馨と木野の目と鼻の先で、元気にボールを蹴りつけている。事故のことも、“亡くなった”ことも、その何もかもが偽りであったように。
 事実、後者は偽りであった。そうであるが故に、一之瀬はここにいる。

「昨日、一之瀬くんから連絡があったんです。それまで全然連絡なんて無かったのに、突然。そこで今日の便の飛行機で日本に来るって聞いて、でも、それだけでした。他には何も教えてもらえていないし、私も訊こうとしませんでした」

 一之瀬が何故己の生存を隠し、“死んだ”などという冗談で済まされない嘘によって大事な幼馴染である二人のことを欺いたのか。木野も土門も、そこにある真意を知りたくないわけではないだろう。長い間死んだままとされて連絡一つ寄越さなかった親友が再び目の前に現れ、訊きたいことなど山程あるはずである。
 ただ、木野はそれを一切訊かなかった。真っ直ぐ、いろんな感情が混ぜこぜになった綺麗な瞳で、一之瀬のことを見つめたまま呟く――「元気な姿が見られただけで、もう充分なんです」。
 馨も、それが全てなように思えた。
 そしてもしも自分が彼女の立場だったら、やはり同じことを言っていただろうなとも思う。
 生きて、元気でいてくれたなら、それだけで良いのだと。

「……秋ちゃん」

 馨には、一之瀬がどうしてそんな行為に及んだのか、第三者ながら解ったような気がしていた。
 しかしそれは一之瀬本人の口から告げられるべき彼の本心であるのだ。決して馨が勝手に、所詮憶測でしかない範囲で語って良いものなんかではない。一之瀬自身にとって、それは人生を変えるまでの大きな決断であったのだから。
 だからここで彼女にかけられる言葉なんて、どこまでもありきたりなものでしかないけれど。

「一之瀬くんが戻ってきて、帰ってきて、良かったね……本当に」
「……コーチ……」

 喉が震えないようにしたからか、存外細い声音となってしまった。
 こちらを向いた木野の大きな瞳の中に、真摯な面持ちをした自分の姿が映り込んでいるように見える。

「私が言わなくたって解ってるだろうし、余計なお世話かもしれないけど……一之瀬くんのこと、これからずっと、ずっと、大切に思ってあげてね。もう二度と離れていくことがないように、傍で見守っていてあげてね」

 途中から、自分でも一之瀬と木野へ向けてというそれだけの言葉ではないと気付いていたが、それでも止めようがなかった。結局最後まで言い切ってしまうと、空っぽになった心の真ん中に一つ、小さな雫が落ちてくるようだった。
 馨は今、自身がまともな表情でいられてはいないと思っていた。そしてその自覚はどうも当たっていたらしい。少しの間無言のまま見つめ合っているだけだった木野が、ややあってからほろりと微笑んだ。

「……えへへ、どうしてコーチが泣いてるんですか」
「な、泣いてないよ! 涙出てないし、ほら」
「ふふっ、冗談です」

 慌てて目元を擦る馨に、木野はとうとう声をあげて笑った。
 やがてその笑顔が再びゴール前の一之瀬たちへ向けられたので、馨もつられて彼を、彼らを眺める。まだPK勝負に決着がつく様子は無い。円堂と相対する一之瀬の横顔は、どこまでもサッカーを楽しみ、愛し抜いていた。

「江波コーチ」
「ん?」
「私、今度こそ一之瀬くんがどこにも行っちゃったりしないよう、ちゃんと見つめておこうと思います。一之瀬くんがサッカーと真剣に向き合うのと同じだけ、私もそうしていたいなって、改めて思ったんです」
「うん、そうすればきっと皆が嬉しくなるし、幸せになれるよ。……一之瀬くんも、きっとそのためにもう一度秋ちゃんのところへ帰ってきたに違いないもんね」
「……ありがとうございます」

 少し、何かを言いたげに馨を見ていた木野。
 けれど最後まで彼女はそれを口にすることをせず、遠い過去の回想は緩やかな空気と共に終わりを迎えた。




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