楽しい合宿 - 前編 -


 その後、響木の『絶対に無理』発言に反発した円堂が昼休憩もそこそこにイナビカリ修練場へと篭ってしまったことで、自然と他のメンバーも修練場で特訓する流れとなった。とはいえ、特訓よりも円堂の様子を窺うというのが主な目的なのだろう、彼の後を追う部員たちの表情は揃って複雑そうであった。
 予め午後の予定を決めていた馨、鬼道、一之瀬、染岡の四人は、若干後ろ髪を引かれつつもグラウンドにて《皇帝ペンギン2号》の最終調整を行い、無事に完成へと漕ぎ着けることに成功した。時間にすればほんの二時間程度だったが、いろいろと気になることが多いからか、体感的にはやけに長く感じられた気がする。
 完成の儀として花丸を打ったファイルを閉じた馨は、ふぅ、と溜め息を吐いて三人へと声を掛けた。

「皆は今から修練場に行く?」
「そうですね。監督の言うように、今のままでの俺たちでは世宇子に勝てる見込みは少ないですし」

 特訓をしにいこうと言う鬼道に同意し、一之瀬と染岡も頷いている。
 あの響木の発言を最も重く受け止めたのは円堂だが、他の者たちだって多かれ少なかれ感じるものはあったはずだ。先に修練場へ向かった内の何名かは、既にアフロディに気圧されてしまったらしく特訓する気の無さそうな表情を浮かべていたが、まだ気力のあるメンバーは監督の言葉を真摯に受け、逆にやる気に変換させている。少なくとも、ここにいる三名は後者に当てはまる部類のようだ。
 こうしてまだ戦う気力を失っていない子がいるというのはありがたい。あとはそれに触発され、全員が再び“打倒・世宇子”に燃えてくれたら何よりであるのだが――すっかり意固地になってしまった様子の円堂に関しては、今のところこちらから打つ手は無さそうだ。
 四人は揃って修練場へと移動した。ドアを開ける前から既に、投球マシンを使って特訓に励んでいるであろう円堂の声が反響している。聴いているだけで参ってしまいそうな呻き声と、時速何キロかも定かでないボールがどこかにぶつかる鈍い打撃音。ある程度の覚悟をしつつドアをくぐった四人は、そこに広がる痛々しい様相に最早溜め息すら吐けなかった。

「これは……なかなか……」

 厳しいものがある――馨の言えなかった部分までを汲み取った一之瀬が、見ていられないとばかりに殊にゆっくりと首を振った。

「相当だね、あれは」
「マシンのスピード最大になってんぞ……」

 染岡の指摘通り、円堂が相手をしている投球マシンは最大速度に設定されている。まず間違いなく本人が望んでそうしているのだろうが、対する円堂自身はマシンから繰り出される剛速球を全く受け止められず、完全にサンドバッグ状態となってしまっている。何も見えないまま、ただ《マジン・ザ・ハンド》を発動させるためだけに右腕を突き出し、ボールに吹っ飛ばされることの繰り返し。これでは特訓なんかではなく、ただ身体を痛めつけるだけの行為にしかなっていない。
 入り口付近では、そんな円堂の様子をマネージャー陣が心配そうに眺めている。“見守る”ことを決めた手前、木野も彼を止めたい気持ちを懸命に押し殺している様子だ。さらにその脇では一年生たちがすっかりしょぼくれた顔で座り込んでいたが、そのうち先輩たちによって特訓へ連れ出されていった。

「ぐあっ!」
「円堂くん!」

 一際大きな唸りと共に、円堂がボール諸共ゴールの中へ叩き込まれた。思わずといった勢いで木野が駆け寄ろうとするも。

「来るな!」

 強く、何より必死であるその制止によって、彼女はその場で足を止めざるを得なかった。

「……諦めるものか……何が何でも完成させるんだ……」

 ――アフロディの見せつけた圧倒的な力の差と、その後響木によって突きつけられた現実。
 その二つが合わさったことで、円堂は今や完全に《マジン・ザ・ハンド》に執着してしまっている状態だった。
 つい先日までは、がむしゃらになるにしてももう少し余裕が持てていた。周りの声に耳を傾けるくらいはできていた。鉄塔広場にて馨の言ったことも、一応呑み込むことはできていた。なのに、ここへきてその全てが水泡に帰したかのようである。振り出しどころか、事態は明らかに悪化の一途を辿っていた。
 踏み出した足を引っ込めた木野が、近くに佇んでいた馨のことを振り返る。

「コーチ……」

 どうしましょう、という困惑に揺れる二つの瞳を見て、しかし馨だってこればかりはどうしようもない。同じくして、少し離れたところにいた夏未もまた、隣にいる監督を見上げてはどうにかしてくれと訴えかけているようだった。

「江波」

 不意に、それまで沈黙を通していた響木が馨のことを呼びつけた。
 そろそろ皆の特訓に付き合おうかと考えていた馨は、短い返事と共に彼の傍へと駆け寄る。何か妙案でも出てきたのだろうか。

「どうしましたか?」

 監督者二人が相談を始めたためか、傍にいた夏未の目がほんの少し期待に輝いたように見える。
 響木は手招くことで馨をさらに近くに寄せ、まるで内緒話でもするかの如く、その耳元でこう告げた。

「今から、ちょっと書類を書いてきてくれ」
「書類? 何のですか?」
「夜間の学校使用許可書だ。責任者の名前は俺のを使え。今夜、合宿するぞ」

 合宿? ――思わず口から飛び出そうになった単語をぐっと飲み込み、同じだけ小さな囁き声で返す。

「サッカーの、ですか?」
「いいや」

 響木はそれ以上詳細を語りはしなかったが、その真面目な表情が全てを物語っている。
 サッカーのではないということは、即ちただの息抜きだ。明後日に世宇子戦を控えた今になっての合宿、今だからこその合宿なのだろう。何を悠長なことを、という必ずや出てくるであろう意見すら加味して、彼は計画を立てているに違いない。

「解りました」
「頼んだぞ」

 一つ返事で頷いた馨は、ちらりと夏未を見てから小さく親指を立てて微笑む。それによって何らかの手立てがあるのだと察した彼女の安心した笑顔に見送られながら、任務を果たすために職員室へと足を向けた。
 云年振りの職員室は些か緊張したが、さっさと書き上げて報告に戻りたい一心で担当教員である生活指導の菅田のもとを訪ねた。いつだったか聞いた話だが、彼も元祖イナズマイレブンの一員だそうだ。今となってはそんな面影を全く感じさせないのだから、本当に人は見かけによらないものである。
 菅田は「合宿がしたい」の一言だけでも大いに喜び、すぐに書類を用意してくれた。これに必要事項を書き込み、理事長か理事長代理に確認してもらったうえで許可が下りれば良いらしい。説明の後、机を借りて早速書き始めると、隣から覗き込んでいる菅田がしみじみとした語調で「まさかねぇ」と語り出した。

「江波さんがサッカー部のコーチをやるなんて、昔じゃ考えられない話だなぁ」
「そんなにですか?」
「そんなにだよ。当時の江波さんってサッカーに興味がある素振りなんて全く無かったし、帰宅部だっただろう?」
「あー、あの頃はやる気が無かったので……というか、寧ろ私は先生がイナズマイレブンOBだったことが信じられませんよ」
「はっはっは、お互いさまってやつだね!」

 そんな呑気なやり取りをしながらもきちんと書類を完成させ、職員室をあとにする。小走りで帰った修練場は、夏の外気を癒すひんやりとした心地好さで馨を迎え入れてくれた。

「響木さん、仕上げてきましたよ」

 中に入るのと同じくして書類を掲げると、ちょうど合宿の話をしていたのだろう、響木の前に集められた部員たちの顔に明るい笑顔が咲いた。

「良かったな、コーチがちゃんと書類書ける人で」
「オイ」

 土門の冗談――だと思いたい――にツッコミを入れると松野がけらけらと笑った。相変わらず年上として敬われているのかいないのか解らない扱いである。
 半笑いを浮かべながら夏未にそれを手渡すと、目を通すこともなく一声で許可が下りた。せっかく頑張って理由やら何やら書いたのだからちょっとくらいは読んでほしいなと思いつつ、響木が集合時間を告げた後の皆の嬉しそうな返事には素直に胸を躍らせる馨だった。
 けれど、視界の隅に入った円堂の渋い顔を見ると、わくわくしていた気持ちがしゅっと縮まる。案の定、合宿どころではないとでも思っているのか、心底もどかしそうな顔つきで独り俯いている。
 それを見ていれば、響木がどうしてこのタイミングで合宿を提案したのかが理解できるというものだ。ばたばたと準備をしに帰るメンバーの流れに逆らうかたちとなって、馨は彼の隣にそっと並び立った。

「円堂くん、合宿は嫌だ?」

 腰の後ろで手を組み、不機嫌さ全開のその顔を覗き込む。
 円堂は驚いたように顔を上げたが、むすっとした表情は変わらないままだ。

「嫌っていうか……こんなことやってる場合じゃないのに、って思う」
「皆との合宿、多分初めてなんじゃない? 一緒にご飯作ったり雑魚寝したり、楽しみながら息抜きするのもアリだと思うけどなぁ」
「姉ちゃんだって解ってるんだろ? オレの《マジン・ザ・ハンド》はまだ全然できてないんだ! このままじゃ世宇子に勝てないのに……時間が無いのに……」

 確かに時間は無い。明後日が試合というこの局面、少しでも多く練習をしたいという彼の気持ち自体解らないわけではない。
 だが、馨も響木の持っているであろう考えには同意している――必殺技以前の問題だ、今のままの円堂では世宇子に勝つことはできない。

「時間があったら、どうせ何も掴めないまま練習を続けるだけなんでしょ?」
「でも、それでも、練習しないと……!」
「練習はおにぎり」
「へ?」

 食い気味に割り込むと、円堂は間抜けた声を出して口を止めた。
 馨はそんな彼の大きな両目を見つめながら、力の入りきった硬い背筋を解すように撫で下ろしてやる。

「君が言ったんだよ、『練習はおにぎり』だって。でも、おにぎりばーっかり食べてたら、身体はどうなると思う?」
「どう……って」
「栄養不足で、すぐに壊れちゃうよ」

 最後にぽんぽんと二度背中を叩いてから、馨もまた、合宿の準備をするためにと修練場の出口へ歩を進めた。
 背後の円堂は依然動く気配は無いけれど、とりあえず参加だけでもしてもらえれば良い、まずはそこからである。そしてそんな円堂のためにも、自分も初めての合宿を目一杯堪能しようと心に決めた。
 出口の方はとても賑やかだ。皆であれこれと合宿の話に花を咲かせているのだろう、和気藹々とした雰囲気に馨の気持ちも和む。菅田の言っていたように中学時代、それどころか高校時代まで込みで帰宅部一直線だった馨にとって、まず“合宿”という言葉の響き自体が心踊るものである。さあ、どんな一夜になるのだろう、非常に楽しみだ――。
 そうしてにこにこしていた馨の傍へ、またもやこっそりと寄ってきた響木が、当然の如くこう告げた。

「そうだ、江波、食材の買い出しはオマエに任せるぞ」
「……どうせそんなことだろうと思ってましたよ」

 ――こういう場合のコーチとは(すべか)らく、雑用係りであるものだ。


* * * * *


「ニンジン買った、タマネギ買った、ジャガイモと、あと……ルーと肉か」

 水とガスコンロと調理器具は響木の方でどうにかすると言われたので、馨が揃えるのは夕飯の材料のみ。合宿の夕飯といえば勿論カレー、まさしく定番である。
 話によれば、あの菅田も合宿の監視役として加わるようだ。メンバー全員分――実際はその倍以上――の材料だけでも大変なのに、大の大人がさらに参加となると負担もそれ相応に増える。重たい袋を提げてメモを確認し、常に気合いを切れさせないようにしながら商店街を歩いていた。
 次は肉屋に行こうと辺りに視線を巡らせると、ふと前方によく目立つジャージを発見した。と思ったら、向こうもこちらに気付いたようだ。

「あ、いたいた! 馨さん!」
「コーチ、探しましたよ」
「一哉くんと風丸くん? どうしたの?」

 駆け寄ってきたのは珍しい組み合わせの二人。彼らは目の前で立ち止まるや否や、馨の手にあった買い物袋を、半ば強奪に近いかたちでそれぞれ掠め取った。

「コーチが買い出しに行ってるって聞いたから、ジャンケンで二人手伝いに行こうって話になって」
「あまりたくさんで行っても邪魔になるだけだって鬼道が言うから」
「そんな、大丈夫だったのに。ありがとうね」

 それだけたくさんの子が手伝いに来てくれようとしたのだろうか。鬼道の言い分に、以前足を痛めて入院したときのことを思い出す。あのときも彼は多人数で押しかけることの迷惑を気にしてくれていたし、その考えも尤もではあるが、そういった皆の気持ち自体が馨にとっては嬉しいものだった。
 そこからは、馨以上に商店街を熟知している風丸の案内によって、着実に必要なものを買い揃えていった。荷物は三人で分担して持っていたが、流石に十四歳の子どもに重たいものを持たせるのは気が引けたので、結果的に馨が一番多く運ぶように努める。それに気付いた二人は不満げだったが、馨にも年上のプライドというものがあるのだ、そこは大目に見ていただきたい。
 肉とルーを買い、ついでにサラダ用に適当な野菜、デザート用にフルーツも揃え、いざ学校へ戻る道に着く三人。その道中では学校でのことなど、他愛も無い雑談が主だった。
 帝国学園の鬼道に続いて帰国子女の一之瀬が転入してきたことで、二年生はかなり賑やかになったようだ。どうやら、彼らは先週の夏期講習から早くも雷門生として参加しているらしい。別に必ずしも受ける必要は無いのだが、一之瀬曰く「部活までの待ち時間が暇だから」とのことである。

「アメリカの学校と日本の学校とじゃ進み方とか違うだろうし、ある意味夏休み期間中で良かったんじゃない?」
「そうなんだよねー、だから秋とか土門に頼んでいろいろ勉強も見てもらってるんだ。いつまでこっちにいるか解んないけど、夏休み明けても問題無いようにって」
「いっそのことずっとこっちにいればいいじゃないか。ねぇコーチ」
「そうだねー、一哉くんが雷門生になってくれたら嬉しいなー」

 それが無理な相談だということは馨も風丸も解っている。解っていながら勧誘してくる二人に対し、一之瀬は得意の爽やかアメリカンスマイルを湛えて「アメリカの子猫ちゃんたちが悲しむからさ」というキザ発言をかましたので、馨は噴き出すのを堪えるため咄嗟に口を手で覆った。

「こ、子猫ちゃんって……!」
「一之瀬、わりといつもこんな感じですよ」
「学校でも? 子猫ちゃんとか言うの?」

 肩と声を震わせながら問うと、答えたのは一之瀬本人の方だった。

「言っとくけど、アメリカじゃ普通だからな? 逆に日本男子は奥ゆかしすぎるんだよ。女子なら大和撫子って言うくらいだから様になるけど、男子はもっと自信持って表現すべきだと思うなぁ」
「一之瀬だって日本人じゃないか。というか、オマエだから似合うんだと思うよ、そういうの」
「サンキュ!」

 星でも散りそうな軽快なウインクをかまされ、風丸がやや呆れた顔で袋の持ち手を変えた。それでも話す声音はどことなく楽しそうである。

「まぁ、でも女子ってこういうのが好きな子多いのかもしれないな。コーチ、コイツったら初日から女の子に囲まれまくりですごかったんですよ」
「へー、一哉くんモテモテなんだ」

 にやりとした目を一之瀬に向けると、先程までのアメリカナイズな振る舞いとは打って変わってやや照れの混ざった笑みが浮かんだ。

「あはは、それは多分帰国子女が珍しいってのもあるんじゃないかな。それに、風丸だってモテるんだろ?」
「そんなことないさ」
「この前だって女子に応援されてたし」
「あれはサッカー部だからだろ、だったら一之瀬だって」

 顔の整った者同士の謙遜のし合いは傍から見ていると楽しくて仕方がない。二人ともどうせ相当モテているのだろうということは外部者の馨でも解る。「青春だね」と相槌を打つ声は自分でもおばさんじみていると思えてしまった。

「馨さんもモテるんじゃない?」
「ないない、モテ要素とかゼロだもん」
「えー、嘘だー、オレが馨さんの同級生だったら絶対好きになってるのに。なぁ風丸」
「え、オレ?」

 いきなり話を振られてしどろもどろとなった風丸が、馨をちらっと見上げつつ口をもごもごさせる。

「それは……えーっと……いや、オレが好きになるとかどうとかって話じゃなくて、コーチはモテるだろうなって意味ですけど……うん、そうですね、オレも……そう思います」
「ありがと」

 そう言ってもらえるうちが華だろう、と馨はそのやけに浮ついた言葉を素直に受け取っておく。風丸の頬にますます朱が差し、反対側の一之瀬は「やっぱり奥ゆかしいんだな」とくすくす笑っていた。
 実際、自分がモテるだなんて思っていないし、現に彼氏いない歴が年齢だ。だとしても、サッカーに全力を注ぐ今は彼氏などいらないのだから構わない。そのうちでいいのだ、そのうちで。こんなこと言いながら独身街道まっしぐらな未来しか見えないけれど、未来のことは未来の自分に任せよう。
 そんな色めく話題で暫し盛り上がった後、ふと思い出したように、一之瀬がもう一人の転入生の名を持ち出した。

「そういや、鬼道の初日もオレと同じ感じだったって聞いてるよ」
「あぁ、確かに鬼道も囲まれてたな。女子にも男子にも」
「そうなんだ」

 女子だけならず男子にも囲まれていたとは気になる話だが、よく考えなくとも鬼道はあの帝国学園からの転入生であり、もっと言えば以前雷門中にて雷門サッカー部のことを相当痛めつけた帝国サッカー部のキャプテンでもある。注目を浴びるのは当然だろう。鬼道ならば特に気にせずやっていそうだから心配はしないが、この際なので少し訊いておくことにした。

「鬼道くんはどう? 学校に馴染めてる?」
「ふふっ、馨さん何だかママみたいだ」

 可笑しそうに笑う一之瀬。
 対して、彼の諸々の事情を知っている風丸はやさしく微笑んで「大丈夫ですよ」と頷いた。

「初日はだいぶ話題になってましたが、そのうち別の意味で有名になったんで」
「別の意味?」
「この前の夏期講習中に学年一斉にテストやったんですが、その結果が学年一位だったんですよ」
「わー、さすが鬼道くん飛ばしてるねぇ」

 なるほど、それによって“帝国学園の鬼道”という肩書きが“学年一位の鬼道”に差し変わったわけか。風丸の口振り的にもやはり問題は無さそうだと認めると、心配はしていなかったはずなのにほっと安堵する自分に気が付き、これじゃ“ママ”も否定はできないなと内心自嘲した。
 一頻り落ち着いたところでふっと会話が止み、暫し静かな時間が訪れた。カサカサと袋の掠れる音に混じってタイミングのばらばらな足音が聴こえる。決して居心地の悪くはない沈黙。このまま学校まで続くのかと思いきや、不意に波紋が一つ、広がった。

「あのさ、馨さん」

 切り出したのは一之瀬。頭の中で次の言葉を組み立てているのか、少したどたどしい口調だった。

「ん?」
「……世宇子、勝つよ」

 え、と間抜けた声が漏れる。唐突な宣言に、一度大きく心臓が高鳴るのを感じた。
 今の一之瀬の言葉に何か影響を受けたのか、風丸もまた「あぁ」と相槌を打つ。

「オレたちにはコーチの事情はよく解らないけど、大丈夫ですよ」
「アイツの言った『三度目』なんて起こらない、絶対にね」

“アイツ”がアフロディを指していることは言われなくても解る。左右から向けられる揺るぎ無い眼差しが、まるでそれ自体が熱を帯びているかのような熱さで馨の視線と絡み合った。

「確証は無いけど、胸を張って言えるんだ。このチームならきっと、あのアフロディだって倒せるんだって。だから安心してくれていいよ」
「……二人とも」

 馨の歩く速度がやや遅くなり、相対的に風丸と一之瀬が数歩分前に出る。最終的に立ち止まった馨を振り向いて同じく足を止める二人の姿は、年下でありながらどこまでも頼もしい。だからこそ、いつだって馨は彼らに思いを、心を委ねることができるのだ。

「ありがとう……でもね、安心ならもうできてるよ。だって、君たちが勝てないなんてこれっぽっちも思ってない。私は皆を信じてここにいるんだから」

 ここから先に何があろうと、最後まで残るのはこの絶対的な信頼以外の何物でもない――そう断言してしまえる。自分は、己の選択は間違いではないのだと結論が出せる道を選んだのだから。
 進んで行く未来、また幾度と不安になることはあるかもしれないが、その都度思い出せるであろう「大丈夫」という言葉。
 彼らと一緒なら、何だって乗り越えられる気がしているのだ。


* * * * *


 校門前には毎朝の光景よろしく菅田が立っていた。当事者でもないのにやたらうきうきしているように見受けられるが、気持ちは解らないこともない。ただの夕暮れの学校なのに、今からここに寝泊りするのだと思うと馨もテンションが上がるのを抑えられないでいる。
 ガスコンロの設置をしていた響木のところへ食材を届け、そのまま料理の準備をし始める馨。ここまで荷物を運んでくれた一之瀬と風丸、さらに体育館から出てきた鬼道と豪炎寺も手伝いに加わってくれた。

「馨はカレーにカボチャを入れない派なんだな」
「カボチャ入れる方が珍しくない? ねぇ風丸くん」

 俎板を洗っていた風丸は、横目で傍らに転がっているタマネギを見た。心なしか嫌そうに見えたのは気のせいだろうか。

「オレはタマネギがあることにビックリしましたけどね」
「えー、定番じゃないのタマネギ。飴色になるまで炒めたら美味しいよ」
「あぁ、あれは美味い。カレーは本当に人それぞれだな」

 飴色タマネギに理解を示してくれたのは豪炎寺だけだった。彼の言うように、カレーの作り方はまさに千差万別である。だが、大抵の場合は誰が作っても無難に美味しくなる、それが醍醐味の一つであろう。

「鬼道くんは本場のカリーとか食べてそうだね」
「いや、本場のものは香辛料の量が日本とは桁違いですし、とてもじゃないですが辛くて無理ですよ」

 苦笑い混じりにそう言う鬼道に、一同の反応は「本場のものを食べたことあるんだ……」と若干違った方向のもので纏まった。
 ここでコンロの用意が終わったらしい響木と菅田や、警備会社に連絡していたという夏未も合流し、そこからはあっという間に調理の準備が整った。料理は材料ごとに分けられたテーブルで分担制をとる。山盛りになっているジャガイモやタマネギたちを調理していくのは大変そうだが、あれだけの人数がいればすぐに終えられるだろう。
 現在、他の面子は体育館で布団を並べているようなので、代表して馨が呼びにいくことになった。
 扉の前まで来ると、中では一体何を騒いでいるのかわーわーと喧しい。一年生たちの悲鳴らしきものに混じって染岡の怒声がしている辺り、どうせ枕か何かをぶつけて彼を怒らせてしまったのだろう。やはりまだまだ中学生だ、可愛いものだ、とのほほんとした調子のまま、馨は扉を引き開けた。

「おーい、料理の準備ができ――ぶっ!」
「あ……」

 ――刹那、だった。
 一瞬にして静まり返る体育館。水を打ったような沈黙の中で、ドサリ、馨の顔面に貼り付いていた枕が落ちる音だけが、やけに大きく木霊した。
 やってしまった――そう思ったのは決してその犯人だけではない。
 枕が消えて表に出てきたその表情はさながら仏様みたいに穏やかで、なのに何故だろう、この背筋を走る悪寒は。

「あ、の……ごめん、なさい、コーチ……」

 枕を投げ、悲運にも馨にぶつけてしまった張本人である染岡が、顔面蒼白状態で一歩ずつ被害者のもとへ近付いていく。仏の笑顔は変わらないが、鼻先は確かに赤く変色している。向こうで一年組とその他の二年たちが、何か恐ろしいものを見るような表情で二人の様子を窺っていた。己と関わりが生まれないよう、適度な距離を置いて。

「決してわざとじゃ、ないです、マジで」
「うん、わざとだったらどうなるか解んないよね、マジで。ところでさ、目には目をって言葉、知ってる?」
「ご……」

 彼の有名なハンムラビ法典すら思い出せる猶予は無い。
 馨が落ちた枕を拾い上げるのと染岡が脱兎の如く逃げ出すのと、果たしてどちらが速かっただろう。

「ごめんなさあああああい!!」

 ――その後、夕飯を作りに集まってきた者たちの表情が一様に強張っていた理由は、その場にいた当事者のみぞ知る。


「……江波さん、何かありましたか?」
「別に何もないよ?」
「なら良いのですが……」

 帰ってきたときの笑顔が怖かったです、などとはとても言えず、大人しくタマネギを切る作業に戻る鬼道。その向こう側で染岡が「あれは絶対ソフトか野球の経験者だ、じゃなきゃ砲丸投げやってたに違いない」と言っているのが断片的に聞こえた気がしたが、この際聞かなかったことにしておいた。
 ――などどいろいろ騒がしいこともあったが、今は皆揃ってカレーを作っている最中である。
 鬼道やその他一年が数名で刻んでいるタマネギの山の隣で、馨は木野や影野らと共にニンジンを切っている。さらにその奥では、ジャガイモ担当の少林寺と土門の言い争いじみた会話――少林寺が「角を落としてください!」と言っている――がしていたり、音無が豪炎寺の手際の良さに感心していたり、タマネギ組は鬼道以外涙対策としてダイビング用のゴーグルを装着していたり、それぞれ楽しく調理しているようであった。

「コーチィ! 土門先輩が角落とさないんですよー! コーチからも言ってやってくださいー!」
「土門くん、そのままだと荷崩れするから角落としてあげてー」
「もー、しゃーないなぁ……うぃーっす」
「コーチー! タマネギってどのくらい細かくすればいいでやんすかー?」
「一ミリ四方くらいー」
「えっ!?」
「嘘だよ、それっぽく微塵切りにできてれば大丈夫だから」
「もー、驚かせないでほしいっスー!」
「ごめんごめん」

 あちこちから飛んでくる声のおかげで全く落ち着いて料理ができないけれど、これはこれで合宿の良さだと思えば楽しいものだ。合宿をした最後の記憶は大学入学時のオリエンテーションだが、そのときは緊張していたうえに周りも皆大人だったので、こんな風に無邪気に堪能した覚えは無かった。

「コーチは自炊されてるんですか?」

 トン、とニンジンの尻尾を切り落とし、隣にいた木野が問う。馨は切り終えたものをザルに乗せながら小さく頷いた。

「うん、最近はお弁当とかも結構気を遣って作ったりしてるよ。一応運動するんだし、身体づくりの基本はまず食事だと思って」
「へぇー、私も見習わないとなー」

 そういう木野の手つきはそれなりに料理慣れしている。以前のおにぎりのときもそうだったが、普段から家の手伝いなどをしているのだろうか。こうして包丁を握って材料を切る姿もとても様になっていた。

「秋ちゃんは、将来良いお嫁さんになりそうだよねぇ」
「え? もっもう、コーチったら……本当ですか?」
「うん、本当本当」

 そう首肯するや否や頬を赤らめて笑う彼女の脳裏には、果たして誰のために料理を作る自分が浮かんでいるのだろう。そこまでは深入りせず、次に馨は木野の横で作業に集中している影野の手元を見た。

「影野くんも上手だよね、ちゃんと猫の手できてるから全く危なげないし」
「あ、ありがとう、ございます……」

 語尾にかけて収縮していく影野の声は、気のせいでなければ嬉しさに弾んでいるようにも聴こえた。普段はあまり目立たないので注目される機会も少ないが、彼は普段から丁寧なディフェンスをしていたり、プレーの一つ一つに気を遣っていたりと、とても器用な性格をしていることが窺える。几帳面に切り揃えられたニンジンを見れば、馨の頬も自然と綻んだ。
 正直、試合前にこうして集団で刃物を扱うのは少々怖い部分もあった。万が一怪我をしてしまったらいけないし、特に試合に出られなくなるような惨事が起こったら最悪だ。そのデメリットも把握しているのか、響木は常に皆を見張り、危なっかしい子には直々に包丁の使い方を教え込んでいる。
 といっても、殆どのメンバーは特別注意する必要も無いくらい上手に作業を進めていた。大抵のことは調理実習で習っているのだろう、家庭科様々である。

「……よし、ニンジンはこれでおしまいだね。あとは他の材料が来たら火の通り難いものから順に炒めていくよ」
「はーい」

 鍋は既に準備してあるので、あとは他の材料待ちだ。
 とりあえずと、すぐ隣にいたタマネギ組の進行具合を確認してみる。

「タマネギどう? もう終わる?」
「うっ……コーチ、代わってほしいでやんす……ううっ」
「ゴーグルしてるのに目が……」
「そりゃそうだ、沁みる成分は鼻からも入ってくるんだからそっちもガードしなきゃ意味無いよ」

 揃いも揃ってゴーグルの中でぼろぼろと涙を零している光景はちょっぴり異様だ。目をガードするという選択肢は生まれたのにどうして鼻はそのままなのか、理由は恐らく今も一人で快調に仕事を進める鬼道なのだろうと馨は推測した。彼はゴーグル一つで何事も無いように平気な顔をしている。これは勘違いしても仕方ない話だろう。

「鬼道くんは特別なんだよ、多分」
「そんなぁ……」
「慣れだ、慣れ」

 いつか、大きめのレモンを食べてもけろりとしていた鬼道が思い出される。体質的な問題なのだろうに、慣れとは無茶なことを言うものだ。
 ひいひい言いつつも何とか用意できたタマネギに続き、その他の食材も集まってきた。ジャガイモなんて、早々に切り終えて水に浸けていたというのだから手際の良さに驚いた。が、順番的には最後になる。
 まずは鍋にタマネギを入れてある程度色が付くまで炒め、続いてお待ちかねの肉を投入すれば、ジャアッという聴くだけでも美味しそうな音が夜の校庭に響き渡った。

「よいしょっ!」

 大鍋にたくさんの肉とあって重さは結構なものになっているが、馨はめげずに鍋全体を振って炒め合わせる。別に混ぜる用の木ベラを準備してあるのでそれを使えば済む話なのだが、ちょっとした余興ということで頑張ってみたくなったのだ。
 上手い具合に鍋底で肉とタマネギとを跳ねさせ混ぜ合わせる馨に、周りで見ていた部員たちも「おぉっ」と歓声をあげた。

「すごいです、職人さんみたい!」
「もっとやって!」
「ふふん、このくらいなら余裕余裕」

 主に一年生に囃し立てられ、徐々に良い気分になってくる。両腕は疲れるし体温も上がってくるし早くも呼吸に乱れが生じ始めているが、皆が面白そうに注目しているとなれば頑張らざるを得ないだろう。
 ――人垣の向こう、離れたところでノートを片手に苦渋の面持ちで座っている円堂が見えれば、尚更。

「コーチ、これもお願いね!」
「!?」

 僅かに気を抜いていたところに突如、ドサッと凄まじい重さが加わってきた。不意打ちということもあってその重量に耐え切れず、思わずコンロに鍋を戻してしまう馨。中に参戦してきたのは色鮮やかなニンジン、一気に投下したのは超絶笑顔の松野だった。

「さっきみたいに、ほいほいってやってよ!」
「う、これは……」

 今この瞬間を最も楽しんでいるのではないかと思えるくらいの極上スマイルで言われてしまい、馨も後に退けなくなってしまう。腰に力を入れてもう一度鍋を持ち上げるも、肉とニンジンの重みを支えるのが精一杯だ。もう先程のように軽やかに中身を炒めるのは不可能だった――冗談抜きで、かなり、めちゃくちゃ、重い。

「くっ……重っ……いやこれは無理だわ……」
「えー、頑張ってくださいよー!」

 ついさっきまでなら喜びに変換できた応援も、この重石レベルの鍋の前には何の役にも立たない。遂に諦めた馨は鍋を下ろして木ベラを手に取るが、途端に周囲からブーイングが起こる。遠くで響木と菅田、夏未までもが愉快そうに笑っているのが見えた。

「平気平気、馨さんならいけるって!」
「ムリムリムリ、これめちゃくちゃ重いから! マジで!」

 一之瀬の爽快なアメリカンサムズアップも今は悪魔の所業としか思えない。横で鬼道と風丸が「無理しないでください」と言っていなかったら、一発空手チョップくらいお見舞いしていたかもしれない。
 そんな中でも野次はまだまだ飛んでくる。げらげら笑う染岡の隣、半田が手でメガホンをつくって訴えかけてきた。

「だっせーよコーチ、オレたちのためにも頑張ってよ!」
「こ、こんな苦行を強いるような部員を持った覚えはありません! コーチは悲しいです!」
「ぶっ! ははっ、いやーコーチならできるって信じてるのになー」
「よーし今から笑った奴は明日の部活中ずーっとトラック走り続けてもらうからなー」
「落ち着け、馨……」

 遂に大人げなくコーチ権限を発動させるまでに至った馨。
 さすがに苦笑いを禁じ得ない豪炎寺がやれやれともう一つのヘラで手伝いに出たことで、漸くこの無益な争いは幕を閉じた。


 残りのジャガイモ、水、ルーを入れ、あとは絶えず煮込むだけの段階に入ったことで、やっと心身共に落ち着ける時間がやってきた。交代で混ぜるという話になったので、ほぼ全員が鍋の傍で様子を窺っている。時間の経過と共にとろとろになっていくカレーを見ているのが楽しいのだろう。或いは、早く食べたいと腹の虫を鳴らしているのかもしれないが。

「全く……さっきは何で助けてくれなかったんですか」
「随分楽しげにしていたから、水を差しては悪いと思ってな」
「人が悪い」

 明日には筋肉痛になっていそうな両腕を擦りながら、馨はカレーに集う塊から外れた一角、未だノートと向き合って顰め面状態の円堂へ目を遣った。

「円堂くん、まだ悩んでるみたいですね」
「仕方ない、俺もそれを承知で合宿を組んだんだ」

 一言で言えば“気晴らし”がこの合宿の目的でもある。その目的の最重要人物である円堂は未だ心から合宿を楽しめていないようで、やがて一応は鍋の近くに向かって行くも、そこで仲間と話す顔は不自然に強ばっているように見受けられた。
《マジン・ザ・ハンド》――彼の祖父が血の滲むような努力の末に編み出し完成させた、伝説の技。
 世宇子中のシュートをも止められるかもしれない希望の技が、今は皮肉にも、円堂の心を何よりも苦しめるものとなってしまっている。馨も響木も、この問題については彼自身に委ねる他無かった。

「なんかこう、少しでも希望が持てるアイディアとか出せれば良いんですけども」

 憂いにも似た溜め息を吐くと、響木は「それもそうだが」と否定を重ねてきた。

「とにかく、オマエは他の奴らと合宿を楽しめ。円堂があんな調子なんだ、誰かがチームの空気を変えていかないと、さらに深刻な問題になっちまう」
「そうですね」

 円堂は大事だが、何も彼だけのための合宿ではない。今もカレーを囲んでわいわいやっている皆の笑顔を眺め、馨はふっと微笑した。そろそろ味見でもする頃合いだろう。

「じゃあ、ちょっと行ってきま――」
「コ、コーチ」
「ん?」

 一歩だけ踏み出した足をそのままに、声の掛けられた方を向く。そこにいたのは壁山と影野で、用のある本人らしい壁山は、もぞもぞした奇妙な雰囲気を纏ってこう言った。

「あの……トイレに、ついてきて、ほしいっス」
「トイレ?」

 どうして私が、と言おうとしたが、それより早くやや後ろに立っていた影野が「オレたちだけだと何かあったらいけないから」と付言したので、開きかけた口を閉ざす。確かに、夜の校舎を生徒二人だけで歩かせるのは危険だ。響木はいつの間にやら菅田と話を始めているし、ここは自分がついていくべきだろう。
 どうせトイレに付き添うだけなのだしと、特に誰かに告げることなく二人と一緒に校舎へ向かう。正面玄関のみ鍵を開けておいてもらっていたので、そこから中へと入っていった。

「う、うわ、真っ暗っス……」
「さすがに電気つけっぱなしってわけにもいかないからね。足元気を付けなよ」
「雰囲気……あるね……」
「そういうこと言わないでくださいっスよぉ!」

 相談したわけでもないのに、先頭には馨、その後ろに影野、最高尾にビビり屋な壁山という隊列ができあがっている。窓から差し込む月明かりは朧げだが、持ってきた懐中電灯の光だけでも歩く分には差し支えないので、何事も無い限り目的地に行くのは簡単だと思えた。
 馨自身もあまりこういう場は得意では無いが、壁山はさらにその上をいっていた。ちょっとした風の音や、酷いときには自分の足音にすらいちいち驚いており、その度に歩くのを止めて何も無いと確認しなければならない。今度もまた、水道の蛇口から落ちる水滴の音に身体を縮こませていた。

「ううう……怖いっス……」
「何も無いって、大丈夫だって。幽霊なんていないんだから」
「でも――」

 言い掛けて、途切れる。
 後ろを歩いていた二人の足が止まるのを感じて振り返ると、二人は同じ方向を向いたまま静止していた。

「どうし――」
「……いる」

 影野がぼそりと呟いた、その瞬間。

「出たっスウウウウウウ!!」

 凄まじい絶叫と共に壁山がその場から一目散に逃げ出してしまい、寸刻遅れで影野も慌てて彼の背中を追い駆けていってしまった。
 馨と言えば、壁山の叫びに心臓が止まるかと思う程に吃驚し、どくどくと高速で高鳴る鼓動を静めるのに精一杯だった。驚きのあまり声すらあげられなかった。なのに、二人を止めることなんてできるわけがない。

「か、壁山くん……!?」

 やっと喉から捻り出した声も廊下の途中で消え失せてしまう。もう足音すら聴こえない。完全に置いていかれてしまった。

「何がいたんだ……」

 影野の呟き、あれが二人の逃げ去った理由なのだろう。
 幽霊? まさか、そんなものいるはずない。大方、ロッカーの影を人影と見間違えたとかそういう程度の話だ。何もいない。いたらいたで逆に大問題なのだからいるわけない。
 見たものの正体はさておき、とっとと二人を追わなければならない。きっと外に戻っていると思われるので、自分もこのまま皆のもとに戻れば良い。馨は落ち着きを維持したまま踵を返す。さて、入り口はどこだったかな……。

 ――とんとん。

 肩。
 不意に、何かに、肩を。
 肩を、叩かれた。

「……」

 ゆっくりと、オイルの切れた機械のようなぎこちなさで振り返る。
 そこには、影があった。
 それはロッカーでも何でもない、正真正銘の――。


* * * * *


 一方、一目散に外へ逃げてきた壁山は騒ぎを聞いて集まってきた仲間に必死に『幽霊が出た!』と訴えていた。それだけならば壁山の恐怖心から出た妄言だという結論で片付けられたが、続いて戻ってきた影野までもが『大人の人影を見た』と言うのだから事態は急転した。
 さらに、次の半田の一声がより全員の顔に緊張を奔らせた。

「影山!」
「影山?」
「もしかしたら、影山の手下かもしれない。決勝戦前に事故を起こして相手チームが試合に出られないようにするのは影山の手だ!」

 影山――まさか、校舎に影山の手下がいて、自分たちに何か仕掛けてこようとしているというのか。
 半田の推測にすぎないのに、こういう場面だとどうしてもその考えで頭が固定されてしまう。第一、例え影山の手下でなかったとしても、こんな時間に学校の校舎内にいる大人なんて不審者以外の何者でもない。
 ならばこっちから探しに行こうかという空気になり始めたとき、周囲を見回していた夏未がふと首を傾けた。

「そういえば、江波さんは?」

 え、と誰かが漏らす。

「コーチならオレたちと一緒にトイレに……」

 壁山を始め、揃ってあちこちを確認した部員たちは、その場にいるべき人がいないことに気付いた瞬間、さっと顔色を変えた。

「……って、いないっス!」
「まさか、逃げる途中でそいつに捕まったんじゃ……!」
「そんな!」

 一同の脳裏を過ぎる馨の姿。年上と言えどもまだ二十歳、しかも女の人。もしも本当に不審者に捕まってしまい何かしらの危害を加えられていたら……不審者が影山の手下、それどころか影山本人だったら……。

「鬼道!」

 真っ先に駆け出したのは鬼道だった。
 それを追うかたちで豪炎寺や一之瀬たちも続き、出遅れた円堂もまた、残った者たちを率いて校舎を目指し走り出した。


* * * * *


 ――ほぼ同時刻、雷門中校舎内、階段の踊り場にて。

「ほぉー、じゃあアンタが噂の桧月の娘さんだっていうのか」
「はい、どうやら噂の娘だそうです」

 その“噂”は十中八九響木から広まっているのだろう。自分のいないところで何を言われているのか定かでないが、こうして話す彼らの様子を見るに悪いことは吹きこまれていないらしいので良しとする。
 はっきり頷いて肯定する馨を懐中電灯で照らしながら、目の前にいる者たち――備流田、髪村、会田は懐かしそうな笑みをみせた。
 ――壁山に置いていかれた馨の肩を叩いたのは、元祖イナズマイレブンの一員である備流田光一だったのだ。
 完全に凍りついてしまって動けない馨が漸くそれを把握できたのは、焦った彼が自らの自己紹介をし始めてからのことだった。最初こそは恐怖と動揺と混乱で上手く処理しきれなかった馨も、備流田に続いて髪村と会田、さらに現在ここにはいないがバーのマスターでもある民山が現れてくれたおかげで、何とか普段通りの冷静さを取り戻せた。冷静になってから、改めて驚かされたことに対して馨が怒ったのは言うまでもない。
 場所を変えつつ話を聞くに、彼らはどうも菅田からこの合宿の話を聞き、手伝いにやって来てくれたそうだ。手伝いの内容については後程までのお楽しみとされたので、ひとまずその追及はやめておいた。
 それから馨の方も名を名乗ったことにより、彼らからすればこの小娘が自分たちのよく知るマネージャーの娘だという事実が判明し、現在に至る。というわけである。

「確かに顔立ちとか雰囲気が似てるなぁ、いやー会えて嬉しいよ」

 人の良い笑顔でそう言う会田に、馨は照れを隠すようにして髪をくるくると弄る。
 やはりこの三人も、馨の母――篠宮桧月のことは未だによく覚えているらしい。「君のお母さんにはとても世話になったよ」と言うのは髪村だ。背が馨よりも低いため、彼が話すときは必然的にこちらを見上げる姿勢となっている。

「お母さんは元気かい?」
「はい、元気に仕事していると思います。あまり連絡は取れないんですが、たまに電話や手紙をくれるので」
「そうかいそうかい、なら良い。何でもジャーナリストになったなんて聞いて驚いたもんだよ。てっきり、将来は保育士とか教師とかそっち方面にいくと思ってたんでねぇ」

 しみじみと過去を思い起こしながらの口調で語る髪村。やけにはっきりと職業名が断定されたことに、馨は小さく首を傾げた。

「そんな感じのことを言っていたんですか? 母が」
「あぁ、『子どもが好きだからそっち方面に進みたい』と言っていたよ。とはいってもずっと昔の話だし、高校のうちにでも考えが変わったのかもしれないね」
「嬢ちゃんの父親もジャーナリストなんだっけか? お互い感化されてその道に進んだのかもな」

 互いに納得し合うように頷いている三人。彼らの言うことには、母は元々ジャーナリストとは程遠い夢を抱いていたらしい。確かに中学時代の夢を大人になるまで抱き続けられる人間など数少ないのだろうが、それにしたって方向性が変わりすぎな気がする。相変わらず、己の母親とはいえ不思議が多い人物だと思えた。
 そんな調子でのんびりと、ここが夜の校舎内だということすら忘れるまでに和やかな談笑を続けていた面々。
 しかしそのとき、上の階から何やらばたばたという足音やら複数人の少年の声やらが聴こえてきた。

「あっ」

 そこでやっと現状を思い出した馨は、もしや、という予感に目を丸くした。
 壁山と影野が既に校庭に戻り、そこで幽霊、(もとい)大人の影のことを皆に話し、ついでにその場にいるはずのコーチがいないことに気付いたら、果たして彼らならどうするだろう――討伐と捜索のために突入する、その一択だ。

「備流田さん、多分皆が――」

 ――ドカッ! 「ぐえっ!」

 馨の言葉を遮るように、何か硬めのものがどこかにぶつかる音と、続いて誰かの悲鳴が降ってきた。同時に、微かにだが「ナイッシュー!」「マイ枕ァ!」という聴き覚えのある声もした。
 それにより、大体そこで何が起きたのか想像できてしまった馨は、音の原因を探りに向かう備流田たちに続いて同じく階段を駆け上がった。

「何だァ、今の音は!」

 備流田の声によってこちらに気付いたらしく、数多の視線が階段下に注がれる。
 案の定校舎へ乗り込んできていた雷門イレブンは、いきなり見知った人物が複数人現れたことにすっかり驚いているようだった。

「備流田さん、髪村さん、それに会田さん――と、コーチ!」
「枕はシュートに使うものじゃないって……」

 前にいる三人の間から顔を覗かせると、そこには枕で頭部にシュートを決められたであろう民山が座り込んでいる。思わず嘆息すると、恐らく撃った張本人である円堂は、何とも罰の悪そうな顔をしてそろりと目を逸らした。




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