聳える壁


 苦戦は強いられたものの見事に木戸川清修を下し、晴れて決勝へ進出した雷門中サッカー部。まさに今最も勢いに乗っていると言えるチームだが、この調子で全てが上手く進んで行ってくれるならば苦労はしない。
 試合の翌日、雷門生は夏期講座があるため部活は午後から行われることになっていた。なので馨もそれに合わせ、午前は試合研究の時間に費やす予定を立てた。
 まず、ハンディ型のビデオカメラ――元は帝国学園の備品だが、鬼道が特別に持ち出してきてくれたものである――の映像データをノートパソコンに移す。待ち時間の間に眠気覚ましのコーヒーを淹れ、まずは一口ブラックのまま。脳を刺激する苦味に顔を顰めてミルクと砂糖を足しつつ味の調節をしているうちに、映像の出力は無事終わっていた。
 その中身は、先日馨が観戦しに行った世宇子対狩火庵の試合模様である。

「……」

 黙ってちびりちびりとコーヒーを舐めながら、じっと映像の中の世宇子選手を観察する。肉眼で見た際にはただ圧倒されるばかりであったプレーは、こうして改めて見てみるとますますその異質さばかりが際立つ。落ち着いて繰り返せる分、一応冷静にプレーの一つ一つを分析できることはできるのだが、果たしてそれをすること自体に意味があるのかという疑問すら湧きそうになった。
 あるところでマウスを掴み、カチカチとクリックをして映像を巻き戻す。数秒戻した地点で再生を開始させると、ちょうどアフロディが狩火庵のFW二人を抜き去るシーンだった――のだが、まるで抜き去るまでの時間を丸ごとカットしたかのように、一瞬の間にアフロディの立ち位置が変わっていた。何回見ても同じ。ワンクリック、ほんの一秒にも満たない瞬間で、彼は敵FW陣の正面から背後へと移動しているのだ。
 ビデオですら追えないとなると、いよいよ未知の領域だ――馨は思わず盛大な長嘆息を吐き出しながら、ずるずると座椅子の背からずり落ちた。
 映像記録媒体上で時を止めることは不可能なので、これは恐らく瞬間移動の類だと思われる。それが解ったところで、ではどう対策をすれば良いのかという点までは考えつかない。ただの瞬間移動というだけでも大変厄介なのに、その直後には強い突風が巻き起こって周囲の選手を吹き飛ばしてしまうのだ、移動先を予知してのマークも難しいだろう。
 その後、アフロディは悠々とゴール前まで徒歩でドリブルを続け、例の破壊的なシュートを放って得点を奪う。狩火庵GKは既に手も足も出ず、一歩も動けないままでまともにシュートを喰らってしまい、もう碌に起き上がることができないでいた。
 他の世宇子選手も相当おかしな挙動やパワーを披露しているが、やはり一番危険視すべきは彼、アフロディである。

「ん?」

 一旦再生を止めて座る姿勢を直し、さてどうしたものかと大きく伸びをしているとき、突然テーブル上の携帯がブルブルと振動し始めた。パカリと開いた画面に表示されているのは『響木さん』の四文字。随分と珍しい人物からの電話だ。

「はい、もしもし」
『江波か、俺だ、響木だ』
「おはようございます、響木さん」

 時刻は正午の少し前、そろそろ店の仕込みも終わった頃だろう。大方そのタイミングで電話をかけてきたのだなと推測する馨に、響木はその推測通りのことを言ったうえで『ちょっとした作戦会議をな』と続けた。

『グラウンドに出るとオマエは指導につきっきりになって、あまりじっくり腰を据えた相談もできないからな。それに、アイツらの前では重苦しい話もしたくないだろう』
「まぁ、否定はできませんね」

 コーチどころかトレーナーやオペレーターの役目までこなしている馨は、グラウンド上で響木と会話するとなれば練習内容の確認や次の試合の戦術相談が主となる。それ以外の時間はほぼ誰かの個人調整や全体の連携確認などで駆り出されているので、響木の言う“腰を据えた相談”ができる時間はとても限られたものだった。
 そしてそれが周りの部員たちの耳に入れたくない類の話ともなれば、尚更のことである。

「ちょうど今、先日の世宇子の試合のビデオを確認していたんですよ」

 無意味にマウスを握ってカーソルをくるくると動かす。
 響木はあたかも、やっぱりそうだったかと言いたげな様子で鼻を鳴らした。

『それで、どうだ? コーチ的に次の決勝は手応えありそうか?』
「ありますよ、これはもう勝利確定です余裕で優勝です――って、言えたら良いんですけどねぇ……」
『だろうな』

 解っていて言わせるあたり、人が悪い。馨はせっかく正した背筋を再び背凭れに深く沈め、パソコンのディスプレイ上に映る眩い金髪を見つめた。
 本当に、そう言えたらどれだけ良いことか――彼らを信じているこの身この口で、勝利は間違いなく確定していると断言することだけならば、正直いくらだって可能だ。言うだけだったら何よりも容易い。何度だって口にしてしまえる。
 しかし、自分から宣言して指導者という立場に立ち戻った以上、ただ闇雲に(おだ)てるだけという無責任な行いはできない。現実を見据え、精査し、少しでもより良い方向への解釈をしたうえで、その可能性を見出してやらねばならないだろう。
 勿論、円堂たちが可能性を超えるだけの無限なる爆発力を持っていることは承知している。
 ただ、そこへ至るための道筋を少しでも照らしてやることが、導き手である響木や馨の仕事なのだ。そのような立ち位置の人間が、目の前の現実から目を逸らすべきではない。

「いろんな私情を抜きにしてものすごくはっきり言うと、じつ――内容的には、完全に世宇子の方が上です」

 一瞬『実力的』という単語を口にしそうになったが、寸前で言い換える。世宇子のこれが彼らの本来の実力であると言われると、いくら何でも首を傾げざるを得なくなってしまうからだ。影山が彼らにどんな指導を施したのかは未だ不明であるけれど、多少なりともまともではないことくらいは解る。

「影山の息がかかっている分、単純なサッカーで勝つとなるとかなり厳しいかもしれません。何度見ても世宇子のサッカーは常軌を逸してる。プレーの分析や戦術の構築は、正直殆ど意味が無いと思います」
『やはりそうか。オマエが言うなら疑いようもないな』

 きっぱり断言した馨に、響木も電話の向こうで小さく溜め息を吐いた。
 彼とて頭のキレる監督なのだ、こうなることは予め予測できていただろう。そのうえで吐かれたこの嘆息は、勝負云々よりももっと小さな部分への憂いが込められているようでもあった。

『相手を知ったところでどうにもならないなら、あとはひたすらウチが強くなるしかない。打たれ強くいられるフィジカルと、どんな強大な敵を前にしても堂々と雷門のサッカーをやりきるだけのメンタル、それらの強化も今まで以上に重要になるだろうな』
「そうですね。でも、フィジカルはともかくメンタル……これまでだったら大丈夫だって言えるところですけども」
『気になるか、昨日の試合が』
「少し」

 馨はディスプレイのどこか一点を眺めながら、その脳裏に昨日の試合の様子を思い起こす。その中でも特に、最後の《トライアングルZ》を止めた際の光景を。
 あのとき、今までの試合で絶対的な信頼を寄せ続けてきた円堂の《ゴッドハンド》は、彼一人での使用を続けていた場合確実に破られていた。栗松と壁山が支えてくれたからこそ、シュートを止めきることができたのだ。単体の《ゴッドハンド》では止めきれない技の出現は、即ち彼の限界点を表している。
 馨、そして響木の両名が気にしているのは、そんな事実を突きつけられた張本人である円堂のことだった。

「……世宇子のシュートは、《トライアングルZ》の比じゃないです」

 ぽつんと呟くと、電話越しに響木が低く唸るような相槌を返した。

『アイツはサッカーバカではあるが、ただのバカではない。自分の力の限界を感じて立ち止まらない程、向こう見ずの鉄砲玉でもない。それを見かけに出すかどうかは別としてな』

 それは馨とてよくよく感じていることだ。
 円堂は、決して何も考えていないわけではない。いろいろなことを考えたうえで、一番大事なことを忘れはしないだけである。そんな彼が彼自身の問題に直面したらどうなるかは、先日の武方三兄弟との決闘後の様子を見ていれば明白だ。しかも、今回は努力ですらどうにもならない境地にまで立たされてしまっている。あのときのような論調で軽々と踏み越えられるものでもないだろう。
 早くも温くなっているコーヒーを一口含み、飲み下す。おかげで、その口から出てくる言葉もほろ苦さを増しているようだった。

「今のままの練習じゃ、もう満足のいく調整はできないかもしれませんね。変に躍起になって無茶をしなければ良いんですが」
『無理な相談だろうな、それは』
「ですよねー……ただ、今以上の《ゴッドハンド》、もしくはそれを超える新たな必殺技を編み出す手立てもありませんよね、現時点だと」
『……あるにはある、かもしれないが』
「え?」

 てっきり何の対策も立てようが無いのかと思っていたが、どうやら響木には何か思い当たるものがあるらしい。
 やや期待して、その先の言葉を待った馨。
 けれども、続く響木の口調は依然重たいままだった。

『昔、俺が挑戦して、結局完成させることができなかった必殺技がある』
「それは《ゴッドハンド》を超えるものなんですか?」
『あぁ、俺の知っている限り最強のキーパー技だ。完成させられればの話だがな』

 若かりし頃にそこまで至れなかった自身に悔いが残っているのか、語尾はやや吐き捨てるようであった。

『円堂も大介さんのノートを持っている。そのうち存在に気付いて挑戦を始めるかもしれないが……そう簡単には身に着かん技だ、あれは』
「なるほど……ちなみに、その技の名前は?」

 参考までにと問うてみると、響木はどこか懐かしげにその名を紡ぐ。

『《マジン・ザ・ハンド》だ』
「魔神……神を超える、魔神ですか」

 響木ですら到達できなかった、神を超えるその境地。
 果たして円堂はそこへ足を踏み入れ、魔神の力を己のものにすることができるのか――先行きは相変わらず暗く曇りがかったままであるが、今の馨は、それを綺麗に晴らしてやれるだけのメソッドを持ち合わせてはいなかった。


* * * * *


 響木との電話を終えてから一時間程経ち、いつものように雷門中へと足を運んだ馨。
 やれることはなくても、何か一つでもチームのためになることをしよう――そんな決意新たに息巻くコーチを待っていたのは、しかし、普段と違ってどこか奇妙な雰囲気を纏う雷門サッカー部員たちだった。

「……やっぱりか」

 その異質さの原因は訊かなくても解る。
 ゴール前でひたすら声を張り上げている、()の人物だ。

「今朝、響木さんと話したばかりなんだよ。円堂くんが心配だって」
「朝からずーっと悩んでるみたいです……私たちは見守っていようって決めたんですけど、でも……」
「見守るって言っても辛いよね、あれは」

 木野に聞いた話によると、円堂は今朝からずっと、祖父のノートに記されている《ゴッドハンド》を越えるキーパー技《マジン・ザ・ハンド》を会得しなければと言っているらしい。やはり響木の言った通りの展開になったようだ。
 だが、それなのにコツどころか根本的な技の仕組みすら理解できず、彼は未だに頭を抱えてしまっている。それでも他のメンバーたちの雰囲気を壊したくなくて、ああして無理に元気を捻り出しているのが、この現状。馨の感じた違和感は、彼の無理矢理な明るさにあったのだ。
 いつだって最前線で笑ってチームを引っ張ってくれていた円堂。そんな彼が持ち前のガッツですら突き崩せない壁に直面して尚、チームの為にと笑顔は絶やさない。木野の言う“見守る”とは夏未の考えだそうだが、これは傍観しているだけでもなかなかキツい。馨がそうなのだから、円堂と付き合いの長い木野は尚更のことであろう。

「円堂くん、あんまり悩みすぎて自分のことを追い詰めちゃわないといいんですけど……」
「難しい話だろうね」

 現に、円堂はシュートを撃つ仲間へもっと力を強くしてくれと何度も要請しており、染岡たちは少々困惑気味に精一杯全力のシュートを叩き込んでいる。強くなるには自身の力を上回るパワーのボールを止めるのが最も手っ取り早いのは解るのだが……。
 どことなく危なっかしさが感じられ、馨は両手をメガホンにして大きく呼び掛けた。

「円堂くーん、もっと力抜かないと手首怪我するよー!」

 力むな、自然体でいろ、と言いたかったのだが伝わるわけもないだろう。返ってきたのは簡単な返事だけで、その後も円堂の動きに何ら変化は見られなかった。
 どうにかしたいのは山々である。けれども、円堂ですら見当もつかぬ《マジン・ザ・ハンド》が馨たちに解るわけもない。下手な励ましも要らぬだろうし、本当に今は見守ることしかできそうになかった。

「とりあえず、秋ちゃんはいつも通り皆のこと見ててあげなよ。他のやる気満々な子たちまで巻き込んじゃうのは気が引けるから」
「はい」

 了解してからタオルを冷やしに去っていった木野。馨は一息吐いてグラウンドを見、先程からちらちらと感じる視線の主を探した。豪炎寺、鬼道、一之瀬、土門――恐らく円堂の事情を知っている者たちだろう。この面子が傍にいても解決しないなんて、改めて円堂の抱えるものの大きさを実感せざるを得なかった。

「馨姉ちゃん!」

 とりあえず普段通りの練習を始めようとファイルを手に取ったとき、不意にその特徴的なお呼びがかかった。
 振り返ると、ゴール前から円堂が駆け寄ってくるところだった。

「どうしたの? 今からポジショニングの確認しようと思ってたとこだけど」
「それより、見てほしいモンがあるんだ」

 食い気味にそう言った円堂は、ベンチの隅に置いてあった古い一冊のノート――噂の『円堂大介の秘伝ノート』を手に取り、馨の前でパラパラとページを捲り始めた。やがて「これ!」と言って両開きにして掲げられたページには、何やら理解不能な絵図がびっしりと書き込まれている。恐らく文字のような線の集まりも書かれているが、何一つ読み取れない。

「……これは……なに?」
「《マジン・ザ・ハンド》っていう、《ゴッドハンド》を超える最強のキーパー技の秘訣が書いてあるんだ」

 そう言われてもまるでさっぱり理解できず、眉を寄せるばかりの馨。
 円堂はそんな反応も慣れたものなようで、特に気にせずに右ページのある点を指で指し示した。人に見立てたような図形の胸元あたりに、赤いペンでぐりぐりと印が打ってある。

「ここがポイントらしいんだけど、姉ちゃんだったら何て考える?」
「ここは……えっと、これが人間だとしたら……心臓、だよね。多分」
「やっぱそうだよなぁ」

 やっぱ、ということは、他のメンバーにも同じことを訊き、同じ結論を出されたのだろうか。それ以外には何か書かれていないのかと問うてみても、書かれていないと端的に返された。

「心臓……キーパー技のポイントが心臓って、どういうことなんだろうなぁ」

 ヒントが少なすぎて最早ただの謎かけでしかないが、何せ円堂の祖父がこれだけしか手がかりを残してくれていないのだから、今の円堂はそれに縋る以外方法が無い。そういえば、《イナズマ落とし》や《炎の風見鶏》も同じノートの中から解法を導き出した技であった。円堂はいつも、こんなにも難解な絵や文字を解読していたのか。そう思うと、場違いながら尊敬の念を抱いてしまった。
 それにしても、心臓がキーとは一体どういうことなのだろう――馨も一緒になって考えてみるが、当然答えに行き着くどころか糸口一つ見つけ出せはしなかった。

「力になれなくてごめんね、円堂くん。でも、お祖父さんにできた技なら円堂くんにもきっとできるよ」
「うん、オレもそう思ってる。……っていうか、できなきゃ世宇子に勝てないんだ、絶対完成させないと」
「え」

 それまでとは一転して暗く潜められた声に思わず困惑するも、次の瞬間にはそんな暗さが吹き飛んでいた。

「姉ちゃん、ちょっとオレのフォーム見てくれ!」

 ノートをベンチに預け、がしりと馨の手を掴む円堂。全く予期していなかった動きに呆気に取られた馨は、そのままゴールの方へ連れて行こうとする円堂の力に抗うことができず、足を縺れさせながらされるがままとなってしまう。
 だが、元フィールドプレーヤーの自分がGKの動きを見たところで、大して彼の役に立てる気がしない。帝国でやっていたような必殺技の調整ならともかく、フォームを見てあれこれと的確な指示ができる程、馨はGKという役職への造詣が深いわけではないのだ。だからこそ、円堂の指導は基本的に響木に任せていたのだが。

「待って円堂くん、フォームは響木さんが来てから見てもらわないと。私じゃキーパーはそこまで――」
「ちょっとでいいから! 姉ちゃんがすげーこと、オレだってよく知ってるよ。だから手伝ってほしいんだ」
「円堂くん……」

 必死な、それこそ藁でも縋らんばかりの迫力に、馨もそれ以上を言うことはできなかった。
 ずるずると馨を引きずってゴールへと戻っていく円堂に、周囲のメンバーは一部が不思議そうな、一部が気が気でない様子の眼差しを向けている。そんな奇怪な空気も円堂は気にならないらしく、早速染岡に向かってシュートを撃つよう頼み、構えを取った。
 ゴールの脇でそれを見つめる馨は、いろんな意味で吐き出したい溜め息をぐっと堪えて、彼の望み通りキーパーフォームの観察を始めた。

「どっか悪いとこあったら、すぐに何でも言ってな!」
「うん、そこは容赦するつもり無いよ」

 容赦をするつもりは無いが――円堂の動き自体は、今のままでも充分に仕上がっている。何本か撃たれたシュートを止めるどの動きも、特に指摘するような点が見つからない。
 馨が見るとなれば、四肢の使い方の無駄や重心の動かし方などといった基本動作に関するものが主なポイントとなるのだが、現状ならば響木だって文句を挟むことはしないはずである。それよりももっと複雑なプレーだって、結局は基本の延長なのだから同じこと。初めて見たときからめきめきと成長してきている彼は、確かにここへきて一つの限界点を迎えているのかもしれないと思えた。
 やはり、その限界を超えるためにも《マジン・ザ・ハンド》が必要になってくるのか――それを誰よりも自覚しているのは、間違いなく、今目の前で無理な笑顔を浮かべている円堂守本人であろう。


* * * * *


 その後、結局微妙な空気が変わることのないまま部活は終わり、話しかける前に円堂は一人で姿を消してしまった。本当はもう少しきちんとフォローを入れておきたかったのだが、これではその猶予さえ与えられず、彼のテリトリーから弾き出されたような心持ちである。
 短時間とはいえ行ったキーパー指導でも特に実りがなく、結果的に自分の力不足をひしひしと感じることになってしまった馨。世間でも専門コーチがいるくらいなのだ、やはりGKへの指導は他のフィールドプレーヤーとは違う。六年前に少しでも齧っておけば良かった、と遅すぎる後悔すらした程だった。

「円堂は、相当大きな壁にぶつかってしまいましたね」
「相手も相手だし、ぶつかって然るべしなのかもしれないけど……」
「今日の練習、まさか江波さんに指導を頼むとは思いませんでしたよ」
「私もちょっと驚いた。あそこまで追い詰められてるとはね」

 馨が鬼道とそんな話をしているとき、木野と一之瀬が円堂の様子を窺うようにそのあとを追いかけていった。行ったところでどうするつもりなのだろう、何か声を掛けるのだろうか。具体的な方法が思いつかないまま、それでも放っておけずに着いて行ったというのが正しい気がする。
 そんな馨は一旦家に帰ってから少し時間を置いて、再び日の暮れた街中を歩いていた。
 迷い無く向かうのはこの町唯一の絶景スポット、片手に持つのは仄かに重みのある紙袋。お節介かもしれないが、あの二人と同じく、自分も見て見ぬ振りだけはできない。意味の無い励ましだけならまだしも、これは少なからず彼の支えになれるであろうから。
 暫く歩いて坂道に差しかかったとき、ふと、前方から数刻振りに見る二人組が歩いてくるのが見えた。

「あら、江波コーチ?」
「さっき振りー」

 陽気に片手を挙げると、一之瀬が目をぱちりとさせた。

「馨さんも、もしかして円堂の様子を見に?」
「うん、そんなところかな。どうせここに来てるんだろうって思って」
「円堂くん、いつにも増してすごい練習してましたよ。本当に、止めても聞かないだろうなって感じで」

 木野の表情からしても、円堂がどれだけ無茶をしているかが推し量れるというものだ。

「そうだろうね。だから一応、差し入れ持ってきた」

 提げていた紙袋を軽く揺らしてウインクすれば、「あぁ」と納得か何かの相槌を打つ二人。別れの挨拶をしてから彼らを追い越していくと、頂上に近付くにつれ、バンッという物同士のぶつかる激しい音が聴こえるようになってきた。

「おー、やってるやってる」

 バンッ! ――巨大なタイヤが円堂の両手に衝突する音。
 ドサッ! ――止めきれずに吹っ飛ばされた円堂が地面に倒れる音。
 腹と背にもタイヤを抱えた円堂の特訓は、この二つの音と彼自身の力み声によって構成されている。木野の言う通り、今日はまた一段と覇気があった。
 何度も挑んではその都度吹っ飛ばされる円堂に思わず顰め面になってしまいそうなのを堪え、馨は地面に仰向けになったその真上に、ひょっこりと顔を出した。

「あ……姉ちゃん? 何でここに?」
「お疲れさま、お腹空いてない?」

「おにぎり作って来たよ」――そう言いながら紙袋を翳せば、返ってくる答えは一つしか有り得なかった。


「姉ちゃんってさ、料理できるんだな!」
「これを料理と言っていいのかは微妙だけどね」

 二人並んでベンチに腰掛け、円堂は馨の持ってきたお手製おにぎり――蝗の佃煮やミートボール等、弁当のおかずの残りを入れただけの簡易創作おにぎりだ――を満足そうに食べている。有り合わせのもので作った突貫おにぎりでは不足だろうかと少し心配していたので、こうして美味しそうにぱくついてくれる姿を見ると安心できた。

「ちょうどお腹空いてたんだー、ありがと!」
「どうせ君のことだから、部活後も練習してるだろうと思ってね。喜んでもらえて良かったよ」
「次は決勝だからな、今まで以上に気合い入れていかねーと!」

 言葉通りに気合いを入れているのか握り拳をつくり、やたらと元気な笑顔をみせる円堂。その姿は、日中のグラウンドで見ていたものと殆ど変わらず、ここでの練習すら彼が自分を追い込んでいるように思えてならなかった。
 ――何も解らないからこそ、今は我武者羅にもがくことしかできないでいるのか。
 ある意味それは円堂らしい、今までの円堂らしいストレートな考え方だ。その証拠に、グローブの外された手は左右どちらも傷だらけ。彼はその傷の分だけ特訓して、確実に強くなってきた。
 特訓すること、傷を増やすことには必ず意味があるし、後になってついてくる場合だってある。
 それでも、今はどうしてか痛々しくてならない。
 悩みに巻かれてどこか空回っている円堂がつけているものだと思うと、どうしても。

「遂に、世宇子中と戦うんだよな」

 ぽつりと、円堂がトーンの低い声音で呟く。それまでおにぎりを持った彼の手に縫いつけられていた馨の視線が動き、夕闇のせいか少しシリアスなその横顔を捉えた。

「鬼道も、姉ちゃんも、あいつらの強さを目の当たりにしてる。オレは実際には見てないけど、とにかく強いんだってことは、よく解るよ」
「だから焦ってるの? そんなに必死な顔して」

 いきなり核心まで切り込んでいけば、途端に円堂の表情から笑顔が消え失せた。

「だって、オレがあいつらのシュートを止めなきゃ勝てないじゃんか……どんなに皆が点を取ってくれたって、こっちがそれよりもたくさん失点してたら意味が……」
「正論だね、まさしくその通り。いつまでも雷門のゴールが破られ続ける限り、勝ち目があるとは言いづらい」

 しょぼくれる円堂に容赦無く、はっきりとした口調で言い切ってやった。そこまでばっさりと切り捨てられるとは思ってなかったのか、やや驚いた顔が馨をじっと見上げてくる。その眼差しに気付いていながら、暫し険しい面持ちで紺色の地平線とにらめっこしていた馨は、(おもむろ)に苦笑すると身体ごと円堂へと向き直った。

「……でも、例え勝つためだとしても、そんなにちぐはぐな円堂くんは見ていたくない」

 言いつつ、口の端についていたお弁当を取ってやると、今度はまた別の驚きで目が見開かれた。
 ギィ、と微かにベンチが軋む。

「円堂くんはすごく頑張ってる。その頑張りで、これまでたくさんの危機を乗り越えてきた。今はまた大きな壁にぶつかって、それも頑張って打ち砕こうとしているね。……けど、頑張ることと自分を追い込んで傷付けることは違うってのを、よく覚えておいてほしいな」

 円堂は優しい。優しいから鬼道や馨の想いも背負い込み、チームを巻き込まぬようにと平然を振る舞おうとする。自分では良かれと思ってやっているだろう行動に確かに救われることも多々あったが、そうして救われている分だけ、追い詰められて無茶をする彼を見るのは辛いのだ。

「私も、それに他の皆も、今まで円堂くんにはたくさん助けられてきた。だから今度は、そんな周りの人たちに頼ってみたって罰は当たらないんじゃない?」

 不安なら不安だと言ってほしい。苦しいなら苦しいと言ってほしい。決定的な力にはなれないかもしれないが、少しでも円堂が抱える負担を軽くしようと懸命に努力をするし、せめてその重い背中を支えさせてほしい。ただ世宇子に勝つためだけに、単純な仇討ちをするためだけに、雷門へ来たのではないのだ。
 円堂の表情から、あの迷走気味だった覇気が消えていくのが何となく感じられる。代わりにそこへ残されたのは、純粋に己の限界に悩む小さな少年だけで。

「……馨姉ちゃん」
「《マジン・ザ・ハンド》、私じゃ力になれないかもしれないけど、でも完成させるためにどんなことでも手伝いたいって思ってるよ。だからもっと素直に、君の思いや考えていることをたくさん聞かせてほしいな」
「……ううん、力になれないとか、そんなこと全然無い。ありがと、姉ちゃん!」

 夕日はとっくに沈んだはずなのに、目を輝かせる円堂がやけに眩しくて自ずと瞳が細まる。そして、思い出したように大口を開けておにぎりを食べる円堂の頭をよしよしと撫で、馨は木にぶらさがって揺れているタイヤを眺めた。
 ――自分にも、こういう時期があった。
 独りで何でも抱え込んで、周りに迷惑かけないようにと平気な振りして、その結果、逆に皆を心配させてしまったことがあった。そのときそれを思い改められたのは、他でもない周囲の存在があってこそだった。真に思ってくれる人がいてくれたからこそだった。
 円堂も、今隣にいる人間の言葉によって、当時の自分のように何か一つでも得るものがあってくれたのなら、それはとても幸いなことである。

 その日は時間も遅いということで、おにぎりを食べて少ししてからお互い素直に帰宅した。
 次の日から馨も身を入れて特訓に付き合おうとしていたのだが、どうやら考えることは皆同じだったようだ。

「いくぞ円堂!」
「おぉ、いつでも来い! 豪炎寺、鬼道ッ!」

 昨日と同じ分だけ差し入れを持って来てみれば、そこで繰り広げられていたのはタイヤ三つとボール二つと撃ち手二人を使った壮絶な練習風景。傍らには木野と夏未がおり、昨日とは違って落ち着いた様子の木野とは裏腹に、夏未の方はかなりびくびくしていた。それもそうだろう、豪炎寺と鬼道による情けの欠片も無いシュートが円堂やタイヤに当たり、どちらにせよ円堂が派手に吹っ飛んでいるのだから。

「差し入れ足りないな、これ」
「あ、江波さん……こんな練習で大丈夫なんですの?」
「昨日無茶すんなって言ったばかりなんだけどなー。仕方ないか」

 不安げな夏未には悪いが、そうとしか答えられない。
 けれども、今シュートを止めようと奮闘している円堂は馨のよく知る無茶苦茶な少年円堂守そのもので、見ているだけで胸の底からわくわくしたものがせり上がってくるのを自覚した。

「よし……円堂くんおまたせー」
「お、姉ちゃんやっと来た!」
「ごめんね、またアレ作ってたから。早速だけど鬼道くん、豪炎寺くん、ちょっとポジション弄るよ」
「何だ、随分やる気満々だな」
「アレって何ですか?」
「それは後でのお楽しみ。二つのシュートの時差をもうちょい上手く使いたいから、豪炎寺くんは後ろ……あ、その辺。鬼道くんはここで、タイミングは――」


* * * * *


「円堂くん、もうすぐ雷雷軒に着くからねー」
「うう……ごめぇん、姉ちゃんんん……」
「もうっ! だからあれ程やめておきなさいって言ったのに!」

 馨に背負われてすっかり伸びてしまっている円堂の側頭部には小さな(こぶ)ができている。その隣に連れ添いながら声を荒げる夏未には、さすがに反論することはできなかった。
 ――あの後、練習に熱が入りすぎてしまったシューター二人による強烈なダブルシュートが炸裂し、タイヤをぶら下げていた縄が千切れた挙げ句、吹っ飛んだタイヤが円堂に衝突するというとんでもないアクシデントが発生した。
 重たいタイヤの一撃を喰らった円堂は卒倒し、ついでに地面に頭を打ちつけたことによって見事なまでの瘤を作ってしまい、今はこうして馨に背負われながら氷嚢(ひょうのう)を貰うために雷雷軒へ向かっているところだ。縄の切れた原因は過剰なシュートの嵐であるが、その威力を底上げさせたのは馨であるし、それ以前に馨はこうならないようにする責任を有した監督者でもある。夏未の視線が痛いのは自業自得とも言えよう。
 せめてもの罪滅ぼしとして、鉄塔広場からここまで円堂を負ぶさって歩いてきた馨。「大丈夫ですか、俺たちで運びましょうか」という鬼道の労わりを五回程断り、しかしそろそろ疲労困憊の足が震え出すかという瀬戸際、漸く見慣れた赤い暖簾が目に入った。ありがたいことに、本日も雷雷軒は全く人気(ひとけ)が感じられない。

「監督、氷をください!」
「派手にやっちゃって……」

 飛びつかん勢いでその扉を引き開けた夏未と木野。それに続くかたちで鬼道と豪炎寺、最後に円堂を背負って苦笑いを浮かべる馨が入って来たことで、響木は「おいおい」と驚愕よりも先に呆れのような声を漏らした。

「江波、オマエがついていながら何をやっているんだ」
「本当にすみません、テンション上がりすぎちゃって……ほら円堂くん、氷嚢。ぶつけたとこに当てておきなさい」
「ありがと……いてて」
「まったく」

 テーブル席に下ろした円堂へ氷嚢を渡し、馨も入り口近くのカウンター席へ腰を下ろす。正直言ってもう歩き出せない程へとへとになっているが、それを悟られぬようこっそり足を撫でつけた。響木もそんな馨の疲弊した挙げ句凹んでいる顔を見て、それ以上説教をする気にはならなかったようだ。

「にしても、随分と無茶をしたもんだな」
「無茶じゃないよ、特訓だよ」
「新しいキーパー技を編み出そうとしていると聞いたぞ」
「うん、《マジン・ザ・ハンド》」

 円堂が技の名を口にした途端、それまで洗い物で濡れた手を拭っていた響木の動きがぴたりと止まった。その様子に、テーブルへ上体を預けていた円堂も身を起こす。

「ん? 監督、知ってる?」
「あぁそうか、オマエも遂にアレに挑戦を始めたか」

 そんな言い方をするものだから、円堂もてっきり響木が《マジン・ザ・ハンド》を完成させたものだと思ったのだろう。期待感溢れる声音でできたかどうか尋ねるが、残念ながら結果はノー。以前馨が電話で聞かされていたように、彼は終ぞその伝説のキーパー技を習得することができなかった。
 だが、オマエならやれるかもしれない――そう言う響木は、自分の成し得なかった極地への夢を託す意味も込めて、円堂へと激励の言葉を贈ったのかもしれない。サングラスの奥には、監督としてだけではない、もっとあたたかな瞳が潜められているように感じられた。
 響木の「頑張れよ」に円堂が溌剌と返してからすぐ、突如店の扉がガラリと開かれた。

「おいおいどうした、お揃いで」
「あ、鬼瓦さん」
「刑事さん」

 馨と円堂の声が被る。
 何の前触れも無く現れた鬼瓦は、すぐ近くに座っていた馨を見るや否や口端を歪める笑い方をした。

「なんだ江波、練習にでも混じったのか? 足が震えてるぞ」
「ちょ、……き、気のせいですって」
「そうか?」

 さすが刑事は目敏いというか、何というか。せっかく黙っていたのに何を言ってくれているんだと眉を吊り上げて足を隠せば、テーブル席の鬼道と豪炎寺がやっぱりなとでも言いたそうに肩を竦めた。
 次いで目を向けた先にいた泥まみれの円堂の姿に、これまた驚く鬼瓦。

「それに坊主の方も、ひっでぇ恰好だなぁ」
「世宇子に勝つには、これくらい何でもない!」

 円堂の気丈な返事を受けながら、鬼瓦は馨の隣の席へと座る。その顔には笑みが佇んでいるが、次に彼の放った言葉はそれに見合わぬ重苦しいものだった。

「威勢が良いのは結構だが……勝つことに執念を燃やしすぎると、影山みたいになるぞ」
「影山?」

 登場と同じだけ唐突な人物の名が出てきたことで、店内に張り詰めた緊張感が奔る。
 そこへさらに追撃を加えたのは、静々と零された夏未の付言だった。

「刑事さんは、冬海先生に会ったそうよ」
「えっ!」

 驚くのも無理は無い。冬海はあのバス細工事件によって雷門中そのものをクビになり、以降行方が判らなくなっていたのだ。部員たちも馨も大して気には留めていなかったが、こうして名前を聞いて実際に会ったとまで言われると、やはりどうしても思うところがある。
 緊張の中に動揺が入り混じる空気の中、鬼瓦は淡白な口調でさらに続けた。

「影山を探すためにな。……四十年前のイナズマイレブンの悲劇から、雷門対帝国の鉄骨落下事件まで、一連の不可解な事件を解明するためには影山という男の過去を知るべきだ。俺はそう考えた」
「何か解ったのですか?」

 鬼道が間髪入れず問いかけるも、鬼瓦はすぐに答えようとせずに指を組んだ。皆に対して話して良いものかを迷っている、そんな様子である。
 そこへ、響木がグラス一杯の水を差し出しながら進言した。

「コイツらも知りたがっている。話してやったらどうだ?」
「……そうだな」

 それにより、彼の中でも決心がついたらしい。鬼瓦はグラスの水を一気に煽って一息吐いてから、ちらりと馨のことを横目で一瞥した。それに馨が黙って頷くとまた正面を見据え、相も変らぬ淡々とした口振りでその話を切り出した。

「始まりは、五十年前の出来事なんだ――」

 ――そんな一言から語られ始めた、影山という男の過去。
 馨は胸に去来する幾多もの複雑な感情を、そっと片手で抑え込む。自分は既に知っていることなのだ、今更何を惑うことがあろうか。そう自分に言い聞かせることで冷静さを保ちながら、鬼瓦の語る物語を静かに目を閉じて聞いていた。
 六年前、己の手ずから調べ上げた影山零治の人生は、当時の自分にとって同情に値するだけの壮絶なものであった。父である影山東吾の栄光、そこへ現れた円堂大介中心の若手選手によって奪われた代表の地位、荒れる父が齎した家庭の破滅、独りきりになった影山――今再び聞き入れるその悲劇的な物語は、知った当初の自分をひどく戸惑わせ、悲しませた。未だにあの頃のショックは覚えている。そのとき、この左手首にあった紅い痕のこともまた、忘れもしない。
 馨は無意識のうちに左の手首を手で覆い、俯いていた。六年前から振り返してくる感情と、現代の自分がそれを許さぬ意識とが、胸の奥で反発しあっている。閉じた瞼の裏側、真っ暗なそこにあの日の悲しげな自分が見えてくるような気がして、音を立てずに深く息を吐き出した。そうすることで、幼い江波馨の虚像が霞となって消えていった。
 次に目を開いたとき、その過去話には一旦の終止符が打たれた。

「……奴の中で、家族を壊したサッカーと勝ちへの拘りに対する憎しみが、膨れ上がっていったんだろうな」

 同情はしない、しかしどこか遣る瀬無さにも似た語り口の鬼瓦。
 それまで何かを思い出しながら話を聞いていた鬼道が、馨にとっても耳馴染みのあるあの台詞を口にした。

「『勝つことは絶対』『敗者に存在価値は無い』……影山がよく言っていた言葉だ」
「そのために、たくさんの人を苦しめている――豪炎寺、オマエもその一人」
「なに?」

 いきなり名指しをされて怪訝そうにする豪炎寺へと、鬼瓦は率直にこう告げた。

「妹さんの事故も、奴が関係している可能性がある」
「……ッ!」
「鬼瓦さん!」

 馨は思わず咎めるように声をあげ、その肩を掴んだ。完全に話の流れで持ち出された話題だが、何も本人を前にする必要は無かったのではないか、デリカシーが足りないのではないかと思ったのだ。豪炎寺の精神面も心配だが、それだけではない。もしもこれで豪炎寺が影山を今以上に憎み、剰え復讐という道を選んだら、それこそ第二の影山が生まれてしまうかもしれないというのに。
 対する鬼瓦は僅かに驚いて馨を振り返り、その目が明らかに怒っていると認識すると同時にそっと眉尻を下げた。

「すまない……だが、いつかは知らなければならないことだ」
「でも、だからって今は……!」
「馨、オレは大丈夫だ」

 宥めるように名を呼ばれ、馨は反射的に彼の方を向く。

「……豪炎寺くん」

 豪炎寺は、いつも胸元へ大事に下げているペンダントを手のひらに乗せていた。それをじっと見つめながら、まるで在りし日の妹の姿でも思い出すかのように、遠い眼差しをしている。やがてぎゅっと握り込まれた拳はわなわなと震え出し、彼の中の怒りと悲しみを、そのまま見ている馨にまで伝えては胸を痛めさせた。

「……許せない」

 そこへ、小さく零された円堂の呟き。影山に対しての怒りに満ちていた。

「どんな理由があっても、サッカーを穢していいわけがない。間違ってる!」
「影山は今どこに?」
「……まだ判らん」

 なかなか進展を見せない捜査に、鬼道も些か歯痒そうにしていた。
 だが、どうやら冬海の取り調べをした際、彼はおかしなことを言っていたそうだ。

 ――フットボールフロンティアは『プロジェクトZ』によって支配されているんです。
 ――今や空から、それこそ神様にでもなったように私たちを見下ろし、嘲笑っているんですよ。

「どうやらその計画と、“影山が空にいる”ってのは繋がっているらしい」
「『プロジェクトZ』と、空……何のことだ?」

『プロジェクトZ』については、以前喫茶店で鬼瓦から話を聞いている。しかしそれ以外の“影山は空にいる”については馨も初耳だった。
 鬼瓦は鬼道の方を向く。

「帝国にいたオマエには、“空”と聞いて何か思いつくことはないか?」
「いえ、俺にはさっぱり……江波さんは、何かご存知ですか?」
「ううん、私も解らない」

 六年前も、そして現代でも。あの男の近くにいながら、それに関することを連想させるような挙動は何一つ見えなかった。いつも、実際に起こってみなければあの男の仕掛けた舞台に気付けないのだ。それを経験していながらどうにもならない現状がもどかしいばかりであり、鬼道と二人、見つめ合いながら肩を落とすことしかできなかった。
 帝国学園で影山の傍にいた二人が解らないともなれば、他の人間など尚更思い至ることはできないだろう。そう判断した鬼瓦が一つ嘆息をしたところで、重たい空気を引きずりながらもこの話は閉幕となった。


* * * * *


「豪炎寺くん」

 雷雷軒を出てすぐ、他の子たちより少し遅れたところを歩いていた豪炎寺の隣に並ぶ馨。そうやって来ることが解っていたかのように、豪炎寺はふっと微笑んで馨のことを見上げた。

「気にしてくれているのか、さっきのこと」
「……でも、君が大丈夫って言ったから、ちょっと安心した」

 安心した、と言っておきながら、自分でもあまり優しい声音ではなかったと思えてしまう。彼の首元から覗く銀のチェーンが月光に反射したのを見つけ、仄かな息苦しさにその瞳を細めた。
 豪炎寺はそんな馨に、今度は微笑みよりもさらに深い笑みをみせた。やにわに、くっと漏らした声と共に肩を揺らす。
 その脳裏には、今でもやはり妹の姿が浮かんでいるのだろう。愛する妹を昏睡状態に陥らせた影山への怒りも、当然激しく燃え盛っているだろう。そうなって当然の目に遭ってしまったのだから。
 だが、彼は少なくとも、馨が一瞬でも案じたような道に落ちることは無い――そう思えるだけの優しい面持ちが、月明かりに照らし出されて淡い光を纏っていた。

「あぁ、大丈夫だ、オレは。だってオレには、影山と違って皆がいる」

 そこで一拍置いてから、次は今よりもほんの少し柔らかになった声音で。

「……それに、馨もいてくれる」

 そう囁くように紡いだ豪炎寺のことを、馨はもう何も言葉を口にすることなどできぬまま、唇を噛み締めてそっと抱き寄せた。




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