終曲、世宇子戦


『いよいよフットボールフロンティア全国大会決勝! 雷門中対世宇子中の試合が始まります!』

 ピッチ中央に両チーム選手が並び、溢れんばかりの拍手と歓声の中、いよいよキックオフとなった。
 ボールは早速バックパスにてアフロディに渡るが、何故か彼は一向に動く気配を見せない。舐められているのだろうか。ともかくチャンスは逃さないとばかりに豪炎寺と染岡がボールを奪いに行くと、(おもむろ)に、アフロディは指をパチンと一鳴らしした。その一瞬後、彼とボールは豪炎寺たちの背後にあり、それに気付くと同時に二人は強風によって吹き飛ばされてしまった。

『なんとアフロディ、目にも留まらぬ高速移動! 豪炎寺と染岡が弾き飛ばされたー!』
「ダメだ、やっぱり全然見えない……」

 あまりの速度に驚くどころか、最早唖然としている選手たち。馨もまた、こんなに近くで見ているのに全く捉えきれないそのスピードに目を瞠り、歯噛みをする。どうにか打開したいと思って一切目を離さずにいるというのに、結局何も見極められない。対策も無く、防ぐ手立ても無く、あの技がある限り彼からボールを奪うことは不可能に近かった。
 余裕を見せつけているのか、ゆっくりと歩きながらドリブルを進めるアフロディ。続いて鬼道と一之瀬が抜かれ、すっかり怯えたDF陣も同じく、木の葉の如く宙に舞い上げられた。気付けばゴール前、円堂と一騎打ちの状態にまで持ち込まれている。
 するとアフロディの背中に、眩い純白の羽根が広がった。

「あれだ……!」

 さながら神から授かったかのような圧倒的力の結晶――《ゴッドノウズ》。
 空に飛び上がった彼が蹴りつけたボールは、これまで見てきたどの技とも比べ物にならない破壊力のシュートとなって、円堂の《ゴッドハンド》をいとも簡単に打ち破ってしまった。残酷な笛の音が、開始数分での世宇子の先制ゴールを告げる。

『恐るべきシュート、《ゴッドノウズ》が雷門ゴールに炸裂……! 世宇子中先制ー!』

 これまで何度も見てきているはずの実況の声にも戦慄が込められている。やはり何度見ても、このシュートには人智を超えた異常な力が宿っているのだ。
 フィールド上のイレブンは暫し絶句して固まっていたが、すぐに我に返り、転がったまま悔しげにしている円堂のもとへ駆け寄って行った。片やベンチでも反応はほぼ変わらず、以前雷門のグラウンドで見た以上のパワーを発揮したアフロディに、マネージャーも、控え選手も、そしてあの響木でさえも、戦々恐々として顔を青ざめさせていた。

「あのシュート……」
「コーチ……」
「いや、シュートだけじゃない。世宇子選手の使う全ての技に、帝国は手も足も出なかった……」

 だけど、と口にはせずに内心で続ける。蘇る記憶に震える足を、両膝に置いた拳でしっかりと押さえつけ、再開された試合に再び全神経を集中させた。

『先制された雷門のキックオフで試合再開だ!』

 ボールを持った雷門は、とにかく点を取り返そうとして果敢に世宇子陣内へ攻め込んで行く――のだが、どういうわけか相手は一切ディフェンスをせず、豪炎寺と染岡を仁王立ちで見送っていくばかりだった。

『おぉーっと、どういうことだ?! 世宇子イレブン、全くディフェンスをしない!』
「えっ、何で動かないの……?」
「『やれるものならやってみろ』って感じだね、あれは」

 苦々しくそう言う馨を見上げ、木野は驚きの中にも僅かな憤りを募らせると、「そんな……」と呟いて視線をフィールドへ戻した。
 先程のアフロディの徒歩もそうだったが、完全に舐められているとしか思えない。つくづくサッカーを虚仮(こけ)にする世宇子の選手たちに、馨はその背後にいる男の影を垣間見、苛立ちに任せて小さな舌打ちをした。
 向こうがその気ならばこちらは容赦無く攻めるのみだと、渾身の《ドラゴントルネード》を撃ち込む豪炎寺と染岡。だが、相手GKのポセイドンによる《ツナミウォール》に阻まれ、ゴールとまではならなかった。
 余裕綽々で舐めきったプレーをする世宇子、しかしそんな余裕を裏付けるだけの力が彼らには備わっている――それだけでも充分精神的ダメージとなるのに、なんとポセイドンは次に、受け止めたボールを目前の豪炎寺へ投げて寄越したのだ。

『おぉーっとポセイドン、雷門にボールを渡してシュートを撃ってこいと挑発!』

 ちょいちょいと人差し指で挑発行為をするポセイドン。馨もいよいよ額に青筋が浮かび上がるところだが、手の甲を抓ることによって何とか怒りを抑えつけた。
 それならその挑発に乗ってやろうと、雷門は連続でシュートを仕掛けにいった。鬼道、一之瀬、豪炎寺による《皇帝ペンギン2号》、そして現時点で雷門最強のシュート技である《ザ・フェニックス》――どちらも相当強力な技であるはずなのに、《ツナミウォール》と《ギガントウォール》の前では無残に散りゆくしかなく、この猛攻ですら得点へ繋げることはできなかった。

「そんな……どうすりゃ点が取れるんだよ……」

 恐れ慄くように呟く半田だが、それに答えられる者はベンチにはいない。響木は焦燥を隠しきれない面持ちで今もどこかで見ているであろう影山を睨み上げているし、馨は手の甲を抓りっぱなしであることも忘れ、あのGKの驚異的なセーブ力に言葉を失っていた。
 世宇子は現時点での総得点数も大会一であるが、同時にここまで無失点という記録を叩き出している。だが、まさかこれ程までに通用しないとは思わなかった。シュートは最高のコンディションによって繰り出されたというのに、ポセイドンはそれを塵か何かのように軽々と吹き飛ばしてしまう。人間が蟻を踏み潰すのと同じ、どうということはない顔をして。嘗てあそこまで強靭なGKがいただろうか。
 動揺の走るベンチ内。響木は一つでも希望を見出そうとして、隣にいる馨を見遣る。

「江波……あのキーパーは……」
「……解らないです」

 しかし、今の馨にも見えてくるものは何も無い。そう答えなければならない歯痒さがそのまま彼に伝わったのか、響木は「そうか」と言うだけでそれ以上を要求せず、前に向き直った。
 試合に大きな変化は表れない。雷門が守りに回っても相手の必殺技はどうすることもできず、あっという間にゴールへの道をあけてしまう。円堂の気合いはまだ切れてはいないが、気合いだけではデメテルの《リフレクトバスター》を止めきるには至らず、追加点を許してしまった。

『ゴール! 世宇子追加点、これもものすごいシュートだ!』

 こちらは点を取れないのに、向こうはこんなにもあっさりと二点目を決めてしまう。状況は完全に絶望的と言えるだろうが、まだ諦めるわけにはいかない。今はどうにかして体勢を立て直し、何か一つでも相手の隙、或いは弱点を見つけ出していかなければならない場面だ。ますます対策を練らなくては、と馨も懸命に頭を回転させようとした。
 そんなとき、シュート前にデメテルの《ダッシュストーム》を喰らっていた少林寺が足を痛めてしまい、半田と交代することになった。音無に支えられ、青紫色に腫れ上がった足を引き摺って戻ってきた少林寺。手当てを受けている彼の無念を引き継ぐように、準備を終えた半田はきりっと表情を引き締める。

「コーチ、行ってくる」
「頼むよ、半田くん」

 軽いハイタッチを交わし、勇猛果敢にフィールドへと駆けていく半田。この圧倒的な力の差を真に感じても尚、皆は戦う意志を失ってはいない。それが感じられるだけでも馨は安堵でき、今までよりも幾らか落ち着いて試合を観られると思えるようになった。

「……ん?」

 半田を送り出してすぐ、ふと視界の端で世宇子のベンチに立っていた男が動くのを捉える。そのままグラウンドから出て行ったその男は、確か試合開始前にあの奇妙な水を運んできた人物だ。とんでもない試合展開のせいで忘れかけていたことを思い出し、馨は瞬時に思い立つ――彼の後をつけて様子を探ってみよう、と。

「秋ちゃん、ちょっと席外すね」
「え? コーチ、どこへ……」
「気になることがあるの。すぐ戻るから」

 試合を観られなくなるのは嫌だが、もしかするとそれ以上に大事な何かが見つかるかもしれない――木野にのみこそりと告げ、馨も男を追ってスタジアム内の通路へ入って行った。


 試合再開のホイッスルが鳴って以降、大きな動きが無いのかグラウンドはとても静かな様子だ。一体何が起きているのかと気が気でないが、それでも眼前への集中は切らさず、どこへ向かうのか解らぬ男のあとを一定の距離を置きながらこっそりと尾行していく。しんと静まり返った廊下には己の靴音すら反響しそうなので、抜き足差し足を心掛け、気配を殺すことに全神経を注ぎ込んだ。
 そうして暫く歩くと、馨の目前に一つの扉が現れた。制服を着た二人の警備員に見張られており、関係者以外立ち入り禁止という雰囲気が漂っていて如何にも怪しい。予測でしかないが、恐らくあれは世宇子サッカー部の控え室だろう。
 そして尾行していた男は関係者らしい。特にお咎めも無くその中に入っていったかと思えば、またすぐに、今度は別の男と二人で出てきた。一人は台車を押しており、そこに乗っているのは世宇子イレブンの飲んでいたものと思しき液体の入った大きな容器。持ち出したということは、近々もう一度それの補給を行うのかもしれない。
 傍の柱の影に隠れてじっと傍観していた馨は、やはりあの水に秘密があるのだと勘付くが、次いで聞こえてきた二人の会話には思わず耳を疑った。

「『神のアクア』ねぇ……これを飲むとどんな感じなんだろうな」
「さぁ。話に依れば、飲んだ瞬間身体中に力が(みなぎ)ってくるそうだが」
「へぇ、俺も飲んでみたいぜ」
「やめとけって」

 その一連の会話が裏付ける液体の真実。さらに、影山は実質この大会を支配している人物であるということを踏まえれば、もう答えは決まっているようなものだった。
 ――ドーピングか……。
 あの破壊的かつ常軌を逸した力の正体は、何も難しいことはない、薬による身体能力の増強だったのだ。彼らが『神のアクア』と称したものが先程運ばれていった水であり、世宇子イレブンが試合前に飲み干していたアレなのだとするならば、ここまで抱いてきた疑問の全てに合点がいった。
 今まで様々な非道行為を繰り返してきた影山だが、まさかここまでやるとは馨とて想像もつかなかった。選手を駒のように扱う男だとは知っていても、人体実験とばかりに根本的な部分に手を加えるだなんて、とことん地に落ちたと言えるだろう。

「……くそっ」

 最早怒りなのかどうかも解らない感情にわなわなと心身が震える。雷門が必死で挑んでいる敵、全身全霊でぶつかっている相手。それを作り上げているものがただの虚構であるという事実が、どうにも悔しくて仕方なかった。
 ともかく、これは早急に対処せねばならない事態だ。依然グラウンドの方からは歓声一つ聴こえはしないが、試合自体はまだ終わっていない。終わっていないと信じている。だから、この試合の間に『神のアクア』について調査し、今度こそ影山を豚箱へぶち込めるだけの材料を揃える必要があった。
 馨は即座に懐から携帯を取り出し、ある人物を呼び出しながら強歩で場所を移す。ここへ来る途中にあった女子トイレまで戻り、周囲を気にしながらも素早くそこへ身を隠すと同時にコールは繋がった。

「もしもし、鬼瓦さんですか? 江波です」
『どうした江波、オマエさん試合は――』
「そんなことより、今どこにいますか? 会場にはいるんですよね?」

 呼び出し相手である鬼瓦は、喰い気味でそう捲し立てる馨に一旦言葉を区切り、すぐにいつもの刑事然とした口調で返してきた。

『あぁ、既に会場内だ。ここの警備員の衣装を借りて潜入捜査を行う予定でいる。影山が世宇子に何かをしたのは明白なんだ、あとはその証拠さえ掴めれば確実に逮捕できるからな』

 何と頼もしい刑事なのだろう、と馨は内心で密かに賛辞を送りつつ、冷静にその話を切り出した。

「でしたら私、さっきそれっぽい話を聞きましたよ――『神のアクア』です」
『神の……? それは、一体何だ?』
「恐らく、身体増強剤かと」
『な……っ!』

 怒りを噛み潰しながら告げると、電話の向こうで鬼瓦が絶句した。彼もまた馨と同じく、影山がそこまでやるとは思わなかったのかもしれない。数秒程無言になったかと思えば、全身から何もかもを吐き出してしまうかのような深い溜め息を吐いた。

『……信じられん……が、そうすると全てに納得がいくな。試合前に世宇子の選手が何か飲んだとは聞いていたが、なるほど、ドーピングだったというわけか』

 彼もどこかに身を隠しつつ通話をしているのか、その声はいつもより小さくぼそぼそとしている。馨は辺りに人の気配がしないか常に気を張りつつ、通話音量を少しだけ上げた。

『それを聞いたのはどこだ? というか、オマエさん今どこにいる?』
「聞いたのは、世宇子の控え室らしき部屋の前です。『神のアクア』らしい水もその部屋の中から運ばれてくるのを見ました。場所は、グラウンドの西側出口から真っ直ぐ来て、幾つか角を曲がったところなんですが……すみません、ここの内部構造複雑すぎてはっきり覚えてないんです」

 例え馨が方向音痴気味であるということを抜きにしても、この世宇子スタジアム内部は非常に入り組んでいるうえ同じような通路ばかりであり、現在地を完璧に把握することは難しい。せめてGPSでも付けていたら良かったのだが、と思いつつ謝る馨に、鬼瓦は『大丈夫だ』と力強く言い切った。

『電話ができているということは、今はトイレかどこかに隠れているんだな? その場所さえ判れば行き着ける』
「はい、えっと……その控え室からグラウンドへ戻る途中にある女子トイレです。あまり距離は離れていません。雷門の控え室があった東側には女子トイレが一つしか無かったので、恐らくこっちも同じだと思います」
『解った。すぐに向かうから、オマエさんはそこでじっとしていろ』

 場所さえ特定してもらえれば、この件はもう彼に任せてしまって大丈夫だろう。『神のアクア』がどういったものなのか、彼ならばきちんと調査をし、あの男に引導を渡すだけの決定的なものを見つけてくれるはずだ。
 そう思った馨は、動くなというその指示に対し、見えないと解っていながらもゆっくり首を左右に振った。

「……ごめんなさい鬼瓦さん、少し独断で動かせてください」
『は? おい、何をするつもりだ、江波』
「大丈夫です、調査の邪魔はしません。『神のアクア』の件、どうかよろしくお願いします」
『江波――』

 鬼瓦は何かを言いかけていたが、最後まで聴く前に馨はぷつりと通話を切った。どうせ話したところで止められるのが関の山なのだ。彼には申し訳ないが、馨ももう我慢の限界がすぐそこまで近付いてきていた。
 ――影山を探し出す。
 馨の次なる目的は、そのたった一つであった。
 間違いなくあの男はまだこのスタジアムのどこかにいて、天から有象無象を見下す神のように試合を観戦している。それは憎き雷門を叩き潰す瞬間をその目にするためというのもあるのだろうが、推測するに、『神のアクア』という名のドーピング剤による実験結果を見る意味も込めているはずだ。
 今ならば解る、謎に包まれていた『プロジェクトZ』の真相――世宇子中サッカー部を用いて身体改造実験を行い、それによって中学サッカー界を支配することで憎きサッカーへの復讐を果たす、そんな計画であるに違いない。
 つまり、世宇子イレブンは、あれだけ影山に心酔しきっていたアフロディは、ただあの男の私利私欲のために利用されているだけなのだ。いや、利用されるだけならばまだいい。ドーピングなんて危険な真似をしてまで紛い物の力を手に入れ、それが全てだと思い込んでしまい、今や彼らの心身全てが影山によって侵され、破壊されてしまっている。
 さらに、なまじ誰も敵わぬ強大な力を得てしまったばかりに、それを正せるだけの存在がいない。帝国にとっての雷門のような、鬼道にとっての円堂のような、そういった存在の手が全く届かないところまで、彼らは到達してしまっているのだ。

 ――総帥に間違いなど無い。私は、総帥のことを心から信頼している。

 そう、一切の躊躇いも無く言い切っていたアフロディ――照美の声音が蘇り、馨は先程感じたものとはまた違う悔しさに、ぎりっと歯を噛み締める。
 悔しい。何もかもが悔しい。あの男によってめちゃくちゃにされてしまう者たちのことを思うと、悔しくて悔しくて仕方がない。
 故に馨は、影山を探そうと考えたのだ。何をするのか、何を言うのか、そんなもの全く考えてはいないし、直接会えるとも限らない。それでも良いから動きたかった。そうしないともう、この気持ちは如何様にも抑え込められないところまで来てしまっていた。
 仮に見つけ出したとして、相手からの危害については不思議と心配ではない。確証など無いけれど、あの男は自分に対して直接的な危害を与えようとはしないだろうと、そう思えている――これもある種の信頼であると言うのならば、このうえない皮肉でしかないのだが。
 独り嘲笑した馨は携帯をしまい、引き続き周囲を警戒しつつ、そっと女子トイレから抜け出した。

 影山のことだ、そう易々と見つかるような場所に根城を構えているはずもない。まずあらゆる出入り口や両校の控え室近くは除外されるだろうし、人の通る普通の通路にも面してはいないと思われる。
 一瞬、あの世宇子の控え室内にいるという可能性も考えたが、彼の驕り高ぶった性格を踏まえればその可能性もすぐに除外された。神の如く万物を統べたつもりでいる彼は、必ずや誰も立ち入らない真っ暗な暗闇――あの帝国学園総帥室のような場所にいると、直感でそう思えた。
 悪寒と紛う程に冷えた通路を、馨は碌に宛てがあるわけでもなく突き進む。耳を澄ますがグラウンドはまだ静かなままだ。
 心配である。不安である。本当ならば馨だって、ベンチで皆のことをしっかり応援していなくてはならない。選手たちが今も懸命に戦っている中、こんな独断行動なんてしていてはコーチ失格だ。そんなこと解りきっている。だから、ごめん――胸中でメンバー全員に謝罪をしながら、馨は気を張り詰めて捜索を続けた。

「おい、そこで何をしている」
「ッ!」

 突然後方から掛かった声に、自分でも判る程に身体が跳ね上がる。
 ばくばく五月蝿くなる心臓と共に振り返れば、つい先程まではあの扉の前にいたはずの警備員が立っていた。

「まだ試合の途中だろう、こんな場所でうろうろと……」
「す、すみません、お手洗いを探していたら迷っちゃったみたいで……」

 咄嗟に転がり出た言い訳は何とも稚拙なものだったが、何とか誤魔化そうと表情まで飾って迷子を演出しようとする。眉をハの字にし、心底困っていますとばかりに辺りをきょろきょろする演技も付け加えた。
 トイレ自体はグラウンドからここに来るまでに一つ、馨自身が身を隠していたところが存在するのだが、当然そのことを警備員が知らぬわけもなく。「本当か?」と言う男から、怪訝な雰囲気は一向に取れそうにもない。
 いっそ、ここで一発決めて逃げた方が良いのではないかと思案し始めた、そのときだった。

「きゃーッ!」

 どこからともなく甲高い悲鳴が聞こえ、馨は瞬時に身を強張らせた。
 聴き覚えのある声が、しかも三つ――。

「おいっ!」

 警備員の呼び止める声も気にせず、反射的に駆け出した馨。声のした方へと勘を頼りに走っていく。まさか、と頭を掠めた嫌な予感が正しいことを証明したのは、次の角を曲がったところで見つけた三人のマネージャーと、それを追いかける警備員の姿。
 そして、今まさに捕まりそうになる音無を目にした瞬間、身体中の血液が一気に沸騰した。

「その子たちに手ェ出すなッ!」
「ぐえっ!」

 無我夢中で横から男を殴り飛ばす。上手い具合に振り抜いた腕がラリアットのようなかたちで喉に決まり、男はカエルの潰れたような声をあげてその場に卒倒した。
 突如現れた馨の存在に、マネージャーたちは思わずと足を止めて振り向く。そんな三人を気にする前に、馨はもう一人、自分のことを追いかけてきていた男の足を引っ掛けて勢い良く転ばせた。

「コーチ!」
「早く逃げて! 行きなさい!」
「でも……っ!」

 卒倒した男が顔を歪めて立ち上がり、馨の腕を掴む。少しでも足止めできればと、こちらからも相手の手首を掴んで無理に捻れば、二人して再び地面に倒れ込んだ。
 格闘経験は無いし防衛術も備えていない馨は、ただとにかく思いつく限りで暴れることしかできない。それでも良い、少しでも時間稼ぎになればそれで良いのだ。転ばせた男が足首を押さえにきたので思い切り振り上げると、どうやらどこかを蹴飛ばしたらしい。男は呻き声をあげたが怯みはせず、己を蹴った足を押さえにかかってきた。
 揉みくちゃになっているうちにも、次第に身動きが取れなくなっていく。馨は辛うじて自由である顔を上げ、今にも泣き出しそうな顔をする三人へ怒鳴り声で訴えた。

「行って! 私は大丈夫、絶対大丈夫だから! 早く!」
「江波さん……ッ!」
「夏未さん、行きましょう!」
「コーチ、鬼瓦さんがいますから!」

 苦渋の決断として、木野が夏未の手を引きながら馨に背を向けて駆け出し、すぐに三つの背中は廊下の奥へと消えていった。
 最後に音無が残した言葉から察するに、彼女たちもあの刑事と会えたのだろう。そもそもどうして試合を抜け出してここにいるのかという点については、恐らく馨と同じだ。世宇子のまやかしに見当をつけ、『神のアクア』について情報を得たのかもしれない。そうであればこの後選手たちにもその事実は伝えられると思うが、果たしてどうなるか――彼らのことだ、必ずやそんな不正を真っ向から否定し、戦い続けてくれるだろう。
 未だ三人の少女の方を追おうとする一人を、馨は全力で掴んで引き止める。すると、とうとう男たちは片方の獲物を諦めたようだ。うつ伏せになった馨の両腕を背中で押さえつけ、硬い紐のような何かで手首をきつく締めあげた。
 三人分の足音が聴こえなくなれば、もう足止めの必要も無い。もしかすると、わざわざ探し出すよりもこちらの方が楽だったかもしれないな――大人しく捕まることに決めた馨は、頭上で交わされる会話を耳にしながら、そっと瞼を下ろした。

「いてて……ったく、手こずらせやがって」
「コイツも神のアクアについて何か知っているかもしれないが、どうする」
「とりあえず、総帥のもとへ連れて行くぞ」


* * * * *


 その一方、何とか逃げ遂せたマネージャーたちはベンチに戻り、ちょうどハーフタイムに入って休憩していたメンバーの前で今し方仕入れたばかりの情報を全て語って聞かせた。
『神のアクア』――尊厳な名で呼ばれているが、蓋を開けてみればただの身体能力増強剤。どこまでもサッカーを汚す影山に、円堂を始めとする雷門メンバーは怒りを露わにして世宇子イレブン、そしてどこにいるのか知れない影山を睨みつけた。
 ドーピングについて訴えたところできっと事態は変わらないし、それでは影山を負かしたことにはならない。ならばどうするべきなのかと考える中、とある人物の意見を求めて首を擡げた風丸が、ふと目を丸くした。

「なぁ、コーチはどうした?」

 一瞬、冷たい風が吹き抜けたような気がした。
 皆倣って周囲を探すも、確かに馨の姿が無い。合宿中の出来事が思い出されるが、今は試合中であるし、それにあのときとは何もかも状況が違う。
 同様に席を外していたマネージャーたちに全員の視線が集まる。最初に口を開いたのは音無だった。

「あの、コーチはちょっと、その……」

 もごもごと言葉を探す唇は、メンバーのことを思って真実を語ることを避ける。
 がしかし、結局嘘を吐くことが耐えられなかった音無は、悲痛な声音で通路での出来事を正直に話した。

「お、追われていた私たちを、助けてくれて、それで……」

 世宇子側の人間に捕まってしまい、その後はどうなったか解らない――試合の裏側で密やかに起こっていた事件を知り、ベンチ内に大きな衝撃が奔る。どうしよう、と俯く音無や夏未に不安を煽られ、皆すっかり落ち着きを無くしてしまった。
 合宿のときとはわけが違う。今回馨が本当に捕まってしまったのは、正真正銘の影山の手下なのだ。誰かが地を殴る音がした。

「監督、どうすれば……もしコーチが影山のところに連れて行かれてたら……」
「ど、どうなっちゃうでやんすか!?」
「奴が江波に直接危害を加えることは無いだろう」

 目金と栗松の問いに、響木は冷静なままそう返す。どうしてそう解るのかと言いたげな眼差しが幾つも飛んできたが、彼は変わらぬ面持ちのまま「大丈夫だ」と言った。有無を言わせぬ強い語調に、以降誰も口を挟むことはできなかった。

「それに、ここで心配したところで何も変わりはしない。アイツが今どんな思いでいるのか、そんなことも解らないようなオマエたちじゃないだろう」

 芯の通ったその言葉によって、波立っていた空気に少しずつ落ち着きが戻ってくる。不安に駆られていた鬼道も静けさに浸りながら、試合前に聞いた馨の言葉を思い出していた。

 ――私が無茶するとしたら君たちのためなんだし、そんな私の気持ちも少しは汲んでもらいたいね。

 言った傍から無茶をする。どうしてそう、すぐに自身を犠牲にしようとするのだろう。
 でも、それこそが江波馨という人なのだ。そんな彼女が今何を一番に望み、願い、思っているのか、解っているのは何も鬼道だけではなかった。

「……オレたちに」

 円堂が口を開くのと同時に、座っていた者たちが徐々に立ち上がっていく。

「オレたちにできることはただ一つ……勝つことだけだ!」

 ――必ず、彼女はどこかで自分たちを見てくれている。応援してくれている。そして何より、信じてくれている。
 その思いに応えるためには、とにかく世宇子に勝利する姿を見せる、ただそれだけなのだとだ。
 決意を新たに胸に宿し、イレブンは再びフィールドへと踏み込む。
 後半戦の始まりだった。


* * * * *


「っだ!」

 手首を拘束されたまま床に放り投げられ、受身を取ることもできず強かに身体を打ちつける。何とか顔面強打は免れたものの顎が犠牲となり、あまりの痛みにぐわんと脳が揺れ、自然と涙が滲んできた。
 馨が連れて来られたのは、スタジアム内のどこかにある薄暗い一室だった。室内の様子を把握する前に転がされてしまったので、ここの全体像がどういうかたちになっているのかははっきりと解らない。
 ただ、限定された視界に入ってきた複数のモニターとそれを見ている後姿、そして先程警備員たちが口にしたとある人物の通称だけで、大凡必要であろう情報は会得できていた。

「総帥、『神のアクア』について嗅ぎ回っていた人間を捕まえて参りました」
「ふん……相変わらず懲りないバカ者だな、江波」
「それはこっちの台詞だけど」

「下がれ」の一言で警備員たちを退室させ、影山は振り向きもせず、少し身体の位置を変えた。そうしたことによって、馨の場所からでもよりモニターが見やすくなったが、それが決して善意からの行動でないことは馨自身明確に感じ取っていた。
 画面には、世宇子イレブンの《ダッシュストーム》や《メガクェイク》に弾き飛ばされる雷門イレブンの姿が映し出されている。その度に立ち上がろうと皆が全身を震わせているのは解るのだが、もう体力も限界なのだろう。腕をつくことすらままならず、ぐったりと地面に身体を横たえていた。
 点差以上に、あまりにも力の差がありすぎる。余裕の表情で雷門を見下す世宇子の選手たちに、馨はきつく奥歯を噛み締めた。

「『神のアクア』……アンタが与えたまやかしを、彼らは、世宇子の子たちは本当の力だと勘違いしている。総帥は自分たちに力をくれたんだって、本気でそう思い込んでる……!」
「力の真偽は貴様が決めるものではない。今奴らが備えている力は本物だ。サッカーなどという下らない遊戯に鉄槌を下す、神の力なのだ」
「サッカーが憎いの?」

 こちらからでは、影山の面構えも何も捉えられない。ただ、憎々しげに、そしてどこか嘲るように語るその様子に、馨は彼の過去を思い返した。
 幼い影山の家庭を崩壊させたのは、確かにサッカーかもしれない。素晴らしきプレーヤーだった父の、そんな父の背中を見てきた影山の人生を転落させたのも、やはりサッカーかもしれない。彼の辿った不幸な道筋そのものには、多少なりとも同情の余地がある。
 けれどそれでも、こんなこと許せるわけがなかった。

「憎いなら、どうして未だに関わろうとするの? どうしてアンタに関係の無い、未来のある子たちを利用してまでサッカーとの繋がりを持とうとするの? そんなことして何になるの? アンタにとって何が得られるの?」

 もしも世宇子イレブンが、アフロディが、影山と出会わずにサッカーを続けることができたなら――影山は、そこに待っていたであろう平穏な未来と共に、彼ら自身の内面まで大きく捻じ曲げてしまった。
 それは、影山東吾の人生を変えた円堂大介の存在と、果たして何が違うというのか。

「サッカーを憎みたいなら独りでいくらでも憎めばいい! だから周りの人間を巻き込むのはもうやめろ! これ以上、アンタの勝手な都合で不幸な子を増やさないでよ!」
「不幸? 彼らがか?」

 激昂する馨にも動じず、ふっと鼻で嗤い、見てみろと言わんばかりにモニターを顎で示す影山。
 誰一人として立ち上がれぬフィールドの端、ゴール前にいるアフロディは嘲笑いを湛えて円堂にボールをぶつけ続けている。すっかり己の力に酔い痴れ、神の座に居る者として円堂から敗北の台詞を引きずり出そうとしているのが、画面越しにもありありと伝わってきた。

「誰にも負けぬ絶対的な蛮力を得て、どうして己を不幸と思い込む? 勝利は約束されたものだ。世宇子はもうすぐ勝者となり、サッカー界の頂点に立つ者となるのだ。奴らにとって、それはこのうえない幸福であろうが」
「サッカーは、力が全てじゃない……もっと大事なものが、素晴らしいものがあるっていうことを教えてくれないなんて、そんな指導者を持った選手は不幸でしかない……!」

 苦々しく漏らせば、床に擦りつけている状態の顎により痛みが響いた。
 アフロディが蹴りつけたボールは円堂の中心にめり込み、ゴールとまではならずも、円堂自体はその場に崩れ落ちてしまう。そんな惨たらしい光景に何とか足を奮い立たせようとする者はいるが、やはり誰も彼もが動けないでいる。観客も実況も今や何も発せず、絶望的な状況に会場はしんと静まり返っていた。
 きっと、観ている者たちはとうに諦めてしまっている。雷門は世宇子に敵わない、世宇子の力の前では雷門とて膝をついて屈するしかないのだと、そう思っている。
 ――でも、こんなときでも、絶対に……。

「……雷門は勝つ」

 念じるように吐き出したその言葉に、影山は肩を揺らして嘲笑した。

「何とでも言え。そしてそこで無様に転がったまま見ていると良い。愛する者たちが圧倒的な現実の前で成す術も無く、塵の如く散っていくその様を、貴様自身の無力さを実感しながらな」
「そんなことない、作り上げられた紛い物の力では、円堂くんたちには絶対に勝てやしない!」

 画面の中では、まるで今の馨の言葉に呼応したかのように、円堂がふらつきながらも再び起き上がる。しっかりと腰を据え、ゴールを守ろうと両手を広げている。
 そんな彼の姿勢に憤ったらしく、アフロディは美貌を歪めて空へ飛び上がり、あのシュートを撃つ構えを取った。だが、それを真っ直ぐ見構える円堂には、未だどこにも諦めなど感じさせない。彼はここへきても尚、逃げることなく立ち向かっている。
 よく見ると、彼が嵌めているグローブはいつもとは違う、試合前に見せてもらったあの円堂大介のグローブであるということに気付いた。
 円堂大介が、円堂の祖父が、彼を支えてくれている――そう思い至った瞬間、馨は一つ鼓動が波打つ音を聴いた気がした。

「まだ解らないのか、江波」

 初めて影山が馨を見遣り、地蔵のようだったその足を向ける。そうして、依然硬い床に転がったままの馨の傍らで腰を落とし、擦りつけたせいで赤くなっている顎を掴むようにして持ち上げた。ぴりっとした痛みに思わず馨は眉を寄せるが、視線は絶対に外さず、昏いサングラスの奥を睨みつけた。

「何度言っても、貴様は何も学ばない」
「違う、私はもう昔の私じゃない」
「いや、昔のままだ。言ったはずだろう、世の中には熱さや想いなどと言った下らない感情理論では、到底抗えぬものがあるのだと」

 それが一体何を指すのか、何を示すのか、馨には今となっても解らない。彼がどうしてそんなことを言うのか、六年前からずっと、理解ができないままでいる。そして理解なんてできなくてもいい、する必要など無いと思っていた。
 ただ、どうしても疑問であるのだ――何故そこまで頑なに、彼曰くの“感情理論”を否定するのかと。
 一体何が影山をここまでの人間に仕立てあげているのか不明な分、いっそうその不気味さは増していく。見つめ合っても何も通じない。顎を掴んでいる指先はぞっとする程冷たい。影山零治という男の闇を、今まさにまざまざと見せつけられている、そんな気にすらなった。
 だとしても、馨はもう俯くことをしない。この男から目を逸らさない。逃げ出さない。真っ向からぶつかっていくのだ。アフロディに立ち向かう円堂のように、真正面から、しっかりと。
 それができるだけの強さを、今の馨はきちんとこの胸に持っている。

「そんなことない、円堂くんたちはこれまでアンタの策略を全て乗り越えてきた。それは全部、あの子たちの中にあるサッカーへの愛と情熱がそうさせてきた。アンタが否定するもので、皆はここまで強くなってきた。それに気付いてないなんて言わせない」
「では何故、今の雷門は地に臥している? “情熱”や“愛”で何もかも解決するのなら、こんな結果にはならないはずだろう? ――だから貴様は昔のままだと言っている」

 ぐっと顎を持つ手に力が加わり、馨は強制的にさらに上を向かせられる。痛んだ首に目を細めるも影山は全く意に介さず、鋭い眼光で馨の両目を貫いた

「貴様は甘い。優しいのではなく、ただ甘いだけなのだ。その甘さがどんな結末を招いたか、よもや忘れたわけではなかろう」
「……!」
「なのにも拘らず、未だそんな戯言を吐いていられるとは正気の沙汰とは思えんな。いい加減思い知れ。愛? 情熱? 信頼? ……そんなものが何の役に立つというのだ。後には何も残らん。感情理論など、神の力の前では塵と等しいものだ」
「――それでも!」

 苦しい姿勢で、あらん限りの声を振り絞ってそう言い募る。
 サングラスの向こうに潜む暗闇を、それを上回るだけの強い眼差しで真っ直ぐに射止め。

「私は、彼らを信じてる」

 その瞬間、影山の顔から笑みが消えた。
 ――直後。

『と……止めたーッ!』

 それまで水を打ったような静寂に包まれていたグラウンドに、突如爆発せんばかりの歓声が巻き起こる。弾かれるようにして視線だけでモニターを見れば、何と円堂が、しっかりとその手にボールを受け止めているところだった。

「ま、さか……」

 先程アフロディが撃ったのは《ゴッドノウズ》。それを止めているということは、つまり、彼はここにきて見事完成させたのだ――伝説の《マジン・ザ・ハンド》を。
 馨と同時に影山も何が起こったのかを把握したようで、画面を注視しながら驚愕の声を漏らした。そちらに気を取られたことにより馨の顎を支える手からも一瞬力が抜けるが、馨はそれに気付くことすらできずにそのままの姿勢でいる。
 遂に成せた大業。驚きと興奮で碌に反応できない馨の目線の先で、そこからはまさに怒涛といえる展開が繰り広げられた。
《マジン・ザ・ハンド》の完成、そして何より円堂の熱意と根性に感化されたことにより、続々と気力を取り戻して立ち上がる雷門イレブン。真っ先にボールを受け取った鬼道は《メガクェイク》を間一髪で凌いで豪炎寺にパスを出し、土壇場で編み出した《ファイアトルネード》と《ツインブースト》の連携シュートにより、とうとうポセイドンの《ツナミウォール》を突き破ってみせた。初めて雷門の得点表示が動き、会場はますます興奮に湧き立つ。

「……奴らの力は、神のアクアをも超えると言うのか……ッ」

 食い入るようにモニターを見つめている影山。馨は、その驚愕に歪んだ横顔に何も言葉を掛けることはせず、試合の行方を目で追い続けた。
 シュートを止められたことに戸惑いを隠せていないアフロディが、それでももう一度《ゴッドノウズ》を撃ち込む。しかしまたもや《マジン・ザ・ハンド》に阻まれ、失意の彼は遂にがっくりと四肢を地につけ、深く項垂れた。己の、それこそ神であるとまで豪語したあの力ですら、円堂には敵わない。そう悟ってしまった彼にはもう、戦うだけの精神力は残されていない様子だった。
 そんなアフロディには目もくれず、攻守を素早く切り替えた雷門は一気に攻撃を仕掛け、早々と同点まで追いつくことに成功した。

「こんな……バカな……」
「あなたのサッカーでは、どう足掻いても雷門には勝てない」

 客観的な平静を保ってそう言えば、影山ははっとしたように未だ手の中にある馨の顔を、様々な感情の篭った目で睨みつけた。それを容易く受け流し、けれど瞳は逸らさぬまま、さらに淡々と続ける。

「あなたは知らないわけではない、忘れているわけでもない。見ない振りを、知らない振りを、忘れた振りをしているだけ。それと向き合わない限り、あなたは決して、雷門を負かすことなんてできはしない――そんなこと、あなたが気付いてないわけがない」

 ――嘗て、幼い自分が見失っていたもの。
 それがサッカーに於いてどれ程大事なものなのか、偉大な父を持っていた影山が知らないはずが、感じなかったはずがないのだ。
 なのに己に顧みる機会を与えず、自ら更なる常闇へ堕ちていこうとする。せめて今一度信じようと思う心さえあれば何か変わるかもしれないのに、彼は何ゆえにか、その“心”すら頑なに否定しようとする。
 昔からそうだった。彼は何も変わっていない。彼はいつだって、いつまでだって、そうして孤独の闇に身を投じている。
 ――どうしてか純粋に、寂しいと思った。

「……江波……!」

 その名に込められたものが、怒りなのか、憎しみなのか、それとも他の何かなのか、最早判別はつかない。
 そんな影山の向こうでは《ザ・フェニックス》と《ファイアトルネード》の連携が決まったことで、終には雷門が逆転し――天高く鳴らされたホイッスルの音が、長き激闘に終止符を打った。
 音割れする勢いの拍手の雨。まだ実感が無いのか呆然としている雷門メンバーの頭上には、爆発音と共に大量の紙吹雪が舞い踊った。そこで漸く笑顔が見え始め、馨もつられるように顔全体を綻ばせた。

「やった……よくやったよ、皆……」
「終わったな、影山」

 そこへ、背後から聴き慣れた声と勇ましい足音がやって来る。
 身を捩ることで影山の手から抜け出してその人の顔を見るなり、馨の胸いっぱいにあたたかな安心感が溢れ出てきた。

「鬼瓦さん!」
「遅くなってすまないな、江波。大丈夫か?」
「はい」

 手首の紐を解いてもらうついでに立ち上がる手伝いもしてもらう。無理な体勢でいたため、全身がびきびきと嫌な感覚と共に軋んだ。
 鬼瓦は立ち上がった馨が無事であることを確認し、稀に見る優しい笑顔を向けたが、次に影山と対峙したときには既に刑事のそれを湛えていた。

「『神のアクア』を調べさせてもらったが……人間の身体を変える成分が見つかった。今度は逃げられないぞ」

 チャリ、と聞こえた金属音の正体は手錠。明瞭な物的証拠があり、今回こそ影山に逮捕状が出たようだ。
 馨の見ている前で、影山はいつものあの不敵な笑みのまま大人しく手錠を嵌められる。以前も似た光景を見た気がするが、今度ばかりはきっと大丈夫だろう。
 最後にこちらを一瞥し、別の警官によって連行されていく彼の背を見届けてから、馨はいろいろなものが混ざり合う盛大な溜め息を吐いた。

「ハァ……やっと終わった」
「まったく、オマエさんと来たら無茶なことを。……だが、おかげでこっちもしっかり調査ができた。ありがとうな」

 小さく頭を下げる鬼瓦を前に伸びをしつつ、「こちらこそ」と礼を返す。

「お役に立てて光栄です。鬼瓦さんがいてくれるって解ってましたし、余裕で待っていられましたよ」
「ふっ……胆の据わった奴だな、本当に」
「それだけ信用してるってことですから」

 茶目っ気を含んだ笑みを向けると、鬼瓦は一瞬面食らい、すぐに「こいつめ」と馨の額を軽く小突いた。
 この後、鬼瓦たちはこの部屋を含めたスタジアム内全域を徹底的に調べあげる予定らしい。だとすると、一時的にとはいえ人質となっていた馨も何かしら取り調べがあるはずだろう――そう思って大人しく構えていると、鬼瓦は少し呆れを含んだ笑みを浮かべ、「そんなことより」。

「行ってやるべきじゃないのか、アイツらのところへ」
「……あっ」

 アイツら――そうだ、行かなくては。
 こんなところで突っ立っている場合ではなかった。

「あ、えっと、それじゃあ鬼瓦さん、ありがとうございました!」
「あぁ、俺の分まで目一杯讃えてやれよ」

 勢い良く頭を下げてから部屋を飛び出し、廊下を全力で駆け抜けていく。道はあやふやだったが迷うことはない、本能だけがこの身体を彼らのもとへひたすら突き動かしていた。
 とにかく早く、早く、皆に会いたい。たった数十分離れていただけなのに、何故かこんなにも恋しい。伝えたいことが、言いたいことが、本当にたくさんある。優勝おめでとう、素晴らしい試合だった、よく頑張ったね、傍にいられなくてごめんね。どれから先に言おうかと、駆ける足とはまた別に、脳はくるくると興奮のままに回転していた。
 やがて光が見えてくる。観客の温かい声が聞こえてくる。心臓が高鳴っている。そして視界いっぱいに眩い夏の日差しが広がり――。

「……馨姉ちゃん!」

 ――ベンチに集まる彼らを一目見た瞬間、言おうとしていた言葉は全て、どこか遠くに散らばってしまった。

「あ、皆……」

 いっぱいになって、その後あらゆるものが真っ白になって、何も言えなくなる。
 けれど、心はすとんと、あるべき場所に収まったようでもあって。

「コーチ、無事で良かった……!」
「オレたちやりましたっス!」
「世宇子に勝った、優勝したんだぜオレたち!」
「コーチ!」

 出入り口前で足を止めていた馨の元へ、わっと勢い良く駆け寄ってくる部員たち。何人かが抱きついてきたのをよろめきながらもしっかり受け止め、両手でそっと皆の肩を抱く。見回せば、誰も彼もが傷付いた身体をものともせずに、嬉しさに任せて大きく破顔していた。
 その中でも特に、最前列にいた円堂の笑顔は太陽よりも眩しいくらいである。

「姉ちゃん、オレやったよ、《マジン・ザ・ハンド》完成させられたよ! 姉ちゃんが言ってたように、じいちゃんが力を貸してくれたんだ! そこから皆で力を合わせて、世宇子に勝ったんだ! オレたちが優勝したんだ!」
「見てた……見てたよ、ちゃんと」

 円堂が力強く突き出す拳、アフロディのシュートを確かに受け止めたその右手。彼に力を貸した祖父のグローブが嵌められているそこを柔く撫で、馨はゆるりと頷く。すると、風丸が笑顔のまま首を傾げた。

「見てたんですか? 見られたんですか? 試合が」
「うん、うん、見られたよ、本当にすごかった、本当に……」

 段々と語尾が弱くなっていくのが自分でも判る。喉から唇から力が抜けていって、だのに心も身体もあらゆるところが燃えるような熱によって満たされている。
 視線の先に円堂がいて、豪炎寺がいて、鬼道がいて――皆がいて。
 皆の眼差しを受け止めると、ぼんやりしていた頭に、さっきまで考えていた言葉のどれとも違うとある一つの単語がぽつり、浮かび上がった。

「本当に――ありがとう」

 優勝の嬉しさも称賛の気持ちもある。
 けれどもそれ以上に馨が彼らへ伝えたいのは、純真な感謝の思いだった。

「私……君たちと出会えて良かったって、心からそう思う。本当に本当に、君たちと一緒にいられて幸せだよ」

 自分という存在を再び認識させてくれたのも、信じる勇気をくれたのも、影山と真っ向から対立するための強い自我をくれたのも、今ここにいる皆だった。
 だから伝えたい――こんなにも温かな気持ちをくれた皆へ、目一杯の真心を。

「傍にいさせてくれてありがとう。それと……」

 一旦肺から空気を抜いて、すうっと大きく息を吸い込んで。

「優勝、おめでとう!」

 今できる最上の笑みで声を張り上げれば、一瞬の沈黙の後、さながら爆発したかの如く歓喜が溢れ返る。
 あとはひたすら、揉みくちゃだった。


* * * * *


 優勝の興奮冷め止まぬ中で表彰式とトロフィー授与を終え、晴れて念願のフットボールフロンティア優勝トロフィーが雷門イレブンの手に渡ることとなった。

「オレにも触らせてくださいよー」
「ボクもボクも!」

 取材や写真といった初めての経験を経て、現在メンバー全員はフロンティアスタジアム前に集まっている。それまではキャプテンの円堂が常に持っていたトロフィーだが、銀に煌めくそれに皆も興味が無いはずなどなく。ここぞとばかりに触ろうとする様は大変微笑ましいけれど、時々うっかり取り落としそうになってはぎゃあぎゃあ騒いでいるので、誰かの手に渡される度に冷や冷やさせられっ放しであった。

「コーチもどうぞ!」
「おー」

 宍戸から回ってきたトロフィーを丁寧に抱える馨。意外と重たいうえに指紋がつきやすく、あまり長いことべたべた触っているのは何となく気が引ける代物だった。何せ、雷門が数多の死闘を勝ち抜いてきた証なのだ、大切に扱わなければ。

「どうしよう怖い、持ってるのが怖い、指紋ついちゃいそうで怖い」
「あはは、落としたら大変だよー」
「ややややめてよ半田くん! 余計緊張するじゃん!」

 ついでに今度は半田へ渡せば危うく落としそうになり、また騒ぐ。ぎゃあぎゃあ騒いで、げらげら笑って、激闘を終えた後とは思えない程の元気さだ。
 本当に、彼らと一緒にいると常に何かが起きて全く退屈せずに済む。そういう意味でも、馨は雷門サッカー部のことを心底気に入っていた。

「豪炎寺」

 トロフィー一つでわいわい談笑している傍ら、円堂がふと豪炎寺の方を振り向いた。

「早く病院に行ってやれよ、夕香ちゃんに報告しなきゃ」

 そう言って小粋なウインクをする円堂に、豪炎寺も柔らかく微笑んで頷いた。
「ありがとな、豪炎寺」――そんな言葉と共に、二人は固い握手を交わす。その様子を、他の者たちはあたたかな眼差しで見守っていた。
 思えば、この二人の出会いが雷門サッカー部の運命を変えたと言っても過言ではない。円堂が豪炎寺と出会わなければ豪炎寺は二度とサッカーを始めようとは思わなかったろうし、そうであったなら、帝国との練習試合で雷門は敗北し、そのままサッカー部自体を潰されていただろう。ある意味、円堂と豪炎寺は雷門サッカー部にとっての“始まりの二人”なのだ。
 そう思うと、馨は鼻先にこみ上げる熱を感じずにはいられなかった。泣くまでには至らないが、それでも密かに唇を噛む。豪炎寺からの「ありがとう、円堂」という優しい言葉を聞くと、その熱はますます大きく膨れ上がるようだった。
 我慢している馨の周りでは、同じく二人のやり取りを見ていたメンバーがそれぞれ思い思いに感動していた。鼻を啜っている者もいるし、本格的に泣いている者もいる。音無はえぐえぐと泣き始め、兄によってその頭を宥めるように撫でてもらっていた。
 そんな音無が泣き止んだ頃、ほっと一息吐いている鬼道の傍へ身を寄せた馨。彼だって、円堂と豪炎寺の握手に感じ入るものがあったのだろう。ゴーグルの奥にある瞳は、普段よりもいっそう和らいでいるように見えた。

「鬼道くん、お疲れさまでした。ここまで長いようであっと言う間だったなぁ」
「江波さんもお疲れさまでした。何だかんだで、すっかり雷門に馴染んでしまいましたからね」

 口振りは予想外だとでも言いたげだったが、馨からすれば今の鬼道は何の疑問も抱かず雷門の一員だと言える。雷門が彼に合っていたのではなく、彼が雷門に合っていたのではないか。そんな考えが出てくるくらい、ここにいる鬼道はとても自然であった。
「ただ……」――そう呟き、微かに表情へ陰りを見せる鬼道。そこから先に言葉は続かなかったが、言いたいことは解る。
 いつかは訪れると決まっていた瞬間が、もうすぐそこまで迫っているのだ。

「……うん」

 特に意味は無く、一度考えを纏めるために相槌を打つ。
 そして、鬼道が見上げてくるのと同じくして鞄に手を突っ込み、自転車のキーを取り出した。

「とりあえず、報告は先に私がして来るね。鬼道くんはどうせバスなんだし、今は皆と一緒に優勝の喜びを分かち合っておこうよ」
「……ありがとうございます」

 どこへ、とは言わなくても通じている。キーを揺らしながらそう提案すれば、鬼道は少し間を置いた後に、どこか救われたようにふわりと微笑した。
 話が纏まったところで、響木に用事があるから先に帰るという趣旨を告げ、皆より早くお(いとま)させてもらうことにする。この後打ち上げをやるという話が出ているらしいので、その辺はまた後々連絡を貰うという約束をした。とはいえ、どうせ雷雷軒を貸し切って響木のラーメンで乾杯をするのは解りきっている。早くも楽しみだ。

「じゃあ、また後でねー」

 駐輪場から連れてきた自転車に跨って、見送り体勢の面々に片手を挙げる。

「気を付けてくださいね!」
「嬉しいからって気抜いて事故るなよー」

 染岡に対し縁起でも無いと言おうとしたが、それより先に音無と夏未の説教が始まったので、馨は結局からからと笑うだけでおしまいにした。今日のところは大目に見てやろう。
 ぶんぶんと手を振ってくれている部員たちを見て、その後ちらりとスタジアムへ視線を移す。世宇子スタジアムもだが、その下にあるフロンティアスタジアムの方にこそ、馨は思うものが多々ある。この場所で、数ヶ月前の自分では想像もできないような出来事がたくさん起こり、その分たくさんの思い出が生まれた。それを生み出してくれたのは他でもない、今目の前にいる雷門サッカー部のメンバーであって――いや、今はまだ感傷に浸る時でもないだろう、浸るならば勝利の余韻の方が良い。馨はふるりと頭を振り、早くも懐かしさを孕み始めていた思惟をそっと散らした。
 どうせ数時間後にはまた会うことになるのだ、別れの挨拶もいらない――そう思った馨は手を軽く振り返すだけに留め、サドルから腰を上げてペダルを踏み込んだ。名残惜しさは全く無い、寧ろ清々しいばかりである。まるで春風のような心地好さを足に乗せて、一足先に思い出多きそのスタジアムとお別れをした。


 世宇子を下し、栄光を掴み、雷門の運命は大きく変わりつつある。
 雷門が、そして自分自身が、この先一体どんな道を歩んでいくことになるのかなんて、今の自分では皆目見当もつかない。
 それでも大丈夫、何があっても大丈夫。
 きっと彼らがいれば、どんなことでも乗り越えていけるだろう――生温い風を受けながら、自転車は真っ直ぐ東を目指した。




Calm scar carved for me

END





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