青春おにぎり


 皆の前では余裕ぶって全てを許容する(てい)でいられても、やはり悩めるものは悩めるものだ。
 一旦は何とかなったように思えたが、あの円堂の苦しそうな顔を思い出す度に馨は頭を抱えていた。
 円堂の内面が変化したところで、どのみち世宇子のシュートを止めるために《マジン・ザ・ハンド》を完成させなければならないという現実は変わっていない。未だきっかけすら見えてこないその技の完成のため、馨も何かできることがあれば良いのだが、如何せんGKは管轄外。響木の方も「今は見守るしかない」と言っているため、今日もまた、あのもどかしい気持ちを抱いて練習に臨むことになりそうである。
 そもそも、馨の指導は全てが己の経験から来ているものだ。幼い頃に河川敷で鍛えた観察眼と分析力、帝国学園で身に付けた実際のプレースキル、そこへ元来有しているサッカーセンスが合わさることで、初めて目の前にいる少年たちへの指摘が出てくる。帝国時代は主にMFにて司令塔(レジスタ)型ボランチとして活動していたため、敢えて専門を言うのならMFなのだろうが、その他のポジションに関しても一通りは経験してあるので感覚で解るのだ。
 ただ、GKだけは実際にやったことが無いポジションなため、先程も述べたように馨の中では指導の管轄からどうしても外れてしまう。いや正確に言うと、動きを見て修正すること程度ならば可能なのだが、それが果たしてGKにとってきちんと活きるものかどうかいまいち自信が持てない。経験が無い分、全てが観察と分析と論理と感触と、言い方は悪いが“勘”頼りになるのだ。つまり、導き出した結論を裏付けられるだけのものが馨には欠けていた。
 じゃあ今からGKをやってみればいい、なんて簡単には言えないし、参考書を捲ったところで馨としては何も得るものはない。机上論だけならばいくらでもこの頭に叩き込んである。GKのことを何も知らない人間では、司令塔など務めてはいられないのだから。ただ、教科書知識で全てが賄えるのならば、世の中相当気楽なものだろう。
 せめて少しでも経験があれば、また何か手助けをすることができたかもしれないのに。六年前の自分はどうしてGKという役職に手を出そうと考えなかったのだろうか――今日も今日とて溜め息の尽きない馨の話は、そんな非常に一極集中型な後悔の言葉を締めとして幕引きされた。
 そして、それを静かに聞いていた帝国学園サッカー部GK、『キング・オブ・ゴールキーパー』の異名を持つ源田幸次郎の放った第一声は

「そんな完璧超人がいたら末恐ろしいぞ」

 ――だった。

 昨日に引き続き夏期講習の続いている雷門中学。当然サッカー部の面々も強制参加となっており、お昼過ぎまでグラウンドに出てくることはできない。
 故に生まれた午前中の空き時間を、本日の馨は病院への見舞いに充てることにした。近場のスイーツ店で買ったカップケーキを手土産に、源田と佐久間の病室を訪れたのは一時間程前。それから互いにいろいろと近況報告や世間話などを経て、いつしか話題は円堂のぶち当たった“壁”の話へ移っていた。
 馨から諸々の説明と上記の心境吐露を聞かされた怪我人二名の反応は、どちらも大凡同じものであった。源田の若干呆れ混じりな第一声に続いた佐久間の台詞、こちらはどう考えても呆れ返っていた。

「司令塔になれてGKもできるガチユーリティプレーヤーとか見たことないっての。まぁ、控えのGKがフィールドに出ることは極稀にあるらしいけど……それに第一、GKに専門コーチが着いてるってのはつまりそういうことだろ。あれは職人みたいなもんなんだよ、多分。誰でも気軽に指導できるもんじゃねーって」

「欲張りすぎだろ」と言いながら、カップに入ったティラミスをスプーンで掬って頬張る佐久間。そんなに美味しかったのか、真面目な発言とは裏腹にその表情がほろりと綻ぶ。

「美味いなこれ、どこの店の?」
「駅前のショップ街にあるスイーツ店。他にもチーズケーキとかあったから、次来るときはいくつか種類買ってくるね」
「おー、よろしく。オレあれがいい、ミルクレープみたいなやつ」
「ならオレはショートケーキがいいな。……で、それはともかくとして、だ」

 同じくティラミスを食していた源田は、いきなり本題から外れていく両者に対して小さく咳払いをした。

「GKコーチなんて、一朝一夕でなれるような容易いものでもないだろう。馨は既にコーチとして充分頑張っているんだし、そんなに何でも気負う必要は無いと思うけどな」
「そうそう、オマエの悪いところだぞ、それ。鬼道とおんなじだ」
「鬼道くんと?」

 鸚鵡返しすると、佐久間と源田は互いを見て一つ頷き合った。そして早くもカップを空にした佐久間が、空いたそれをスプーンと共にゴミ箱に投げ入れてから、改めて馨のことをじっと見構える。

「責任感が強すぎて、何でもかんでも自分が頑張らなきゃいけないって思い込んでるところだよ。ほら、アイツってそういうところあるだろ」
「あぁ……」

 それには馨も思い当たる節がある、どころではない程の実感があった。
 嘗て鬼道と共に帝国にいた頃、一体何度、彼のそういった部分に対して業を煮やしてきたことか。その小さな背中にどれだけ背負い込めば気が済むのだと心配したことか。一連の騒動があったおかげで今はそんな面もあまり見られなくなってきたから良いが、当時は馨も鬼道の抱え込み癖には胃を痛めたものである。
 そして佐久間曰く、それは馨も同様であると――言われてしまえば、本人とて否定はしきれなかった。

「頭では解ってるつもりなんだけどね……」

 がくんと肩を落とすようにして項垂れる。
 そう、頭では解っている。誰かの目の前に聳えている壁を壊す手伝いをしたいといっても、全員分のそれに手助けしようと思ったら本当に源田の言う完璧超人にでもならなければいけない。不可能なのだ。自分に足りていないものを全て補おうとするなんて無謀なのだ。江波馨はフィールドプレーヤーとしての経験しか積めておらず、GKに関しては知識のみしか持ち合わせていない。それが現実であり、この土壇場でどうにかしようと思うべき問題ではないのだ。
 解っていて、それでもこうして怪我人の二人に弱音なんて吐いてしまうのは、やはり。

「思い悩んでる姿を見るともう、辛くて辛くて……どうにかして助けてあげたいって、つい思っちゃうんだよねぇ」

 自省の意も込めて、また嘆息。未だ脳裏に浮かんでは消える円堂の必死な表情は、思い返すだけでもこの胸を苦めるには充分である。どうにもできないし己の出る幕でもないのだけれど、辛い気持ちを無視することはできないのだ。
 何ともしょぼくれた顔をする馨だが、ベッド上の二人は馨が凹めば凹む程に比例して笑顔になっていく。決して笑いものにする笑みではない、言うなれば「まったくコイツは」といった具合の優しい面持ちだった。

「本当に相変わらずだな、馨は」

 くく、と喉を鳴らすようにして笑った源田が、次いで食し終えたカップをテーブルの端に寄せながら言う。

「大丈夫だ、あの円堂なら。オマエも、アイツを信じて雷門にいるんだろう?」

 ――信じている。
 それはまさしく、その通りだと。疑う余地も無いのだと。言葉も無しに馨がこくこくと頷けば、源田は「ならやっぱり大丈夫だ」とまた微笑んだ。

「鬼道と馨が信じた奴なんだ、きっと壁は超えていける。だから馨はいつも通りにしていればいいんだよ。円堂が躓いているうちに、他のフィールドプレーヤーをもっと強化させてやればいい」
「つーか贅沢なんだよ、雷門は。鬼道もいて馨もいるのに負けるってのは許されることじゃないぞ。指導足りてないんじゃないのか? もっとビシバシ鍛えてやれよ、馨」

 佐久間が腕を組み、フンと鼻を鳴らす。そうは言いつつも、彼だってきちんと雷門のことを応援し、そこで戦う鬼道や自分のことを案じてくれていることを馨はよく知っていた。実際に世宇子に敗北を味わわされ、こうして未だベッドから出られずにいる佐久間だからこそ、そんな思いも一段と強いのだろう。
 ふ、と意識せずとも口から零れる吐息。それに抗うことなく細かに肩を揺らして笑う馨は、ふと手を伸ばし、佐久間の頬にかかっていた髪の毛を指先でそっと払ってやる。いきなり触れたからか、橙の片目が少し驚いたように瞬きをした。

「それもそうだね。私は私のできることをやりながら信じ続けるのが一番なんだよね」
「……ま、あんましおらしくしててもオマエじゃ違和感しか無いんだから、そのへん自覚して頑張れよ」

 馨が自身の髪を払っただけだと気付き、佐久間はやや唇を尖らせてそう言った。所謂ツンデレというやつなのだろうか、と馨は内心にやつきながら、今度こそきちんと彼の頭をぽんぽんと撫でた。「子ども扱いやめろって!」「だって子どもじゃん」――二人のそんな仲睦まじい様子を、源田はさながら親戚のような柔らかい眼差しで眺めていたが、不意に。

「……確かに、贅沢ではあるかもしれないな」

 そう、誰にということもなく漏らされたであろう微かな呟きは、馨の耳に完全に届ききることはなく。

「源田も、話聞いてくれてありがとうね!」
「わっ! お、おい、犬じゃないんだから」

 次なる標的として馨が両手を伸ばしてその髪をくしゃりと掻き混ぜると、源田はすぐに自分が呟いたことすら忘れたかのような自然さで、擽ったそうに声をあげて笑った。


* * * * *


 やがて部活の開始時間となったお昼過ぎ、準備万端の馨は今日も今日とて雷門中にやって来ていた。
 普段通りのストレッチとウォーミングアップをこなし、さて今日の練習はどのようなかたちで進めていこうかと相談しているその最中、馨は視界の端で円堂が(たらい)を抱えて部室の方へ駆けていくのを見た。

「盥……?」
「江波さん、とりあえず今日からは《皇帝ペンギン2号》を進めていくというかたちでよろしいでしょうか?」
「あ、うん、それでいこう」

 鬼道の声により意識を戻され、改めて正面を向いた馨。円堂の方も気にはなるが、今はこちらの面子――豪炎寺、染岡、一之瀬、鬼道の四名との話し合いが大事である。
 今現在相談していた内容は、即ち“連携の強化”についてのものだ。
 先日の木戸川清修戦に於いて、豪炎寺を囮として《トライペガサス》を撃ち、見事得点を奪ったあの作戦のことは記憶に新しい。釣り出し作戦自体は千羽山戦でも使用していたし、今後もそういったかたちで各ポジションにいるシューターを上手く使う機会は出てくるだろう。
 そこで、もっといろんなかたちでシュートを撃てる用意をしておけば、何かと作戦を立てやすくなるし臨機応変に動きやすくもなるだろう。そんな提案を持ち出してきたのは鬼道――ではなく、まさかの染岡であった。彼は豪炎寺以外との連携シュートを持っていない。だからこそ、他にも応用の利くシュートのパターンが欲しかったのだろう。その考え自体、馨は大いに賛成であった。
 さらにそこへ加わったのが、新規加入でまだまだ可能性を秘めている一之瀬一哉。MFとして中盤を制する彼もまた、鬼道同様積極的にゴールへ挑んでほしい人材である。そこへ豪炎寺も入れたFW二人にMF二人という贅沢な組み合わせで、この度新たな連携を編み出そうと至ったわけだ。
 そして、今から全く新しい必殺技を考える時間は無いので、ここは帝国から《皇帝ペンギン2号》を借りることにした。複数人技として《デスゾーン》も候補に挙がったのだが、あれは習得するまでに時間がかかるため、鬼道の進言もあってそういった選択肢を取ることと相成ったのである。

「せっかく四人……あ、鬼道くん始動だから実質三人か。三人もいるんだし、この全員がどんな組み合わせでも使えるようにしたいよね。それぞれの配置的に咄嗟に陣形取るのも難しいから、鬼道くん中心に近くにいる二人でシュートへ持っていく感じが理想だな」
「鬼道が始動っていうのは固定させるのか?」

 尋ねる染岡へ、馨は何の躊躇も無く頷いた。

「始動を変えられるようになればそりゃ良いけど、さすがにそこまでの時間も無いし。鬼道くんは慣れてる分、残りの蹴る側の調整だけで済むっていうのもあるからね」
「全員分の調整ともなると大変そうだけど、平気なの?」
「最初はちょっと手探り感入るかもだけど、一組さえできればあとは応用だから大丈夫」

 オールオッケーだと答えたところで、四人は早速技についての相談を開始した。まず帝国からの使用者である鬼道が技の詳細を説明し、それを目にしてきた馨がいくつか補完し、簡単な質疑応答を経て大体のことを頭に叩き込んだら、あとは実践あるのみだ。
 実践の方は、蹴り出しとなる鬼道の負担が大きくなることを踏まえ、最初のうちは通常のボレーパスにシュート役の二人が合わせるという軽度な練習から入ることにした。
 染岡と豪炎寺については普段から《ドラゴントルネード》で息を合わせている分、こちらの飲み込みもかなりすんなりとしていた。何度か通常パスで試した後、実際に鬼道がペンギンを呼び出して本格的なパスを出してみると、初動からそれなりに好感触なシュートが撃てていた。まだ改善する余地は多々あるけれど、このまま伸ばしていけばすぐに実戦で使えるものになるだろう。
 FW二人の組み合わせはともかく、最近入ってきたばかりの一之瀬との呼吸の合わせ方はまだ難儀な部分が多い。さすがアメリカ次期代表候補とまで言われる逸材だけあり、彼の動きは他より一際キレがある。
 馨も、そんな一之瀬の動作を修正することに対しては、今までとはまた違う難しさを伴った――が、難しい分だけやりがいがある。

「どうしようかな、ここ。一哉くんに合わせて染岡くんの飛び出しを早めるのもアリだけど」
「オレの方が少し遅めるって手は?」
「なんだ一之瀬、オレに遠慮なんてしなくていいんだぞ?」

 額に滲む汗を拭い、染岡が不敵な笑みで一之瀬を見遣る。恐らく彼に気を遣ったであろう一之瀬は、しかしそんな顔を向けられた手前大人しく引き下がるつもりなど無くなったのか、「そんなつもりはないんだけど」と言って同じくにやりとした。
 もう何度か合わせてきた中で、徐々にだが二人の息は合うようになってきている。今のやり取りでも、両者の心の距離の変化を感じられたような気がした。あとはこれが技術的な面に反映させられれば万事解決だ。

「ん! じゃあ染岡くんの方を調整するってことにしよう。試しに染岡くん、次は自分の中で五拍数えて飛び出してみて。それを基準に考えてみるから」
「おうよ、任せとけ」
「よーし、もう一回! 鬼道くん、通常でいいからパスよろしく」
「はい。勢いは先程と同じで良いですか?」
「うん、さっきくらいのでオッケー」

 馨はすっかりにこにこしながらファイルを開き、ボールペンを回す。
 そんなコーチのやけにご機嫌な様子を見て、一之瀬は少し不思議そうに首を傾げた。

「馨さん、何か妙に楽しそうだね」
「うん、楽しい。この技……《皇帝ペンギン2号》は、いろいろ思い出深い技だから」

 そう朗らかに言いつつ鬼道のことを横目で見れば、彼もまた馨を見て、口元に仄かな弧を描いた。


 それからどのくらい経った頃だろうか。
 相変わらず《皇帝ペンギン2号》の練習を続けていた馨は、ビデオ記録の手伝いをしてもらうためにマネージャーの誰かへ声を掛けようとし、きょろりと視線をベンチ側へ向けた。
 のだが、いつもはそこに座って皆のことを見守っているマネージャー陣が、今は誰もいない。今日は夏未も参加しているのに、三人揃ってどこかへと姿を消してしまっていた。

「あれ?」

 ビデオお願いしたかったのにな、と内心ぼやきながら、馨はその場で一回転してみる。しかしどこにも三人娘は見当たらない。タオルやドリンクなどの休憩の準備は済んでいるようだが、一体どこに行ってしまったのだろう。
 ちょうど半田が傍を通りがかったので、ついでに訊いてみた。

「半田くん、マネージャーさんたちは?」
「マネージャー? あー、さっき三人とも部室の方に歩いてくのは見たよ。何してるのかは解んないけど」
「部室ね、ありがとう。少し様子見てくるから、今のまま練習続けておいてね」
「はーい」

 半田の口振りからして、マネージャーは選手に何か伝えることなく部室に篭っているようだ。責任感のある子たちにしては珍しい。が、間違いなくサボりではないだろう。何か理由があるに違いない。
 半田が練習へ戻るのを見届けてから、馨は部室へと足を向けた。いつ見てもぼろい以外の感想が出てこないプレハブ小屋の中からは、薄らだが和気藹々と楽しげな声が聴こえてくる。

「お邪魔しまーす」

 ノックをしてから扉を開ければ瞬間、ふわりと鼻をつく炊き立てのご飯の香り。目の前に広がるのは、決して均等ではない大量の白いおにぎりが並ぶテーブル。極め付けに、今まさに両手でおにぎりを握っているエプロン姿のマネージャーたちを見れば、さすがに何が行われているのか解らないわけがない――要するに、次の休憩用のおにぎりを作っているところである。
 なるほどな、と納得しつつ後ろ手で戸を閉める。一番近くにいた音無が、真ん丸にしていた目をにっこり細めて馨を歓迎した。

「ビックリしたー! コーチ、休憩ですか?」
「ううん、ちょっと用事があったんだけど、気にしないで。それよりすごいねー、これ三人で作ったの?」

 何気無く一つ手に取ろうとしたところで、手を洗っていないことに気付いて自主的に止まる。そこへちょうど一つ作り終えた音無が完成品を陳列させ、「そうです!」と元気に返事をした。

「以前は私と木野先輩だけだったんですが、今日は夏未さんも一緒に作ったんですよ!」
「わ、私は別に、その……」
「お、夏未ちゃんもか。どれどれ」

 夏未がもごもごと口篭っている間に、三つのお盆に乗せられた大量のおにぎりを目だけで吟味する。綺麗で几帳面な三角形が並ぶ中、一際目を引いたのは少し歪な形の大きなもの。

「これかな。すごく愛情篭ってそう」
「……」

 馨がにっこり笑ってそれを指し示すと、夏未の頬に微かながら朱が差した。そのまま俯いてしまったが口元は僅かに綻んでいる。褒められて嬉しいのか照れているのかは定かでないが、こんな表情の夏未は初めて見た。感化、或いは成長。どちらにせよ喜ばしいことである。
 感慨深げにしている馨の横では、木野が手慣れた動作で手のひらに米を乗せている。せっせと両手を駆使して三角を形作る様子を興味深く見つめていると、やがてその視線に気付いた木野は照れ臭そうに肩を竦めた。

「そんなに見ないでください、緊張しちゃいますから」
「あ、ごめんごめん。手際が良くてつい見入っちゃった」

 完全に握り慣れている一連の動きは、これまで何度も木野がそうしておにぎりを握ってきたことの表れでもある。最初の一掬い時に茶碗を使うところは可愛げがあるが、それ以降力を込めて真剣に握り込む様は、マネージャーと言うより寧ろ母親に近いと思えた。木野だけではない、音無や夏未もそうだ。夏未はまだ不慣れなようであるけれど、決して適当な気持ちで握っているわけではないということが見ているだけでも伝わってくる。
 そんな三人の懸命な姿を見ていると、気付けば一言、ぽつりと漏れ出ていた。

「立派だよねぇ、三人とも」

 それを受け、木野が先程とはまた違う照れ笑いを浮かべた。

「私たちは技能も無いし、選手として一緒に練習に混じることはできませんから……せめて、こういう部分で皆をサポートしたいなって思って」

 何度か手の中で回されて、また一つおにぎりができあがる。それを置いたときの木野は一瞬寂しそうに見えたが、次に顔を上げたとき、彼女の瞳は確かな意志に輝いていた。

「円堂くんが悩んでても、皆が頑張ってても、一緒にサッカーしてあげられない、アドバイスすらできない。なら何ができるのかなって考えたら、おにぎりだったんです」
「私も、皆さんにより元気になってもらいたくて頑張ってみました。何もしないなんて嫌ですから!」
「練習の基本はまず体力ですもの。途中でバテられたりしても困りますからね」

 口々に紡がれるのはたった一つ、雷門サッカー部への献身的な愛情。マネージャーたち全員が、チームの為になりたいと強く思っている。悩む円堂や決勝に向けて励む選手たちをただ見ているだけでは我慢できず、何かしら貢献したいのだと。それが形になったものがこのおにぎりであり、その一つ一つには、三人の確かな思いがしっかりと握り込まれているのだ。
 ――何もしないなんて嫌。
 音無の言葉が馨の胸に突き刺さる。
 自分だってそうだ、何もせずに傍観を決め込むつもりはさらさら無いし、少しでも良いからチームの力になりたい、力になるのだと意気込んで、こうして再び雷門へと舞い戻ってきた。自分のできることを精一杯やって、先へと歩む皆の背中を押せる追い風になりたいのだと。
 なら、今の自分には何ができるのか――答えは依然、明白だ。

「コーチ、私たちの分まで皆と一緒にサッカーをして、指導してください」
「私たちも、精一杯頑張りますから!」
「うん、勿論そのつもり。私ができることも、それしかないからね」

 真摯な眼差しを零さず受け止め、しかと胸にしまい込む。
 自分は、限られた範囲で彼らを指導することしかできない――それは決して卑下でも自虐でもない、純然たる事実だ。
 今朝、源田と佐久間と交わした会話が頭を過ぎる。自分は自分のできることを、できる限りで頑張れば良い。無理なところまで及ぼうとしなくても良い。それが最もベストなのだろう。マネージャーたちが愛情込めておにぎりを握るように、馨は馨で愛情を込め、やれることへ精一杯取り組めば良いのだ。
 どうしても越えることのできない限界点は依然己を苛むが、それを踏まえてでもやり遂げたいことがある。ひたむきに走る皆の為にも、そして――己自身のためにも。

「あ、でもせっかくですし、コーチも一つ作ってみたらどうですか?」

 そんな音無の提案で、ころりと空気は一変した。
 馨はそれまで凭れていた部室の壁から背を離す。

「いいの?」
「ぜひぜひ!」
「じゃあ、お言葉に甘えて」

 やけに楽しそうな音無に水道の場所を聞き、まずは手を洗ってくる。ご丁寧にハンドソープまで用意されていたので、さっきまでボールや備品を触っていた分、しっかりと念入りに汚れを落とした。
 それから再び帰ってきた部室にて、手のひらに水と少々の塩を振ってから、炊飯器より米をよそって手に取った。まだ粗熱が取れていないので多少熱いが、このくらいならば問題無く握れる。

「……ダブル茶碗じゃないのね」
「ん? なに?」
「い、いいえ、何でも」

 気のせいかショックを受けているようにも見えた夏未を余所に、握り込むこと数回、あっという間に馨の手のひらでおにぎりが完成した。

「わー、コーチ手早い! 木野先輩といい勝負でしたよ!」
「やっぱりお上手ですねー」

 完成品を他のものと一緒に並べると、やたらきらきら輝く瞳でそれをじっくり見つめられる。何故か自分自身を見られているような気恥ずかしさがこみ上げてきて、馨はそれを誤魔化すように髪を耳にかけ――ようとして、そういえばおにぎりを握った手であることを思い出し、やめた。

「塩おにぎりでも皆は満足するだろうけど、そのうち栄養についても考えていけたらいいね」

 未だ馨のおにぎりと自分たちのおにぎりを見比べている三人へそんな話題を投げかける。すると三人揃ってぱっと顔を上げ、「栄養……」と各々口の中でその単語を転がした。

「そうですよね、マネージャーとしては部員の栄養管理もしてあげたいですし」
「例えば、どんなものがおにぎりと合うんですか?」

 音無はどこからともなくメモ帳を取り出し、早くも聞き取る気満々の姿勢だ。さすが元新聞部員である。
 木野も夏未も興味津々といった様子なので、馨は指折りながら話を始めた。

「まずは定番の梅ね。傷みにくいから向いてるっていうのもあるけど、酸っぱさの成分であるクエン酸は炭水化物と一緒に摂取するとエネルギーが溜まりやすくなるんだよ。塩分も含まれてるし、休憩時間にはうってつけだね」
「ほうほう」
「他にも、ワカメとか昆布とかひじき、あと雑魚(じゃこ)なんかはミネラルが豊富だし、どれも歯応えがある分よく噛んで食べることになるでしょう? 腹持ちが良くなるから、これもやっぱり休憩向きだね。腹持ちで言えば赤飯なんかも相性良いかな、もち米だし」
「ふむふむ」
「それと、定番どころだと鮭や納豆もありだな。これはどっちも練習後向きだけど。鮭はタンパク質がたくさん含まれているのと、活性酸素を除去するアス……何とかっていう成分が入ってるから、それを炭水化物と併せて食べると疲労回復効果が期待できる。納豆の方もタンパク質豊富だけど、まぁあんなんだから練習の合間に食べるのはちょっと気が引けるって子が多いかもしれないね。乳酸菌やら酵素やらいろいろ入ってるから、練習後に食べて免疫アップって感じが良いのかな」
「へぇー!」

「とりあえずこんなもんかな」という一言でおにぎり談義を締めると、感嘆の声と同時にパチパチと拍手が鳴り響いた。

「すごーい! さすがコーチ、何でも知ってるんですね!」
「何でもってわけじゃないけど……コーチ名乗るくらいなんだから、栄養については知っておかなきゃいけないかなーって思ってね。頑張って必死こいて調べたんだよ」
「それでもすごいですわ。だって江波さんの知識は全部がタメになるんですもの」

 音無や木野の絶賛もこそばゆいが、こうして夏未が明確に褒めてくれるとそれ以上に照れが勝るのはどうしてだろう。素直に尊敬の眼差しを送ってくる夏未へはにかむ笑顔をみせ、馨は小指の裏にくっついていた米粒に気付き、こっそりと口に含んだ。
 マネージャー陣は早速、次は何のおかずを使っておにぎりを作ろうかと相談を始めている。今し方馨が説明したもの以外でも、ミートボールやハンバーグ、ウインナーなど、随分とバラエティに富んだ具材が候補に挙がっているようだ。
 ただ、最終的にはそういうものを楽しんで食べられることが一番なのだと思う。栄養も勿論大事であるけれど、中身を見て、和んで、美味しく食べられて、マネージャーの愛情を感じられる、そんな休憩時間になるのが理想だろう。
 きゃっきゃと盛り上がっている三人娘は、次回果たしてどんなおにぎりを仕上げてくるのだろうか。馨も今から楽しみである。

「じゃあ、私はそろそろ練習戻るよ。あと十分くらいで休憩時間になるからね」
「はーい」

 そう言い残し、馨は依然賑やかな部室をあとにした。
 グラウンドでは、今現在マネージャーたちがどれ程の思いを込めておにぎりを握っているかなど露程も知らないメンバーが、皆一様に真剣な顔つきで駆け回っている。そのどちらをも知っている馨はますます気分が良くなって、軽くスキップなどしながら染岡たちのもとへと戻っていった。
 そして、それからさらに十分後。

「皆ー!」
「おにぎりができましたー!」

 大量のおにぎりが乗せられたお盆と共にやって来たマネージャーの掛け声により、全員が一斉に練習を止めてベンチ前へと集合した。いや、よく見ると全員ではない。誰か欠けているなと気付いた馨がそれを確認するより先に、円堂が飛びつく勢いでおにぎりへと手を伸ばした。

「いっちばーん! ――いってぇ!」

 が、それをすげなく叩き落とす手が一つ。正体は夏未だった。

「なにすんだよぉ」
「手を洗ってきなさい!」

 びしっと水道の方角を指差して叱る夏未に、左右のマネージャーも同意の笑顔を浮かべている。
 確かに汚れたままの手では食べられないし、どのみち洗ってこなければ食べさせてはもらえないだろう――そう理解した一同は「はーい」と潔い返事をし、ぞろぞろと水道へ向かって列を成した。先頭の円堂や風丸なんて小走りをしている。余程おにぎりが楽しみなのだな、と皆の子どもらしい姿に馨も胸をほっこりとさせたが、いつの間に手洗いを済ませてきたのか、水道への行列とすれ違うかたちで鬼道が戻って来るのが見えた途端思わず小さく噴き出してしまった。

「実は私、自分の作った料理をお兄ちゃんに食べてもらうの、ずっと楽しみにしてたんです」

 手洗いメンバーの帰還待ち中、ふと音無がそんなことを口にした。言い方からして、今まで一度も兄に手作り料理を食べてもらったことがないのだろう。そして鬼道もまた、この機会に初めて妹の手作りおにぎりを食べられるということになる。二人の境遇を考えれば、これもまた感慨深い話である。

「そっか。鬼道くんきっと喜ぶよ、こんな可愛い妹の手作りが食べられるんだからね」
「えへへ、そうだといいなぁ」

 ちろりと、恐らく自作であろうおにぎりの乗ったお盆を見下ろす音無。そんな可愛らしい妹の健気な思いは、必ずやあの兄にも伝わるだろう。というより、もう伝わっているだろう。誰よりも速く手を洗ってきたことからして、彼は音無のおにぎりを食べることを楽しみにしているはずだ。馨は自身の頬が緩むのを自覚しながら、今も円堂たちの帰りを大人しく待っているドレッドヘアーを眺めていた。
 そのとき、急に声音の変わった音無が「そういえば」と話を切り替えた。

「コーチは結局一つしか作りませんでしたけど、それってお兄ちゃんにあげますか?」
「え? そりゃあ鬼道くんが手に取ればだけど、食べてもらおうっていう考えは無かったな……どうして?」
「んー? いえ、何でもないです」

 鬼道の妹である音無は特別だが、馨としては誰か特定の人物に対して作ったつもりはない。誰かが食べてくれればそれで良いというだけの気持ちだ。なのに何故、そこで鬼道の名が出てきたのだろう。元帝国学園という繋がりがあるから? ――純粋な疑問で目をぱちくりさせる馨に隠れ、音無は一人小首を傾げていた。
 そうこうしているうちに戻ってきたメンバーが、これで充分だろうとばかりにおにぎりへ手を伸ばそうとする。それを見た夏未が眉を吊り上げたことに目敏くも気付いた馨は、即座に胸に下げていたホイッスルを咥え、一吹きした。
 ピーッ! っという練習中特有の音に、条件反射なのだろう、全員ぴたりと動きを止めて馨を振り向いた。

「手洗いチェックを行います。一列に並んで手のひら見せてね」

 ついでなので指導時と同じトーンでそう指示を出せば、皆素直に従ってその場で一列になり、両手を掲げて綺麗に洗えていることを示す。これで良いのだろう、という意味を込めて夏未を見てみれば、彼女は全員の手をきっちりチェックした後、馨に向かって至極満足そうに頷いた。
 一騒ぎあったが、いよいよお待ちかねのおにぎりタイムがやってきた。

「はい、どーぞ!」
「いっただっきまーす!」

 焦らしに焦らされた分、勢いは凄まじかった。
 皆一つでは到底足りず、次から次へと手に取っては口の中へ放り込んでいく。中には競うように食べ合っている者もいるようだが、本当にたくさん作ったのでおにぎりはまだたくさん残っている。マネージャーたちも、自分たちが作ったものをこんなに美味しそうに食べてくれるのが嬉しいようで、皆とても良い笑顔をしていた。
 賑やかな輪から少し外れたところには、早速自作のおにぎりを渡す妹とそれを大口で食べる兄がいる。馨と豪炎寺は、そんな仲睦まじい二人を保護者の如く優しく見守っていた。

「いいね、仲良い兄妹って」
「そうだな。オレは専ら夕香に作ってやる側だったが」
「お兄ちゃんさっすがー。妹のじゃなくて悪いけど、いる?」

 お盆の隅でまだ残っていた自作のそれを指で示すと、豪炎寺は切れ長の目を少し見開いた。

「馨が作ったのか?」
「まぁ握っただけだけどね。塩加減は悪くないと思うよ」

 向こうでは、夏未の塩分過多なおにぎりを食べたらしい円堂が顔を真っ青にして一気に飲み込み、喉に詰まったところを夏未によって助けられているところだった。そんなプチ惨状を横目に苦笑いしつつ、豪炎寺の手が馨のおにぎりへ伸ばされた。

「あぁっ!」
「!?」

 指先が触れかけたそのとき、突然あがったのは音無の甲高い声。びっくりして二人揃って声のした方向を見ると、音無に背中を押される鬼道、という何とも奇妙な光景が広がっていた。
 ぐいぐいと背を押している妹は何か小声で言っており、兄の方はそれを聞きながらとても困惑したようにやんわり抵抗している。会話の内容までは馨たちのところへは届かないが、まずこの両名の姿だけでも充分に不可思議だ。音無は一体何をやっているのだろう――馨は怪訝さを拭えず、豪炎寺は伸ばしていた手を引っ込めた。
 次いで、音無はこちらに対して何か言いたそうにしていたが、結局鬼道に宥められてか大人しく引き下がっていた。それもであるし、最初のあの「やめろ」とでも言わんばかりだった声が何なのかもよく解らない。
 豪炎寺と疑問を共有しようと思って顔を向けると、意外なことに、彼の方はあたかも状況を悟ったかのようにふむと納得している様子だった。

「豪炎寺くん、今のアレが何か解ったの?」
「貰っていいか? それ」
「へ?」

 質問への回答は解答になっていない、お盆に残るおにぎりを要求するものだった。
 馨はさっぱり意味不明なまま、流されるようにしてたった一つのそれを手に取った。

「うん、いいよ。はいどうぞ」
「ありがとう、いただきます」

 再度差し出された手におにぎりを渡す。あちらの兄妹――特に妹――は気掛かりだけれども、せっかく食べてくれると言うのだから断る理由も無い。
 大きな一口目からもぐもぐと咀嚼して飲み込んだ豪炎寺は、一言「美味い」と言って、淡く微笑んだ。


 あちこちでいろんなかたちの騒ぎが起きた休憩時間を終え、満たされた腹を軽くこなす部員たち。いきなり本格的な練習には戻らず、まずはストレッチや個人、ペア単位のアップから始めているところだ。
 その様子を見回っていた馨は、一人リフティングをしていた鬼道のもとでふと立ち止まる。

「ねぇ鬼道くん、さっき春奈ちゃんと押し合いへし合いしてたけど、あれ何だったの?」

 そう何気無く訊いた途端、ボールはぼとりと地面に落ちた。鬼道が膝で受け損なったのだ。
 彼にしては珍しいミスを目にした馨は咄嗟に反省し、転がっていこうとするボールをさっと拾い上げた。

「ごめん、集中切らしちゃったよね」
「あ、いえ、大丈夫です。ただのミスですので」

 鬼道の方も自分がボールを逃したことに動揺したのか、若干上擦ったような返事であった。それでも一応馨の質問には律儀に答えてくれるらしい。鬼道は受け取ったボールを足元に収め、難しそうに首を捻った。

「さっきの春奈は……俺にもよく解らないんです」
「え、でも鬼道くんに向かっていろいろ言ってなかった?」
「はい、あの……『コーチのおにぎり食べたくないの?』と訊かれたのですが」

 おや、と馨はその台詞に思い当たるものを見つけつつ、黙って鬼道の言葉の先を待つ。

「俺が『江波さんがくれると言うなら貰う』と言ったら、何故かあんなことになりまして」
「へぇ、そうだったんだ。私もおにぎり配る前に『それお兄ちゃんにあげますか?』って訊かれたよ」
「春奈にですか? ……一体何だったんでしょう、あれは」
「解らないけど、私たちの仲を気にしてくれてるのかな、多分」
「仲?」
「お兄ちゃんとコーチの仲、悪いよりは良い方がいいに決まってるし」
「あぁ、なるほど」

 音無は鬼道の妹であるのだし、選手である兄と指導者たるコーチとが仲良くしてくれていた方が嬉しいのかもしれない。だから鬼道にコーチのおにぎりを食べてもらいたくて、豪炎寺に取られる前にと兄の背中を押したのかもしれない。結局は豪炎寺が食べる結果となったけれど、馨も鬼道も別段それがどうとは思わない。
 とはいえ、どちらもただの推測であり、その真意は馨、そして鬼道の知るところではないが、何にせよ健気で可愛い妹ではないかと。
 とりあえずはそんな結論で互いに納得し、鬼道は再びリフティング、馨はアップの見回りへとそれぞれ戻っていった。




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