『神』との対峙


 夕焼けのような真紅。
 影と対を成す純白の翼。
 世界を彩る眩さにも負けぬ美しき金色。

 終焉の中に立ち、彼はゆったりと口角を持ち上げる。この世の何よりも儚い、そして力強い存在感でそこにいる。彼はこの始まりの色に乗り、徐々にキャンバスを別の色に塗り替えていく者。忘れないように、刻み付けるように、思い出させるように、螺旋のように、ナイフで切り付けるように。深く深く色濃いものを、何の感情も無いままに流し込む。黒く、黒く、真っ黒に。
 あのとき、漆黒の奥、深淵に見た瞳の色を、未だに忘れたと言えない。言ってはいけないのだ、きっと。
 広げられた双翼の向こう側、世界の始まりに見た影が道化師の笑顔で佇んでいた。

 ――オマエは逃れられない。忘れられない。
 ――オマエだけが、幸せになれるはずなどないのだ。


* * * * *


 ――ピピピッ、ピピピッ。

「ッ!」

 ばっと弾かれるようにして開いた目。
 鳴り響いているものが頭のすぐ横に置いてある携帯のアラーム音だと気付いて、のそりとそれを止める。いつもはその電子音よりも先に目が覚めているというのに、今日はどうも先を越されてしまったようだ。記憶が正しければ初めてのことだろう。
 馨はゆっくりと上体を起こす。殆ど無意識なままで乱れた髪に手櫛を通しながら、細く長い息を吐き出した。

「夢……」

 ふと、視線を窓の外へ向ける。そこに四角く切り取られている空の色は、朝焼けに染まる綺麗な水色だった。それが当然なのに何故か一瞬戸惑いが生まれたのは、先程まで見ていた夢のせいだろうか。
 昨日の今日の出来事があってか、やけに夕暮れが印象的な夢を見た気がする。とにかく妙に眩しかった……真っ赤に彩られる世界で、彼の人の持つ翼だけが麗しく、まさしく神のように、真っ白で、塗りたくられるものはそれと対を成す程に真っ黒で、――。

「起きろ、自分」

 まだ微睡みから浮上できていない己を、片頬を軽く叩くことで無理矢理引っ張り上げた。雷門の夏期講習は先週で終わったので、今日はまた朝から練習なのだ。響木も日中は店にいるとのことなので監督者は馨一人、余計なことを考えている暇など無い。
 準備を済ませてからきびきびと足を動かすことを意識して家を出て、真っ直ぐ雷門中へ向かう。正門を越えたところで、グラウンドから元気にウォーミングアップに励む皆の声が聴こえてくると、普段と変わらないはずなのにやけに安心する自分がいた。

「おはよー」
「おはようございまーす」

 元気な挨拶もいつも通りだ。馨は定位置となっているベンチの隅に荷物を預け、自身も軽いストレッチに取り掛かった。
 昨日、結局日が暮れるまで自主練習に励んでいた円堂は、そこで溜まった疲労を一切感じさせない覇気と共に今日もきっちり部活に参加している。ただ、その表情は先週までと殆ど変化は無い。タイヤ相手の特訓自体は有意義にこなせたのだろうが、そこから《マジン・ザ・ハンド》へ発展させるには未だ至っていない様子だった。
 そんな円堂を時々気にかけつつ、馨は馨で自分の仕事を進めていく。昨日のうちにしっかり練習内容を練り上げた《皇帝ペンギン2号》を、今日中には完全に実用可能状態まで持っていくつもりなのだ。そう明言したコーチに対して毅然な態度で頷いた一之瀬たちは、午前中を全てそのための練習時間に費やした。

「――うん、豪炎寺くんと染岡くんのペアはこれで大丈夫」

 完成の印として、ファイル内の該当するページの右上に赤ペンで花丸を書き足し、その次のページにもぐりぐりと赤い花を咲かせた。

「豪炎寺くんと一哉くんも問題無いし、あとは回数重ねて安定させていくだけかな。染岡くんと一哉くんももう少しだから一旦間を置いて、午後になったら最後まで詰めていこう」
「別に今のうちに叩き込んでくれてもいいんだぜ」

 オレたちまだまだ元気だけどアピールをする染岡と一之瀬は確かに体力の余裕がありそうだが、別にそこを心配してわざわざ時間を置くわけではない。馨は閉じたファイルでぱたぱたと彼らを扇ぎながら言った。

「あとは細かい調整だけど、一気に詰め込んで惰性でやるようになっちゃいけないから。少し時間空けて、復習をする感覚で先に繋げていきたいわけよ。コーチとしては」
「あー、そういうことか」
「じゃあ、今からは何を?」

 心地好い風を受けて顔を緩ませつつ、まだお昼までには時間があると一之瀬が時計を指差す。彼の言うように、時計の短針が十二にくっつくまでは少しだが猶予があった。ぱたぱた扇ぐ手を止め、馨は視線を周囲で別の練習をしているメンバーたちへと走らせた。

「じゃあFW陣は、今DF組がプレスとカットの練習してるからそこに混ざって相手役になってあげて。そんでMFの二人は――」
「江波さん、少しよろしいでしょうか」

 指示の途中でやんわりと遮ったのは鬼道だった。
 彼はFWたちに「俺と一之瀬だけで話があるんだ」と告げて練習に戻らせ、三人になったところで改めて馨へと向き直る。一之瀬もその用件の内容は解っているらしく、特に何も言わずその場に残っていた。

「どうしたの? 話って?」

 馨が小首を傾げると、鬼道は「実はですね」という前置きをしてから切り出した。

「昨日、江波さんと別れた後に一之瀬と少し練習をしたんです。新しい連携技の」
「新しい連携技?」
「はい、《ツインブースト》です」
「……!」

 妙に懐かしくすら感じられる名前を耳にした瞬間、馨は判りやすくその目を輝かせた。

「《ツインブースト》……そっか、あれなら二人用だし慣れてるしで使い勝手も良いよね。それで、感触の方は?」
「随分難しい技なんだね、あれって」

 苦笑いして頬を掻く一之瀬を見るに、どうやらいまいち上手く決まらなかったようだ。鬼道の方もそれを否定せず、パートナーを横目にしてひそりと眉を寄せる。

「佐久間と完成させたときのことを思い出して試してみたのですが、やはり同じままではいけないようです。俺たちだけではなかなか上手く合わせられず」
「結局、馨さんに見てもらおうってことになったんだ」
「あぁ、そうだったんだね。ていうか、何なら昨日連絡くれればすっ飛んでいったのに」
「いえ、江波さんにも江波さんの予定がありますし、一度は自分たちだけでやってみようと思ったので」

 割合的には、前者と後者の理由が半々といったところだろうか。馨としては別に休日だろうが何だろうが今更気を遣ってくれなくても良かったし、それが《ツインブースト》となれば是が非でも駆けつけていたところなのだが、二人のプライドを考えればそれもそうだなと思えた。
 昨日のうちにある程度の動きは覚えたとのことなので、早速その場で一度撃ってもらうことにした。
 鬼道と一之瀬が一旦距離を取り、合流するところからスタートを切る。駆け出す一之瀬の位置を一瞥で確認した鬼道がボールを蹴り上げ、それに合わせて飛んだ一之瀬がヘディングで返し、シュート。どうやら狙ったようで、ボールはゴールポストに当たってそのままこちらへと跳ね返ってきた。
 ツーバウンドで戻ってくるボールを素手で回収した馨は、二人が駆け寄ってくるのを待ちつつ腕を組んだ――今の一連の動きで解ったのは、一之瀬が佐久間の使うタイミングをトレースし、鬼道もまたそれを踏まえて動いているということ。おかげでシュートに持っていくこと自体はできているが、全体的なタイミングが一之瀬のプレーに合っていないため威力はあまり出ていない。
 一之瀬も佐久間も卓越した身体能力の持ち主であることに違いは無いが、動きや癖などは全くの別物なのだ、そこを無理に真似てしまえば当然無理も生じる。しかし、真似ができているということそれ自体は素直に尊敬に値するものだった。

「どうでしたか?」

 色好い答えが返ってくる期待は端から捨てているという調子で鬼道が窺ってくる。
 馨は組んでいた腕を解き、片手を腰に当てた。

「一哉くんのトレース具合に驚いたよ。一応かたちはできてるね」

 ビデオ研究をしたのかと尋ねると、二人は揃って首を上下させた。
 鬼道の頭脳と一之瀬のスキルが合わさることでまさかここまで可能になるとは――胸中で舌を巻きつつ、そこに足りないものを補うべく、とりあえずの考えを述べることにした。

「ただ、解ってると思うけど佐久間のときとは全部の動きがズレてくるから、そこは逐一調整しないとね。鬼道くんの方は蹴り上げのタイミングと、ヘディング返されてからシュートまでの間隔をどっちももう少し早くしていくことになる」

 鬼道の足元を見ながら語る馨に、一之瀬が殊更笑顔でさらに問う。

「じゃあオレの方は?」
「鬼道くんの蹴り上げに合わせてジャンプするまでの時間をもっと短くしたい。ヘディングの威力を踏まえると……二拍早めるくらいでちょうど良いかな。その辺はもう一度よく見てみる。他にもいろいろあるけど、まずはそこからね。基本鬼道くん主体でやっていくから、一哉くんには結構頑張ってもらうことになるよ」
「了解、覚悟しとくよ。……にしても相変わらずすごいな馨さん、ちょっと見ただけでそこまで見極められるなんて」

「さすがの審美眼だ!」とストレートに褒める一之瀬にやや照れた馨は、サイドの髪を耳にかけながら軽い笑い声をあげた。

「そりゃあ、この技はもう三回も見てるからね。いい加減極め慣れたよ」
「三回?」
「続けるぞ、一之瀬」

 帝国で見ていたとしても、今回で二回目のはず――その回数に疑問符を浮かべるが、誰が答えるわけでもなく話題は流された。ボールを地に置いた鬼道の瞳がゴーグルの中で細められていたことに気付き、それ以上何か言うことも無しに、素直に練習続行に従う一之瀬だった。
 帝国のときのようにゼロから始めるわけではないので、当時と比べればかなり修正はしやすいし進捗も申し分ない。どこまでいけば完成なのかという指標を把握している鬼道は自らも考えてタイミングを掴むことができ、一之瀬は持ち前のセンスを活かして馨の指摘をすぐに己のものにする。二人の天才が努力を重ねていくことにより、技の精度は面白いくらいにめきめきと上昇していった。

「……いち、に、パス……うん、うん……よし」

 何度目かのゴールが決まったところで、馨はごちゃごちゃと数字や線が入り乱れているファイルに視線を落とし、それを閉じた。

「二人とも、次でラストにしよう! 今のままでもっかい撃ってみて!」
「オッケー!」

 時間的にももうお昼だし、現状の威力は充分高められている。これで安定できていれば完成と言っても差し支えは無いはずだ。
 馨が合図を送り、一之瀬と鬼道が定位置に着く。そこからの動きは一度目と然程変わらないように思えるが、馨の目、そして何より使用者二人にはその違いが明確に解っていた。鬼道の足から繰り出されたシュートは、その名の通り強烈なブーストをかけてゴールネットへと激しく突き刺さった。素晴らしい威力だし、両名の感触もかなり良さそうである。

「よし、完成!」
「すげー! 新しいシュートができたんだな!」

 ファイルをパンと叩いて喜ぶ馨と同時に、反対側のゴールで円堂が声を張り上げた。思わず三人揃って後ろを振り向くと、そこでは円堂が両腕を振ってアピールをしている。

「なあなあ! それオレに撃ってくれよー! なあー!」
「……とキャプテン殿が申されていますが、どうする? 二人とも」
「せっかくだし、腕試しといこうか」
「そうだな」

 満場一致でそう決まり、三人は小さく笑い合いながら跳ねる円堂のもとへ向かった。
 円堂が単なるサッカーバカ故にシュートを求めている、とは思っていない。そういう性格なこととて百も承知であるが、今の彼はとにかく《マジン・ザ・ハンド》のために一つでも多くの強いシュートを止めたいのだろう。昨日はノータッチで傍観を決め込んだ者たちも、今日のところはそれを素直に受諾した。
 一発のシュートだけでは物足りないだろうという染岡の意見も含め、同時に《ドラゴントルネード》も撃ち込むという荒業を行う。単体でもかなりの高威力な技である、二つ合わさったら果たして円堂でも止めきれるかどうか危ういが、そこは敢えて手加減無しの方向でいくことにした。
 上手く一点に二つのシュートが集まるよう位置調整をし、他のメンバーが見守る中、四人が一斉に勢い良く飛び出した。ほぼ同じタイミングで放たれる二人の連携シュートが二つ。例え止められなくても、これが何かしらの引き金にでもなれば――そんな思いで、皆がボールの行く先を見守っていた。
 ――だが。

「え!?」

 円堂が止めるより先に、ボールは別の人物の手に容易く収められた。
 突如現れたその人に驚く一同。馨も思わず目を瞠る。《ツインブースト》と《ドラゴントルネード》をそれぞれ片手で軽々と止めてみせたからというのもあるが、それよりもあの外見、美しき金髪を携えた真紅の瞳――。

「……なんで」

 その色彩に思考を奪われる。自分だけ時が止まってしまったように、周囲の動きについていけない。
 円堂は彼をすごいキーパーだと絶賛し、彼はキーパーではないと否定し、我がチームのキーパーならこんなもの指一本で止めると言って。

「そのチームってのは世宇子中のことだろう、アフロディ」
「!」

 鬼道が踏み出す砂利の音で、漸く現実に引き戻された。
 アフロディ――彼こそが、フットボールフロンティア全国大会一回戦で帝国を叩きのめした、あの世宇子中のキャプテン。未知の力で相手選手を翻弄し、紙屑さながらに蹴散らしては踏み躙ってきた、そんなチームの頂点に君臨する少年。思わず見惚れてしまう程の神秘的な容姿をしているが、その美しさに惑わされてはならないと馨は痛い程よく知っている。「照美くん」と声も無く唇が名を紡ぐ。心臓は早鐘を打っていた。
 アフロディは鬼道の言葉を無視し、背後の円堂へと向き直ると簡単な自己紹介をし始めた。

「円堂守くんだね。改めて自己紹介をさせてもらおう……世宇子中のアフロディだ。君のことは影山総帥から聞いている」
「やはり……世宇子中には影山がいるのか」

 これまでシュートを撃った位置にいたままだった鬼道以外の三人も集まってくる。その中でも染岡は早々に敵意を剥き出しにしていた。

「テ、テメェ、宣戦布告に来やがったな!」
「宣戦布告?」

 しかしアフロディはそれを小バカにしたように一笑する。染岡の眉間にますます皺が刻まれた。

「何がおかしい」
「宣戦布告というのは戦うためにするものだ。私は君たちと戦うつもりはない」

 彼が動くと風も無いのに金色が流れ、太陽の光を砕いてきらりと光る。馨は微かに眉を寄せた。
 気を抜くと見惚れてしまいそうな美貌と優麗さの内側には、しかし確かにくすんだ色が潜められている。容姿自体は最初に出会ったときと変わってはいないが、彼が今の己を示す一人称を変えたように、その内面にあるものはあのときからいっそう闇を深めているように思えた。

「君たちは戦わない方が良い……それが君たちのためだよ」
「何故だよ」
「何故なら、負けるからさ」

 一之瀬の問いを一刀両断するアフロディに、馨は無意識に拳をつくっていた。ぎゅっと握り込んだ爪の痛みが脳天へ届き、己を鎮めようとする。
 そうしても尚、それを言わずにはいられなかった。

「それは傲慢だよ、照美くん」

 口をついて出た声は低い。
 けれどもはっきりと相手の耳には届いていたようで、髪を揺らして振り返ったアフロディは馨を見るなり妖艶に微笑んだ。

「まだ懲りていないと言うのですね、貴女は」
「……君に何が解るの」
「解るさ、江波馨さん――これで三回目、ですよ」

 三本の指を立て、今度はにっこりと、無邪気な子どもの笑顔。三回目、と脳内で反芻された声音は可憐な天使のようなのに、今はただただ邪悪な悪魔にしか聞こえない。固く拳を握り締めて無表情を貫く馨を、隣の一之瀬が不安げに見つめていた。
 不穏なやり取りと思い上がり甚だしいアフロディの発言に、ここまで黙っていた円堂が反論に出る。

「試合はやってみないと解らないさ」
「そうかな? 林檎は木から落ちるだろう。世の中には逆らえない事実というものがあるのだ。それはそこにいる鬼道有人くん……」

 一度は円堂に戻った赤い眼差しが次いで鬼道を捉え、そのまますうっと横に滑り。

「それに、江波馨さんが一番よく知っているよ」

 この発言に怒りを露わにした鬼道が刃向かおうとするが、豪炎寺の手に肩を掴まれ止められた。挑発に乗ってはならないと、左右に振られた首が強く訴える。悔しそうに歯を食い縛る鬼道は、そのまま横で立っているままの馨を見上げた。
 馨は鬼道を見てはいなかった。真っ直ぐ、アフロディのあのガラスの如き瞳と向き合っている。気丈な人だ――そう思った鬼道だが、彼女の身体が微かに、本当に微かに震えていることに気が付いて、咄嗟に声を掛けようとした。

「江波さ……」
「特に江波さんは今回だけでなく、過去に二度も同じ過ちを繰り返しているというではありませんか」

 それを遮るかたちとなり、アフロディが続ける。
 馨は今度こそ解りやすく顔を顰めた。

「……言うな」
「そしてまた、今度はこの雷門で三度目を繰り返そうとしている。どうして学ばないのです? ただ非力なだけでなく、さらに過去の出来事からも学ばないなんて……」
「言うな!」
「――愚かだ」

 冷徹さを込めた紅蓮の視線が、鋭い槍となって馨の胸を貫く。ぐりぐりと、刺さったところから傷を広げていくように、アフロディはうっそりと目を細める。繋がってしまったところから動けず、逸らしたくても逸らせない。両耳を塞いでしまいたい衝動に駆られた馨だが、必死の理性を働かせ、両手は自身の胸の前で固く握るだけに留めた。
「江波さん」――鬼道の囁くような声が聴こえ、馨は目を閉じた。大丈夫だ、と言うように握った片手を下ろし、案じてくれるその肩をそっと撫でる。
 それから再び瞼を開け、依然冷たく笑んだままのアフロディを真っ向から睨みつけた。

「……愚かで結構」

 それは、本当に自分のものかと疑いたくなる程の落ち着き払った声となった。
 アフロディはぴくりと眉を浮かせ、その笑みに微かな歪みを生じさせる。馨は気にせずさらに続けた。今度は最初よりも強かに、訴えかけるような語調で。

「愚かだから、嘘を吐けない。そうであるからこそ、自分の好きなものと……自分の本当の気持ちと、向き合うことができる。それを全部投げ捨てて、辛いことから目を背けて、自分を偽りながらずっと逃げ続けることが賢いっていうのなら――私は一生愚か者で良い」

 胸の内に渦巻くものは、憤怒や憎悪という類の感情ではない。もっと静かで、もっと密やかで、けれど決して気持ちの良いものではない。そんなものが、今、彼と対面する馨の中には溢れんばかりに湧き起こっている。
 アフロディの言う“二度”を最もよく理解しているのは馨自身だ。最も悔いたのも馨自身だ。
 それでも馨はここにいる。ここで懸命に踏ん張っている。ここにいたいと思っている。“三度目”なんて絶対に起こさせはしない、起こるはずはないと、固い信念を抱いて再び歩き出す道を選んだのだ。
 その全てを「愚か」と形容するアフロディを前にして湧くこの思いは、一体何と名付けるべきなのだろうか――やがてある一つの単語が脳裏に浮かび上がり、馨は一歩、その場で前に踏み出した。

「君は……哀れにしか見えないよ」

 彼は、哀れであった。その一言に尽きる。それ以外に、この少年への思いを表現する言葉は見つからなかった。
 無意識に下がった眉と細まる瞳、静かな声音。まさしく他者を哀れむ者の表情であるそれを真正面から見つめるアフロディは、瞬間的にその美しい相貌へ嫌悪の色を浮かべた。これまで余裕しかなかった彼の初めて見せる表情だった。

「知ったような口を利くな……所詮、愚かしい人間の分際で」

 苦々しく吐き捨てられた台詞。ならばオマエは何なのだ、神にでもなったつもりなのか、そう言わんばかりの視線がアフロディに集中した。
 その答えは、馨の中では既に得られている。

 ――神様って、この世に存在すると思う?

 あの河川敷で馨に向けた問いの答えの通りだろう、アフロディは自分を神だと信じて疑わない。自分こそが神であるが故に、この世に神は存在しないのだと言い切ったのだ。彼が彼自身をそう思わせるだけの何かが、きっとそこには秘められている。何もかもがもどかしくてならず、馨はきつく奥歯を噛み締めた。
 馨と向き合うことをやめた彼は、また円堂の方へと顔を向けた。今し方の人間臭い表情などすっかり忘れたかのように、崇高な高説でも垂れる口振りで語る。

「無駄なことに時間を割いても仕方ない……だから練習も止めたまえ。神と人間の間の溝は、練習なんかでは埋められるものじゃないよ。無駄なことさ」
「うるさい!」

 無邪気で可愛らしい、悪魔の笑顔。
 それを正面から受けた円堂の顔は、限界を超えた怒りに満ちていた。

「練習が無駄だなんて誰にも言わせない! 練習はおにぎりだ! オレたちの血となり肉となるんだ!」

 真剣な口調でそう言い切る円堂。先日マネージャーたちが懸命に作ってくれたおにぎりが頭を過ぎったのは馨だけではないだろう。
 おにぎりはタンパク質と塩分で練習に疲れた身体を支えてくれるものだが、それだけではない。一つ一つに温かい思いを込めて握ってくれたマネージャーの愛情や思いやりも、米と一緒に選手たちの身体を構築する。そのどこにも無駄なものなんて無い、無駄にしてはいけない、まさに円堂の言うように“練習はおにぎり”なのだ。
 けれど、そんな台詞が今更相手の心を打つわけもなく。くすくすと零す程度から、遂に本格的な笑い声をあげて「上手いこと言うねぇ!」と茶化すアフロディ。それを見構える円堂の目は、これまでにない程憎々しげだった。

「笑うとこじゃないぞ……!」
「しょうがないなぁ、じゃあそれが無駄なことなのだと証明してあげるよ」

 言うや否や、アフロディは突然、背後に向かってボールを蹴り飛ばした。その行動を認識するより早く、次の瞬間、彼の身体はボールと同じ場所――空中に移動していた。
「いつの間に!?」と染岡を始め全員が困惑する。馨もあまりの速さに目を見開いて彼の姿を追う。アフロディはまるで空をも足場としてしまったように留まり、その場でトン、とあまり力の入っていないと思われるシュートを撃った。
 弱い、あれなら止められる――誰もがそう思って油断しただろう。

「円堂!」

 なのに、どうしたことだろうか――ボールが円堂の両手に届く頃、それは最初とは比べ物にならないくらいの破壊力を有していたのだ。
 ボールは枠外に飛んでいったが、その威力に簡単に吹っ飛ばされてしまった円堂。一目散に駆け寄った鬼道が彼を抱き起こすと、意識はあるようで唸りながら細目を開けていた。

「……」

 そう、このシュートだ――傍らで見ていたメンバーもが集まるその輪の外で、馨はふわりと地に降りたアフロディを驚愕の隠せない顔で見つめるばかりだった。
 何てことなさそうな見た目なのに、明らかに動作以上の力がボールに込められている。この常識外れのシュートに幾つものチームが破壊され、叩き潰されてきた。
 それでもまだ、これは彼の全力ではないことを知っている。
 そのことが、今はただただ――恐ろしい。

「どけよ!」

 聞いたことのない荒々しい声がし、振り返る馨。
 完全に頭に血が上っている様子の円堂が、鬼道の制止を振り切ってアフロディに食って掛かろうとしていた。

「今の本気じゃないだろ! 本気でドンと来いよ!」

 口ではそう言いながらも足元は覚束無く、小刻みに震えていると思ったらがくりと膝をついてしまう。それなのに、怒りに巻かれてアフロディを強く睨みつけるその眼差しが見ているだけでも辛くて敵わず、馨はすぐさま円堂に駆け寄り、何とか宥めようとして両肩に手を乗せた。

「円堂くん、落ち着きなさい。ここで勝負したって――」
「黙っててくれ!」
「ッ!?」

 が、勢い任せに振るわれた腕によって強く押し退けられてしまった。今の円堂はまさに聞く耳を持っていない、そう悟った馨はやや放心しつつも二歩三歩と離れる。振り払われたことの悲しさよりも、円堂の怒る姿を見る苦しさの方が勝っていた。
 アフロディはそんな一連の流れをあたかも傍観者のような佇まいで眺めていたが、やがてその場で盛大な高笑いをした。

「面白い! 神のボールをカットしたのは君が初めてだよ。決勝が少し、楽しくなってきたかな」

 そして一つ瞬き、ゆるりと馨を見据え。

「次も是非、楽しみにしておいてくださいね」
「……そっちは驚く準備をしておくことだね」

 精一杯の皮肉としてそう言い返すと、美貌がまた笑う。
 と思ったその直後に視界が眩い光に包まれ、何かの花弁のようなものに巻かれながらアフロディは忽然と姿を消してしまった。
 後に残されたのは、ただ呆然とするしかない雷門メンバーだけだった。

「……何て奴だ」
「世宇子中はアイツみたいな奴らばかりなんだ」
「決勝戦、とんでもないことになりそうだな……」

 嵐のようであった彼が消えてからも、その場の空気はどこか澱んだままで、各々が次の対戦相手に対する何とも言えぬ思いに表情を曇らせていた。
 まだ《マジン・ザ・ハンド》の完成どころか兆しすら見えない円堂を、必殺技でも何でもないただのシュートでいとも容易く吹っ飛ばしたアフロディ。そんな相手が数多であるチームを相手にすることになるのだ、不安を抱くなと言う方が無理だということは、さすがの馨でも認めるしかない。
 だが、円堂はこの一件があっても深く落ち込む方向にはいかなかったようだ。尻餅をついたところを豪炎寺と鬼道に立ち上がらせてもらうその顔からは、先程までの激しい怒りが消え去っていた。
 その様子に馨もほっと一息吐き、改めてその傍らに膝を着いて目線を合わせる。

「大丈夫? どこか痛んだりしない?」
「うん、平気。……さっきはごめんな、姉ちゃん」
「気にしないで」

 あれ程までに憤怒を明瞭にさせる円堂を見たのは初めてだった。因縁のある相手だし、あそこまでバカにされては仕方ないだろうと、馨も仄かに笑って返すしかなかった。
 そんな馨に、円堂を支えていた手を離した鬼道がふと思い出したように問うた。

「そういえば、江波さんは前々からアイツを――アフロディを知っているようでしたが」

 どういった関係なのかと、ゴーグルの奥の瞳が疑問を抱いている。思えば帝国と世宇子の試合時から馨は彼の別の名――或いは本名――を知っていたのだ、その当時から彼は訝しく思っていたことだろう。馨は苦笑してゆるゆると首を振った。

「大した面識は無いよ。ただ、向こうが最初から私を知っていたってだけ」
「……そのようでしたね」

 鬼道がそう思えるだけのことを、アフロディは暗に喋っていた。過去に起こした二度の過ちについて、彼は一体どこまで知っているのだろう。その程度を把握したところで、しかし馨が何かをどうこうしようとすることもない。どうせそれとて影山から聞かされた、彼の脚色によって染められた与太話に過ぎないのだから。
 まだ多少気にしているらしい鬼道へ再三「大丈夫だよ」と告げ、馨は次いで、視線を黙ったままの円堂へ移した。同じく、左右の二人も妙に静かなキャプテンを見る。アフロディの“証明”をその身に受け、またいっそう思い悩んでしまっているのではないかと。
 そんな三人の不安を余所に、突然ぱっと顔を上げた円堂は案外元気なようだった。怒りやだんまりが嘘のように、随分と前向きな顔つきで、あのシュートを弾いた両手の感触を確かめている。

「今のボールで新しい技が見えたような気がするぜ。やれるよ、オレたち」
「いや」

 そこに否定の言葉を入れたのは、いつの間にやって来ていたのだろう、監督である響木だった。
 このままの流れ次第では凹みかけるチームが、円堂の一言によって何とか再び明るさを取り戻せそうだったのに、まさかの監督本人からの全面否定である。さしもの円堂とて呆気に取られるしかなかった。
 馨もそんな響木に驚きはしたが、心の奥では、彼と同意見の自分がいる事実と向き合わざるを得ないことに気付いていた。

「今のオマエたちには、絶対に不可能だ」

 彼は紛れも無く、目を背けてはならない現実を突きつけているのだ。




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