面影崩し


 昼休憩を挟み、監督の響木がやって来たおかげで馨の背中も軽くなった午後。
 馨が一之瀬について響木に説明し、今日の練習は彼と一緒に行うことを承認してもらったその折。

「円堂、仲良くなった記念に一緒にやりたいことがあるんだ」

 そんな一之瀬の提案がきっかけで、円堂は《トライペガサス》という必殺技に挑戦することになった。
 メンバーは一之瀬、円堂、そして過去に一度この技に挑戦している土門。その当時はもう一人別の友人を含めた三人で完成させたらしい《トライペガサス》は、同じスピードで駆ける三人がブレ無く一点で交わることによってエネルギーを生み出す技らしい。
 一之瀬と土門の説明を受け、いざ試みる円堂――だったのだが、理屈では解っていてもいざやるとなればそうそう上手くはいかないものだ。

「また失敗か……」
「かなり難しそうだな……」

 鬼道と染岡が小声でそう言って見つめる先には、地面に転がって息を荒げている三人の姿。
 先程からああして何度も挑戦してはいるものの、一向に完成の兆しが見えてこないのだ。

「江波さん、どう見ますか」
「三本の直線がずれて、一点で交われてない……交差するタイミングが三人ともばらばらだね」

 馨が指摘するのは、今し方彼らが駆け抜けた軌跡である地面のライン。《トライペガサス》を発動させるためには全てのラインが一点で交わっていなければならないのに、現在のそこには小さな三角形ができてしまっている。それは紛れもなく三者の“ズレ”を示していた。
 円堂に、自分たちが上手くいっていない理由を説明する一之瀬。息を合わせろ、という言葉にすれば簡単そうでも実現は困難なそのアドバイスを、円堂は一つ返事で了承する。非常に彼らしい前向きな返事だった。
 一之瀬の言うように単純に息が合っていないせいでもあるだろうが、他にも改善できる点があるかもしれない――馨は一歩引いた場所からの観察をやめ、ギャラリーの最前列よりさらに前へ移動した。

「江波コーチ?」
「三人の走り切るまでの様子が見たいから、もう一度やってくれないかな」

 疑問符を浮かべる一之瀬と対照的に、円堂と土門は「解った」と快活に応えた。

「一之瀬、コーチはスゲーんだぞ。審美眼ってやつ持ってんの」
「審美眼? そういえば、さっきの練習でも……」
「よーし、もう一回だ!」

 二人がすっかり信頼しきってくれているおかげで、一之瀬も何も訝しむことなく納得をしてくれたらしい。あまりハードルを上げられすぎても困るが、彼らのせっかくの期待を無下にはしたくない。馨も目と頭をフルに働かせ、次なる《トライペガサス》の観察に挑んだ。
 三人の初期配置、合図と共に駆け出す際の速度、そこからマックススピードに乗るまでの時間、位置、交わる点に至ったときの時間、駆け抜けたときの最終速度――ここまで何度も見てきている分、各ポイント間での記録は脳内ながらもだいぶ擦り合わせが行えている。本当はストップウォッチがあれば尚良かったけれど、今は自分の頭を信じてやるしかない。
 今回もやはり技の成功はせず、微かな空気の乱れを生じさせただけに終わった。
 それでもここで何か契機を掴めればと、円堂はすぐに馨を振り向く。

「姉ちゃん、どうだったー!?」

 馨は数秒程、顎に指を押し当てたままだんまりを続けていた。その間にも、得た情報を脳内で精査して適当な箇所に割り振り、導線を探す。そのうち出てきてくれた解は、いつものようにぱっと閃くようなものではなかったが、とにかくやれることをやってみなければ始まらないだろう。
 有り体に言うと、この技を上手く調整しきる自信を持つことは、些か難しい。

「これは、飽くまで掴み程度に思っていてほしいけど……試しに、三人の位置を調整したいかな」
「お願いします、コーチ」

 アメリカ時代に完成できた技を、今度はこの場所で円堂への親愛の証として残しておきたい――一之瀬はどこまでも本気そのものだった。そんな彼の頼みの言葉を胸に、馨もひたすら真剣に三人へと指示を出し始めた。
 円堂、土門、一之瀬、三人とも当たり前だがそれぞれ走るスピードが違う。その違いを踏まえたうえで息を合わせなければいけないのだが、元々三人技というだけでも相当な高難度だ、何もかもばらばらなままでは完成は非常に厳しい。速さ、時間、せめてそのどちらかでも重なり合っていれば、まだ道は拓けていくだろう。
 だから馨は先程までの観察の結論に基づき、交わる際の三人のタイムが同じになるよう、スタートの位置を各自少しずつずれさせた。他より足の速い一之瀬は後方、遅めの円堂は手前、加速度の大きい土門はより鋭角から入るように、半歩単位で立ち位置の調整を施す。

「いち、に、さん。このテンポを自分たちの中で数えながら、今まで通りに走ってみて。すぐに成果が出るとは限らないけど、このあとの糸口が見つかるかもしれない」

 それだけ言ってから離れた馨の指示に、三人は互いに頷き合ってから再度構えを取った。
 ギャラリーが固唾を呑んで見守る中、位置を調整した状態で挑戦を試みられた《トライペガサス》は――残念ながら完成とまではいかずとも、少なからずここまでとは違う変化を起こした。

「おおっ!」

 感嘆の声があがったのは、そのとき初めて空に何かのエネルギーが具現化して見えたからである。一瞬ではあったが青白い光が渦を巻いて湧き起こり、かたちにならぬまま消散していった。

「い、今のが《トライペガサス》の……」
「できるよ、完成! これならきっとできる!」

 驚く円堂の傍ら、一之瀬は両手に拳を握って喜んでいる。馨の言ったように成功までには至らずとも、そこへ繋がる新たな可能性が見えてきたようだ。

「江波コーチ、もっと指摘できるところがあったらたのむ……お願いします!」
「こうなったら完成まで付き合うよ、三人ともバテないようにね」

 ちょこちょこ敬語が上手く使えていない彼に笑いつつバインダーを抱え直し、馨は早速気になった部分を指摘することにした。
 ――それからさらに経過すること、数時間。
 馨の指導がきっかけとなり、上空にペガサスらしいエネルギーを生じさせる段階までは何とか漕ぎ着けることができた一之瀬たちだが、そこで大きな壁にぶち当たってしまった。何をどうしても、どれだけ繰り返しても、ペガサスは暴発して強風を巻き起こした末に消えてしまうのだ。
 位置もスピードもタイミングも悪くない、試行回数が増すごとにどんどん良くなっている。
 それなのに、何か一つが足りなくて、三本のラインは完全に重なり合うことができないままだった。

「何が足りないんだろう……」
「さすがの『コーチ』もお手上げ、ってところか?」

 ちらりと一瞥してくる豪炎寺。
 さすがの馨も、そこへ強気に返せるだけの気概は無かった。

「うーん、こんなに難しい技を見るのは初めてだしね……私もまだまだ力不足だ」

 三人技といえば帝国の《デスゾーン》もそうだったが、この技はあれを大きく上回る難度だ。珍しく弱音を吐く馨に、豪炎寺は事の深刻さをより噛み締めるように「そこまでなんだな」と静かに相槌を打った。
 馨も、実行する三人も、それを見守り続ける他の部員たちも、皆がこの技に欠けている最後のピースを見つけ出せないままでいる。
 しかし、ただ考えあぐねて足を止めていたって何も変わりはしないのだと、円堂たちは続けざまに何度も何度もそれを試した。そのたびに吹き飛ばされ、倒れ、息を荒げる。ずっとその繰り返しだった。

「頑張れー!」
「三人とも頑張って!」

 ベンチからマネージャーの声援が響く中、険しい表情で懸命に走る三人。交錯した一点にエネルギーが生まれ、一瞬成功したかのように思えた――が、今回もあと少しのところで失敗となってしまった。
 肩を落として落胆する他メンバーを横目に、馨も腕を組んだままエネルギーの消散した宙を見上げる。もう百回以上は挑戦しているだろうか。なのにも拘らずあれ以上の進展は無いうえ日も暮れ始めているし、どうやら今日の完成は見込めなさそうだ。
 こんなに頑張っているのに、技の難易度が彼らの努力と思いを大きく上回っている。何かを開発するには避けては通れぬ道なのだし、仕方ない話ではあるが……。
 流れる汗を拭っては、円堂たちへ(しき)りに励ましの声を掛けている一之瀬。健気なその背を細めた瞳で見つめながら、馨は躊躇いを覚えつつもホイッスルを口に当て、軽く一吹きした――結局予定の半分程しか練習はできなかったが、今はそんなことも全然気にならなかった。


* * * * *


 部活を終えて皆がそれぞれの帰路に着いた後、馨は買い物の為に商店街へと足を向けた。今晩の夕食や消耗品の予備などの日用品はついでだ、本命は新しいルーズリーフ式のファイルである。
 今日の練習でメモを取る際は帝国の頃から使用している自前のバインダーを用いていたが、あのときはマネージャーだったため記録する数も然程多くはなかった。しかし雷門では本格的にコーチングの役目を担うようになり、必然的にメモや思考を書き留める量、それを見返す回数も格段に増えたのだ。自分自身でもすぐに必要な情報を探し出せるようにするため、これからは持ち物にも気を配らねばならない。
 そういうわけで、行きつけの雑貨屋でインデックス付きのファイルを購入してから他の買い物も済ませ、全てをエコバッグに詰め込んだ馨は、心地好い疲労感を引きずって漸く自宅へと帰ることにした。
 しかしその途中、雷門中の前を通りがかったとき。
 まだ練習時の熱が仄かに残るグラウンドへ何気無く目を向け、そこに一つの影を見つけた瞬間、馨は目を丸くした。

「一之瀬くん?」

 グラウンドの中央でポンポンとリフティングをしているのは、間違いなく今日知ったばかりの彼である。とっくに帰ったものだとばかり思っていたが、一体一人で何をしているのだろうか。
 バッグを持ち直し、自らもグラウンドへ踏み入る馨。その姿が近付く度、微かだが胸が震える。ぱっと脳裏に浮かんだ木野の顔と、今目の前でボールと戯れている彼の影とが重なって、その震えはやがて収束した。
 ある程度傍に寄ったところで、さすがに一之瀬の方も気が付いたようだ。ボールを弄ぶ足を止めては眉をぴょんと持ち上げ、小首を傾げる。

「あれ、江波コーチだ、じゃ、ないですか」
「敬語、慣れてないんじゃない? 無理に使わなくても良いよ」

 不自然な音の切れ方に微笑すれば、一之瀬は気恥ずかしげにはにかみ、そっと肩を竦めた。

「ごめんなさい、アメリカだと敬語って概念が無いから……なら、いっそのこと馨さんって呼んでいいかな。オレのことは一哉って呼んでよ」
「じゃあ、一哉くんで」
「サンキュー」

 一度距離を縮めた途端に空気を変え、ぱちりとウインク。年上相手にも一切物怖じせずフランクに接する様子はまさしくアメリカ男子だ。生粋の日本人である馨はこういったコミュニケーションにはあまり慣れていないが、何故か一之瀬相手だと自然に馴染めるような気がした。そこに何となく土門の面影を感じ、内心一人で納得した。

「ここで何してるの?」
「あぁ、この後円堂の家に行く予定だから、ちょっと時間を潰してるんだ」
「家に行くの? すごいね、出会ってまだ一日も経ってないのに」

 そういえば、確かに部活終了直後に円堂が彼を自宅に誘っているのを聞いたかもしれない。円堂のこういうところは本当に尊敬に値するし、同時にサッカーというスポーツの持つ魅力にも改めて思うところがある。同じボールを蹴るだけで心を通わせることができるなんて、魔法みたいだと思った。

「サッカー好きなら皆友達だよ。勿論、馨コーチだって」
「うん、友達だね」

 屈託無く笑う一之瀬はどこまでも楽しそうで、つられて馨も笑顔になる。友達、というには些か年が離れている気もするが、きっと彼らにとってそんなことは関係ないのだろう。馨がどんなに大人であろうが、サッカーが好きな限り皆にとっては友達であり続けるのだ。
 馨だって、皆とはあらゆる垣根を超えた友達という絆で結ばれていたいし、現に結ばれていると信じていられる。全部サッカーのおかげだ。魔法というより、奇跡みたいなものなのかもしれない。

「サッカーって最高だよ、本当に」

 噛み締めるようにそう言ってはボールを爪先に乗せ、高く放り上げる一之瀬。その軌跡を目で追うと、強い夕陽を受けて視界が真っ赤になった。まるで――眼前いっぱいに血液をぶち撒けられたかのような、鮮やかな深紅だ。
 反射的に閉じた瞼の裏。そこを過ぎったのはボールを蹴り上げる一之瀬と、過去を語る木野の横顔と、声。

「君は本当に、サッカーが好きなんだね」

 ――いつかどこかで、誰かに似たようなことを言った覚えがある。そのときは果たして、何て答えが返ってきただろうか。
 空から戻ってきたボールは誰にも受け取られずに地面で数回跳ね、視界から消えた。

「私が言うのもおかしいかもしれないけど、戻ってきてくれてありがとう、一之瀬くん」
「……秋に聞いたんだね」

 少し驚いたようではあるが、一之瀬の表情に怒りや困惑は無い。ただ、実際に起こった過去の出来事と現在の自分とを真摯に受け入れている、そんな表情だった。
 木野の語ったアメリカでの話は壮絶なものだった。何より馨の心に残ったのは、一之瀬が自ら望んで親友二人に自分の死を偽ったということ。そうしたいと思ってしまうまでの大きなショックを受けたのは解るし咎めるつもりもないが、一言「可哀想だったね」で済ませる気持ちにもなれない。その気持ちの裏側に、また別の思いが潜んでいることも自覚していた。
 馨は、足元まで転がってきたボールを両手で拾い上げた。コントラストの眩しい白と、影のように塗り潰された黒。自分や一之瀬にとって、そして“彼”にとって、それこそ命と等しいまでの尊さを持つもの。

「……辛かったんだよね」

 それを一之瀬のもとへやさしく投げ返すと、彼は受け取ると同時にくしゃっと苦笑いのような顔をした。

「うん、辛かった。本当に辛かった。……“二度とサッカーができない”って診断されたとき、目の前が真っ暗になって、この世の終わりみたいな気持ちになったよ。いや、実際に、心の中では終わったも同然だったんだ」
「一哉くんの気持ちは、解る」

 大好きなサッカーを失い、どれだけ辛い思いをしたか。
 期待されていた輝かしい自分の未来を失い、どれだけ失望したか。
 そんな惨めな自分を認められなくて、大好きな親友にだけは見られたくなくて――いっそ“死んでしまおう”だなんて、考えて。

「……けど、君が死んだって聞かされたときの秋ちゃんや土門くんのショックは、相当だったはずだよ。それこそ一哉くんが感じたように目の前が真っ暗になって、この世が終わったように思えて」
「解ってるさ……二人には悪いことをしたって、今でも思ってる」

 俯いた少年の顔に、濃い影がかかる。橙に染まった髪が音も無く流れた。

「こうして戻ってこれて嬉しい反面、秋たちに会うまでは、正直ただただ心配だった。オレを受け入れてくれるかって、嘘を吐いてまで現実から目を背けたオレを許してくれるかって……ずっと、怖かった」

 今日の練習中、ずっと笑顔を絶やさずにサッカーをしていた一之瀬。二度とサッカーができないという診断をも覆してこうして蘇り、あれ程までに楽しそうにボールを追いかけ続けていた一之瀬。そんな彼の表情に、日中では感じられなかった仄暗さが滲み出ている。
 諦めることは簡単だっただろう。諦め、拒絶し、全てを無かったことにしてしまうことは、どんなことよりも容易いものだっただろう。
 ただ、そこからもう一度這い上がり、やり直し、失ったものを取り戻そうとすることは、尋常ではないくらいに難しい。
 一之瀬はその難しさをそれでも乗り越え、ここまでやって来た。木野と土門に対するそんな恐怖心があったとしても、二度と諦めようとはしなかった。再びサッカーに舞い戻ったことと同じように、二人のもとへ帰ってくるために大いなる勇気を振り絞ったはずだ。
 ――そんな一之瀬のことを、あの二人が受け入れないわけなんてないというのに。

「二人はどうだったの?」

 解りきっていて、敢えて問う。
 一之瀬は馨を見上げ、少し声音を明るくした。

「受け入れてくれたよ。昔と同じ笑顔で、昔と同じように。オレの吐いた嘘も全部丸ごと、咎めもせずに受け入れてくれたんだ」
「それがどうしてだか、解るよね」

 腕を伸ばし、柔らかなその髪に触れる。輪郭を撫でるようにかたちを辿れば、馨を見つめる一之瀬の大きな瞳に、ちかりと一つの光が瞬いた。
 ――木野が、土門が、一之瀬を受け入れる理由。再会を喜ぶ理由。
 そんなもの、たった一つしか存在しない。

「一哉くんが生きててくれたのが、嬉しかったからだよ」

 馨は、震えないよう必死に喉へ力を込めた。

「サッカーができるとかできないとか以前に、ただそれだけ。生きててくれただけて良かったから。生きて、呼吸して、そこにいる、そんな一哉くんがこの世に存在しているだけで、充分幸せだったから」
「……うん」

 光は目映く輝き、静かに溶け込む。どこか泣きそうな色を湛えて顔を綻ばせた一之瀬は、馨の手のひらの温度を感じながら、小さく首を上下させた。その面持ちを見て、馨はゆっくりと手を引っ込める。
 ――羨望。或いは、叶わぬものへの希求。
 気付くまでもなく、みっともないと思った。
 今目の前にいるのは、不幸な事故から見事に復活した未来の明るい純粋な、一之瀬一哉という名の少年。木野より語られた彼の歩んだ道程の中に、一瞬でも希望を探してしまった自分が情けなくて、愚かしくて。
 そんなことをしてもどうにもならないと解っているのに、まだ逃げている自分がいることを知ってしまったのが、どうしようもなく卑しくて。

「……“死んだ”なんて、嘘でも聞きたくない」

 例えサッカーができなくなっていようとも、絶望してしまっていようとも、絶交されてしまおうとも、ただ生きているだけで良い。そこにいてくれるだけで良い。例え自分には何かを変えてあげられるだけの力が無くても、それでも。

「……生きてるだけで良いんだ」

 身勝手だって解っている。
 でも、今もこの世界のどこかで、自分の知らない場所で、生きていてほしい。
 誰よりも強くそう思うのは木野でも土門でもなく、他でも無い――自分自身なのに。

「もう二度と、あの二人を悲しませないようにね」
「ん、この身に誓うよ。……馨さんにも、もうそんな顔はさせないから」
「え……」

 気付けば、一之瀬の指先が頬に触れていた。感覚を与えるというよりは今のかたちを記憶している、そんな淡い触れ方だった。
 自分が彼の前でどんな顔をしているか、できれば理解などしたくなかったけれども。

「オレ、本気でサッカーと向き合うって決めたんだ。日本だろうがアメリカだろうが、どこにいたって全身全霊でプレーする。大好きなサッカー、一度手離してしまったサッカーに、もう絶対嘘は吐かない。だからこそ、《トライペガサス》も絶対に完成させるんだ」

 強い眼差しが真っ直ぐ心臓に突き刺さる。詮索や深追いはなく、ひたすら突き進むことへの堅い約束だけが、そこに込められている。じっと見つめ合えば、彼の内側で燃え盛る炎が、視線を伝って自身までも飲み込もうとしているようにすら感じられた。

「一哉くん……」

 一之瀬は一度死んだ。
 そして今は生きてここに立っている。
 ここにいて、一心にサッカーを愛している。サッカーに対し、命を燃やしている。
 ここにいるのは他の誰でもない、一之瀬だ。一之瀬一哉なのだ。

「……泣いても良いかな?」

 胸に巣食うものを振り払う意も込めて、ややおどけたように微笑む馨。
 対する一之瀬もまた、そんな馨を受け止めんとばかりににっこりと、やさしい笑みをみせた。

「いいけど、身長が足りなくて胸どころか肩も貸せないや」
「それは残念、もっと牛乳飲みなよ」
「これから一気に伸びる予定だから、もうちょっと待っててくれない?」

 地平線に沈みかけている太陽が、最後の輝きを以て二人を眩しく照らし出す。
 その明るさを瞼を下ろすことで遮断し、馨は暗闇の中で一瞬でも見出してしまった彼の面影を、ゆっくりと溶かすように掻き消していった。


* * * * *


 空の橙が半分程紺色に侵食された頃、馨は円堂家に向かう一之瀬の背中を学校前で見送った。
 どうせ二人で過ごしたところでサッカーの話しかしないのだろうと思うと、微笑ましいと同時に面白い意味での笑いがこみ上げてくる。今時の中学生男子が普段どんな会話をしているのかは定かでないが、あの二人程爽やかに純粋な“バカ”もいないことは解る。小走りで遠ざかる背中が、何だかやけに眩しく見えた。
 一之瀬が曲がり角の向こうに消えてから、馨も改めて家に帰ることにした。
 ちょうど夕飯時であるし、今日はいろいろと賑やかだったからいつもよりお腹が空いている。恐らくこれから準決勝、決勝に向けて練習もよりハードになっていくだろうし、改めて食生活を見直してそろそろ自炊という選択肢も増やしてみた方が良いかもしれない。自分だけでなく、土日練習時の選手たちのお昼ご飯も考慮していく必要がありそうだ。木野と音無の手作りおにぎりは味も量も好評だが、栄養面ではまだ少し物足りない部分がある――。

「江波さん?」

 ぼやぼやと考えを巡らせながら歩いていた馨に、不意に呼び声が掛かった。
 無意識のうちに地面を見つめていた視線を上げれば、正面に立っていたのはウェーブがかった茶髪の少女――雷門夏未。

「あれ、なつ――雷門さん」

 言いかけたところで、本人に馴れ馴れしい呼び方を認めてもらったわけではないことを思い出し、すぐにそう呼び直す。
 しかし夏未の方は馨が直した方の呼び方の方が気になったようで、綺麗な髪をさらりと払いながらこう言った。

「夏未、で良いですわ。もう赤の他人というわけでもないのですから」

 相変わらず生まれる時代と国を間違えたような口調の彼女は、気のせいでなければ、その気取った顔の奥に僅かながら照れを混ぜている。未だに夏未への対応に慣れていなかった馨は一瞬ぽかんとしたが、すぐに笑顔で「夏未ちゃん」とその名を呼んだ。直後に夏未の頬に朱が差したのは、一応夕日のせいということにしておこう。

「珍しいね、こんな時間にこんな場所で一人なんて」
「えぇ、ちょっと……鉄塔広場に」
「へー、意外だね、夏未ちゃんもあそこに行くんだ」
「まぁ……」

 鉄塔広場といえばこの辺でも有名な絶景ポイントであり、(くだん)のサッカーバカ少年にとっては絶好の練習スポットでもある。夏未みたいなお嬢様にはあまり縁の無い場所だと思っていたが、案外そうでもないのかもしれない――答える際に奇妙な間があったが、馨は敢えてそこには触れないでおいた。
 夏未は鉄塔広場からここまで歩き、ここからもまた歩きで帰宅するらしい。直に夜が来るということで、心配した馨は彼女を家まで送っていくことにした。当然遠慮はされたが、いつか鬼道をそうしたようにあれこれ言って納得させ――折れさせたとも言う――共に並んで歩みを再開させる。にこにこと歩幅を合わせて隣を歩く女性に対し、夏未は不思議そうに、けれども満更でもなさげにふっと微笑むのだった。

「夏未ちゃん、お父さんの具合はどうかな」

 訊こうかどうか少し悩んだ末、馨はその話を切り出した。

「お大事にしてくださいって直接伝えたかったんだけど、なかなか機会が無くて」
「木野さんから伝言を受け取っていますわ、お気遣いありがとうございます」

 夏未はにこりと笑い、「お父様は大丈夫です」と続ける。

「かなりの大怪我ではありましたが、今はもうだいぶ容態も安定しています。会話もできるし、食事も何とか自分で摂れるようになったみたいで」
「なら安心した。ここまでしっかりした娘さんが傍にいてくれるからこそ、きっとお父さんも安心して休んでいられるんだね。ならすぐに良くなるよ」
「ふふ、お上手ね、江波さんは」

 本心をそのまま伝えたつもりなのだが、お世辞だとでも思われたのだろうか。小さく肩を揺らす夏未に「本当のことでしょ?」と重ねると、少しの間返事が止まった末に「そうですわね」というささやかながらプライドの篭った言葉が返ってきたので、馨はやっと満足できた。やはり雷門夏未はそうでなくては。

「学校のことだけじゃなくて、サッカー部のマネージャー業務も手伝ってくれてるんだよね」

 さらりと話題を変えてみると、それまで前を見ていた夏未が、ふと地面に伸びる自分の影を見下ろした。

「何というか、自分のできる分はきっちりやっておりますわ。まだあまり雑用には慣れてないけれど……」
「良いんじゃない? 少しずつ慣れていけば。それに、普段は事務絡みの作業をしてるんでしょ。分担って意味でも表はあの二人に任せて大丈夫だと思うよ」
「そう、かしら? けれど、いつまでも任せきりというのも雷門の名が廃りますから」
「頑張り屋さんだなぁ。でも、そんなところが良いよね、夏未ちゃんは」

 生真面目故にか、またはその背に背負う名前故にか、小さな肩にはマネージャーとして必要以上の力が入っている気がする。やはり鬼道と同じだった。齢十四にしては重すぎるものを、彼も彼女もこんなに平気そうな顔で、当たり前のように抱え歩いている。
 だから馨は、そんな彼女たちのことを目一杯認めて、褒めて、甘やかしてやりたいなと思ってしまうのだ。目線が完全に親となってしまっている自覚はある。
 でも、こんな気丈に在ろうとする可憐な少女の姿を見て庇護的な気持ちにならない大人など、多分この世に存在しないだろう。

「あ、そうだ」

 今まさに思い出したように手を打つと、夏未が何事かと顔を向けた。
 馨はそこへ、渾身の明るさを以て笑いかける。

「今日の練習でね、夏未ちゃんの纏めておいてくれた修練場のデータを活用させてもらったんだよ。本当によく纏めてあって大助かりだった、ありがとうね」
「え、えぇ、お役に立てたのなら何よりです」

 動揺なのか困惑なのかそれとも他の何かなのか、ややおっかなびっくり状態の夏未。そのテンプレめいた返事にも、さらに馨は笑みを深めた。

「あれが無かったらもっと調整は難航してたし、練習も進められなかった。夏未ちゃんのおかげで、がったがただった個人プレーもかなり手を入れられたんだ。見やすいし比較も解りやすいし、やっぱり事務系は夏未ちゃんに任せて正解だったなって思ったよ」
「そ、そう……」

 ちろりと目線が外され、彼女の細い指が髪の一房を掬ってくるりと巻く。何とも判りやすいその仕種の可愛らしいこと。けれども最後まで素直になりきらず飽くまで冷静であろうとする、そういう一筋縄ではいかない性格こそが、雷門夏未のものなのだろう。一緒にいる時間自体はとても短いが、馨は少しずつ彼女への理解を深めている気がしていた。
 やがて夏未は髪を巻くのをやめ、どこか気を取り直したような態度で再び馨と目を合わせた。

「ということは、少しはまともなサッカーができるようになったのかしら?」
「うん、鬼道くんが連携の修正してくれたってのもあってね。理事長代理のお眼鏡に叶うチームにはなってると思うよ」
「では、次に練習を見に行くときを楽しみにしていますわね」

 くす、と楽しげに笑った夏未の髪を柔い風が攫う。その一本一本に夕日の輝きが絡まってきらきらと瞬き、とても絵になる光景となっていた。
 馨が彼女を送っていきたいと申し出たのには訳がある。
 不審者やらの存在を危惧したというのも勿論だが、実はその次に、夏未と二人きりの時間をつくってみたいというある意味下心めいた理由があった。思えば一対一で会話をしたのは雷門と帝国の練習試合前のみであるし、夏未がマネージャーになってからもお互い忙しなかったため、落ち着いて話をしたことはなかった。
 なのでせっかくの機会、ここで少し距離を縮めておこうと思ったのだ。
 思いはしたのだ。

「……」
「……」

 が、残念なことに馨はそこまで機転の利く話上手なわけではなかった。
 会話が途切れればすぐに沈黙が訪れるし、これといって目ぼしい話題も見つからない。夏未も積極的に交流するタイプではないのだろう、こちらから話しかけない限り言葉を発する気配はない。これは距離を縮める以前の問題であった。
 彼女の父、雷門総一郎氏の事故についてはいろいろとまだ気になる点はあるが、そこを掘り下げるなんて無粋なことをするつもりはない。部活やメンバーの話を振っても良いけれど、あまり他の生徒と交流をするような立場の人間ではないと、前に他の子から聞いたような覚えがある。サッカーについても詳しいという程ではなさそうだし、変にまた肩肘張らせてしまっては申し訳ない。他愛も無い世間話が続く相手でもなさそうだし――何の話をすれば良いだろうか。
 そうやってぐるぐると悩みつつ、頭上に飛行機の通過する音を聴く。夏未のような相手とも自然に会話が弾めるよう、もっとサッカー以外のコミュニケーション能力を上げておかなければいけないかもしれない。悩みすぎて、そんな後悔と今後の目標すら湧いてきた。
 すると。

「……ふふっ」

 突如、隣から微かな笑い声が飛んできた。
 驚いてそちらを見てみれば、口元に手を添えた夏未が可笑しそうに笑っているところで。

「別に、無理して何か話題を振っていただかなくても、私はこういった時間でもそれなりに楽しめますのよ」

 言いつつ肩を細かく震わせる様を見て、馨の顔に一気に熱が集まった。

「あー……そうかな? あの、ごめんなさい……」
「謝ることなんて無いのに、おかしな方ね」

 まだ笑いが治まらないのか小刻みに震えている夏未。馨は何だか情けない気持ちでいっぱいになったが、今の会話でだいぶ空気が緩んだ気がしたので結果オーライである。彼女の揺れる肩を指でちょんとつついて「笑いすぎ」と言うまで、どこか上品な笑い声はころころと続いていた。
 上空の飛行機は通り過ぎ、カラスの鳴き声と遙か遠くで車の走る音だけが響く閑散とした路地。静かだが、今度は沈黙だけでは終わらない。すっかり解れた夏未の心は、どうやらその口までも軽くさせたようだ。

「寧ろ、謝らなければいけないのは私の方ですわ」
「何の話?」

 いきなり何だと首を捻ると、夏未は真面目な口調で言った。

「江波さんと初めてお会いしたとき、私は貴女のことを最初から帝国のスパイだと疑ってかかっていました。だからその分失礼な態度も取りました。そのことを、いつかきちんと詫びておかないといけないと、ずっと思っていましたの」
「いやいや、そんな詫びる必要なんて……あれは自分のことを何も話していなかった私の方が悪いし」
「いいえ、それでは雷門中理事長代理としての示しがつきませんし、私の気持ちも収まりませんわ。江波さん、申し訳ありませんでした」

 とにかくこの謝意を受け取れ、という頑なな誠意がはっきりと伝わってくる、そんな謝罪の言葉。頭を下げる代わりにやや俯いた夏未を見て、馨は一つ嘆息を置いた。

「じゃあ……私の方も、大事なことを黙ったままにしていて、すみませんでした」

 首だけを動かして頭を下げて「これでおあいこで良い?」と訊くと、柔らかさの増した同意の相槌が返ってきた。
 馨自身は、あのとき夏未がそうやって疑ったことを当然の流れだと思っているし、染岡曰くの“秘密癖”があった自身には反省すべき点が大いにあったと認識している。ただそれも、彼女の中での過ちも含め、とうに過ぎ去った思い出話なのだ。笑い飛ばせるならそうしてもらって構わないような、過去の記憶の一つに過ぎない。
 だから夏未も馨も、今の時間で何もかもを全部洗い流してしまい、ここからもう一度手を取り合っていけば良いのだ。

「今はもう、疑いはちゃんと晴れきってるって捉えても良いのかな?」
「……なかなか意地の悪い訊き方をされますのね」
「あはは、ごめんごめん」
「もう」

 じとりと向けられた眼差しには『当たり前でしょう』という答えが込められているように思え、馨はそれだけでも充分に嬉しくなった。
 二人の足はゆっくり進む。住宅街のさらに奥、そろそろ一等地に建つ小洒落た家が目立つ区域に差し掛かった頃、今度は夏未の方から馨に問いが投げられた。

「江波さんは、どうしてサッカーに興味を持たれたのですか?」
「んー? どうして、か」

 いきなり根幹部分に触れる質問だなと思ったが、素直に答えを考える。余計なことは思い出さぬよう、自分が初めてボールに触れた日を回想した。

「興味を持ったというより、持たせられた、持たせてもらった、って言うのかな。小さい頃、河川敷で一人ぼーっとしてたらいきなり知らないおじさんが来て、リフティングをして見せてくれたんだけど」
「それ、かなり怪しいと思いますけれど」
「うん、今考えれば確かに怪しかった」

 あのときの自分が普通よりも擦れた子どもだったなら、間違いなく彼のことをその場で通報していただろうと今になって思う。
 だが自分は通報なんてしなかったし、何よりそれ以上に、彼と彼の操るボールへの魅力や衝撃が大きかった。

「とにかく上手、というか綺麗でね、もうすごく感動して。最初はサッカーっていうより、ただボールを蹴りたいだけだったよ。それからまた別の人と知り合って、サッカーはその人に教えてもらった。ほぼ毎日河川敷でボール蹴り合ってたっけなぁ」

 昔、きっと世の中の誰よりも心からサッカーを楽しめていたのではないかという程に輝いていた時代。当時を慈しみ、口角は自然と持ち上がる。思いを馳せ目を凝らせば、夕暮れの中にあの日の自分が見えそうで、だけれど二度と帰れないことを知っているから、それまでだ。幻想を求めるのはさっきやめたばかりなのだから。伏せた目の先にあるのは、長く伸びた己の影だけだった。
 馨が語り終わっても、夏未はその横顔をじいっと見上げていた。半分が黒く塗られて殆ど造形は解らないはずなのに、何故か目を離すことができないとでも言わんばかりに。何も言わず、ただ見つめているだけだった。

「夏未ちゃんは」

 次に静寂を破ったのは馨が先だった。
 我に返ったようにして目線を逸らす彼女へ、弧になろうとする双眸が優しく尋ねる。

「サッカー、興味持ってくれた?」
「……まぁ、その……前よりは」

 もごもごと口篭もる夏未は、ずっと前、練習試合前に会ったときとは随分印象が変わったように感じられた。お嬢様らしく高飛車な雰囲気は変わらないが、サッカーに対する態度は今の方がずっと柔らかい。円堂たち雷門サッカー部の頑張りを無駄だと言っていた夏未は、もうどこにもいないのだろう。
 何に惹かれ何が契機になったのか、そこまで探る野暮な真似はしない。ただ、サッカーとサッカーに関わるものたちが彼女を刺激し変化を与えた、そんな事実だけで満足だった
 多分、本人が自覚している以上に影響されている。
 興味、好意とはそういうものだから。

「嬉しいな」

 好きだと気付いたときには、もう後戻りなんてできやしないものだから。

「なら、これからもっと楽しくなるよ。サッカーは一を知ればあとは百まで一直線だからね」
「でも、ルールとか戦略とかはまだよく解らなくて」
「そんなの解らなくても良いんだよ」

 伸ばした手のひらは、後押しするように夏未の背に触れる。風は涼しく肌を滑るのに、合わさる箇所にはじんわりと訴えかけるだけの熱が生じた。

「見てるだけでもどきどきわくわくして、激しい攻防に大袈裟なくらい一喜一憂して、フィールドで頑張る選手たちを一心不乱に応援したくなる。勝てば誰彼構わず皆で万歳して喜んで、負ければ悔しさに涙を流す。サッカーに限らず、スポーツって頭とかでなくまず心で楽しむものだからさ」

 この先、夏未も経験することになるであろう。試合前の高揚感と緊張感、試合開始のホイッスルが生み出す爆発的な熱気、駆け回る選手と一緒になって流す汗、まだゲームが終わってほしくないと思ってしまう気持ち、そして試合終了を迎えたときの感情の大きな振れ。
 例え自らがボールを蹴ってプレーしなくても、あたかも身体が皆と共にフィールドに立っているような、そんな強烈な興奮が胸を突き抜けていく。監督も、コーチも、マネージャーも、サポーターも、そこにいる皆が選手と一体化して感覚を共有する――それがサッカーだ。
 どんなに相手が凶悪で、勝ち目が無くたって、サッカーというものの本質は決して変わりはしない。

「雷門は、これから準決勝を戦い、勝って、次は決勝に駒を進めることになる。マネージャーとしてサポートすることも勿論大事だけど、まずは選手たちと一緒にサッカーってゲームを共有して、楽しめるのが一番重要なんじゃないかな」
「……ゲームを、共有」

 二、三度と撫でるように背を叩いてみれば、何か手繰り寄せられるものを見つけたのか、ぽそりとそこだけ反芻する夏未。考え込むというよりは記憶を掘り返している様子の彼女は、ややあってから馨を仰ぎ、穏やかな微笑を浮かべた。

「何となくですけれど、解る気がします」

 果たしてその微笑の裏には“何”がいるのか――薄ら捉えられた輪郭を掴むことはせず、そっと一つ頷くだけに留める馨だった。




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